南北朝の動乱が勃発してから10年余り過ぎると、南朝方の勢力はすっかり衰え、戦乱は終結に向かうように見えました。ところがそれが再び活発になり、さらに50年近く戦乱が続くのは、争いの中心が、
南朝と北朝=幕府の政権争いから、守護や在地武士たちの勢力拡大のための争いに移ったからだと研究者は指摘します。

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)を契機として、守護・在地武士は、ある時は南朝方、ある時は尊氏方、また直義・直冬方と、それぞれ、自分の勢力の維持や拡大に都合のいい方へついて、互いに戦いを続けます。

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)を契機として、守護・在地武士は、ある時は南朝方、ある時は尊氏方、また直義・直冬方と、それぞれ、自分の勢力の維持や拡大に都合のいい方へついて、互いに戦いを続けます。

薩摩守護の島津貞久が尊氏方についたのも、大隅・日向の支配をめぐって対立していた日向守護畠山直顕が、直義方であったことが大きな要因のようです。これを好機と見て動いたのが讃岐守護細川顕氏です。


細川顕氏
顕氏は直義方だったので、島津氏が尊氏側に立ったのを見て、櫛無保の島津の代官を討取るか追放するかして、櫛無保を支配下に入れたようです。こうして、島津氏の櫛無保の地頭職は細川氏に奪われます。
島津家系図 貞久は5代目
康安二(1362)年6月、薩摩守護の島津貞久は再び幕府に提訴状を提出しています。その内容の前半2/3は、半済の撤回を繰り返して求めたものです。後半の1/3は、讃岐国櫛無保が中国大将細川頼之に押領されていることを次のように訴えています。
進上 御奉行所嶋(島)津上総入道 (貞久)々璽謹言上(中 略)讃岐国櫛無保地頭職は、曾祖父左衛門少尉藤原忠義、去る貞応三年九月七日、勲功の賞と為て拝領せじめ、知行相違無きの処、(頼之)近年中国大将細河典厩押領の条堪え難き次第也、道璽御方に於て数十ケ度の軍功抜群の間、恩賞に預るべきの由言上せしむる上は、争でか本領に於て違乱有るべきや、就中九州合戦最中、軍忠を抽んずる時分也、然らば則ち、彼両条厳密の御沙汰を経られ、御教書に預り、弥忠節を致さんが為め、言上件の如し、康安二年六月 日
意訳変換しておくと
讃岐国櫛無保の地頭職は、曽祖父の忠義が勲功の賞として拝領した由緒のある所領である。ところが近年中国大将の細川典厩(頼之)が押領しており許しがたい。私(貞久)は幕府の味方として数十度の合戦に抜群の働きをしてきた。恩賞に預かるべきが当然なのに、どうして本領の櫛無保が押領されてよいであろうか。
将軍義詮はこの訴えを受けて、次のような書状を讃岐守護の細川頼之に送って、押領を止めるよう命じています。
嶋(島)津上総入道々雪申す讃岐国櫛無保地頭職の事、道璽鎮西に於て近日殊に軍忠を抽ずるの処、譜代旧領違乱出来の由、歎き申す所也、不便の事に候歓、相違無きの様計り沙汰せしむべき哉、謹言十一月二日 (花押)細河稀駐頭殿
意訳変換しておくと
嶋(島)津上総入道が訴える讃岐国櫛無保地頭職の件について、島津氏は、鎮西において近頃抜群の軍忠を示したものであるが、譜代の旧領が違乱されていることについて、対処を求めてきた。不便な事でもあるが、相違ないように計り沙汰せよ。十一月二日 将軍義詮 (花押)細河稀駐頭(細川頼之)殿
島津氏は、櫛無保以外にも、下総・河内・信濃などの遠国に所領を持っていたことは前回に見たとおりです。南北朝時代も後半になると、守護や地頭が遠国に持っている所領は、その国の守護や在地の武士たちによって押領されるようになります。島津氏も同様だったと思うのですが、特に讃岐の櫛無保の押領だけを取り上げて幕府に訴え、所領として確保しようとしています。この背景には、櫛無保が島津氏にとって薩摩と畿内を結ぶ中継基地として重要な所領であったことを示している研究者は指摘します。
押領停止の将軍の命が出された頃の讃岐は、どのような状勢だったのでしょうか?

細川氏系図
讃岐守護細川顕氏は、頼春の戦死に遅れること四か月余りで病死し、子息の繁氏(しげうじ)があとを継ぎますが、彼も延文四年(1359)六月に急死してしまいます。
『太平記』によると、繁氏は九州で征西軍と戦っていた少弐頼尚を救援するため九州大将に任じられて自分の分国讃岐で兵力を整えていましました。その際に崇徳院御領を秤量料所として取り上げたので、崇徳院の神罰を受けて、もだえ死んだと伝えられます。
それはともかく繁氏死去の後、しばらく讃岐守護の任命がなく、讃岐の守護支配は一時空白状態になったようです。
一方、京都では、延文三年(1358)4月20日、足利尊氏が没し、義詮が征夷大将軍になります。
義詮は細川清氏(きようじ)を執事に任命します。

清氏は頼春の兄和氏の子で、観応の擾乱以来たびたび戦功を挙げ、義詮の信頼を得ていたのです。しかしまもなく佐々木道誉らの有力守護と対立し、謀反の疑いをかけられて若狭に逃れ、その後南朝に帰順します。康安二年(1362)の初め、清氏は阿波に渡り、 そして守護不在となってきた讃岐に入ってきます。讃岐は前代からの顕氏派、頼春派の対立がまだ尾を引いていたようです。そこを狙って、清氏は進出してきたようです。

細川清氏 白峰合戦で敗れる
清氏は頼春の兄和氏の子で、観応の擾乱以来たびたび戦功を挙げ、義詮の信頼を得ていたのです。しかしまもなく佐々木道誉らの有力守護と対立し、謀反の疑いをかけられて若狭に逃れ、その後南朝に帰順します。康安二年(1362)の初め、清氏は阿波に渡り、 そして守護不在となってきた讃岐に入ってきます。讃岐は前代からの顕氏派、頼春派の対立がまだ尾を引いていたようです。そこを狙って、清氏は進出してきたようです。
『南海通記』によると、清氏はまず三木郡白山の麓に陣を置いて帰服する者を招きます。これに応じたのが山田郡の十河・神内・三谷らの諸氏です。清氏はこれらを傘下に入れて、阿野郡に進み、白峯の麓に高屋城を構えて、ここを拠点とします。
これに対して将軍義詮は、清氏の討伐を細川頼春の遺子頼之に命じます。


細川頼之
頼之は、そのころ中国大将に任ぜられていました。彼は、九州から中国に渡って山陰の山名氏などの援助を得て勢力をふるっていた足利直冬と備中で戦っていました。将軍義詮の命を受けて讃岐に渡り、宇多津に陣を置いて、清氏の軍と対峙します。先ほど見た、薩摩守護の島津貞久の櫛無保押領の訴えは、この時に出されたものになります。細川頼之は、阿野郡に拠点を構えた清氏に対抗するために、父頼春の死後ゆるみかけた中・西讃の支配を固め直す必要があると判断したのでしょう。そのための行動の一つが、南朝方に帰属していた島津氏櫛無保の押領し、兵糧米確保や味方する諸将に与えることだったと推測できます。これが島津貞久から訴えられることになったと研究者は考えています。
白峰合戦
康安二年(1362)7月23日、頼之は高屋城を攻撃して、清氏を敗死させます。これが中世讃岐の合戦は有名な白峯合戦です。那珂郡辺りの武士は、頼之に従ってこの合戦に参加したようです。この時に、清氏に味方した南朝方中院源少将が守っていた西長尾城(満濃町長尾城山)は、庄内半島の海崎城にいた長尾氏に与えられています。櫛無保も同じように戦功のあった者に与えられた可能性があります。 こうして白峰合戦に勝利した細川頼之を、足利義詮は讃岐守護に任命します。同時に、先に挙げたように書状を送り、守護として責任を持って櫛無保の押領を止めるように命じたのです。この書状を手にした細川頼之は、どのように反応したのでしょうか。
将軍足利義詮の命令通りに、「押領」を停止して櫛無保の守護職を島津氏に返却したのでしょうか。それとも無視したのでしょうか。それを示す史料は残っていないようです。
島津家五代の墓(出水市)
島津貞久は、貞治二(1363)七月二日、九十五歳で戦いに明け暮れた生涯を終えます。
その3ケ月前の4月10日に、薩摩国守護職を師久に、大隅国守護職を氏久に分与します。これによって島津氏は二流に分かれることになります。師久のあとを総州家といい、氏久のあとを奥州家と云います。
櫛無保は師久への譲状の中に、次のように載せられています。
その3ケ月前の4月10日に、薩摩国守護職を師久に、大隅国守護職を氏久に分与します。これによって島津氏は二流に分かれることになります。師久のあとを総州家といい、氏久のあとを奥州家と云います。
櫛無保は師久への譲状の中に、次のように載せられています。
譲与 師久分薩摩国守護職同国薩摩郡地頭職(中略)讃岐国櫛無保上下村同公文名并光成名同田所名(中略)右、代々御下文以下證文を相副之、譲り与える所也、譲り漏れの地においては、惣領師久知行すべきの状件の如し貞治弐年卯月十日 道竪
しかし、櫛無保の名はこれ以後の島津氏の所領処分目録には見えなくなります。南北朝末期には島津総州家は衰退に向かい、次第に薩摩国内の所領すら維持が困難になるような状態に落ち入っています。讃岐櫛無保の地頭職も島津家の手に還って来ることはなかったようです。
島津貞久の五輪塔
一方、讃岐国では、白峯合戦に勝利した讃岐守護細川頼之が、領国支配を着々と固めています。島津家領の櫛無保も、細川頼之の支配下に収まったと見るのが自然です。荘園領主法勝寺の櫛無保支配については、関白近衛道嗣の日記『愚管記』の永和元年(1375)4月11日の条に、法勝寺領櫛無保をめぐって法華堂公文実祐と禅衆とのあいだに相論があったことが記されているので、南北朝末期まで法勝寺の支配が続いていたことがうかがえます。しかし、地頭職をだれが持っていたのかなどについては、他に史料がなくよく分からないようです。

細川頼之の宇多津守護所
以上をまとめておくと
①櫛無郷は古代末に、白河天皇が建立した法勝寺の寺領となり、櫛無保が成立した
②鎌倉時代の承久の乱の功績として、薩摩守護の島津氏が櫛無保の地頭職を獲得した。
③以後、島津氏は歴代の棟梁が櫛梨保守護職を引き継いできた
④南北朝混乱期に、南朝方について讃岐守護となった細川顕氏は島津氏の櫛無保を奪った
⑤白峰合戦に勝利して、讃岐守護となった細川頼之も島津氏の櫛無保を押領した。
⑥これに対して、薩摩守護の島津氏は室町幕府に、押領停止を願いでて将軍の停止命令を出させた。
⑦しかし、その将軍の命令が実行された可能性は低い。
⑦しかし、その将軍の命令が実行された可能性は低い。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
参考文献 法勝寺領櫛無保と地頭島津氏 町史ことひらⅠ 119P
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