善通寺の僧侶たちにとっての課題は、自前の寺領を確保し、本寺である随心院から自立していくことでした。
それが実現するのは、南北朝末期の明徳4年(1392)のことでした。善通寺誕生院が、本寺随心院によって善通寺奉行、弘田郷所務職、同院主職に補任されたのです。その補任を守護細川頼元が安堵した文書には、次のように記されています。
讃岐國善通寺奉行并びに弘田郷所務職、同院主職以下の事、本所随心院の捕任等に任せ領状相違有る可からずの状件の如し。明徳四年二月廿一日 右京大夫在判(守護細川頼元)誕生院法印御房
文中にある「善通寺奉行」の具体的内容については分かりませんが、誕生院の有快譲状に「当寺一円奉行別当代事」とあります。ここからは、善通寺一円保と境内を含む別当代官のことのようです。この補任によって善通寺が得たものは次のようなものでした。
①本寺から派遣された別当の下にあった管理運営権が、代官としての地元誕生院の手に委任されたこと、②年貢徴収などの権利が委ねられたことで、実質的支配権を誕生院が行使できるようになったこと
これは誕生院にとってだけでなく、善通寺の歴史の上でも、画期的な出来事と研究者は評価します。
それから約20年後の応永17年(1410)には、誕生院は随心院の善通寺領請所に指定されます。
請所というのは荘園領主(随心院)に対して毎年一定の額の年貢の納入を請負うかわりに、荘園管理を全面的に委任される制度です。鎌倉幕府は、平家方についた没収官領に御家人を恩賞として地頭に補任して請所を行わせる地頭請所(地頭請)を進めます。請所の請料は、作柄の豊凶に関わらず毎年一定とされたので、請負者が納入の約束を果たす限りは、領主側も確実な収入確保が見込めるので都合が良い仕組でした。しかし、時が経つに随って、請負者の未進や不正が発生し、領主との間に訴訟などのトラブルが多発するようになります。
誕生院が随心院の善通寺領請所に指定された時の請文(うけぶみ=誓約書)を見ておきましょう。
請け申す。善通寺御年貢の事右、明年十卯自り、毎年三十五貰文分、早水損に依らず、堅く備進せしむ可し。此内五貫文に於ては、二月中其沙汰致す可し。残り三十貫文、十二月中所の如く運送仕り候。若し此の請文の旨に背き、或は損凶と云い、或は未進(と云い)、絆を左右に寄せ(いろいろ理由をつけて)不法の義を致さば、不日(やがて)所務職を召放たるるの日、此の未済分、欺き申すに依って閣かると雖も、不義に至りては、悉く員数(そのたか)に任せて御譴責に頂る可く、其時一言の子細中す可からず。乃って請文の状件の如し。応永十七(1410)年十二月十七日
椎律師宥快判
意訳変換しておくと
来年の応永18年から年貢として、毎年銭35貫文を、たとえ日照り、水損で収穫がないことがあっても確実に納入する。35貫目の内で5貫文は、2月中に運上し、残り30貫文は12月中に送付する。もしこの請文の内容に背いたり、自然災害を理由に年貢を納めないときには、所務職を解任された時に未納額に応じて責任を追及されても不服は云わない。
こうして随心院は、年貢35貫文の確保とひきかえに現地から手を引き、かわって誕生院が寺領支配権を手に入れました。
この請文に署名している権律師有快と何者なのでしょうか?
彼は宥範より二代後、つまり三代目の誕生院住持職の地位にあった人物のようです。応永21年(1414)4月21日付の有快の譲状に、次のように記されています。
この請文に署名している権律師有快と何者なのでしょうか?
彼は宥範より二代後、つまり三代目の誕生院住持職の地位にあった人物のようです。応永21年(1414)4月21日付の有快の譲状に、次のように記されています。
新宮小法師丸(五代宥栄僧正)に譲与する誕生院住持職
そして善通寺所領として、従来からの櫛無地頭職、萱原村領家職の次に次の2つが追加されています。
一所 当寺院主職事一所 弘田郷領家職事
これは請所となった寺領が誕生院住持の相伝所領なっていたことを示すと研究者は指摘します。また善通寺奉行についても、次のように記されています。
一 当寺一円奉行別当代の事、本所の計として契約する所也。
ここからは、善通寺の別当代官に誕生院が任ぜられていることが裏付けられます。相伝所領のなかには、櫛無地頭職のように有名無実のものもありましたが、宥範によって基礎がすえられた誕生院の在地領主としての地位は、この宥快の時に確立したと研究者は評価します。
ところが、誕生院の在地領主と地位は長くは続かなかったようです。
応永29年(1422)本寺随心院は、弘田郷領家職、寺家別当奉行などの所職を、それまでの誕生院から一方的に天霧城の香川美作入道に換えています。これを見ておきましょう。
讃岐國善通寺弘田郷領家職并びに一円保所務職、寺家別当奉行等の事 仰せ付けられるの上は、寺役以下先例に任せて遅滞なく其沙汰致す可し。殊に内外の秘計を廻らし、興隆を専らに可く、緩怠私曲有る可からず。将に亦、御年貢早水損を謂はず、毎年四十貫文憚怠無く沙汰致す可し。其中伍貫文に於ては二月中に運上せしむ可し。残り5貫文は、十二月中運上す可し。万一不法仰怠の儀出来せば不日召放さる可し。共時一言子細中す可からず候。働て請文の状件の如し。應永廿九年正月十六日 沙弥道貞判随心院政所殿
意訳変換しておくと
讃岐國善通寺弘田郷領家職・一円保所務職、寺家別当奉行等の事に任じられた上は、寺役以下先例のように遅滞なく役目を果たします。寺領運営については、内外の運営方法を参考にして、スムーズな運営ができるように務め、遅漏や私利私欲のないようにします。また旱魃や日照りになろうとも、約束した毎年40貫文は憚怠無く納めます。その内、5貫文については二月中に運上し、せしむ可し。残り35貫文は、12月中に納入します。万一これを破るようなことがあれば、契約解消されても文句は言いません。共時一言子細中す可からず候。働て請文の状件の如し。應永廿九年正月十六日 沙弥道貞判(香川入道)随心院政所殿
この請書と応永17(1410)年に、誕生院の宥快が随心院と結んだものを比べて見ると次のようなことが分かります。
①年貢の請負額が、誕生院が毎年35貫文であったのに対し、香川美作入道は40貫文②請所が弘田郷領家職だけでなく一円保所務職が加わっていること
一円保は、善通寺の寺領としては最重要の寺領です。一円保が加わって五貫文の増加では、あまりにも少なすぎる感じがします。わずか五貫文の請負額の差で、誕生院はながい苦労のすえにやっと獲得した寺領管理の地位を、在地武士(香川入道道貞)に奪われてしまったことになります。武士たちが請所になると、時を経るに従って約束された請負額も納めなくなり、横領されるのが時の流れでした。それが分かっていながら本所の随心院は、香川入道に切り替えたようです。地侍たちの「押領」が、どうにもならない所まできていたことがうかがえます。
この出来事から4か月後の応永29年5月14日の日付の善通寺に伝わる文書を見ておきましょう。
細川右京大夫(讃岐守護細川満元)讃岐國善通寺領弘田郷領家職并一円保所務、西山安養院井びに寺家別富奉行の事、今年二月十二日随心院補任の旨に任せて領掌相違有る可からずの状、件の如し。應永廿九年五月十四日 沙弥判(讃岐守護細川満元)随(誕?)生院御房
冒頭に記された細川右京大夫とは、讃岐守護細川満元です。差出人の沙弥も満元のことでで、受取ったものが心覚えに袖に名前を記しておいたと研究者は推測します。文書の内容を意訳変換しておくと
善通寺領弘田郷領家職と一円保以下の所職を、2月12日の随心院の補任に任せて、随生院御房に安堵する
さて、この文書をどう解したらよいのでしょうか。弘田郷領家職は、先ほど見たようにすでに正月16日に、香川美作入道が補任されたばかりです。また受取り側の随生院御房とは、一体誰のことなのでしょうか。「随生院御房」は、善通寺や弘田郷の管領を委ねられたのだから、在地の僧のようです。そうとすれば、これは「誕生院御房」の誤字では?と研究者は疑います。その仮定の上に研究者は物語を次のように展開します。
①突然に思いがけず相伝の所職を随心院に召し上げられ、香川美作入道に奪われた誕生院は、驚いて本寺随心院に再任を訴えでた。
②その際に、請負額を美作入道同じ額の40貫文にあげてよいと契約条件の見直しを提示する一方、在地武士の請所によって、所領が押領される危険性を随心院に強調した
③善通寺の指摘に随心院は、あわてて所領を香川入道から取り返し、善通寺に返そうとした。
④ しかし、香川美作入道はいったん手に入れた有利な権利を手放すはずがない。
⑤そこで誕生院は、美作入道の主君である細川満元に頼んで安堵状をだしてもらったが、その効力はなかった。
この後、美作入道は応仁の乱を間にはさんで以後約50年の間善通寺領に居すわり続けたようです。
5月14日の文書の請所のなかに「西山安養院」の事が付け加えられています。
これは道貞の補任状にも付記として「西山安養院事、同じく御奉行有る可し」とでていたものです。そしてまた応永21年の宥快の譲状をみると、その中に次のように記されています。
これは道貞の補任状にも付記として「西山安養院事、同じく御奉行有る可し」とでていたものです。そしてまた応永21年の宥快の譲状をみると、その中に次のように記されています。
一当寺安養院坊数名田畠等事
ここからはこの時期には、安養院は誕生院の管理下にあったことが分かります。安養院は、徳治の絵図の香色山の麓に描かれている小院です。誕生院は弘田郷その他の請負が香川氏の手に渡ったとき、この寺の管理権も失ったことになります。ここからは香川入道が善通寺の小院の支配権を握っていたことがうかがえます。以前に見たように、中世の善通寺の院の中には武装化する者や、武士たちの拠点となっているところがあり、境内では乗馬訓練も行われていたことを見ました。この史料からも、中世善通寺が武士たちの軍事拠点としても帰農していたことが裏付けられます。
こうして香川美作入道は、善通寺の別当奉行および弘田郷・一円保などの請所を握るようになります。
彼は最初のうちはともかく、応仁の乱のころになると、随心院に上納することを請負った年貢を、全然納めなくなったようです。これは美作人道に限ったことではなく、武士の請所になった荘園はどこも似たり寄ったりの状態でした。あまりの年貢末進にたまりかねた随心院は、幕府などにも助けを求めています。そして、文明5年(1472)のころには、弘田郷代官の地位を香川美作入道(その後継者)から取り上げています。東西両軍の総大将であった細川勝元、山名持豊が相次いで没し、応仁の乱もようやく終りの兆がみえてきた時期です。しかし数十年の長期間にわたって請負代官の地位を利用して寺領内に根をはってきた香川氏の勢力が簡単に排除できるはずがありません。
文明6年(1473)年2月の室町幕府奉行人の奉書に「同じく帯刀左衛門尉競望未だ休まず」と、随心院の訴えが載せられています。
香川美作を解任したものの、今度は同じ香川一族の帯刀左衛門尉が、その後任に任ぜられることを強く求めてやまないというのです。これは、「希望している」ということではなく、実際には帯刀左衛門尉が実力で現地を抑えていたと研究者は推測します。そして彼は故美作入道とつながりのある人物だったのでしょう。文明6年の文書の後、随心院領弘田郷について語っている史料はないようです。ないと云うことは、随心院の力が及ばなくなったということです。
香川美作入道の請所となった一円保は、どうなったのでしょうか。
彼の請所が成立した年から8年後の永享2年(1430)頃ろ、善通寺雑掌から「同所田所職并得一名」を寺家に返付してほしいという訴えが出されます。同年12月25日にその返付を実施して雑掌に沙汰するように善昌という人物が香河(川)下野入道に命じています。善昌は讃岐守護の家臣であり、守護の命令を奉じて香川下野に伝えたようです。田所職とは、荘官の一人である田所に属した所領です。これと得一名田とがどこにあったのかは分かりません。
「善通寺雑掌中同所……」という表現から一円保ではないかと研究者は推測します。一円保は善通寺を含んだ寺領だからです。一円保には、田所も置かれていました。しかし、これらの所領がどういう形で寺の手を離れていたか分かりません。香川美作入道が持っていた一円保所務職との関係も分かりません。香川下野入道が香川美作と同族であることは分かります。が、それ以上の具体的な両者のつながりは分かりません。この田所職と得一名が果して命令どおり善通寺雑掌の手に返ったかどうか、これも分かりません。
「善通寺雑掌中同所……」という表現から一円保ではないかと研究者は推測します。一円保は善通寺を含んだ寺領だからです。一円保には、田所も置かれていました。しかし、これらの所領がどういう形で寺の手を離れていたか分かりません。香川美作入道が持っていた一円保所務職との関係も分かりません。香川下野入道が香川美作と同族であることは分かります。が、それ以上の具体的な両者のつながりは分かりません。この田所職と得一名が果して命令どおり善通寺雑掌の手に返ったかどうか、これも分かりません。
応仁の乱の間、善通寺一円保は兵糧料所として守護に召し上げられていました。
それが応仁の乱から7年後の文明16年(1484)に随心院門跡の強い要求で、ようやく守護の奉行人と思われる高松四郎左衛門から随心院の雑掌宮野にあてて次のような寺領返却の書状がだされています。
それが応仁の乱から7年後の文明16年(1484)に随心院門跡の強い要求で、ようやく守護の奉行人と思われる高松四郎左衛門から随心院の雑掌宮野にあてて次のような寺領返却の書状がだされています。
随心院御門跡領讃岐國善通寺寺務領一円保領家職の事、一乱中兵粮料所と為て預下され候と雖も、御門跡と為て子細候之間御返渡し申し候。然らば当年貢自り御知行有る可きの状件の如し。文明十六年正月二十三日 高松四郎左衛門 文知判雑掌宮野殿
兵糧料所であった間、 一円保から上る年貢は、兵糧米として武士に給与されていたようです。おそらく守護は有力家臣に預けて保の支配をさせたはずです。その有力家臣として考えられるのは、西讃守護の香川氏です。寺領の返却が書状の命令通りに実行されたかどうかも分かりません。それは、この書状が随心院領一円保の名がみえる最後の文書だからです。 一円保も、香川氏など周辺の武士の争奪のうちに、善通寺の手を離れていったようです。
時代の形勢は、地方の一寺院が独力で所領を確保できるような状態ではなくなっていました。
誕生院自身、長禄二年(1558)には、その領有する萱原村領家職を、在地の武士滝宮実長に委ねざるをえなかったことが次の史料からは分かります。
誕生院自身、長禄二年(1558)には、その領有する萱原村領家職を、在地の武士滝宮実長に委ねざるをえなかったことが次の史料からは分かります。
預り申す。萱原領家方御代官職の事長禄二年戊宙より壬午年まて五年あつかり申候。大師の御領と申天下御祈格料所の事にて候間、不法榔怠有る可からす候。年に随い候て、毛の有色を以て散用致す可く候。御領中をも興行仕り、不法の儀候はすは、年月を申定め候とも、尚々も御あつけあるへく候。働て頂状件の如し。長禄二年成寅七月十日 瀧宮豊後守 賞長(花押)誕生院
預り状として一応契約のかたちをとっているものの 年貢の納入は、「毛の有色」つまり作物のでき具合を見て故用=算用するとあります。所領を預かる期間も、五年間と定めてはありますが、不法のことがなければ、「年月を申し定め候とも、尚々も御あつけあるへく候」とあって、実質的には無期限と同じ契約内容です。これでは契約の意味はありません。誕生院領萱原村は、滝宮氏の手に渡ってしまったことを暗示する内容です。
善通寺の所領、良田郷領家職、生野郷内修理免などは、弘田郷や一円保以上に不安定な要素をかかえていました。これらの所領もまた、一円保や萱原村などと同じ道を、それらよりももっと早くたどつていったと研究者は考えているようです。
以上をまとめておくと
①南北朝末期の明徳4年(1392)に、善通寺誕生院は本寺随心院から善通寺奉行、弘田郷所務職、同院主職を得て、経済的自立への路のゴールに近づいた。
②応永17年(1410)には、誕生院は随心院の善通寺領請所に指定された。
③こうして宥範によって基礎がすえられた誕生院の在地領主としての地位は、宥快の時に確立した。
④しかし、応永29年(1422)本寺随心院は、誕生院の領主的地位の基盤であった弘田郷領家職、寺家別当奉行などの所職を、一方的に香川美作入道に換えてしまった。
⑤そこで誕生院は、讃岐守護の細川満元に頼んで安堵状をだしてもらったが、その効力はなかった。
⑥この後、美作入道は応仁の乱を間にはさんで以後約50年の間善通寺領に居すわり続けた。
⑦美作入道は、応仁の乱のころになると、随心院に上納することを請負った年貢を、全然納めなくなった。
⑧そこで文明5年(1472)には、弘田郷代官の地位を香川美作入道(その後継者)から取り上げた。⑨文明6年(1473)年2月には、今度は同じ香川一族の帯刀左衛門尉が、その後任に任ぜられることを強く求めた。
文明6年の文書の後、随心院領弘田郷について記された史料はなく、随心院の力が及ばなくなったことがうかがえる。善通寺領は西讃守護代の香川氏やその一族によって横領されたようだ。このような押領を繰り返しながら、香川氏は戦国大名の道を歩み始める。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 香川氏の善通寺領侵略 善通寺市史566P
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