1水踊。 2四国 3綾子 4小鼓。 5花籠 6鳥籠 7邂逅(たまさか)8六調子(「付歌」を含む)。 9京絹 10塩飽船 11しのび 12帰り踊り
綾子踊りは雨乞い踊りなので、歌詞の内容は、降雨祈願のことが謡われているものとかつては思っていました。小さい頃は、何が謡われているのかも気にせずに佐文の住人として、この踊りに参加していました。ところが年月を経て、歌詞の内容を見てみると、雨乞い的な内容のフレーズは、ほとんど見当たらないことに気づきました。出てくるのは艶っぽいオトナの情愛の歌と、瀬戸内海航路を行き交う船と港のことばかりです。まるで「港町ブルース」の世界なのです。どうして、こんな艶っぽい歌が、雨を切実に祈願する綾子踊りで謡われ、踊られていたのか。また、この風流歌の起源はどこにもとめられるのか。それが長年の疑問でした。
それに答えてくれるのが、「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」です。これをテキストにして、綾子踊歌の起源と内容を見ていくことにします。
綾子踊りで、最初に謡われるのは「水の踊り」です。
二、池田の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ雨が降ろと ままいの ソレ しつぽとぬうれて ソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ三、八坂の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ しつぽと ぬうれてソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ
「さかひ(堺)の町、池田の町、八坂の町」の3つの町が登場します。
頭の町の名前が変わるだけで、後のフレーズは三番まで同じです。三つの町に雨が降ること、その雨に「しつぽと濡れる」ことが謡われます。これを「人々の雨を乞う願い、雨を降らせようとする強い気持ちで包まれた歌」と研究者は評します。
ここに出てくる「堺・池田・八坂」の町は、現在のどこに当たるのでしょうか?
「さかい(堺)」は、南蛮貿易や商工業で栄えた堺市でしょう。瀬戸内海交易の最大拠点で、西の博多とともに中世には繁栄していた港町でした。瀬戸内海を行き来する廻船のゴールでもあり、文化の中心地で、憧れの地でもあったようです。
堺の港が、登場すると風流歌や雨乞い踊歌を挙げると次の通りです。
○あれに見えしはどこ浦ぞ 立目にきこえし堺が浦よ 堺が浦へおしよせて (香川県三豊郡・和田・雨乞踊歌)○さかへおとりわおもしろやヽ さかへさかへとおしやれども 一化の都にますわゑな (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)○堺の浜を通りて見れば あらうつくしのぬりつぼ竿や (徳島県阿南市・神踊・殿御踊歌)○堺ノ浦ノ千石船ハ ドナタヘマイルタカラブネ (徳島県名東郡・佐那河内村・神踊歌)○ここは堺か面白やア かたにおろしてあきないしよ あきなゐおどりはひとおどり(徳島県徳島市。川内町あきない踊り
こうしてみると堺の港は、瀬戸内海を行き交う船にとって象徴的な町として、風流歌の中に取り込まれて各地で謡われていたことが分かります。それでは、「池田」「八坂」は、どうなのでしょうか。考えつくのは
池田の町=阿波池田?八坂の町=京都の八坂?
ですが、どうもピンときません。これらの町も「堺」とともに、めでたく豊かさを象徴する町として出てくるとしておきましょう、その中でも「堺の町」は、瀬戸内海文化エリアの中で繁栄する港町のイメージとして登場し、謡われていることを押さえておきます。
綾子踊り 団扇には「雨乞い」裏が「水」
次に「広いようで狭い」「しっぽと濡れて」です。
この類型句を挙げて見ると次の通りです。
○堺の町は広いようで狭い 一夜の宿を借りかねて 森木の下で夜を明かす 夜を明かす (順礼踊『芸備風流踊歌集』)○遠州浜松広いようで狭い 横に車が二挺立たぬ(『山家鳥虫歌』・遠江)○遠州浜松広いよで狭い 横に車が横に卓がやんれ 一丁も二丁目三丁目も… (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
ここに出てくる「広いようで狭い」という表現は、その街道が狭いこと云っているのではなく、むしろ、道も狭いと感じさせるほど、町が繁盛し人々で賑わっていることを伝えていると研究者は指摘します。浜松は、東海道のにぎやかな海道の要所です。18世紀後半の『山家鳥虫歌』に、このような表現があるので、近世民謡の一つのパターン的な表現方法のようです。いわば現在の演歌の「恋と涙と酒と女」というような決まり文句ということでしょうか。綾子踊「水のおどり」は、その決まり文句が入ってきているとしておきます。
次は「しつぽと」についてです。
『宗安小歌集』に、次のような表現があります。
艶っぽくエロチックな表現です。しかし、「濡れ肌」でなく「町がしっぼと濡れる」です。これは堺の町など三つの町が、めぐみの雨によって、十分にしっとりとうるおい、蘇ったありさまを表現していると研究者は評します。しかし、それだけではありません。「しつぽと濡れたる濡れ肌を今に限らうかなう まづ放せ」(一七五番)
中世の『田植草紙』系田植歌には、色歌・同衾場面をうたう情歌にもよく出てきます。こんな表現を民衆は好みます。だから風流化として各地に広まったのでしょう。そして、その根っこでは、人間の「繁殖」と稲の豊穣を重ねて謡われていたと研究者は評します。ここでは、豊作を願う農民たちの祈り歌の思いが込められていたとしておきます。
どうして綾子踊りの最初に、「水おどり」(雨のおどり)が踊られるのでしょうか?
それは綾子踊の目的が雨乞いにあるからと研究者は指摘します。雨が降って身が濡れること、夕立雲が湧き出てくる様子も、豊穣の前兆としてうたわれます。「水おどり」も歌謡・芸能の風流の手法として、農耕の雨を呼ぶ「呪歌」であると云うのです。雨が降ることを確信を持って謡うこと、また祈願が叶って雨が降ったときの歓喜が「雨よろこび」の歌となります。
幕末に丸亀藩が編纂した『西讃府志』・巻之三の『雨乞踊悉皆写』には、「綾子路舞」について、次のように記します。
「佐文村二旱(日照)ノ時、此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏神ノ社トニテスルナリ」
其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠、次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ馴日、次ナルヲ忍び 次ナルヲ帰り踊 ナドト、十二段ニワカテリ
ここでも「水の踊」が全十二段の、最初に置かれています。
綾子踊りは、雨を呼ぶための呪術的祭礼歌謡です。そのために、雨を期待し、表明する歌謡として伝承されてきました。
しかし、雨乞い踊りと云われる中に、雨が降ったことに感謝するために踊られるものもあります。
例えば、滝宮神社に奉納される坂本念仏踊りには、「菅原道真の祈雨成就に感謝して踊られる」と、その由来に書かれています。雨乞い踊りではなく、もともとは「雨乞成就への感謝踊り」なのです。
奈良大和の「なむて踊り」も、雨乞い踊りではなく、降雨感謝の踊りです。そして、その踊りは、風流盆踊りが借用されたもので、内容は風流踊りでした。これが雨乞い踊りと混同されてきたようです。
しかし、雨乞い踊りと云われる中に、雨が降ったことに感謝するために踊られるものもあります。
例えば、滝宮神社に奉納される坂本念仏踊りには、「菅原道真の祈雨成就に感謝して踊られる」と、その由来に書かれています。雨乞い踊りではなく、もともとは「雨乞成就への感謝踊り」なのです。
奈良大和の「なむて踊り」も、雨乞い踊りではなく、降雨感謝の踊りです。そして、その踊りは、風流盆踊りが借用されたもので、内容は風流踊りでした。これが雨乞い踊りと混同されてきたようです。
綾子踊り 善女龍王の幟
中世では素人が雨乞いを祈願しても神には届かないという考えがあったようです。
丸亀藩が正式に雨乞いを命じたのはは善通寺、髙松藩は白峰寺だったのは以前にお話ししました。そこでは、高野山や醍醐寺の雨乞い修法に則って「善女龍王」に、位の高い僧侶が祈祷を捧げました。村々でも、雨乞は山伏や近郷の祈祷寺に依頼するのが常でした。自ら百姓たちが雨乞い踊りを踊るというのは少数派で、中世においては「異端的で、先進的」な試みだった私は考えています。
そういう意味では、佐文の綾子に雨乞い踊りを伝授したという僧侶は、正式の真言宗の僧侶ではありません。それは、山伏や高野聖たちであったと考えた方がよさそうです。雨乞いは、プロの修験者や真言僧侶など霊験のあるものが行うもので、素人が行うものではないという考えが中世にはあったことを、ここでは押さえておきます。
以上見てきたように「水の踊」に登場するのは「堺・池田・八坂」です。讃岐近郊の地名は登場しません。この歌が瀬戸内海を行き交う船の寄港地などで風流歌として歌われ、それが盆踊りに「借用」され、讃岐でも拡がったこと。佐文では、さらにそれをアレンジして「雨乞踊り」に「借用」して踊られるようになったことが考えられます。
最後に意訳変換しておくと
最後に意訳変換しておくと
繁昌する堺の町(池田の町、八坂の町)は、広いようで狭いよ。雨乞踊の祈願が叶って雨が降り、人々は蓑よ笠よと騒いでいるが、田も野もそして町も、しっぽりと濡て潤い、蘇りました。この「水が水が」とうたう水の歌が、佐文に水を呼ぶ。うれしいことだよ、めでたいことだよ。
「雨乞踊の最初に、願いどおりの結果になつたことを、前もってうたい、世の中を祝った予祝歌謡」と研究者は評します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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