庄内半島 三崎灯台
荘内半島の先端と三崎灯台 右奧が紫雲出山 左側(北)が備讃瀬戸

前回は綾子踊りの最初に謡われる「水の踊」を見てみました。そこには「堺・池田・八坂」の町が登場していました。今回は二番目に踊られる「四国船」の歌詞内容を見ていくことにします。

綾子踊り2 四国船
綾子踊り 2四国船 
一、四国 箱の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす 匂いやつす ヒヤヒヤ
ニ、四国 阿波の鳴門の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
三、四国 土佐の岬の ソレ 潮の早さに沖こぐ船は 匂いやつす匂いやつす ヒヤヒヤ
意訳変換しておくと
四国、箱の岬(阿波の鳴門、土佐の岬)の、潮の流れの速いことよ。この灘を航海する船は、ここぞとばかり、全身全霊で、辛さを堪えて越えてゆくよ。
最初に出てくる「箱の岬」というの現在の荘内半島の最西端の岬ことのようです。まず庄内半島のことを角川の地名辞典423Pで押さえておきます。
①七宝山脈の一部をなす陸繋島で、大浜と鍋尻の間はかつて海であったのが、土砂の堆積と隆起により、陸続きとなった。
②ここを船は運河で、あるいは台車に載せられ越えていて、そこに鎮座していたのが船越八幡神社である。
③古くは三崎(御崎)半島と呼ばれたが、明治23年の荘内村(大浜・積・箱・生里)の成立とともに荘内半島を呼ばれるようになった。
④江戸期は丸亀藩の支配下で、六浦二島で荘内組を構成した。
ここからは荘内半島が明治以前には「三崎(御崎)半島」や「箱の岬」と呼ばれていたことを押さえておきます。

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  吉田東伍「大日本地名辞書」の讃岐国には、次のように記します。
「箱御埼(三崎)。讃州の西極端にして、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と相対し、二海里余を隔つ。塩飽諸島は北東方に碁布し、栗島最近接す。埼頭に海埼(みさき)明神の祠あり。此岬角は、西北に向ひ、十三海里にして備後鞆津に達すべし。其間に、武嶋井に宇治島、走島あり。
  『鹿苑院(義満)殿厳島詣記』(康応元年)に、鞆の浦の南にあたりて、宇治、はしり(走)など云、島々あり、箱のみさきと云も侍り。へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
など云へるは、実に正確の状也。
 水路志云、三埼は、讃岐国の西北角にして、塩飽瀬戸と備後灘とを分堺す。即東方より航走し来る者、此に至り北して三原海峡、南して来島海峡、其分るヽ所なり
荘内半島と鞆
荘内半島の位置

意訳変換しておくと
箱御埼(三崎)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。足利義満の『鹿苑院殿厳島詣記』(康応元(1389)年には、次のように和歌に詠まれている。
へだて行(く)八重の塩路の浦島や箱の御崎の名こそしるけれ
これはまさに正確な記録と云えよう。水路志には、次のように記されている。
 三崎(荘内)半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
三崎半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
②14世紀末に、足利義満が安芸の宮島参拝の帰路に、鞆から荘内半島に至る笠岡諸島を通過している。
③荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
海埼(みさき)明神の祠があったこと、鞆・尾道航路と来島・九州航路の分岐点であったことを押さえておきます。
庄内半島と鞆

『金毘羅参詣名所図会』(弘化四(1847)2月刊)には「箱ノ岬」として、次のように記します。
荘内半島 箱の岬 大浜神社 金毘羅参詣名所図会

「仁保(仁尾)の浦より西北の方にあり。本山の荘よりつゞきて、其間七里の岬なりと言。海上に突出ること抜群にして、左右にくらぶるものなし。箱浦ともいふ浜の方に御崎(三崎)明神の社あり。村中の生土神(うぶすな)なり」

意訳変換しておくと
仁保(仁尾)の浦の西北の位置する。本山荘より続く、七里の岬である。海に突出しているので、左右に障害がなく展望が開ける。箱浦という浜の方には、御崎(三崎)明神の社があり、村中の生土神(うぶすな)となっている。

ここにも「御崎(三崎)明神」がでてきます。しかし、その場所は「箱浦の浜」とされています。

『古今讃岐名勝図会』(嘉永七(1854)年には、「御崎(三崎)明神」について次のように記します。

「讃岐国中、西へ指出たる端なり(中略)
祈雨に験あり祈雨神とも称へり。社の二丁北に、海中に大石あり大幸石といふ。今は絶えたり。又曰く、赤頸の狼等を神使と言い、毎月十九日に見ゆと云。」

ここからは次のようなことが分かります。
①三崎大明神は「祈雨に験あり。祈雨神とも称へり。」とされ、雨乞信仰の神でもあったこと
②三崎神社の社の北の海中には、大幸石という大石があって神の使いとされる「赤首の狼」とされ、毎月19日は、海中から現れたこと。
ここでは、神霊としての信仰対象として、「大幸石」があり「赤首の狼」伝承があったことを押さえておきます。
なお「大幸石」については、「今は絶えたり」とあります。現在は「大幸石」に代わって燈台の沖の「御幸石」が名所となっているようです。

庄内半島 御幸石.3jpg
三崎灯台の下の御幸石

  『全讃史』(明治13年刊)には、「箱の岬」について、次のように記します。
箱御崎。生利(なまり)の浦に有。長く海中へ出る事、三里といへり。御崎(三崎)大明神の祠有 往来の舟、皆、帆を下け、拝して過れり。
打わたす御崎の神はわたつみを幾千代かけて守り給はん 

ここには「往来の船、皆、帆を下け、拝して過れり」とあります。海を行く船人達が、海路安泰を願って、帆を下げて、御崎(三崎)大明神を拝みながら通過していったことを伝えます。これは、古代以来の船人たちの河川や海の境界に鎮座する神への礼拝エチケットだったのかもしれません。庄内半島だけのことではなく、古代以来多くの船が行ってきた習俗だったと研究者は考えています。

日本海事慣習史(金指 正三) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
金指正三『日本海事慣習史』(昭和42年刊)には、「船行」の中で次の文を引用しています。

「霊神ノ立玉フ峰ノ麗ヲ過ニハ、帆ヲスルト云テ、帆ヲ八分ニサグベシ。霊神ヲ敬フ心ナリ」

意訳変換しておくと

霊神が鎮座する峰の麓を船で航行するときには、帆を八部にまで下げることが慣例であった。これが霊神を敬ぶ心である」

 瀬戸の島の断崖の上や、岬の先端に祀られた祠に対して、静かに礼拝をしながら船乗りたちは船を通過させたようです。そして、荘内半島の先端に鎮座する三崎神社に対しても、船乗りたちはこの礼をとっていたことが分かります。
今度は中世の三崎神社を、修験者の海の行場という視点で見ておきましょう。
四国霊場形成史 八幡信仰に弘法大師伝説が「接木」されている観音寺の『讃州七宝山縁起』 : 瀬戸の島から
讃州七宝山縁起
  観音寺や琴弾宮の縁起である『讃州七宝山縁起』には、次のような事が書かれています。
 空海が仏宝を観音寺から庄内半島に続く山塊に納めたので、七宝山と号すること、寺院を建立した際に、八葉の蓮華に模したので観音寺ともいうこと。また七宝山にある7つの行場を33日間で行峰(修行)する中辺路ルートがあることが記され、その行場として、次の寺が挙げられています。
初宿 観音寺(琴弾神社別当寺)
第二宿は稲積神社(高屋神社)
第三宿は経ノ滝(不動の瀧)
第四宿は興隆寺(本山寺奥の院)
第五宿は岩屋寺
第六宿は神宮寺(三崎神社の別当寺)
結宿は曼荼羅寺我拝師山。
七宝山縁起 行道ルート3
七宝山の中辺路の宿泊寺院
 こうしてみると、観音寺から岩屋寺まで、七宝山沿いに行場が続き、その行場に付帯した形で小さな庵やお寺があったことが分かります。
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神正院(詫間町生里)
 その第六宿が荘内半島の神宮寺です。
 この寺は現在の神正院(詫間町生里)で、三崎神社の別当寺であったようです。三崎神社の管理・運営は、このお寺の社僧がおこなっていたことになります。
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神宮院の三崎大権現のお堂 
権現からは修験者の拠点であったことがうかがえます。

彼らは山林修行者で修験者でもありました。行場での修行のひとつが、海に突きだした岬と、山の断崖を何度も行き来し「行道」することでした。荘内半島の三崎神社も「七宝山中辺路」ルートの行場として、多くの修験者たちを集めていたのでしょう。
 そして、五来重の説くように、岬の先端では修行の一環として大きな火が焚かれたはずです。それが「龍燈」で、沖ゆく船の船乗りの信仰を集めることになります。つまり、三崎神社は修験者たちの行場であると同時に、船乗りたちの航海安全を願う神社であり、その別当寺を神正院が務めていたことになります。
庄内半島 三崎神社3
三崎神社とその先の三崎灯台(荘内半島先端)
以上から三崎神社の性格や役割をまとめておきます。
①備讃瀬戸・備後灘・燧灘を分ける境界に位置する宗教施設
②岬の先端の行場としての宗教施設
③龍燈が焚かれる「燈台的な機能」や「海運情報センター」
④雨乞いに験がある権現で、管理は別当寺の社僧
燈台のある三崎の先端に向かって四国の道を歩いて行くと三崎神社の手前に、注連柱が立っています。
荘内半島 関の浦
注連柱と「関の浦」の説明版
その注連柱には「廣嶋縣御調郡吉和漁■」と刻まれています。「御調郡吉和」は、現在の尾道市西部にあたります。尾道の漁民たちによって奉納されたことが分かります。三崎神社は、荘内半島周辺だけでなく、遠く尾道や三原などの人々の信仰をも集めていたようです。
 それでは安芸の信者たちは、どのようにして三崎神社に参拝に来たのでしょうか。それを教えてくれるのが、ここに立っている四国の道の
説明板で、次のように記されています。

関ノ浦
 この道を二百メートルほど下ったところに、関ノ浦と呼ばれる砂浜のきれいな小さな入江があります。その昔、鎌倉・室町時代に、沖を通過する船舶から通行税をとっていた所で、山口県の上関【かみのせき】、中関【なかのせき】、下関【しものせき】と共に四大関所と呼ばれるほど重要な関所でした。
 また、明治、大正、昭和の初期までは、漁船が水の補給をしたり潮待ちのための休けい所となってにぎわいました。特に盛漁期には、酒、菓子、日用品などを販売する店が開かれていたといいます。きれいな砂浜の近くには、今でも真水が湧き出ている井戸が二つあり、当時をしのばせています。時は流れ、現在では三崎神社の夏祭の時以外訪れる人もなくひっそりとしていますが、入江の美しさだけは昔のままです。
荘内半島 三崎神社と関の浦

三崎神社の北側の浜には「関の浦」という「浦(港)」があり、
ここには沖ゆく船に飲み水を提供する井戸があり、潮待ちの休息所となっていたこと、さらに中世には「海関」で関銭を徴収していたというのです。尾道の船乗りたちも、ここに立ち寄り潮待ちをしていたのかもしれません。そして大祭などには、船を仕立ててやってきて、関の浦に船を着け、三崎神社に参拝したことが考えられます。

荘内半島 関の浦の井戸
関の浦に残る井戸跡
海の関所を設置し、通行税を徴収していたのは、どんな勢力でしょうか。
それは関銭を山口県の上関・中関・下関を支配下に置いていた海賊衆(海の武士たち)が想定できます。具体的には、芸予諸島に拠点を置き、備讃瀬戸までをテリトリーにした村上海賊衆です。16世紀前半に、村上衆は九州の大友氏に味方して、その功績として塩飽を支配下に置いています。備讃瀬戸南航路を行き交う船の関銭を、ここで徴収していたことは考えられます。そうだとすれば、ここには村上水軍の部隊が常駐していたのかもしれません。それは、讃岐を支配する守護の細川氏にとっては目障りな存在であったはずです。そのために細川氏は、仁尾を西讃岐の海上警備拠点として整備・組織していこうとしたのかもしれません。
 また、海上交通の要衝には宗教施設が建設され、僧侶たちが「管理センター職員」として服務するようになります。
その手法からすれば、ここに鎮座する三崎神社(大権現)は、関の浦(港)の管理センターであり、情報提供センターでもあったはずです。それを別当寺の神宮院が統括していたことになります。
 秀吉の海賊禁止令で、海の関所は取り払われました。しかし、関の浦はその後も潮待ち港として利用され、その山の上に建つ三崎神社は行き交う船の船乗りの信仰を集め続けたのでしょう。それは、この神社の信仰圏の拡がりからうかがえます。

庄内半島 三崎神社
三崎神社の参道石段
 どちらにして三崎神社に続く石段の立派さなどを見ると、辺境の岬に建てられたものとは思えない風格があります。それは、備讃瀬戸の航路に面した宗教施設で、瀬戸内海を行き来する船全体から信仰を集めていたことが背景にあることを押さえておきます。
四国別格二十霊場(二)・第7番札所 出石寺: ORANGE PEPPER
四国霊場別格 出石寺

同じような性格の寺院としては、愛媛県の三崎半島の付け根の山にある出石寺が挙げられます。
 孤立した山の上で出石山が繁栄した理由としては、次のようなことが考えられます。
①古代以来の霊山として、人々の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝で、九州を含め広い信者を集めたこと。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったのです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。
 そう考えると、庄内半島の三崎神社も同じようなことが考えられま

 どちらにしても、庄内半島の北側は、備讃瀬戸の重要航路で、この付近の島々の港はその「黄金航路」と直接的に結びついていて、「人とモノとカネ」が行き交う大動脈があったことは押さえておきます。 
庄内半島 三崎神社2
三崎神社の石段
少し寄り道をしすぎたようです。
四国船の歌詞である「箱の岬の潮の速さに沖漕ぐ船はにほひやつす」に近い他の表現を、研究者は次のように挙げます。
①伊豆や三島に沖こぐ船は泊る夜より枕も揺り驚かす(奈良県吉野郡・篠原踊歌)。
②徳島県鳴門市大麻町神踊歌の「四国踊」には、
「此処はどこぞととひければ音に聞こえし」の型で、「阿波の徳島」「土佐の高知」「伊予の道後」、そして「讃岐の字多津」がうたわれています。
「にほひやつす」については、次の2つを研究者は考えています。
①沖を漕いでゆく船(船人)が、難所を全力を出しきって、苦労難儀して通過して行く様子をうたっている
②「箱の岬、阿波の鳴門、土佐の岬」などの難所で、そこに祀られている神へ祈念して、ここぞとばかりに威勢良く水夫達が漕いでゆく様を謡っている
このような中で綾子踊りの四国船では、鳴門や室戸とともに三崎(荘内)半島が取り上げられ、その最初に謡われていることになります。中世の西讃地域の人々にとって、三崎半島は重要な意味をもつエリアで、そこに鎮座する三崎神社の知名度は高かったことがうかがえます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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