綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)
綾子踊りに詠われている歌詞の内容について、前回までは見てきました。そこには中世の小歌などに詠われた瀬戸内海を行く船や港町の様子、そして男と女の恋歌が詠われていました。雨乞い踊りの歌なので祈雨を願う台詞がでてくると思っていたので、ある意味期待外れの結果に終わっています。さて今回は6番目の「たまさか(邂逅)」です。
綾子踊り たまさか(邂逅)
一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ
二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが アラシャ
三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが アラシャ
意訳変換しておくと
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ
一番の「解釈」を見ておきましょう。
「おれ」は中世では女性の一人称でしたから、私の思いはつたえたのに、あなたの心は「芋の葉の露 ふりしやり」のようと比喩して、女が男に伝えています。これは、芋の葉の上で、丸い水玉が動きゆらぐ様が「ぶりしやり」なのです。ゆらゆら、ぶらぶらと、つかみきれないさま。転じて、言い逃れをする、男のはっきりしない態度を、女が誹っている様のようです。さらに場面を推測すると、たまに気ままに訪れる恋人(男)に対して、女がぐちをこぼしているシーンが描けます。用例は次の通りです
○かづいた水が、ゆりゆりたぶつき(『松の葉』・巻一・裏組・賤)○許させませよう 汲んだる水は ゆうりたぶと、とき溢れる(広島市・安芸町・きりこ踊『芸備風流踊り歌集』)
この歌の題名は「たまさか(邂逅)」ですが、これは「たまたま。まれに」という意味のようです。
○恋ひ恋ひて、邂逅に逢ひて寝たる夜の、夢は如何見る、ぎしぎしと抱くとこそ見れ(今様・『梁塵秘抄』・四六〇番、○思ひ草 葉末にむすぶ白露の たまたま来ては 手にもたまらず(『金葉和歌集』・巻七・恋・源俊頼)○恋すてふ 袖志の浦に拾ふ王の たまたまきては 手にだにたまらぬ つれなさは(『宴曲集』・巻第三・袖志浦恋)○枯れもはて なでや思草 葉末の露の、玉さかに 来てだに手にも たまらねば(同・巻第二・吹風恋)
以上を見てみると「たまさかに」は、港や入江の馴染みの女達・遊女たちと、そこに通ってくる船乗りたちの場面だと研究者は推測します。なじみの男に、対して話しかけたことばが「たまさかに」で、女達の常套句表現だったことがうかがえます。
○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)
この歌は何気なく読んでいるとふーんと読み飛ばしてしまいます。しかし、研究者は「恐縮するほど野趣に富んだ猛烈な歌謡である」と評しています。何度も読み返してみると、なるほどポルノチックにも思えてきます。それを堂々と詠っているのが中世らしい感じがします。「たまさかに」という言葉は、当時は女と男の間でささやかれる常套句で、艶っぽい言葉であったことを押さえておきます。
それを理解した綾子踊りの歌詞を改めて見てみましょう。
1番が「たま坂(邂逅)にきて 寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ」で、たまたまやってきた男と、夜明けの鐘が鳴るまで・・・」とあからさまです。
2番の歌詞は、「ここに寝よか ここに寝よか さて菜の中に しかも御寺の菜の中」と続きます。アウトドアsexが、あっけらかんと詠われています。丸亀藩の編纂した西讃府志には、初期のものには載せられていますが、後になると載せられていません。艶っぽすぎで載せられなかったと私は考えています。そして、この歌詞をそのまま直訳して載せることは、町史などの公的な機関の出す刊行物では、できなかたのかもしれません。それほど詠われている内容はエロチックを越えて、ポルノチックでもあるのです。
遊女と船乗りの男との「たまさか」の世界を見ておきましょう。
たまさかは、遊女達が男たちに対して、口にしていた常套句でした。酒盛りや同衾する男へ、遊女がその出逢いを、「たまさかの縁」「たまさかに来て」と言った伝統があるようです。
『万葉集』以来の雨乞風流踊歌・近世流行歌謡に出てくる「たまさかの恋」の代表的なものは次の通りです。
古代○たまさかに我が見し人をいかならむ よしをもちてかまたひとめ見む(『万葉集』・巻十一・二三九六)
中古中世○恋ひ恋ひて 邂逅(たまさか)に逢ひて寝たる夜の 夢は如何見る ぎしぎしぎしと抱くとこそ見れ(『梁塵秘抄』・二句神歌・四六〇番
中世近世〇たまさかに逢ふとても、猶濡れまさる袂かな、明日の別れをかねてより、思ふ涙の先立ちて(『艶歌選』・3番)
綾子踊り
3番の歌詞に出てくる「せはせはと」を見ておきましょう。
「閑吟集』には、次の小歌があります。
○男 わごれうおもへば安濃の津より来たものを をれふり事は こりやなにごと(77)○女 なにをおしやるぞ せはせはと うはの空とよなう こなたも覚悟申した(78)
意訳変換しておくと
男「おまえのことを思って、安濃の津よりわざわざやってきたのに、その機嫌の悪さは何事か」女「何をおっしゃるのか せはせはと・・」と女が言い返しています。
「せはせはと(忙々)」とは「せわせわしい人。しみったれて こせこせしており その態度のいやらしい人」の意味で使われています。言いわけをしたり、しみったれたことを言ったして、なかなかやって来なかった男をなじっているようです。それが小歌になって、宴会の席などで詠われていたのです。ちなみに、このやりとりからは、男は安濃の津の船乗りで、その女は馴染の人、または遊女かそれに近い存在と研究者は推測します。
せわせわの類例を見ておきましょう。
せわせわの類例を見ておきましょう。
○何とおしやるぞ せわせわと 髪に白髪の生ゆるまで (兵庫県・加東郡・百石踊・『兵庫県民俗芸能誌』)○うき人は なにとおしやるぞ せわせわと 申事がかなうならば からのかゝみ(で)、ななおもて (徳島県・板野郡・嘉永四年写『成礼御神踊』)
ぶんごみのさき からのかがみは のをさて たかけれど みたいものかよ のをさてぶんごみのさき ぶんご女郎たち 入江入江で 船のともづなに のをさて 針をさす船のともづなに のをさて 針をさすよりも あさぎばかまの のをさてひだをとれ なおもだいじな のをさて すじの小袴
意訳変換しておくと
豊後の岬 唐の鏡は美しく磨かれ 高価だけれども 見たいものよ、豊後の岬 豊後女郎たちは 入江入江で 船のともづなに 針をさす船のともづなに 針をさすよりも 浅黄袴ひだをとれ なおもだいじな すじの小袴
詠っているのは、船乗りの男です。詠われている「ぶんご女郎」は、豊後の入江入江の港に、入港する船を待っている女達です。船乗りたちからすると、恋女であり、馴染の女性で、つまり遊女です。研究者が注目するのは、「船のともづなに針をさす」という行為です。これには、どんな意味があったのでしょうか?
参考になるのが 三豊郡和田雨乞踊歌「薩摩」の、次の表現です。
①薩摩小女郎と 一夜抱かれて朝寝し(て)起きていのやれ ボシャボシャと薩摩のおどりを一踊り②薩摩の沖に船漕げば 後から小女郎が出て招く 舟をもどしやれ わが宿へ 舟をもどしやれ わが宿ヘ
この歌に詠われているのは、港町での船乗りの男達と、港の女達との朝の別れの場面です。船出した舟を曳き戻し、船乗りの男を我がもとに留めておこうとする遊女の姿がうたわれています。そのひとつの行為が、船のトモ綱に針を刺す「呪術」だったと云うのです。男たちを行かせまいと、遊女は船のとも綱に針を刺し留めようとしたのです。これは遊女達の間に、受け継がれてきた「おまじない」だったのでしょう。遊女が男の心意と行動を、恋の針でしっかりと刺して、射とめる呪的行為としておきましょう。こんな行為は、歴史の表面や正史には現れません。浦々の女達の、その世界だけの「妖術」とも云えます。そんな行為が、風流歌には「化石」となって残されています。綾子踊歌「たまさか」は、瀬戸内海を行き来する廻船と女達の「入江の文化」を、伝えているといえそうです。
これらの小歌が讃岐の港町でも宴会の席などでは、船乗りと女達の間で詠われたのでしょう。
観音寺や仁尾・三野の港町に伝えられた小歌や風流踊りが、背後の村々にも伝えられ、それが盆踊りとして踊られ、神社に奉納されるようになったと推測できます。中世の郷社では、この風流踊りの奉納は宮座によって行われていました。そのため神社の境内には、宮座を形成する有力者が桟敷小屋を建てる権利を得ていたことは以前にお話ししました。今では村の鎮守の祭りは、ちょうさや獅子舞が主流ですが、これらが登場するのは近世後半になってからです。中世の郷社では、風流踊りが奉納されていたことを押さえておきます。
諏訪神社の風流踊り(まんのう町真野 19世紀半ば)
それを示すのが財田の「さいさ踊り」や綾子踊りであり、諏訪神社(まんのう町真野)の風流踊りということになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「真鍋昌弘 綾子踊歌評釈 (祈る・歌う・踊る 綾子踊り 雨を乞う人々の歴史) まんのう町教育委員会 平成30年」
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