「町史こんぴら」の金毘羅宮の歴史を見ていると、多聞院のことがよく出でてきます。近世の金比羅は、金光院が宗教的領主として支配する幕府の朱印地でした。その意味では金光院院主は、僧侶であると同時に、お殿様でもあったことになります。そして、NO2の地位にあったのが多聞院のようです。
多聞院については、次のようなことが云われています。
①初代金光院院主の宥盛の弟子として、信頼を得ていた片岡熊野助が多聞院初代である。②片岡熊野助は、長宗我部元親に仕えた土佐の国人武将・片岡家出身である。③片岡熊野助は、大坂夏の陣の際には還俗して大阪城に入り豊臣方について戦った。④戦後に土佐に隠れ住み、修験者や祈祷などで生活していた。⑤隠密生活から17年後に、土佐藩主から赦され、金毘羅に復帰し、多聞院初代となった。
このように片岡熊野助(多聞院)は、若くして宥盛に弟子入りして、修行に励み、その信頼を得て多聞院を宥盛から名告ることを許されます。この多聞院は、金光院に仕える子院の中でも特別な存在で、金毘羅の行政にも大きな影響力を行使しています。そして、江戸期を通じて全国からやってくる天狗道信者の統括・保護や、金毘羅信仰の流布などに関わっています。今回は、この多聞院初代の片岡熊野助の出身地と、片岡氏について見ていくことにします。
テキストは、「小林健太郎 戦国末期土佐国における地方的中心集落 高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年
片岡氏の最初の拠点は、仁淀川中流の越知町片岡にあったようです。
仁淀川は、今では「仁淀ブルー」で、有名になりラフテングや川下りのツアーも行われるようになりました。「永遠のカヌー初心者」である私が川下りを楽しんでいた頃は、ほとんど人に会うことがない静かな川でした。1年に一度は、越知中学校前の沈下橋からスタートして、V字に切れ込む谷を浅野沈下橋・片岡沈下橋を経てあいの里まで、のんびりと下っていました。
上流から見た片岡と沈下橋
その中でも片岡は、沈下橋とともに絵になる光景が拡がり、上陸して集落をよく散策していました。なになく雰囲気のある集落だという印象を持っています。後でもお話ししますが、仁淀川は中世から越知や支流の柳瀬川を通じて川船が遡り、河川交通が盛んに行われた川だったようです。今では、時代の中に置き去りにされたような片岡集落も、かつては川船の寄港する川港として賑わいを見せていたようです。片岡沈下橋
この地が片岡氏のスタート地点だったようです。
『片岡物語』には、片岡氏の由来を次のように記します。(現代語要約)
片岡周辺と法厳城跡
①平家の減亡後に別府氏のもとに身をよせていた坂東大郎経繁が、この地域の土豪矢野和泉守俊武を討って吾川山庄を手中におさめ、出身地上野国の荘片岡の地名をつけた。
②その後、南北朝時代には経繁の子孫である経義・直嗣の兄弟が北朝方として活動した。
③室町前期には片岡直之が黒岩郷代官を務め、その跡を嗣いだ直綱は柴尾城に拠って勢力を拡大した。
④文明16年(1484)に、直光が継ぐと柴尾城を廃して、その上流に黒岩城を築いて拠点とした。
④永正17年(1520)に直光の後をついだ茂光は、翌年の大永元(1531)年に徳光城下にあった台住寺を黒岩城西方の山麓に移して累代の蓄提をとむらう一方、越知に支城清水城を設けて以北の守りとした。
ここからは、片岡氏が片岡を拠点に勢力を蓄えて、「片岡(宝厳城 → 柴尾城 → 黒岩城」と仁井淀川を遡り、その支流である柳瀬川流域の黒岩方面に勢力をのばそうとしていたことがうかがえます。さらに柳瀬川を遡り南方に進むと豊かな佐川盆地です。ここを片岡氏は目指します。
佐川盆地周辺の城跡
しかし、この頃の佐川城(のちに松尾城と改称)には、三野氏(のち中村氏を称す)が拠点を置いていました。さらに佐川盆地一帯を見渡してみると
①南部の斗賀野城には米森氏②西部の尾川城には近沢氏③黒岩城との中間庄田には中山氏
が割拠して、蓮池城主大平氏のもとに属しています。
このような中で天文15年(1546)に、中村の一条氏が大平氏を滅して高岡郡に進出してきます。すると、佐川盆地の国人たちの多くは、一条氏の勢力圏下に組み込まれていきます。これに対して、永隷6年(1562)になると、長宗我部氏が仁淀川東岸の吉良域を奪取して、西進してきます。この結果、仁淀川西岸以西を勢力圏とする一条氏と長宗我部元親は、佐川盆地をめぐって対峙するようになます。
元亀元年(1570)になると、長宗我部元親は一気に佐川盆地の攻略を進め、片岡氏を初めとする佐川盆地の国人たちはその軍門に下ります。佐川盆地平定後、元親は佐川盆地に重臣の久武内蔵助親直を入れています。久武氏は石ノ尾城(佐川城)を修築して、ここを佐川盆地支配の拠点とします。この際に、黒岩城主の片岡光綱は、それまでの本領を安堵されます。
元親は、佐川盆地制圧4年後の天正3年(1574)に、公家大名一条氏を征服し、翌年には甲浦城を攻略して土佐一国を統一します。そして四国制覇にのりだしていきます。元親傘下に入った片岡氏以下の佐川盆地の国人たちも、これに従って四国各地に出陣することになります。そして、天正13(1584)年に片岡光綱は、遠征中の伊予国金子陣で戦死します。この年に長宗我部元親は秀吉に降って、土佐一国のみを安堵され、翌年1585年には秀吉の九州征伐に従軍させられます。この時に薩摩島津氏と戦った豊後戸次川の戦いは「四国武将の墓墓」とも云われ、多くの四国の武将が戦死します。片岡光網の子光政(一説甥)も、ここで亡くなっています。片岡氏は連続して、当主を失ったことになります。
この前後に生まれたのが後の金毘羅の多聞院(幼名片岡熊野助)です。熊野助が生まれたときには、片岡氏は、佐川盆地周辺の有力国人であったことを押さえておきます。
片岡氏がこの地域で大きな勢力を持っていたことを見ておきましょう。
その所領を示す「片岡分」が高岡・吾川両郡の北部山地から中部丘陵地帯にかけて千町歩余りが『地検帳』に登録されています。その本拠である黒岩城そのものは、検地の対象外とされたようで『地検帳』に記されていませんが、黒岩古城については、次のように記されています。
その所領を示す「片岡分」が高岡・吾川両郡の北部山地から中部丘陵地帯にかけて千町歩余りが『地検帳』に登録されています。その本拠である黒岩城そのものは、検地の対象外とされたようで『地検帳』に記されていませんが、黒岩古城については、次のように記されています。
黒岩古城詰門外タン共二 同(黒岩村)次良大夫居一 (所)壱反拾七代一分 下屋敷 同じ(片岡分)
黒岩城周辺 南を流れるのが仁淀川支流の柳瀬川
この黒岩は現在では黒岩小学校敷地となって、わずかに土塁の一部を残しているだけです。
黒岩城周辺の土地割
明治前期の地籍図からは、小字「黒岩」の北部にその居館遺構があったことが分かります。その規模は東西南北の最大幅約70mです。これが片岡氏の居館跡と研究者は考えています。
これを裏付けるのが『地検帳』で、黒岩古城(居館跡)について次のように記します。
『地検帳』は、その他にも片岡氏が多くの土地や要衝の地を手にしていたことを示します。佐川盆地から高知平野に向う出入口にあたる日下川上流河谷の加茂永竹村にの大谷土居ヤシキ(片岡治部給、主居)を片岡分としています。
ここからは、佐川盆地中央部の西佐川にあった三野氏の居城が片岡氏のものになったことが分かります。また、長宗我部氏に亡ぼされた米森氏の居城があった斗賀野も、片岡分に編入されていたことが記されています。
三野古城(居館跡)
また、三野古市については次のように記されています。ここからは、佐川盆地中央部の西佐川にあった三野氏の居城が片岡氏のものになったことが分かります。また、長宗我部氏に亡ぼされた米森氏の居城があった斗賀野も、片岡分に編入されていたことが記されています。
以上を整理して、研究者は次のように指摘します。
「元亀元年に長宗我部氏の軍門に下った片岡氏が、その居城である黒岩城は廃城化されたものの、その東方に「御土居」を構えて本領を安堵されたうえ、さらに佐川盆地中央部や日下川上流河谷にも所領を拡大して、かつてそれぞれの地区を基盤に成長してきた小領主の上居をも支配するようになった。換言すれば、片岡氏は長宗我部氏に降ることによって、かつては片岡氏と措抗する小領主の支配下にあった佐川盆地中央部などへも進出して、この地域最大の地域的領主にまで成長し、長宗我部氏による領国支配の一環を構成するようになった。
『佐川郷史』は、片岡光綱が長宗我部元親に対してとった戦略について次のように記します。
①長宗我部元親の佐川盆地攻略にまっ先に恭順の意を表して軍門に下ったこと②近郷諸族降伏の勧誘をも行ない、元親の信第一の将として「親」の一字を賜って親光と改名したこと③家老職に補されて高岡郡の支配と周辺国人の監督連携の要の役を託されたこと
以上から、片岡光綱が佐川盆地実質的な支配を長宗我部元親から託されたと研究者は考えています。
それでは、佐川エリアに配された久武氏との関係はどうなるのでしょうか。
久武氏は元親の厚い信任を受けていた重臣で、伊予攻略では軍総代に任じられている有力武将です。しかし、『佐川郷地検帳』には、その所領は約4町歩しかありません、ここから研究者は、久武氏の佐川城は片岡氏に対する目付的な機能をもっていたにすぎないと推測します。
それでは、佐川エリアに配された久武氏との関係はどうなるのでしょうか。
久武氏は元親の厚い信任を受けていた重臣で、伊予攻略では軍総代に任じられている有力武将です。しかし、『佐川郷地検帳』には、その所領は約4町歩しかありません、ここから研究者は、久武氏の佐川城は片岡氏に対する目付的な機能をもっていたにすぎないと推測します。
長宗我部氏の地域的領主としての地位を片岡氏が握るようになって、発展するのが「黒岩新町」だと研究者は推測します。
片岡氏は長宗我部氏に下ることによって、その居城である黒岩城は廃城になり、封建領主としての独立性は失われます。しかし、その代償として、佐川盆地とその隣接地域の多くを片岡氏は所領に組み込んでいきます。そして、地域的領主としての地位とそれを支える経済基盤を拡大します。こうして片岡氏は、それまで佐川盆地中央部の永野や沖野で開かれていた市場機能を、自らの居館「御土居」のある黒岩新町に吸収統合して、地域の経済的な中心にしようとしたと研究者は推測します。これを裏付ける直接的な史料はないようです。
片岡氏は長宗我部氏に下ることによって、その居城である黒岩城は廃城になり、封建領主としての独立性は失われます。しかし、その代償として、佐川盆地とその隣接地域の多くを片岡氏は所領に組み込んでいきます。そして、地域的領主としての地位とそれを支える経済基盤を拡大します。こうして片岡氏は、それまで佐川盆地中央部の永野や沖野で開かれていた市場機能を、自らの居館「御土居」のある黒岩新町に吸収統合して、地域の経済的な中心にしようとしたと研究者は推測します。これを裏付ける直接的な史料はないようです。
片岡氏盛期の黒岩城下が賑わっていたことは、『片岡盛衰記』に次のように記されています。
「今の本村は帯屋町とて南北一筋の町あり、中にも和泉屋勘兵衛とて茶屋あり、其時代は他国入込にて、大坂より遊女杯数多下り、新居浜(仁淀川河口)迄舟通いければ、夜毎にうたいさかもり殊の外賑々しく今に茶園堂と申伝候」
意訳変換しておくと
「今の本村は帯屋町と呼ばれて南北一筋の町で、その中には和泉屋勘兵衛の茶屋があった。ここに他国から多くの人々がやって来た。大坂から遊女も数多く下ってきて、新居浜(仁淀川河口)まで川舟が通行していたので、夜毎に宴会が開かれ、謡いや酒盛り開かれ賑々しかった。これが今の茶園堂と伝えられている。
ここからは、佐川までは川船が運航していて「本村」は、その川港として大いに賑わっていたことがうかがえます。
それでは、ここに出てくる「本村」とは、どこのことなのでしょうか
『佐川郷史』は、最初に見た仁井淀川北岸の片岡本村の宝厳城下のこととしています。しかし、先ほど見たように仁淀川が深いV字谷を刻んで東流していて、その北岸には河道に沿った狭い場所があるだけです。「南北一筋の町」が立地するスペースはありません。
そこで研究者は、本村とは黒岩城下について記したものと推察します。
この黒着新町(本町)も、片岡氏の最盛期を築き上げた光網・光政が相次いで戦死した後に作成された『地検帳』検地段階にはやや衰退に向っていたようです。地検帳には町並の南端で、六筆の屋敷地が耕地化され、一筆は空屋敷になっていたことを伝えます。片岡氏の最盛期には、黒岩新町は仁淀川水運を通して、大阪からの遊女たちも多数やって来て賑わいを見せる広域的な川港でした。それが片岡氏の衰退とともにその地位を失い、「大道」をつなぐ周辺の領域内だけの流通エリアをもつ「地方的中心集落」に転化していきます。黒岩新町の衰退は、広い意味では、当時進行しつつあった長宗我部氏の新城下町大高坂建設と密接に結びついていたと研究者は指摘します。
この黒着新町(本町)も、片岡氏の最盛期を築き上げた光網・光政が相次いで戦死した後に作成された『地検帳』検地段階にはやや衰退に向っていたようです。地検帳には町並の南端で、六筆の屋敷地が耕地化され、一筆は空屋敷になっていたことを伝えます。片岡氏の最盛期には、黒岩新町は仁淀川水運を通して、大阪からの遊女たちも多数やって来て賑わいを見せる広域的な川港でした。それが片岡氏の衰退とともにその地位を失い、「大道」をつなぐ周辺の領域内だけの流通エリアをもつ「地方的中心集落」に転化していきます。黒岩新町の衰退は、広い意味では、当時進行しつつあった長宗我部氏の新城下町大高坂建設と密接に結びついていたと研究者は指摘します。
市場集落の近世化と新設域下町の登場は、地域経済に大きな影響を与えます。小商圏の中心である各地域の市が、大高坂城下町の建設で、その一部分を吸収されていきます。それは、現在の市町の商店街がスロート現象で、県庁所在地などの都市圏に吸い上げられ、衰退化していったのと似ているようにも思えます。
このように黒岩新町も、江戸時代に入ると急速に衰退し、一面の水田と化してしまいます。
その時期や経過については、よく分かりません。しかし、山内氏入国後の佐川と越知の発達が、黒岩新町の衰退要因のと研究者は考えています。長宗我部氏によって佐川城主に任じられた久武氏がその城下に新市を開設したことは、『佐川郷地検帳』に、次のようになることから裏付けられます。
新市 本田村一 (所)弐反弐拾代 出弐反拾四代三歩才下 久武内蔵助給
ここには、「新市」が本田村に作られたことが記されています。この佐川の「新市」は、片岡氏が大きな力を持っていた時には、黒岩新町には適いませんでした。ところが、慶長5年(1600)年の関ケ原合戦後に、長宗我部氏が領国を没収されてその後に山内一豊が入国します。その翌年には一豊の国老格をもって呼ばれた深尾重良が佐川郷一万石の領主として佐川城に入ります。このとき、黒岩村は藩主山内氏の直轄地として深尾氏の領地でした。深尾氏がその城下に現在の佐川町中心市街の前身となる町場を建設した際に、黒岩新町はこの町場に吸収されます。それ以後は佐川が佐川盆地唯一の町場として発達するようになります。
なお、越知の発達は佐川よりもやや遅れます。
なお、越知の発達は佐川よりもやや遅れます。
17世紀中葉に推進された土佐藩の殖産興業政策の一環として、仁淀川流域の林産物開発が進められます。その輸送のために仁淀川水運の整備が行なわれた際に、その拠点として町立てが行なわれたのが越知のようです。
以上、戦国時代の片岡氏についてまとめておきます。
①片岡氏は、仁淀川中流の片岡を拠点に、上流に向かって勢力を伸ばし、居城を移して行った。
②戦国時代には、上流の黑嶋に居館を構え、佐川につながる河川交易ルートを押さえて勢力を拡大した。
③片岡氏は長宗我部元親と一条氏の抗争では、長宗我部方の付いて佐川盆地における勢力拡大に成功した。
④その後、片岡氏は長宗我部元親の四国平定戦に従軍し活躍したが、当主を伊予の戦いで亡くした。
⑤また、秀吉の九州平定にも長宗我部軍の一隊として参加し、戸次川の戦いで当主を亡くした。
⑤また、秀吉の九州平定にも長宗我部軍の一隊として参加し、戸次川の戦いで当主を亡くした。
⑤片岡熊野助が生まれたのは、このような時期で片岡家が長宗我部支配下の国人武将として活動し、その居館のある黑嶋が大いに賑わっていた時期でもあった。
この後、関ヶ原の戦いで豊臣方に付いた長宗我部氏は土佐を没収され、家臣団は離散します。代わって山内氏が新たな領主としてやってきて、長宗我部に仕えていた旧勢力と各地で衝突を繰り返します。このような中で、14歳になっていた片岡熊野助は、土佐を離れ出家し金毘羅にやってきます。そして、金光院宥盛に弟子入りして、修験者としての道を歩み始めるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「小林健太郎 戦国末期土佐国における地方的中心集落 高岡郡黒岩新町の事例研究 人文地理』15の4 1963年
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