近世の金毘羅では、封建的領主でもある松尾寺別当の金光院に5つの子院が奉仕するという体制がとられていました。
その中で多聞院は、金毘羅山内で特別の存在になっていきます。ときにはそれが、金光院に対して批判的な態度となってあらわれることあったことが史料からは見えてきます。また、多聞院に残された史料は、金光院の「公式記録」とは、食い違うことが書かれているものがいくつもあります。そして比べて見ると、金光院の史料の方が形式的であるのに対して、多聞院の史料の方が具体的で、リアルで実際の姿を伝えていると研究者は考えているようです。どちらにしても、別の視点から見た金毘羅山内の様子を伝えてくれる貴重な史料です。

金毘羅神 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現

 近世初期の金毘羅は、修験者の聖地で天狗道で世に知られるようになっていました。
 公的文書で初代金光院院主とされる宥盛は「死後は天狗となって金毘羅を守らん」と云って亡くなったとも伝えられます。彼は天狗道=修験道」の指導者としても有名で、数多くの有能な修験者を育てています。その一人が初代の多聞院院主となる片岡熊野助です。宥盛を頼って、土佐から金毘羅にやってきた熊野助は、その下で修験者として育てられます。

天狗達
金毘羅大権現と大天狗と烏天狗(拡大)
 修験(天狗道)の面では、宥盛の後継者を自認する多聞院は、後になると「もともとは当山派修験を兼帯していた金光院のその方面を代行している」と主張するようになります。しかし、金光院の史料に、それをしめすものはないようです。

1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
天狗信者が金毘羅大権現に納めた天狗面
 
金光院の初期の院主たちは「天狗道のメッカ」の指導者に相応しく、峰入りを行っていて、帯剣もしています。そういう意味でも真言僧侶であり、修験者であったことが分かります。しかし、時代を経るにつれて自ら峰入りする院主はいなくなります。それに対して歴代の多聞院院主は、修験者として入峯を実際に行っています。

松尾寺の金毘羅大権現像
松尾寺の金毘羅大権現

宝暦九(1760)年の「金光院日帳」の「日帳枝折」には、次のように記されています。

「六月廿二日、多聞院、民部召連入峯之事」

天保4(1833)年に隠居した多聞院章範の日記には、大峰入峯を終えた後に、近郷の大庄屋に頼み配札したことが書かれています。
多聞院が嫡男民部を連れて入峯することは、天保四年の「規則書」の記事とも符合します。
 次に多聞院の院主の継承手続きや儀式が当山派の醍醐寺・三宝院の指導によって行われていたことを見ておきましょう。
(前略)多聞院儀者先師宥盛弟子筋二而 同人代より登山為致多聞院代々嫡子之内民部与名附親多聞院召連致入峯 三宝院御門主江罷出利生院与相改兼而役用等茂為見習同院相続人二相定可申段三宝院御門主江申出させ置多聞院継目之節者 拙院手元二而申達同院相続仕候日より則多聞院与相名乗役儀等も申渡侯尤此元二而相続相済院上又々入峯仕三宝院 御門主江罷出相続仕候段相届任官等仕罷帰候節於当山奥書院致目見万々無滞相済満足之段申渡来院(後略)
意訳変換しておくと
(前略)多聞院については、金光院初代の先師宥盛弟子筋であり、その時代から大峰入峯を行ってきた。その際に、多聞院の代々嫡子は民部と名告り、多聞院が召連れて入峯してきた。そして三宝院御門主に拝謁後に利生院と改めて、役用などの見習を行いながら同院相続人に定められた。このことは、三宝院御門主へもご存じの通りである。
 多聞院継目を相続する者は、拙院の手元に置いて指導を行い、多聞院を相続した日から多聞院を名告ることもしきたりも申渡している。相続の手続きや儀式が終了後に、又入峯して三宝院御門主へその旨を報告し、任官手続きなどを当山奥書院で行った後に来院する(後略)

ここには多聞院の相続が、醍醐寺の三宝院門主の承認の下に進めらる格式あるものであることが強調されています。金光院に仕えるその他の子院とは、ランクが違うと胸を張って自慢しているようにも思えてきます。
 このように多聞院に残る「古老伝」には、修験の記事が詳しく具体的に記されています。現実味があって最も信憑性があると研究者は考えているようです。そのため当時の金毘羅の状況を知る際の根本史料ともされるべきだと云います。 
新編香川叢書 史料篇 2(香川県教育委員会 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

それでは、古老伝旧記 ( 香川叢書史料編226p)を見ておきましょう。

    古老伝旧記 
〔古老伝旧記〕○香川県綾歌郡国分寺町新名片岡清氏蔵
(表紙) 証記 「当院代々外他見無用」
極秘書
古老之物語聞伝、春雨之徒然なる儘、取集子々孫々のためと、延享四(1748)年 七十余歳老翁書記置事、かならす子孫之外他見無用之物也。

「古老伝旧記」は多聞院四代慶範が延享4年(1744)に記述、九代文範が補筆、十代章範が更に補筆、補修を加えたもので、文政5年(1822)の日付があります。古老日記の表紙には、「当院代々外他見無用」で「極秘書」と記されています。そして1748年に当時の多聞院院主が、子孫のために書き残すもので、「部外秘」であると重ねて記しています。ここからは、この書が公開されないことを前提に、子孫のために伝え聞いていたことをありのままに書き残した「私記」であることが分かります。それだけに信憑性が高いと研究者は考えています。
天狗面を背負う行者
天狗行者
例えば金毘羅については、次のように記されています。
一、当国那珂郡小松庄金毘羅山之麓に、西山村と云村有之、今金毘羅社領之内也、松尾寺と云故に今は松尾村と云、西山村之事也、
讃岐国中之絵図生駒氏より当山へ御寄附有之、右絵図に西山村記有之也、
一、金昆羅と申すは、権現之名号也、
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領三百三拾石は、国主代々御領主代々数百年已前、度々に寄附有之由申伝、都合三百三拾石也、
当山往古火災有之焼失、宝物・縁記等無之由、高松大守 松平讃岐守頼重公、縁記御寄附有之、
意訳変換しておくと
一、讃岐国那珂郡小松庄金毘羅山の麓に、西山村という村がある。今は金毘羅の社領となっていて、松尾寺があるために、松尾村とよばれているが、もともとは西山村のことである。
讃岐国中の絵図(正保の国絵図?)が、生駒氏より当山へ寄附されているが、その絵図には西山村と記されている。
一、金昆羅というのは、権現の名号である。
一、山号は、象頭山   
一、寺号は、松尾寺
一、院号は、金光院    
一、坊号は、中の坊
社領330石は、国主や御領主から代々数百年前から度々に寄附されてきたものと言い伝えられていて、それが、都合全部で330石になる。当山は往古の火災で宝物・縁記等を焼失し、いまはないので、高松大守 松平讃岐守頼重公が縁記を寄附していただいたものがある。
①生駒家から寄贈された国絵図がある
②坊号が中の坊
③松平頼重より寄贈された金毘羅大権現の縁起はある。
天狗面2カラー
金毘羅に奉納された天狗面
歴代の金光院院主については、次のように記されています。
金光院主之事   227p
一、宥範上人 観応三千辰年七月朔日、遷化と云、
観応三年より元亀元年迄弐百十九年、此間院主代々不相知、
一、有珂(雅) 年号不知、此院主西長尾城主合戦之時分加勢有之、鵜足津細川へ討負出院之山、其時当山の宝物・縁記等取持、和泉国へ立退被申山、又堺へ被越候様にも申伝、
一、宥遍 一死亀元度午年十月十二日、遷化と云、
元亀元年より慶長五年迄三十一年、此院主権現之御廟を開拝見有之山、死骸箸洗に有之由申伝、
意訳変換しておくと   
一、宥範上人 観応三(1353)年7月朔日、遷化という。その後の観応三年より元亀元年までの219年の間の院主については分からない。

宥範は善通寺中興の名僧とされて、中讃地区では最も名声を得ていた高篠出身の僧侶です。長尾氏出身の宥雅が新たに松尾寺を創建する際に、その箔をつけるために宥範を創始者と「偽作」したと研究者は考えています。こうして金毘羅の創建を14世紀半ばまで遡らせようとします。しかし、その間の院主がいないので「(その後の)219年の間の院主については、分からない」ということになるようです。
  一、有珂(雅)  没年は年号は分からない。
この院主は西長尾城の合戦時のときに長尾氏を加勢し、敗北して鵜足津の細川氏を頼って当山を出た。その時に当山の宝物・縁記は全て持ち去り、その後、和泉国へ立退き、堺で亡命生活を送った。
宥雅が金毘羅神を作り出し、金比羅堂を創建したことは以前にお話ししました。つまり、金毘羅の創始者は宥雅です。しかし、宥雅は「当山の宝物・縁記は全て持ち去り、堺に亡命」したこと、そして、金光院院主と金比羅の相続権をめぐって控訴したことから金光院の歴代院主からは抹消された存在になっています。多聞院の残した古老伝が、宥雅の手がかりを与えてくれます。
  一、宥遍  元亀元年十月十二日、遷化と云、
元亀元(1570)年より慶長五(1600)年まで31年間に渡って院主を務めた。金毘羅大権現の御廟を開けてその姿を拝見しようとし、死骸が箸洗で見つかったと言い伝えられている院主である。
宥遍が云うには、我は住職として金毘維権現の尊体を拝見しておく必要があると云って、、御廟を開けて拝見したところ、御尊体は打あをのいて、斜眼(にらみ)つけてきた。それを見た宥遍は身毛も立ち、恐れおののいて寺に帰ってきた。そのことを弟子たちにも語り、兎角今夜中に、我体は無事ではありえないかもしれない、覚悟をしておくようにと申渡して、護摩壇を設営して修法に勤めた。そのまわりを囲んで塞ぎ、勤番の弟子たちが大勢詰めた。しかし、夜中に何方ともなくいなくなった。翌日になって山中を探していると、南の山箸洗という所に、その体が引き裂かれて松にかけられていた。いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。この剣は今は院内宝蔵に収められている。
  ここには金毘羅大権現の尊体を垣間見た宥遍が引き裂かれて松に吊されたという奇話が書かれています。もともと宥遍と云う院主は金毘羅にはいません。宥雅の存在を抹消したために、宥盛以前の金比羅の存在を説くために、何らかの院主を挿入する必要があり、創作されたようです。そこで語られる物語も奇譚的で、いかにも修験者たちが語りそうなものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗

 なお、この中で注目しておきたいのは、次の2点です。
①宥遍には多くの弟子がいて、護摩壇祈祷の際には宥遍を、勤番の弟子たちが大勢詰めたとあること。
②「いつも身につけている剣もその脇に落ちていた。」とあり、常に帯刀していたこと。
ここからも当時の金光院院主をとりまく世界が「修験者=天狗」集団であったことがうかがえます。これは金毘羅大権現の絵図に描かれている世界です。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現と天狗たち(修験者)
以上見てきたように多聞院に残された古老伝は、正式文書にはないリアルな話に満ちていて、私にとっては興味深い内容で一杯です。

最後に 金光院宥典が多聞院宥醒(片岡熊野助)を頼りとしていたことがうかがえる史料を見ておきましょう。古老伝旧記の多開院元祖宥醒法印(香川叢書史料編Ⅰ 240P)には次のように記されています。
万治年中病死已後、宥典法印御懇意之余り、法事等之義は、晩之法事は多聞院範清宅にて仕侯得は、朝之御法事は御寺にて有之、出家中其外座頭迄之布施等は、御寺より被造候事、

意訳変換しておくと
万治年中(1658~60)に多開院元祖宥醒の病死後、宥典法印は懇意であったので、宥醒の晩の法事は多聞院範清宅にて行い、朝の御法事は御寺(松尾寺?)にて行うようになった。僧侶やその他の座頭衆などの布施も、金光院が支払っていた。