買田池が姿を現す前の如意山と諏訪谷
丸亀平野の土器川と金倉川に挟まれた小高い丘陵地帯があります。これが如意山と呼ばれ古くから霊山として信仰の対象になっていたようです。それは、この山の谷間から銅鐸や銅剣が出ていることや、南側斜面の櫛梨側には式内社の櫛梨神社が鎮座していることからうかがえます。また、中世にはここに山城が築かれて、ここを占領した安芸毛利軍と讃岐国衆との間で、元吉合戦が戦われています。今回は、この如意山の東側に開いた諏訪谷に築かれた買田池について見ていくことにします。テキストは「田村吉了 買田池と周辺水利史 善通寺文化財報6号 昭和62年(1987)」です。研究者は、買田池を次の4段階に分類しています。
1、諏訪谷池時代と周辺。2、慶長17(1612)年 買田池誕生と二回の底掘。3、安政6年(1859)年 底掘と嵩上と万延元(1860)年修復と新揺。4、明治以後より満濃池土地改良区管理まで。
江戸時代になり世の中が落ち着くと、生駒藩は新田開発を奨励し、開発者に対して有利な条件を提示します。そのため周辺から有力者が入国して、今まで未開発で手の付けられていなかった土器川や金倉川の氾濫原を開発し、大きな田畑を所有するものが現れます。その例が以前にお話した多度津葛原の木谷家です。木谷家は、もともとは安芸の海賊衆村上氏に仕えていた一族です。それが秀吉の海賊禁止令を受けて、讃岐にやって来て金倉川沿いを開発する一方、豊かな財力で周辺の土地を集積していきます。そして、17世紀中頃には、庄屋になっています。このような有力者たちが「開発した土地は自分のもの」という生駒藩の政策に惹かれて、讃岐にやってきて帰農し、土地を集積し地主に成長して行ったようです。
また三野平野では、生駒藩に家老クラスで仕官した三野氏が大規模な新田開発を行い、それに刺激された高瀬の威徳院などの寺院も新田開発を積極的に進めたことは、以前にお話ししました。しかし、新田ができただけでは稲は育ちません。そこに農業用水がやって来なければ水田にはできないのです。そのためには潅漑施設として「ため池 + 灌漑用水路 + 河川コントロールのための治水事業」が必要になってきます。農業用水確保と水田開発はセットなのです。
ちなみにこの時期に満濃池は姿を消していました。12世紀末に決壊して後は、放置されて旧池跡は開発され池之内村ができていました。灌漑用水の確保は急務になります。新田開発が進んだエリアでは、その上流地域にため池の築造場所を物色するようになります。
木徳町の津島家文書には、次のように記されています。
「慶長十七(1612)生駒正俊の時 この池を拡げ築立て申候、八月二日鍬初めいたし十二月十五日出来中候、御普請奉行北川平衛門、御普請手代森山伊右衛門この両人始末相請け築立申候、この池はもと小さき池にて、諏訪谷池と申し居り候処仲郡東西木徳村、郡家村、梓原村、金蔵寺村、原田村、与北村々相謀り、田地ばかりを右七か村にて買取り、東北へ二町ばかり拡げ申候に付、買田池と名づけ申候」
意訳変換しておくと
「1612年藩主・生駒正俊の時代に、この池の拡張工事が行われた。8月2日に鍬入れが行われ、その年の12月15日に完成した。御普請奉行北川平衛門、御普請手代森山伊右衛門の両人が責任者であった。この池はもともとは、諏訪谷池と呼ばれる小さな池であった。それを仲郡の東西木徳村、郡家村、柞原村、金蔵寺村、原田村、与北村の村々が協議して、用地買収を行って東北へ二町ばかり拡張した。そこで買田池と名づけられた。」
①下流の東西木徳村、郡家村、柞原村、金蔵寺村、原田村、与北村の7ヶ村を灌漑エリアとすること。
②もともと諏訪谷池とよばれる小さな池があったのを、大規模拡張工事を行って大型化したこと
③拡張部の敷地が買収で確保されたので「買田池」と呼ばれるようになったこと
こうして真夏から4ヶ月で240間(432m)の築提が行われ、約二町歩の水面が広がる大池が姿を見せたのです。これは西嶋八兵衛の満濃池築造に先駆けること約20年前のことです。
しかし、この池を満水にするには如意山の降雨量では足りません。
約30年後に西嶋八兵衛によって築造された新満濃池の池掛かりに、買田池は組み込まれ「子池」に編入されていることが1641(寛永18)年の「満濃池之次第」からは分かります。
現在の買田池 中央奥が五岳、右奥が天霧山
1703(元禄16)の記録には、「池床底掘り上げる」と記されています。
更に28年後の1731享保16)年には、第二回の掘り上げを行ったとあります。注意したいのは「掘り上げ」としか書かれていませんが、「嵩上げ」を伴うものであったと研究者は推測します。 以前に多度津葛原の木谷家のところでお話したように、江戸時代前期のため池維持の工事は「底ざらえ」が中心で、費用のかかる嵩上げ工事はやっていません。嵩上げ工事が行われるようになるのは、18世紀になってからのようです。天保年間の調査記録では、次のように記されています。
堤高 三間半 (6,3m)堤長 二白四十間 (432m)堤巾 二間半 (4,5m)
買田池にとって、もうひとつのレベルアップは、元禄年間に高畑正勝が金倉川流水、次に享保年間に土器川の引水に成功したことです。 これについては、また別の機会にします。

櫛梨城跡からのぞむ買田池
ペリーがやって来る前年の 安政5(1853)年に、修築工事を終えたばかりの満濃池が決壊します。
新たな工法としてそれまでの木樋から石樋に換えたための工法ミスとされます。これに対して、多度津藩や丸亀藩からは早期の再建に対しては強い反発が出されて、再築工事着工の目処がつきません。そこで、髙松藩では満濃池に頼らない灌漑システムの構築に動き出します。それが買田池の大規模改修であったようです。
翌年の1854(安政6)年の秋に、農民から出された底堀上置普請に対する銀60貫目の貸付と、大工、人夫延53000人が計上プランを髙松藩は認めています。これまでにない大規模な改修工事であったことが分かります。この工事に当っても、新たに必要な30石あまりの田地を、七ケ村で買取っています。その結果、西側に内池(上池)と呼ばれる池が姿を見せ、二重池となります。満水の際は、中堤が水面下に沈んで、一面の大池になりますが、減水すると二つ並んだ池となります。
しかし、安政の底掘、嵩上工事は大型化に対して技術が伴わなかったようです。
6年後の1860(万延元)年5月15日の大雨で決漬し、下流田地が押し流されました。その後、復旧では三段櫓が導入され西部の京田、西村方面への配水の速さが向上します。こうして、現在の買田池の原型が成立します。
以上をまとめておきます。
①17世紀初頭の生駒藩による新田開発で生まれた水田の灌漑用水として買田池は作られた。
②その後、新たに築造された満濃池の水掛かりに入ることで用水を確保しようとした。
③それでも農業用水は不足し、水源確保のためにかずかすの施策が採られた。
④そのひとつが底浚いと堰堤の嵩上げであった。
⑤幕末に満濃池が決壊して、再築が進まない状況の中で、髙松藩は買田池の大規模増築を実施する
⑥しかし、これは工事に問題があり短期間で決壊した。現在の買田池の原型はこのときの復旧野中から生まれた。
⑥しかし、これは工事に問題があり短期間で決壊した。現在の買田池の原型はこのときの復旧野中から生まれた。
参考文献 田村吉了 買田池と周辺水利史 善通寺文化財報6号 昭和62年(1987)









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