原付バイクで新猪ノ鼻トンネルを抜けての阿波のソラの集落通いを再開しています。今回は三好市井川町の井内エリアの寺社や民家を眺めての報告です。辻から井内川沿いの県道140線を快適に南下していきます。
川の中に大きな石が立っています。グーグルには「剣山立石大権現」でマーキングされています。
①井内は剣山信仰の拠点で、御神体を笈(おい)に納めて背負い、ホラ貝を吹き、手に錫杖を持ち お経と真言を唱えて修行する修験者(山伏)の姿があちらこちらで見られた。その修験者の道場跡も残っている。
②この剣山立石大権現の由来については、次のように伝わっている。
山伏が夜の行を終えてここまで還って来ると、狸に化かされて家にたどり着けず、果てには身ぐるみはがされることもあった。そこで山伏は本尊の権現を笈から出して、この石の上に祀った。するとたちまち被害がなくなった。こうして、この石は豪雨災害などからこの地を守る神として信仰されるようになり「立石剣山大権現」と呼ばれるようになった。
③1970年頃までは、護摩焚きが行われ「五穀豊穣」「疫病退散」などが祈願されていた。県道完成後、交通通量の増大でそれも出来なくなり、山伏による祈祷となっている。
井内の家並みを越えてさらに上流に進むと、川の向岸に地福寺が見てきます。
この看板には次のようなことが記されています。
①大日如来坐像が本尊で、室町時代までは日の丸山中腹の坊の久保(窪)にあったこと。②南北朝時代の大般若経があること③平家伝説や南北朝時代に新田義治が滞留した話が伝わっていること。④地福寺の住職が剣山見残しの円福寺の住職を兼帯していること。
この寺院は、対岸にある旧郷社の馬岡新田神社の神宮寺だったようです。
②のように南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。
②のように南北朝時代の大般若経があるということは、「般若の嵐」などの神仏混淆の宗教活動が行われ、この寺が郷社としての機能を果たしていたことがうかがえます。地福寺の住職が別当として、馬岡新田神社の管理運営を行うなど、井内地区の宗教センターとして機能していたことを押さえておきます。
地福寺
町史によると、もともとは日の丸山の中腹の坊の久保にあったのが、18世紀前期か中期ごろに現在地に移ったと記されています。現在の境内は山すその高台にあり、谷沿いの車道からは見上げる格好になり山門と鐘楼が見えるだけです。
地福寺の本堂と鐘楼
石段を登り山門(昭和44(1969)年)をくぐると、正面に本堂、右側に鐘楼があります。鐘楼の前の岩壁には不動明王が祀られ、野外の護摩祭壇もあります。ここが古くからの修験道の拠点であり「山伏寺」であったことがうかがえます。 本堂は文政年間(1818~30)の建築のようですが、明治40年(1907)に茅から瓦に、さらに昭和54年(1979)には銅板に葺き替えられています。また度重なる増築で、当時の原型はありません。鐘楼は総欅造りで、入母屋造銅板葺の四脚鐘台です。組物は出組で中備を詰組とします。扇垂木・板支輪・肘木形状などに禅宗様がみられ、全体に禅宗様の色濃い鐘楼と研究者は評します。
③の地福寺と西祖谷との関係を見ておきましょう。
この寺の前に架かる橋のたもとには、ここが祖谷古道のスタート地点であることを示す道標が建っています。地福寺のある井内と市西祖谷山村は、かつては「旧祖谷街道(祖谷古道)で結ばれていました。地福寺は、井内だけでなく祖谷の有力者である「祖谷十三名」を檀家に持ち。祖谷とも深いつながりがありました。地福寺は祖谷にも多くの檀家を持っていたようです。
水の口峠と祖谷古道
井内と西祖谷を結ぶ難所が水ノ口峠(1116m)でした。
地福寺からこの峠には2つの道がありました。一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていきます。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、戦後しばらくは、このルートを通じて交流があったようです。
小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。
地福寺からこの峠には2つの道がありました。一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていきます。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、戦後しばらくは、このルートを通じて交流があったようです。
小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。
水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍やかいを負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」
もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、祖谷へ讃岐の米や塩が運ばれたり、また祖谷の煙草の搬出路として重要な路線で、多くの人々が行き来したようです。 この峠のすぐしたには豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)まで、凍り豆腐の製造場があったようです。
「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」
と知行の老人は懐古しています。
水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また近世末から明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。しかし、1977年に現在の小祖谷に通ずる林道が開通すると、利用されることはなくなります。しかし、杉林の中に道は、今も残っています。
この峠には、「文化元年三月廿一日 地福寺 朝念法印」の銘のある弘法大師の石像が祀られています。朝念というのは、地福寺の第6代住職になるようです。朝念が、水ノ口峠に石仏を立てたことからも、この峠の重要さがうかがえます。
剣山円福寺別院の看板が掲げられている
④の地福寺と剣山の円福寺について、見ていくことにします。
剣山の宗教的な開山は、江戸後期のことで、それまでは人が参拝する山ではなく、修験者が修行を行う山でもなかったことは以前にお話ししました。剣山の開山は、江戸後期に木屋平の龍光寺が始めた新たなプロジェクトでした。それは、先達たちが信者を木屋平に連れてきて、富士の宮を拠点に行場廻りのプチ修行を行わせ、ご来光を山頂で拝んで帰山するというものでした。これが大人気を呼び、先達にたちに連れられて多くの信者たちが剣山を目指すようになります。
藤の池本坊
龍光寺は、剣山の八合目の藤の池に「藤の池本坊」を作ります。登山客が頂上の剱祠を目指すためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を造営し、寺が別当となります。この藤(富士)の池は、いわば「頂上へのベースーキャンプ」であり、頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、多くの参拝客を集めることになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
このような動きを見逃さずに、追随したのが地福寺です。
地福寺は先ほど見たように祖谷地方に多くの信者を持ち、剣山西斜面の見ノ越側に広大な社領を持っていました。そこで、地福寺は江戸時代末に、見の越に新たに剣山円福寺を建立し、同寺が別当となる剣神社を創建します。こうして木屋平と井内から剣山へのふたつのルートが開かれ、剣山への登山口として発展していくことになります。
それでは、地福寺から剣山へのルートは、どうなっていたのでしょうか?
水口峠の近く日ノ丸山があります。この山と城ノ丸の間の鞍部にあるのが日の丸峠です。井川町桜と東祖谷山村の深渕を結び、落合峠を経て祖谷に入る街道がこの峠を抜けていました。
見残しにある円福寺の住職を、地福寺の住職が兼任していたことは述べました。地福寺の住職の宮内義典氏は、小学校の時に祖父に連れられて、この峠を越えて円福寺へ行ったことがあると語っています。つまり、祖谷側の剣山参拝ルートのスタート地点は、井内の地福寺にあったことになります。
日ノ丸山の中腹に「坊の久保」という場所があります。
ここに地福寺の前身「持福寺」があったといわれます。平家伝説では、文治元年(1185)、屋島の戦いに敗れた平家は、平国盛率いる一行が讃岐山脈を越えて井内谷に入り、持福寺に逗留したとされます。
ここに地福寺の前身「持福寺」があったといわれます。平家伝説では、文治元年(1185)、屋島の戦いに敗れた平家は、平国盛率いる一行が讃岐山脈を越えて井内谷に入り、持福寺に逗留したとされます。
以上をまとめておきます
①井川町井内地区には、修験者の痕跡が色濃く残る
②多くの修験者を集めたのは地福寺の存在である。
③地福寺は、神仏混淆の中世においては郷社の別当寺として、井内だけでなく祖谷の宗教センターの役割を果たしていた。
④そのため地福寺は、祖谷においても有力者の檀家を数多く持ち、剣山西域で広大な寺領を持つに至った。
⑤地福寺と西祖谷は、水の口峠を経て結ばれており、これが祖谷古道であった。
⑥地福寺は剣山が信仰の山として人気が高まると、見残しに円福寺と劔神社を創建し、剣山参拝の拠点とした。
⑦そのため祖谷側から剣山を目指す信者たちは、井内の地福寺に集まり祖谷古道をたどるようになった。
参考文献 社寺建築班(郷土建築研究会) 井川町の社寺建築 阿波学会研究紀要44号
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