戦国末期に建立された金比羅堂が別当を務める金光院の歴代院主の手腕によって、他の諸堂を圧倒する権勢を誇るようになります。17世紀半ばには、幕府から金光院に朱印状が交付されたことで「お山の殿様」としての地位を確立したことを前回は見てきました。
今回はそれから20年後に起こった事件を見ていくことにします。内容は、追い詰められた三十番社が金光院を幕府に訴えた事件です。結果は、訴えた社人が獄門貼付の厳罰に処せらことで幕を閉じます。
内記太夫の控訴までの足取り
内記太夫の控訴までの足取り
時代は移り世代がひとつ新しくなります。三十番社の相続をめぐって弟・権太夫と争った松太夫の長男徳は幼少の時から金光院主宥睨にかわいがられ、その口添えで京都の吉田家から装束を授けられ、内記太夫の名を与えられます。内記太夫は、父の松太夫が隠居した後を受けて三十番神の神役を取り仕切ることとなります。しかし、吉田家神道の影響をうけてでしょうか、次第にかつて父が争った叔父の権太夫に近づき、金光院の僧侶の横暴をひそかに幕府に訴えようと考えるようになります。
内記太夫から相談を受け行動を共にし、後に追放の刑に処せられた与北村の瀬兵衛の口述書が残っています。それによると
1670(寛文十)年6月23日、内記太夫は伊勢参宮を名目にして丸亀を船出し、先発していた権太夫・理兵衛の二人と、大坂平野町徳左衛門方で落ち合います。
27日には与北村の瀬兵衛が到着したので4人で連れ立って堺筋の輿左衛門という分限者を訪ねます。輿左衛門は大坂では指折りの分限者で、江戸にも手筋(于づる)の多い人であったといいます。瀬兵衛は、権太夫に依頼された通りに金毘羅さんの事情を述べ、「今度の訴訟は必ず理運が開けるから……」と、資金的な援助を依頼します。
7月1日、宿の主人徳左衛門の紹介で、京都の人で神道に明るい太郎左衛門を宿に招いて事情を説明し、訴訟の見込みについて尋ねています。太郎左衛門は、次のように応えます。
「金毘羅の義は、院号や山号もあるので神とも仏とも申し難い。そのうえ出家といっても代々支配して来ており、御朱印なども頂戴しているので、訴訟しても勝目は少ないと思う。しかし権現の本地が何であるか調べてみよう」
この悲観的な意見を聞いて瀬兵衛は訴訟を諦め、一行と別れて帰国したと後に口述しています。
7月17日 内記太夫と権太夫は、堺筋の与左衛門と共に京都に上り、神祇宗家の吉田家に申し出ます。二人は吉田家の指図を受けて訴状をしたため、京都所司代に差し出します。しかし、「この事件はここで解決する問題でないから、江戸へ参るように」と突き返されます。そこで二人は江戸に出て寺社奉行小笠原山城守へ訴状を提出したのです。これが寛文10年8月8日のことでした。
意訳した訴状の内容を見ながら、背景などを補足していきます。
私どもは讃岐金比羅三十番神社の社人(=神人=下級神職)です。宮地の中に金光院という出家僧侶がいます。この寺は先年までは下の坊を呼ばれた滅罪寺(=金光院)です。そのため今でも金光院の坊主達は扶持切米を潰し、死人の取扱を行っています。宮地の中に観音堂・薬師堂・釈迦堂があります。これらは金光院が管理していますが、土佐の長宗我部元親の侵攻のの折に、よしみを通じて私どもより奪っていったものです。そして賽銭などは金光院が管理するようになりました。賽銭の外にも神楽銭がありますが、これについては私市良太夫が管理していましたが、開帳と称して、私たちが作成した御幣を取り出し、信者に授け、神楽銭までもを理不尽に奪い取り最近は、袖神楽銭のみを与えられている始末です。金光院に対して申したいことは、出家が神楽を管轄するという珍奇なことを止め、前々通りに私どもに管理運営を任せて欲しいのです。また、皆のものが納得しない所へ神楽場を建て、袖神楽のみを勤めておりますが、その上に最近は、権現の後方の遠いところへ神楽場を移して、参拝するものも分からない所なので、訪れる人も少なく私どもは飢え死に及ぶような有様です。しかし、両者の神事については今まで通りきちんと勤めております。
①金光院は下の坊と呼ばれる菩提寺であったこと。
②宮地の中には観音堂・薬師堂・釈迦堂があるが、もともとは三十番社が管理していたこと。
③それを、土佐軍の占領時に、長宗我部元親が土佐出身の宥厳を金光院住職に据えてこれらを三十番社から奪っていった。そして今では、これらの賽銭は金光院が管理するようになってしまった。
この訴状の中には、三十番社の神職からみた戦国時代末期からの金毘羅山の様子が記されています。それは残された別の史料から推察してきたを裏付ける内容です。つまり、
①からはもともとは金光院は「下の坊」であり「死者のおもむく」広谷墓地の慰霊の寺院であったこと、その位置も観音堂や三十番社のある現金刀比羅神社本殿の位置よりも下にあったらしいこと。
②③からは、諸堂が並立していたがその管理権は、長宗我部元親の占領以前には三十番社にあったということ。長宗我部元親が従軍していた土佐出身の修験僧宥厳を金光院住職に据えて、保護したのを背景に、金光院が山内での権勢を強めたということを裏付けます。訴状は具体的に、金光院が三十番社から奪ったと主張しています。
「町史こんぴら」などには「天正末期に金毘羅山のお山で大変革があったこと。それは金比羅堂の出現で、背後には別当である金光院の台頭がある」と記されていますが、この訴状は、より具体的にそれを裏付ける内容です。「長宗我部占領下の大改革」を、三十番社の立場から見ればこうなるのかもしれません。
更に訴状は、神楽銭の管理権までを金光院に奪われたことや神楽場の設置場所についての不満を述べた上に「僧侶が神楽を管轄するという奇妙なことは止めさせて欲しい」と金光院の横暴を訴え自分たち神職の経済的な苦境の救済を求めています。
生駒家からの寄進が毎年十月十日の祭礼に使われていないことについて
毎年の10月10日・11日の神事について、小松庄四條村の百姓上頭と下頭に、申し分かちて担当してきました。この神事祭礼の経費については生駒一正様より80石の社領の寄進を受け、それを上当・下当の経費に充てて神事を勤めてきました。その後、250石の社領寄進を受け、併せて330石の寄進を受けています。ところが、これらを神事に使わないため4ヶ村の百姓達は迷惑を受けておりましたので申し出たところ、金光院は高松に参り生駒藩主のお袋様へ申し上げ、定米50石をいただき4つの村に四分割して貸し与え、その利を当頭の経費にしています。9月から11月までの祭事期間中の賄い額は大きく当人は殊の外迷惑を被っています。古来よりの神事と思い勤めてはおりますが、事によっては神事から退かせていただくことも考えざる得ません。身分の奢りを究め、何軒もの下屋敷を建て、一門には商売をさせ質物を取るありさまです。
10月10日の大祭の経費に関わることが述べられていますが、注目すべき点は、
初期の寄進である生駒一正からの寄進80石は、大祭の経費に充てていたこと、ところがその後の250石については金光院が独占し、大祭経費に使用していないと訴えます。ここからは、三十番社の神官達が
初期の寄進である生駒一正からの寄進80石は、大祭の経費に充てていたこと、ところがその後の250石については金光院が独占し、大祭経費に使用していないと訴えます。ここからは、三十番社の神官達が
「生駒家の寄進は、金毘羅山の祭事のために寄進されたもので、金光院単独に贈られた物ではない」
という認識を持っていたことが分かります。そして、初期に寄進された80石に関しては、実際に祭事に使われていたようです。
その後に、申し立てたところ
「金光院は高松に参り生駒藩主のお袋様へ申し上げ、定米50石をいただき4つの村に四分割して貸し与え、その利を当頭の経費にしています」
とありますが、「生駒藩のお袋様」とは生駒一正の側室オナツのことでしょう。オナツは金光院の宥厳と同じく財田の山下家出身で、宥厳とは甥と叔母の関係にありました。オナツが産んだ左門は、この訴状では「生駒藩の殿様」となっていますがこれは誤りで、殿様の異母弟になります。しかし、当時の金毘羅山の山内では「生駒藩のお袋様」と呼ばれていたようで興味深いところです。ここからも「宥厳ーオナツー生駒家」の強いつながりと金光院の権勢がうかがえます。
浦々の漁師たちは願をかける際に、肴を両社へ供えることが恒例となっています。これについても、私どもへの御供えを妨げ、寺に取り入れる始末。清僧であれば肴を扱うことは憚られるはずです。
ここからは、この時期から金毘羅山の諸堂へ漁師達の参拝があったことが分かります。同時に「肴を両社へ供えることが恒例」となっていることから金比羅堂と三十番社が同等であったことがうかがえます。
三十番神権現大行事三社の正月の松注連飾りについて
三十番神権現大行事・三社の正月のお注連はり(しめはり)は、私どもが長年担当して参りまいた。しかし、観音堂・釈迦堂・薬師堂は金光院より沙汰があり、ここ十数年は右三社の注連飾りは金光院が行うことになりました。その際、理不尽にも証文を出させたのに、書物は渡されていません。まさにやみうち的な仕打ちです。金光院の威勢を恐れ仕方なく押印したした次第です。
最初の表題に注目したいのですが「三十番神権現大行事」であって「金毘羅大権現」大行事ではありません。ここからも、もともとは三十番社が金毘羅山の諸堂管理権を握っていたことがうかがえます。そして金光院の権勢の高まりと共に、証文を書かせて管理権を奪い取っていった経過が記されます。
以前は年に三度の市の際に、私どもは神前に上がる習わしでしたが、5年ほど前から金光院の許可を得た後に上がるようにと新法を申しつけられ迷惑を被っています。先年の閏十月に参拝者があったので神楽所へ参り、袖神楽を行い参拝者から神楽銭を少々いただきました。ところが理不尽にもこれをこちらに渡しません。その上、年に2・3度の市以外は神前に上がらせないと申しつけられ、袖神楽銭も金光院が取ることになってしまいました。
この時期に金光院により「新法」が作成され、山内に新しいルールが施行されていった分かります。この提訴から約20年前に金光院は、幕府から「金毘羅祭祀田三百三十石」の朱印状が与えられました。これは金光院を封建君主とする全山支配する権力が確立されたことを意味します。これを受けて、金光院を「主」、三十番社他の諸門を「従」とする主従体制の法的整備を進めます。それが「新法のおしつけ」という形で現れているようです。
戦国時代末には三十番社と金比羅堂の「対等」な関係だったのかもしれません。しかし、朱印地のお墨付きをもらった金光院は「主従関係」に法的面でも、儀式的面でも示せる体制づくりを進めます。つまりこの時点で、三十番社は金比羅堂(金毘羅大権現)に奉仕する立場になっていたのです。しかし、訴状からは三十番社の神人たちにそのような「大局観」は読み取れません。「金光院の僧侶は、三十番社の既得権利を奪う無法者」というのが訴状を貫く主張です。
土佐国の浪人で山伏を多門院と名付けて重用し、今までの例にない土佐での金光院勧進を行わせています。このような事に関しても本来は私どもが行うことであるはずなのに、留めおかれて迷惑を受けています。
多門院の重用とその布教活動が批判されています。
少し長くなりますが多門院について、触れておきたいと思います。
少し長くなりますが多門院について、触れておきたいと思います。
多門院というのは、土佐出身の修験僧宥惺(幼名「熊の助」)にはじまる院坊です。宥惺の父は高知県高岡郡南片岡村の片岡八兵衛尚親です。片岡家は長宗我部家と婚姻関係にある有力家で、後には山内家とも懇意な関係を継続します。
父尚親は、島津討伐を命じられた長宗我部元親に従軍して九州に渡り、「四国武将の墓場」となった豊後・戸次川の戦いで死亡します。父を亡くした片岡熊の助は、土佐出身の宥厳の後を継いで金光院四代となっていた宥盛を頼り、金毘羅山にやって来てその弟子になり宥惺を名乗り、修験道の修行に励んだようです。この時に、宥惺は宥盛のから多聞天像を与えられたので院号は「多聞天」と呼ばれるようになります。
琴平神宮の正史の中にも「慶長11年(1606)片岡民部(熊の助)、多聞院を名のる」
と記されています。
ところが、慶長18(1613)年に宥盛が死亡し、山下家出身の宥睨が院主の座につくと、宥惺は武士ににもどり、金毘羅山を飛び出していきます。彼が向かったのは大阪城でした
彼は長宗我部家に恩義を感じていて、元親の子が大坂城に入るとそこに馳せ参じたのです。そして、「冬・夏の陣」で大暴れします。元和元年(1615)に、大坂方が敗れると宥惺は金毘羅に逃げ帰ってきます。彼は大坂城の戦いでは目立っていたらしく、徳川方の追求の手は厳しく金毘羅山まで伸びてきました。そこで、修験者に姿を変えて土佐まで逃れ、山中や海岸での修行生活を続けます。その結果、宥惺は修験者のリーダーとしても名声を得るようになっていたようです。
その後16年後の寛永八年(1631)に、宥睨は宥惺を金毘羅山に呼び戻します。
宥睨もかつては、宥盛に仕えていましたので、宥惺とは同じ門下の弟子として周知の間柄だったと私は思います。当時の宥睨は、金光院院主として生駒家の信頼を得て寄進地を増やし、門前町の形成に着手していた時代でした。金毘羅大権現の発展に伴う諸問題の対応に、自らの右腕を期待して宥惺を土佐からリクルートさせたのだと思います。それを示すかのように宥睨は金光院の門外で小坂に広大な宅地を与えられます。これが新たに興された多門院です。
宥惺は「金刀比羅を修験道の聖地とする」という戦略を持っていたようで、そのために京都の醍醐三宝院の末となる一方、度々大峰山へ行き、行者の修行を重ね人的なネットワークを形成していきます。こうして「修験で立つ多門院」として立場を強化します。そして当山派修験道と金比羅堂の別当を兼務していた金光院に代わって「山伏の義は多門院へ御譲りにあいなり」と、金毘羅山における修験道は多門院が代行していると主張するようになります。それを裏付けるように多門院の記録には、修験道関係者の記述が詳細に残っています。
訴状の「土佐での金光院勧進」という記述からは、多門院が土佐で「布教活動」を行い成果を挙げている様子がうかがえます。それは宥惺の土佐での「逃亡中の修験生活」の経験を活かした「布教活動」だったのでしょう。その結果、山内家の藩主にお目通りできる修験者は「多門院」のみと言われるようにまでになります。
また、讃岐山脈を猪ノ鼻峠で越えた箸蔵寺は阿波修験道の聖地でした。これを最初に、金比羅大権現にとりついだのも多門院であったと言われます。箸蔵寺周辺には多門院の弟子たちが多数存在していたことが箸蔵寺側の史料からも分かります。このようなつながりを背景に、箸蔵寺は「金毘羅大権現の奥社」を称するようになっていくのではと私は考えています。
また、「1757(宝暦7)年3月11日 但州(たじま)の山伏20人と俗人が参拝。「堂床」の回廊で初穂を渡す」
など(修験道山伏関係のとの記録が数多く残されていることから、多門院が金毘羅大権現を天狗信仰の聖地として「山伏の参拝」を進める拠点機関としての役割を果たしていたことが分かります。
確認しておきたいのは、多門院が「土佐から来たよそ者で、もともとは浪人の新参者」だったということです。「新参者が山内で大きな顔をしている」ことへの旧勢力を代表する三十番社の反発がこの条項からは見て取れます。
金毘羅山の神域の社叢については、落葉一枚でも取れば悪事のことと申しつけながら、金光院一門に対しては薪材木などを自由に伐らせ、その他にも取り巻きのお気に入り集についても同様のありさまです。
ここには、神域の社叢管理についての不満が述べられています。かつては、社叢に入って落葉や薪などを取ることが出来たのが「新法」では「悪事」であるとされるようになったようです。これも、当時の丸亀藩や高松藩が進める森林の管理強化という流れと期を同じくする動きのようにみえます。
金光院院主の山下家世襲と横暴に対する批判
十数年前に真光院という下坊主に社領の内の16石を分与しました。我が友共神職は日に日に餓死に及んでいる有様なのに、身内に関しては我が儘次第です。三十番社より二丁半ほど下に金光院の墓所を設けていますが、これは参拝者の通り道に当たります。権現への社参の際の障害にもなります。取り除きどことなりへ移動させるように申しつけくだされば有り難く存じます。
生駒家の殿様の側室となったオナツの甥で宥睨が金光院に院主になって以後は、山下家が世襲化する時代が続きます。その結果、山下家出身者やその死者への厚遇が批判の対象となります。真光院を新設し分家のように山下家の関係者に継がせたこと、さらに金光院=山下家の墓所を三十番社のすぐ下の参拝者の道筋に設けられていたことが分かります。
以上 金光院が金比羅町内において我儘の具体的な実例を書き上げました。私ども先祖より代々、今に到るまで神事祭礼を勤めて参りました。古くは社壇の中へ僧侶が出入りすることもありませんでした。ところが金光院が年々威勢を増すにつれて私どもをないがしろにし圧迫するという浅ましい姿になりました。このことは数年来訴え出てきました。しかし、金光院の威勢に恐れるとともに、道中路銀等にも事欠く次第。ただ打ち過ぎていくばかりで家中は餓死に到るような有様で、乞食のような躰でこの度、参りました。 御慈悲の上、金光院を召し出して、今までの先例通りに行うように申しつけいただければ有り難く存じます。寛文十年戌八月八日 讃岐国金毘羅社人 権太夫判内記 判御奉行様
以上のように、権勢を増す金光院の僧侶に対する三十番社の社人の訴えが綴られています。ここには追い詰められた日々の生活にも困窮した神人の様子が見えます。こうした訴えに対しては、従来は幕府は介入することを避けて、その国の藩主に仲裁させる方法をとっていました。しかし、内記と権太夫の訴状には、京都の吉田家の介添えがあったからでしょうか、寺社奉行は直ちにこれを受理してしまいます。そして金光院に対して、返答書を提出して翌月中に江戸に参府するように通達させたのです。
訴えられた金光院の対応は?
金光院は、九月に入って返答書を幕府に提出します。その草案の写しを見ると、極めて調子の高いトーンで次のように反論します。
「金毘羅大権現が主格であり、それに奉仕するのは金光院であって、訴人たちは金光院の家来であり神楽役人で「主従」の「従」に過ぎない」
と「主従関係」にあることを強調しています。
そして、江戸に反論審問のために出府することになります。そのメンバーは、金光院からは、隠居の宥典が山の事情に通じた真光院を従えて出府、高松藩からは朱印状を幕府から受けた時に尽力した寺社奉行間宮九郎左衛門が同行します。金光院の一行は高松藩の関船を貸し与えられて、瀬戸内海を大坂に渡り東海道を上り21日に江戸へ到着します。宥典は老齢の身での長旅で、持病が再発し、対決の延期を願い出て療養に努めるます。高松藩ではこの間を利用して、両寺社奉行への情報収集と工作を盛んに行っています。
金光院と権太夫の対決と裁きの結果は?
10月9日、寺社奉行月番の小笠原山城守の役宅で、金光院と内記太夫の双方を呼び出して、両者の主張が聞き取られます。高松藩の間宮九郎左衛門が審理に先立って「金光院が所持している御朱印状と、両人の訴状の内容が相違しているから、その点を引き合わせてもらいたい」と述べ、朱印状を与えられた時の事情を詳細に説明が行われます。それに続いて双方の問答が行われ証文が提出されますが、対決は単なる形式に過ぎなかったようです。
寺社奉行は即座にその場で、
「内記太夫・権太夫 家来に紛れ無き証文これ有る上は、金光院家来として主人へ逆意を企てた不届者である。両人の者共は、金光院に下しおかれ 何分にも金光院心次第に仕置申し付けよ」
と申し渡されます。つまり
「内記太夫・権太夫は金光院の家来となることに同意した証文に押印している。家来が主人を訴えることは逆意でありゆるされない」
判決後の二人を待っていたものは?
内記太夫と権太夫は、「逆賊」としてその場で搦め取られ、高松藩邸の牢舎につながれる身となります。勝利した金光院の一行は、10月15日に江戸を出発し、囚人となった二人を連れて旅を続け11月2日に高松に還ってきます。
10月9日の審判が下ってからの対応は、幕府の寺社奉行小笠原山城守と、高松藩主松平頼重・金光院別当宥栄・隠居宥典の間で細密な工作が行われたことが、三者間を往復した文書から細部まで分かります。先ず松平頼重が武家の掟に照らして、内記太夫と権太夫の両人は傑獄門の極刑、子供は獄門、その他の者は斬首という方針を決定しています。これを寺社奉行の小笠原山城守が内諾します。一方、金光院別当は一党の減刑を松平頼重公に願い出ます。頼重がこれを容れて罪一等を減じ、小笠原山城守に事後承諾を求めるということシナリオが事前に決められ、その筋書き通りに運ばれたことが分かります。
事件によって引き起こされた金毘羅の山内の動揺をどう収めるか?
金毘羅山の山内では神人側の意見に賛成する人もあり、これまでの金光院の横暴に対してこれを憎む人たちもいたようです。特に僧侶が家来の神人を処罰することについては、宗教的に疑義を抱く人々もありました。そのような動揺を抑えるために金光院と高松藩は処罰に先立って、各寺門を始め、寺下の指導者五十数名の連署連判の誓書を提出させ、忠誠を誓わせています。この誓約書の文面は、金光院の幕府への返答書が正しいことを確認させ、内記太夫と権太夫は逆意を企てたものであることを承認し、以後も金光院に忠誠を尽くすことを誓ったものでした。
こうして、11月11日を期して処刑を行うことになります。
高松の獄舎を出た一行は、足軽20人毎に前後を警固され、円座・滝宮を経て金毘羅へ護送されます。一夜を明かした後、翌11日の早朝に金毘羅町内を引き回しの上、金毘羅領と高松領の境に近い狹間村の祓川の松林の中で処刑が行われました。
内記太夫と権太夫は獄門、内記太夫の子二人と権太夫の子三人、権太夫の弟吉左衛門とその子二人、金光院下僕の坂の下六右衛門の九人が斬罪となりました。「反逆の罪は九族に及ぶ」のが封建の掟ですが、子供の中には五歳と七歳、それに乳飲み子も含まれていました。いたいけな子供が親の罪に連座してその細い首を打ち落とされ、枯草が血に染めたのです。金毘羅神も、金毘羅大権現も、釈迦も、不動明王も、十一面観音も、この惨劇を金毘羅山の山上からじっと見下ろしていたのです。
これは金毘羅山内における権力者が誰であるのかを、劇的に示すことになります。金光院に刃向かう者は「獄門打首」になるということを天下に知らしめたのです。
金光院の権威を高める「ショック療法」としては、これ以上のものはない劇的なものでした。
しかし、強い処置には副作用が伴います。
処罰された内記太夫と権太夫についての伝承がそれを物語ります。
処罰された内記太夫と権太夫についての伝承がそれを物語ります。
内記太夫と権太夫の首は、獄門台に曝されたが、両眼を見開いてその怨みを訴え、長くその眼を閉じなかったと伝えらます。
やがて「祓川には鬼火がともる。松太・権太の眼が光る」という里謡が歌われるようになります。
刑場はいつか権太原と呼ばれるようになり「高松藩士が権太原を通ると、馬が突然狂い出して大怪我をした」という噂が広がります。やがて高松からの金毘羅参詣の道は、権太原を避けてその南を通るようになります。これは菅原道実や崇徳上皇の「悪霊伝説」に見られるパターンと同じです。しかし、内記太夫と権太夫が神として祀られることはありませんでした。
刑場はいつか権太原と呼ばれるようになり「高松藩士が権太原を通ると、馬が突然狂い出して大怪我をした」という噂が広がります。やがて高松からの金毘羅参詣の道は、権太原を避けてその南を通るようになります。これは菅原道実や崇徳上皇の「悪霊伝説」に見られるパターンと同じです。しかし、内記太夫と権太夫が神として祀られることはありませんでした。
しかし、内記太夫と権太夫が社人であった大井八幡神社の社人職を嗣いだ金関氏は、ひそかに二人の霊を祀っていたとも伝えられます。
社人がいなくなった金毘羅さんでは、五人百姓が神役を一時的に代行するようになります。
翌年六月には、その打開のために、白鳥神社の神官猪熊千倉に送って援助を依頼します。そして金毘羅の山下家から二人の子供が選ばれ、白鳥神社に送られて教導を受けさせています。
その際にも、宥典は今後の神人の統制のことを心配して、神役としての神前の手ほどきを受けるだけにとどめ、神道の教えを受けることを固く断るように指示しています。以後、金光院は京都の吉田家と絶縁して、神仏混淆、仏道優先の金毘羅大権現として発展を続けることになります。
高松藩の寺社奉行間宮九郎左衛門は、この事件の経過を日記風に書きとめ、これの副本を作り、関係者の間で往復した文書の副本をも添えて、後の記録として金光院に贈ります。そのために多くの人が書き写し、数多く残る結果となりました。
内記太夫と権太夫の墓は
高松行の電車が、琴平を出て土器川(祓川)の鉄橋を渡りきった所の左手に墓地がります。その墓地の南の端の線路に一番近い所に、石殿造りの小さい墓が二つある。1㍍余りの石組みの台の上に置かれているのが内記太夫と権太夫の墓です。その墓の前の石の献灯には「松田宮・文久三(1863)年十一月吉祥日」と刻まれています。事件から二百年後の幕末になって建てられたものです。
その墓のそばには、高さ1㍍あまりの石組みの台の上に置かれた全長二㍍余りの立派な宝篋印塔が立っています。この塔は、事件から百年以上経った文化文政ごろ、大金を拠出できる立場にあった人が匿名で建立したと言われます。長い相輪、馬耳風の尾根の線の優美さ、小さい塔身、見事な彫りを見せた請花と反花、人きい塔身の周囲には型通りに六四字の掲が刻まれしその塔身を受ける請花(うけばな)と反花(かえりばな)が美しい塔です。
祓川の墓地の説明板には次のように記されています
慶長年間、王尾市良太夫は大井八幡宮と金毘羅三十番神の兼帯社人であった。
その長男を松太夫といった。寛文十年(1670)八月松太夫の子内記と松太夫の弟権太夫の両名は、金毘羅大権現の経営に関して金光院を相手として訴えを起こした。幕府の寺社奉行はこれを受理し、その旨を高松藩に伝えた。高松藩は金光院に対して訴人と和解することをすすめたが、金光院はこれに応じなかった。幕府は双方の出府を求め決断所において審判を行った。封建制下の常として内記と権太夫は敗訴となり、寛文十一年(1671)十一月十一日、その一族は高松藩によって、祓川の刑場で処刑された。その後、金光院においては不幸が相次いで起こりこれを内記等の怨霊のたたりとし、約二百年後の文久三年(1863)十一月処刑地の権太原に慰霊碑を建立して供養した。
とあります。
これを読むと、幕末に建てられた慰霊碑は金光院によって建てられたとありますが、宝篋印塔については何もふれていません。しかし、百年・二百年後の人たちにも、この事件は語り継がれていたことが分かります。
「びっくりでこ」は獄門頸?
この後、金毘羅さんのお土産店では「獄門人形」という小さい粘土作りの人形の首が土産物として売られるようになります。この人形は赤・白の一対で、短い棒の先に取り付けられ、白首の方を松太夫、赤首の方を権太夫と呼び、共に両眼を見開いて断末魔の苦しみを現していると言われました。そのころの金毘羅さんの土産物といえば粘土の神鈴と、大門の内側で五人百姓の売っていた糖飴でした。そこに登場した「獄門人形」は「びっくりでこ、こんぴらめかやり」とも呼ばれて参詣客に喜ばれ、人形にまつわる悲話と共に広く各地へ伝えられたようです。
また、この人形は金毘羅大芝居に出演した上方の千両役者の立役や悪役の隈取(くまどり=顔の彩色)のきいた顔を現したのが「びっくりでこ」であるとも伝えられます。獄門首か、役者の似顔か、いずれにしても金毘羅商人のたくましい商魂の産物といえるものかもしれません。
参考文献 金光院を訴え獄門になった神官たち 満濃町誌1173P
また、この人形は金毘羅大芝居に出演した上方の千両役者の立役や悪役の隈取(くまどり=顔の彩色)のきいた顔を現したのが「びっくりでこ」であるとも伝えられます。獄門首か、役者の似顔か、いずれにしても金毘羅商人のたくましい商魂の産物といえるものかもしれません。
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