瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

史談会へのお誘い
手作り講演会・史談会の今回の講師は白川琢磨氏です。白川先生は、福岡大学で英彦山など九州の霊場のフィルドワークワークを数多くこなしてこられた方です。退官後、郷里讃岐にお帰りなり、地元の山林修行者や修験者などの痕跡を辿っておられます。その中から見えて来たことを、「学問」の遡上にあげて語っていただけるようです。時間と興味のある方の来訪を歓迎します。
日時 9月21日 17時~19時
場所 まんのう町四条公民館(四条小学校前)
場所が、新しくできた四条公民館になっています。四条小学校の前です。

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伊予新宮上村のハゼ
 熊野行者の痕跡と庚申塔を求めて、阿波山城から伊予新宮へのソラの集落めぐりを続けています。その中で出会った新宮の木造校舎を2つ紹介したいと思います。ひとつは、四国中央市新宮町上山の安楽寺を目指せして原付スクーターを走らせていた時に出会った校舎です。
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           伊予新宮上村の寺内
あじさいの里から天日川沿いに森を抜けて行くと、棚田が現れ、収穫の終わった稲藁が「ハゼ」にして干されています。コンバインで刈り取ってしまう中では、もう見られなくなった風景がありました。すこしワクワクしながら坂を登ると、突然現れたのがこの建物です。
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旧寺内小学校
門碑には「寺内小学校」とあります。安楽寺の「寺内」という名称なのでしょう。バイクを下りて、運動場から拝見させていただきます。

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旧寺内小学校
石垣の上に赤い屋根の校舎が長く伸びます。教室が6つあるようなので、1年生から6年生の教室が一列に並んでいるようです。里山の緑と赤い屋根がよく似合います。
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旧寺内小学校
正面に廻ってみます。校舎のすぐ裏側を町道が抜けています。
はい忘れ物やで、と母親が道路側の窓から忘れ物を渡すようなシーンが思いかびます。
グーグルで見ると「新宮少年の家 寺内分館」と記されています。今は、少年の家の施設として使われているようです。手入れも行き届いています。
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こんな素敵な雰囲気の中に身を置いていると、ここで子ども達が元気に活動していた頃のことを、想像せずにはいられません。しばし、いつものようにボケーとしていました。
ここを訪ねたのは、この上にある安楽寺にお参りするためです。
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安楽寺
山門の向こうに本堂が見えます。
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安楽寺本堂
近づいて気づいたのは、軒下に一面の彫刻があることです。何が彫られているのでしょうか?お参りを済ませた後に、拝見させていただきます。
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軒下に彫られた雲龍

龍と雲です。四方の軒下を龍がうねっているのです。
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東側軒下
ゆっくりと四方をめぐって、龍の動きを見ます。
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正面
宮大工の真剣さと遊び心が随所に感じられます。この時の宮大工は、楽しみながら彫っているのもよくわかります。腕が進みすぎて怖かったのではないでしょうか。
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説明版を見てみると、幕末の作品のようです。住職からの依頼に応えたのか、自ら申し出て住職が快よく許したのか、持てる力を存分に発揮しています。決して精緻で技術的に高いとは云えないかも知れませんが、その表現意欲は伝わってきます。見ていて気持ちのいい作品です。こんな思いもかけない「宝物」に出会えるので、ソラの集落の寺社めぐりは止められません。縁台に腰掛けて、のんびりと雲龍を眺めてポットに入れたお茶を飲みます。私にとっての「豊かな時」です。

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さて、本来の業務に戻ります。庚申塔捜しです。本堂の前には、いくつものお地蔵さんなどの石仏が並んでいます。しかし、ここにはありません。
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本堂前の庚申塔(一番右側)

ありました。境内の一番外れになります。
庚申塔の説明
庚申塔
庚申塔は、青面金剛が三猿の上に立つ姿が刻まれています。
 青面金剛が邪鬼を踏みつけ、六臂で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で、頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いています。また、どくろを首や胸に掛けたりもします。彩色される時は、青い肌に塗られます。青は、釈迦の前世に関係しているとされます。そして青面金剛の下には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像がいます。

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安楽寺の庚申塔

 庚申塔があるということは、ここで庚申の夜に、寝ないで夜を明かす庚申待が行われていたことになります。60日に一度訪れる庚申の日に、集落の人達が庚申待をおこなっていた証です。今は、地蔵さんに主役を奪われていますが、2ヶ月に一度やって来る庚申待は、集落にとっては大きな意味のある行事でした。ここで光明真言が何千回も唱えられ、その後にいろいろなことが語られ、噂話や昔話なども伝わっていったのです。

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隣の泉田集落の庚申塔

 この庚申信仰をソラの集落に広げたのが修験者たちだったと、私は考えています。
修験者たちは、庚申講を組織し、庚申の日にはお堂に集い光明真言を唱える集会をリードすることを通じて、集落そのものを自分の「かすみ(テリトリー)」としていきます。こうして修験者たちの密度が高かった西阿波や伊予宇摩地方は、今でもお堂が残り、その傍らに庚申塔も立っていることが多いのです。安楽寺にも庚申塔はありました。
 では、讃岐ではお堂や庚申塔をあまり見かけないのはどうしてでしょうか?
それは浄土真宗の広がりと関係あると私は思っています。浄土真宗は、他力本願のもと六寺名号を唱えることを主眼としますので、庚申待などは「邪教」として排除されます。江戸時代になって、寺院制度が固まってくると、浄土真宗の教えが民衆レベルにまで広まるにつれて、讃岐では庚申信仰は衰退したと私は考えています。
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安楽寺の隣の茎室神社
安楽寺の隣には、大きな銀杏と拝殿が見えます。道一つ挟んで神社が鎮座しています。
立派な拝殿です。後にまわりこんで社殿にお参りします。

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近代以後のものでしょうが、手の込んだ細工が施されています。社殿の周囲にはいくつかの小さな摂社が並びます。

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この神社と安楽寺の今に至る経過を、私は次のように推測します。
①吉野川沿いに張り込んだ熊野行者が、この周辺の行場で修行を行い、定着してお堂を構えた。
②谷川の水量が豊かな土地が開かれ、そこに神社が勧進され、周辺の郷社へ成長した。
③有力な修験者が村から招かれ、安楽寺が建立され、神社の管理も行う神仏混淆体制が形成された。
④安楽寺の歴代住職は密教系修験者で、「熊野信仰+修験道+弘法大師信仰」の持ち主でもあった。
⑤彼らは代々、三角寺や雲辺寺、萩原寺などの密教系寺院とのつながりを保ち、大般若経写経などにも関わっていた。

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こんなことを考えながら「寺内」の里を離れました。岡の上から振り返ると、お寺と神社と学校が合わさった場所であることが分かります。小学校をどこに建てるのかは、地元の関心が高く政治問題化します。その中で宗教的・文化的な地域のセンターであった寺内が選ばれたのでしょう。郷社的な地域の中核寺院のそばに小学校が建てられているというパターンは、ソラの集落ではよく見かける光景です。
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寺内地区の上は、茶畑と白壁の家
 これで寺内ともお別れだと思っていると、もうひとつ驚きが用意されていました。
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泉田の高灯籠
目の前に現れたのがこの建物です。まるで燈台のようです。今まで見てきたソラの灯籠の中では、最大のものです。どうして、ここにこんな大きな灯籠が作られ、灯りを灯したのでしょうか。それは、ソラの集落の燈台の役割を果たしたのではないでしょうか。寺内はお寺があり、神社のあるところですが谷状になっていて、外からはよく見えません。
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泉田からの眺望
しかし、ここは尾根の先端部で周囲からはよく見えます。「心の支えとなるお寺と寺院があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰が自然と湧いてきたのかもしれません。

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泉田の棚田

 ちなみにこの上には、和泉集落のお堂があり、庚申塔もありました。泉田集落の人々の心を照す燈台だったのかも知れません。
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ここにも刈り入れを終えたばかりの藁束が吊されていました。
こんなことを繰り返しながらソラ集落めぐりを原付バイクで行っている今日この頃です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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