ソラの集落の寺社とお堂と庚申塔を訪ねての原付ツーリングが続きます。今回は山城町の白川谷川沿いに、塩塚高原を越えて新宮へのソラの集落をたどるツーリングです。グーグル地図を見ると「小歩危展望台」が追加されています。寄っていくことにします。
小歩危展望台
三好市では、こんな展望台をあっちこっちに作って、新名所にしようとしているようです。なかなか面白くて、外れがありません。 正面真下を吉野川が流れます。この方向から吉野川が見える展望台は初めてです。
ホワイトウオーターの中を、ラフテングボートが下って行きます。
ここで、休憩して白川谷川に沿って塩塚高原を目指します。
当然、長い階段が待ち受けています。一瞬、引き返そうかと思いましたが、そんな失礼はできないと・・覚悟を決めて登り始めます。
大日孁(おおひるめ)神社 拝殿
そして姿を現したのがこの拝殿。神域の森の中にひっそりと鎮座して雰囲気があります。河原から運び上げた青石の基壇の上に、すっきりとした拝殿が建ちます。近づいてみます。
向背虹梁には、見事な龍が巻き付いています。お参りを済ませて、説明版を確認します。
ここには次のような事が書かれています。
ホワイトウオーターの中を、ラフテングボートが下って行きます。
ここで、休憩して白川谷川に沿って塩塚高原を目指します。
白川谷川
開放的で明るい白川谷川をさかのぼって行きます。本殿と拝殿が国の登録有形文化財になっている大日孁(おおひるめ)神社があるのでお参りして行くことにします。川を渡って向こう側の小高い山の上にあるようです。大日孁(おおひるめ)神社 拝殿
そして姿を現したのがこの拝殿。神域の森の中にひっそりと鎮座して雰囲気があります。河原から運び上げた青石の基壇の上に、すっきりとした拝殿が建ちます。近づいてみます。
向背虹梁には、見事な龍が巻き付いています。お参りを済ませて、説明版を確認します。
拝殿の説明版
ここには次のような事が書かれています。
①創建当初は大蛇大明神②神仏分離後の1874年に大日るめ神社と改名③拝殿・本殿ともに、1898年に香川県三豊郡の宮大工高橋貞造・棟梁次田弥八の作④拝殿は、細部まで高度で特徴的な彫刻が施されていること。
①二軒社流造の銅板葺②尾垂木付の三手先で軒を伸ばして、腰組を出組で受けている。③頭抜木鼻には人物面が、破風には龍が巻きつく
拝殿と本殿に参拝して一番注目したいのは、讃岐三豊の大工が呼ばれて建立していることです。三豊の大工が土佐の嶺北地方で、仕事をしていたことは以前に次のように紹介しました。
長宗我部元親の阿波への侵攻が本格化する天正八(1580)年の史料に次のように記されています。
長宗我部元親の阿波への侵攻が本格化する天正八(1580)年の史料に次のように記されています。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。
天正八庚辰年造立大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎
この時の阿弥陀堂建立の大檀那は森右近尉、本願僧侶は宥秀です。彼らが招いたのが「讃州仁尾浦善五郎」のようです。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。ここからは、四国・讃岐山脈を越えて仁尾との間に日常的な交流があったことがうかがえます。讃岐西部-阿波西部-土佐中部のエリアは、仁尾商人や大工たちが入り込み、広く営業活動を展開していたようです。
本殿の三手先と彫刻
それが明治になっても、地域の小社を統合してあらたな社殿と拝殿を建てる際に、三豊の宮大工たちが招かれています。ここからは、近世を通じて三豊と阿波西部には日常的な交易活動が明治になっても続いていたことがうかがえます。そして三豊の宮大工は、「大蛇大明神」と呼ばれてきた神社のために、龍(蛇)のデザインで空間を埋めます。
本殿の三手先と彫刻
それが明治になっても、地域の小社を統合してあらたな社殿と拝殿を建てる際に、三豊の宮大工たちが招かれています。ここからは、近世を通じて三豊と阿波西部には日常的な交易活動が明治になっても続いていたことがうかがえます。そして三豊の宮大工は、「大蛇大明神」と呼ばれてきた神社のために、龍(蛇)のデザインで空間を埋めます。
大日孁神社本殿の龍(蛇)のデザイン
この神社も神仏混淆の時代には、別当寺の社僧が祭礼を担当していたはずです。彼らは真言系修験者でもありました。中世には、彼らと三豊の修験者も教学面などでつながっていたことを示す史料があります。
この神社も神仏混淆の時代には、別当寺の社僧が祭礼を担当していたはずです。彼らは真言系修験者でもありました。中世には、彼らと三豊の修験者も教学面などでつながっていたことを示す史料があります。
三好市池田町の吉野川と祖谷川の合流点に鎮座する三所神社には、応永9年(1402)の大般若経600経が保管されています。

三所神社の大般若経の説明版
その中の奥書に、次のように記されたものがあります。
「讃州三野郡熊岡庄八幡宮持宝院、同宿二良恵」
ここからは、祖谷口の山所神社の大般若経の一部が「三野郡熊岡庄八幡宮」の別当寺「持宝院(本山寺)」に「同宿(寄寓)」する「良恵」によって書写されたことが分かります。
良恵は住持でなく聖のようです。与田寺の増吽が阿波の修験者たちとネットワークを形成し、大般若経書写をやっていたのと同じ動きです。讃岐三豊の持宝院(本山寺)と、阿波池田の山所神社も修験道・聖ネットワークにで結ばれていたのでしょう。同時にこのような結びつきは、「モノ」の交易を伴うものであったことが分かってきました。
仁尾覚城院
仁尾覚城院の大般若経書写事業には、雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。与田寺氏の増吽で見たように、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるものです。覚城院と雲辺寺は、写経ネットワークがつながっていたことが分かります。その背景には、雲辺寺が天台・真言の両派の学問寺であったことあるようです。雲辺寺は、西土佐・三豊・新宮・土佐嶺北の学問寺で、写経センターであったと私は考えています。そして、雲辺寺で学んだ密教系僧侶は、「卒業」して各地の寺社に「赴任」していきます。こうして、雲辺寺(後には萩原寺)や覚城院を中心とする密教系修験者のつながりが形成されていたという見通しです。熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。
彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。
彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。
社殿に背を向けて帰ろうとすると、眼に入ってきたのが鳥居の隣のお堂です。
最近改修されたようですが、神社の神域の中に建つ観音堂です。神仏分離以前には、これは当たり前の姿でした。それがこの国の伝統だったです。お堂にも参拝します。そして、ここに導いてくれたことを感謝します。
最近改修されたようですが、神社の神域の中に建つ観音堂です。神仏分離以前には、これは当たり前の姿でした。それがこの国の伝統だったです。お堂にも参拝します。そして、ここに導いてくれたことを感謝します。
仏子の水車
仏子の水車を越えて、原付を走らせます。10年以上乗っている娘のお下がりのバイクですが、喘ぎ喘ぎながらも急な登りを上がって行ってくれます。そして阿波側の最後の集落である落尾の家々が姿を見せ始めます。尾又のソラの鐘
ソラの鐘を見上げながら進むとお堂が姿を見せます。隣には大きな銀杏。ここからはソラの集落がよく見えます。
尾俣からは植林された杉林の中を登っていきます。台風で落ちた枝などが林道に積もるように落ちています。暗い杉林の中を抜けると、塩塚高原に抜け出たようです。
背後の山が雲辺寺です。そして、荘内半島から三豊平野がよく見えます。このエリアのソラの集落が三豊と「塩とお茶と修験者」によって塩塚高原のススキ
快適なスカイラインを走って、展望の開けた所で原付を止めます。つながっていたことを改めて実感させてくれる眺めでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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