前回までに、金毘羅信仰が18世紀末から江戸で高揚したことをお話ししました。今回は、それを背景に、江戸で作られた金比羅講が丸亀に大きな銅灯籠を寄進するまでの経過を見ていくことにしましょう。

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正面が丸亀城 右が福島港 左が新堀港 
五代藩主京極高中の時代の文化三年(1806)に完成した福島湛甫が、金毘羅参詣客の上陸湊として賑わっていました。福島湛甫は、東西六一間、南北五〇間の船泊で規模としては相当大きいものではあったわけなんですが、30年経つと「手狭なという状況」になってきたようです。それだけ、瀬戸内海各地からの金毘羅船が増えたということでしょう。 加えて、新京橋の架橋で通町船泊の繋留が出来なくなるということも重なり、丸亀港は再びオーバーユース状態になりました。
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1806年完成の福島湛甫
 
福島湛甫が手狭化した背景は?
 それは参拝客の急増にあります。参拝客増加の理由は、18世紀後半の「日本一社の綸旨」にひとつのきっかけが求められるようです。文化から文政年間に印刷された讃岐の名所案内図の数の増加ぶりに「綸旨」の効果がうかがえます。また、江戸における金毘羅信仰の高まりといった動きも無視できません。
大名の江戸藩邸では、勧請していた自国の霊験あらたかな神社を庶民に公開していました。丸亀藩邸でも、金毘羅社の開帳日である各月の十日には早朝から夕方まで参詣人が群集したようです。藩邸の金毘羅山御守納所への初穂金が金毘羅に届けられていますが、最初に届けられた宝暦七年(1757)は一両でした。それが20年後の天明元年(1778)には百両、同五年には二百両、が届けられるようになり、これ以後は幕末まで毎年百五十両とどけられています。
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この信仰の高まりを、港築造や灯寵建立の利用して「民間資金での公共工事」を実現させようとする智慧者が現れます。
 天保二年(1831)、丸亀の「通町 柏屋団治」や宿屋業者・土産物業者らの五人が発起引請人として、「西川口波戸東手」へ新堀湛甫の築港を藩へ願い出ます。彼らは町の年寄で、この人たちの願出を受けて、灯寵建立、湊の修築の費用を調達するのに大きな役割を果たしたのが、京極藩江戸留守居役の瀬山登という人です。彼が残した記録は「湛甫新堀漫筆」として、丸亀図書館に残っています。
   町年寄からの築造願いは、次のような内容でした
 金毘羅山への諸国参詣人が日増しに多くなり、浜方も益々繁盛し商売も順調であるのも偏に国恩のお陰と有り難く思っております。この繁盛について、旅舟の入津が多いのですが、湊が手狭で、舟も乗り大老幼も難儀しているようです。
そこで、西川口御番所のあたり波戸束手へ湛甫を造れば湊も広くなり、城下の見渡しもよく、諸国への評判、浜方繁栄の基にもと存じます。それで私どもが発起人として考えたことを申し上げたく存じます。
 
ということで、彼らの工事に向けたプランを示します。
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     左が新堀港 江戸からの大きな青銅製灯籠が3つ並ぶ

そこには、具体的な資金集めの方法も記されています。
灯明料は舟持共からの寄付でまかなう。こうすれば闇夜でもまして不案内の旅舟などの出入りに大いに役立つ。そして、舟持からの寄付の取り方は、舟の大小を千石船に換算して船数五万艘と見積もって一石一銭ずつ一度限りの寄付を募る。もっともも対象は廻船だけのつもりである。
 寄付の取立方法は、江戸では金毘羅への信仰の厚い本所ニッ目塩原太助に頼み、銀子は江戸屋敷にて預かっていただく。大坂・兵庫は講元世話人共から頼んだ問屋で取り立ててもらい銀子は大坂屋敷にて預かっていただく。当地では役所にて預かっていただくようにお願いしたい。
という内容のものであります。
 外様で弱小藩の丸亀藩は、財政危機状態で資金はありません。それを知った上で発起人の「町年寄」たちは、藩の財政に頼らない資金集めの方法まで提案しています。それは今風に言うと「民間資金の導入による公共土木工事の推進」の手法と言えるのかも知れません。
 まずは、廻船業者からの寄附を募ります。     
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 大まかなプランとして、当時の全国の大小の船を千石船に換算するとおよそ五万艘になると計算します。そして、船一石につき一銭を一度限り寄附してもらう。千石船一艘について十匁になります。全国の廻船業者にこの趣旨を説明し寄附を依頼するというもので「海の神様 金毘羅さん」という信仰心を、うまく利用したやり方です。
藩は自分の腹が痛まないプランですから、さっそくこれを取り上げ幕府の勘定奉行村垣淡路守へ伺い出ます。
これに対して幕府は認可の意向を示したので、丸亀藩は藩主名で次のような正式の伺書(計画書)を提出します。
城下の湛甫の儀は、いつ頃出来と申す年暦も相知れ申さず。
前々より領分廻米諸産物廻し方、専ら相弁来侯処、近来金毘羅参詣の旅船多く入り込み、別て三月十日会式の節は、繋船充満仕り用弁差し支え、諸国廻船一同混雑仕り、風波の節は凌方難渋仕り候二付き、城下町人共湛甫新たに箇所増願出申候 右の通り領分廻米等差支候儀は、湛甫全場狭故の儀に御座侯間、有来侯振り合ヲ以て、一ケ所取建侯、用弁差し支えもこれ無く、諸廻米風波凌二も罷り成り都合宜く御座侯間、相成るべく儀二御座侯バ、別紙絵図面の通り申し付け度く存じ奉り侯、尤も城下の儀二付き差し障りは勿論、他領迄も差し支え相成り侯筋、御座無く侯、此の段御内慮伺い奉り侯、以上
 十月廿六日             京極長門守高朗
この結果、翌11月に幕府の承諾が得られます。記録には、お世話になった
「老中勝手かかり水野出羽守・勘定奉行村垣淡路守ら一六人に贈り物を携えお礼のあいさつをした」
と記されています。
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 丸亀藩は、翌年(1832)三月から築造工事に取りかかる準備を進めます。
工事の具体的計画を立て、大庄屋・庄屋を呼び寄せ意見等を聞き、各郡に下記の通り人足を割り当てます。
那珂組  7486人  善通寺組 9480人 
上高瀬組16659人  比地組  7802人 
中洲組  9633人  和田組 10129人 
大野原組 1427人  福田原組 116人
 庄内組  1015人  人足計 63743人
 人足扶持については、初め福島湛甫の時と同額で予算を組んでいました。が、交渉の結果、物価上昇なども加味して人足賃金が引き上げられ、一人一日米一升、別に菜代一匁となります。また、新港の石垣普請を請け負った城下の平野屋利助からの次のような願出が出ています。
「新堀普請用の石は塩飽島から取り寄せ、一〇〇石積み一般分五、六匁で予算は組まれているが、、このころは塩飽産の石は値上がりしている。安く手に入る丸亀領分の石を買い取るようにしてほしい」
 着工した天保4年(1833)には、天保の大飢饉が起こり、翌年には各地で米騒動が発生しています。また、翌年には多度津藩の新湛甫も起工します。不況時の公共事業で、雇用チャンスや景気の刺激にもなったようです。港建設費用は2000両で済みました。当時、建立されていた金毘羅大権現の金堂3万両に比べれば、小規模な「公共事業」のように思えます。
 こうして新堀港の工事本体は、スムーズに行われ翌年の天保四年には完成します。
湛甫は東西八〇間、南北四〇間、西側に一五間の出入口、満潮時の水深一丈六尺でした。周囲には埋め立て地をつくり、その外法は東西一町五三間、南北一町三五間で、これを新堀湛甫と呼んだと「旧丸亀藩事蹟」に記されています。

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 太助灯籠

ところが苦労したのは銅灯寵でした。 
 天保3年三月、丸亀の町年寄の発起人らは江戸に行きます。
 話は前後しますがこれより数年前、江戸本所相生町(墨田区両国二丁目)の塩原太助が金比羅参詣に来て通町の柏屋団治方(四国銀行の所)で泊まった時のことです。団治がこの話を太助に持ち出したところ大いに賛成してくれてました。そこで、柏屋団治たちは早速に塩原太助を尋ねます。ところが丸亀で灯籠寄進の話をした二代目塩原太助は既に亡く、三代目太助の世となっていたのです。三代目太助は
「講の世話はできないが八十両を五ヵ年間に出そう
と約束してくれました。
灯籠寄進の話を太助の知人などを頼って話したところ、拒む者、意外にも賛成してくれる人などさまざまだったようです。藩の江戸屋敷でも力を入れ、瀬山登らが中心となり、丸亀藩に出入りする江戸の町人、伊勢屋兵衛、河内屋伝兵衛、三島屋半七、林屋半六、三河屋善助の五人を世話役として協議します。
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そして、銅灯籠寄進のために千人講の設立案を作ります。
①一人一ヵ月百文ずつ五ヵ年掛ける。(米の値段からみて、当時の一両は約六千六百文に当たるので五ヵ年では〇・九両になる)  
②一人で何口加入してもよい。
③三十人以上世話してくれた人には、五ヵ年のうちに1回金比羅参詣をしてもらう。その費用として三両差し上げる。
このの規約を世話人を定め「讃州丸亀平山海上永代常夜燈講」として加入者を募ります。ちょうどこの頃に、大久保今助という男が浅草観音へ献納する金灯龍一基をあつらえ大門通り伊勢屋万之助方で完成させていました。ところが、あまりに大きすぎるために寄進先から差し留めらされ困っていることが伝わります。これを交渉によって二四〇両で購入することにしたのです。これが現在の「太助灯籠」になります。
千人講の募金集めはどうだったのでしょうか
 講開きから一か月後の五月十日までの集金高は、三〇両三朱と一八九文でした。その後は、毎月四〇両前後で、年末までの合計319両です。翌年の天保四年には、加入者も増え、毎月五〇両前後で推移します。

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 講主の伊勢屋喜兵衛の見積もりは次のとおりでした。
講加入者数 2400人 五か年の講金2150両 
必要経費 灯寵      1135両 
     新堀湛甫ヘ   1015両 
ほかに御供え初穂料など    50両
 新堀湛甫の工事経費は2000両とされていましたので、これでは約900両余の不足となります。そこで講の勧誘に、力を入れることにします。
 天保五年には、金毘羅参詣の廻船の便を利用して、240両で購入した灯籠を積込み、金毘羅へ送り出します。収入伝票には「船頭らに祝儀五両」の記録があります。そして、盆前には伊勢屋喜兵衛ら三人が丸亀へ赴き、実地見聞を行い、十月朔日棟上、会式(金毘羅大祭)を見学後に十二月帰府しています。
 青銅の台座に1400人に近い人名が刻まれ、鎖のある竿の部分に「天保九年十月吉日江戸講中」とあります。台石に二ヵ所と燈龍の竿の所に江戸講中とあるので、「江戸講中燈龍」あるいは「金毘羅青銅燈寵」と名付けられました。そして、近年は最高八十両を寄進した塩原太助の名をとり「太助燈寵」とも呼ばれようになっています。
しかし、気になるのは竿の部分の年号が「天保九年十月吉日江戸講中」とあることです。天保五年に建立したのち、講中の人名その他を補足し同九年に再建したのでしょうか?

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 天保四年八月に新堀湛甫は完成し、翌年には1基だけですが巨大な銅灯籠が建ちました。
計画当初は「灯龍12基建立」を予定していましたが、千人講の募金活動で集められる資金では、無理なことがわかります。そこで、天保七年に家老本庄七郎右衛門らの意見を受けて、三基建立に大幅に減らすことになります。残り二基の建立については、人名の刻み、建立などにさらに年月を要するとして、天保八年から同十三年までの五か年間の延長願と収支見積調書を藩役人へ提出しています。
天保八年には五年間の講の期限が来ます。
そこで集まった金額で、燈寵を2基を注文します。
燈寵は丸亀藩江戸屋敷出入りの大工大和屋和助を棟梁とし、鋳工は江戸の森田屋仁右衛門と鋳鉄の盛んな武州川口(埼玉県川口市)の名門永瀬文右衛門藤原富次、その子喜一郎に発注します。
嘉永三年(一八五〇)末に三基目の灯寵ができあがります。
しかし、不足品が多く、延包一三個に分け丸亀へ積み出したのは嘉永六年五月になります。さらに、残務整理や関係者への慰労などがが終わるのは文久二年(1862)になりました。天保3年から始まったこの大事業は、結局32年の歳月を要したことになります。
これに対して、発注から何年も経つのに残りの灯籠が丸亀に送られてこないことへの不審に思う空気が広がり、江戸表の担当者たちへの不信感となっていったようです。

   江戸詰藩士の瀬山登も建立に尽力します
しかし、なかなか到着しない灯籠について、いろいろな噂が飛び交うようになります。「湛甫新堀漫筆」の最後の部分では、彼は不本意な思いを吐露しつつ事業をふりかえっています。そこには長引く事業に対して地元丸亀では「寄付金を横領したとの悪評」が立っていたことをうかがうことができます。その無念さを慰労するかのように太助灯籠の前には彼の銅像が据えられています。
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 幕末に3基据えられた、灯龍は今では一基が残っているだけです。
あとの2基は、太平洋戦争の時に「戦争遂行のための金属供出」で溶かされたようです。残っている一基には、その中央に最大の金額八〇両を最初に寄付した塩源太助の名前が大きく鋳込まれており「太助灯龍」と呼ばれるにふさわしい体裁を見せています。
   丸亀の新堀港や太助灯龍は「江戸千人講」の江戸町人の資力を中心として、丸亀まち年寄柏屋団治ら五人を発起人として、丸亀藩の事業として建立されたということになるようです。
 どちらにせよ丸亀湊は、この新港の完成によって、岡山から上方さらにそれ以東の金毘羅参詣客や北前船などが一層利用することとなり、これまで以上の繁栄を見せるようになります。また、同時期に、完成した多度津湊は、瀬戸内海の備後以西の国々からの金毘羅参詣客を集めるようになり、多度津街道は急速に整備されていくことになります。

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  ◇ 最後に太助灯籠をじっくりと眺めてみましょう
 この灯籠は青銅製です。三段の台座の上に基盤・竿・中台・火袋・笠・宝珠からなり、全長五・二八㍍台石を合わせると地上約六・六㍍にもなる大型の灯籠です。港に出入りする船の目じるしとして、燈台の役割も果たしたことでしょう。
 仰ぎ見ると、五葉の請花に支えられて伏鉢に空高く大きな火焔を三方に宝珠は載っています。笠は円くふくらみをもつ八面で、末端の龍首は海上をにらみ、二本の牙が大きくそり反りっています。下には風鐸が風に揺れます。
 火袋は八面格子で、内部がよく見えます。戦後直後までは、電球が収められ、近所の人が暗くなると点灯していたようです。火袋を受ける中台は八角形で、丸亀らしく各側面に天狗の団扇を浮き出させています。
竿の北面には「天保九年戊戌十月吉日」、下に「江戸講中」とあります。しかし、括れているためか下からは見えにくいのです。
基盤の下には青銅製の三段の台座が、花圈岩の三段の台石の上に載っています。この台座には1380人の寄附者・世話人らの名と住所などが刻まれています。今は姿を消した他の二基は一1444人と約1000人であったそうです。まさに千人講により寄進された銅灯籠と呼ばれる所以です。
参考文献 新堀と銅灯籠 丸亀市史276P
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              丸亀新堀湛甫と太助銅灯寵の年表 
宝暦10年1760 日本一社の綸旨を賜う。
明和元年 1764 伊藤若冲、書院の襖絵を画く。
天明7年 1787 円山応挙、書院の間の壁画を画く。
寛政元年 1789 絵馬堂上棟。 寛政の改革~4年間。
寛政3年 1791 高松の御用達中より真鍮の釣燈籠奉納。
寛政5年 1793 江戸高松上屋敷に金毘羅大権現を勧請。
寛政6年 1794 円山応挙、壁画を画く。小林一茶参詣。
         多度津鶴橋に鳥居建立。
文化2年 1805 備中早島港、因島椋浦港に燈籠建立。
文化3年 1806 金堂建築の計画。丸亀福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化7年 1810 宝塔下の坂道普請。太鼓堂修繕普請。
文化10年1813 金堂起工式。
文化11年1814 瀬戸田港に常夜燈建立。
文政7年 1824 茶屋、旅籠の区分決定。
文政11年1828 琉球人、生野村に石燈籠寄進献立。
文政12年1829 摂津芥川に燈籠建立。鞘橋普請。
天保2年 1831 丸亀の年寄が湛甫構築と灯寵建立を藩へ願出た。
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工。天保の改革~6年間。
天保5年 1834 米騒動、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 箸蔵寺で贋開帳。芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 丸亀に江戸千人講燈籠完成。多度津新湛甫完成
  多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。

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