四国各県の宗派別寺院数と真宗占有率
香川県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が真宗で、それは約47%になります。その中でも興正寺派の占める割合が非常に多いようです。その背景として、次のような要因が考えられることを以前にお話ししました。①15世紀に仏光寺(後の興正寺)が教勢拡大拠点として三木に常光寺、阿波の郡里(美馬市)に安楽寺を開き、積極的な布教活動を展開したこと
②本願寺も瀬戸内海沿い教線拡大を行い、宇多津に西光寺などを開き、周辺への布教活動を行ったこと
③戦乱の中で衰退傾向にあった真言勢力に換わって、農民層に受けいれられたこと
④髙松藩が興正寺派と幾重もの姻戚関係を結び、その保護を受けたこと
この中の①の阿波の安楽寺の丸亀平野方面への教線拡大過程は以前に押さえましたが、常光寺のうごきについては見ていませんでした。そこで、今回は常光寺の教線拡大ルートを見ていきたいとおもいます。テキストは 「藤原良行 讃岐における真宗教団の展開 真宗研究12号」です。
興正寺派の布教拠点となった常光寺(三木町)
江戸時代後半の19世紀前半に、常光寺が髙松藩に提出した由緒書きが残っています。それを見ると、常光寺というお寺の性格が分かります。
『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕(意訳)当寺の創建は、足利三代将軍義満の治世の時(1368年)とされます。泉洲大鳥領主で生駒左京太夫光治の次男政治郎光忠と申すものが発心し、法名浄泉と名前を改め、仏光寺で修行しました。その後、常光寺の号を与へられました。仏光寺門下に秀善坊という者がいて、安楽寺と号していました。
あるときに仏光寺了源上人は、二人に四国への教線拡大を託します。浄泉と秀善のふたりは、ともに応安元年に四国へ渡り、秀善坊は、阿州美馬郡香里村安楽寺を創建しました。一方、浄泉坊は当国へやって来て、三木郡氷上村に常光寺を建立します。布教活動の結果、教えは阿讃両国の間にまたたくまに広がり、真宗に帰依する者は増えました。こうして安楽寺・常光寺の両寺の末寺となる寺は増え続け、日を追って両山門は繁昌するようになりました。
開基の浄泉より百余年後の文明年中(1469~87年)、五代目の住侶浄宣のことです。仏光寺の経豪上人は本願寺蓮如上に帰依し、仏光寺を弟経誉上人に譲り、蓮如上人を戒師にして、その頼法名を蓮教と改名し、京都山科の口竹に小庵を構へました。その寺は、蓮如上人より興正寺と名付けられました。これを見て、蓮教を慕う当寺の浄定坊も仏光寺末を離れて、文明年中より興正寺蓮教上人の末寺となりました。こうして、応安元年に浄泉坊は当寺を建立しました。22代の祖まで血脈は連残し、相続しています。
要約すると
①足利義満の時代に(1368)に、佛光寺(後の興正寺)了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣した。
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿波美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依した。
④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。
④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。
以上は、300年以上経た19世紀になってから常光寺で書かれた由緒書きなので、そのままを信じることはできないにしても、大筋は認められると研究者は考えているようです。
常光寺や安楽寺は14世紀後半に創建されたとされますが、それが教線を拡大していくようになるのは16世紀になってからになるようです。この報告書には、続きがあります。そこには、常光寺の末寺が次のように列挙されています。
ここからは次のようなことが分かります。
①常光寺は興正寺の中本山として、41ケ寺の末寺をその管理下においていたこと。
②最盛期には、豊田郡流岡村(観音寺市)や、三野郡麻(三豊市)にまで末寺があり、三豊まで教線を伸ばしていたこと
③離末していく寺が18世紀になって増え、文化10(1813)年には多度津以西の寺が集団で離末していること
丸亀平野の末寺に絞り込んで見ると次の通りです。
①那珂郡七ケ村 円徳寺② 垂水村 善行寺③ 垂水村 西教寺④ 原田村 寶正寺⑤垂水村 西 坊 (円徳寺末寺)丸亀藩領⑥那珂郡 田村 常福寺⑦那珂郡 佐文村 法照時(円徳寺末)⑧那珂郡 苗田村 西福寺(円徳寺末)旧末寺⑨那珂郡 榎井村 玄龍寺⑩多度郡 吉田村 西光寺⑪多度郡 下吉田村浄蓮寺⑫多度郡 三井村 円光寺⑬多度郡 弘田村 円通寺
阿波郡里の安楽寺の末寺分布図
興泉寺(榎井)大念寺(櫛無)浄楽寺(垂水〉西福寺(原田)専立寺(富隈)超正寺(長尾〉慈泉寺(長尾)慈光寺(岡田)西覚寺(岡田)尊光寺(種)善性寺(長炭)寺教寺(種)長善寺(勝浦) 妙廷寺(常清)長楽寺(陶)
安楽寺も勝浦の長善寺などを拠点に、教線ラインを次第に「讃岐の山から里へ」と伸ばしていく様子が浮かび上がってきます。
常光寺と安楽寺の教線拡大ラインと比較すると次のようになります。
常光寺
三木から三豊へと讃岐を東西に結ぶ内陸の農村部を中心にした教線拡大ライン安楽寺
阿波郡里から讃岐山脈を越えて丸亀平野や三豊平野に下りていく、南から北への教線拡大ライン
クローズアップして、現在の丸亀市垂水の両寺の末寺を見てみます。
丸亀市垂水の善光寺・正教寺・浄楽寺
以前にお話ししたように垂水は古代においては、土器川の氾濫原で条里制施行の空白地帯だったエリアです。それが中世になって有力武士団などによって、治水灌漑が行われ耕地整備が進んだと研究者は考えているようです。それを示すかのように、現在でも土器川生き物公園は、土器川の氾濫寺の遊水池として近世には機能していました。いわば土器川氾濫原の中世の開発地区が垂水や川西地区だと私は思っています。この開拓への入植農民達への布教活動を活発に行ったのが真宗の僧侶達だったのではないでしょうか。宗教的な情熱に燃える真宗僧侶が東の常光寺から、南の阿波安楽寺からやってきます。そして、道場が開かれ寺に成長して行くという道をたどったようです。
例えば、垂水の善行寺と西教寺は、もともとは常光寺の末寺で、善行寺は寛文年中(1661~72)に、西教寺は寛永年中(1624~44)に木仏・寺号を許されたといいます。
一方、この両寺の間にある浄楽寺は、讃岐名所図会に次のように安楽寺末寺と記されています。
一向宗阿州安楽寺末寺 藤田大隈守城跡也 塁跡今尚存在せり
とあり、1502年に藤田氏の城跡に子孫が出家し創建したと伝えられています。また、まんのう町買田の恵光寺の記録には、次のように記されています。
(この寺はもともとは、(まんのう町)塩入の奥にあった那珂寺である。長宗我部の兵火で灰燼後に浄楽寺として垂水に再建された
琴南町誌には、現在も塩入の奥に「浄楽寺跡」が残り、また檀家も存在することが記されています。 以上から、垂水の藤田大隅守の城跡へ、塩入にあった那珂寺が垂水に移転再建され浄楽寺と呼ばれるようになったようです。どちらにせよ安楽寺の教宣拡大戦線の丸亀方面の最前線に建立された寺院であるといえます。この寺は、寛永年中に寺号を許されたようで、後には安楽寺を離れて西本願寺末となります。
垂水の真宗興正派の3つのお寺を見ると、まさに西に向かって伸びていく常光寺の教線ラインと、北に伸びていく安楽寺の教線ラインが重なったのが丸亀平野なのだと思えてきます。このようなふたつのルートの存在が互いのライバル心となり、さらに浄土真宗の丸亀平野での拡大にはずみをつけたのかも知れません。これが16世紀半ばから17世紀前半にかけてのことです。
これを真言宗の立場から見てみるとどうなるのでしょうか。
例えば当時の真言勢力の拠点と考えられるのは、阿野北平野では白峰寺、丸亀平野では善通寺です。これらの寺院は中世には、いくつもの子院や別院を持ち、多くの伽藍を擁する大寺院に成長し、僧兵を擁していた可能性もあることは以前にお話ししました。しかし、戦国時代になると戦乱と西讃岐守護の香川氏などの周辺武士団の押領を受けて勢力を失っていきます。白峰寺や善通寺・弥谷寺なども16世紀後半には、それまでの伽藍の姿が大きく縮小し、子院の数も激減しているのが残された絵図からは分かります。讃岐の真言勢力は衰退の危機的な状態にあったと私は考えています。そういう中で、古い衰退していた寺を、真宗僧侶は中興し、真宗に宗派替えしていきます。
浄土真宗への転宗寺院の一覧表を見てみましょう。
①どの宗派から真宗に転宗した寺院が多いか②どの郡に転宗寺院が多いか
①については、密教系修験者の山林寺院が多かった天台・真宗からの転宗が多いことが分かります。
②については、鵜足・那珂・多度郡など丸亀平野を中心とする中讃地域に多いことが分かります。
また、転宗時期は、天文年間以降に多く見られます。この表からも讃岐で真宗寺院が増加していくのは天文年間以後であったことが裏付けられます。
ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐最初の浄土真宗のお寺は、暦応4年(1341)に屋島沖の大島に創建された法蔵院(現真行寺)②14世紀中に設立されたとする32寺院について、常光寺のように史料的に裏付けられるものは少ないこと③讃岐における浄土真宗寺院の増加は16世紀以後のことであること。④16世紀半ば以後に、真言・天台の大寺が衰退し、その勢力が弱まったこと。具体的には修験者の活動が停滞したこと。⑤その隙間を狙うように、真宗興正寺派の教宣ルートが丸亀平野に延びてきたこと。
ここからは16世紀までに創建されたとされる真宗寺院は、香川・阿野(綾)・鵜足・那珂に多いことが分かります。
以上のデータから当時の常光寺や安楽寺の教宣拡大戦略を私なりに考えて見ると次のようになります。
①戦乱の中で今まで大きな力を持ていた白峰寺や善通寺が衰退している。
②そのため多くの修験者や聖達が離れて、農村部への布教活動もままならない状態となっている。
③丸亀平野では「宗教的空白地帯」が生まれている。
④これは我々にとっては大きなチャンスである。丸亀平野を真言から「南無阿弥陀仏」念仏に塗り替えるときがやってきた。
⑤我々の新天地は、丸亀平野に在り! 丸亀平野が我々の西方浄土である!
⑥この仏の与えたチャンスをいかすために、我々の教宣活動の中心を丸亀に向ける
このような戦略が16世紀前半には立てられ、それが実行に移され浄土真宗寺院の数が増え出すのが16世紀半以後と私は考えています。
一方このような浄土真宗の拡大に危機感を持った真言僧侶もいたはずです。
その一人が西長尾城の城主の弟とされる宥雅です。彼は善通寺で修行を重ねていましたが、長尾氏の勢力下でも増え続ける照度真宗のお寺や道場、真宗僧侶の布教活動のようすを見て脅威や危機感を感じていたののではないでしょうか。その対応策として考えたのが、松尾寺の守護神として新たな流行神である「金毘羅神」を祀るということでした。私は金毘羅神は、丸亀平野での真宗拡大に対する真言側の対応の一つ出ないかと考えています。
その一人が西長尾城の城主の弟とされる宥雅です。彼は善通寺で修行を重ねていましたが、長尾氏の勢力下でも増え続ける照度真宗のお寺や道場、真宗僧侶の布教活動のようすを見て脅威や危機感を感じていたののではないでしょうか。その対応策として考えたのが、松尾寺の守護神として新たな流行神である「金毘羅神」を祀るということでした。私は金毘羅神は、丸亀平野での真宗拡大に対する真言側の対応の一つ出ないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
藤原良行 讃岐における真宗教団の展開 真宗研究12号
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