讃岐には真宗興正寺に属していた末寺が多いこと、その讃岐伝導については、三木の常光寺と阿波郡里の安楽寺が布教センターとして役割を果たしたことを以前にお話ししました。それでは、讃岐に真宗の教線が伸びてくるのはいつ頃のことなのでしょうか。
研究者が西讃府志などに記されている真宗各寺の開基時期を区分したものが上図です。これは各寺の由緒書きに基づくもので、開基を裏付ける史料があるわけではないことを最初に押さえておきます。この表を見ると、15世紀に33、16世紀に38の真宗寺院が讃岐にはあったことになります。
昭和に作られた町村史も各寺の縁起を基にして、讃岐の真宗寺院の開基を早めに設定する傾向がありました。しかし現在では、讃岐の真宗教団が教宣活動を本格化させたのは16世紀後半以後のことで、寺院に格上げされるのは江戸時代になってからというのが定説化しているようです。この変化には、どんな「発見」があったからなのでしょうか。それを、まんのう町の尊光寺を例に見ていきたいと思います。テキストは「大林英雄 尊光寺史 平成15年」です。

尊光寺(まんのう町種子)
尊光寺の創建について、1975年版の『満濃町史』1014Pには、次のように記されています。
尊光寺は、鎌倉時代の中頃、領主大谷氏によって開基され、南北朝時代に中院源少将の崇敬を受けた……。
これを書いた研究者は、創建を鎌倉時代と考えた根拠として、次の4点を挙げます
①まんのう町へは、鎌倉時代の承元元年(1207)に、法然が流罪となり、讃岐国小松庄の生福寺で約9ヵ月間寓居し、その間、各地で専修念仏を広めた。その後、四条の地には、生福、清福、真福の三福寺が栄えていたとあるので、鎌倉時代には真宗が伝わっていたと推察。②『徳島県史(旧版)』の安楽寺縁起には、鎌倉時代の宝治合戦(1247)に敗れた千葉氏の一族彦太郎が、縁者である阿波国守護の小笠原氏を頼って、北条氏に助命を願い、安楽寺に入って剃髪し、安楽寺は天台宗から浄土真宗に改宗したと書かれている。この記事から、四国へ浄土真宗が伝わったのは鎌倉時代と考えた。③尊光寺の記録にある開祖少将は、南北朝時代に、西長尾城を拠点にして南朝方の総大将として戦った中院源少将に仮託したものと推察。④尊光寺の本尊阿弥陀如来の木像は、 一部に古い様式があり鎌倉仏とも考えられること。
以上から尊光寺の開基を鎌倉時代としたようです。ここからは真宗寺院の創建を14世紀に遡って設定するのは、当時は一般的であったことが分かります。
それが見直されるようになったのはどうしてでしょうか。
⑤中央では真宗史についての研究や、真宗教団の四国への教線拡大過程が明らかになった(『講座蓮如』第五巻)。⑥『新編香川叢書史料編二』(1979年)が発刊されて、高松藩の最も古い寺院記録である『御領分中寺々由来書』が史料として使用可能となった。⑦1990年代に『安楽寺文書上下巻』『興正寺年表』など、次々に寺院史の研究書が発刊されたこと。

最初に、⑤の真宗の讃岐への教線拡大過程の研究成果を見ておきましょう。
讃岐への真宗拡大センターのひとつがの三木の常光寺でした。
その由来書については、何度も取り上げたのでその要点だけを記します。
その由来書については、何度も取り上げたのでその要点だけを記します。
①足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依した。④15世紀後半に、仏国寺の住持が蓮如を慕って蓮教を名のり興正寺を起こしたので、常光寺も興正寺を本寺とするようになった。
ここには、常光寺と安楽寺は四国布教の拠点センターとして建立された「兄弟関係」にある寺院だと主張されています。
興正寺・仏光寺と本願寺の関係
まず①②について検討していきます。
①には14世紀後半に仏光寺が門弟2人を教線拡大のために四国に派遣したとあります。しかし、当時の仏光寺にはそのような動きは見られません。合い抗争する状態にあった真宗各派間にあって、そのようなゆとりはなく、乱世に生き延びていくのが精一杯な時期でした。本願寺にも、仏国寺にも、西国布教を14世紀に行う力はありませんでした。
①には14世紀後半に仏光寺が門弟2人を教線拡大のために四国に派遣したとあります。しかし、当時の仏光寺にはそのような動きは見られません。合い抗争する状態にあった真宗各派間にあって、そのようなゆとりはなく、乱世に生き延びていくのが精一杯な時期でした。本願寺にも、仏国寺にも、西国布教を14世紀に行う力はありませんでした。

蓮如
本願寺も15世紀後半に蓮如が現れるまで、けっして真宗をまとめ切れていたわけではありません。真宗の中のひとつ寺院に過ぎず、指導性を充分に発揮できる立場でもありませんでした。それが蓮如の登場で、本願寺は輝きを取り戻し、大きな引力を持つようになります。その引力に多くの門徒や寺院が吸い寄せられていきます。本願寺と興正寺の関係
そのひとつが仏光寺の経蒙が、蓮如に帰参し、蓮教と改め興正寺を起こしたことです。経蒙は文明13年(1481)に、自派の布教に行き詰まりを感じ、多数の末寺や門徒を引き連れて、本願寺の門主蓮如に帰参します。経豪は、寺名をもとの興正寺に復して、蓮如から蓮教の法名を与えられます。
この興正寺が四国へ真宗伝播の拠点になります。それが本格化するのは、蓮秀(れんしゅう)以後です。蓮秀は、蓮如の孫娘に当たる慧光尼を妻に持ち、明応元(1492)年に父連教が没した後、蓮如の手で得度して、興正寺を継ぎます。彼は本願寺においては和平派として、戦国大名との和平調停に尽くす一方、西国布教に尽力し、天文21年(1552年)、72歳でなくなっています。
興正寺蓮秀の西国布教方法は、法華宗や禅宗の寺院がやっていた方法と同じです。
末寺の僧侶が、堺の門徒であった商人や航海業者と結んで商業拠点としての寺院を各港に設置していくという方法です。当然、これには交易活動(商売)が伴います。彼らは、仏光寺の光明本尊や絵讃、蓮如の御文章の抄塚などを領布(売却)して、門徒を獲得することになんら違和感はありませんでした。それは、高野聖や念仏聖たちが中世を通じて行ってきたことで、当たり前のことになっていました。
ここでは興正寺の四国布教が本格的に進められるのは、16世紀前半の蓮秀の時代になってからであることを押さえておきます。これは最初に見た常光寺縁起の次の項目と矛盾することになります。
「足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた」

安楽寺(美馬市郡里)
常光寺から兄弟門弟関係にあると名指しされた阿波の安楽寺(赤門寺)の縁起を見ておきましょう。
安楽寺は、もともとは元々は天台宗寺院としてとして開かれました。宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠が、境内の西北隅に残されていることがそれを裏付けます。真宗に改宗されるのは、東国から落ちのびてきた元武士たちの手によります。その縁起によると、1247年(宝治元年)に上総(千葉県)の守護・千葉常隆の孫彦太郎が、対立していた幕府の執権北条時頼と争い敗れます。彦太郎は討ち手を逃れて、上総の真仏上人(親鸞聖人の高弟)のもとで出家します。そして、阿波守護であった縁族(大おじ広常の女婿)の小笠原長清を頼って阿波にやってきてます。その後、安楽寺を任された際に、真宗寺院に転宗したと記します。そして16世紀になると、蓮如上人の本願寺の傘下に入り、美馬を中心に信徒を拡大し、吉野川の上流へ教線を拡大させていきます。
安楽寺の創建由来のまとめ
安楽寺の縁起には仏光寺の弟子が開いたとは、どこにもでてきません。
安楽寺が真宗になったのは、東国からの落武者の真宗門徒である千葉氏によること、そして、その時には本願寺に属していたと記されています。ここでも常光寺縁起の「浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺」を裏付けることはできません。
安楽寺が興正寺派となった時期については、次のふたつの説があるようです。
①興正寺経豪が蓮如に帰参した文明13年(1481)説②安楽寺の讃岐財田への逃散亡命から郡里に帰還した永正十七年(1520)説
②の安楽寺の危機的状況を仲介調停したのが興正寺の蓮秀で、彼のおかげで三好長慶から諸公事等免除と帰国を勝ち取ることができました。これを契機に安楽寺は興正寺派となったという説です。私にはこれが説得力があるように思えます。

安楽寺の讃岐逃散(亡命)寺院跡の寶光寺(三豊市財田)
安楽寺の讃岐への逃散について、ここでは概略だけ見ておきます。
郡里にあった寺を周辺勢力から焼き討ちされた安楽寺は、信徒と供に讃岐財田に「逃散」します。財田への「亡命」の背景には「調停書」に「諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候」とあるので、賦役や課役をめぐる対立があったことがうかがえます。さらに「念仏一向衆」への真言系寺院(山伏寺)からの圧迫があったのかもしれません。
調停内容は、「事前協議なしの新しい課役などは行わない」ことを約束するので「阿波にもどってこい」と、安楽寺側の言い分が認められたものになっています。この際に、安楽寺のために大きな支援を行ったのが興正寺の蓮秀です。これを契機に、本寺を興正寺に移したという説です。領主との条件闘争を経て既得権を積み重ねた安楽寺は、その後は急速に教線を讃岐に伸ばしていきます。それは、三好氏の讃岐進出とベクトルが重なるようです。三好氏は安楽寺の讃岐への教線拡大に対して「承認・保護」を与えていたような気配がします。
ちなみに宇多津の西光寺に対しては、三好氏家臣の篠原氏が保護を与えています。
安楽寺に残されている江戸時代中期の寛永年間の四ケ国末寺帳を見ると、讃岐に50ケ寺、阿波で18ケ寺、土佐で8ケ寺、伊予で2ケ寺です。讃岐が群を抜いて多いことが分かります。これらの末寺の形成は、次のような動きと重なります。
ちなみに宇多津の西光寺に対しては、三好氏家臣の篠原氏が保護を与えています。
安楽寺の末寺分布図(寛永3年 讃岐に末寺が多い)
①当時の興正寺の掲げていた「四国への真宗教線拡大戦略」②安楽寺の「財田逃散亡命」から帰還後の讃岐への教線拡大③三好氏の讃岐中讃への勢力の拡大
最後にまんのう町の尊光寺の開基を見ておきましょう。
江戸時代末期の安政三年(1856)に、尊光寺から高松藩に提出したと思われる『尊光寺記録』の控えが、尊光寺文書の最初にとじられています。そこには次のように記されています。


尊光寺開基
一向宗京都興正寺末寺
讃州鵜足郡長炭村 尊光寺
開基 少将
当寺は明応年中、少将と申す僧、炭所東村種子免(たねめん)の内、久保と申す所え開基候。其後享保年中、同種子免の内、雀屋敷之土地更之仕り候と申し伝え候得共、何の記録も御座なく候故、 一向相い知れ申さず候(原漢文)
意訳変換しておくと
尊光寺は明応年間に、少将と申す僧が、炭所東村の種子免(たねめん)の内の久保に開基した。その後、享保年間になって、同じ種子免の内の雀屋敷の現在地に移ってきたと伝えられる。しかし、これについては何の記録もない。詳しくはよく分かりません。
尊光寺文書には開基の「時代は明応、開基主は少将」と書かれています。この文書に出てくる明応という時代と、開基の少将という人名は、高松藩の『御領分中寺々由来』にも次のように登場します。
阿州安楽寺一向宗宇多郡尊光寺開基、明応年中、少将と申す僧、諸旦那の助力を以って建立仕り候事、寺の証拠は、本寺の証文所持仕り候(原漢文)。
「少将」という僧名は、各地の一向一揆の戦いに参加した僧名としてよく登場する人物名で、開基者が不明なときに使われる「架空の人名」のようです。寺記の中に出てくる「諸檀那の助力を以って建立仕り候事」も、真宗の寺院縁起の常套語で、由緒書に頻繁に使用されます。つまり、この記述は歴史的な事実を伝えているものではないと私は考えています。
歴代住持の名前は、その後は「中興開基 玄正」までありません。
「中興開基 玄正」については、次のように記されています。
右は天正年中、女子ばかりにて寺役が相勤め申さざる御、当国西長尾の城主長尾大隅守、土佐長宗我部元親のために落城。息長尾孫七郎と申す者、軍務を逃れ、右尊光寺の女子に要せ、中興仕らせ候申し伝え候得共、住職並びに隠居仰せつけられ候年号月日相知れ申さず候(原漢文)。
意訳変換しておくと
一 尊光寺の中興開基は、玄正天正年間に、尊光寺には女子ばかりで跡継ぎがいなかった。西長尾城が土佐長宗我部元親により落城した時に、城主長尾大隅守(高勝)は息子・長尾孫七郎を、尊光寺の女子と婚姻させ、寺の中興を果たしたと伝えられる。住職就任や隠居時の年号月日については分からない(原漢文)。
ここからは次のようなことが分かります。
①中興開基の玄正は、長尾城主の息子・孫七郎であったこと②長尾氏滅亡の際に、孫次郎が尊光寺を中興したこと。
尊光寺記録は、これ以外に玄正の業績については、何も触れていません。推察するなら、玄正は長炭周辺のいくつかの道場をまとめて総道場を建設して、尊光寺の創建に一歩近付けた人物のようです。実質的に尊光寺を開いたのは、この人物と私は考えています。
尊光寺の本末関係
西長尾城落城後から生駒時代の困難な時代に、長尾一族のとった道を考えて見ます。
彼らの多くは、他国に去ることなく地元で帰農したようです。そして、農民達の中で生きるために真宗に転宗します。ここには、一族の有力者が真宗道場の指導者になり、門徒衆を支配しようとする長尾氏の生き残り戦略がうかがえます。
長尾一族の開基と伝えられるお寺が西長尾城周辺にはいくつかあります。各寺の縁起に書かれた開基年代は、次のように記されています。
1492(明応元年)炭所東に尊光寺1517(永生14)長尾に超勝寺1523(大永3年)長尾に慈泉寺
しかし、ここに書かれた改宗時期については、疑問が残ります。それは、この時期は長尾氏は真言宗を信仰していたからです。それは、つぎのような事実から裏付けられます。
①西長尾城主の弟(甥)とされる宥雅は、善通寺で仏門に入り、真言僧侶として、金毘羅大権現の金光院を開いている。
②長尾氏の菩提寺佐岡寺は真言宗で、長尾氏一族の五輪塔がある。
現在のまんのう町の山間の村々に姿を現していた安楽寺の各道場を、長尾氏は指導力を発揮してまとめて惣道場として、その指導者に収まっていった姿が見えてくるような気がします。それらの道場が江戸時代になって、正式な寺号が付与されていきます。
尊光寺史
以上をまとめておきます
①15世紀後半に現れた蓮如の下で、本願寺は勢力再拡大を果たす。
②その一つの要因が仏光寺が蓮如傘下に加わり、興正寺と改名したことである
③興正寺は蓮秀(16世紀前半)の時に、四国への真宗教線拡大が本格化させる。
④興正寺が阿波安楽寺を末寺に加えることができたのは、16世紀初頭の讃岐への逃散という安楽寺の危機を興正寺が救ったことに起因する。
⑤以後、安楽寺は讃岐山脈を越えて土器川・金倉川・財田川沿いに里に向かって教線を拡大していく。
⑥こうして丸亀平野の山里に安楽寺からの僧侶が入ってきて各村々に道場を開くようになる。
⑦このような真宗浸透を、この時期の西長尾城主の長尾一族は、警戒感と危機感で見守っていた。
⑧それは城主の弟(甥)の宥雅が善通寺で修行後に、金毘羅神という新たな流行神を創出したのもそのような脅威に対抗しようとしたためともとれる。
⑨長宗我部元親の侵攻で在野に下り、その後の生駒氏支配では登用されなかった長尾氏の多くは帰農の道を選ぶ。
⑩その際に、真宗に転宗し、道場の指導者となり、勢力の温存をはかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 尊光寺史 平成15年
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tono202
が
しました