真宗王国と言われる讃岐では、910ヶ寺あるお寺の内の、約半分は真宗寺院です。そして、その中の半分が興正寺派に属するという特色があります。わが家も興正寺派の門徒で江戸時代に、お寺と一緒に現在地に移住してきたという言い伝えを持ちます。わが家のご先祖さんは信仰心が強かったようです。今でも家族が集まる新年会や盆には、座敷の床の間には「南無阿弥陀仏」の六寺名号を掲げて、最後に正信偈をみんなであげてお開きとなります。集落の常会も、つい最近までは持ち回りで各家を廻って、仏壇のある座敷で最後は正信偈を挙げていました。これも「お座(講)」の名残のようです。
そういう中でこんなやりとりが交わされたりします。
「真宗の御本尊はなんな?」「それは南無阿弥陀仏の六寺名号やろ」「親鸞さんは、仏さんは目に見える物ではない、形にできるものではないというたげなで」「ほんなら仏壇に、阿弥陀さんの木仏は奉ったらいかんのな?」「そなんことはないわな、お寺にやって阿弥陀さんを祀っとるとこあるで」
というような真宗の「偶像崇拝論争」が発生して、論争の火の子がこちらに飛んでくることもあります。そこで、こちらもそれなりの「理論武装」のための知識を知っておくことが必要になります。そのためにかつてまとめた「真宗の本尊」レポートを、アップしておきます。
親鸞当時の御本尊と御絵像
浄土真宗の開祖・親鸞は、偶像排除に徹底した態度を示しました。
親鸞の場合、信仰の極地は、色も形もない真如そのもので、光りのようなものであると説きます。具体的には「尽十方無尋光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)」と名付け、その如来の呼び声として「帰命」の二字を加え、「帰命尽十方無尋光如来」の十字の名号を本尊とします。(『中世真宗思想の研究』重松明久)
親鸞の場合、信仰の極地は、色も形もない真如そのもので、光りのようなものであると説きます。具体的には「尽十方無尋光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)」と名付け、その如来の呼び声として「帰命」の二字を加え、「帰命尽十方無尋光如来」の十字の名号を本尊とします。(『中世真宗思想の研究』重松明久)
親鸞が掲げていた十字名号を見ておきましょう。


親鸞の十字名号
よく知られているのが、高田専修寺所蔵の十字名号本尊です。中央に籠文字の「帰命尽十方無尋光如来」の十字名号があり、その上下に、親鸞が83歳の時の自筆の銘文があります。「帰命」(きみょう)とはサンスクリット語で、自己の身命を差し出して仏に帰依すること。
「尽十方無碍光如来」(じんじっぽうむげこうにょらい)とは阿弥陀仏のことです。阿弥陀様の光明があまねく全世界を照らして妨げるものが無いという意味になるようです。
親鸞は、名号本尊の他に、勢至・龍樹・天親・曇鸞・善導・聖徳太師・源信・法然・聖覚等の絵像を尊像として礼拝し、その事蹟を絵像に書き加えて、弟子たちを教えたといわれています。

鏡御影(親鸞)
もう一つのご本尊は、親鸞の絵像です。
生前のものとしては、「鏡御影」と「安城御絵」の2つで、ともに西本願寺に伝えられています。
鏡御影は、鎌倉時代の肖像画の名手藤原信実の子専阿弥陀仏が描いたものです。親鸞が立ち姿で描かれ、その上に覚如筆の讃名があります。親鸞の面貌は鏡に写したかのように繊細に描かれているのに対し、その着衣は素描風で、親鸞の寿像といわれています。讃名は「正信偈」の文で、覚如が延慶3年(1310)に修理した際に、現在の文に改められたようです。
生前のものとしては、「鏡御影」と「安城御絵」の2つで、ともに西本願寺に伝えられています。
鏡御影(コピー)
鏡御影は、鎌倉時代の肖像画の名手藤原信実の子専阿弥陀仏が描いたものです。親鸞が立ち姿で描かれ、その上に覚如筆の讃名があります。親鸞の面貌は鏡に写したかのように繊細に描かれているのに対し、その着衣は素描風で、親鸞の寿像といわれています。讃名は「正信偈」の文で、覚如が延慶3年(1310)に修理した際に、現在の文に改められたようです。
安城御影
安城御影は、御影の上に書かれた銘文が、親鸞83歳の時の筆跡です。絵は建長七年(1255)に法眼朝日が描いたものです。常陸国真壁の親鸞の直弟子真仏房の弟子で、親鸞には孫弟子にあたる専海という僧が、三河にあってよく親鸞に仕えたしるしとして親鸞から授かっていました。それを本願寺の第三世の覚如の長男存覚が、専海の弟子照心房に乞い願って本願寺に譲り受けたもので、鏡御影と同じ様に礼拝されてきたようです。
光明本尊は、名号本尊の初期のもので、親鸞の後に用いられるようになった本尊です。これは念仏する人々を残らず救済しようとするようすを表した曼荼羅様式の絵画で、浄土真宗独自の画像です。
①中央に九字名号(南无不可思議光如来:なむふかしぎこうにょらい)と書かれ、名号光明が放射状に36本描かれる。②左右両側に釈迦如来・阿弥陀如来立像と十字名号・六字名号③右方上部に日本の浄土系高僧を示す絵系図④左方上部にはインド・中国の浄土系高僧を示す絵系図
この種のものは、光明品(こうみょうぽん)とも呼ばれるようです。
宗派によって中央の名号本尊と、左右の人物に一部違いがあります
下図は、聖徳太子を中心に日羅上人や蘇我馬子ら聴衆が描かれています。
宗派によって中央の名号本尊と、左右の人物に一部違いがあります
下図は、聖徳太子を中心に日羅上人や蘇我馬子ら聴衆が描かれています。

最初に触れたように親鸞は偶像崇拝を避けようとしたはずです。
どうして親鸞後に、このような絵像本尊が生まれてきたのでしょうか?
どうして親鸞後に、このような絵像本尊が生まれてきたのでしょうか?
聖衆来迎図
研究者がそのきっかけとなったとして挙げるのが聖衆来迎図です。浄土宗では弥陀の来迎を信じて、来迎会の法要を営んでいました。そこに阿弥陀仏が聖衆を従えて、やや右向きで死者を出迎え、釈迦仏がやや左向きに死者を見送っている聖衆来迎図(迎接曼茶羅)が掲げられるようになります。これが次第に、真宗僧侶の「偶像崇拝」への抵抗感を弱めていく働きをしたというのです。 次に考えられるのは、親鸞やその直弟手たちが尊信した善光寺信仰の影響です。


善光寺の曼茶羅図様は光明本尊によく似ており、後背からの一つの光明が、阿弥陀仏と観音・勢至の三尊仏を照らしています。善光寺の一光三尊形式は、光明本尊の三名号形式に引き継がれていると研究者は指摘します。
光明本尊から、左右上下の人物や化仏を取り去って、中央の名号と上下の銘文だけを残したのが名号本尊になります。
名号は、先ほど見たように親鸞の十字名号が最も早く用いられます。

その後に、九字名号、八字名号、七字名号などが登場します。
九字名号は、南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい、なもふかしぎにょらい)で、これも「阿弥陀如来に深く帰依いたします」です。


そして蓮如によって、六字名号(南無阿弥陀仏)が、名号本尊の中心とされるようになります。しかし、蓮如も最初は十字名号を使っていたようです。
名号は、先ほど見たように親鸞の十字名号が最も早く用いられます。
その後に、九字名号、八字名号、七字名号などが登場します。
九字名号は、南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい、なもふかしぎにょらい)で、これも「阿弥陀如来に深く帰依いたします」です。

八字名号

七字名号
そして蓮如によって、六字名号(南無阿弥陀仏)が、名号本尊の中心とされるようになります。しかし、蓮如も最初は十字名号を使っていたようです。
もともとの名号本尊の形は、蓮台の上に金字の名号を描き、名号と金色の四十八条の光明の線を切金細工で現わし、上下に親鸞以来の十字名号と同文の讃文を墨書したものです。蓮如によって、金色の四十八条の光明が加えられ、絹本着色の美しいものとなります。

方便法身尊像
名号本尊の名号に換わって、光を発する阿弥陀如来の絵像を置いたのが、絵像本尊(方便法身尊像)です。 その背景には阿弥陀如来を登場させるときに、聖衆来迎図の阿弥陀像との関係が問題になったようです。なぜなら親鸞は生前に、阿弥陀如来の来迎について次のように記しているからです。
真実信心の行人(ぎょうにん)は、摂取不捨のゆえに、正定衆のくらい(死ねば必ず極楽浄土で仏になることが約束されている人)に住す、このゆえに臨終をまつことなし、来迎をたのむことに信心のさだまるとき往生また定まるものなり。(「建長三歳閏九月二十日親鸞消息」)
「来迎をたのむことに信心のさだまるとき往生また定まるものなり」とあり、親鸞は阿弥陀仏の来迎を認めていなかったことが分かります。そこで登場するのが今までにない阿弥陀さまです。聖衆来迎図に描かれている右向きの阿弥陀仏でない真向きの阿弥陀仏が生まれます。これを「マムキ(真向)の本尊」としてある寺院が末寺に下付するようになると、各派は真似るようになります。こうして絵像として正面を向いた阿弥陀如来絵像が本尊として、信仰対象になっていきます。

光増寺(東京都葛飾区東金町)
15世紀後半には現れた蓮如は、どんな本尊と礼拝物を下付していたのでしょうか。それを見ておきましょう。
蓮如が初期に下付した名号本尊(縦103.6cm、横38.3cm)
「帰命尽十方無碍光如来」の名号本尊です。この十字名号には別に裏書(縦48cm、幅23cm)があり、そこには次のように記されています。大谷本願寺 釈 蓮如
寛正五年甲申五月七日
方便法身尊号
尾張国羽栗郡 河野道場本尊也
願主 釈 善性」
ここからは、この十字名号が大谷本願寺の蓮如により、尾張国羽栗郡(岐阜県各務原市)の河野道場の本尊として、寛正5年(1464)5月7日に善性へ下付されたものであることが分かります。
注意したいのは、寺院名でなく「河野道場」であることです。
このように蓮如は、寛政6年(1465)までは、本尊として光明十字名号を下付していたことが分かります。
蓮如下付の十字名号
それは紺地に金泥の文字で名号を現わし、四十八条の金色の光明を加え、名号や光明の細い線を切金細工で現わされています。上下には、赤黄・白などで彩色された色紙に銘文を書かれています。
しかし、寛政六年(1465)に比叡山の襲撃を受けて以後は十字名号の下付を取り止めます。
しかし、寛政六年(1465)に比叡山の襲撃を受けて以後は十字名号の下付を取り止めます。
![紙本墨書蓮如上人名号[しほんぼくしょ・れんにょしょうにんみょうごう] - 岐阜県公式ホームページ(文化伝承課)](https://www.pref.gifu.lg.jp/uploaded/image/9122.jpg)
蓮如の名号本尊
換わって下付するようになるのが「南無阿弥陀仏」の六字名号の墨書です。吉崎では一万以上の六字名号を書いて下付したといわれます。
そして六字名号の下付とともに、先ほど見た絵像本尊として「マムキ(真向)の本尊」も下付するようになります。
それは蓮台に立つ尊像と四十八条の光明のみで、化仏や人物、名号等一切のものが捨て去られたものです。古いものは像容全体の線を繊細な切金細工で仕上げていましたが、次第に墨書の本尊に移っていきます。
蓮如は、親鸞絵像や七高僧の絵像、自らの絵像をはじめ歴代門主の絵像も下付しています。親鸞の影像は、札盤の上に経綱模様(同色系統の濃淡を段層的に現わした紋様)の縁をつた畳を置き、その上に座しています。これは天皇や上皇の像と同じスタイルです。その他の影像は、麗縁の畳の上に座したものです。
蓮如は、これらの礼拝物を統一・分類して、次のような形で門末へ下付しました。
①名号や絵像を 「本尊」②開山絵像を 「御影」③蓮如や門主の影像を「真影」
下付する時には、表画に添えて裏書を添付しています。その裏書は、中央上部に表画の題を書き、下部に右から下付者の署名、下付年月日、在所(充所)、本末関係、願主(法名)の名が書かれます。裏書は、別紙に書かれたり、表画の裏紙の左上部に墨書されています。表装される時に、表画裏左上部に張りこまれ、改装される時には、裏書の部分を切り取つて表画に張りつけて、表画が本山から下付された証拠としたようです。そのため下付された寺院では、これを大切に保存して今に伝えられているものが多いようです。
戦国末の天正期になると本願寺には、絵所が置かれて専門職員が礼拝物の製作を行うようになります。
そして、礼拝物のサイズによって価格が次のように決められていたようです。
①基本的な御影の大きさ
縦三尺三寸(約1m)、横一尺四寸(13㎝) 銀一貫匁②小形のものは一般の信者対象で個人用唐紙六つ切りで、縦一尺寸四分(37㎝)、横五寸八分(17㎝) 銀500代唐紙八つ切りで、縦一尺(30㎝)、横四寸八分(14㎝) 銀300代

親鸞御影
こうして蓮如は、本願寺と末寺や道場の間に、次のような関係を結んでいきます。
①仏前勤行に「正信偈」を読むことで、七高僧の教えを門末に教え②御文によって親鸞と門末を結び③御本尊と礼拝物の規格を統一して作成・下付し、本山との結びつきを強め④その後の礼拝物の修繕までも本山で行うことで、本末関係を永続化させる。
以上の一連の流れで、門末を統制することに成功したと研究者は考えているようです。
見てきたように、真宗の礼拝物はほとんどが掛軸です。
そのため「掛け軸教団」と揶揄されることもあるようです。しかし、阿弥陀如来像だけは木造の本尊が奉られていました。例えば、山科にあった本願寺の阿弥陀堂の本尊は、木造の阿弥陀如来像でした。
そのため「掛け軸教団」と揶揄されることもあるようです。しかし、阿弥陀如来像だけは木造の本尊が奉られていました。例えば、山科にあった本願寺の阿弥陀堂の本尊は、木造の阿弥陀如来像でした。
慶長6年(1603)正月に、東本願寺は上野厩橋の妙安寺に伝わっていた親鸞聖人の本像を迎えて、本願寺から分立します。いわゆる本願寺の東西分裂です。以後、両者は激しい戦力拡張運動を展開して、しのぎを削るようになります。翌年、西本願寺では分立後の勢力維持のために、地方の念仏道場に、寺号を与えて寺に昇格させると同時に、木仏の下付を始めます。こうして、慶長7年から寛永19年までの約40年間に、183カ所の道場に木仏を下付しています。


尊光寺(まんのう町種子)に下付された木仏本尊
下付された木仏が損傷した時や、寺格が昇進した時には再度下付されているようです。名号中心といっても、木仏を完全に無視することはできなかったことがここからはうかがえます。 しかし、念仏者たちは蓮如の次の教えを大切にしています。
他流(他の仏教宗派)に、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流(本願寺)には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」
(蓮如上人御一代聞書69条:浄土真宗聖典註釈版1253頁)
阿弥陀如来の救いの本質は、ただただ名号にありという意味です。このことを決して忘すれるなということでしょう。
以上をまとめておきます
①浄土真宗には3つの本尊(木物本尊・絵像本尊・名号本尊)がある
②親鸞聖人は「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を本尊とした。
③以来、本願寺では本尊といえば十字名号であった。
④その中で蓮如は、本尊を「六字名号」に変更した。
⑤第9代実如の頃から「絵像本尊」が、主流になった。
⑥江戸初期に本願寺が東西に分裂すると、両派は教勢拡大のために競って、木仏が下付されるようになった。そのため「木物本尊」が一般的となった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。







コメント
コメント一覧 (2)
Youtube「桜嵐坊の仏教部屋」を運営しております。桜嵐坊と申します。
https://www.youtube.com/channel/UCtpBdi6lqVVdkTZ03wN7cDw
「浄土真宗の本尊は、名号→絵像→木仏と変化してきた」を拝見させて頂きました。
とても纏まっていて、とても分かりやすいですね。
僕の番組で、このお話を紹介紹介させて頂きたく存じます。
ブログ主様のお名前をお教え頂けませんでしょうか?
何卒、ご一考宜しくお願い致します。
合掌
桜嵐坊🌸
tono202
が
しました
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「浄土真宗の本尊は、名号→絵像→木仏と変化してきた」を拝見させて頂きました。
とても纏まっていて、とても分かりやすいですね。
僕の番組で、このお話を紹介紹介させて頂きたく存じます。
ブログ主様のお名前をお教え頂けませんでしょうか?
何卒、ご一考宜しくお願い致します。
合掌
桜嵐坊🌸
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