近世になって検地が行われ各村々の石高が決まると、その石高に応じて年貢が徴収されるようになります。年貢は米俵で収められました。それでは、各村々からどのようして年貢俵は、藩に納められたのでしょうか。その動きを今回は、高松藩統治下の旧満濃町10ヶ村でみていくことにします。テキストは「髙松藩の米蔵・郷倉 新編満濃町誌241P」です。
髙松藩には次のような5ケ所に米蔵がありました。
髙松藩米蔵一覧
髙松藩の5つの米蔵
その中で高松城内の米蔵に次ぐ規模が宇多津米蔵だったようです。

どれくらいの俵が宇多津には、集まってきたのでしょうか?
1684(貞享元)年の「高松藩郡村高辻帳」には、字多津の米蔵に納まる年貢米のことを次のように記します。
①鵜足・那珂郡など48ケ村の村高合計20335石、
②その石高の免四つ(免一つは石高一石に対し年貢米一斗)を年貢米とすると12134石
③俵数にすると30335俵
ここからは3万を超える俵が、毎年11月末までに後背地の村々から宇多津の米倉に運び込まれていた事になります。鵜足郡と那珂郡に属する旧満濃町の旧十か村の納入先も、宇多津の米蔵でした。十ヶ村のを数字化したのが次の表です。

旧満濃町10ヶ村石高・年貢一覧
十か村の村高・俵数などの内訳を表にすると、上のようになります。
ここからは次のようなことが分かります。
①満濃町旧十か村の総石高は5695石
②四割が年貢とすると2278石
③俵数にすると約5695俵
④石高が一番大きい村は、吉野村 次が長尾村
五十三次大津 牛車
五十三次大津(歌川広重)に描かれた米俵を運ぶ牛車
これらの俵は、どのようにして宇多津まで運ばれたのでしょうか?
私は最初は、各農家の責任でそれぞれに運んだと思っていました。しかし、そうではないようです。一旦、各村に割り当てられた年貢米は、庄屋の庭先や後には、郷倉に運び込まれて、計量し俵詰めされたようです。それから何回かに分けて、庄屋や村役人の付き添いの下で荷車や牛車で宇多津に運び出されたようです。

宇多津までの輸送ルートは、どの道が使われたのでしょうか
蔵米運搬ルート
旧満濃町の村々からの年貢米輸送ルート
基本的には宇多津・金毘羅街道が使われたようです。
宇多津街道5
右が土器川沿いの宇多津街道

吉野村など土器川左岸の村々から宇多津へは、
①東高篠村上田井の三差路に出で、ここから右に土器川沿いの道をたどって北へ進む。
②垂水村荒井の茶堂前前から土器川を渡り、石ころ道を斜めに東に向かい対岸の岡田西村の成願寺堤に上る。
③ここから土器川右岸を北に向かい、川原の一里塚、樋の日の大川社、飯野山の西を通り、連尺高津街道を横切って丸戸に出て宇多津へ入る。

宇多津街道4
宇多津街道
土器川右岸の村々からの年貢を積んだ車は
①片岡から天神、町代、大原を経て打越番所を通過し、
②追分けで道を左にとり打越池沿いの道へ進み栗熊金昆羅街道を横切って岡田上の赤坂に出る、
③赤坂から西山の東側の道を通って平塚を過ぎ川井に出て宇多津街道に合流し、以下は同じです。
髙松藩米蔵碑
宇多津の髙松藩米蔵跡(現町役場北附近)
 宇多津の米蔵は、町役場の北側にありました。

こめっせ宇多津
こめ(米)っせ宇多津
その一部が「こめっせ宇多津」として、残されながら活用されています。
宇多津 讃岐国名勝図会3
宇多津(讃岐国名勝図会)
もともとこの辺りは古絵図を見ると、大束川河口の船場に近く、周りを雑木林に囲まれた広い敷地で、そこに藁葺の蔵が三棟あり、ほかに蔵番屋敷があったことが分かります。拡大して見ましょう。

宇多津米蔵
宇多津の米蔵(御蔵)
蔵番屋敷は、藩役人の部屋・年貢米検査所・蔵番の部屋などに仕切られていました。年貢が運び込まれるときには、藩の蔵役人が出張してきて、村々の庄屋や組頭と一緒にお蔵米の収納を監督したようです。その期間は納入関係者が民家に宿泊したので、周辺は賑わったと云います。
 高松藩の宇多津米蔵は、先ほど見たように東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に比べると、他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。17世紀にここに米蔵が置かれると、現在の地割が整備され周囲に建物が増えていったようです。
宇多津のお蔵番はいろいろな引き継ぎ事項があったので、多くは世襲だったようです。
  年貢米は、どのようにして検査されたのでしょうか

年貢取り立て図
年貢取立図

村が納入した俵の中から二俵か三俵を選んで、庄屋や組頭の村役が立ちあいの上で桝取が量ります。枡取は、その中から五合また一升を抜いて役得とするのが公認されていたようです。
一斗枡[四角]|交易|解説・民具100選|展示室|関ケ原町歴史民俗学習館
トカキ棒での計測
桝ごとにトカキを使って五粒の米がこぼれれぱOKだったようです。桝取りは、村全体に大きく影響する責任者でしたから、前日には神社にお参りして身を清め、無難を祈りました。

年貢納入図

貢米検査のときにこぼれ落ちた差米は、検査役人の役得となります。また収納の時の落散米は、下代蔵役の役得です。これは「塵も積もれば・・・」方式で、一藩での合計が数千石にも達することもあったようです。結果として大きな額になります。「おいしい役職」なので、蔵役人の交代や人選には譲渡銀がつきものだったようです。百姓達の怨嗟が集まるのもこの時です。
年貢取り立て図2

村の年貢が皆納されると、それまでに数回に分けて納めた仮受領証と引換に美濃巻紙にしたためた一通の「御年貢皆済目録」が交付されました。皆済目録には、その村の村高・本途物成・小物成・口米・御伝馬入用・水車運上・六尺給米・御蔵前入用・夫食拝借返納等の納入高や引高が列記されます。そして最後に次のように記されています。

「右は去辰御年貢米高掛物共他言面の通皆済に付、手形引上一紙目録相渡上は 重て何様の手形差虫候とも可為反き者也

その上に、年号と代官の署名・捺印をして、庄屋・組頭・百姓代あてに下付されました。
大坂蔵屋敷

  納められた年貢米は、大坂の藩の蔵屋敷に船で運び込まれて、大坂商人によって流通ルートに乗せられていく事になります。

   最後に村の米が集められた郷倉について、見ておきましょう。
郷倉は、一村に一か所ずつありました。これは年貢米の一時収納所でもあり、また軽犯罪人の留置場でもありました。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。旧満濃町旧十か村の郷倉のうちで、記録や古地名によって、その位置が分かっているのは次の通りです。
吉野上村郷倉 大堀一二七八番地
岸上村郷倉  下西村七九五番地
真野村郷倉    西下所一二七四番地
四條村郷倉    大橋七六0番地の二
公文村郷倉      蔵井一九六番地の二
東高篠村郷倉 仲分下一三二0番地
吉野下村郷倉 吉野下村六0四番地
これらの郷倉の規模や、明治以後の転用先についてはよく分かりません。
ただ吉野上村の郷倉については吉野小学校沿革史に次のように記されています。

  明治七年本村字大坂一二七八番地の建物は旧幕時代の郷倉合にして、その敷地八畝四歩、建家は北より西に由り規矩の形になれり。西の一軒は東に向ひ、瓦葺にして桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下付けり。その北に壁を接して瓦葺の一室あり。・桁行三間、梁間二間にして東北に縁つけり。その次を雪隠とせり。北の一棟は草屋にして市に向ひ、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付けり。西の二棟を修繕しスて校本口にえて、北の一棟を本村政務を取扱う戸長役場とせり。時に世は益々開明し、教育の進歩気理に向ひたるを以て生徒迫々増かし、従来の校舎にては大いに教室狭除を告ぐるに至れり。明治八年四月、西棟の市に於て三間継ぎえを弥縫(一時的な間に合わせ)せり。其の当時、庭内の東南隅に東向の二階一棟新築せり。これは本村交番所なり。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付けり。     (以下略)

吉野上村郷倉平面図
吉野上村郷倉平面図

意訳変換しておくと
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
時に世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
    (以下略)
ここからは次のようなことが分かります。
①現在の長田うどんの南側に吉野の郷倉があった。
②郷倉は明治になって、一部が役場、残りが小学校として使用されるようになった。
③生徒数が増えた明治8年には、校舎を増築して教室を増やした。
④同時に、新たに交番を建設した。
郷倉
山形県の郷倉
幕府は、1788(天明8)年2月に「郷倉設置令」を出して、飢饉に備えて村ごとに非常救米の備蓄を命じています。
高松藩や丸亀藩でも一斉に、郷倉が設置されたはずです。それが、明治になって戸長役場に利用されたり、増設して小学校、あるいは交番になるなど、村の中心機能を果たす建物に転用されていた事がうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   髙松藩の米蔵・郷倉 新編満濃町誌241P
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