瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2006年10月

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日本名水のわき出す湯船山の札所から
ヒコバエが出始めた千枚田のあぜ道を下りていく。

見慣れない建物が田んぼの中に建っている。
遠くから見ると輝く水面が見え、お風呂のようにも思える。
う~む、こんな所に露天風呂かと一瞬、思う

近づいてみる。正体は?
湯船山の名水を引き込んだ共同洗い場だ。洗濯機も置いてある。
澄んだ水が、惜しげもなく流され続けている。

その上の田んぼでは、
もみがらを昔ながらの方法で、焼いている。
「芋を焼いたら、おいしいやろな」と、つい思う。

大師と同行二人というより
煩悩と二人三脚で歩いていた秋の半日でした。

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小豆島の北西部の札所を歩いていると
いやでも目に入って来るのがこの観音様。

大きいです。
岡山の牛窓からも親指のように、飛び出しているのが見えます。
私は最初、ウルトラマンかと思いました。

このお寺は、島の札所ではありません。
地元では、もうひとつ人気がないようです。

私も最初は、視野の中に入れないようにしていたのですが・・
それもやはり、不自然で。

頭まで、エレベーターで上れるそうです。
今度一度、上って来ようかとも思っている今日この頃です。

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高松と小豆島を結ぶフェリーの甲板から
船を見ています。

備讃瀬戸は一日に2000隻の船が通るそうです。
いろいろな船が行き交います。

その中で、私にはどんな役割を持った船なのか分からない船がたくさんあります。
そんな謎の船を、紹介します。

分かる方がいらっしゃたら教えてください。

1番上は、鉱石運搬船かな。かなり大きい船です。

2番目は、よく見かけます。瀬戸内海を頻繁に行き交ってます。車運搬船かなとも思ったりするのですが・・。

3番目は、備讃瀬戸のど真ん中で、停船していました。双胴船です。何かを調査しているようにも見えました。

4番目は、今にも沈みそうに見えます。海の砂利採取船かな?

海の上も不思議がいっぱいです。

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東山魁夷の博物館に行ったついでに、沙弥島へ行きました。
島と言っても、今は埋め立てで陸続きとなっています。

島の長崎の鼻の入り江に、柿本人麻呂の碑が建っています。
彼は、ここのくぼみに骸となった死者を見て、
ともらいの長歌を詠んでいます。

ちょうど太陽が西に傾き、高見島に隠れようとしています。
漁を終えて、港に帰る漁船が通り過ぎていきます。

雲が一瞬強くかがやき
そして、サンセットです。

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ぼくは、今日は見張り番
おばあちゃんが畑で取れた小豆をほしています。

乾してたたいて、皮から出して・・。
終わるまで、野良犬も野良猫も通しません。

明日は、これを蒸してアズキご飯だそうです。
でも、ぼくはアズキご飯は嫌いです。

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銚子渓にあるお猿の国の展望台に登ってきました。
秋の快晴で空も海も真っ青。
毛繕いをしている猿まで青く染まりそう。

空気も澄んで岡山牛窓方面が、思いの外に近くに感じられます。
真下には残石公園のある小海(おみ)の漁港。

その沖には海苔網が規則正しく広がります。
ちょうど昼時、作業を終えた漁船が2隻、
白い航跡を残して港に帰ります。

石の上に座り込んで、
猿と一緒に、眺めていました。

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島で一番元気な漁師集落・四海(しかい)
等空庵でお参りを済ませ、次の松林寺への道を歩み始める

黒い焼き杉の壁に白い漆喰の土蔵、
いいふんいきだ。

うん! なに・・

近づいてしっかり見つめる。
ニヤリ

時を経ると、打ち付けられた標識もとけ込んでいるよう。
私は癒されました。

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牛の形をした島の背中中央にある小海(おみ)集落。
北に開けた海の向こうには、岡山の牛窓が見える。

この海岸に一列に並べられた石たち。
ただの石ではない。
おおそれおおくも・・
この石には、肥後細川家の印章が刻まれている。

大阪夏・冬の陣で、破壊された大阪城再建の石垣は、
船で運ぶに便利な瀬戸の島々から切り出された。

大阪城工事完了の「お達し」が島に届けば、お役ご免。
細川家の役人・人足は島を去り、石だけが残った。
人呼んで「残念石」、あるいは「残石」

どうやって運ばれたかは、写真で推察あれ。
いまは、りっぱな公園ができています。

これも瀬戸の海を行き交った「船」として、
私は「登録」しています。

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島遍路は、四国遍路のように立派なお寺さんばかりではありません。
集落の人たちが守り続けているお堂も、札所になっています。

住職さんはいないけれども、地元の人がお接待をしたりしています。

ここは小豆島遍路 第七十三番救世堂です。
いつものように般若心経をおつとめして、堂のなかにはいると

あら・・
「自由にどうぞ」の言葉が・・・
これも接待の一つのかたち。

ありがたくいただき、合掌。

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島を牛の形になぞらえると、後足の付け根の場所にある苗羽(のうま)の町並み。
島遍路で、このあたりの札所をまわっていると、懐かしい匂いがしてくる。

もろみのにおいだ。
このあたりは、醤油造りの蔵元さんが倉庫を並べている。

よく見ると「登録文化財」の認定書が、あっちにもこっちにかかっている。
これだけの狭い場所に、「登録文化財」が密集しているのは、四国ではここだけだろう。

中をのぞいてみると、大きな木の樽が置かれ、今も現役で使われている。
そういえば、二十四の瞳の壺井栄の父も醤油樽作りの職人だったと聞いている。

汗にまみれた若い頃の苦労の連続が、薄暗い蔵の中でもろみを醸し出すように、
彼女の胸の中で暖められ、40歳を過ぎてから作品として結晶していったのかもしれない。

そんなことを考えながら醤醢の町並みを、
次の11番札所の観音堂めざして歩いた。

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 = 島遍路の途上で出会った石仏たちを紹介します。=

目に入ってくる石仏たちが、
大切にされていることがよくわかります。

かわいくなって、なでなでして、
そして合掌です。

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島遍路をしていると、札所の墓所で必ず見るの。
それがこのピラミッド。

古い墓石を集めて、積み上げている。
処分するのではなく、集めて積み上げ新たなモニュメントになっている。
島らしい気遣いだと思う。

更地になった墓地には、新しい墓石が並んでいる。

どうも同じ時期に、島全体で一斉にこの「ピラミッド」作りにとりくんだ気配。
古老にきいても、町史を調べても、分からない。

私にとっては島の七不思議のひとつ。

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三都半島の付け根にあたる段山(551叩砲ら内海湾を見下ろしています。

一枚目、正面の山が島遍路の第一番札所のある洞雲山
    この下の町並みが醤油倉の並び、落ちついた雰囲気の苗羽(のうま)
    湾を外海から隔てる半島は、わずかばかりの砂州でつながっています。

天然の良港として、この内海湾は古くから利用されていたのが納得できる光景です。
いまでも台風が西日本を通過する際には、
瀬戸内海を航海する内航船100隻近くの船が、この湾に入って避難します。

2枚目は、その西で内海湾の入口にあたります。
    手前の山裾に開けるのが西村、オリーブ公園があります。
    湾を隔ててむこうがわが田浦。「岬の分教場」が、細いくびれた場所にあります。
 
二十四の瞳では、足をくじいた女先生は、
この海を伝馬船でこちら側の西村に帰っていきました。

その向こうの小さな島が福部島。
そのかなたに、四国志度の半島がかすかに見えます。
霞のかかった瀬戸の一日です。   

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島遍路の第一番洞雲山からきつい坂道を降りてくる。
坂手の集落を見下ろせる小高い丘の上に、その文学碑はあった。
碑文の前には、醤油の島らしく大きな石臼や藍瓶が置かれている。

二十四の瞳の原作者・壺井栄のものだ。
近づいてみると
 桃栗三年
 柿八年
 柚子の大馬鹿
 十八年
と読める。

「なんのこちゃ わからん」と呟き、また遍路道を歩く。
でも、語調がいいので、つい口の中で般若心経の一節のように唱えてしまう。
そして、私の記憶に残る。

後日、訪れた「岬の分校」にある壺井栄記念館に、夫である壺井繁治がこうコメントしている文章に出会った。
 大馬鹿と軽蔑される柚子でも、18年もすれば実がなる。
 下積みの民衆に対する共感と、40歳を過ぎ 、
 作家としての出発が遅かった栄自身を比喩したものでは・・」

そうか 「大馬鹿」には、「慈愛」が込められていたのか。
それでやさしい響きがあるのかと、自分で納得。

そして、わたしの好きな言葉となった。

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小豆島遍路道 石門への道で見つけた言葉です。
看板が壊れ、地面に落ちていました。
地に還っていく途上です。

遍路道を歩いていると、いろいろなメッセージが投げかけられてきます。
言葉であったり、風景であったり、仏像であったり、
そのメッセージへの自分なりの回答を考える。

これも遍路道の楽しさのように私は、思っています。

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秋のよく晴れた朝の内海湾。
晴れてはいるんですが朝靄が出ています。
鏡のような海をサン・オブ・シーが航跡を残して高松へ出港していきます。

船の向こうの半島の低くなった所に、
映画「二十四の瞳」で使われた「岬の分教場」があります。

こちら側の西村地区から向こう側の田浦までは、直線距離では2丗らず。
船で行けば数分の距離です。
でも、陸路だと、ぐるっと内海湾を回らなければならず13劼砲覆蠅泙后
それを、小説の中で大石先生は自転車で通いました。

岬の分校のセットは、海のすぐそばにあり潮風を受け、
年月を絵重ねるにつれ存在感を増したように見えます。

教室の中は、昭和の初めの雰囲気が残されています。
机に置かれた訪問者ノートには、教師の卵の決意が書き込まれたりしています。

ロケーションがいいからでしょうか、
観光地ですが、私にとっては落ち着く場所です。

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丸瓦の上には茅葺きの屋根。
8枚の木戸
一見すると、島の庄屋さんの古い大きな邸宅のようにも見えますが・・

これが変身すると・・
農村歌舞伎の舞台に早変わり。

この地区の人たちが毎年10月に小さい部落毎に、順番に公演を担当します。
昼間から夕暮れまで、演目は続きます。

前の方に陣取るのは、舞台に上がっている地区の人々や親族たち。
「わりこ弁当」持参で、酒を交わしながら、
舞台を見ているのか酒を飲みに来たのかわからない、賑やかな客席です。
でも、本当に楽しそう。
もちろん、桟敷席もありますよ。

こういう観劇もあるのです。

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例のごとく島を牛の形にたとえると、頭の部分が前島です。
その目のあたりにあるのが重岩(かさねいわ)です。
なんで、そんな名前がついたのか、それは写真を見ていただければ納得でしょう。

土庄港へ入ってくる船は、この下を通ります。
船からも、ぽつんと飛び出したこの岩が見えます。
 
重岩からは、どんな景色が見えるんだろう。
行ってみることにしました。

足下に見える集落は小瀬(おぜ)
島の最西端にある集落です。
すぐ真下に海が見えます。

隣の島、小手島(おてしま)との間の瀬戸を、
高松へ向かう船が行き交います。

寝っ転がって、秋の空を見るには最高の場所でした。

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この墓標に出会ったときにはどっきり。
じっと見つめていると、気分がよくなってきました。

なかなかこう言えない状況の中に生きた人たちが、
この言葉を墓標に選んだ思いが、伝わってくるように思えました。

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最初下から見たときには、「島のコロッセウム?」かなと思いました。
そして、次にだんだん畑? 千枚田 ? いや墓地の予定地かな?
それにしては、石垣がふるびているけど?

正解は・・・
秋祭りのちょうさ(太鼓台)のかきくらべの桟敷なのです。
八幡神社の山の傾斜をうまく利用して、江戸時代から使われてきたようです。

そしてこの桟敷席は、個人の所有物で売り買いもされています。
まつりの当日、いい桟敷席に親戚や友人を招いて、
かきくらべを見るのはかつては、島のステータス・シンボルでもあったようです。

先日の日曜には、秋晴れの中、多くの人たちが桟敷の高みから
祭りを楽しんでいました。

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島の最南端の集落・神浦漁港の波止の上で見つけた船。
祭りの時だけご用があります。

ちょうさ(太鼓台)を、三都半島のつけねにある池田八幡さんまで運ぶのです。
つまり神様をのせる「祭り船」です。

神浦のちょうさは海から神社に入っていきます。
「おしこみ」と呼んでいます。
これが祭りのクライマックスになります。

それ以外の日は、この船は波止場の上で眠っています。

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地蔵崎灯台方面から現れ、男木島灯台方面へ西航。

自動車運搬船だから、水島の三菱か、
広島か防府のマツダに車を積みに向かっているのかな

名前はANNA
女性の名前がつけられる西洋の船は、優雅に感じる。

日本も紫式部とか、小町丸なんていうのが出てきてもいいではないでしょうか?

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自分にないものをもとめ、彷徨った後に
我が心をしっかりと見つめよということかな?

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神浦(こうのうら)と読みます。
小豆島を牛の形にたとえると、その前足が三都半島。
その前足の甲に当たる部分にあり、島では最南端の集落です。

皇子神社のある権現崎が集落と港を西の風から守ります。
地形から見ても、備讃瀬戸を行き交う沖乗りの船の風待ち・潮待ち港として、
非常の際には利用されたのではないかと思います。

塩飽の島々に共通する焼き杉の壁と、
積み上げた石垣が特徴的な落ち着いた民家が続いています。

小高い丘に登ると、穏やかな瀬戸の海が広がります。
私の好きな集落です。

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小豆島もお祭りの季節です。
島では「ちょうさ」と呼ばれる太鼓台が主役です。
各集落のちょうさが八幡様の境内に集まり「かきくらべ」
これが祭りのクライマックスです。

海岸を見ると、船で神社のそばまで乗り付け、
「おとこ衆」と「おんな衆」に分かれて弁当を広げていました。

よくみるとこの船は、例の「海苔船」です。
幅が広くて、安定性があって、みんなでお祭りに乗り合わせてくるには最適です。
海苔の収穫以外でも使用されているのを発見しました。

おだやかな瀬戸内海ならではの秋祭りの一こまです。

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こんな言葉を墓石に残せるのは素敵なことに、私には思えます。

どんな生き方をした人なのか

どんな人たちに見送られたのか

うーんとうなりながら
ついつい立ち止まって考えてしまいます。

遍路道はそんな道でもあります。

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〇?綣圈、 碁会所 → 石橋 → ぞ臆亜,箸瓩阿辰浸笋痢崢湘腑好織鵐澄璽鼻弭圈
最後のゥ團鵐櫂鵐ャラリーをめざす。

美術館巡りと言うよりも、遊び心で作った「隠れ家」めぐりをやっているよう。
さぬきうどんのデープな「隠し球店」を、地図も持たすに迷いながら探し当てる気分。
さて次は、どんな「家」が、私を待っているのか。

自転車のペダルを、こぐリズムも軽い。
そりゃそうだ、来るときは上り坂、帰るときは下り坂。
鼻歌も出てくる。
「いい日旅立ち」だ。

5分ほどで、三菱マテリアルの生協があるカーブへ到着。
その坂の下に怪しげな建物。
古びたトタンの屋根や壁が、ペンキで白く塗られている。
老婆が、白い厚化粧をしたような印象。

入口の扉の
上には「幼稚園」の紋章、
左には「卓球場」の木札。
ここはいったい何?

にこやかに入口で迎えてくれた女性にたずねる。
「なんでピンポンギャラリーなんですか」
その答によると

,海侶柀の起源は、木造の「牛舎」としてスタート
△修慮紂一部を増築し「幼稚園」へ
さらに、閉鎖後は地元の奥さんたちの「卓球場」としてリニューアル
い海竜_颪法嵌?儡曄廚慍變錣癖竸函

「戦後の大波」をくぐり抜け、生き延びてきた建物だ。
これを聞いただけで嬉しくなってくる。

展示してある作品よりも、この建物自体が主役のように私には思えてくる。
多分、作者の意図もそんなところにあるのでは・・。

説明してくれた女性に「福竹(失礼ベネッセ)の職員ですか?」と尋ねると
「いいえ、ボランテイアで神奈川県からきています。12月までここでいます」
とのこと。
どんな運営方法がなされているのかも、気になった。

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豊島の唐櫃岡(からと)の集落の上の岡からです。
唐櫃港からフェリー「わかしお」が白い航跡を引きながら土庄に向けて出て行きます。

中央左ですれちがっているのが岡山航路のフェリーです。

右手中央の島が無人島の葛島。
そのむこうのやまなみは岡山の牛窓方面になります。

音もなく風もないおだやかな瀬戸の一日でした。

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なげかないから美しく感じる人はいます。

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小豆島や直島の漁港につながれているこの船。
幅が広くて、前になんか変なバーがあって・・。
いったい何に使う船なのか?

答えが分かったのは、海苔網の収穫シーズンになってから。
下の写真のように、網にもぐり込んで海苔を収穫する船なのです。

今、島周辺は海苔網が張り終えられた所です。
夜には、網の位置を知らせるために置かれたブイが瞬いて、
いつもとちがう海の景色になります。

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「歯医者」「石橋」へ行って、この企画のコンセプトが私なりに分かってきた。
4番目の「床屋」に自転車で向かう。

直島の北は、三菱マテリアルの天領のようなもの。
夕張炭坑や別子鉱山にあったような社宅が道路の両側にならぶ。

時代を経て自然の中にとけ込んでいるように感じる社宅群だ。
ゆるやかに続く坂道を立ちこぎして、登っていく。

島の北にある工場手前のカーブに「床屋」はあった。
こんどは通り過ぎることはない。

屋根に、たこと富士をいただくなんて、銭湯の絵を思い出す絵柄だ。
ふざけている。でもにやりとしてしまう。

店じまいしたまま、何年も放置された床屋の外観。
今度は、どんな企みがと・・。
ワクワク

誰もいない。ボランテイアの係員が一名だけ。
入ってみる。
そこは・・・。

たこに占領された空間でした。
詳しくは書きません。
一番奥の部屋でくつろぐ大だこのおやじとさしで話してきました。

しかし、高校生の文化祭の企画と同水準。
最初は、肩すかしを食らったような感じ

でも、細部にまで凝っているので、だんだん楽しくなってきくるのです。
さすがプロのしごとです。

さあ、さいごはピンポンギャラリーへ

蛇足
この付近、かつては工場の煙害で木々が枯れ丸裸の風景がつづいた所。
自然の治癒力と人々の努力により緑が還ってきています。
時の流れと風景も変わっていく。当然のことに気づいたのです。
 

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おしておして

僕くるま大好き

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この言葉も、私たち巡礼グループの合い言葉になりました。

人付き合いの難しさの愚痴を聞いては、
最後にこの言葉を一言

そして、大笑い。
笑いは世界を救います。

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西光寺は、土庄の街の中にあり、後の岡に五重塔を持つお寺。
この塔は、土庄の人々の心のランドマークタワーでもあると私は思っています。

自由俳人の尾崎放裁に、「死に場所」を提供したのもこのお寺。
境内には大銀杏と、その下に放裁の歌碑があります。

般若心経を終えて、入っていった本堂の柱にあったのがこの言葉でした。

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「歯医者さん」で「チケットをお求め下さい」とすげなく撃退された私。
本村のJA支所を改造したただぴろい事務所でチケットを手に入れる。2000円なり。
このチケットで5つの作品と常設の「家プロジェクト」の全てを見ることができる。
家プロジェクトは以前に「体験」しているのでパス。

反撃開始。
まずは一番近い「碁会所」
庭に植えられた椿と,
その下にしつらえられた岩松が水を欲しがっている。

プランとできたものの乖離。
まあ、こんなもんでしょう

そして、「石橋」へ。
たどりつくまで、海に注ぐ川にかかる「石の橋」ぐらいをイメージしていた。
狭い通路と焼き杉の壁が続く瀬戸の港町を行く。心地よし。

「石橋」到着。
これは真っ正面から正攻法でとりくんでいた作品。
荒れ果てていた島一番の塩田主「石橋家」の豪邸に手を入れ、「作品」に仕立てたもの。

これには、私は考えさされることが多かった。
「アートは過疎を救うか」なんて自問したりしていた。

母屋とつながる海鼠塀の倉、そして土間に敷き詰められ石畳。
居心地のいい空間ができあがっていた。

そして、そこには「石橋」もあった。
ユーモアを感じてニヤリ。

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明治の半ばに、瀬戸内海を汽船で東から西に向かったフランスのコトーは、次のように言います。

「島々の大半は人が住み、よく開墾され、

人家や寺院で覆われている。

変化に富んだ外観によって、

これらの島々は族行者に素晴らしい眺望をあたえる」

と人々の暮らしや、その背後の歴史にまでまなざしを向けて、

瀬戸内海の景観を楽しんでいます。

多くの人たちによって受け継がれてきたものが、
いま継承者が見つからず消えていこうとしています。

小豆島・中山の千枚田も写真の通り、
耕作が行われない田んぼが増えてきました。

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島の高みをだんだん降りてきて、下界に近いところからエンジェルロードの二景です。

天上から降りてくると、世俗色がでてきます。

あしからず。

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カナダの女性キヤサリン・バクスターは数カ月の日本旅行を行ない、1895(明治二八)年に旅行記『美しい日本で』を出版。
そのなかで自然景と人文景・生活景が一体となった瀬戸内海の風景を賞賛。

美しい瀬戸内海を、これからぬっていこうとしていました。

神戸から下関まで主な島の問を240マイルにわたって広がる長い海峡、

そこは島々で満たされていました。

ある島は大きく緊密に人が住み高度に耕され、

またある島は、単なる名もない岩礁で海の男を困らせていました。

山々は七〇〇〇フィートあり、海辺には村が多く、樹林の問に寺院や廃城がきわだち、

滑らかな水面に四角い帆をもったジャンクや漁船が浮かんでいました。

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沈む夕日の中

少年が何度も何度も

空に飛行機を離していました。

鱗雲がきれいな秋の夕暮れでした。

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直島南の柏島付近から姿を見せ、男木島灯台沖をゆっくりと東に進んでいきました。

ひさしぶりに間近で見た巨大船でした。

こんな船を昔の塩飽の海賊衆が見つけたらどうしたのかな?

島が動いていると大騒ぎになったかも。

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小豆島の西にある豊島(てしま)の最高峰・壇山(337叩砲ら西方を見ています。

足下の集落が家浦。

正面の島が香川県では井島、岡山県では石島と呼んでいます。
島の真ん中に県境が走っています。

その向こうにかすかに見えるのが宇野港。
豊島航路は、この宇野港から豊島の家浦港と唐櫃に寄港し、土庄をめざします。

一直線の航路でなく島々の間を抜けていきます。そのたびに景色が変わるお気に入りの航路です。

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くるしさをくるしんではいけないということ?

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私にとっては耳にいたい言葉ですな。

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どこの庵にあったものか・・
記憶が・・・

向上も堕落も自分にあるのですな・・・

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土庄と直島を結ぶ「季節・曜日限定運航」の「アート・シャトル」の初日便に衝動的に飛び乗った。
でも、この便は朝の一往復のみ。

家の浦港についたはいいが、今度小豆島に直接に帰る便はない。
高松経由か宇野経由。

どうしょうか。
港の赤いカボチャの前で『考える人』になる。

せっかくきたのだからこの際に私も「アート」なるものを楽しんじゃおうと、
港前のレンタルサイクルを借りていざスタート。

この時点では「スタンダード2」が、なんたるものかを全く知らず。
「地中美術館の方でやっているのだろう。もうあすこはええわ」という気分で、
港町の雰囲気の残る本浦へペダルをこぐ。

設計士が「ええ仕事しとるな」と思わせる小学校・中学校の建物前の坂道を下っていくと・・。
白いコンポストに「standard2」と書かれたものが道路の片隅にある。
なんなんこれ?? 
見回しても何もない。とたんがさびて古ぼけた洋館風の建物があるだけ。

上がっていくと、受付の女性が「チケットを拝見します」と言われる。
そんなもの持っていない。
スゴスゴ撤退。
その時に撮った写真がこれ。

さて、この中にどんな「アート」が・・。うーん好奇心はわいてきたぞ。
以下は、次の機会に・・

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直島での「スタンダード2」開催にあわせて、7日に小豆島と直島をダイレクトに結ぶ臨時航路がひらかれました。12月までの金土日のだけの限定運航だそうです。早速、載ってみることにしました。

使用されるのは四国汽船の高速船「サンダバード」(19邸法
初日、予定より早く土庄港に、その姿を見せました。そして9:20分出港。

この日は台風の余波で波が高く2階の展望デッキに上がることができなかったのが残念。
客席の後の甲板にも、ズドンズドンと波がかかります。

直島への航路は、予想していた北回りではなく、備讃瀬戸経由の南回りをとりました。
小豊島沖のアララ島 → 札田岬 → 直島の海釣り公園と柏島の間をぬって → オカメの鼻 →
地中美術館を海からながめて、北に回り込んで新しくなった家の浦港へ入ります。

所要時間は40分あまり。
ミニ・クルージンが楽しめました。

広島と愛媛の芸予諸島では「おさんぽクルージング」と名付けられ、島と島を東西に結ぶ高速艇が行楽シーズンの休日だけ運航してきました。その「備讃瀬戸版」ともいう感じの企画です。

直島のスタンダード2の作品(家々)を回りながら、考えたことは次のようなことです。
“?樟ジ佑猟蟯﨧厦は、南北を結ぶものばかり。東西に結ぶ航路は貴重。
◆崚腓氾腓魴襪屐弭厦の復活。 瀬戸内海の島々が元気になるためには、島同士の人の行き来がもっ と活発にならなければ。その中で、瀬戸内海のシークエンス(動的な景観)の魅力を伝えるこの航路は 貴重。

この船は東山魁夷美術館のある坂出、猪熊源一郎美術館(ミモカ)の丸亀へも、チャーターすれば、行くそうです。こんどは、坂出・丸亀へも瀬戸大橋をくぐって行って見たくなりました。

多くの人たちが、アートシャトルを利用し、瀬戸内海の「再発見」の機会となりますよう祈念。

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寒霞渓から北側の海を見ています。
足下の集落が大部。
ここからは対岸に見える岡山県の日生にフェリーがでています。

大部の沖に点在する島々が「残させ三島(みしま)」と呼ばれています。

左から小島 → 弁天島 → 大島です。

日生に向かうフェリーは、この島々を大きく右側に迂回するようにして

大部港を出て行きます。

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自分の鏡ということは、自分の姿が写っていると言うことかな。

ふう~む。

なるほど、

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四方指(しほうざし・777叩砲ら福田方面を望んでいます。

遙かに見えるのが播磨灘に浮かぶ家島群島。
思いの外、近くに見えます。
採石のために削り取られた島が、地肌をだして私には裸にさされたようにも見えます。

白い航跡を残しながらやってくるのは、姫路と福田を結ぶフェリー。

海に大きく突き出た半島は金ケ崎。

船はもうすぐ福田港に入港です。

こうして見ると小豆島が備讃瀬戸の真ん中にあり、
海のネットワークの拠点であったことが理解できます。

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なるほどな
世の中全ては仏さん 

それが見える視力がないんやな。

でも、もう仏谷寺(ぶっこくじ)につくやろな。

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