2007年05月
小豆島恋叙情第11話 空谷の跫音 後編
亮介は男を待っていた。
見張り始めてもうかれこれ三十分は経つ。
ようやく男が鞄を提げて表玄関から出てきた。
真っ直ぐ駅には向かわず盛り場の方へ歩いていく。
一杯ひっかけて帰るのだろう。
男は焼鳥屋に入っていった。
亮介もそれに従った。
男の名前は黒原正和。
M商事会社の課長という肩書きである。
黒原はカウンター中ほどの席につくと、まず生ビールを頼んだ。
亮介はコの字になったカウンターの隅の席に陣取った。
ちょうど黒原の顔がよく見える位置だ。
黒原は運ばれてきたビールを一気に半分ほど飲み干した。
おしぼりで額の汗を拭き、またジョッキーを傾けた。
焼き鳥が焼ける前に大ジョッキーが空になった。
黒原はお代わりを注文すると、
「いい女だ」
と主人に言った。
主人は焼き鳥を焦がさないように丁寧にひっくり返しながら、
「また部下の女の子ですかい。黒原さんも好きですね」
と、軽く話を合わすように返した。
「書類ばかりじゃ面白くもねえ。
若い女にでもちょっかい出さないと欲求不満になる」
「そんなにいい女ですか」
「いい女だ。竹下景子ばりのな」
「人妻にはちょっかい出さない方がいいんじゃないですか」
「人妻だからいいんだ」
「でもこの頃ただでさえセクハラとかで結構うるさいですからね。
こちとらアルバイトの女の子にも気を遣うくらいですからね」
「そんなこと言ってちゃ何にもできやしない。
この前なんか何食わぬ顔して胸に触ってやったけど、むしろ喜んでたくらいだ。
女ってやつは分からねえ」
亮介は黒原に対する怒りが湧き上がってくるのをビールでぐっと飲み下した。
二人とも酒が入っていて、理性的に話ができる状態ではなかった。
特に黒原はかなり酒癖が悪く、酔うと絡む。
亮介は黒原を呼び止めた。
「俺に何か用か」
黒原が横柄に言った。
「黒原さん、部下にセクハラするのはやめてください」
黒原がぎっと睨んできた。
「セクハラだと。お前誰だ」
「三枝時江の夫です」
「三枝時江?」
「あなたずっと家内にセクハラしてるそうじゃないですか。止めないと訴えますよ」
「訴える。やれるもんならやってみろ。
セクハラがどうしたというんだ。
そのうちお前の女房は俺がじっくり味見してやるから安心しな」
亮介はカッとなり黒原に組み付いていた。
二人は揉み合い、そしてどちらからともなく殴り合っていた。
気が付いたら黒原が路上に血を流して倒れていた。
亮介の手にはビール瓶が握られていた。
「私たち三人幼馴染みなの」
「主人が小豆島に住んでたなんて知らなかったわ」
「光ちゃん小学校六年のとき高松の学校に転校したの。
私たち三人とても仲がよかった。
光ちゃんが転校してもお互い連絡を取り合って、結構行き来してたの。
その後、亮介は光ちゃんと同じ高松の高校に進学した。
だからまた昔みたいな付き合いが始まった」
「そうだったの」
「あの人……私のためにあんな馬鹿なことして」
時江は目頭を手拭いで押さえた。
事件当日、黒原は亮介に殴られ意識不明のまま病院に運ばれたが、間もなくして死亡した。
死因は頭部挫傷。
三枝亮介は傷害致死罪で懲役五年の実刑を受けた。
情状酌量の余地があり、刑は軽減されたが執行猶予は付かなかった。
「服役するとき籍抜いちゃったの」
「あなたの意志?」
「ううんあの人。一旦言い出したらきかないの」
「それで時江さんはこっちに帰ってきたというわけ」
「小豆島でゆっくり考えたかったの。人生って何だろうって。
だって実にあっけないんだもん。そうでしょう」
紀子は光の事故死を思った。
確かにあっけなかった。
「光は亮介さんにときどき面会に行っていたんですね」
「そうだと思います。光ちゃん優しいから」
「それで二人でいろいろ話した」
「光ちゃんがあの人を説得したんだと思うんです。
あの人光ちゃんの言うことだけは素直に聞くんです」
「それであの手紙になった」
「多分」
「で、どうするつもり」
「男って勝手。
離婚のときも一人でさっさと決めちゃって、それで今度だって一方的にこんなもの寄こして」
「亮介さんの服役はいつ終わるの」
「今月の二十三日」
「えっ! それじゃああと一週間じゃないの」
「こんな大事なこと、一週間で結論出せるわけないのに。本当に馬鹿なんだから」
「時江さんね、実はこの手紙三ヶ月ほど前に書かれたと思うの」
「三ヶ月前? それどういうことですか」
紀子は仔細を時江に話した。
大島光さん(32)は、深夜帰宅途中、飲酒運転の車にはねられ死亡。
加害者、加藤雄三(26)はスナックでビール大瓶二本と焼酎を五杯ほど飲んでいた。
事故当時、加藤はほとんど酩酊状態で、青信号を横断中の大島さんに気が付かず、そのまま信号無視で走行、大島さんを轢いたと見られている。
「そんな。光ちゃんが……ねえ嘘でしょう」
「私も嘘であってほしい。そう何度願ったことでしょう。でも真実なの」
「そうですか。人生ってあっけないもんですね」
時江もショックだったらしい。
「ほんとうに」
「紀子さん、突然ですけれどこれからお寺に参りませんか」
紀子には時江の提案の意図が分かりかねた。
「お寺に、ですか」
「そう。光ちゃんの供養をしましょう」
それを聞いて、紀子も納得した。
小豆島霊場第八十一番、恵門ノ瀧。
開山は弘法大師。
恵門嶽中腹岩盤の洞窟を利用して伽藍を構え、岩窟が諸仏龕となっている小豆島霊場屈指の寺の一つである。
伽藍に覆い被さるように切り立つ懸崖は、善人を引き揚げ、
悪人を奈落の底に突き落とすかのように峻厳そのもので、
近寄るだけでこの世のしがらみと煩悩を削ぎ落としてくれそうな気がする。
紀子と時江は岩窟内の本尊の前に正座していた。
闇に浮かぶロウソクの火。
その奥から厄除けの不動明王像がこちらを睨んでいる。
岩からしみ出るような静けさに身を置いていると、紀子も時江もまるで自分たちが仏様の体内に包含されているような気持ちになった。
苦しみが和らぎ、怯懦が勇気に、そして猜疑が信頼へと変わっていくような気がした。
二人とも仏にすがる思いで祈っていた。
特に紀子は、一時でも光を疑った自分の浅はかな心を打ち据えられたような心苦しさを感じていた。
夫を信じられなかった良心の呵責は紀子に大きくのしかかっていた。
紀子は自分が犯した背信の贖罪と光の魂の安息を祈った。
長い間手を合わせていると、一時離れかけた光の心がまた紀子のそばに戻ってきた。
時江も同じで、亮介の優しさが再び時江の胸の内に蘇ってきた。
いつしか二人の顔には言いしれぬ僥倖が現れていた。
この世は無常。
いくら努力しても手に入らないものもある。
いくら尽くしても報われないときもある。
しかし、幸せとは自分が幸せと思う心を持つこと。
紀子も時江もようやくそのことが分かり始めていた。
「時江さん、主人もきっとそう思っているはずよ」
時江は指輪を取り出した。
ロウソクの炎が銀色の輪を淡く縁取る。
いぶし銀のように輝くリングの輪は回り続ける永遠の象徴であり、自分が幸せと思える心を持つことを表しているように思えた。
時江はしばらく指輪の重さを指先で確かめるようにしていた。
時江の顔から迷いが消えた。
彼女は指輪をゆっくりと左薬指に入れた。
「私、あの人を迎えに行きます」
「そうよ。それが一番いいことよ」
「光ちゃんに感謝しなくっちゃ」
時江がそう言ったとき、紀子は肩に温かいものを感じた。
光の両手がそっと両肩に添えられていたに違いない。
「あなた、有り難う」
紀子は心の中で合掌した。
見張り始めてもうかれこれ三十分は経つ。
ようやく男が鞄を提げて表玄関から出てきた。
真っ直ぐ駅には向かわず盛り場の方へ歩いていく。
一杯ひっかけて帰るのだろう。
男は焼鳥屋に入っていった。
亮介もそれに従った。
男の名前は黒原正和。
M商事会社の課長という肩書きである。
黒原はカウンター中ほどの席につくと、まず生ビールを頼んだ。
亮介はコの字になったカウンターの隅の席に陣取った。
ちょうど黒原の顔がよく見える位置だ。
黒原は運ばれてきたビールを一気に半分ほど飲み干した。
おしぼりで額の汗を拭き、またジョッキーを傾けた。
焼き鳥が焼ける前に大ジョッキーが空になった。
黒原はお代わりを注文すると、
「いい女だ」
と主人に言った。
主人は焼き鳥を焦がさないように丁寧にひっくり返しながら、
「また部下の女の子ですかい。黒原さんも好きですね」
と、軽く話を合わすように返した。
「書類ばかりじゃ面白くもねえ。
若い女にでもちょっかい出さないと欲求不満になる」
「そんなにいい女ですか」
「いい女だ。竹下景子ばりのな」
「人妻にはちょっかい出さない方がいいんじゃないですか」
「人妻だからいいんだ」
「でもこの頃ただでさえセクハラとかで結構うるさいですからね。
こちとらアルバイトの女の子にも気を遣うくらいですからね」
「そんなこと言ってちゃ何にもできやしない。
この前なんか何食わぬ顔して胸に触ってやったけど、むしろ喜んでたくらいだ。
女ってやつは分からねえ」
亮介は黒原に対する怒りが湧き上がってくるのをビールでぐっと飲み下した。
二人とも酒が入っていて、理性的に話ができる状態ではなかった。
特に黒原はかなり酒癖が悪く、酔うと絡む。
亮介は黒原を呼び止めた。
「俺に何か用か」
黒原が横柄に言った。
「黒原さん、部下にセクハラするのはやめてください」
黒原がぎっと睨んできた。
「セクハラだと。お前誰だ」
「三枝時江の夫です」
「三枝時江?」
「あなたずっと家内にセクハラしてるそうじゃないですか。止めないと訴えますよ」
「訴える。やれるもんならやってみろ。
セクハラがどうしたというんだ。
そのうちお前の女房は俺がじっくり味見してやるから安心しな」
亮介はカッとなり黒原に組み付いていた。
二人は揉み合い、そしてどちらからともなく殴り合っていた。
気が付いたら黒原が路上に血を流して倒れていた。
亮介の手にはビール瓶が握られていた。
「私たち三人幼馴染みなの」
「主人が小豆島に住んでたなんて知らなかったわ」
「光ちゃん小学校六年のとき高松の学校に転校したの。
私たち三人とても仲がよかった。
光ちゃんが転校してもお互い連絡を取り合って、結構行き来してたの。
その後、亮介は光ちゃんと同じ高松の高校に進学した。
だからまた昔みたいな付き合いが始まった」
「そうだったの」
「あの人……私のためにあんな馬鹿なことして」
時江は目頭を手拭いで押さえた。
事件当日、黒原は亮介に殴られ意識不明のまま病院に運ばれたが、間もなくして死亡した。
死因は頭部挫傷。
三枝亮介は傷害致死罪で懲役五年の実刑を受けた。
情状酌量の余地があり、刑は軽減されたが執行猶予は付かなかった。
「服役するとき籍抜いちゃったの」
「あなたの意志?」
「ううんあの人。一旦言い出したらきかないの」
「それで時江さんはこっちに帰ってきたというわけ」
「小豆島でゆっくり考えたかったの。人生って何だろうって。
だって実にあっけないんだもん。そうでしょう」
紀子は光の事故死を思った。
確かにあっけなかった。
「光は亮介さんにときどき面会に行っていたんですね」
「そうだと思います。光ちゃん優しいから」
「それで二人でいろいろ話した」
「光ちゃんがあの人を説得したんだと思うんです。
あの人光ちゃんの言うことだけは素直に聞くんです」
「それであの手紙になった」
「多分」
「で、どうするつもり」
「男って勝手。
離婚のときも一人でさっさと決めちゃって、それで今度だって一方的にこんなもの寄こして」
「亮介さんの服役はいつ終わるの」
「今月の二十三日」
「えっ! それじゃああと一週間じゃないの」
「こんな大事なこと、一週間で結論出せるわけないのに。本当に馬鹿なんだから」
「時江さんね、実はこの手紙三ヶ月ほど前に書かれたと思うの」
「三ヶ月前? それどういうことですか」
紀子は仔細を時江に話した。
大島光さん(32)は、深夜帰宅途中、飲酒運転の車にはねられ死亡。
加害者、加藤雄三(26)はスナックでビール大瓶二本と焼酎を五杯ほど飲んでいた。
事故当時、加藤はほとんど酩酊状態で、青信号を横断中の大島さんに気が付かず、そのまま信号無視で走行、大島さんを轢いたと見られている。
「そんな。光ちゃんが……ねえ嘘でしょう」
「私も嘘であってほしい。そう何度願ったことでしょう。でも真実なの」
「そうですか。人生ってあっけないもんですね」
時江もショックだったらしい。
「ほんとうに」
「紀子さん、突然ですけれどこれからお寺に参りませんか」
紀子には時江の提案の意図が分かりかねた。
「お寺に、ですか」
「そう。光ちゃんの供養をしましょう」
それを聞いて、紀子も納得した。
小豆島霊場第八十一番、恵門ノ瀧。
開山は弘法大師。
恵門嶽中腹岩盤の洞窟を利用して伽藍を構え、岩窟が諸仏龕となっている小豆島霊場屈指の寺の一つである。
伽藍に覆い被さるように切り立つ懸崖は、善人を引き揚げ、
悪人を奈落の底に突き落とすかのように峻厳そのもので、
近寄るだけでこの世のしがらみと煩悩を削ぎ落としてくれそうな気がする。
紀子と時江は岩窟内の本尊の前に正座していた。
闇に浮かぶロウソクの火。
その奥から厄除けの不動明王像がこちらを睨んでいる。
岩からしみ出るような静けさに身を置いていると、紀子も時江もまるで自分たちが仏様の体内に包含されているような気持ちになった。
苦しみが和らぎ、怯懦が勇気に、そして猜疑が信頼へと変わっていくような気がした。
二人とも仏にすがる思いで祈っていた。
特に紀子は、一時でも光を疑った自分の浅はかな心を打ち据えられたような心苦しさを感じていた。
夫を信じられなかった良心の呵責は紀子に大きくのしかかっていた。
紀子は自分が犯した背信の贖罪と光の魂の安息を祈った。
長い間手を合わせていると、一時離れかけた光の心がまた紀子のそばに戻ってきた。
時江も同じで、亮介の優しさが再び時江の胸の内に蘇ってきた。
いつしか二人の顔には言いしれぬ僥倖が現れていた。
この世は無常。
いくら努力しても手に入らないものもある。
いくら尽くしても報われないときもある。
しかし、幸せとは自分が幸せと思う心を持つこと。
紀子も時江もようやくそのことが分かり始めていた。
「時江さん、主人もきっとそう思っているはずよ」
時江は指輪を取り出した。
ロウソクの炎が銀色の輪を淡く縁取る。
いぶし銀のように輝くリングの輪は回り続ける永遠の象徴であり、自分が幸せと思える心を持つことを表しているように思えた。
時江はしばらく指輪の重さを指先で確かめるようにしていた。
時江の顔から迷いが消えた。
彼女は指輪をゆっくりと左薬指に入れた。
「私、あの人を迎えに行きます」
「そうよ。それが一番いいことよ」
「光ちゃんに感謝しなくっちゃ」
時江がそう言ったとき、紀子は肩に温かいものを感じた。
光の両手がそっと両肩に添えられていたに違いない。
「あなた、有り難う」
紀子は心の中で合掌した。
小豆島恋叙情第11話 空谷の跫音 中編
時江の家はすぐ見つかった。本通りを突き当たって右に折れ、
少し行ったところに幼稚園があったが、そのすぐ裏手だった。
紀子は気後れしながらもベルを鳴らした。
ややあって中から腰の曲がった年寄りが戸を開けた。母親らしい。
「三枝時江さんおいでになりますでしょうか」
「時江ですか。時江は今仕事にでとりますわ」
「いつ頃お帰りになりますか」
「そやな。三時くらいかのう」
紀子は時計を見た。
まだ二時少し前である。
さてそれまでどうやって時間つぶしをしたものか。
紀子が思案しているとそれを察したのか、
「すぐそこの製麺所ですわい。
行ったらええ。
親戚の手伝いで仕事も暇やけん心配いらん。
あんた時江のお友達ですかいな」
「ええまあ」
ここは言葉を濁すしかない。
母親は紀子を娘の友達と信じて疑わない。
親切に道順を教えてくれた。
途中、隧道があった。
長い隧道ではないが、隧道を一歩一歩進むごと光から遠ざかるような気持ちに襲われた。
隧道に自分の靴音が反響する。
固い靴音は紀子の苦しい胸の内をそのまま反響しているようだった。
今ならまだ間に合う。
引き返そうと思えば引き返せる。
光の過去を暴いてどうなるというのだ。
故人への愛情と尊敬を失うばかりか、自分自身だって傷付く。
それでも紀子は確かめたかった。
隧道を抜けると海だった。
隧道で丘を一つ越したせいか、風はなかった。
紀子は防波堤に腰を降ろして休んだ。
島が砂州で陸続きになっている。
かつては紀子も光もあのように心がつながっていた。
なのに一通の手紙が……。
時江の母親は紀子の訪問の目的さえ訊こうとしなかった。
島では人を疑ったり妬んだりする風習に乏しいのか。
紀子はよそ者だ。
そのよそ者がのこのこ島にやってきて他人の安逸な生活を乱そうとしている。
自分ながら厭なことをしようとしている思った。
人柄の良さそうな時江の母親の顔が、瞼の裏にちらついて痛かった。
簾のように垂れ下がった素麺が、遠くからだと流れ落ちる滝のように見える。
素麺を天日干ししていた。
塩気を含んだ海風が素麺の乾燥に適しているのだろう。
紀子は素麺の間をかいくぐって、納屋のようなところに行った。
そこが素麺の作業場らしい。
老夫婦と若い女が一人いた。
時江は遠目からもきれいだった。
紀子はどちらかといえば都会的な顔立ちであるが、時江はそれとは対照的にすべてがゆったりとした線で包まれ、一緒にいると気持ちが和みそうであった。
「ごめんください」
紀子は思いきって声を掛けた。
時江が気が付いてこちらに振り返った。
応対に出てきたのも時江である。
紀子は時江を目の前にして、不思議な感覚に襲われた。
時江は自分を全面に押し出してくるタイプではないと直感した。
その物腰から、おおよそ光と道ならぬ恋に身を投じるような情熱的な女には思えなかった。
しかし、光はどうか。
紀子のような繊細で感受性の強い女より、控えめで少し離れたところから黙って見守ってくれる女の方が気が楽だったのではないか。
肩肘張らずに自分をさらけ出すことができた。
違うだろうか。
時江はそういう類の女だった。
「何かご用でしょうか」
時江はパリッとスーツに身を包んだ紀子をやや警戒しながら眺めている。
「私、大島紀子と申します」
紀子ははっきり名前を名乗った。
「大島紀子さんですか」
紀子の予想に反して時江の反応が鈍い。
大島と聞いて少しは動揺するかと思ったが、時江にはピンとこないようだ。
顔色からしても偽っているふうでもない。
「素麺の注文は承っておりますか」
時江は紀子を完全に客人と思いこんでいる。
紀子は肩すかしを食らった。
しかしまだ分からない。
「実は少し込み入った話があってまいりました」
「素麺ではなく、込み入った話ですか」
ここではじめて時江は浮かぬ顔になった。
やはりね。
「出られますか。ここではちょっと何ですので」
時江は中の年寄りに一声掛けて出てきた。
二人は海岸近くの空き地にやってきた。
「お話というのはあの人のことですか」
時江の方が先に切り出してきた。
その方が手間が省けて早い。
「そうです。いつからの関係ですか」
「いつからと言われても」
「はっきり言ってください」
「かれこれ二十七年近くになります」
「二十七年?」
「どうかしましたか」
どうも話が噛み合わない。
「大島光という名前を聞いて何かピンときませんか」
少し驚かせてやりたくなった。
「大島光! 光ちゃんがどうかしたんですか」
ほらやっぱりそうじゃない。
知っているんなら最初からそう言えばいいのに。
それに光ちゃんだなんて随分なれなれしい。
「私、大島光の妻です」
「光ちゃんの奥さんですか。
これはどうも失礼しました。
私てっきり素麺を受け取りに来たお客さんだとばっかり思って」
時江は頭を深々と下げて丁寧な挨拶をした。
またしてもどこか変だ。
「主人とはどこで」
「どこでと言いますと」
「よく会ってたんでしょう」
「あるときまでずっと一緒に暮らしておりました」
「恥ずかしいと思ったことは」
「それはあります。
でも起こってしまったことはどうしようもありません。
もう諦めています」
「私はそうはいきません」
突然怒りだした紀子に、時江はどう返事していいのか分からない。
「はあ。でもそう言われましても」
「それで主人は私と別れると言ったんですか」
「別れる?」
時江は突如笑い出した。
「何が可笑しいんですか」
「紀子さんて言いましたわね。何か勘違いしていらっしゃるようですけど」
「私、主人がてっきり時江さんと浮気しているものとばっかり思って」
「この手紙読んだらそう思うのも当然ですよね」
紀子と時江は二人して呵呵と笑ってしまった。
少し行ったところに幼稚園があったが、そのすぐ裏手だった。
紀子は気後れしながらもベルを鳴らした。
ややあって中から腰の曲がった年寄りが戸を開けた。母親らしい。
「三枝時江さんおいでになりますでしょうか」
「時江ですか。時江は今仕事にでとりますわ」
「いつ頃お帰りになりますか」
「そやな。三時くらいかのう」
紀子は時計を見た。
まだ二時少し前である。
さてそれまでどうやって時間つぶしをしたものか。
紀子が思案しているとそれを察したのか、
「すぐそこの製麺所ですわい。
行ったらええ。
親戚の手伝いで仕事も暇やけん心配いらん。
あんた時江のお友達ですかいな」
「ええまあ」
ここは言葉を濁すしかない。
母親は紀子を娘の友達と信じて疑わない。
親切に道順を教えてくれた。
途中、隧道があった。
長い隧道ではないが、隧道を一歩一歩進むごと光から遠ざかるような気持ちに襲われた。
隧道に自分の靴音が反響する。
固い靴音は紀子の苦しい胸の内をそのまま反響しているようだった。
今ならまだ間に合う。
引き返そうと思えば引き返せる。
光の過去を暴いてどうなるというのだ。
故人への愛情と尊敬を失うばかりか、自分自身だって傷付く。
それでも紀子は確かめたかった。
隧道を抜けると海だった。
隧道で丘を一つ越したせいか、風はなかった。
紀子は防波堤に腰を降ろして休んだ。
島が砂州で陸続きになっている。
かつては紀子も光もあのように心がつながっていた。
なのに一通の手紙が……。
時江の母親は紀子の訪問の目的さえ訊こうとしなかった。
島では人を疑ったり妬んだりする風習に乏しいのか。
紀子はよそ者だ。
そのよそ者がのこのこ島にやってきて他人の安逸な生活を乱そうとしている。
自分ながら厭なことをしようとしている思った。
人柄の良さそうな時江の母親の顔が、瞼の裏にちらついて痛かった。
簾のように垂れ下がった素麺が、遠くからだと流れ落ちる滝のように見える。
素麺を天日干ししていた。
塩気を含んだ海風が素麺の乾燥に適しているのだろう。
紀子は素麺の間をかいくぐって、納屋のようなところに行った。
そこが素麺の作業場らしい。
老夫婦と若い女が一人いた。
時江は遠目からもきれいだった。
紀子はどちらかといえば都会的な顔立ちであるが、時江はそれとは対照的にすべてがゆったりとした線で包まれ、一緒にいると気持ちが和みそうであった。
「ごめんください」
紀子は思いきって声を掛けた。
時江が気が付いてこちらに振り返った。
応対に出てきたのも時江である。
紀子は時江を目の前にして、不思議な感覚に襲われた。
時江は自分を全面に押し出してくるタイプではないと直感した。
その物腰から、おおよそ光と道ならぬ恋に身を投じるような情熱的な女には思えなかった。
しかし、光はどうか。
紀子のような繊細で感受性の強い女より、控えめで少し離れたところから黙って見守ってくれる女の方が気が楽だったのではないか。
肩肘張らずに自分をさらけ出すことができた。
違うだろうか。
時江はそういう類の女だった。
「何かご用でしょうか」
時江はパリッとスーツに身を包んだ紀子をやや警戒しながら眺めている。
「私、大島紀子と申します」
紀子ははっきり名前を名乗った。
「大島紀子さんですか」
紀子の予想に反して時江の反応が鈍い。
大島と聞いて少しは動揺するかと思ったが、時江にはピンとこないようだ。
顔色からしても偽っているふうでもない。
「素麺の注文は承っておりますか」
時江は紀子を完全に客人と思いこんでいる。
紀子は肩すかしを食らった。
しかしまだ分からない。
「実は少し込み入った話があってまいりました」
「素麺ではなく、込み入った話ですか」
ここではじめて時江は浮かぬ顔になった。
やはりね。
「出られますか。ここではちょっと何ですので」
時江は中の年寄りに一声掛けて出てきた。
二人は海岸近くの空き地にやってきた。
「お話というのはあの人のことですか」
時江の方が先に切り出してきた。
その方が手間が省けて早い。
「そうです。いつからの関係ですか」
「いつからと言われても」
「はっきり言ってください」
「かれこれ二十七年近くになります」
「二十七年?」
「どうかしましたか」
どうも話が噛み合わない。
「大島光という名前を聞いて何かピンときませんか」
少し驚かせてやりたくなった。
「大島光! 光ちゃんがどうかしたんですか」
ほらやっぱりそうじゃない。
知っているんなら最初からそう言えばいいのに。
それに光ちゃんだなんて随分なれなれしい。
「私、大島光の妻です」
「光ちゃんの奥さんですか。
これはどうも失礼しました。
私てっきり素麺を受け取りに来たお客さんだとばっかり思って」
時江は頭を深々と下げて丁寧な挨拶をした。
またしてもどこか変だ。
「主人とはどこで」
「どこでと言いますと」
「よく会ってたんでしょう」
「あるときまでずっと一緒に暮らしておりました」
「恥ずかしいと思ったことは」
「それはあります。
でも起こってしまったことはどうしようもありません。
もう諦めています」
「私はそうはいきません」
突然怒りだした紀子に、時江はどう返事していいのか分からない。
「はあ。でもそう言われましても」
「それで主人は私と別れると言ったんですか」
「別れる?」
時江は突如笑い出した。
「何が可笑しいんですか」
「紀子さんて言いましたわね。何か勘違いしていらっしゃるようですけど」
「私、主人がてっきり時江さんと浮気しているものとばっかり思って」
「この手紙読んだらそう思うのも当然ですよね」
紀子と時江は二人して呵呵と笑ってしまった。
小豆島恋叙情第11話 空谷の跫音 前編
はじめに
島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」 いろいろな人間の思いが織りなされてきましたが、いよいよ11話。 一番長いお話になります。一度に掲載できるのは5000字までのようです。 3部に分けて掲載しますが、おつきあいいただければ幸いです。
小豆島恋叙情第11話 空谷の跫音 前編 鮠沢 満 作
紀子は書斎のカーペットに萎れたように座り込んでいた。
机のそばに置かれた椅子を見ても、そこに光がいるような気がする。
パソコンに向かって手際よく書類を片づける光。
呼びかけると、どうした、と振り返る。
その顔にはいつも笑顔があった。
ときどき紀子は甘えて、後ろから光の首を抱きすくめることがあった。
光の頬に自分の頬をくっつけると、光のすべすべした皮膚の温かさがほんのり伝わってきて、思わず心の芯がジャムのように溶けそうになった。
そんなとき光は紀子の気持ちを優しく受け止めて、そっと唇を合わせてきた。
紀子は光の衣服、本、クラッシックのCD、それにパソコンと片づけて、
アルバムに手を付け始めたところであった。
アルバムを片づけようと思ったのに、ついページをめくってしまった。
そこにあったのは新婚旅行で行ったパリでの写真だった。
セーヌ川に架かる橋の上で二人寄り添って撮ったものである。
光の手が紀子の右肩に置かれている。
紀子も光も七月の太陽の明るさをそのまま顔に映し出していた。
真っ白な歯を見せて笑う光。
それを心もち斜め下から見上げる恰好の紀子。
幸せが漲っていた。
紀子はこの写真をどれくらい眺めていたのだろう。
気が付くと涙が頬を伝っていた。
「こんなんじゃだめよ。
あの人が喜ぶわけないわ。
おい紀子、しっかりしろ」
紀子は一つ気合いを入れた。
一週間前、紀子はマンションを引き払って、実家に帰ることにした。
子供がいなかったので、これからいくらでもやり直しはできると父母は慰めのつもりで言ってくれるのだろうが、光の死からまだ三ヶ月しか経っていない。
シュレッダーにかけるみたいに、二人のこれまでの生活をそう簡単には処理できない。
心の傷はあまりにも大きかったし、それに伴ってできた心の空洞もいつまで経っても風の通り道みたいで、思うように埋まらなかった。
特に仕事の上でも人生の上げ潮にさしかかろうとしていた光の気持ちを考えると、
妻でありながら何の役にも立てなかったことに無力感を覚え、自分を責めたりした。
翻弄された運命に歯痒さを感じ、独りぼっちになったことに怯えおののき、そして人生の虚しさを呪った。
気持ちが萎えてしまう自分を叱咤して、他人に頼らず何とか立ち直ろうと三ヶ月頑張ってはみたものの、やはり光という支えを失った独り暮らしは、努力すればするほどかえって空回りして、どんどん気持ちを滅入らせていった。
そんなとき母親が、帰ってきたら、と一言掛けてくれた。
その一言に紀子は涙を流していた。
ほっとしたのである。
周囲の目を気にして強がっていた自分が救われた思いだった。
紀子は素直にそうすることにした。
紀子はアルバムを段ボールに押し込んで立ち上がった。
最後に光の机の引き出しの整理が残っていた。
紀子はこれまで光の机の中は見たことがなかった。
いくら夫婦といえども見ていいものとそうでないものがある。
お互いプライバシーを守るのが理知的な夫婦の在り方だと紀子は考えていた。
恋人同士でも互いの携帯電話を覗かないのと同じである。
別段光が引き出しの中に何か秘密めいたものを隠しているはずもない。
でも引き出しに手をかけたとき、指先に緊張が走ったのはどうしてだろう。
たとえ夫婦であっても、なにがしかの秘密があって当たり前という世間一般の通説を紀子自身も暗に肯定したためだろうか。
紀子は、たわいもない考え、と胸にわいた些細な疑心をかき消すと引き出しを開けた。
一番上の引き出しには会社関係の書類が入っていた。
ぱらぱらっと目を通してみたが、横文字も多く紀子には何だか分からなかった。
取り立てて大事なものはなさそうだ、と判断するしかない。
紀子は安心した。
光に限ってそんなわけない。
あんたは心配症なんだから、まったく。
二段目の引き出しには鍵がかかっていた。
多分大切なものが入っているんだろう。
しかし鍵は一段目の整理用ラックに文房具類と一緒に入れてあった。
紀子は鍵を差し込んで回した。
カチッと小さな音を立てて鍵が外れた。
開けると一段目と同じように書類が入っていた。
しかし紀子の目を捉えたものがあった。
手紙である。
業務用のマニラ封筒ではなく、きちんとした封筒である。
紀子はそれを取り上げた。
住所と名前が書いてある。
小豆郡土庄町甲八五二番地二
三枝時江
ただし鉛筆書きである。
それも封筒の隅っこにメモ書き程度に。
筆跡は光のものに間違いない。
中に何か固いものが入っているらしく、封筒の下の部分が少しかさばっている。
上から撫でると、丸くて固い。
紀子は、さてどうしたものだろう、と考え込んだ。
紀子はもう一度住所を確認した。
小豆島か。
光と小豆島?
高松市内にある紀子のマンションからは瀬戸の海が見える。
紀子はベランダの向こうに視線をやった。
女木島があり、さらにその先には小豆島の島影が横たわっていた。
紀子はフェリーを降りた。
海からの冷気が紀子の頬を噛んだ。
紀子はそれから逃れるように正面の土産物売り場に飛び込んだ。
紀子は自分がこれから行こうとしている住所がどの辺りか誰かに訊いてみるつもりだった。
冬場は観光客もめっきり減るらしい。
店内にはほとんど客はいなかった。
紀子は掃除をしている店員に申し訳なさそうに近づいた。
「あのーすみませんが」
「はい、何でしょうか」
五十くらいの上品な感じの店員さんで、厭な顔をせず丁寧に応対してくれる。
「この住所を探しているんですが、どの辺りか見当がつきますでしょうか」
「土庄町の八五二ですか。ちょっと待ってくださいね」
店員は掃除の手を休め、どこかに消えた。
そしてしばらくすると、住宅地図を持って帰ってきた。
店員はページをめくり
「ここですね。すぐ近くですよ」
と指で示した。
紀子は大まかな地図をメモ用紙に書きうつすと、それをコートのポケットに入れた。
住所を聞いただけで店を出ていくのも済まなく思ったので、とりあえず一つ土産物を買った。
めざす住所は本通りを突き当たって、右に曲がってすぐのところらしい。
距離を訊いたら、歩いて十五分から二十分ですよと言われたので、紀子は歩くことにした。
そこに着くまでにもう一度気持ちの整理をしておきたかった。
三枝時江。
紀子はこの名前に記憶がなかった。
光はよく会社の仲間の話をしたが、時江という女の名前が話題に上ったことはない。
しかし何故か胸の奥が疼いた。
嫉妬というやつだろうか。
光が死んで三ヶ月。
だからこの手紙は少なくとも三ヶ月前に書かれたことになる。
でも何の目的で。
その日はそのまま手紙を元の引き出しに返した。
それ以上詮索すると、光に対する全幅の信頼が崩れ去るような気がして怖かったのと、
まだ決まってもいないのに決めつけようとしている自分の浅ましさが厭だったからである。
しかし、翌日目覚めてもやはり気に掛かるのは例の手紙だった。
かつて一通の手紙でこれほど心を乱したことはなかった。
それに封印されたものはいったい何だろう。
紀子の好奇心はどんどん膨れ上がっていった。
もしかすると自分が傷付くかもしれない。
このまま開けずに処分してしまったほうがいいのでは。
そう思ったりもした。
しかし、紀子は手紙を開けてしまった。
中から出てきたのは真新しい結婚指輪と破いたノートだった。
結婚指輪?
これにはさすがに紀子も肝をつぶした。
どうして光が結婚指輪なんかを。
それに文面にも驚かされた。
〈もう一度チャンスをくれ〉
たったこれだけである。
でも短い分、鮮烈だった。
やはり鉛筆で書いてあった。
強く上から押しつけるようにして書いてあったので、筆跡の特徴に乏しかった。
光の筆跡のようにも思えるし、そうでないようにも思える。
それより紀子の頭をかき乱したのは、光に裏切られた、という思いだった。
二人の関係は信頼という壁で塗り込められ、不義という穢らわしい邪心が入り込む余地なんぞ一ミリたりともないと思い込んでいた。
それなのに……。
パンドラの箱を開けてしまった。紀子はそう思った。
机のそばに置かれた椅子を見ても、そこに光がいるような気がする。
パソコンに向かって手際よく書類を片づける光。
呼びかけると、どうした、と振り返る。
その顔にはいつも笑顔があった。
ときどき紀子は甘えて、後ろから光の首を抱きすくめることがあった。
光の頬に自分の頬をくっつけると、光のすべすべした皮膚の温かさがほんのり伝わってきて、思わず心の芯がジャムのように溶けそうになった。
そんなとき光は紀子の気持ちを優しく受け止めて、そっと唇を合わせてきた。
紀子は光の衣服、本、クラッシックのCD、それにパソコンと片づけて、
アルバムに手を付け始めたところであった。
アルバムを片づけようと思ったのに、ついページをめくってしまった。
そこにあったのは新婚旅行で行ったパリでの写真だった。
セーヌ川に架かる橋の上で二人寄り添って撮ったものである。
光の手が紀子の右肩に置かれている。
紀子も光も七月の太陽の明るさをそのまま顔に映し出していた。
真っ白な歯を見せて笑う光。
それを心もち斜め下から見上げる恰好の紀子。
幸せが漲っていた。
紀子はこの写真をどれくらい眺めていたのだろう。
気が付くと涙が頬を伝っていた。
「こんなんじゃだめよ。
あの人が喜ぶわけないわ。
おい紀子、しっかりしろ」
紀子は一つ気合いを入れた。
一週間前、紀子はマンションを引き払って、実家に帰ることにした。
子供がいなかったので、これからいくらでもやり直しはできると父母は慰めのつもりで言ってくれるのだろうが、光の死からまだ三ヶ月しか経っていない。
シュレッダーにかけるみたいに、二人のこれまでの生活をそう簡単には処理できない。
心の傷はあまりにも大きかったし、それに伴ってできた心の空洞もいつまで経っても風の通り道みたいで、思うように埋まらなかった。
特に仕事の上でも人生の上げ潮にさしかかろうとしていた光の気持ちを考えると、
妻でありながら何の役にも立てなかったことに無力感を覚え、自分を責めたりした。
翻弄された運命に歯痒さを感じ、独りぼっちになったことに怯えおののき、そして人生の虚しさを呪った。
気持ちが萎えてしまう自分を叱咤して、他人に頼らず何とか立ち直ろうと三ヶ月頑張ってはみたものの、やはり光という支えを失った独り暮らしは、努力すればするほどかえって空回りして、どんどん気持ちを滅入らせていった。
そんなとき母親が、帰ってきたら、と一言掛けてくれた。
その一言に紀子は涙を流していた。
ほっとしたのである。
周囲の目を気にして強がっていた自分が救われた思いだった。
紀子は素直にそうすることにした。
紀子はアルバムを段ボールに押し込んで立ち上がった。
最後に光の机の引き出しの整理が残っていた。
紀子はこれまで光の机の中は見たことがなかった。
いくら夫婦といえども見ていいものとそうでないものがある。
お互いプライバシーを守るのが理知的な夫婦の在り方だと紀子は考えていた。
恋人同士でも互いの携帯電話を覗かないのと同じである。
別段光が引き出しの中に何か秘密めいたものを隠しているはずもない。
でも引き出しに手をかけたとき、指先に緊張が走ったのはどうしてだろう。
たとえ夫婦であっても、なにがしかの秘密があって当たり前という世間一般の通説を紀子自身も暗に肯定したためだろうか。
紀子は、たわいもない考え、と胸にわいた些細な疑心をかき消すと引き出しを開けた。
一番上の引き出しには会社関係の書類が入っていた。
ぱらぱらっと目を通してみたが、横文字も多く紀子には何だか分からなかった。
取り立てて大事なものはなさそうだ、と判断するしかない。
紀子は安心した。
光に限ってそんなわけない。
あんたは心配症なんだから、まったく。
二段目の引き出しには鍵がかかっていた。
多分大切なものが入っているんだろう。
しかし鍵は一段目の整理用ラックに文房具類と一緒に入れてあった。
紀子は鍵を差し込んで回した。
カチッと小さな音を立てて鍵が外れた。
開けると一段目と同じように書類が入っていた。
しかし紀子の目を捉えたものがあった。
手紙である。
業務用のマニラ封筒ではなく、きちんとした封筒である。
紀子はそれを取り上げた。
住所と名前が書いてある。
小豆郡土庄町甲八五二番地二
三枝時江
ただし鉛筆書きである。
それも封筒の隅っこにメモ書き程度に。
筆跡は光のものに間違いない。
中に何か固いものが入っているらしく、封筒の下の部分が少しかさばっている。
上から撫でると、丸くて固い。
紀子は、さてどうしたものだろう、と考え込んだ。
紀子はもう一度住所を確認した。
小豆島か。
光と小豆島?
高松市内にある紀子のマンションからは瀬戸の海が見える。
紀子はベランダの向こうに視線をやった。
女木島があり、さらにその先には小豆島の島影が横たわっていた。
紀子はフェリーを降りた。
海からの冷気が紀子の頬を噛んだ。
紀子はそれから逃れるように正面の土産物売り場に飛び込んだ。
紀子は自分がこれから行こうとしている住所がどの辺りか誰かに訊いてみるつもりだった。
冬場は観光客もめっきり減るらしい。
店内にはほとんど客はいなかった。
紀子は掃除をしている店員に申し訳なさそうに近づいた。
「あのーすみませんが」
「はい、何でしょうか」
五十くらいの上品な感じの店員さんで、厭な顔をせず丁寧に応対してくれる。
「この住所を探しているんですが、どの辺りか見当がつきますでしょうか」
「土庄町の八五二ですか。ちょっと待ってくださいね」
店員は掃除の手を休め、どこかに消えた。
そしてしばらくすると、住宅地図を持って帰ってきた。
店員はページをめくり
「ここですね。すぐ近くですよ」
と指で示した。
紀子は大まかな地図をメモ用紙に書きうつすと、それをコートのポケットに入れた。
住所を聞いただけで店を出ていくのも済まなく思ったので、とりあえず一つ土産物を買った。
めざす住所は本通りを突き当たって、右に曲がってすぐのところらしい。
距離を訊いたら、歩いて十五分から二十分ですよと言われたので、紀子は歩くことにした。
そこに着くまでにもう一度気持ちの整理をしておきたかった。
三枝時江。
紀子はこの名前に記憶がなかった。
光はよく会社の仲間の話をしたが、時江という女の名前が話題に上ったことはない。
しかし何故か胸の奥が疼いた。
嫉妬というやつだろうか。
光が死んで三ヶ月。
だからこの手紙は少なくとも三ヶ月前に書かれたことになる。
でも何の目的で。
その日はそのまま手紙を元の引き出しに返した。
それ以上詮索すると、光に対する全幅の信頼が崩れ去るような気がして怖かったのと、
まだ決まってもいないのに決めつけようとしている自分の浅ましさが厭だったからである。
しかし、翌日目覚めてもやはり気に掛かるのは例の手紙だった。
かつて一通の手紙でこれほど心を乱したことはなかった。
それに封印されたものはいったい何だろう。
紀子の好奇心はどんどん膨れ上がっていった。
もしかすると自分が傷付くかもしれない。
このまま開けずに処分してしまったほうがいいのでは。
そう思ったりもした。
しかし、紀子は手紙を開けてしまった。
中から出てきたのは真新しい結婚指輪と破いたノートだった。
結婚指輪?
これにはさすがに紀子も肝をつぶした。
どうして光が結婚指輪なんかを。
それに文面にも驚かされた。
〈もう一度チャンスをくれ〉
たったこれだけである。
でも短い分、鮮烈だった。
やはり鉛筆で書いてあった。
強く上から押しつけるようにして書いてあったので、筆跡の特徴に乏しかった。
光の筆跡のようにも思えるし、そうでないようにも思える。
それより紀子の頭をかき乱したのは、光に裏切られた、という思いだった。
二人の関係は信頼という壁で塗り込められ、不義という穢らわしい邪心が入り込む余地なんぞ一ミリたりともないと思い込んでいた。
それなのに……。
パンドラの箱を開けてしまった。紀子はそう思った。
小豆島神浦「くさふぐの産卵」
小豆島恋叙情第10話 夢小路恋酒場 後編
小豆島恋叙情第10話 夢小路恋酒場 後編
鮠沢 満 作
その夜、哲夫はリンの店に行った。 リンに佐藤の言ったことを確かめようとしたのだ。 しかし、リンの透き通るような笑顔を見たとき、哲夫の気力は失せてしまった。 結局、店が引けるまで訊けなかった。 哲夫はその後も店に通い続けた。 そんな哲夫の一途な思い入れが功を奏したのか、リンはときどき店以外でも哲夫と会うようになった。 哲夫は人目を避けながらもリンと会うとき、気分はいつも雲の上を歩いているようだった。 哲夫にしてみれば、店の客とホステスとはいえ、恋だった。 それも生まれて初めての恋。 もう誰にも止められなかった。 そのため、それまで苦労してこさえた貯金もリンに貢ぐ形になっていた。 哲夫の母親は息子の行状を心配していた。 哲夫とリンのことが母親の耳にも入っていたのである。 特にリンが外国人で、さらに飲み屋で働くホステスと聞いておおいに心を砕いた。 悩んだ末、母親は哲夫がその女に騙されているというような内容のことを言った。 すると哲夫は烈火の如く怒り出した。 そして物は壊すは母親に怒鳴り散らすはで、もう年老いた母親の手には負えなかった。 母親は思いあまって、佐藤のところに相談に行った。 佐藤は母親の話を聞いて呆れ果てた。 そして再び哲夫を呼んで諭した。 「前にも言っただろう。あいつらはプロだ。 そのうち身ぐるみ全部剥がされちまうぞ。 そうなったら後の祭りだ。 なあ哲っちゃん、いい加減目を覚ませよ。 友達だからこの際はっきり言っとく。 俺たちみたいな人間が女に持てるわけないだろう。 リンの目当てはお前の金だよ。 まったくお人好しで馬鹿なんだから」 哲夫は佐藤の思いもよらぬ激しい言葉の攻撃にたじろいだ。 しかし哲夫は佐藤に反論したかった。 というのも店以外で会うリンは、商売用のリンではなくもっと穏やかで優しかったからだ。 ドライブに出かけるときなど、哲夫のためにわざわざ弁当を作ってきたりした。 手間暇かけて作った弁当で、愛情がこもっていた。 それにクッキーを焼いてくることもあった。 そんなことまでしてくれるリンがどうして自分を騙すはずがある。 それだけじゃない。 中国に病気の両親がいる。 そのため遠く故郷を離れ小豆島くんだりまでやって来て、様々な屈辱に耐えながら働いているのだ。 稼いだわずかばかりの金とて自分のためには遣わず、ほとんど病気の両親に送っている。 リンは心根の優しい女だ。 そんな優しいリンが、この俺を騙すわけがない。 リンのことを知らないやつらに何が分かる。 俺とリンのことをとやかく言うのは、大きなお節介というものだ。 しかし母親までが心配している。 哲夫もさすがにこれには頭を悩ました。 哲夫の心は痛んだが、リンに事実を確かめるべく店にやって来たのだ。 正直言って怖かった。 リンはいつものように陽気に振る舞っている。 そしていつものように優しい。 カラオケで誰かが歌い出した。 いいタイミングだ。 「リンちゃん、踊ろうか」 哲夫はリンをステージへと導いた。 リンが身体をぴったり合わせてきた。 哲夫はリンをしっかり抱きしめて、リズムに合わせてゆっくりフロアを舞った。 「リンちゃん、僕のことどう思っている」 「どう思ってるって」 「つまり、僕のこと好きかってこと」 「そりゃ好きよ」 「僕たちの間には隠し事なんてないよね」 「隠し事? 難しい言葉分からない」 「つまり、お互い秘密はないよね」 「秘密? 秘密なんてないよ。てっちゃん、急にどうしたの」 「いや~」 「今日のてっちゃんどこか変だよ」 哲夫は思い切って切り出そうとした。 しかし、そのときカラオケが終わった。二人はボックスに戻ろうとしたが、 哲夫がマスターを呼んで何やら言った。 マスターは、うんうんと頷いた。 哲夫は話が終わるとリンに、 「ちょっと外に出よう。マスターには了解取ったから」 と言った。 二人は外に出た。 塩気混じりの風が足下をかすめていく。 少し背筋が冷たい。 哲夫はリンに向き直って 「ちょっと聞きたいんだけど」 と、いかにも言いにくそうに頭を掻きながら言った。 「話ってなあに」 「リンちゃん、俺を騙してないよね」 「騙す?」 リンは哲夫の質問の意図が分からないといった様子である。 「僕とのことだけど……つまり何て言ったらいいんだろう。 あくせくしているのはお金のため? それって汚いんじゃない」 リンの顔色が変わった。 「お金のためというけど、みんなお金のためにあくせくしているんじゃない。 そのどこが悪いのよ」 その言葉を聞いてリンの本性が出た思いがした。 「やっぱり」 「何がやっぱりよ。てっちゃんてそういう人だったのね」 「それはこっちが言いたいよ」 「分かったわ。これで何もかも終わりね。 やっぱり日本人って信用できない」 リンはそう言うと、店の中に消えた。 いつ降り出したのか雨が落ちていた。 路面にネオンの光がビー玉をばらまいたように散らばり、周囲の闇をえぐり取るように際立たせていた。 哲夫は店の中に入るのも憚られ、携帯でマスターを呼び出すと、勘定は近々払うからと伝言した。 胸の奥は鉛を流し込んだように重かった。 リンの勝ち誇ったような表情が、一瞬目の裏をよぎって悔しかった。 俺はやっぱりこういう役回りばっかりなんだ。 お前ってやつはつくずく馬鹿なんだから。 こんなの最初から分かっていたはずだ。 佐藤が言ったとおりだ。 鏡で自分の顔をよく見てみろやって。 こんなとっちゃん坊やみたいな顔して、女に持てるわけないんだよ。 なのに夢中になって。 とんだ一人芝居だ。 笑わせるよ、まったく。 ちびのふとっちょでも涙は出る。 団子鼻のタラコ唇だって悲しいとき悔しいときには泣く。 哲夫の細い目から大きい涙がぽたぽた落ちた。 糞っ! みんなで俺を馬鹿にしやがって。 雨が哲夫の顔を濡らした。 涙が雨に溶け、ひときわ太い筋を引いた。 それから二週間が過ぎた。 その間、哲夫はリンと喧嘩別れをしたことで、気分は随分と落ち込んでいた。 食事もろくに喉を通らなかった。 仕事に出てもぼんやりとして、作業に身が入らない。 午後五時半、くだらなく思える仕事がようやく引け、作業着から私服に着替えたとき佐藤がやってきた。 「お前に客人だ」 「俺に」 「店の女らしい。お前まだ懲りないのか」 佐藤はあきれ顔だ。 哲夫は外に出た。 一人の女が自動販売機のところに所在なく立っていた。 女は哲夫を見つけると、違和感の固まりみたいになって近づいてきた。 「わたし、マリア。リンちゃんのことで来た」 「リンのことで。もう用はないはずだが」 マリアは違うと、顔を横に振った。 「リンちゃん、今日中国に帰った」 「えっ! 今日、中国に」 「わたし伝言頼まれた」 「伝言?」 マリアは哲夫に手紙を渡した。 「じゃあわたし店があるから」 哲夫は、ありがとう、とだけ言って、マリアの後ろ姿を黙って見送った。 哲夫は手紙を開いた。 便箋が一枚出てきた。 今さら何だと言うんだ。 俺をそんなに馬鹿にしたいのか。 俺はどうせのろまのどじ野郎さ。 便箋には拙い字が書き連ねてあった。 てっちゃんへ わたし中国にかえります。 こっちにきてあまりいいことなかった。 いやだったのは仕事。 好きでもないお酒のんで、好きでもないお客の相手すること。 みんなウソつき。 きれいなこと言うけど、みんなウソつき。 わたしのこと遊びの道具にしか考えていなかった。 人間として見ていなかった。 でも働かないと、中国のりょうしんこまる。 病気だから。だからわたしがまんした。 心の中ではいつも泣いてた。 はやく中国かえりたいと。 わたしにほんとうにやさしかったのは、てっちゃんだけ。 これうそじゃないよ。 てっちゃんは、顔はかっこよくなかった。 でもこころがきれいだった。 とってもすんでた。青空のようにはれてた。 てっちゃんといると、自分がやさしくなれた。 はじめはてっちゃんのことそれほど好きじゃなかった。 どうせお金でわたしとあそぶんだろうと思ってた。 でもつきあってるうちに、この人いい人だと思った。 気がついたら、本当に好きになってた。 わたしお金のためにてっちゃんとつきあったんじゃないよ。 これだけは信じて。 ケンカしてわかれるのとてもさみしい。 てっちゃんといると、とても心があたたかくなった。 やさしくしてくれてうれしかった。これほんとよ。 てっちゃんがくれたフクロウの人形、中国にもってかえるね。 しあわせはこんでくる鳥でしょう。 てっちゃん、ありがとう。 リンにたくさんたくさんしあわせくれた。 中国からてっちゃんのしあわせいのってるから。 リンより 哲夫は身も蓋もなく泣いていた。 俺は何てことをしてしまったんだ。 もう取り返しがつかない。 「リンちゃん、俺は生まれつきの大馬鹿だよ。最低だよ。許してくれ」 夢小路では、今夜もどこかで誰かが叶わぬ恋の糸を紡ごうとしている。 何故って? だって恋とは糸しい糸しいと思う心と書くでしょう。
小豆島恋叙情第10話 夢小路恋酒場 前編
はじめに
島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」も10話を迎えました。
みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人の反応がコメントという形でダイレクトに返ってくるのは、今までにはなかった経験のようです。
それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を作者は見せています。
15話で完結の予定でしたがもう一話、構想中のようです。
連載もあと5話です。
それでは第10話をお届けします。
みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人の反応がコメントという形でダイレクトに返ってくるのは、今までにはなかった経験のようです。
それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を作者は見せています。
15話で完結の予定でしたがもう一話、構想中のようです。
連載もあと5話です。
それでは第10話をお届けします。
小豆島恋叙情第10話 夢小路恋酒場 前編
鮠沢 満 作
3枚目の写真は「小豆島孔雀園」で「いきいき写真館」さんが、撮られた物です「ねえ、リンちゃん呼んで」 哲夫はソファーに座るなりそう言った。 マスターが指名の女の子の名前を訊く前にリンの名前を言っていた。 山村哲夫、四十五歳。 独身。職業、醤油会社勤務の会社員。 毎日、醤油の瓶詰めという単調な作業に追われる日々を送っている。 今日は給料日。 哲夫は給料日を含め、一ヶ月に何度かここ小豆島の盛り場夢小路にやってくる。 夜になると昼間の辛気くさい雰囲気とは打って変わって、ネオンきらめく盛り場と化す。 哲夫は『皇帝』という店の常連である。 いわゆるキャバクラである。 女たちのほとんどが外国籍。 つたない日本語で客の相手をしてくれるが、これがどれも美人揃い。 昼間はどこに隠れているのか、まったく姿を見せない。 しかし、開店ともなるとどこから降って湧いたのかと思うほど、 たくさんの女たちがネオンに引き寄せられるように現れる。 リンは中国籍。 約一年前から店に出ている。 来日する前に少し日本語の手ほどきを受けたのか、それとも客商売にあっては言葉は死活問題、 こっちに来て猛勉強したのか他の女たちより堪能である。 結構難しいことを言っても、不自由なく応答できる。 顔はやや細面だが、感じとしては全体的にふっくらとしている。 目は大きく、瞳の中に真っ直ぐ前を見つめた溌剌としたきらめきがある。 鼻梁は高く、大きさもほどよい。 唇はやや薄いが、顔とのバランスで見ると肉感的だ。 笑うと右だけえくぼが出る。 「てっちゃん、いらっしゃい、会いたかったわ」 リンが哲夫のそばに座るや、腰をぴったり押しつけてきた。 哲夫はそれに合わせたように、左手をリンの肩に回す。 ごく自然な仕草だ。 店に入るまでは例のことがあるため気分的に沈んでいたが、 リンの屈託のない笑顔を見たとたん、哲夫は仕事仲間の心配が単なる危惧だったと思った。 こんなに純真な笑顔のリンちゃんがまさか……。 「僕も会いたかった」 哲夫はリンのほっぺに軽くキスをした。 それに対して、リンも哲夫にそうされることにまんざらでもない仕草だ。 「てっちゃん、何飲む」 「いつものやつでいい」 「私も飲んでいい」 リンが甘えた声で自分の飲み物もちゃっかりおねだりする。 これが案外馬鹿にならない。 いくらかホステスにも落ちるようになっている。 「いいよ」 女の手前、気前がいい。 哲夫の給料はお世辞にもいいとは言えない。 月に何度かキャバクラに通ってこれる身分ではない。 しかし哲夫が日頃の生活費を削ってまでリンに会いに来るのには、それなりの理由があってのことだ。 哲夫の容姿は、はっきり言ってさえない。 背は低く、やや小太り。 顔は赤ら顔で、ぽっちゃりとしている。 そのぽっちゃりとした輪郭に、細い目と団子鼻、それに厚ぼったい唇が調和を乱してはめ込まれている。まあ醜男といっていい。 そんな哲夫の日々の生活といえば、月曜から土曜日まで醤油の瓶詰めという単純作業に費やされる。 瓶詰めといってもすべて機械がしてくれる。 哲夫はただ空の瓶を流れ作業のベルトに乗せるだけのことである。 別段頭を使うこともないし、それに冷静な判断が求められるわけでもない。 あまり物事を深く考えない人間とか、単調な生活にも何ら不満らしきものを感じない人間にとっては、 賃金がもらえるのだから、割り切って考えれば楽な仕事と言えなくもない。 哲夫もどちらかといえば、自分の生活というものをそれほど深く考えたことはない。 いつも誰かの後ろをついて回るだけで、主体的に生きてきたという記憶さえなかった。 その証拠に、小さいときからいつも日陰にいたような気がする。 家にいても、賑やかで活発な兄弟の陰に隠れていた。 自分の言いたいことさえ言わなかった。 学校に行っても友達もできず、たとえ一瞬でもぱっと花の咲いたような学校生活を送ったこともなかった。 人生とは、自ら生きるのではなく生かされるもの、そう諦めていたところがある。 年の瀬も押し迫ったある夜のこと、ぱっとしなかった忘年会の験直しに二次会に行って派手にやろうと、哲夫と同じ作業班の仲間が言いだした。 哲夫も無理矢理タクシーの後部座席に押し込まれ、盛り場にくり出して行った。 店内はカクテル光線が飛び交い、ホステスのねっとりまとわり付いてくるような色気でムンムンしていた。 哲夫はその熱気に圧倒された。 今までにキャバクラに来たことがなかったからである。 哲夫の容姿からして、そんなところに行っても持てるはずもない。 哲夫自身も自分のことがよく分かっていた。 ところがその夜哲夫の横に座ったのは、店でも人気ナンバーワンのホステスだった。 しなやかな身体つきに加えて、とびっきりの美人だった。 スリットの入ったタイトスカートからは、贅肉のない見事な足が伸びていた。 胸元も少し大きく開いており、前屈みになるたび胸の谷間がくっきり見えた。 哲夫は生唾を飲んだ。 それを見ていた仲間の一人がからかい半分に言った。 「リンちゃん、こいつまだ経験ないからね。今晩ちゃんと教えてやってよ」 「えっ? ほんと?」 リンは愛くるしい大きい目を哲夫に向け、信じられないといった表情で、まっすぐ瞳の奥を覗き込んできた。 哲夫はリンの顔を真正面から、それも至近距離から見て、背中から脳天にかけて電流のようなものが走るのを感じた。 その夜、店を出るまでリンは哲夫のそばを離れなかった。 哲夫は生まれて初めて、女という得体の知れない生き物をじっくりそばに置いて観察する機会に恵まれた。 リンは優しかった。 それもこれまで哲夫に接した誰よりも。 彼女の形のよい口から飛び出す言葉は魔法のように甘美で繊細だった。 哲夫の固い口の扉にかかった鍵でさえ容易に開けた。 普段口べたで無口な哲夫ですら憶することなく言葉を口にすることができた。 哲夫は今までとは違う自分がいることを発見しつつあった。 これまで日陰に隠れていた自分が、太陽の光によって目覚めようとしている。 もしかしてこれが本来の自分かもしれない。 そう感じた。 哲夫はリンに一目惚れした。 それから哲夫は仲間に内緒で、一人で店に顔を出すようになった。 回数を重ねるごと、哲夫も店での振る舞いが板に付き、リンとのやりとりにも余裕さえ出てきた。 リンとの駆け引きにも慣れた頃、哲夫はときどきではあるがリンに贈り物を持って行くようになった。 高価な品物ではなかったが、まずは心配りが大事と考えた。 リンも哲夫の思いやりを理解したのか、黙って受け取った。 そんなときリンはいつも哲夫に言うのだった。 「てっちゃんて優しいから好き。 わたし、てっちゃんに本気で恋しちゃうかも」 哲夫はそんなリンの歯の浮くような言葉でも内心嬉しかった。 たとえリンとの軽いやりとりであっても、自分がひとかどの人間として認められたような気持ちになり、さらにリンに傾いていった。 哲夫が店に通い始めて数ヶ月が過ぎた頃、哲夫をリンのところに連れて行った仲間の一人が、 昼食が終わったときちょっと話があると言った。 佐藤という哲夫の唯一の友達は、哲夫を中庭に呼び出すとズバリ言った。 「哲っちゃん。あの店に行くのはやめとき」 哲夫は佐藤の言葉に驚いた。 誰にも気付かれずに通っていたつもりだったが、どうして佐藤が知っているのだ。 佐藤が知っているということは、他の連中も知っていることになる。 どうせ噂になっているに違いない。 「俺は……別に」 「狭い町のこと、誰が何をしているか筒抜けだ。 哲っちゃん、勘違いしちゃいけない。 あいつらはプロだ。金のためならどんなことだってやる」 哲夫は佐藤の言葉にがっかりすると同時に腹が立った。 リンちゃんはそんな女じゃない。 「佐藤、せっかくだが説教はやめてくれ。 俺は子供じゃない。 自分が何をしているか知っているつもりだ」
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小豆島恋叙情第9話 漁り火の海 後編
?H1>小豆島恋叙情第9話 漁り火の海 後編
鮠沢 満 作
その夜、勇作は伯父の友吉に呼ばれた。 友吉の部屋に入ると、座るように言われた。 勇作は言われるとおり友吉の前に正座した。 「勇作、はっきり言っておく。あの娘と会うのはやめろ」 友吉はどこから聞いてきたのか、勇作と富江が逢い引きをしていることを知っていた。 どうせ近所の口のはじかい連中の一人が、点数稼ぎのために告げ口でもしたのだろう。 「どうしてですか」 勇作はまっすぐ友吉の目を見て言った。 「お前は世間ちゅうもんが分かっとらん」 「世間ですか」 「そうじゃ。お前はまだ若い。 だから世の中の仕組みというものが分かっとらんのじゃ。 それに女というもんがの。 ところでお前と富江とかいうあの女はどこまでの関係や」 「どこまでの関係と言われても……相思相愛だと思います」 「なるほどの。でもあの女と付き合うのはやめろ」 「どうしてですか」 「勇作、はっきり言っておく。 家柄が違う。 こっちは先祖代々この地方でも有名な網元ぞい。 それに比べ、その女の家はといえば、その日暮らしするにも事欠くありさまじゃ。 まともな仕事もなく、どうせろくなことして生きとらん」 「伯父さん、家柄がどうしたというんです。 大事なのは人間性じゃないですか」 「勇作、お前いつからこのわしに意見するようになった」 勇作は友吉に刃物を突きつけられた思いだった。 勇作は絶句するしかなかった。 勇作の父母は、勇作が三歳のとき海難事故で亡くなった。 夫婦で漁に出ているとき、タンカーに衝突され、そのまま船もろとも沈没してしまったのである。 身寄りのなくなった勇作を引き取って育ててくれたのが、伯父の友吉だった。 「この世の中にはな、叶うものと叶わんもんがある。 家柄がどうしたこうしたというが、家柄は大事じゃ。 どこの馬の骨とも分からん女をお前の嫁にはもらえん。 お前は俺の息子ぞい。 大村家の跡継ぎぞい。そのことを忘れるな。 世間の笑いものになるようなことだけはするな。 分かったな」 勇作は一人浜で泣いた。 悔し涙だった。 伯父には確かに世話になってきた。 両親が死んで育ててくれたのは他でもない友吉だった。 だからといって富江の家のこと、それに富江自身のことをあんなふうに言う資格はない。 翌日、いつもの待ち合わせの場所に行ったが、富江は来なかった。 勇作はそれでも待った。 だがやっぱり富江は現れなかった。 何かがおかしい。 勇作は富江の家に行くことにした。 ちょうどそのとき、小さな女の子が現れた。 「あのー、これおねえちゃんから預かってきた」 その子は勇作に手紙を差し出した。 その手紙には、もう二人とも会えない、とだけ書いてあった。 理由は書いていなかった。 もう会えない? いったいどういうことなんだ。 一週間くらいして、富江はかまぼこ会社を辞めた。 勇作は何度も富江の家に行ったが、父親が頑として富江には会わせてくれなかった。 そして一ヶ月後、富江は岡山のある家に逃げるようにして嫁いでいった。 あまりに急なことで、勇作は我を失った。 富江が嫁いだその晩、がっくりときて身動き一つできないでいる勇作に友吉が声をかけた。 「勇作、そうがっかりするな。これで良かったんだ」 「これで良かったというのは、どういうことなんですか」 「人間にはそれぞれ持って生まれた運命というものがある。 それと属すべき階層。 釣り合いの取れない結婚をすると、苦しむのはどっちかお前にだって分かるだろう」 「富江のこと、まさか伯父さんが……」 「そのまさかだったら、どうだというんだ。 お前は世の中ちゅうもんが分かっとらん」 後になって昌樹から事情を聞かされた。 勇作と友吉が富江のことで話をした翌日、友吉が富江の家に行き話しをつけたということだった。 勤め先のかまぼこ屋も友吉の息がかかっていた。 それにもう一つ驚いたことに、友吉からこっそり富江の父親になにがしかの金子が渡ったとも言われた。 勇作は伯父には悪いと思ったが、以後一度も友吉のところには帰らなかった。 そしてその友吉が癌で亡くなった。 いくら何でも育ての親の葬儀に出ないわけにはいかなかった。 そのためやむなく帰省したのである。 勇作は昌樹に電話した。 「いいだろう」 昌樹はそう言った。 手はずは整えるという意味らしかった。 「いつものところでいつもの時間に、と伝えてくれ」 勇作はそう付け加えた。 数日して昌樹から連絡があった。 「富江は了解した。会うのは明日だ」 短く用件だけ伝えると、昌樹は電話を切った。 後はお前の仕事だ。 そういうことらしい。 勇作は息を詰めて待った。 あの頃もそうだった。 富江の足音が聞こえるのを、息をひそめて待っていた。 富江の足音が聞こえてくると、勇作の胸は早鐘のように鳴った。 そして富江が目の前に現れると、無理をおしてまで勇作に会いに来る彼女のいじらしさを、とても愛おしく思ったのだった。 そのときほど富江を大事にしたいと思ったことはなかった。 約束の時間がやってきた。 夕暮れ時で、すべてのものが柔らかい光に包まれている。 ささくれだった気持ちも少しは和らいだが、それでもいざ十年振りに富江に会うとなると、 それなりの覚悟というか勇気が必要だった。 それに理不尽なことがあっただけに、やはり辛いものがあった。 紆余曲折を経ての再会は勇作をひどく憶病にさせ、 真っ直ぐな気持ちで富江と向かい合うことができるかどうか、勇作自身はなはだ自信がなかった。 富江は約束の時間に現れた。 そして勇作の前に立っていた。 十年という歳月が逆回転し始めた。 何もかも純粋で透明だったあの頃に戻ってほしかった。 未来に背を丸めることもなかった。 風聞に耳を塞ぐこともなかった。 ただ真っ直ぐ前を見て、ありのままの富江を受け容れていればよかった。 「お前は世間ちゅうもんが分かっとらん」 伯父の悪意に満ちた言葉が蘇ってくる。 勇作の胸は押しつぶされるように痛んだ。 勇作は富江に近づいた。 富江の顔が逆光になってはっきりとは見えなかったが、輪郭にむかしの面影が残っている。 富江の周囲だけ柔らかな空気が漂い、懐かしい温かさが伝わってきた。 友吉が亡くなった今、誰憚ることもない。 「あの頃のように歩こうか」 富江が小さく頷いた。 「痩せた?」 「ええ」 「富江」 「はい」 浜に向かって海風が吹いてくる。 それが富江の髪を悪戯っぽく掻き上げた。 一瞬富江の細い首筋が見えた。 勇作は立ち止まり、富江の方に向き直った。 「富江、悪かった。苦労させて。昌樹から聞いた」 勇作は富江をそっと引き寄せた。 「だって仕方なかったもの。あなたのせいじゃない」 「この十年間、一日も忘れたことなんてなかった」 この言葉に富江がまっすぐ勇作の目を覗き込んできた。 涙をこらえているのが分かる。 睫毛が小刻みに震え、富江の網膜の上にある勇作の姿が崩れた。 勇作は富江を折れるほど強く抱きしめた。 「わたし、汚れちゃった」 富江は勇作の胸の中で嗚咽を噛み殺すように小さな声で言った。 そのか細い声には呻吟が滲み出ていた。 「そんなことあるもんか。 どうあろうと富江はいつだって俺の大好きな富江に変わりない」 勇作は富江のおとがいを上げた。 形のいい唇が薄く開かれている。 その花のような唇に、勇作はそっと口を合わせた。 「愛してる。もう二度と放さない」 「いつかあなたが迎えに来てくれると信じていたわ。 だからどんなことがあっても頑張り抜いたの。 あなたを生き甲斐にして」 夜の帳がいつしか降り、沖には漁り火がちらちら燃えていた。 苦しかった十年という歳月を、打ち寄せる波がそっと包み込んだ。 勇作はもう一度言った。 「富江、もう放さない」
小豆島恋叙情第9話 漁り火の海 前編
はじめに
島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」も9話を
迎えました。
みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人の反応がダイレクトに返ってくるのは、今までにはなかった経験のようです。
それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を作者は見せています。
15話で完結の予定でしたがもう一話、構想中のようです。
連載も半ばを過ぎたことになります。
それでは第9話をお届けします。
迎えました。
みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人の反応がダイレクトに返ってくるのは、今までにはなかった経験のようです。
それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を作者は見せています。
15話で完結の予定でしたがもう一話、構想中のようです。
連載も半ばを過ぎたことになります。
それでは第9話をお届けします。
小豆島恋叙情第9話 漁り火の海 前編
鮠沢 満 作
久し振りの同窓会で、勇作は懐かしい顔ぶれを見て一安心のはずだが、もう一つ気分が浮いてこない。 先ほどから入口の戸が開くたびに、無意識に目がそっちにいってしまう。 そんな勇作の落ち着かない様子を、昌樹は目の隅からちらちら見ていた。 会が始まってもう三十分になろうとしている。 富江は来ないのだろうか。 しかし富江のことを同級生に訊くわけにもいかない。 狭い地域のこと、同級生のたいていは勇作と富江の過去の一件を知っている。 だから勇作の前では彼らはそのことを口にしない。 結局、富江は来なかった。最初から欠席連絡が来ていたのかもしれない。 それとも音信不通になっていて、連絡さえ取れないのであろうか。 不安が勇作の胸をよぎる。 玄関で靴を履いていると、昌樹が勇作のところにやってきた。 「ちょっと俺に付き合えよ。 今度いつ帰ってくるか分からないんだろう」 昌樹は何やら言いたいことがあるらしい。 口調からそのことが分かる。 むかしからそうだ。 昌樹とは家が近所で、兄弟のようにして育った。 言いたいことをはっきり言わないのが昌樹の癖だった。 言葉を換えて言えば、優しいということになるのだが……。 「ああ。今度みたいに葬式ができれば別だがな」 勇作は伯父の葬儀のために帰郷した。 ちょうどそのとき高校の同窓会が開かれることになっていたため、勇作にも昌樹から連絡が入ったのである。 「そうたびたび家族の誰かが死ぬものか。 それよりこっちに帰ってくると、まだ痛むんだろう」 「えっ?」 「ここが」 昌樹は胸を親指でつついた。 勇作はそれには答えず、少し口元を緩め曖昧な笑いを浮かべただけだった。 「喫茶店にでも行こう。こう暑くっちゃ話しもできやしない」 昌樹は先に歩き出した。 どうも昌樹の話は富江のことらしい。 「夏の葬儀は大変だっただろう」 窓側の席に腰を降ろすと昌樹が言った。 「難儀したよ。会館でやればすべて業者がやってくれるのに、なにせ網元という肩書きが許さない。 もう家の中はてんやわんや。 それに夏だから仏の損傷もひどくなるし、いろいろなところで気を遣った」 「でもお前にとっては育ての親だからな。 きちんとやっとかないと、世間の口はうるさい」 「分かってる」 「ここは昔と何も変わっちゃいない」 昌樹は勇作と富江のことがまだ世間の噂にのぼるとでも言いたげだ。 勇作はコーヒーを口に運んだ。 ざらついた苦みが口の中に広がった。 「で、話というのは」 勇作はわざととぼけて切り出した。 「富江のことだ」 昌樹と富江は遠い姻戚関係にあった。 やはりな、と思った。 昌樹が話があると言ったときから、富江のことだろうと薄々分かっていた。 「富江は今日同窓会に来なかったが、どうかしたのか」 「どうかしなくても、これやしないだろう。 みんな例のことを知っているんだから」 「そうだな」 富江が来ると思っていた勇作の方がおかしいのだ。 勇作が富江と最後に会って十年ほどになる。 「俺たちも今年で三十になる。 人生の地図に書き込むものとそうでないものを分けていかなくちゃならなくなった」 「もう十年になる」 「その間、自分を責めてきたんだろう」 「目をつぶって過ごせるやつがいたら顔が見たい」 勇作はやや自嘲気味に答えた。 「富江はこっちに帰ってきた。去年のことだ」 「富江が?」 富江は岡山に嫁いだのは知っていた。 薄情だがそれ以後の詳細は知らなかった。 「いろいろあってな」 「元気でいるのか」 昌樹はコーヒーに手を延ばし、できるだけ時間をかけてゆっくり飲んだ。 時間稼ぎをしていることが勇作にも明らかだ。 切り出す言葉を探しているのだろう。 昌樹はコーヒーが終わると、今度は水の入ったグラスをつかんだ。 しかし水は飲まず、ただグラスをくるくる指先で回していた。 しかしようやく口を開く気になったらしい。 テーブル越しに身を乗り出してくると、 「勇作、会いたいか」 と訊いてきた。 唐突な質問に勇作はどう返事していいのか分からない。 本音を言えば会いたい。 しかしあのときのことを思うと、富江の前に姿を見せることさえ憚られた。 やっぱり富江に対する想いよりも、富江に対して悪かったという罪悪感の方が先に立ってしまう。 その後の富江の生活は想像に難くない。 決して安逸な生活におさまっていたわけではないだろう。 「会いたい。でも……」 「まだしばらくこっちにいるんだろう」 「あと四、五日な。いろいろと片づけることもあるし」 「気が変わったら電話してこいや」 昌樹はレシートをつかむと立ち上がった。 昌樹がレジのところで金を払っているのが見えたが、勇作は黙って見送った。 勇作は懐かしくなって松原に出てみた。 どの根上がり松も大きく、枝ぶりも立派だった。 その一つに腰を降ろした。 目の前には真っ青な海がある。 空もその色を撫で付けたように青い。 ときどき沖を貨物船が行きすぎる以外動くものはない。 穏やかだ。 当時、勇作も富江も人目を気にしながら会っていた。 それが厭だったので、たいていは暗くなってから会うことにしていた。 待ち合わせの場所は勇作の伯父の倉庫の裏だった。 古くなった漁船が二隻修理のために引き上げられていた。 破れた網もその回りに掛けてあり、うまい具合に死角になっていた。 勇作と富江はそこで待ち合わせると、決まって浜に出て歩いた。 二人とも波の音を耳元で聞きながら、ゆっくり歩くのが好きだった。 波のうねりに合わせたように流れる時間。 そのたおやかな時間のうねりの中で、二人の次第に熟していく心を重ね合わせることが この上なく心地よかった。 勇作はエネルギッシュで逞しかった。 そして利発だった。 一方、富江も健康そのもので、よく気が付きよく働いた。 その上、美人で頭も良かった。 二人は当然のことのように恋に落ちた。 勇作は富江に将来を見ていた。 大学を卒業したら富江と結婚しようと、一人心に決めていた。 富江は高校を卒業するとすぐ、家が貧しかったのでかまぼこ製造関係の会社に就職した。 勇作が大阪の大学に進んでも二人の想いは変わらなかった。 勇作は帰省すると、真っ先に富江に会いに行った。 社会人になった富江はさらに垢抜けして美しくなっていた。 大学四年の夏帰省した折に、勇作はそれまで胸に秘めていたことを富江に打ち明けた。 「大学を卒業して、俺が就職したら結婚しよう」 勇作はこの言葉にてっきり富江も喜ぶだろうと思っていた。 ところが富江はそれを聞いて暗い表情になり、俯いてしまった。 「どうしたんだ。そんなに暗い顔して」 しかし富江は答えなかった。
四国徳島 次郎笈のツルギミツバツツジ
四国徳島県の剣山に連なる次郎笈(1929㍍)です。
かつては剣を「太郎笈(ぎゅう)」と呼んでいたようです。
そういう意味では、弟分にあたるのがこの山です。
スーパー林道側の登山口から芽吹き始めたブナ林を抜けると・・
新緑の山並みを背負って紅紫の花が咲いています。
近づいてみましょう。
葉に先んじて花が開いています。
「トサノミツバツツジは紫色が濃く、ツルギミツバツツジは赤色が強い」
と以前教わったことを思い出します。
剣山周辺の高山に咲く希少種のツルギミツバツツジのようです。
こちらは葉も出かけています。
枝先に輪生する3枚の葉が分かりますか?
これが「ミツバツツジ」の名前の由来だそうです。
こちらは花も終わり、三つ葉が青空に背伸びしています。
ブナの大木も若葉を空一杯に広げています。
新緑まっさかりの次郎笈でした。
コバノミツバツツジとの比較は、こちらをご覧ください。http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/ericaceae/kobanomitsuba/kobamitsu.htm
岡山理科大学 植物生態研究室(波田研)のホームページです
小豆島恋叙情第8話 星ヶ城
はじめに
島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」も
8話を迎えました。
みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人に読んでいただいていることが、ダイレクトに返ってくるのは
今までにはなかった経験のようです。
それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を見せています。
それでは第8話をお送りします。
8話を迎えました。
みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人に読んでいただいていることが、ダイレクトに返ってくるのは
今までにはなかった経験のようです。
それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を見せています。
それでは第8話をお送りします。
小豆島恋叙情第8話 星ヶ城
=== 鮠沢 満 作 ===
智之は石舞台のような大きな一枚岩の上に胡座をかいていた。眼下に内海湾が広がる。 星ヶ城。海抜八一七メートル。小豆島で一番の頂を誇る。 和美は智之を横にして、思い切って口にしようとしていたことが、喉の奥でつぶれかけそうになるのを なんとか押しとどめた。ここ二ヶ月、本当に苦しい思いをしてきた。 食事もあまり喉を通らず、体重も二キロから三キロ落ちた。 いつかこういう日が来ることを覚悟していた。 事実これまでだって何度最後の言葉を言おうとしたことか。 でもそのたびに智之に対する愛情の深さを思い知らされて言えなかった。 今日だって同じだ。いやというほど予行練習をやって大丈夫だったはずなのに、 鷹揚に構えた智之を目の前にしていると、胸を掻き破られるほど苦しい思いに封じ込まれ、 挙げ句の果てには自分の下した決断が本当に正しかったのかどうかさえ怪しくなったほどだ。 智之はそんな和美の胸の内も知らず、未来を見据えたような言い方をした。 「素晴らしい眺めだろう。でもここの名前の方がもっと素敵だとは思わないか。何か夢があるだろう」 「星ヶ城。本当に美しい名前で夢を抱かせるわね」 和美はそう返すしかない。 「ここから眺める星はもっと凄い。あまりに美しくて、聖母マリアの涙と言った人がいた」 「想像できるわ。この世のどんな宝石よりも美しい光を湛え、慈愛に満ちた雫を万物に落とすんでしょう」 和美は智之の一見粗野に見えるがそれでいて繊細この上ない感性が好きだった。 和美は智之といると、どんなことだってできそうに思えたし、どんなことだって もう一度やり直せるような気がした。実際そうだった。 離婚後、生きる希望を失い暗渠の底を彷徨っているとき、一条の光を投げかけてくれ、 そこから掬い上げてくれたのは智之だった。 家庭持ちの智之にたとえ止まり木的な安らぎであれ見出したのは、 彼の感情の線が子供っぽいほど真っ直ぐで、自分が失ってしまった朝露に濡れた 葉っぱのような感情の湖を取り戻すことができると思ったからに他ならない。 「ねえ和美、この星ヶ城でお祈りすると、それが叶うと言われている」 「ほんと? じゃあ二人してお祈りしましょう」 二人は手を合わせ祈った。 「今日でお別れだね」 「えっ?」 智之の突然の切り出しに、和美は不意打ちを食らった。 「今日俺に別れを言いに来たんだろう」 智之がすでに和美の心を読んでいたとは夢にも思わなかった。 「私たち六年間一緒だったのね」 「神様が与えてくれた六年」 「私、幸せだった」 「俺もだ。不倫と世間のやつらは言うかもしれない。でも本気の不倫だってある」 「ご免ね。辛い思いさせるけど」 「仕方ない。和美はまだ若い。前を見て歩く。それでいいんだ。俺はこの六年間で君を一生分愛した」 「これからは同じ風景でも違った色合いで眺め、季節を巡る風も違った温度で感じなければいけないのね」 「もう和美と言葉も交わせなくなる。顔も見られなくなる。抱きしめることもなくなる。 そんなことこれまで考えたこともなかった」 「怖いわ」 「俺もだ。でも互いに温め合った心がある」 「そうね」 「俺には和美を忘れることなんかできない」 「私も」 「だから忘れないことにした」 「それで後悔しない。奥さんとのことはどう」 「女房には違った意味で感謝している。でも和美を愛するのとは異質の感情だ。 この歳になって初めて本当の恋をした。一人の男として一人の女を愛した。 女房には悪いが、君を想い続けていくしかない」 「何度も言うようだけど、ご免ね」 「たった六年だったけど、俺たちは神様が巡り合わせてくれたんだ。 だから俺は命を削って和美を愛した。後悔なんてしてない」 「うん」 「そして今度は神様が別れなさいと言っているんだ」 「ええ」 「神様は試練を乗り越えられない人間には試練を与えない」 和美は涙がこぼれて、もうまっすぐ智之を見ることができなくなっていた。 「さてと、リリーフピッチャーの仕事も終わったというわけだ。 それとも賞味期限の切れた男かな。君は今度の人と幸せになってくれ」 智之は和美に、じゃあ元気で、と言って立ち去った。 智之は、いつか和美が自分の元に返ってくることを祈った。 和美は、智之が自分を忘れてくれることを祈った。 愛は、多くを愛した者がそれを失う。 ここ星ヶ城は、南朝後醍醐天皇に加勢した佐々木信胤が居城を築いた場所で、 連れあいお妻との悲恋で語られる。
徳島県次郎笈 山登り報告記
ぼくミニマムDXの「たかし」です。おひさしぶりです。
この前の日曜日に、スーパー林道にゆられながら次郎笈に行きました。
車の中より、外が好き!
ここは鹿の糞も落ちているし、「熊注意!」の看板もある。
ぼくの野生を刺激する。ワクワク(^^)
少し休憩。僕は体が小さいので30分以上は続けて、歩けません。
水の補給です。でもウルトラマンよりはましと、お母さんは褒めてくれます。
木が少なくなって笹ばっかり。
あそこを越えるとどうなるのかな?
青い空につながっているのかな?
「もうすぐ、頂上。もうすぐ がんばりな」と言われても・・
ぼくもう疲れました。
やっと次郎笈頂上(1929㍍)です!(^^)!
まわりは笹の原、ぼくには何も見えません。
お母さんは、昼寝を始めてしまいました。
鹿に狸にウサギ、山鳥に出会えました。楽しかったです。
熊と人間には出会いませんでした。残念です。
たかしの山旅報告を以上で終わります。
読んでいただいてありがとうございます。_(._.)_
小豆島恋叙情第7話 残照の海 後編
小豆島恋叙情第7話 残照の海 後編
鮠沢 満 作
文蔵が寝ていると、夢の中に幻の魚が出てきた。
シャチホコのような固い鱗を持ったその大魚は、
文蔵を挑発するように目の前で大きく背鰭をそり上げ海面から何メートルもの高さまで舞い上がった。
大魚は身体を空中で大きく回転させると、鋭い目であざ笑うように文蔵をぐっと睨み付けてきた。
空中でその巨大な鱗が銀色に光った。
これを見て文蔵の血が騒いだ。
大魚との闘いが始まったのはこのときである。
翌日目覚めても、空中で身をひるがえした大魚の銀色に輝く姿が離れなくなった。
取り憑いたと言っていい。
文蔵はいかにしてこの大魚をつり上げるか、寝ても覚めてもその攻略法を考えるようになった。
松江は文蔵の様子がおかしいことに気がついていたが、海の男から海を取ったらどうなるか、
これまで多くの漁師連中を見てきたので、文蔵もそのうちに憑きものが取れたみたいに穏やかな生活に戻るだろうと考えていた。
だからあえて男の誇りをちくりとやることは言わなかった。
文蔵は船倉に上がって準備にかかった。
戸は閉め切り誰も中に入れなかった。
窓も閉め、海の匂いを完全に断ち切った。
これは真剣勝負だ。
命を賭けた男の闘いだ。
文蔵は鉄を打ち特製の釣り針をこさえた。
ずっしり重いその釣り針は、十年間の文蔵の想いを釣るための針だった。
糸も太いものを用意した。
糸で手が切れないように、新しい軍手も買ってきた。
餌もとびっきり上等な生きたイカを選んだ。
すべての準備はこうして整った。
文蔵は一升瓶を提げて裏山にある海の神さんへ出かけた。
酒を神さんに捧げると、文蔵は柏手を打って、深々と頭を下げた。
そして何やらぶつぶつと祈願した。
鳥居のところから下を見ると、穏やかな瀬戸の海が横たわっていた。
これから闘いが始まるとはとても思えないほど静まり返っていた。
果たしてやつは来るだろうか。
それだけが気掛かりだった。
文蔵はそのときが近づいてくるのをじっと待った。
両手を合わせ海の神に祈った。
あと一時間もすれば、海に出て行く。
もう一度海の男に戻ることができる。
これまで六十年間自分がしてきたことをやつに試すだけのことだ。
特別どうってことはない。
釣る魚がいつもと違うだけのことだ。
文蔵の腕をもってすれば、まず心配はない。
予め練った手順どおりすれば、やつを釣り上げることができる。
後は二度と海の男に戻るつもりはなかった。
文蔵はそう心に決めていた。
日が落ちかかっていた。
島影が次第に濃くなっていく。
文蔵は船のエンジンをかけた。
ポンポンというエンジン音が、湾の中に響き渡った。
漁師仲間の一人が声を掛けてきたが、文蔵は「ちょっと船で散歩よ」と誤魔化した。
文蔵を乗せた船は、黄金色に染まった海を押し分けるように外海へと出て行った。
やがて沖に来た。
太陽は地平線のすぐ上にあった。
真っ赤に燃えていた。
文蔵の闘志に火が付いた。
文蔵は生け簀からイカを掬い上げた。
イカは半透明な身体をぬるっとくねらせ、文蔵の手を逃れようとした。
文蔵はイカの胴に針を素早く通すと、海に投げ入れた。
太い糸が海の中へとするすると吸い込まれていく。
文蔵はある程度糸が流れたところで糸を止めた。
これくらいの深さでいいだろう。
文蔵の長年の勘だ。
文蔵は指先に神経を集中した。
あいつはきっと来る。
この日暮れ時を狙って必ず動く。
十年前もそうだった。
あのときは糸が細くて見事に切られてしまった。
待っている間に、文蔵の気持ちは次第に昂ぶっていった。
興奮が上げ潮のようにせり上がってくる。
自分の中で何かが蠢いている。
心臓の鼓動が耳元でする。
アドレナリンが全身に回り始めた。
あいつが近くにいる。
文蔵は海水の震えでそれを感じ取った。
あいつがじっと海の中から文蔵を見ている。
大きなぎらつく目で。
十年前に口元にできた傷跡が見えるようだ。
あのときあいつも必死の抵抗を試みた。
口をひん曲げ、ライギョのような平べったい頭を水面で振り回した。
結果、糸はぷつんと大きな音を残して切れた。
口から血を流したあいつは、水中に没するとき一度こっちに振り返って文蔵を見た。
痛手を負わせた相手の顔をじっくり脳裏に刻みつけておくように。
いつか訪れる仕返しのときのために。
さあ来い。
文蔵は船の上で仁王立ちになった。
糸をゆっくり上下にあおる。
糸の先でイカがピクンピクンと痙攣したように動く。
ガツン。
手に衝撃が走った。
ついにきやがった。
糸がピーンと張りつめ、緊張が指先に伝わってくる。
文蔵は焦らず糸を少しずつ巻き上げにかかった。
しかし、あいつも相当なもの、なかなか真上には浮いてこない。
横に動いては針を外そうとしている。
しかしそれは無理だ。
今度の針は特製だ。
一旦口にかかると絶対に取れないようにしてある。
西日がさらに赤くなり、文蔵をすっぽり呑み込んでしまった。
文蔵の赤銅色の腕がさらに赤くなった。
二の腕の筋肉の筋が、糸を引くたび浮いたり沈んだりした。
文蔵はしばらくあいつを泳がせていたが、少し締め上げてやることにした。
主導権を握っているのはこっちだということを、やつに知らせておくためだ。
一本の糸を通して、お互いが意地を張り合っている。
文蔵はやや強引ではあったが、少し糸をたぐった。
指先に、くくくくという震動が伝わってきた。
やつは古傷に痛みを感じているに違いない。
しかしやつにも誇りというものがある。
そう簡単に文蔵のいいようにはさせない。
格闘は十五分くらい続いた。
糸はかなり巻き上げられていた。
いよいよ最終段階だ。
文蔵は船の少し広い場所へと移動した。
やつは最後に左右に大きく文蔵を揺さぶってくるはずだ。
そしてにっちもさっちもいかなくなると、最後に渾身の力をこめてジャンプすることも考えられる。
空には鱗状の雲が現れていた。
やつの鱗がそのまま空に映し出されたようだ。
その一つひとつが、やつの動きに合わせて波打ちそうだった。
伸び、縮み、うねる。
文蔵はやつに疲れが見えたときを見逃さず、一気に糸を巻き始めた。
押しの一手だ。巻いて巻き上げるのだ。
筋肉が収縮した。文蔵の身体から汗が噴き出した。
そしてついにやつが姿を現した。
巨大だ。こんなにでかいやつを今までに見たことがない。
やつは船縁にそって左右に揺さぶりを掛けてきた。
それは計算済みだった。
文蔵は舳先の方に少し寄り、糸を少し緩めた。
やつがすかさず潜ろうとする。
しかし、文蔵は立つ位置を素早く変え、再び糸を巻き始めた。
やつが水面ぎりぎりのところまで浮いてきた。
背鰭が鎌のように水を切る。
切られた水が薄い断片となって崩れ落ちる。
文蔵はゆっくりやつを引き寄せてきた。
腹の鱗が黄金色と紅に変わる。
やつの歪んだ醜い口が何かを叫んでいる。
文蔵は、ふん、と言ってさらにやつを締め付けた。
十分近づいたところで、文蔵は鉤を振り上げて、やつの首筋にとどめの一撃を叩き込もうとした。
とそのとき、やつが夕焼けの空高くジャンプしたのだ。
背鰭が胸鰭が鋼のような弾力を見せつけて唸った。
西の空には夕日の残照が散らばっていた。
浜では松江が文蔵のことを思って待っていた。
「あんたはやっぱり海の男ね」
真っ赤な残照にまぶされた空に、一匹の大魚が再び舞ったのはそのときだった。
文蔵は再び陸に上がることはなかった。
シャチホコのような固い鱗を持ったその大魚は、
文蔵を挑発するように目の前で大きく背鰭をそり上げ海面から何メートルもの高さまで舞い上がった。
大魚は身体を空中で大きく回転させると、鋭い目であざ笑うように文蔵をぐっと睨み付けてきた。
空中でその巨大な鱗が銀色に光った。
これを見て文蔵の血が騒いだ。
大魚との闘いが始まったのはこのときである。
翌日目覚めても、空中で身をひるがえした大魚の銀色に輝く姿が離れなくなった。
取り憑いたと言っていい。
文蔵はいかにしてこの大魚をつり上げるか、寝ても覚めてもその攻略法を考えるようになった。
松江は文蔵の様子がおかしいことに気がついていたが、海の男から海を取ったらどうなるか、
これまで多くの漁師連中を見てきたので、文蔵もそのうちに憑きものが取れたみたいに穏やかな生活に戻るだろうと考えていた。
だからあえて男の誇りをちくりとやることは言わなかった。
文蔵は船倉に上がって準備にかかった。
戸は閉め切り誰も中に入れなかった。
窓も閉め、海の匂いを完全に断ち切った。
これは真剣勝負だ。
命を賭けた男の闘いだ。
文蔵は鉄を打ち特製の釣り針をこさえた。
ずっしり重いその釣り針は、十年間の文蔵の想いを釣るための針だった。
糸も太いものを用意した。
糸で手が切れないように、新しい軍手も買ってきた。
餌もとびっきり上等な生きたイカを選んだ。
すべての準備はこうして整った。
文蔵は一升瓶を提げて裏山にある海の神さんへ出かけた。
酒を神さんに捧げると、文蔵は柏手を打って、深々と頭を下げた。
そして何やらぶつぶつと祈願した。
鳥居のところから下を見ると、穏やかな瀬戸の海が横たわっていた。
これから闘いが始まるとはとても思えないほど静まり返っていた。
果たしてやつは来るだろうか。
それだけが気掛かりだった。
文蔵はそのときが近づいてくるのをじっと待った。
両手を合わせ海の神に祈った。
あと一時間もすれば、海に出て行く。
もう一度海の男に戻ることができる。
これまで六十年間自分がしてきたことをやつに試すだけのことだ。
特別どうってことはない。
釣る魚がいつもと違うだけのことだ。
文蔵の腕をもってすれば、まず心配はない。
予め練った手順どおりすれば、やつを釣り上げることができる。
後は二度と海の男に戻るつもりはなかった。
文蔵はそう心に決めていた。
日が落ちかかっていた。
島影が次第に濃くなっていく。
文蔵は船のエンジンをかけた。
ポンポンというエンジン音が、湾の中に響き渡った。
漁師仲間の一人が声を掛けてきたが、文蔵は「ちょっと船で散歩よ」と誤魔化した。
文蔵を乗せた船は、黄金色に染まった海を押し分けるように外海へと出て行った。
やがて沖に来た。
太陽は地平線のすぐ上にあった。
真っ赤に燃えていた。
文蔵の闘志に火が付いた。
文蔵は生け簀からイカを掬い上げた。
イカは半透明な身体をぬるっとくねらせ、文蔵の手を逃れようとした。
文蔵はイカの胴に針を素早く通すと、海に投げ入れた。
太い糸が海の中へとするすると吸い込まれていく。
文蔵はある程度糸が流れたところで糸を止めた。
これくらいの深さでいいだろう。
文蔵の長年の勘だ。
文蔵は指先に神経を集中した。
あいつはきっと来る。
この日暮れ時を狙って必ず動く。
十年前もそうだった。
あのときは糸が細くて見事に切られてしまった。
待っている間に、文蔵の気持ちは次第に昂ぶっていった。
興奮が上げ潮のようにせり上がってくる。
自分の中で何かが蠢いている。
心臓の鼓動が耳元でする。
アドレナリンが全身に回り始めた。
あいつが近くにいる。
文蔵は海水の震えでそれを感じ取った。
あいつがじっと海の中から文蔵を見ている。
大きなぎらつく目で。
十年前に口元にできた傷跡が見えるようだ。
あのときあいつも必死の抵抗を試みた。
口をひん曲げ、ライギョのような平べったい頭を水面で振り回した。
結果、糸はぷつんと大きな音を残して切れた。
口から血を流したあいつは、水中に没するとき一度こっちに振り返って文蔵を見た。
痛手を負わせた相手の顔をじっくり脳裏に刻みつけておくように。
いつか訪れる仕返しのときのために。
さあ来い。
文蔵は船の上で仁王立ちになった。
糸をゆっくり上下にあおる。
糸の先でイカがピクンピクンと痙攣したように動く。
ガツン。
手に衝撃が走った。
ついにきやがった。
糸がピーンと張りつめ、緊張が指先に伝わってくる。
文蔵は焦らず糸を少しずつ巻き上げにかかった。
しかし、あいつも相当なもの、なかなか真上には浮いてこない。
横に動いては針を外そうとしている。
しかしそれは無理だ。
今度の針は特製だ。
一旦口にかかると絶対に取れないようにしてある。
西日がさらに赤くなり、文蔵をすっぽり呑み込んでしまった。
文蔵の赤銅色の腕がさらに赤くなった。
二の腕の筋肉の筋が、糸を引くたび浮いたり沈んだりした。
文蔵はしばらくあいつを泳がせていたが、少し締め上げてやることにした。
主導権を握っているのはこっちだということを、やつに知らせておくためだ。
一本の糸を通して、お互いが意地を張り合っている。
文蔵はやや強引ではあったが、少し糸をたぐった。
指先に、くくくくという震動が伝わってきた。
やつは古傷に痛みを感じているに違いない。
しかしやつにも誇りというものがある。
そう簡単に文蔵のいいようにはさせない。
格闘は十五分くらい続いた。
糸はかなり巻き上げられていた。
いよいよ最終段階だ。
文蔵は船の少し広い場所へと移動した。
やつは最後に左右に大きく文蔵を揺さぶってくるはずだ。
そしてにっちもさっちもいかなくなると、最後に渾身の力をこめてジャンプすることも考えられる。
空には鱗状の雲が現れていた。
やつの鱗がそのまま空に映し出されたようだ。
その一つひとつが、やつの動きに合わせて波打ちそうだった。
伸び、縮み、うねる。
文蔵はやつに疲れが見えたときを見逃さず、一気に糸を巻き始めた。
押しの一手だ。巻いて巻き上げるのだ。
筋肉が収縮した。文蔵の身体から汗が噴き出した。
そしてついにやつが姿を現した。
巨大だ。こんなにでかいやつを今までに見たことがない。
やつは船縁にそって左右に揺さぶりを掛けてきた。
それは計算済みだった。
文蔵は舳先の方に少し寄り、糸を少し緩めた。
やつがすかさず潜ろうとする。
しかし、文蔵は立つ位置を素早く変え、再び糸を巻き始めた。
やつが水面ぎりぎりのところまで浮いてきた。
背鰭が鎌のように水を切る。
切られた水が薄い断片となって崩れ落ちる。
文蔵はゆっくりやつを引き寄せてきた。
腹の鱗が黄金色と紅に変わる。
やつの歪んだ醜い口が何かを叫んでいる。
文蔵は、ふん、と言ってさらにやつを締め付けた。
十分近づいたところで、文蔵は鉤を振り上げて、やつの首筋にとどめの一撃を叩き込もうとした。
とそのとき、やつが夕焼けの空高くジャンプしたのだ。
背鰭が胸鰭が鋼のような弾力を見せつけて唸った。
西の空には夕日の残照が散らばっていた。
浜では松江が文蔵のことを思って待っていた。
「あんたはやっぱり海の男ね」
真っ赤な残照にまぶされた空に、一匹の大魚が再び舞ったのはそのときだった。
文蔵は再び陸に上がることはなかった。
小豆島恋叙情第7話 残照の海 前編
はじめに
島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」も7話を迎えました。「短編集」ながら少々長くなり、ブログの制約上、前編・後編に分けて掲載しなければならないこともあります。
みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人に読んでいただいていることが、ダイレクトに返ってくるのは今までにはなかった経験のようです。それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を見せています。
それでは第7話をお送りします。
みなさんからのいろいろな感想や意見は、作者の励みになっています。
いろいろな人に読んでいただいていることが、ダイレクトに返ってくるのは今までにはなかった経験のようです。それなら、もう少し書いてみようかと「やる気」を見せています。
それでは第7話をお送りします。
小豆島恋叙情第7話 残照の海 前編
鮠沢 満 作
障子あけて置く 海も暮れ切る ー放哉ー
文蔵は妻の松江と砂浜に平行して走る防波堤の石垣に座っていた。
赤く色づきだした西日が二人を飲み込もうとしている。
浜には一隻小舟が引き上げられ、傾く西日を受けて長い影を落としている。
その向こうで放し飼いにされた犬が二匹、無邪気に互いの影を追って駆け回っていた。
文蔵は昨日船を降りたばかりである。
文蔵は十五歳になってすぐ父親の船に乗り込み、漁師の手ほどきを受けた。
以来、六十年間海とともに生きてきた。
妻の松江は文蔵の三つ下で、二人の間には三人の子供がいた。
「現役を退くっちゅうのはやっぱり淋しいもんや」
「あんたまだ七十五やから、続けよう思うたら続けられたのに」
「いつまでも年寄りが漁に出よんでは、若いやつらに悪い」
文蔵は煙草を取り出すと火を点けた。
うまそうに一服吸うと、煙を口と鼻から吐き出した。
文蔵の顔は海で揉まれた男の顔だった。
赤銅色に焼けた首から始まって、ゴマ潮頭にいたるまで潮と太陽が作り出したものだ。
松江は文蔵の年輪の刻まれた彫りの深い顔が好きだった。
木訥だが、笑うと目元が優しくなる。
つくずくこの人の人柄だ、と松江は思うことがある。
子供たちもその血筋を引いていた。
文蔵は主に一本釣りの漁師だった。
天気と勘に頼る昔ながらの漁法で魚を捕り、家族を養ってきた。
海が時化て漁に出られないときは、それこそ文蔵にとっては死活問題だった。
船具を置いた二階の窓から海の色ばかり眺めて暮らすことになる。
破れた網を直したり、手製の針を作ったりと、いろいろすることはあるが、
どうしてもそれらが手につかず、日がないらいらして過ごすのである。
そういうときは、たいていの漁師がそうであるように、酒を飲んで憂さを晴らし、そのまま松江の弾力に富んだ身体を抱くこともあった。
文蔵は根っからの漁師だった。
海が自分を呼ぶ、と文蔵は常々感じていた。
沖から嬲るような波が押し寄せてくると、じっとしていられなくなる。
文蔵の中に猛り狂う漁師の血が流れていて、この血がざわざわと騒ぎ文蔵を海へと駆り立てるのである。
文蔵は昨日船を降りて現役を退いたが、身体の奥深いところではまだくすぶったものがあった。
漁師への未練と言ってもよかった。
最後にどうしても釣りたい魚がいたのである。
ここ十年ばかり文蔵はその幻の魚を追っていた。
それを釣らないまま現役を降りるのは、漁師としての矜持が許さなかった。
しかし文蔵もよる年並みには勝てず、若い衆のことも考えて現役を退くことにしたのである。
文蔵はそのことを松江には言わなかった。
「あんた、あのときのこと覚えている」
松江は文蔵の胸の内を察したのか、話題をそれとなく変えた。
松江は、文蔵がそのことを忘れるはずがないのを知っていて、そう訊いた。
文蔵も松江がなぜ話題を変えたのか分かっていた。
長年連れ添った夫婦だ。
お互いの心の襞まで分かっている。
「あの頃は俺も若かった」
「あんたがまだ二十一で、あたしが十八」
松江は少女時代から可愛らしく美しかった。
だから巷でもよく噂にのぼった。
松江が年頃になると、港町の若い男衆連中が当然のことのように熱を上げ、恋文を何通も寄こすようになった。
だが一人だけ松江に関心を示さない男がいた。
それが文蔵だった。
その頃文蔵は、松江の噂は耳にしていたが、美人であるということで松江がてっきり自惚れの強い女であると勝手に決め込んでいた。
それに漁師には美人の妻は必要なかった。
必要なのは強い身体と精神力を持った家庭向きのする女だった。
ちょっとした事件が起こったのは、盆踊りの夜のことだった。
男たちは酒によって荒ぶれていた。
盆踊りの最中に喧嘩を始める者さえいた。
血気盛んな若い衆がいる漁師町のこと、それくらいは日常茶飯のことといってよかった。
特に隣町とは漁場のこともあり仲が悪く、何かにつけ小競り合いが絶えなかった。
盆お踊りの中休み、松江は汗を拭きながら他の女たちと涼んでいた。
そこに豊松という隣町の若者が松江に近寄ってきた。
豊松は隣町切っての暴れん坊で、誰からも煙たがられていた。
豊松はいきなり松江の腕をつかむと、
「松江、俺と付きあえや。不自由はささへん」
と言った。それから大胆にも松江の肩を抱き寄せようとした。
松江は酔っぱらいは嫌いだった。
思い切り豊松の手を振り払った。
「豊松、お前嫌われとるぞ」
豊松の取り巻き連中が半畳を入れた。
「嫌いも好きのうちや。よく見とけや」
豊松はさらに大胆になってもう一度松江の腕を取ると、強引に抱きすくめようとした。
松江は叫び声を上げて腕を振り解こうとした。
が、豊松の腕の力は強い。そう簡単に解けない。
松江はいやいやをする恰好で、豊松の腕に抱きすくめられているしかない。
隣町の若い衆が好き勝手なことをやっているというのに、地元の若い者は誰一人松江を助けようともし ない。
腕っ節では豊松にかなわなかったからである。
それを見ていた女連中は愛想を尽かせたように言った。
「お前らそれでも男か。そんなんじゃ嫁一人もらえんぞ」
と、そのとき文蔵が現れた。
「放してやれや」
文蔵は一言言った。
「ならお前が取り返してみろや」
「俺は喧嘩はすかん」
「だったら引っ込んでろ」
「地元の人間としてそれはできない」
「ということはやっぱり喧嘩売る気やな」
「どうしてもというんだったら仕方ない」
文蔵はこれまで喧嘩一つしたことがなかった。
どう贔屓目に見ても勝ち目はない。
豊松は松江を放した。
豊松は文蔵の腹を殴った。
文蔵は後ろにぶっ倒れた。
腹を押さえて地面を転がった。
しかし文蔵はしばらくすると起き上がってきた。
「殴れや。俺はまだ立っとるで」
豊松はまたしても文蔵の腹を殴った。
文蔵はのけぞるようにひっくり返った。
しかしまたしても立ち上がってきた。
「それが元浜町の豊松か。噂ほどでもない」
文蔵は豊松を煽った。
豊松は文蔵の言葉にかっとなって、今度は顔を殴ってきた。
しかし文蔵は倒れなかった。
それどころかじわじわと豊松の方へにじり寄っていった。
周囲の者が騒ぎ立てている。
地元の連中は女も男も文蔵の応援に回っている。
「文蔵、そんなやつのしちまえ」
と喧嘩を吹っかける連中さえいた。
しかし文蔵は両手を腰の後ろに回して無抵抗の構えだ。
「さあ殴れよ。でもな、俺も船町の人間や。そう簡単には倒れへん」
豊松は文蔵の目を見て敗北を知った。
それがきっかけで松江は文蔵の嫁になった。
赤く色づきだした西日が二人を飲み込もうとしている。
浜には一隻小舟が引き上げられ、傾く西日を受けて長い影を落としている。
その向こうで放し飼いにされた犬が二匹、無邪気に互いの影を追って駆け回っていた。
文蔵は昨日船を降りたばかりである。
文蔵は十五歳になってすぐ父親の船に乗り込み、漁師の手ほどきを受けた。
以来、六十年間海とともに生きてきた。
妻の松江は文蔵の三つ下で、二人の間には三人の子供がいた。
「現役を退くっちゅうのはやっぱり淋しいもんや」
「あんたまだ七十五やから、続けよう思うたら続けられたのに」
「いつまでも年寄りが漁に出よんでは、若いやつらに悪い」
文蔵は煙草を取り出すと火を点けた。
うまそうに一服吸うと、煙を口と鼻から吐き出した。
文蔵の顔は海で揉まれた男の顔だった。
赤銅色に焼けた首から始まって、ゴマ潮頭にいたるまで潮と太陽が作り出したものだ。
松江は文蔵の年輪の刻まれた彫りの深い顔が好きだった。
木訥だが、笑うと目元が優しくなる。
つくずくこの人の人柄だ、と松江は思うことがある。
子供たちもその血筋を引いていた。
文蔵は主に一本釣りの漁師だった。
天気と勘に頼る昔ながらの漁法で魚を捕り、家族を養ってきた。
海が時化て漁に出られないときは、それこそ文蔵にとっては死活問題だった。
船具を置いた二階の窓から海の色ばかり眺めて暮らすことになる。
破れた網を直したり、手製の針を作ったりと、いろいろすることはあるが、
どうしてもそれらが手につかず、日がないらいらして過ごすのである。
そういうときは、たいていの漁師がそうであるように、酒を飲んで憂さを晴らし、そのまま松江の弾力に富んだ身体を抱くこともあった。
文蔵は根っからの漁師だった。
海が自分を呼ぶ、と文蔵は常々感じていた。
沖から嬲るような波が押し寄せてくると、じっとしていられなくなる。
文蔵の中に猛り狂う漁師の血が流れていて、この血がざわざわと騒ぎ文蔵を海へと駆り立てるのである。
文蔵は昨日船を降りて現役を退いたが、身体の奥深いところではまだくすぶったものがあった。
漁師への未練と言ってもよかった。
最後にどうしても釣りたい魚がいたのである。
ここ十年ばかり文蔵はその幻の魚を追っていた。
それを釣らないまま現役を降りるのは、漁師としての矜持が許さなかった。
しかし文蔵もよる年並みには勝てず、若い衆のことも考えて現役を退くことにしたのである。
文蔵はそのことを松江には言わなかった。
「あんた、あのときのこと覚えている」
松江は文蔵の胸の内を察したのか、話題をそれとなく変えた。
松江は、文蔵がそのことを忘れるはずがないのを知っていて、そう訊いた。
文蔵も松江がなぜ話題を変えたのか分かっていた。
長年連れ添った夫婦だ。
お互いの心の襞まで分かっている。
「あの頃は俺も若かった」
「あんたがまだ二十一で、あたしが十八」
松江は少女時代から可愛らしく美しかった。
だから巷でもよく噂にのぼった。
松江が年頃になると、港町の若い男衆連中が当然のことのように熱を上げ、恋文を何通も寄こすようになった。
だが一人だけ松江に関心を示さない男がいた。
それが文蔵だった。
その頃文蔵は、松江の噂は耳にしていたが、美人であるということで松江がてっきり自惚れの強い女であると勝手に決め込んでいた。
それに漁師には美人の妻は必要なかった。
必要なのは強い身体と精神力を持った家庭向きのする女だった。
ちょっとした事件が起こったのは、盆踊りの夜のことだった。
男たちは酒によって荒ぶれていた。
盆踊りの最中に喧嘩を始める者さえいた。
血気盛んな若い衆がいる漁師町のこと、それくらいは日常茶飯のことといってよかった。
特に隣町とは漁場のこともあり仲が悪く、何かにつけ小競り合いが絶えなかった。
盆お踊りの中休み、松江は汗を拭きながら他の女たちと涼んでいた。
そこに豊松という隣町の若者が松江に近寄ってきた。
豊松は隣町切っての暴れん坊で、誰からも煙たがられていた。
豊松はいきなり松江の腕をつかむと、
「松江、俺と付きあえや。不自由はささへん」
と言った。それから大胆にも松江の肩を抱き寄せようとした。
松江は酔っぱらいは嫌いだった。
思い切り豊松の手を振り払った。
「豊松、お前嫌われとるぞ」
豊松の取り巻き連中が半畳を入れた。
「嫌いも好きのうちや。よく見とけや」
豊松はさらに大胆になってもう一度松江の腕を取ると、強引に抱きすくめようとした。
松江は叫び声を上げて腕を振り解こうとした。
が、豊松の腕の力は強い。そう簡単に解けない。
松江はいやいやをする恰好で、豊松の腕に抱きすくめられているしかない。
隣町の若い衆が好き勝手なことをやっているというのに、地元の若い者は誰一人松江を助けようともし ない。
腕っ節では豊松にかなわなかったからである。
それを見ていた女連中は愛想を尽かせたように言った。
「お前らそれでも男か。そんなんじゃ嫁一人もらえんぞ」
と、そのとき文蔵が現れた。
「放してやれや」
文蔵は一言言った。
「ならお前が取り返してみろや」
「俺は喧嘩はすかん」
「だったら引っ込んでろ」
「地元の人間としてそれはできない」
「ということはやっぱり喧嘩売る気やな」
「どうしてもというんだったら仕方ない」
文蔵はこれまで喧嘩一つしたことがなかった。
どう贔屓目に見ても勝ち目はない。
豊松は松江を放した。
豊松は文蔵の腹を殴った。
文蔵は後ろにぶっ倒れた。
腹を押さえて地面を転がった。
しかし文蔵はしばらくすると起き上がってきた。
「殴れや。俺はまだ立っとるで」
豊松はまたしても文蔵の腹を殴った。
文蔵はのけぞるようにひっくり返った。
しかしまたしても立ち上がってきた。
「それが元浜町の豊松か。噂ほどでもない」
文蔵は豊松を煽った。
豊松は文蔵の言葉にかっとなって、今度は顔を殴ってきた。
しかし文蔵は倒れなかった。
それどころかじわじわと豊松の方へにじり寄っていった。
周囲の者が騒ぎ立てている。
地元の連中は女も男も文蔵の応援に回っている。
「文蔵、そんなやつのしちまえ」
と喧嘩を吹っかける連中さえいた。
しかし文蔵は両手を腰の後ろに回して無抵抗の構えだ。
「さあ殴れよ。でもな、俺も船町の人間や。そう簡単には倒れへん」
豊松は文蔵の目を見て敗北を知った。
それがきっかけで松江は文蔵の嫁になった。
小豆島恋叙情 第6話 邂逅の石門洞 後編
小豆島恋叙情 第6話 邂逅の石門洞 後編 鮠沢 満 作
その後、百合恵の体調は日ごとに悪くなっていった。
ある晩、仕事がやっと引けて病室を訪ねたときのことである。
その日は少し顔色もよく、元気そうに見えた。
昌文も少しは安心した。
昌文が百合恵の脇に座ると、彼女が思わぬことを言った。
「ねえ、お願いがあるの」
「お願い? また改まってどうしたんだい」
「ここへ連れて行ってほしいの」
百合恵は一冊の旅行ガイドブックを差し出し、あるページを開いた。
そこには深紅のモミジに染め抜かれた寺の写真があった。
岩をくり抜いて造った本堂。
それを燃えるようなモミジが抱擁していた。
「小豆島?」
「そう。四国よ。ここに連れて行ってほしいの」
「元気になったらいつでも連れて行ってあげるよ。でも今はそのときじゃない」
昌文は少し強い口調で諭すように言った。
「私が癌だから」
昌文は耳を疑った。
「私、分かってるの。もうそれほど長くないってこと」
「誰がそんなこと言った。医者か、看護師か。
あいつらの言うことなんて嘘っぱちだ。
信じなくていい」
昌文は病室全体に響く大きな声で百合恵の言葉を打ち消した。
しかしそれは空しく響いた。
大きな声を張り上げること自体、百合恵の病気を肯定していることに他ならなかった。
「もういいの。分かってるんだから。
あなたの淋しそうな表情を見てると、私なんだか……こんなになってご免ね」
百合恵はそこまで言うと嗚咽した。
昌文は言葉を失った。
ひとしきり涙を流した後で、百合恵はかすれた声で言った。
「婚約は破棄しましょう」
「それどういう意味なんだ」
昌文は百合恵の細い肩を揺すった。
「私のことなんか忘れて、他の人を見つけて……幸せに……だから私の最後のお願い。
この寺に連れてって。
燃えるモミジの深紅に染められて死にたいの。
私も一度は燃えるような恋をしたっていう証に」
昌文は天気予報を入念に調べて、晴れて温暖な日を選んで出発した。
百合恵は遊歩道を本当にゆっくり歩いた。
昌文は、百合恵が一歩踏み出すごと、命を失っていることを認識せずにはおれなかった。
普通なら寺まで二十分もあれば着くところを、百合恵は一時間以上かかった。
ようやく本堂を目の前にしたとき、思いが叶ったというように百合恵は静かに目を閉じた。
その閉じた瞼を押し開けるように、取れたての真珠のようにきれいな涙が溢れ出た。
涙にモミジが泳いでいた。
百合恵はモミジに染まりたいと言ったが、今まさにモミジ色に染まっていた。
顔も、涙も、首も、腕も、胸もすべて。
まるで百合恵の体内にぽっと灯りが灯ったようで、百合恵の身体が透きとおるようだった。
中に巣くっているガン細胞でさえ、モミジの炎に焼かれ消えてなくなりそうだった。
「有り難う」
脆く壊れるものはすべてその寸前美しく装うが、そのときの百合恵は儚いくらい美しかった。
透きとおって手に触れることさえできない。
弱々しく気化して消えてしまいそうだった。
昌文は百合恵を思いっきり抱きしめてやりたかった。切なくて仕方なかった。
「こんなことくらいお安いご用だ」
自分の言葉が空々しく響く。
「この世のものとは思えないわ」
百合恵はもうすっかり死を覚悟しているといった口調だ。
「幸せって何だろう」
昌文は言ってはならない言葉をつい漏らした。
「互いに信じ合うことかな」
百合恵が苦しそうに答えた。
「僕たちはどうなんだろう」
さらに昌文はむごいと知りつつ百合恵に確たる答えを求めてしまった。
「あなたのこと信じてるわ」
「俺は何があっても百合恵のことは忘れない」
「そんなに無理しなくってもいいの。私もう十分すぎるほど優しくしてもらったから」
「まだ十分じゃない」
ここまで言うと昌文は何を思ったのか、百合恵の手を引くと、本堂左の山道へと進んでいった。
昌文は何かに手繰られるように山道を進んだ。
百合恵は昌文の真剣な表情に、何かただならぬものを感じ、棒のようになった足をひたすら前に進めるしかなかった。
やがて山道が大きく右に曲がったところにやってきた。
百合恵はもう一歩も先には進めなかった。
胸を押さえ、俯いて今にも崩れ落ちそうだった。
「あれを見てご覧」
昌文は指さした。
そこで百合恵が見たものは、まさに神懸かりともいうべき大きな石門洞であった。
ドーナツのように見事に内側がくり抜かれていた。
高さは五メートル、幅は四メートルはあるだろうか。
それだけではなかった。
そのドーム状になった石門洞のあちこちからモミジが枝を伸ばし、まさに炎と化していたのである。
百合恵はまたしても涙を流していた。
昌文はその涙が何を意味するのか、分かりすぎるほど分かっていた。
石門洞を通して青空が見えた。
その石門洞によって切り取られた青空の広さは、百合恵の残された命の長さに等しかった。
昌文と百合恵は石門洞の真下に立った。
「百合恵、君を愛している」
「有り難う。嬉しいわ。
でも私が死んだら、いつかも言ったけど、誰かいい人見つけて再婚してもいいのよ」
「俺は君だけしか愛せない。
もし君がいなくなったら、毎年ここに来る。
君に会うために」
「もうこれ以上望むものはないわ。
深紅のモミジに染められて死ねるんだもの。
それにあなたの愛の深さを知ったから、私、この石門洞の向う側に行っても怖くない」
それから一ヶ月後、百合恵は帰らぬ人となった。
婚約指輪だけが昌文の手許に残った。
昌文はそれから数年後、訳あって結婚したがうまくいかなかった。
それから毎年、一人の男が遊歩道を登り、寺に線香を手向け、
そして石門洞の下に佇む姿が見られるようになった。
ある晩、仕事がやっと引けて病室を訪ねたときのことである。
その日は少し顔色もよく、元気そうに見えた。
昌文も少しは安心した。
昌文が百合恵の脇に座ると、彼女が思わぬことを言った。
「ねえ、お願いがあるの」
「お願い? また改まってどうしたんだい」
「ここへ連れて行ってほしいの」
百合恵は一冊の旅行ガイドブックを差し出し、あるページを開いた。
そこには深紅のモミジに染め抜かれた寺の写真があった。
岩をくり抜いて造った本堂。
それを燃えるようなモミジが抱擁していた。
「小豆島?」
「そう。四国よ。ここに連れて行ってほしいの」
「元気になったらいつでも連れて行ってあげるよ。でも今はそのときじゃない」
昌文は少し強い口調で諭すように言った。
「私が癌だから」
昌文は耳を疑った。
「私、分かってるの。もうそれほど長くないってこと」
「誰がそんなこと言った。医者か、看護師か。
あいつらの言うことなんて嘘っぱちだ。
信じなくていい」
昌文は病室全体に響く大きな声で百合恵の言葉を打ち消した。
しかしそれは空しく響いた。
大きな声を張り上げること自体、百合恵の病気を肯定していることに他ならなかった。
「もういいの。分かってるんだから。
あなたの淋しそうな表情を見てると、私なんだか……こんなになってご免ね」
百合恵はそこまで言うと嗚咽した。
昌文は言葉を失った。
ひとしきり涙を流した後で、百合恵はかすれた声で言った。
「婚約は破棄しましょう」
「それどういう意味なんだ」
昌文は百合恵の細い肩を揺すった。
「私のことなんか忘れて、他の人を見つけて……幸せに……だから私の最後のお願い。
この寺に連れてって。
燃えるモミジの深紅に染められて死にたいの。
私も一度は燃えるような恋をしたっていう証に」
昌文は天気予報を入念に調べて、晴れて温暖な日を選んで出発した。
百合恵は遊歩道を本当にゆっくり歩いた。
昌文は、百合恵が一歩踏み出すごと、命を失っていることを認識せずにはおれなかった。
普通なら寺まで二十分もあれば着くところを、百合恵は一時間以上かかった。
ようやく本堂を目の前にしたとき、思いが叶ったというように百合恵は静かに目を閉じた。
その閉じた瞼を押し開けるように、取れたての真珠のようにきれいな涙が溢れ出た。
涙にモミジが泳いでいた。
百合恵はモミジに染まりたいと言ったが、今まさにモミジ色に染まっていた。
顔も、涙も、首も、腕も、胸もすべて。
まるで百合恵の体内にぽっと灯りが灯ったようで、百合恵の身体が透きとおるようだった。
中に巣くっているガン細胞でさえ、モミジの炎に焼かれ消えてなくなりそうだった。
「有り難う」
脆く壊れるものはすべてその寸前美しく装うが、そのときの百合恵は儚いくらい美しかった。
透きとおって手に触れることさえできない。
弱々しく気化して消えてしまいそうだった。
昌文は百合恵を思いっきり抱きしめてやりたかった。切なくて仕方なかった。
「こんなことくらいお安いご用だ」
自分の言葉が空々しく響く。
「この世のものとは思えないわ」
百合恵はもうすっかり死を覚悟しているといった口調だ。
「幸せって何だろう」
昌文は言ってはならない言葉をつい漏らした。
「互いに信じ合うことかな」
百合恵が苦しそうに答えた。
「僕たちはどうなんだろう」
さらに昌文はむごいと知りつつ百合恵に確たる答えを求めてしまった。
「あなたのこと信じてるわ」
「俺は何があっても百合恵のことは忘れない」
「そんなに無理しなくってもいいの。私もう十分すぎるほど優しくしてもらったから」
「まだ十分じゃない」
ここまで言うと昌文は何を思ったのか、百合恵の手を引くと、本堂左の山道へと進んでいった。
昌文は何かに手繰られるように山道を進んだ。
百合恵は昌文の真剣な表情に、何かただならぬものを感じ、棒のようになった足をひたすら前に進めるしかなかった。
やがて山道が大きく右に曲がったところにやってきた。
百合恵はもう一歩も先には進めなかった。
胸を押さえ、俯いて今にも崩れ落ちそうだった。
「あれを見てご覧」
昌文は指さした。
そこで百合恵が見たものは、まさに神懸かりともいうべき大きな石門洞であった。
ドーナツのように見事に内側がくり抜かれていた。
高さは五メートル、幅は四メートルはあるだろうか。
それだけではなかった。
そのドーム状になった石門洞のあちこちからモミジが枝を伸ばし、まさに炎と化していたのである。
百合恵はまたしても涙を流していた。
昌文はその涙が何を意味するのか、分かりすぎるほど分かっていた。
石門洞を通して青空が見えた。
その石門洞によって切り取られた青空の広さは、百合恵の残された命の長さに等しかった。
昌文と百合恵は石門洞の真下に立った。
「百合恵、君を愛している」
「有り難う。嬉しいわ。
でも私が死んだら、いつかも言ったけど、誰かいい人見つけて再婚してもいいのよ」
「俺は君だけしか愛せない。
もし君がいなくなったら、毎年ここに来る。
君に会うために」
「もうこれ以上望むものはないわ。
深紅のモミジに染められて死ねるんだもの。
それにあなたの愛の深さを知ったから、私、この石門洞の向う側に行っても怖くない」
それから一ヶ月後、百合恵は帰らぬ人となった。
婚約指輪だけが昌文の手許に残った。
昌文はそれから数年後、訳あって結婚したがうまくいかなかった。
それから毎年、一人の男が遊歩道を登り、寺に線香を手向け、
そして石門洞の下に佇む姿が見られるようになった。
小豆島恋叙情 第6話 邂逅の石門洞 前編
はじめに
知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
第6話になりました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
第6話になりました。
小豆島恋叙情 第6話 邂逅の石門洞 前編
鮠沢 満 作
草壁港から寒霞渓に向かう途中で道が大きく二手に分かれている。
左に行くと紅雲亭、右に行けば小豆島ブルーラインとなる。
その分かれ道の真ん中、猪の谷から雑木林へと分け入る一本の遊歩道がある。
そこを一人の男が先を急いでいた。
折しも紅葉真っ盛りである。
あと一週間もすればほとんどすべての木が裸になってしまう。
遊歩道の右側は深い渓谷で、息を飲むような切り立った岩が屏風状に連なっている。
遊歩道の出発地点から約三百メートルほど行ったところに簡易の展望所があるが、
そこから渓谷を見下ろすと、渓谷全体が燃えているように見える。
男の名前は永島昌文。年齢五十歳。
商社勤務のサラリーマン。
彼は年に一度遊歩道の先にある寺を訪れる。
昌文はリュックを背負って山道を達者な足取りで登っていた。
背負ったリュックは中にいろいろなものが入っているらしく、見た目にも結構重そうである。
昌文もご多分にもれず、やはり展望所のところにくると足を止めた。
彼は渓谷に目をやり、それからフーと大きく溜息に近い息をすると、
「もうあれから二十年か。早いもんだな」
と言った。
空はこの上なく晴れ上がり、かえってそれが昌文の気持ちを憂鬱にしたくらいだ。
ここを訪れるごと、昌文の気持ちも少しずつは軽くなっていった。
だが、それでも青春の記憶はそう簡単には癒されない。
いやむしろ癒されない方が、昌文にとってはある意味で幸せだったかもしれない。
気持ちが癒されないうちは、必ずここに帰ってくる。
そうすれば百合恵とのことをちゃんと心に刻んで、生涯忘れずにおれるからである。
昌文は意を決したようにリュックを担ぐと、再び歩き出した。
この遊歩道は裏八景と呼ばれ、紅雲亭から登る表十二景とは一本の稜線を境に反対側になる。
ここを訪れるのは地元の人間か、昌文のように山歩きに詳しい人間だけである。
展望所から約十分ほどで小豆島霊場第十八番石門洞に着く。
この寺も小豆島霊場の特徴の一つとなっている岩場をくり抜いて造った山岳信仰の寺である。
ただここが他の霊場と異なるのは、他に類を見ないほど美しいモミジにある。
昌文は岩をくり抜いて造られた本堂に着くと、重いリュックを降ろした。
肩の辺りを軽く叩いたり指先で軽く揉みほぐしたりした。
それからリュックを開け線香を取り出すと、ライターで火を点け、線香立ての真ん中に据えた。
昌文は立ち上る線香の煙の向こうに遠いむかしを見ているようにしばしぼんやりと佇んでいたが、
ふと我に返ると敬虔な気持ちで両手を合わせた。
新しい香の匂いが本堂全体を満たし、これまでの香の匂いと混ざり合って、昌文の胸を苦しくさせた。
昌文が両手を合わせ目を閉じていると、住職が顔を出した。
「今年もやはり来ましたか」
「ええ。来ないと心が痛むんです」
昌文は低い声で懺悔するように言った。
「もう何年になりますかね」
「二十年です」
「もうそんなになりますか。時間が経つのは早いもんですね」
昌文は今年五十歳になった。
大手企業のエリートサラリーマンである。
毎日仕事に追われる日々。
しかし年に一度ここ小豆島に足を運んでくる。
「まだ独り身と見えますが」
「一度は結婚したんですが」
「やっぱり忘れることができませんか」
「ええ。それにこの年齢になりますと、もう今のままでもいいと思いましてね」
「人間の幸福とはいろいろな形でやってきます。
一口にどれがいいとは言えません。
自分が幸せと感じる心を持つことが幸せなんです。
しがらみの多い世の中にあって、まだお若いのにあなたのような人がいるとは、僧侶としても励みになります」
「一種の罪滅ぼしでしょうか」
「そう自分を責めるものではありません。
人間というのは、好きだからといって必ずしも一緒になれるというものでもありません。
運命というものもあります。
しかしあなたたちの場合、お互い心はつながっていますよ。
私にはそれがはっきり見えます。安心なさい」
それを聞いて昌文の心も少しは軽くなった。
「どうです。ここから眺めるモミジは」
「いつ来ても言葉を失います」
「彼女、確か百合恵さんとか言いましたね。彼女もモミジが大好きでしたね」
本堂左側はくり抜いた岩をそのまま残し、そこにガラス窓が入れてある。
ちょうど真下に境内があり、それを四方から大きなモミジが取り囲んで、
まるで寺全体がすっぽりモミジの手の中に収まった恰好になっているのである。
燃え立つモミジに抱かれた古刹。
そこに百合恵が眠っている。
かつて百合恵は昌文とここを訪れたのだ。
「石門洞へはもう行かれましたか」
「まだです。これから行きます」
「早く行ってあげなさい。あそこで百合恵さんが待っていますよ」
住職の言葉に昌文は頷いた。
昌文と付き合い始めて三年、婚約して半年後のこと、百合恵は体調不良を訴えた。
最初、右下腹部に張りと痛みと覚えたが、市販の薬を飲むとそれもすぐ治まった。
仕事も忙しかった上に、三ヶ月後に昌文との結婚式を控えており、結構ばたばた動き回っていたので、
疲労から来る一過性の腹痛だろうと軽く考えていた。
しかしある土曜日の午後、昌文と式場の打ち合せに行った帰り、差し込む痛みに下腹部を抱えて助手席にうずくまってしまった。
昌文は百合恵の尋常でない様子に、すぐ病院へと急いだ。
診療室に入ると、医者は即座に精密検査をすると言った。
百合恵が検査室に入って小一時間は経とうというのに、百合恵と医者はまだ帰ってこない。
昌文は不安になった。
看護師が、若いですから心配ないですよ、と優しく声を掛けてくれたが、百合恵の痛がりようはただ事ではなかった。
それを思うとやはり不安が残った。
二時間くらいしてようやく担当医に呼ばれた。
医者は昌文に座るように手で椅子を示し、それからレントゲン写真を光にかざして食い入るように眺めていた。
その表情から医者の言わんとすることが、なんとなく分かるような気がして怖くなった。
昌文はふと朝のことを思い出してしまった。
朝食を終え湯飲みに熱い茶を淹れた。
ところが湯飲み茶碗が、こともあろうに真っ二つに割れてしまったのである。
もうかれこれ一年くらい使っている萩焼の湯飲み茶碗で、分厚くそう簡単に割れる代物ではなかった。
それがぱっくり二つに割れたのである。
医者は、さてどう切り出したものか、思案しているようだった。
「先生、病気は……」
昌文の方が沈黙に耐えられなくなって、先に口を開いた。
若い医者はまだそれほど場数を踏んでいないらしく、あのですね、と言ったきり、その後の言葉が継げない。
「はっきり言ってください」
昌文がせかす恰好になった。
「まず初めに腹痛の原因なんですが」
と遠回しに話しを切り出した。
「これは難病の一つとされる子宮内膜症です。
簡単に言いますと、生理のときに子宮の粘膜から出血する病気です。
生理本来の出血とは違って、子宮の壁に穴が空いていて、そこから出血するのです。
だからその痛みは尋常なものではありません」
「難病と言いましたが、治療法はあるんでしょうか」
「残念ながら現在のところ完全なものはありませんが、効果的な薬はあります。
ただ副作用が強くてね。
あまり使いすぎると内臓疾患に罹ったり骨密度が失われたりします」
「じゃあ治療法がないと」
「一番いいのは妊娠することですね」
その医者はにこりともせずそう言った。
医学書を棒読みしているようにさえ聞こえる。
「妊娠?」
「そう。妊娠すると生理が止まる。つまり出血も止まるということです。
その間に病気が治癒すればいいのですが」
「その間に治癒ですか……はあ」
昌文は途方に暮れ、気の抜けた返事しかできなかった。
「ただですね、問題はそれだけじゃありません」
「それだけではない」
いったいどういうことなのだ。
「実は、患者さんはもっと深刻な問題を抱えているようです」
「何ですか」
「まだ断定はできないんですが、その可能性があるということです」
「その可能性?」
「至急大きな病院へ行って、再度精密検査を受けることをお勧めします。
一応紹介状は書いておきました。
まず間違いないと思いますが」
医者はここまで言って言葉を濁した。
断定して自分の立場を悪くしたくないのだろう。
「間違いないって、何がですか、先生」
昌文は食い下がった。
昌文はその後の医者との会話をよく覚えていない。
それから二日後、別の病院で再度精密検査を受け、子宮癌と診断された。
昌文は暗渠の淵に突き落とされた。
百合恵にとってもそうだが、昌文自身にしても死の宣告を受けたに等しかった。
百合恵にどう説明したらいいのだろう。
事実、昌文は百合恵のこっちまで染まりそうになる清らかな笑顔を見ると、
つい涙が出そうになって何度も病室を飛び出してしまった。
百合恵の左指にはめられた婚約指輪が痛々しかった。
未来のない婚約指輪。
百合恵はそのことを知らない。
左に行くと紅雲亭、右に行けば小豆島ブルーラインとなる。
その分かれ道の真ん中、猪の谷から雑木林へと分け入る一本の遊歩道がある。
そこを一人の男が先を急いでいた。
折しも紅葉真っ盛りである。
あと一週間もすればほとんどすべての木が裸になってしまう。
遊歩道の右側は深い渓谷で、息を飲むような切り立った岩が屏風状に連なっている。
遊歩道の出発地点から約三百メートルほど行ったところに簡易の展望所があるが、
そこから渓谷を見下ろすと、渓谷全体が燃えているように見える。
男の名前は永島昌文。年齢五十歳。
商社勤務のサラリーマン。
彼は年に一度遊歩道の先にある寺を訪れる。
昌文はリュックを背負って山道を達者な足取りで登っていた。
背負ったリュックは中にいろいろなものが入っているらしく、見た目にも結構重そうである。
昌文もご多分にもれず、やはり展望所のところにくると足を止めた。
彼は渓谷に目をやり、それからフーと大きく溜息に近い息をすると、
「もうあれから二十年か。早いもんだな」
と言った。
空はこの上なく晴れ上がり、かえってそれが昌文の気持ちを憂鬱にしたくらいだ。
ここを訪れるごと、昌文の気持ちも少しずつは軽くなっていった。
だが、それでも青春の記憶はそう簡単には癒されない。
いやむしろ癒されない方が、昌文にとってはある意味で幸せだったかもしれない。
気持ちが癒されないうちは、必ずここに帰ってくる。
そうすれば百合恵とのことをちゃんと心に刻んで、生涯忘れずにおれるからである。
昌文は意を決したようにリュックを担ぐと、再び歩き出した。
この遊歩道は裏八景と呼ばれ、紅雲亭から登る表十二景とは一本の稜線を境に反対側になる。
ここを訪れるのは地元の人間か、昌文のように山歩きに詳しい人間だけである。
展望所から約十分ほどで小豆島霊場第十八番石門洞に着く。
この寺も小豆島霊場の特徴の一つとなっている岩場をくり抜いて造った山岳信仰の寺である。
ただここが他の霊場と異なるのは、他に類を見ないほど美しいモミジにある。
昌文は岩をくり抜いて造られた本堂に着くと、重いリュックを降ろした。
肩の辺りを軽く叩いたり指先で軽く揉みほぐしたりした。
それからリュックを開け線香を取り出すと、ライターで火を点け、線香立ての真ん中に据えた。
昌文は立ち上る線香の煙の向こうに遠いむかしを見ているようにしばしぼんやりと佇んでいたが、
ふと我に返ると敬虔な気持ちで両手を合わせた。
新しい香の匂いが本堂全体を満たし、これまでの香の匂いと混ざり合って、昌文の胸を苦しくさせた。
昌文が両手を合わせ目を閉じていると、住職が顔を出した。
「今年もやはり来ましたか」
「ええ。来ないと心が痛むんです」
昌文は低い声で懺悔するように言った。
「もう何年になりますかね」
「二十年です」
「もうそんなになりますか。時間が経つのは早いもんですね」
昌文は今年五十歳になった。
大手企業のエリートサラリーマンである。
毎日仕事に追われる日々。
しかし年に一度ここ小豆島に足を運んでくる。
「まだ独り身と見えますが」
「一度は結婚したんですが」
「やっぱり忘れることができませんか」
「ええ。それにこの年齢になりますと、もう今のままでもいいと思いましてね」
「人間の幸福とはいろいろな形でやってきます。
一口にどれがいいとは言えません。
自分が幸せと感じる心を持つことが幸せなんです。
しがらみの多い世の中にあって、まだお若いのにあなたのような人がいるとは、僧侶としても励みになります」
「一種の罪滅ぼしでしょうか」
「そう自分を責めるものではありません。
人間というのは、好きだからといって必ずしも一緒になれるというものでもありません。
運命というものもあります。
しかしあなたたちの場合、お互い心はつながっていますよ。
私にはそれがはっきり見えます。安心なさい」
それを聞いて昌文の心も少しは軽くなった。
「どうです。ここから眺めるモミジは」
「いつ来ても言葉を失います」
「彼女、確か百合恵さんとか言いましたね。彼女もモミジが大好きでしたね」
本堂左側はくり抜いた岩をそのまま残し、そこにガラス窓が入れてある。
ちょうど真下に境内があり、それを四方から大きなモミジが取り囲んで、
まるで寺全体がすっぽりモミジの手の中に収まった恰好になっているのである。
燃え立つモミジに抱かれた古刹。
そこに百合恵が眠っている。
かつて百合恵は昌文とここを訪れたのだ。
「石門洞へはもう行かれましたか」
「まだです。これから行きます」
「早く行ってあげなさい。あそこで百合恵さんが待っていますよ」
住職の言葉に昌文は頷いた。
昌文と付き合い始めて三年、婚約して半年後のこと、百合恵は体調不良を訴えた。
最初、右下腹部に張りと痛みと覚えたが、市販の薬を飲むとそれもすぐ治まった。
仕事も忙しかった上に、三ヶ月後に昌文との結婚式を控えており、結構ばたばた動き回っていたので、
疲労から来る一過性の腹痛だろうと軽く考えていた。
しかしある土曜日の午後、昌文と式場の打ち合せに行った帰り、差し込む痛みに下腹部を抱えて助手席にうずくまってしまった。
昌文は百合恵の尋常でない様子に、すぐ病院へと急いだ。
診療室に入ると、医者は即座に精密検査をすると言った。
百合恵が検査室に入って小一時間は経とうというのに、百合恵と医者はまだ帰ってこない。
昌文は不安になった。
看護師が、若いですから心配ないですよ、と優しく声を掛けてくれたが、百合恵の痛がりようはただ事ではなかった。
それを思うとやはり不安が残った。
二時間くらいしてようやく担当医に呼ばれた。
医者は昌文に座るように手で椅子を示し、それからレントゲン写真を光にかざして食い入るように眺めていた。
その表情から医者の言わんとすることが、なんとなく分かるような気がして怖くなった。
昌文はふと朝のことを思い出してしまった。
朝食を終え湯飲みに熱い茶を淹れた。
ところが湯飲み茶碗が、こともあろうに真っ二つに割れてしまったのである。
もうかれこれ一年くらい使っている萩焼の湯飲み茶碗で、分厚くそう簡単に割れる代物ではなかった。
それがぱっくり二つに割れたのである。
医者は、さてどう切り出したものか、思案しているようだった。
「先生、病気は……」
昌文の方が沈黙に耐えられなくなって、先に口を開いた。
若い医者はまだそれほど場数を踏んでいないらしく、あのですね、と言ったきり、その後の言葉が継げない。
「はっきり言ってください」
昌文がせかす恰好になった。
「まず初めに腹痛の原因なんですが」
と遠回しに話しを切り出した。
「これは難病の一つとされる子宮内膜症です。
簡単に言いますと、生理のときに子宮の粘膜から出血する病気です。
生理本来の出血とは違って、子宮の壁に穴が空いていて、そこから出血するのです。
だからその痛みは尋常なものではありません」
「難病と言いましたが、治療法はあるんでしょうか」
「残念ながら現在のところ完全なものはありませんが、効果的な薬はあります。
ただ副作用が強くてね。
あまり使いすぎると内臓疾患に罹ったり骨密度が失われたりします」
「じゃあ治療法がないと」
「一番いいのは妊娠することですね」
その医者はにこりともせずそう言った。
医学書を棒読みしているようにさえ聞こえる。
「妊娠?」
「そう。妊娠すると生理が止まる。つまり出血も止まるということです。
その間に病気が治癒すればいいのですが」
「その間に治癒ですか……はあ」
昌文は途方に暮れ、気の抜けた返事しかできなかった。
「ただですね、問題はそれだけじゃありません」
「それだけではない」
いったいどういうことなのだ。
「実は、患者さんはもっと深刻な問題を抱えているようです」
「何ですか」
「まだ断定はできないんですが、その可能性があるということです」
「その可能性?」
「至急大きな病院へ行って、再度精密検査を受けることをお勧めします。
一応紹介状は書いておきました。
まず間違いないと思いますが」
医者はここまで言って言葉を濁した。
断定して自分の立場を悪くしたくないのだろう。
「間違いないって、何がですか、先生」
昌文は食い下がった。
昌文はその後の医者との会話をよく覚えていない。
それから二日後、別の病院で再度精密検査を受け、子宮癌と診断された。
昌文は暗渠の淵に突き落とされた。
百合恵にとってもそうだが、昌文自身にしても死の宣告を受けたに等しかった。
百合恵にどう説明したらいいのだろう。
事実、昌文は百合恵のこっちまで染まりそうになる清らかな笑顔を見ると、
つい涙が出そうになって何度も病室を飛び出してしまった。
百合恵の左指にはめられた婚約指輪が痛々しかった。
未来のない婚約指輪。
百合恵はそのことを知らない。
小豆島備讃瀬戸、天気晴朗なれど、波高し
小豆島恋叙情 第5話 夏至観音
はじめに
知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
いよいよ第5話になりました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
いよいよ第5話になりました。
小豆島恋叙情 第5話 夏至観音
鮠沢 満 作
浩一郎は真夏だというのに、妻の手を固く握りしめていた。
手の平が汗でじっとり濡れているのが分かる。
それでも浩一郎は妻の手を放そうとはしなかった。
夏の午後三時といえば、歯に汗かくほどの暑さだ。
特にあれ以来体調を崩している佐和子にとって、
うだるような暑さは身を削るような責め苦に違いなかった。
歩行がややもすれば途絶えそうになる佐和子の手をやや強引に引いて、
ようやく洞雲山の大師堂近くまでやってきた。
小豆島霊場第一番札所、洞雲山。
幽邃境の峻厳な尾根を千年杉が覆う雄大な岩山の裾に、
耽美な佇まいを残した小豆島霊場屈指の寺である。
参道脇にも杉の巨木が数本、聳えるように立っていた。
樹齢は定かではなかったが、数千年の時の流れを体内に宿していることは間違いない。
等間隔に並んだ杉木立はことのほか背丈が高く、
そして幹があまりにも太かったために、とても尋常な代物とは思えなかった。
事実、浩一郎も佐和子も畏怖の念さえ感じ始めていた。
特にその巨大な幹は非現実的なほど太く、
そこから何かオーラのようなものさえ発せられていると感じた。
浩一郎は佐和子の手を杉の肌へと導いた。
佐和子は浩一郎の自分の気持ちを無視したそのやり方に腹を立て、最初手を引っ込めようとした。
しかし、一瞬ではあるが浩一郎の顔が苦渋に歪んだのを見て、
あえて抵抗せずそのまま浩一郎の思いどおりにさせることにした。
杉の幹に手を置いてしばらくしたとき、佐和子があっと小さく声をもらした。
「どうかした」
浩一郎は感情を殺して言った。
それに対し佐和子は、
「何かこの中に……」
と言ったきり口をつぐんでしまった。
杉の幹から手を離すどころか、さっきより強く手の平を幹に押し付けているのである。
まるで幹の奥に存在する何かを感覚的につかもうとしているようにさえ見える。
目をやや細め、全神経を指先に集中させた佐和子の顔は、
さきほどまで見せていた険しい顔ではなかった。
むしろ角が取れ、ふんわりとした優しさが滲み出ていた。
浩一郎は佐和子のそんな半ばうっとりとした穏やかな表情を、久しく見たことがなかった。
半年前、佐和子を思わぬ出来事が襲った。
妊娠三ヶ月だった。もともと身体は丈夫だったが、
初めての妊娠ということで、期待も大きかった反面、不安も大きかったに違いない。
まだ下腹部に妊娠の兆候すら出ていないのに、
ベビー服とかおもちゃの類をあれこれ考えていたかと思うと、
翌日には子供を育てる自信がないと、まるで思春期の中学生みたいに恐れおののいた。
ちょうどその日は浩一郎が半日出勤で、昼から休みが取れるということで、
佐和子を少しでもリラックスさせるつもりで、一方的ではあったがレストランでの食事に誘い出した。
佐和子は少し身体が重く、正直言って行きたくはなかったが、
浩一郎の優しさを思うと断ることができなかった。
浩一郎は会社からそのまま約束の場所に向かうことになった。
浩一郎がレストランに着いたとき、佐和子の姿はまだなかった。
浩一郎は予約の席に腰を降ろし、佐和子の到着を待つことにした。
十分が過ぎた。しかし佐和子は現れなかった。不安が浩一郎の脳裏をよぎった。
それからさらに五分。
まだ佐和子は来ない。
浩一郎は携帯を取り出すと、佐和子を呼び出した。
しかし呼び出し音だけが空しく浩一郎の鼓膜を震わせた。
それからしばらくして浩一郎の携帯に電話があった。
「宇野さんですか。こちら中央病院ですが、奥様の佐和子さんが……」
後のことは浩一郎もよく覚えていない。
病室に入ると佐和子がベッドにぐったりとなって横たわっていた。
顔には落胆と疲労の色がありありと浮かんでいた。
浩一郎がそばに寄ると、佐和子は思い余ったのか大粒の涙を流した。
浩一郎は佐和子の気持ちが痛いほど分かっていた。
ポケットからハンカチを取り出すと、そっと涙を拭いてやった。
ハンカチに吸い取られた涙がとても重く感じられた。
浩一郎は、
「心配しないでいいから、ゆっくりお休み」
と一言だけ言った。しかし佐和子はその言葉に傷付き、顔をそむけると目を固く閉じた。
その固く閉じられた瞼は、完全に浩一郎に対する敵意を表していた。
約束の日、佐和子は浩一郎との約束の時間に遅れまいと急いでいた。
すでに五分遅れていた。
佐和子は本通りから脇道に入り近道をしようとした。
とそのとき路地から自転車に乗った高校生が飛び出してきた。
余りに突然のことで、佐和子は身をかわすことができなかった。
佐和子はまともに自転車と衝突し、腹部をいやというほど痛打した。
佐和子はまだ幹に手をやったままでいる。
「温かい。生きているのね」
佐和子がはじめて浩一郎に話しかけてきた。
「そう生きているんだよ」
浩一郎は慰めるような口調で返した。
「あの子が」
と佐和子は付け足した。
「そう、この中に。この中だけじゃない」
「他にも?」
「これからそれを君に見せてあげる。今日は夏至」
浩一郎は佐和子の背を優しく押した。
そして大師堂に続く階段をゆっくり登っていった。
階段を登りきると、蝉時雨に包まれた。
浩一郎はすぐそばの木を見た。
何十匹というクマゼミが背中を震わせて鳴いていた。
短い生を懸命に生きている。彼らは自分たちに命があることさえ知らないのかもしれない。
それでも与えられた命を無意識のうちに意識し、その命を削って生きているのだ。
浩一郎は思った。
僕たちは一つの命を失った。
でもその生まれてこなかった命の分まで、生きている者が懸命に生きなければならない。
朝に生まれ夕べに死す蜻蛉とて、人間の一生分ほどのエネルギーを燃やすに違いない。
違うのは生きる時間の長短だけではないのか。
今を生きる。
それも身を削り、命を削って。
佐和子にもそのことが分かってほしかった。
死児の齢を数えても仕方ない。
前を見るしか生きようがないのだから。
やや奥に進むと大きな岩の洞窟があり、その中に菩薩があった。
慈悲深い顔をした菩薩は、傷ついた心を持つ人間の変わり身のように見えた。
一筋の滝の水が断崖のてっぺんから飛沫を飛ばしながら流れ落ち、下の水溜まりを激しく叩いていた。
空中に浮遊した水しぶきの粒に光が射して、小さな虹が浮かんでいた。
佐和子は虹に向かって手を差し出した。虹の暖かさに触れたいのだろうか。
それとも虹の先に、生まれてこなかった嬰児の姿を思い描いているのだろうか。
虹の端が菩薩に落ち、金箔の剥げ落ちた顔に五つの色が乗った。
佐和子は浮かび上がった菩薩に両手を合わせると、うやうやしく祈った。
浩一郎はそんな佐和子の姿に女としての母性を感じた。
太陽が少し動き、日光がほどよい角度で懸崖を照らし始めた。
浩一郎は佐和子を岩の裂け目に作られた仙霊窟の入口へと導いた。
本尊に毘沙門天を安置している。
「ここが一番いい場所なんだ。岩のあそこ辺りを見ていてご覧。しばらくすると現れるから」
浩一郎は反対側の岩を指さした。
それは高さがおおよそ十五メートルはあろうかと思われる乳白色の岩の屏風だった。
夏の暑さは相当なものになっているはずなのに、二人のいる岩の隙間はひんやりとして気持ちがよかった。
心と体が癒される思いがした。
そこに何かしら霊的なものを感じたとしてもおかしくはない。
実際、二人ともそれを感じつつあった。
浩一郎はただ黙って佐和子のそばに突っ立っていた。
言葉はいらなかった。
見れば分かる。
佐和子はなぜ浩一郎が自分をその場所に連れてきたのか理解に苦しんだ。
まさか岩を見るためだけにこんな山の上まで自分を連れてくるはずはなかった。
佐和子は言われたとおりじっとそこを見つめた。
太陽はさらに西に動き、日射角を少し右に移した。
とそのとき、それは現れた。
岩からしみ出たように。
佐和子は一瞬目を疑った。
そして同意を求めるように、浩一郎の顔を覗った。
浩一郎は黙って頷いた。
佐和子は浩一郎の意図がやっと理解できた。
佐和子は浩一郎の思いやりの深さに、そのまま泣き崩れそうになった。
浩一郎がそっと背中を支えた。
「夏至観音。夏のこの時間帯だけに現れる。岩と日光が織りなす幻影」
浩一郎の言葉に佐和子は頷き、
「私たちまだ若いんだもの、やり直しはいくらでもできる。
ご免なさい。
わたし、あなたのことを責めていたの。
あのときあなたが無理に私を食事に誘いさえしなければ……、と」
岩の屏風に映し出された夏至観音。
それは光と影が生み出す幻影に過ぎなかったが、浩一郎と佐和子にとっては、
失った子の魂が姿を変えて現れたものに等しかった。
そして観音の口元は、光の加減によってかすかに笑っているようにさえ思えた。
手の平が汗でじっとり濡れているのが分かる。
それでも浩一郎は妻の手を放そうとはしなかった。
夏の午後三時といえば、歯に汗かくほどの暑さだ。
特にあれ以来体調を崩している佐和子にとって、
うだるような暑さは身を削るような責め苦に違いなかった。
歩行がややもすれば途絶えそうになる佐和子の手をやや強引に引いて、
ようやく洞雲山の大師堂近くまでやってきた。
小豆島霊場第一番札所、洞雲山。
幽邃境の峻厳な尾根を千年杉が覆う雄大な岩山の裾に、
耽美な佇まいを残した小豆島霊場屈指の寺である。
参道脇にも杉の巨木が数本、聳えるように立っていた。
樹齢は定かではなかったが、数千年の時の流れを体内に宿していることは間違いない。
等間隔に並んだ杉木立はことのほか背丈が高く、
そして幹があまりにも太かったために、とても尋常な代物とは思えなかった。
事実、浩一郎も佐和子も畏怖の念さえ感じ始めていた。
特にその巨大な幹は非現実的なほど太く、
そこから何かオーラのようなものさえ発せられていると感じた。
浩一郎は佐和子の手を杉の肌へと導いた。
佐和子は浩一郎の自分の気持ちを無視したそのやり方に腹を立て、最初手を引っ込めようとした。
しかし、一瞬ではあるが浩一郎の顔が苦渋に歪んだのを見て、
あえて抵抗せずそのまま浩一郎の思いどおりにさせることにした。
杉の幹に手を置いてしばらくしたとき、佐和子があっと小さく声をもらした。
「どうかした」
浩一郎は感情を殺して言った。
それに対し佐和子は、
「何かこの中に……」
と言ったきり口をつぐんでしまった。
杉の幹から手を離すどころか、さっきより強く手の平を幹に押し付けているのである。
まるで幹の奥に存在する何かを感覚的につかもうとしているようにさえ見える。
目をやや細め、全神経を指先に集中させた佐和子の顔は、
さきほどまで見せていた険しい顔ではなかった。
むしろ角が取れ、ふんわりとした優しさが滲み出ていた。
浩一郎は佐和子のそんな半ばうっとりとした穏やかな表情を、久しく見たことがなかった。
半年前、佐和子を思わぬ出来事が襲った。
妊娠三ヶ月だった。もともと身体は丈夫だったが、
初めての妊娠ということで、期待も大きかった反面、不安も大きかったに違いない。
まだ下腹部に妊娠の兆候すら出ていないのに、
ベビー服とかおもちゃの類をあれこれ考えていたかと思うと、
翌日には子供を育てる自信がないと、まるで思春期の中学生みたいに恐れおののいた。
ちょうどその日は浩一郎が半日出勤で、昼から休みが取れるということで、
佐和子を少しでもリラックスさせるつもりで、一方的ではあったがレストランでの食事に誘い出した。
佐和子は少し身体が重く、正直言って行きたくはなかったが、
浩一郎の優しさを思うと断ることができなかった。
浩一郎は会社からそのまま約束の場所に向かうことになった。
浩一郎がレストランに着いたとき、佐和子の姿はまだなかった。
浩一郎は予約の席に腰を降ろし、佐和子の到着を待つことにした。
十分が過ぎた。しかし佐和子は現れなかった。不安が浩一郎の脳裏をよぎった。
それからさらに五分。
まだ佐和子は来ない。
浩一郎は携帯を取り出すと、佐和子を呼び出した。
しかし呼び出し音だけが空しく浩一郎の鼓膜を震わせた。
それからしばらくして浩一郎の携帯に電話があった。
「宇野さんですか。こちら中央病院ですが、奥様の佐和子さんが……」
後のことは浩一郎もよく覚えていない。
病室に入ると佐和子がベッドにぐったりとなって横たわっていた。
顔には落胆と疲労の色がありありと浮かんでいた。
浩一郎がそばに寄ると、佐和子は思い余ったのか大粒の涙を流した。
浩一郎は佐和子の気持ちが痛いほど分かっていた。
ポケットからハンカチを取り出すと、そっと涙を拭いてやった。
ハンカチに吸い取られた涙がとても重く感じられた。
浩一郎は、
「心配しないでいいから、ゆっくりお休み」
と一言だけ言った。しかし佐和子はその言葉に傷付き、顔をそむけると目を固く閉じた。
その固く閉じられた瞼は、完全に浩一郎に対する敵意を表していた。
約束の日、佐和子は浩一郎との約束の時間に遅れまいと急いでいた。
すでに五分遅れていた。
佐和子は本通りから脇道に入り近道をしようとした。
とそのとき路地から自転車に乗った高校生が飛び出してきた。
余りに突然のことで、佐和子は身をかわすことができなかった。
佐和子はまともに自転車と衝突し、腹部をいやというほど痛打した。
佐和子はまだ幹に手をやったままでいる。
「温かい。生きているのね」
佐和子がはじめて浩一郎に話しかけてきた。
「そう生きているんだよ」
浩一郎は慰めるような口調で返した。
「あの子が」
と佐和子は付け足した。
「そう、この中に。この中だけじゃない」
「他にも?」
「これからそれを君に見せてあげる。今日は夏至」
浩一郎は佐和子の背を優しく押した。
そして大師堂に続く階段をゆっくり登っていった。
階段を登りきると、蝉時雨に包まれた。
浩一郎はすぐそばの木を見た。
何十匹というクマゼミが背中を震わせて鳴いていた。
短い生を懸命に生きている。彼らは自分たちに命があることさえ知らないのかもしれない。
それでも与えられた命を無意識のうちに意識し、その命を削って生きているのだ。
浩一郎は思った。
僕たちは一つの命を失った。
でもその生まれてこなかった命の分まで、生きている者が懸命に生きなければならない。
朝に生まれ夕べに死す蜻蛉とて、人間の一生分ほどのエネルギーを燃やすに違いない。
違うのは生きる時間の長短だけではないのか。
今を生きる。
それも身を削り、命を削って。
佐和子にもそのことが分かってほしかった。
死児の齢を数えても仕方ない。
前を見るしか生きようがないのだから。
やや奥に進むと大きな岩の洞窟があり、その中に菩薩があった。
慈悲深い顔をした菩薩は、傷ついた心を持つ人間の変わり身のように見えた。
一筋の滝の水が断崖のてっぺんから飛沫を飛ばしながら流れ落ち、下の水溜まりを激しく叩いていた。
空中に浮遊した水しぶきの粒に光が射して、小さな虹が浮かんでいた。
佐和子は虹に向かって手を差し出した。虹の暖かさに触れたいのだろうか。
それとも虹の先に、生まれてこなかった嬰児の姿を思い描いているのだろうか。
虹の端が菩薩に落ち、金箔の剥げ落ちた顔に五つの色が乗った。
佐和子は浮かび上がった菩薩に両手を合わせると、うやうやしく祈った。
浩一郎はそんな佐和子の姿に女としての母性を感じた。
太陽が少し動き、日光がほどよい角度で懸崖を照らし始めた。
浩一郎は佐和子を岩の裂け目に作られた仙霊窟の入口へと導いた。
本尊に毘沙門天を安置している。
「ここが一番いい場所なんだ。岩のあそこ辺りを見ていてご覧。しばらくすると現れるから」
浩一郎は反対側の岩を指さした。
それは高さがおおよそ十五メートルはあろうかと思われる乳白色の岩の屏風だった。
夏の暑さは相当なものになっているはずなのに、二人のいる岩の隙間はひんやりとして気持ちがよかった。
心と体が癒される思いがした。
そこに何かしら霊的なものを感じたとしてもおかしくはない。
実際、二人ともそれを感じつつあった。
浩一郎はただ黙って佐和子のそばに突っ立っていた。
言葉はいらなかった。
見れば分かる。
佐和子はなぜ浩一郎が自分をその場所に連れてきたのか理解に苦しんだ。
まさか岩を見るためだけにこんな山の上まで自分を連れてくるはずはなかった。
佐和子は言われたとおりじっとそこを見つめた。
太陽はさらに西に動き、日射角を少し右に移した。
とそのとき、それは現れた。
岩からしみ出たように。
佐和子は一瞬目を疑った。
そして同意を求めるように、浩一郎の顔を覗った。
浩一郎は黙って頷いた。
佐和子は浩一郎の意図がやっと理解できた。
佐和子は浩一郎の思いやりの深さに、そのまま泣き崩れそうになった。
浩一郎がそっと背中を支えた。
「夏至観音。夏のこの時間帯だけに現れる。岩と日光が織りなす幻影」
浩一郎の言葉に佐和子は頷き、
「私たちまだ若いんだもの、やり直しはいくらでもできる。
ご免なさい。
わたし、あなたのことを責めていたの。
あのときあなたが無理に私を食事に誘いさえしなければ……、と」
岩の屏風に映し出された夏至観音。
それは光と影が生み出す幻影に過ぎなかったが、浩一郎と佐和子にとっては、
失った子の魂が姿を変えて現れたものに等しかった。
そして観音の口元は、光の加減によってかすかに笑っているようにさえ思えた。
小豆島 オリーブの開花
五月の光を浴びて、オリーブの小さなつぼみが風に揺れています。
もうすぐ、こんな可憐な花が見られます。
この時期、オリーブは葉の刈り取りのシーズンでもあります。
以前紹介したように、乾燥して「オリーブ茶」として売り出されています。
草壁航路のフェリー船内の売店で手に入れました。
苦みが効いていて、私には美味しかったです。
オリーブが実って、来年が百周年。
それに向けて、いろいろな「試行錯誤」の「チャレンジ」が行われています。
さいごにおまけ映像。24の瞳と風に揺れるオリーブの動画です。 (^_^)/~
http://videocast.yahoo.co.jp/player/blog.swf?vid=288230376151748295小豆島恋叙情 第4話 一枝のオリーブ
はじめに
知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
それでは連載第4回をお届けします。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
それでは連載第4回をお届けします。
小豆島恋叙情 第4話 一枝のオリーブ
== 鮠沢 満 作 ==嘉則がオリーブの枝を手にしたとき、ある情景が心に登ってきた。 赤茶けやせた土壌は乾き切っていた。 一本道がだらだら丘のてっぺんまで疲労したように続いていて、 真っ白な太陽に焼かれると途中で溶けてなくなりそうだった。 嘉則は背中に灼熱を感じながら、ただ黙って頂上を目指し歩いていた。 カトリーヌも黙って嘉則に従った。 その日は昼過ぎまで惰眠を貪っていた。 嘉則はベッドから音を立てないようにすり抜けると、窓際のところに行った。 カトリーヌはまだ眠りの底にいた。 嘉則はカトリーヌを起こさないようほんの少しだけカーテンを開けた。 まばゆい光の束が部屋になだれ込んできて、紫色の絨毯の一部を炙り出した。 嘉則がカーテンの間に顔をすべり込ませて、眼下に広がる『葡萄色の海』を眺めようとしたとき、 ちょうどカトリーヌが目を覚ました。 「どうしたの」 「起こしてすまない。エーゲ海がつい見たくって」 カトリーヌは上半身を起こした。 遠目にも裸の胸が豊かだ。 昨日付いた水着の跡がくっきり残っており、豊かな胸の部分が普段以上に白く際立っていた。 昨晩、カトリーヌの胸に顔を埋めたとき、嘉則は瀬戸内の穏やかな海のうねりを感じ取ることができた。 カトリーヌはガウンを羽織ると、嘉則のそばにやってきた。 そしてカーテンの端を両手でつかむと、思い切り両脇に引き開けた。 なだれ込んできた陽光の洪水に、しばし目がくらんだ。 しばらくして瞼の裏から黒い斑点が消え、視力が回復したとき、目の前にエーゲ海が広がっていた。 紺碧の空と海。 境界線はなく、どこまでが空でどこまでが海か判別できなかった。 ただ目の前にあるのは、ブルー一色の世界だった。 そのブルーの平面を裁断するように、白いヨットが斜めに水面をすべっていった。 「あれ見て」 カトリーヌが嘉則に身を任せながら指さした。 それは丘の上の風車だった。 海から吹き上げる風に、風車はゆっくりと回転していた。 風車を支えるのは、白い漆喰を打たれた円筒形の土台だった。 丘の斜面にはオリーブの木が植えられていた。 「あそこに行きたい」 カトリーヌが甘えるように言った。
二人は昼食を済ませると、半島の先の風車を目指した。 頂上近くまで来ると、風車の風を切る音が聞こえてきた。 風車の下にいると、ゴーゴーと風を切って回転する風車の羽根が、遠くから見るのと違い、悪魔的な力と獰猛さで迫ってきた。 風車から両側に滑り落ちる斜面にはオリーブが植えられていて、痩せた果肉の実が昼下がりの乾いた空気にうめき声を上げていた。 嘉則はカトリーヌの碧い目を覗き込みながら言った。 「僕のふる里はここと同じで、オリーブの木がいっぱい植わっている」 「オリーブが育つんだったら、結構暖かいところなの」 「そう。それにとても美しい。海もある」 「どうして海が見たかったの」 「昨夜、君に海を感じたからだ」 「帰りたくなったのね」 「ここでの生活も随分長くなったから」 「私との関係もそうなの」 「カトリーヌ、君のことは今でも愛している」 「でも帰りたい」 カトリーヌの目の奥に、一瞬小さなさざ波が膨れ上がった。 「俺と一緒に来ないか」 嘉則はカトリーヌの両肩を少し揺するようにして言った。 それは色よい返事をカトリーヌから引き出すため、予め考えられた嘉則の所作の一つだった。 昨夜、カトリーヌが嘉則の腕の中で眠りに落ちた後、考えた。 カトリーヌの心臓の鼓動が、嘉則の細胞の一つひとつに上げ潮のように入り込んできた。 嘉則の思考は乱れた。 カトリーヌの寝顔を見ていると、異郷の地にとどまってもいいとさえ思えた。 しかしその感傷を打ち払わなければならなかった。 それにどっちみちカトリーヌは来ないだろう。 そう嘉則は踏んでいた。 「私があなたと一緒に行かないことを知っていてそう訊くんでしょう。それってフェアじゃないわ」 「俺は君が好きだ」 「好きだけじゃ一緒には暮らせないわ。男と女が一緒に暮らすには、それなりの環境というものが必要」 「それは分かる」 「私はギリシャ人。あなたは日本人」 「愛はエーゲ海を越える」 「小説ではね。でも駄目」 「年老いた両親のこと?」 「それもあるわ。でも、一番大きい理由は、あなたの目の輝き」 「目の輝き?」 「私に対してもギリシャに対しても、ヨシノリは目の輝きを失ってしまったわ」
オリーブの葉裏が魚の鱗のように鈍く光っていた。
ギリシャと同じような風車が丘の中腹にあり、内海から吹き付ける風に羽根を回転させている。
嘉則はオリーブの枝を一つ折り、鼻先に近づけてみた。
生臭いが、どこかギリシャの香りがした。
「カトリーヌ」
嘉則は激しく背を震わせた。
嘉則はカトリーヌの中に海を感じ、かつてその海に自分が安らかな気持ちで内包されていたことを思い出した。
愛はエーゲ海を越えることはなかった。
ギリシャと同じような風車が丘の中腹にあり、内海から吹き付ける風に羽根を回転させている。
嘉則はオリーブの枝を一つ折り、鼻先に近づけてみた。
生臭いが、どこかギリシャの香りがした。
「カトリーヌ」
嘉則は激しく背を震わせた。
嘉則はカトリーヌの中に海を感じ、かつてその海に自分が安らかな気持ちで内包されていたことを思い出した。
愛はエーゲ海を越えることはなかった。
小豆島恋叙情 第3話 涙の波止場
はじめに
知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えてきました。
短編集なので随時、掲載していきます。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
それでは連載第3回をお届けします。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えてきました。
短編集なので随時、掲載していきます。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
だから、コメントをいただいても「返信」はできません。
作者に伝えることはできます。あしからず
それでは連載第3回をお届けします。
小豆島恋叙情 第3話 涙の波止場
鮠沢 満 作フェリーの乗船を告げるアナウンスがあった。
あと十分もすれば、この島とも別れになる。
特別な用もない限り、ここに立ち戻ることもないだろう。
別れの日だというのに、空はどこまでも抜けるように青い。健一郎にはそれが腹立たしいくらいだった。
健一郎は時間ぎりぎりまで待つことにした。
もしかして、という淡い期待もあった。
しかし心のどこかでは、裕子の性格からするとやっぱり来ないだろうという確信めいたものがあった。
「言っとくけど、あたしフェリーの乗り場まで行かないから。
あたしめそめそした別れって性に合わないの」
裕子はドライに割り切ったような言い方をした。
どこか無理してそれを繕っているようなところがある。
健一郎は裕子の本当の気持ちが分かっていた。
いや裕子の気持ちが分かるのは自分だけであるという自信さえあった。
一緒に暮らし始めて三年。三年あれば、すべてとまでは言わなくても、大体のことはお互い分かる。
その日、仕事を終えて帰ると店に出ているはずの裕子がいた。
それに普段とは違って少しだけ豪華なご馳走がテーブルに用意してあった。
裕子のいつもの翳りのある横顔を見たとき、健一郎は胸の奥から嗚咽がこみ上げそうになった。
裕子に本当にすまないと思ったからである。
苦し紛れに面白くもない冗談を飛ばしてみたが、裕子は歯牙にもかけないと言った様子で茶碗にご飯を盛った。
「行くんでしょう」
「えっ?」
「今日、人事異動だったんでしょう」
「まあ」
健一郎は曖昧に答えた。いくら曖昧に答えても、行くことに変わりはなかった。
健一郎は黙って箸を動かせた。
健一郎は裕子との三年にわたる歳月を思った。
裕子は酒場の女。健一郎は三年間の勤務を勤め上げれば本庁へ還される公務員。
独り暮らしの淋しさを慰める日々に、すーっと風のように滑り込んできた女がいた。
それが裕子だった。
押しつけがましいところはなかった。
健一郎も裕子のどこか翳りのある物腰に、男としての矜恃を掻きむしられた。
つまり裕子に優しくしてやりたいと思ったのである。それはあきらかに同情からの始まりだった。
裕子は店に出る前、こっそり健一郎のアパートに来ては夕食の支度をしたり、ワイシャツにアイロンがけをしたりと、こまめに世話を焼いてくれたが、
決して二人の関係を無理矢理進展させようとはしなかった。不思議な女だった。
ある日、裕子が出がけにぽつり言ったことがある。
それは沈む夕日のように暗く切なかった。
「一緒にいても寂しいときがあるのに、もしこれが本当に一人になったら、死ぬくらい寂しいんでしょうね。それを考えると、急に憶病になって背を丸めたくなるの。
でもその日がいつかやってくるのね」
健一郎は裕子の肩を抱いてやろうと手を伸ばしたが、裕子はそれからすり抜けるように身をひるがえすと、隙間風のように玄関から姿を消した。
裕子はつぶれかけのスナックを経営していた。
健一郎は客の一人だった。
ある晩、仕事のことでむしゃくしゃしていた健一郎は、裕子の店で飲み過ぎ酔っぱらってしまった。
裕子が健一郎をアパートまで送ってくれた。
酔いつぶれた健一郎をどうにか布団に寝かしつけたとき、男の独り暮らしの物悲しさを見るとはなく見たのに違いない。
それから裕子はときどき健一郎のアパートにこっそりやって来ては、掃除とか洗濯をするようになった。健一郎にしてみれば至れり尽くせりで文句はなかったが、そのうち無理難題を押しつけてくる女に違いないと、半ば警戒していた。
しかし、裕子は代償を求める女ではなかった。
時が経ち、裕子が店のないときは、健一郎のアパートに泊まっていくこともあった。
健一郎は妻帯していた。
子供も二人いた。
だからというわけではなかったが、二人の間に交わされる営みは、渇いた性愛というのではなかった。交わりは短く、淡泊だった。
むしろ別れのときのことを考えて、それ以上健一郎の身体の一つひとつの動きを自分の身体に刻みつけることを恐れているようなところが裕子にはあった。
あえて感情移入をせず、どこか遠くを見つめるような眼差しで身体を預けてくる裕子が、健一郎にはいつの頃からか愛しく思えるようになっていた。
そう、最初は同情からの始まりだったのに。
あと十分もすれば、この島とも別れになる。
特別な用もない限り、ここに立ち戻ることもないだろう。
別れの日だというのに、空はどこまでも抜けるように青い。健一郎にはそれが腹立たしいくらいだった。
健一郎は時間ぎりぎりまで待つことにした。
もしかして、という淡い期待もあった。
しかし心のどこかでは、裕子の性格からするとやっぱり来ないだろうという確信めいたものがあった。
「言っとくけど、あたしフェリーの乗り場まで行かないから。
あたしめそめそした別れって性に合わないの」
裕子はドライに割り切ったような言い方をした。
どこか無理してそれを繕っているようなところがある。
健一郎は裕子の本当の気持ちが分かっていた。
いや裕子の気持ちが分かるのは自分だけであるという自信さえあった。
一緒に暮らし始めて三年。三年あれば、すべてとまでは言わなくても、大体のことはお互い分かる。
その日、仕事を終えて帰ると店に出ているはずの裕子がいた。
それに普段とは違って少しだけ豪華なご馳走がテーブルに用意してあった。
裕子のいつもの翳りのある横顔を見たとき、健一郎は胸の奥から嗚咽がこみ上げそうになった。
裕子に本当にすまないと思ったからである。
苦し紛れに面白くもない冗談を飛ばしてみたが、裕子は歯牙にもかけないと言った様子で茶碗にご飯を盛った。
「行くんでしょう」
「えっ?」
「今日、人事異動だったんでしょう」
「まあ」
健一郎は曖昧に答えた。いくら曖昧に答えても、行くことに変わりはなかった。
健一郎は黙って箸を動かせた。
健一郎は裕子との三年にわたる歳月を思った。
裕子は酒場の女。健一郎は三年間の勤務を勤め上げれば本庁へ還される公務員。
独り暮らしの淋しさを慰める日々に、すーっと風のように滑り込んできた女がいた。
それが裕子だった。
押しつけがましいところはなかった。
健一郎も裕子のどこか翳りのある物腰に、男としての矜恃を掻きむしられた。
つまり裕子に優しくしてやりたいと思ったのである。それはあきらかに同情からの始まりだった。
裕子は店に出る前、こっそり健一郎のアパートに来ては夕食の支度をしたり、ワイシャツにアイロンがけをしたりと、こまめに世話を焼いてくれたが、
決して二人の関係を無理矢理進展させようとはしなかった。不思議な女だった。
ある日、裕子が出がけにぽつり言ったことがある。
それは沈む夕日のように暗く切なかった。
「一緒にいても寂しいときがあるのに、もしこれが本当に一人になったら、死ぬくらい寂しいんでしょうね。それを考えると、急に憶病になって背を丸めたくなるの。
でもその日がいつかやってくるのね」
健一郎は裕子の肩を抱いてやろうと手を伸ばしたが、裕子はそれからすり抜けるように身をひるがえすと、隙間風のように玄関から姿を消した。
裕子はつぶれかけのスナックを経営していた。
健一郎は客の一人だった。
ある晩、仕事のことでむしゃくしゃしていた健一郎は、裕子の店で飲み過ぎ酔っぱらってしまった。
裕子が健一郎をアパートまで送ってくれた。
酔いつぶれた健一郎をどうにか布団に寝かしつけたとき、男の独り暮らしの物悲しさを見るとはなく見たのに違いない。
それから裕子はときどき健一郎のアパートにこっそりやって来ては、掃除とか洗濯をするようになった。健一郎にしてみれば至れり尽くせりで文句はなかったが、そのうち無理難題を押しつけてくる女に違いないと、半ば警戒していた。
しかし、裕子は代償を求める女ではなかった。
時が経ち、裕子が店のないときは、健一郎のアパートに泊まっていくこともあった。
健一郎は妻帯していた。
子供も二人いた。
だからというわけではなかったが、二人の間に交わされる営みは、渇いた性愛というのではなかった。交わりは短く、淡泊だった。
むしろ別れのときのことを考えて、それ以上健一郎の身体の一つひとつの動きを自分の身体に刻みつけることを恐れているようなところが裕子にはあった。
あえて感情移入をせず、どこか遠くを見つめるような眼差しで身体を預けてくる裕子が、健一郎にはいつの頃からか愛しく思えるようになっていた。
そう、最初は同情からの始まりだったのに。
雨が落ちる夜、短い交わりの後襲ってきたゆるやかな眠りの縁で、裕子が誰に言うでもなくぽつり言葉を紡いだことがあった。
「両親は漁師。でも時化で船が海に呑まれて、死体さえ浮かばなかった。
大阪に妹が一人いるけど田舎暮らしが嫌いで、小豆島に帰ってくることなんてないわ。
私は高校を中退して水商売に入ったの。食べて行かなきゃならないでしょう。
あの頃も今も同じ。なんも変わっていない。
一人暮らしが皮膚の裏まで張り付いちゃって」
裕子が身の上話らしきものをしたのは、あのときが初めてだった。
それ以降二度とそのことを口にすることはなかった。
「高松の本庁に転勤だ」
裕子は別段驚いた様子も見せなかった。
いつかこんな日が来ることを覚悟していた。
そう言いたげな強情そうな顔の表情を崩さない。
「言っとくけど、あたし見送りなんか行かないから。
一介の酒場の女がそんなことできるわけないでしょう。
行くときは一人で消えて」
「分かってる」
「何が分かってるって言うのよ。あんたは何も分かってない」
裕子のそんな激しい口吻をこれまでに聞いたことがなかった。
「君にはすまないと思ってる」
それだけ言うのがやっとだった。
健一郎の瞼の裏には涙の袋がぶら下がっていた。
あと一言言えば、その袋は破れてどっと涙が溢れ出すに決まっていた。
「同情なんていらないわ。最初からこうなることは覚悟の上での関係だったんだから」
健一郎はもうそれ以上言わなかった。別れる前に感情のもつれだけは避けたかった。
「両親は漁師。でも時化で船が海に呑まれて、死体さえ浮かばなかった。
大阪に妹が一人いるけど田舎暮らしが嫌いで、小豆島に帰ってくることなんてないわ。
私は高校を中退して水商売に入ったの。食べて行かなきゃならないでしょう。
あの頃も今も同じ。なんも変わっていない。
一人暮らしが皮膚の裏まで張り付いちゃって」
裕子が身の上話らしきものをしたのは、あのときが初めてだった。
それ以降二度とそのことを口にすることはなかった。
「高松の本庁に転勤だ」
裕子は別段驚いた様子も見せなかった。
いつかこんな日が来ることを覚悟していた。
そう言いたげな強情そうな顔の表情を崩さない。
「言っとくけど、あたし見送りなんか行かないから。
一介の酒場の女がそんなことできるわけないでしょう。
行くときは一人で消えて」
「分かってる」
「何が分かってるって言うのよ。あんたは何も分かってない」
裕子のそんな激しい口吻をこれまでに聞いたことがなかった。
「君にはすまないと思ってる」
それだけ言うのがやっとだった。
健一郎の瞼の裏には涙の袋がぶら下がっていた。
あと一言言えば、その袋は破れてどっと涙が溢れ出すに決まっていた。
「同情なんていらないわ。最初からこうなることは覚悟の上での関係だったんだから」
健一郎はもうそれ以上言わなかった。別れる前に感情のもつれだけは避けたかった。
健一郎は時計に目をやった。出発の時間だ。
諦めフェリーに乗り込んだ。
フェリーは皇踏山を後方に押し返すように港を出て行った。
「やっぱりあいつは来なかった。意地っ張りだからな」
健一郎は客室の椅子に身を沈めた。新聞を読もうとしたが、同じところを何度も読んでいる自分に嫌気がさして放り出してしまった。
この三年間はいったい何だったのだ。
カモメがフェリーの上をかすめ飛んだ。
と、そのとき、小瀬の海岸に目が留まった。
健一郎は急いでデッキに走り出た。
「あいつ」
健一郎は身を乗り出して手を振っていた。
それに応えて一人の女も手を振った。
裕子だった。
桜が満開で、背後の山に小さな灯りのような斑点をいくつも滲ませていた。
「裕子、君のことは忘れない」
裕子に聞こえるはずもないのに、健一郎はそう言った。
裕子がハンカチで目頭を押さえるのが見えた。
「あたし見送りなんか行かないから。行くときは一人で消えて」
裕子の強がりが本当の優しさに思えた。
はじめは同情だったのに……。
諦めフェリーに乗り込んだ。
フェリーは皇踏山を後方に押し返すように港を出て行った。
「やっぱりあいつは来なかった。意地っ張りだからな」
健一郎は客室の椅子に身を沈めた。新聞を読もうとしたが、同じところを何度も読んでいる自分に嫌気がさして放り出してしまった。
この三年間はいったい何だったのだ。
カモメがフェリーの上をかすめ飛んだ。
と、そのとき、小瀬の海岸に目が留まった。
健一郎は急いでデッキに走り出た。
「あいつ」
健一郎は身を乗り出して手を振っていた。
それに応えて一人の女も手を振った。
裕子だった。
桜が満開で、背後の山に小さな灯りのような斑点をいくつも滲ませていた。
「裕子、君のことは忘れない」
裕子に聞こえるはずもないのに、健一郎はそう言った。
裕子がハンカチで目頭を押さえるのが見えた。
「あたし見送りなんか行かないから。行くときは一人で消えて」
裕子の強がりが本当の優しさに思えた。
はじめは同情だったのに……。
小豆島恋叙情 第2話
はじめに
知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
それでは連載第2回をお届けします。
「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。
短編集なので随時、掲載していこうと思います。
お読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。
最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m
決して私の作品ではありません。
それでは連載第2回をお届けします。
小豆島恋叙情 第2話 天涯の寺 鮠沢 満 作
頭上から途切れ途切れに読経の声が降り注いでくる。
今にも崩れ落ちてきそうな岩山が、近づく者の足をすくませるように屹立している。
その岩場の中ほどをくり抜き、寺が建立されていた。
見上げればそこまで目と鼻の先ほどだが、鎖に寄りかかりながらごつごつした足場を難儀しながら歩いてきた真理子にとっては、まだまだ数里も先のように思えた。
真理子は途中で一息入れるため、勾配のややなだらかな場所を選んで立ち止まった。
大きく肩で息をすると、バッグから刺繍を施した薄ピンク色のハンカチを取り出した。
五月の陽光は柔らかい中にも刺すような痛みを含んでおり、真理子の顔と首筋を焼いた。
真理子の白い額に浮き出た汗はほんのり新緑を含み、宝石のような輝きを放っていた。
取り出したハンカチで、その緑を掬い取るようにして軽く汗を拭うと、
自分が歩いてきた険しい山道が本当にまだそこにあるのか確かめるように背後を振り返った。
真理子は背筋を伸しまっすぐ前を見ていたが、視線はどこか定まらず中空を泳いでいた。
どこかに置き忘れてきたかつての記憶を拾い集めでもするかのようなその眼差しは柔らかく、
真理子の顔の表情までゆるめた。
樹間を縫って渡ってきたそよ風が、サワサワ葉擦れの音を掻き上げ、
その音にはじめて自分の存在に気付いたように、はっと我に返った。真理子の顔に安堵の表情が広がった。
視線をやや落とし樹間のさらに奥を覗き込むと、そこには光りにまぶされた瀬戸の海が、
ちらちら陽炎のようなゆらめきとともに見え隠れしていた。
命の輝きにも似たその光の群れは、他でもない真理子の心の炎そのものだった。
ちらちらゆらめく炎ではあったが、実際には激しく燃え盛る前の炎であって、情念の炎と呼んでもよかった。
真理子がそのほとばしる情熱に押され、この急な坂道を何度も転げ落ちそうになりながらも登ってきたのは、一つの約束があったからである。
健夫は言った。
「五年後、もしまだ君が心変わりしていなければ、この寺の祠で会おう。
今日と同じ日の同じ時間に。
俺の気持ちは変わらない。
たとえこの身が刃に刻まれ肉片になっても、俺はここで君を待つ。
君と一緒になれるのであれば、化石になってこの岩盤に封じ込まれても悔いはない」
「わたし、貫き通す自信があるわ。家のために人身御供なんかになりたくはないわ」
「これは俺たち二人の愛の試練だ」
健夫はそう言うと、真理子の傍らをすり抜けるように去っていった。
真理子は迫り来る絶壁の険しさが、行く手を阻む悪魔の手先のように思えた。
いつしか陽光が柔らかさを失い、真夏の太陽のような刺々しさで真理子を焼き、揺さぶった。
目眩を覚え、思わず手摺りに寄りかかったほどだ。
真理子は背後から追っ手が迫ってくるような恐怖感と圧迫感を覚えながら先を急いだ。
垂直に切り立った岩に切り取られた空間に、一羽のトンビが飛翔を許されていた。
まるでこの山の守衛を任されていて、人間の愛の駆け引きをあざ笑うかのようなその飛行は、
幸と不幸がよじり合って生まれる空気の摩擦と震動を浮力にしているようであった。
高見から一人ひとりの人間の心の中を覗き込んでは、その穢れ具合をいちいち秤にかけている。
そんな印象さえ与えた。
やっと本堂の入口までやってきた。
錆びた欄干にもたれ掛かるようにして、くり抜かれた本堂を上目遣いに恐る恐る見上げた。
一瞬人影が動いたような気がした。
しかし、それは祠を内包する巨大な岩の壁から放出される妖気のようなもので、実際には人影ではなかったのかもしれない。
読経がまたしてもうねりのようになって真理子に覆いかぶさってきた。
読経の重々しい旋律の重層の下で、真理子の胸は押しつぶされるような苦しさを覚えた。
果たして健夫は約束どおり自分を待っているのだろうか。
あれは単なる口先だけの慰めだったのだろうか。
もしそうだとしたら、この五年間の歳月はどうなるというのだろう。
そのことを考えるだけで憶病になった。
真理子は本堂に通じるトンネルの入口の前に立った。
そのトンネルは人の手によって穿たれたもので、岩肌が竜の内臓のようにごつごつと粗々しかった。
真理子ははやる気持ちと健夫がいない恐怖とを同時に身に宿していた。
ひたひたと打ち寄せる恐怖を脇に押しやり、息を整えて一歩踏み込もうとしたが、
どうしたことか真理子は恐懼し、あとじさってしまった。
理由は分からない。身体が金縛りにあったように動かないのだ。
またしても人影が動いた。
真理子に襲いかかる新たな眩暈の群波。頭の内側に薄皮が張り付き、意識が白濁していく。
白濁し、沈殿した思考の堆積を掻き分け、その先にある一筋の光に手を伸ばしたとき、男の呼び声が聞こえた。
「真理子」
健夫は崩れ落ちそうになる真理子を、両手で抱きすくめるように受けとめていた。
空を舞うトンビが、キーッと鋭い敗北の鳴き声を上げ、急上昇していった。
その鳴き声に重なるように、読経の旋律の襞が真理子と健夫を包み込んだ。
小豆島霊場第七十二番奥の院笠ヶ滝。
笠ヶ滝を名勝たらしめているのは、そこからの眺望の良さというより、本堂に至るまでの難所にある。
男女、年齢の別を問わず、笠ヶ滝に参拝しようとする者は、ごつごつ険しい鎖場を避けて通ることはできない。
難儀して登った者だけが本堂にたどり着く。まさに修行の一端を垣間見ることができる。
集魂岩をくり抜き、そこに本堂を構え不動明王を安置する。
今にも崩れ落ちてきそうな岩山が、近づく者の足をすくませるように屹立している。
その岩場の中ほどをくり抜き、寺が建立されていた。
見上げればそこまで目と鼻の先ほどだが、鎖に寄りかかりながらごつごつした足場を難儀しながら歩いてきた真理子にとっては、まだまだ数里も先のように思えた。
真理子は途中で一息入れるため、勾配のややなだらかな場所を選んで立ち止まった。
大きく肩で息をすると、バッグから刺繍を施した薄ピンク色のハンカチを取り出した。
五月の陽光は柔らかい中にも刺すような痛みを含んでおり、真理子の顔と首筋を焼いた。
真理子の白い額に浮き出た汗はほんのり新緑を含み、宝石のような輝きを放っていた。
取り出したハンカチで、その緑を掬い取るようにして軽く汗を拭うと、
自分が歩いてきた険しい山道が本当にまだそこにあるのか確かめるように背後を振り返った。
真理子は背筋を伸しまっすぐ前を見ていたが、視線はどこか定まらず中空を泳いでいた。
どこかに置き忘れてきたかつての記憶を拾い集めでもするかのようなその眼差しは柔らかく、
真理子の顔の表情までゆるめた。
樹間を縫って渡ってきたそよ風が、サワサワ葉擦れの音を掻き上げ、
その音にはじめて自分の存在に気付いたように、はっと我に返った。真理子の顔に安堵の表情が広がった。
視線をやや落とし樹間のさらに奥を覗き込むと、そこには光りにまぶされた瀬戸の海が、
ちらちら陽炎のようなゆらめきとともに見え隠れしていた。
命の輝きにも似たその光の群れは、他でもない真理子の心の炎そのものだった。
ちらちらゆらめく炎ではあったが、実際には激しく燃え盛る前の炎であって、情念の炎と呼んでもよかった。
真理子がそのほとばしる情熱に押され、この急な坂道を何度も転げ落ちそうになりながらも登ってきたのは、一つの約束があったからである。
健夫は言った。
「五年後、もしまだ君が心変わりしていなければ、この寺の祠で会おう。
今日と同じ日の同じ時間に。
俺の気持ちは変わらない。
たとえこの身が刃に刻まれ肉片になっても、俺はここで君を待つ。
君と一緒になれるのであれば、化石になってこの岩盤に封じ込まれても悔いはない」
「わたし、貫き通す自信があるわ。家のために人身御供なんかになりたくはないわ」
「これは俺たち二人の愛の試練だ」
健夫はそう言うと、真理子の傍らをすり抜けるように去っていった。
真理子は迫り来る絶壁の険しさが、行く手を阻む悪魔の手先のように思えた。
いつしか陽光が柔らかさを失い、真夏の太陽のような刺々しさで真理子を焼き、揺さぶった。
目眩を覚え、思わず手摺りに寄りかかったほどだ。
真理子は背後から追っ手が迫ってくるような恐怖感と圧迫感を覚えながら先を急いだ。
垂直に切り立った岩に切り取られた空間に、一羽のトンビが飛翔を許されていた。
まるでこの山の守衛を任されていて、人間の愛の駆け引きをあざ笑うかのようなその飛行は、
幸と不幸がよじり合って生まれる空気の摩擦と震動を浮力にしているようであった。
高見から一人ひとりの人間の心の中を覗き込んでは、その穢れ具合をいちいち秤にかけている。
そんな印象さえ与えた。
やっと本堂の入口までやってきた。
錆びた欄干にもたれ掛かるようにして、くり抜かれた本堂を上目遣いに恐る恐る見上げた。
一瞬人影が動いたような気がした。
しかし、それは祠を内包する巨大な岩の壁から放出される妖気のようなもので、実際には人影ではなかったのかもしれない。
読経がまたしてもうねりのようになって真理子に覆いかぶさってきた。
読経の重々しい旋律の重層の下で、真理子の胸は押しつぶされるような苦しさを覚えた。
果たして健夫は約束どおり自分を待っているのだろうか。
あれは単なる口先だけの慰めだったのだろうか。
もしそうだとしたら、この五年間の歳月はどうなるというのだろう。
そのことを考えるだけで憶病になった。
真理子は本堂に通じるトンネルの入口の前に立った。
そのトンネルは人の手によって穿たれたもので、岩肌が竜の内臓のようにごつごつと粗々しかった。
真理子ははやる気持ちと健夫がいない恐怖とを同時に身に宿していた。
ひたひたと打ち寄せる恐怖を脇に押しやり、息を整えて一歩踏み込もうとしたが、
どうしたことか真理子は恐懼し、あとじさってしまった。
理由は分からない。身体が金縛りにあったように動かないのだ。
またしても人影が動いた。
真理子に襲いかかる新たな眩暈の群波。頭の内側に薄皮が張り付き、意識が白濁していく。
白濁し、沈殿した思考の堆積を掻き分け、その先にある一筋の光に手を伸ばしたとき、男の呼び声が聞こえた。
「真理子」
健夫は崩れ落ちそうになる真理子を、両手で抱きすくめるように受けとめていた。
空を舞うトンビが、キーッと鋭い敗北の鳴き声を上げ、急上昇していった。
その鳴き声に重なるように、読経の旋律の襞が真理子と健夫を包み込んだ。
小豆島霊場第七十二番奥の院笠ヶ滝。
笠ヶ滝を名勝たらしめているのは、そこからの眺望の良さというより、本堂に至るまでの難所にある。
男女、年齢の別を問わず、笠ヶ滝に参拝しようとする者は、ごつごつ険しい鎖場を避けて通ることはできない。
難儀して登った者だけが本堂にたどり着く。まさに修行の一端を垣間見ることができる。
集魂岩をくり抜き、そこに本堂を構え不動明王を安置する。
第一話 天使の道
知人が島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に小説を紡ぎました。 「瀬戸の島から」という名のついたブログから発信するのに、「ふさわしい」と思えます。 短編集なので随時、掲載していこうと思います。 立ち寄ってお読みいただければ、「ますます小豆島が好きになっていただけるのでは」という期待もあります。 最後に、お断りをしておきます。m(_ _)m 決して私の作品ではありません。 それでは連載第1回をお届けします。
小豆島恋叙情 | |
鮠沢 満 作 |
あなたが失ったものを取り戻したいのなら、ここにいらっしゃい。
あなたが心の奥に大切にしまっておきたいものをつくりたいのなら、ここにいらっしゃい。
普段なにげなく接している人を、もっと大切に思えるようになりたいのなら、ここにいらっしゃい。
瀬戸の暖流に身を任せ、輝く太陽とそよぐ風に心をときめかせながら両手を大きく差し出して、
あなたが好き、と言えばそれが叶うのです。
そう、ここは天使が舞い降りる島
あなたが心の奥に大切にしまっておきたいものをつくりたいのなら、ここにいらっしゃい。
普段なにげなく接している人を、もっと大切に思えるようになりたいのなら、ここにいらっしゃい。
瀬戸の暖流に身を任せ、輝く太陽とそよぐ風に心をときめかせながら両手を大きく差し出して、
あなたが好き、と言えばそれが叶うのです。
そう、ここは天使が舞い降りる島
第一話 天使の道
ここは天空から天使が舞い降りる島
潮が引くにつれて、白い砂浜と二つの島の間に砂州がしずしずと現れた。
砂州は悠久の時間の流れに後押しされるように背を広げ、
やがて帆船の巨大な帆のような緩やかなカーブを描いて
小さな砂丘へと姿を変えていった。
朝陽が洋上の向こうに浮かび出た山の稜線から、
ぽつり最初の光の滴を落とした。
やがて待ちきれなくなった真っ赤な太陽が、
オレンジ色の衣をなびかせて山の上に躍り出た。
潮が引くにつれて、白い砂浜と二つの島の間に砂州がしずしずと現れた。
砂州は悠久の時間の流れに後押しされるように背を広げ、
やがて帆船の巨大な帆のような緩やかなカーブを描いて
小さな砂丘へと姿を変えていった。
朝陽が洋上の向こうに浮かび出た山の稜線から、
ぽつり最初の光の滴を落とした。
やがて待ちきれなくなった真っ赤な太陽が、
オレンジ色の衣をなびかせて山の上に躍り出た。
眠けを波の縁にほんのり残した朝海は、鏡の表面のように穏やかで、
そのなまめかしいほどの若肌に一本深紅の帯が垂れた。
その真っ直ぐな帯は、静寂の壺と化した湾に抱かれるようにゆらりゆらりたゆたっていたが、
やがて押し寄せてきた波の一団に崩れ、無数の深紅の断片となって散った。
あわてて離れた手を手繰り寄せ元の一本の帯になろうとしたが、遅かった。
離ればなれになった輝きの断片は、夥しい数の布になってゆるゆる浮かんでいた。
そのなまめかしいほどの若肌に一本深紅の帯が垂れた。
その真っ直ぐな帯は、静寂の壺と化した湾に抱かれるようにゆらりゆらりたゆたっていたが、
やがて押し寄せてきた波の一団に崩れ、無数の深紅の断片となって散った。
あわてて離れた手を手繰り寄せ元の一本の帯になろうとしたが、遅かった。
離ればなれになった輝きの断片は、夥しい数の布になってゆるゆる浮かんでいた。
幸一は弁天島と中余島を繋ぐ砂州の上で、両手を腰に置いたままその光景を、
何かが憑依したように茫然と見つめていた。幸一の頬に一筋光るものがあった。
にわかに海からひんやりとした潮風が立ちのぼり、
その光るものをまるでこそげ落とすようにかすめていった。
そのとき幸一は、目に見えない小さい棘にひっ掻かれたような痛みを感じた。
「園子」
幸一は小さく呟いて瞼を閉じた。
何かが憑依したように茫然と見つめていた。幸一の頬に一筋光るものがあった。
にわかに海からひんやりとした潮風が立ちのぼり、
その光るものをまるでこそげ落とすようにかすめていった。
そのとき幸一は、目に見えない小さい棘にひっ掻かれたような痛みを感じた。
「園子」
幸一は小さく呟いて瞼を閉じた。
あのとき幸一のそばには、園子が寄り添うように立っていた。
園子の腕が幸一の腕にぐっと絡みつき、
どんなことがあっても離れそうにないくらいしっかり手を取り合っていた。
「ここは天使の舞い降りるところなんだ」
幸一は自慢そうに言った。
「天使?」
「そう。あの可愛らしい翼を持つ天使」
「じゃあ私たち二人を祝福してくれるのね」
幸一は園子にプロポーズし、そして園子はその申し出を承諾したばかりだった。
「この弁天島、中余島、大余島とは引き潮のとき、砂州でつながる」
「いつもは離れているのね」
「そう。一日に二回手を取り合うことができる」
「素敵ね」
園子は顔を幸一の胸に埋めた。
長い黒髪が潮風になびいて、美しいメロディーを奏でそうだった。
「離れていても必ず手を取り合うことができる」
「幸せをつなぐ島」
「だから今僕たちが立っているここは、エンジェルロードと呼ばれている」
「やがてウェディングロードへとつながるのね」
園子の腕が幸一の腕にぐっと絡みつき、
どんなことがあっても離れそうにないくらいしっかり手を取り合っていた。
「ここは天使の舞い降りるところなんだ」
幸一は自慢そうに言った。
「天使?」
「そう。あの可愛らしい翼を持つ天使」
「じゃあ私たち二人を祝福してくれるのね」
幸一は園子にプロポーズし、そして園子はその申し出を承諾したばかりだった。
「この弁天島、中余島、大余島とは引き潮のとき、砂州でつながる」
「いつもは離れているのね」
「そう。一日に二回手を取り合うことができる」
「素敵ね」
園子は顔を幸一の胸に埋めた。
長い黒髪が潮風になびいて、美しいメロディーを奏でそうだった。
「離れていても必ず手を取り合うことができる」
「幸せをつなぐ島」
「だから今僕たちが立っているここは、エンジェルロードと呼ばれている」
「やがてウェディングロードへとつながるのね」
あれから一年の歳月が流れた。
今日、幸一のそばに園子はいない。
幸一は巻き貝の中を流れる風のような静かな声で言った。
「園子。ここは天使が舞い降りる島なんだ。
覚えているだろう。
そして一日に二回手を取り合うことができる。
だから僕は毎日こうしてここに来るんだ」
王子東港から一隻の漁船が、
長い曳航の軌跡を残して出港していく。
長い深紅の帯が真っ二つに断ち切られ、
弱々しく漂っていた。
今日、幸一のそばに園子はいない。
幸一は巻き貝の中を流れる風のような静かな声で言った。
「園子。ここは天使が舞い降りる島なんだ。
覚えているだろう。
そして一日に二回手を取り合うことができる。
だから僕は毎日こうしてここに来るんだ」
王子東港から一隻の漁船が、
長い曳航の軌跡を残して出港していく。
長い深紅の帯が真っ二つに断ち切られ、
弱々しく漂っていた。
愛媛・東黒森山のアケボノツツジ
東黒森山のアケボノツツジ | |
先日、横峰寺から石鎚を「遙拝」していて、山が呼んでいる気がしてきました。
遍路を中断、手頃に稜線に立てる東黒森にやってきました。
四国笹の稜線を歩いていると、ピンクの花が目に入ります。
近づいてみます。
葉が出る前、花だけが風にゆらゆらしています。
あけぼのつつじのようです。
五月の青空をバックに、風に揺られています。
枝にぶら下がってダンスをしているようで、見ていて飽きません。(*^_^*)
まわりは芽吹きの瞬間
傾いた太陽の光を浴びて、若葉が行灯のように見えます。
山の裾野から新緑が駆け上がっている。
そんな風に思えた東黒森山(1750㍍)でした。
アケボノツツジについて、詳しく知りたい方はこちらへどうぞ
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/ericaceae/akebonotsutsuji/akebonotsutsuji.htm
岡山理科大 植物生態研究室のHPです。
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/ericaceae/akebonotsutsuji/akebonotsutsuji.htm
岡山理科大 植物生態研究室のHPです。
四国遍路・横峰寺のしゃくなげと石鎚遙拝
小豆島中山の千枚田の田植え
30年前の中山付近の航空写真です。
島の札所湯船山のわき水を利用して、棚田が重なっています。
「今」は、どうなっているのでしょうか?
中山神社のそばから見上げてみました。
石垣が積み上げられた小さな田んぼに水が入っています。
小さな耕耘機が代掻きに、活躍しています。
今度は、上から見てみましょう。
湯船山のすぐの下の田んぼです。
おばあちゃんがひとり、苗を直しています。
わき出す水は清らかですが、手をつけてみると冷たく感じます。
一部、放置された水田も目に入ります(-_-
最後に掟破りの一枚
一月後には、苗は元気に育ってこんな光景になります。
そして、この坂を子供たちの持つ「虫送り」の
たいまつが駆け下ります。
航空写真は下記から転用させていただきました。<(_ _)>
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p(国土地理院 空中写真閲覧システム)