2007年06月
小豆島恋叙情第17話 春暖 終章
小豆島恋叙情第17話
春暖 終章 鮠沢 満 作 |
ドアを開け、隣の部屋に入った。そしてそこにあるソファーに、よいしょ、と座った。 いつもしていることだった。 武春の死はそんな死だった。 あっけないと言えば、あっけなかった。 晴美は九十九折りの山道を灯台目指して車を走らせていた。 進行方向左手に海が広がっていた。白い波が、これまた眩しいばかりの白い砂浜に打ち寄せていた。 誰もいない。貨物船が我がもの顔に通り過ぎていく。 後方に残された曳航の白い軌跡が、老爺の白髭に見える。 所々で鶯が啼いているが、子供の鶯らしく啼き方がまだぎこちない。 晴美は久し振りに口元を緩めた。 カーブを曲がったとき、助手席に置いてあったハンドバッグが落ちそうになった。 スピードを落とし、左手でそれをぐいと押さえた。 まるで見知らぬ手がどこからともなく伸びてきて、それを奪い去るのを恐れてでもいるかのように。 武春の墓は地蔵崎灯台と備讃瀬戸が一望できる山の縁に建っていた。 墓石はまだ新しく、故人の生前の行為を飾り立てるまで古色蒼然とはしていなかった。 歳月が流れ、やがて故人が生きていたことも、ほとんど誰の記憶にも登らなくなると、はじめて墓らしくなるのだろう。 風が吹き上げてくる。それに乗って波の音が、途切れ途切れに運ばれてくる。 五剣山と屋島が春の霞に透かし彫りされている。 晴美は線香と花を供えた。 「人間ってあっけないものね。 これで本当に独りになっちゃった。言ってくれればよかったのに。 神戸に転勤したのがいけなかったのね。 まともな食事もろくすっぽ摂らずに、仕事ばかりしていたんでしょう。 それに煙草。超ヘビースモーカー。 肺も悪くなって当たり前。ときどき咳き込んでたから、おかしいとは思っていたの。 でもお互い睨み合ってたから……。妻として失格ね。母にもなれなかったし……。 いっぱいいっぱい謝ることがあるの。今さら言っても仕方ないけど、ご免ね。 私が手紙受け取ったときには、あなたはもうなにもかも覚悟ができていたのね」 晴美は少し傾いた線香を直した。 「でも嬉しかった。あなた許してくれたもんね。 あなたは一生私を憎み続けるだろうなって思っていたの。 私もあなたの気持ちを理解しながらも背中向けていた。 我が儘で意地っ張りの武春、なんてね。 私、救われたわ。手紙の最後の一言で」 晴美は両の手を合わせた。 「プロポーズのとき言われたきりね。あのときの言葉、今でも宝石箱にしまってあるのよ」 真珠の粒が頬を伝った。 「愛してる、か。やっぱりいい言葉ね。 今度は宝石箱なんかにしまわずに、ちゃんと胸に付けとくわ。 干からびないようにね」 風が肩で切りそろえた晴美の直毛を掻き上げていった。シャンプーの甘い匂いを攪拌した。 鶯が啼いている。 でも小一時間くらいでは進歩がなかったようだ。 やっぱり啼き方は下手くそだった。 「私、ハンコ押さなかったよ」 そう言うと、晴美はハンドバッグから一枚の紙を取り出した。 武春が死ぬ一週間前、手紙とともに晴美に送りつけてきた離婚届だった。 独り身になってもう一度出直せということだった。 「誰がこんなものにハンコなんか押すもんですか」 晴美は離婚届をもうこれ以上ないくらい小さく破った。まるで罪滅ぼしのように。 晴美は小さくなった紙片を両手に包み込むと、もう一度言った。 「ご免ね。あなたの最後の言葉、これからはちゃんとブローチにして胸に付けとくわ」 それから晴美の髪にまとわりつこうとする気まぐれな風に、これあげるわ、と言って両手を大きく空にかざし、パッと開いた。 紙吹雪が綿帽子になって舞った。 蘇芳色の過去が後方に飛び去っていく。癒やしがたいすべてのものが、どんどん小さくなっていく。 そして最後には空の青に吸い込まれて消えていった。 鶯が啼いた。やっぱり下手くそだ。でも許せる。今ならすべてを。 「無」。 武春の墓碑銘である。 生きることは、無。 しかし、無の中に有を積み上げていく行為こそ生きるということである。 自分を灯明とせよ。 武春はそう晴美に言いたかったに違いない。 晴美は、うん、と頷き、勢いよく立ち上がった。 「私、これから清滝山へ行ってみる」 灯台が、よくやった、と快哉を叫んでいた。 ホー法華経! 鶯が啼いた。 うん、随分うまくなった。その調子だ!
小豆島恋叙情第17話 春暖 後編
小豆島恋叙情第17話
春暖 後編 鮠沢 満 作 |
「産みますか」 医者は単刀直入に訊いた。 「いや堕ろします」 晴美は躊躇なく答えた。 「初めてのお子さんでしょう」 「でも年齢と子宮の状態を考えると……怖いんです」 晴美は唇を噛んだ。 「年齢的には高齢出産ぎりぎりですが、現代医学の進歩はめざましいものがありますから、それほど心配はいらないと思いますよ」 医者は産む方を勧めている。自分の腕に自信があることを誇示したいのか、少し横柄ですらある。 「でもこの前超音波で診察したとき、何か言い淀みましたよね」 医者はカルテから目を上げた。用心ならない女と思ったに違いない。瞳に猜疑的な光が留まっていた。 晴美はそんな医者の拗ねたみたいな視線を押し返して、 「前回と同じことが起こりそうで……子宮が完治していないような気がするんです。 無理して子供の一生を駄目にしたくはありません」 医者は、今度は露骨に厭な顔をした。晴美が完治していないと言ったことに対してである。 ここ数年医者は晴美の主治医を務めていた。 本音を言えば、晴美はこの医者をあまり快く思っていなかった。 頭はいいのだろうが、人間的にどこか欠陥がありそうだった。 裕福な家庭に生まれ、不自由なく育って、いい大学にストレートで入った。 回り道をしてない分、自己本位で他人に優しくない。 それでいて人間味を売り物にしようとしているタイプだった。 晴美は二年くらい前、一度出産した。 しかし赤ん坊は早産ですぐ息を引き取った。もしかすると、死産だったのかもしれない。 というのも、産まれたとき赤ん坊の泣き声がしなかったからである。一週間ばかり入院して家に帰った。 そのとき武春が言葉を濁しながら晴美に事の次第を説明した。 が、それがすべてでないことはすぐに分かった。 武春が慎重に言葉を選んで、おまけに彼の財産ともいえる実直さを隠せないまま、しどろもどろで説明したからである。これまで何度も子宮が異常を訴えた。 が、副作用を代償にした良薬のお陰で事なきを得てきた。 ただ子供の発育に関しては、医者としてはやるだけのことはした、しかし百パーセントの信頼を寄せることはできない、と言われていた。換言すれば、何かあってもそれはあなたの過失によるものですよ、と予防線を張ったのである。 結局、武春は子供を失ったことに落胆し、晴美はそのことに加え、子宮を持ちながらも健康な子供を産めない身の上を悲しく思った。 そのときなぜか「石女」という言葉が浮かんだ。だから今度も晴美は恐れた。 「やっぱり駄目です」 「ご主人と相談なさってはどうですか。まだ時間は十分ありますから」 堕ろすまでにはまだ十分時間があるとでも言いたいのか。医者という職業は、肉体的処置さえしておけば、患者が抱える心理的・精神的な苦痛を度外視して行える仕事なんだろうか。 純白の白衣に身を包んだ目の前の医者が急に空恐ろしく思え、悪阻に似た吐き気さえ覚えた。 医者の助言にも拘わらず、数日後、晴美は決断を実行に移した。 術後、躯は鉛を埋め込まれたように重く、自分のものとは思えなかった。 それよりやはり精神的な呵責の方が大きかった。 ほんの数時間前まで自分の胎内で鼓動していたもう一つ の命がなくなったのだ。晴美は、これで自分は完全に母性を失った、と思った。 女に戻れても、母にはなれない。 それでも悲しい女の性か、下腹部に諦めがたい愛情の袋が宿っているのをはっきり感じざるを得なかった。 晴美は確かめるように、もう一度手の平でお腹をさすってみた。 やはりつい先ほどまでそこにあった温もりがない。 あるのは石のように固くて冷たい不毛の肉の塊。 自分の躯が急速に滋養を失い、しぼんで、そして老いてゆくのを感じた。 晴美に襲いかかった喪失感は底知れないものがあった。 自分の躯を自分のものと同一視できないもどかしさ。 他の女と同じように我が子を抱きしめることができない空しさ。 自分が下した結論ではあったが、やはり女であると同時に一時的であれ母親だった自分にしか分からない無念さ。 それまで後生大事に抱いていた未来を見据えた希望は背を向けて遠ざかり、下腹部にはどす黒い慚愧の苦汁にまみれた掻き傷と、言い様のない喪失感だけが残っていた。 晴美は傷付いた躯を抱きかかえるようにして病院を出た。 外には晴美の癒されない傷とは無関係に、何食わぬ顔で昨日の続きがあった。 餌をもらおうと足にまとわりついてきた野良犬。 右足にギブスが入っているのに、院外では松葉杖も使わず散歩する初老の男。 帰ってこない患者を待つ霊柩車に似たタクシーの群れ。 煙草を吸うのを日傘で隠す女。 どれも手術前と同じで、奥行きがなく平板そのものだった。 無機質な上に無味乾燥。それに無意味。 夏だというのに、晴美は寒さで震えていた。 さらに強く両手で自分を抱きしめ、凍えそうな胸を温めた。 いくら温めても、胸に質量に富んだ暖かみは戻ってこなかった。 晴美は空を見上げた。別に空が見たかったわけではない。両手に赤ん坊を抱いた女と自分を比べ、 自分は何かに負けたんだ、という敗北の涙を流したくなかっただけだ。 夏の太陽は容赦なく晴美を打ち据えた。手を貸すものは誰一人いない。 人は結局はいつも独り。 生まれるときも、死ぬときも。 誰にも言えない秘密を持った罪悪感が、晴美の両肩にずっしりのしかかっていた。 迂闊だった。産婦人科医院の名前のある薬袋を食器棚の奥にしまうのを忘れていた。 洗濯物を干して、肩で息しながら部屋に戻ると、武春がじっとこちらを睨んでいた。 その表情からして明らかに怒っていた。 結局は白状してしまった。 * 「神戸に単身赴任だ」 「会社が決めたの」 武春はすぐに返事ができなかった。しばらく置いて、 「半分は会社、半分は俺の考えだ」 理由は訊かなくても分かっていた。 「何年くらいで帰れるの」 晴美にしてみれば何年でも同じだった。ただそう訊く以外、その場のふやけた空気を取り繕う言葉がなか っただけである。 「最低三年だな」 「お互いにその方がいいかもしれないわね」 どんな会話を交わしても、二人が行き着く先は決まっている。だから自然と投げやりな言い方になってし まう。 「その間、じっくり考えてみたい」 「そうやって私を責めるのね」 「そうじゃない。お前がもう少し素直になれば……」 「責任はすべて私なのね。私が、ご免なさい、と謝ればいいのね」 もうそれ以上言っても仕方ないと思ったのか、二人とも次の言葉を構築しようとはしなかった。 お互い相手のことを心底憎んではいない。いや、むしろ気遣っていたくらいだ。 なのに口から飛び出す言葉は、封印しておきたい言葉ばかりで、相手を思いやる言葉はいつも気弱で、 たとえ喉元までたどり着いたとしても必ずブレーキがかかって立ち往生してしまう。 行こうか行くまいか迷ってぐずぐずしているうちに、後から駆け込んできた礼儀知らずの連中に先を越さ れてしまうのだった。 こんな不甲斐なさが歯痒く、自分たちの卑小さに嫌気がさすことがあった。 しかし、最後の一言だけは、どちらも口にしなかった。それを言うと、あらゆるものが本当にお終いにな ってしまう、そんな不安を互いに抱えていたからである。
終章を次回お届けします。<(_ _)> 黒子より
小豆島・長崎の漁村から
先日に続いて飯神山の頂上からです。
遙か向こうは四国、その間の備讃瀬戸を行き交う船たち
その手前に、小さな半島に抱かれた漁港が見えます。
「おいで(^_^)/~おいで(^_^)/~と呼んでいるように思えます。
さっさくやってきました。三都半島の長崎漁港です。
砂浜が終わるあたりに海から顔をのぞかせてる岩の小島。
私には「マジンガーZ」の頭にも見えてきます(^_^)v
港にいたお爺さんに聞きました。
「あれはのう、弁天島ゆうんじゃ 目みたいな所の木の枠に、弁天さんをお祭りしてあっての 夏祭りには、潮が引いた時に村中の人間が集まっての あのまわりで、どんとを焚いて、大漁と安全を祈ったもんじゃ そりゃ、昔は賑やかやった せんようになって30年は経つかの・・(-_-;)
木の四角い祠が「Z」の目になって、遠い昔と海を見ているようです。
小豆島恋叙情第17話 春暖 中編
小豆島恋叙情第17話
春暖 中編 鮠沢 満 作 |
「この世は無常。それを頭に叩き込んでおきなさい」 「無常ですか」 「そうじゃ。生者必滅 会者定離。 我々人間は、生と死を背中合わせに生きている。 朝に生まれて夕べに死すことも可なり。 十分あり得ることだ。 さっきまで楽しそうにお茶を飲んでいた朋友が、 さようならと言って目の前の角を曲がったところで車に轢かれ絶命する。 そういうことは日常茶飯のことだ。 他人だけじゃない。 あなただって同じです。 今こうやって私と話をしている最中にも、 心筋梗塞かなにかでぽっくりいくことだってある。 かく言う私だってその例にもれない。 未来のことは誰にも分からない。 だから生かされている時間を精一杯生きる。 それしか業から逃れる道はない。 出し惜しみなく生きることによって自己を高める以外術はないんじゃ。 毎日が一期一会と思って暮らすことじゃのう」 白い髭を伸ばした住職が、武春の肩越しに語りかけてくる。 決して説教的な響きがないのが嬉しかった。 住職の嗄れた声が岩室に微妙な震動を伝える。 「精一杯生きたらこれまで私が犯してきた罪は消えるのでしょうか」 「消えはしないが、仏に祈って懺悔し、そして精進することで人の心は救われる」 「賢くなれと」 「そう。そのためには、一人でも生きられるよう、自らを灯明にすることを学ぶことだ」 「自らを灯明にする」 「そう。他人の助けを必要とせず、自らの力で生きることじゃ。 それとこれはなかなか難しいが、他人の幸せを自らの幸せとすることじゃ」 「他人の幸せを自らの幸せに」 「言うは易しい。 しかしいざやってみるとなると、天上遙か彼方に明滅する星をつかむに等しい。 これができたら仏様に一歩近づいたことになる。 かく言う私もそれができないでいる。 毎日懺悔の日々を送っている」 「ご住職様でも」 「そう。まさに凡夫じゃな。 迷いが多い。 しがらみばかりじゃ、この世は」 「手始めに何からすればいいのでしょうか」 「許すことじゃな」 「許す?」 「そう。許すんじゃ。 あらゆることを。 あなたの周りの者も、自分のことも。本来は無。 何もないのじゃ。だから生きることも無の中にある。 無の宇宙。悟りはその無に在り」 「無ですか」 「つまりは欲を捨てろということかのう。 無だから無為というのではない。 誤解してはいけない。 生きるということは、無の中に有を積み上げていく行為に他ならない。 よって生きるという行為は、時間の長短で評価されるものではない。 いかに生きるかが問われる。 罪を重ねて生きることは、生きていても死んだに等しい。 高潔に生きて死んだとしても、生き続けることができる。 そのためには、与えられ許された生命の限り、強く、熱く生きることじゃ。 ときには他者のことを思いながら」 「他者を思いながら」 武春の声がぽつり膝の上に落ちた。 その上に置かれた両の手が心持ち震えていた。 隙間風もないのに、ロウソクの炎が線香の匂いを焦がして揺らめいている。 焦がされた香の微粒子が、クルミの殻に閉じこめられたような静寂の隙間に漂っていた。 これまで長い年月をかけて岩間にしみ込んだ空気が、岩室全体から冷ややかに匂ってくる。 そればかりではない。 惻々と全身に伝わってくるのだ。 武春はこの濾過された空気の鋭利さに、 菜の花のねっとりとした匂いを嗅いだときそうしたように咳き込んでしまった。 手が朱に染まっていた。 武春は、はっとなり、悟った。 時は人を待たない。 毎日を一期一会に生きる。 生きるというのは、時間の長短ではない。 住職の言葉が思い出された。 武春は慈悲窟と呼ばれる本堂の地蔵菩薩に手を合わせた。 大きく枝を広げた公孫樹の木が、 岩窟に嵌め込まれた窓に無理矢理切り取られた恰好で収まっていた。 左手には沈黙がそのまま形になったような梵鐘が、 つるし柿よろしくぶら下がっており、 ひずんだ楕円形の影を手水鉢の腹に投げかけていた。 その先に内海湾がうっすらけぶって見える。 本尊に手を合わせて祈っていると、躯がフィルターにかけられたように、 ゆっくり清められていく思いがした。 不思議な気分だった。 これまで経験したことのない法悦感が細胞の一つひとつを満たしていく。 茫漠としていたはずの脳裏の風景でさえ、新たな輪郭を確保し始めていた。 「すべてを許す、か。 所詮は無。限りなく無に生きる。 そしてそれを喜びとせよ」 住職の最後の言葉を繰り返してみた。 ザーと何かが鳴った。 この寺に住みついた言霊の仕業か。 それとも単に断崖を掃き降ろす風の音か? 晴れ間が急速な勢いで狭められ、しばらくすると激しい雨のつぶてが落ちてきた。 境内の木々は瞬く間に濡れ、乾いた緑が滴るような緑に早変わりした。 葉の縁に少し顔を覗かせていた初夏の彩りが、 慌てて頭をすぼめどこかに雨宿りに行ってしまった。 しかし、その雨も武春の決心がいかほどのもかを試していたかのように瞬時の勢いに過ぎず、 やがて雲が割れ、その裂け目から光の束が落ちてきた。 見上げると、醒めた目つきで武春を見下ろすごつごつとした岩肌に、 出来立ての青空がへばり付いていた。 この切り立った崖をよじ登ってこそ、物の哀れが分かるというものだ。 そして人を許すことができる。そう思わんか? それともそうする自信がないとでも? 小豆島霊場第十四番、清滝山。 読んで名のとおり、清い滝があったのだろう。 今はそれほどの水量はないものの、泉は枯れることなくこんこんと湧き出ている。 本殿は慈悲窟と呼ばれ、地蔵菩薩を安置している。 他の多くの小豆島霊場と同じように、修験者の行場として始まった。 本殿左には岩を穿ってこしらえた洞穴の桟閣がある。 祭壇に不動明王が奉られている。 小豆島霊場の中で最高峰に位置している。 背後の屏風岩は、山伏をも跳ね返すほど険しい。 まさにばっさりと垂直に切り落とされている。 この峻烈無比な懸崖を人生に譬え、苦難苦行したに違いない。 困難を乗り越えることによって始めて悟りを開き、 この世の森羅万象あらゆるものを慈悲でもって受け入れることができる。 境内に佇んでいるだけで、身も心も洗われる思いがする。
小豆島恋叙情第17話 春暖 前編
はじめに
小説「小豆島恋叙情」の「連載」も、最後の2話になりました。
本編は、作者が「気合いが乗らず放置」されていた作品です。
みなさんからのコメントをいただいて、
「いろいろな人が読んでいただいている」という気持ちをエネルギーにして、
再度書き加えて完成させたものだそうです。
そういう意味では、コメントをいただいた人たちに感謝_(._.)_
これも「長編」となりました。(^_-)
前・中・後編の3回に分けてお届けします。
おつきあいいただければ幸いです。
本編は、作者が「気合いが乗らず放置」されていた作品です。
みなさんからのコメントをいただいて、
「いろいろな人が読んでいただいている」という気持ちをエネルギーにして、
再度書き加えて完成させたものだそうです。
そういう意味では、コメントをいただいた人たちに感謝_(._.)_
これも「長編」となりました。(^_-)
前・中・後編の3回に分けてお届けします。
おつきあいいただければ幸いです。
小豆島恋叙情第17話
春暖 前編 鮠沢 満 作 |
まさに花の海だった。 男はその花の海で溺れていた。 菜の花の鮮やかな黄色に目を焼かれ、思わず瞼を閉じた。 瞼の裏に焼き付いた菜の花の暗転した残像でさえ、今の男の気持よりはるかに明るかった。 しばらく目を閉じたままでいた。 やがて瞼の裏にこびり付いた菜の花に鮮明な色が戻ってきた。 男は蘇生した映像にやや暗い絵の具を重ねることで、 ひび割れた心と釣り合った色調に近づけようとした。 が、春先のこと、いったん目を開くと、まるで男の期待を裏切るかのように、 視角に訴えるものすべてが春の衣に身を包み、 生命力に満ち、そして照り輝いていた。 それは男にとっては無慈悲とも思える責め苦に等しかった。 男は襲いかかる色彩のつぶてを避けるように、神経を視覚から聴覚へとシフトした。 聞こえてきたのは、そのときだった。 チリン。チリン。 それは花の海の底からやってきた。 そよぐ花の波をかき分けるようにして。 空耳だろうか。 一瞬、耳を疑った。 耳を空にした。 チリン。チリン。 間違いない。 深い井戸の底から、しじまを破って空気の筒を登ってくるような澄んだ音色。 猜疑の耳を確信へと作りかえ、殺菌された音色を拾い上げていった。 最初、音は朝露が葉の表面を滑り落ちるようにか細いものだった。 しかしそれが次第に音色の振幅を広げ、男の方へと近づいてきた。 男はわけもなくあとじさったが、その凜烈な響きにどこか心和むものを感じ、 それを迎え入れようとする自分がすでにいることを認めないわけにはいかなかった。 やがて音は男をすっぽり包み込んでしまった。 大地の掌が地上の生きとし生けるものすべてをそっと包み込むように。 男は無数のひびが入った陶器そのものだった。 そこに音がしみ込んでいった。 男は、癒されていく、と感じた。 と同時に、これまでの自分がいかに愚かであったか、犯した罪がいかに重かったか知った。 男の前を白装束に菅笠をかぶった遍路姿の一団が、念仏を唱えながら通り過ぎていったのだ。 足下に咲いた蓮華が、納得したように春風に小気味よく頭を揺らし、彼らを見送っていた。 同行二人、か。 口からリンゴの種がこぼれるような口吻だった。 黄一色に塗り込められた菜の花の照り返しに炙られ、 空気はまどろむような微熱を帯びていた。 そのまどろみの中で、誘惑するように肢体を揺らめかせながら白い蝶が一つ二つ舞っていた。 まさか遠ざかる鈴の音の残響が……? そんなはずない。 男は頭を振った。 だが、思い直して蝶の舞姿を追ってみたが、窈窕とした姿はすでになかった。 花の海の向こうに、もう一つの海が広がっているばかりだった。 冬の噛むような冷たさから解放された瀬戸の海は、 かじかんだ手足を時間をかけてゆっくり解きほぐし、 未練がましく張り付いている冬の名残のひとかけらを、 えい、と掛け声もろとも弾き飛ばした後のような爽快感を漂わせていた。 緩やかに蛇行した潮目が、午後の白っぽい日差しの中にたゆたっていた。 男はその絹を思わせる柔肌に、そっと身を任せたい衝動に駆られた。 気休めと分かっていても、少なくとも胸の内を掻き破る苦しみだけでも、 やんわり包み込んでくれそうな気がしたからである。 俺は弱すぎる。 男の弱音をなじるみたいに、塩気混じりの春風が男の横顔をはたいていった。 それでも男は、男としての矜恃だけは捨てないぞ、 とばかりに真っ直ぐ海を睨み、凪にひそむ波の群れの激しさを手繰り寄せて、 自分の下した決断の正しさを飾ろうとしているように思えた。 男は大きく息を吸い込んで、花々の甘酸っぱい熟した匂いと、 萌え立つ若葉の青っぽい羞恥の匂いを、肺の奥に巡らせてみた。 しかし、相反する二つの空気は乱気流となって、男をむせ返らせてしまった。 男は激しく咳き込んだ。 肺を針で突かれたような痛みが走り、胸を両手で強く押さえたままその場にうずくまってしまった。 背を丸め息を殺してしばらくそうしていると、やがて痛みは和らいでいった。 漁師の見習いを始めて一年。 潮風ごときに咳き込むようじゃ、まだまだ修行が足りんな。 「兄貴、すまない。世話になる」 「親父とお袋だって、口には出さないが内心は喜んでいるんだ。 俺には分かる。 二人ともこの頃めっきりふけこんじまったからな。 形はどうあれお前が帰ってきたことは、 親としてはうれしいに違いない。 その証拠に親父は今朝早く海に出たよ」 「海に?」 「お前に食わすんだと言って、春一番の鯛を釣りに行ったよ」 「この俺のために鯛を?」 父親は感情をあまり表に出さない寡黙な漁師だった。 それに実直だが往々にして愚直。 これが男の記憶にある父親であった。 漁船の舳先にへばり付くようにして小魚を相手にしている父親が、 ネクタイを締めスーツに身を包んで会社勤めをするクラスメートの父親に比べ、 どこかみすぼらしく、卑屈そうに見えた。 魚を捕るだけしか生活の知恵を持たない父親。 無学でろくすっぽ読み書きさえできなかった。 小学生の頃、教科書の読み方を教えてくれるよう言ったら、 海に湧き上がった嵐みたいに急に不機嫌になった。 漁師に読み書きはいらない、と言ったそのときの怒った顔を今でも忘れていない。 空を見、海の色を読んで、どこに魚がひそんでいるか探し出す嗅覚は天才的で、 どの漁師にも負けなかった。 しかし、いつも貧乏だった。 遊ぶ金も無聊を慰める金も持たなかった。 魚の臭いのしみ付いた、くたびれた作業服に押し込められた肉体だけの男。 太陽と潮に焼かれる単調な毎日。 それに飽きもせず、それを疑いもせず、ただ日課としてそれを受け入れて過ごすことが 漁師の勲章と信じて疑わなかった男。 男はそんな父親を、どこかつまらないちっぽけな人間として軽蔑していたところがあった。 「くだらんことを訊くが、本当に漁師になるつもりか」 兄がもう一度訊いた。 「ああ。決めたんだ」 「サラリーマン根性じゃ務まらねえ。辛いぜ」 「分かってる。 ドン底の生活を強いられるかもしれないが、それでもいいと思っている。 この際自分をしっかり見つめたいんだ。 もう失うものは何もない」 「ならいい」 兄はもうそれ以上言わなかった。 「小豆島へ帰ることにした」 武春は躊躇しながらも、他にいい手段がないんだといった面持ちで言った。 晴美に会うのは三日ぶりだった。 晴美は「そう」と生返事をしただけで、別段驚いた様子も見せなかった。 こうなることは随分前から分かっていた、 と言わんばかりの冷ややかな態度である。 二人の間に冷たい空気が流れ込む。 それもそのはず、晴美にとってはこの三年間、 実質的には別居生活を強いられてきたからである。 それも武春からの一方的な別居宣言といってよかった。 「一緒に来ないか。お前さえよければもう一度やり直してもいい」 喋り方と声に晴美にイエスの返答を期待するだけの執拗さと熱意が感じられなかった。 一応形式的ではあるが最後のオプションだけは提示した、決めるのはお前だ、 と手順を踏んだことで責任は果たしたと言わんばかりの男の傲岸さがあった。 男って勝手。 この三年間、私がどんな思いで暮らしてきたか、分かるはずないわ。 晴美はそう言いたいに違いない。 武春に半分背を向けた姿勢がそのことを物語っていた。 晴美は洗濯物を静かに畳んでいる。 返事はない。 ただおざなりではあっても武春の誘いが意外だったのか、 ちらっと目の隅で武春の煮え切らない横顔を捉えたが、 それに気付かれないようにすぐさま洗濯物に注意を戻すと、 先ほどよりもっと堅牢な沈黙で身を固め手を動かし続けた。 どこの歴史資料館にも置いてあるマネキンみたいだ。 動きが機械的で感情が枯渇していた。 まさに化石人間演ずる無言劇。 しかしその無言はどこまでも深く、辛辣で、武春が最後のオプションを提示したのと同じように、 晴美も置かれた状況はどうであれ、これまでまがりなりにも妻としての責任は果たしてきたつもであると抗議していた。 武春は、晴美の答えが十分すぎるほど分かっていたはずなのに、 まだ晴美に未練を残しているような言い方をしたことと、 自分の人間的弱さからつい偽善とも取られかねない優しさを示唆したことを悔いた。 「すまなかった。忘れてくれ」 口の中が乾いて、言葉が口腔内に引っ掛かりそうになった。 晴美は貝のように口を閉ざしたまま、やはり一言も言わない。 人生をやり直すなんて、そんな簡単なことじゃないのよ。 あなたは何にも分かっちゃいない。 そう顔に書いてあった。 黙りこくった晴美の怒りも尤もだと思う。 武春自身も自分がどんなに虫のいいことを言っているか、百も承知していた。 三年間放っておいて、今度は島に帰るときた。 いくら気の長い晴美でも頭にくるはずだ。 洗濯物を畳み終えると、晴美は箪笥から武春のワイシャツを取り出してきて、 アイロン台の上に置いた。 アイロンが熱くなるまでの間、二人とも気まずい思いをした。 アイロンがどんどん熱くなるのに、二人の関係は氷室の中みたいに冷え冷えとしていた。 アイロンのランプが時間切れを知らすみたいに点滅している。 その点滅が消えると、晴美はアイロンをワイシャツに走らせた。 近々離婚するかもしれない男のワイシャツにアイロンがけをする女。 いったいどういうつもりなんだ。 愛情が切れてしまった男のワイシャツの皺を伸ばすことが、 自分たちに生じた瑕疵の皺をも伸ばすことにつながるとで思っているのだろうか。 まったくもって晴美の気持ちが読めなかった。 晴美はもしかすると、武春のそういう気の利かない直線的な実直さに腹を立てているのかもしれなかった。 晴美は仕上がったワイシャツを、ポンと武春の膝元に投げて寄こした。 これであなたへの最後のご奉公も終わり。 まさにそういう意味らしい。 「みっともないからそれ着て出て行って。 しみったれと思われるの厭なの。 それに狭い島のことだもの、ワイシャツの皺一つで夫婦仲の良し悪しが噂になる。 そうなったらあんたみじめじゃない」 「いずれは分かることだ」 「そうね。最初は根掘り葉掘り奥さんのこと訊くでしょうけど、 なるほどそういうことだったのか、と納得したら公然のタブーになる」 武春は晴美の元を去った。
小豆島・飯神山からの展望
小豆島恋叙情第16話 残念石
小豆島恋叙情第16話
残念石 鮠沢 満 作 |
まさか?! ぼんやり鬼灯が浮かんだように、女はそこに座っていたはずなんだが……。 一日の仕事を終えた太陽が、帰り支度を済ませ、 茜色の大輪になって水平線に引っ掛かっている。 入道雲に取り付いた毒々しいまでの朱の色が、 にじみ出す寂寥の重さに堪えられなくなって港に落ちていた。 石組みの防波堤とそこに築かれた灯台が赤く染まっている。 女は灯台とは反対の残念石を並べたもう一つの防波堤の突端にいた。 今度積み出されるとしたら、真っ先に運び込まれるはずの残念石の上に、 しなだれかかるようにして座っていた。 女は半袖の白いワンピースを着ていた。 裾からそれと同じくらい白い足が覗いている。 遠目にもどきっとするほど艶めかしい。 髪はまさに烏の濡れ羽色で黒くしなやか、 そしてこれまで一度もハサミを入れたことがないほど長かった。 女は波打つ髪を束ねておらず、腰の辺りまで流れるがままにしていた。 ときどき海風が誘惑するみたいに梳きあげていくが、 そのたびに髪にまぶされた朱の鱗粉が海面にこぼれ落ちた。 そして一瞬ではあるが、水面にパッと花火を咲かせた。 女は外海の方に向き、何かに取り憑かれたように、じっと一点を見つめていた。 が、視線はゆるやかにうねる波の背に浮いた残照と同じように頼りなく、完全に拡散していた。 外海から誰かが帰ってくるのを待っているのか、それとも迎えにくるのだろうか。 潮は満ちていた。 その上穏やかで、なめした皮のようにすべすべしていた。 女は子守歌を口ずさみ始めた。 細くて泣き出しそうな声が、次第に濃くなる夕闇に押し潰されそうだ。 昼間の暑さを残した空気が気だるそうに震え、 防波堤に囲まれた港の中を迷い子のように彷徨った。 明らかに女は待っていた。 そのときが来るのを。 「美紀、もう家に帰っておいで」 母親らしい女が家並みの間から叫んだ。 甍が低く、海の続きのように見えた。 海辺に近いというのに、どこかでヒグラシが鳴いていた。 ヒュッヒュッヒュッ。 女の声に似ている。 か細く、途切れそうな声。 いや、女の声だったのかもしれない。 女が子守歌を唄い終えた。 そしてうっすら笑った。 どんよりとしていた目に、閃光に似た光が浮いた。 「敏樹が帰ってきた。 私を迎えに。 ほら、あそこ。 わたし、明日花嫁になるの」 女が指さす方を見ると、空と海が混ざり合って底知れぬ深さを湛え、 どこまでが空でどこまでが海か判然としなかった。 弛緩した空気は、その下にあるものすべてに覆い被さり、 有無を言わさず飲み込もうとしていた。 海はもうどっぷりと暮れかかっていた。 背後から迫り来る濃紺の闇を感じる。 目を凝らすと、確かに舟影が見えた。 いや見えたような気がした。 「確かに一隻の舟が見えるね」 そう言いたくなって、女を見た。 しかし、女はいなかった。 もう一度薄闇を掻き分けるようにして防波堤の突端を凝視した。 やはり女はいなかった。 ただ、女が座っていた一番早く積み込まれるはずの残念石が、 鬼灯のようにほんのり明るく灯っていた。 確かに誰かが迎えに来たらしい。 丁場のあった山の方に、狐火が見えた。 * 1583年、石山本願寺跡に一つの城が築かれた。 「天下無双」と謳われた大坂城である。 城主は、豊臣秀吉。 この大坂城は1620年から十年かけて大改修が行われた。 その際、多くの石が陸路及び海路を経て大坂に運ばれた。 ここ小豆島は良質の花崗岩を産すること、 また、海路という運搬に適した立地条件にあったことで、 多くの丁場がつくられ、石が切り出された。 切り出された石は、美しい小豆島を離れ、 恐らくは大きな城の石垣になるという晴れがましいロマンを胸に、 大坂へと運ばれていったのに違いない。 多くの丁場のなかでも、小海の丁場は隆盛を極め、切り出された石の数は定かではない。 しかし、切り出されながらも積み出されず残された石は、 大坂に行けずに「残念」ということから「残念石」と呼ばれているが、 この残念石が小海浜に四百個ほど残されていたというから、相当数に登ったことは間違いない。 他の丁場から切り出された石も合わせると、その数たるや驚くべきものになる。 一つの残念石の大きさは、約九十センチ角、長さ二メートル、重さ約五トン。 現在のように高度な運搬技術と重機が発達していない時代のこと、 石切、運搬、舟への積み込み等、すべて人力に頼るしかなく、 苦役を強いられた人の数、そして不幸にも命を落とした石切職人の数、 それら諸々のことを思うと、残念石に込められた〈残念〉は、 漢字二文字に凝縮されるべきものではない。 事実、小豆島町岩ヶ谷には、天狗岩、豆腐岩などの丁場が残されており、 矢孔や刻印のある巨石があるが、なかでも八人石と呼ばれる残石は、 運搬中にぱっくり石が二つに割れ、八人の石切職人が下敷きとなって命を落としたとされている。 現在、〈八人石〉として残されているが、その惨事を思うにつけ心が痛む。 小海の港には、現在、四十個の残念石を明治15年国より払い下げてもらい、 記念石として防波堤の上に並べている。 残念石は、大坂に行く日を、今か、今か、と四百年もの間待ち続けてきた。 これからもまたそうであろう。 まるで離ればなれになった家族、又は恋人を待つように。 ちょうど女がそうしていたように。
備讃瀬戸東航路・巨大船の露払い
別の機会に、こんな光景を見ました。
内海湾から出てきたタッグボートが備讃瀬戸西行航路をを東に逆進。
何をしているのかと思ったら・・
遙か向こうから巨大船がやってきます。
一㎞近くまで近づいてくると、反転して巨大船の「案内」を始めました。
2隻並んで、横綱を先導する「露払い」のように見えました(*^_^*)
先日紹介した地蔵崎灯台から備讃瀬戸東航路が始まります。
灯台前をゆっくりと西に向かいます。
「AZUI VICTORIA」 パナマ船籍のバラ積み船のようです。
私の乗っている船が後ろを横切りましたら、左右が逆になりました_(._.)_。
パイロット役のボートに水先案内されて、男木島灯台方面へ西進していきます。
内海湾の入り口には、次の巨大船を出迎えるために待機している船がいました。
小豆島恋叙情第15話虫送り 終章
小豆島恋叙情第15話 |
虫送り 終章 鮠沢 満 作 |
「さっきどうしてご免と謝ったんだい」
「あなたを残して島を出たこと」
「どうしてそのことを謝る」
「あなたの気持ちを知りながら出たから。ずっと引きずってたの。大阪で働いていても、心はこっち
にあった。というか、あなたに。体がむこうで、心がこっち。自分じゃなかった。大阪に発つ夜、フ
ェリーの待合室であなたの泣き出しそうな顔を見たとき、決心が鈍りそうになった。でもとにかく独
り立ちしたかった。祖父と祖母に迷惑をかけたくなかったの」
「知ってたよ」
「あの頃、貧しかった。心も体も。それなのに痩せ我慢ばかりしてた。強くなるんだって。負けない
よって。あなたに会えなくなるかもしれないのにね。無理して背中向けちゃった」
沙織の脳裏に当時のことがよぎっているのか、表情が幾分固くなった。
「沙織はいつも誰彼なく遠慮ばかりしていた」
「仕方なかったわ。私は父が誰か知らないのよ。それに母がああいう形で他界したでしょう。もう世
間の笑いもの。大きな顔して暮らせるわけないじゃない。母が私を産んだ劫罰を受けているんだと思
った。死ぬまでこんなことが続くんだろうなって考えると、正直言って生きる自信さえなかった。
母が死んで実質的に独りになって、人間ってなんて淋しいんだろう、どうして生まれてきたんだろ
う、生きることって何だろう、そんなことばかり考えてた。昼間あんなに強がっていたのに、夜にな
るとからっきしダメ。魂が抜けたみたいに萎えてね。暗い部屋で膝小僧抱えてめそめそ、夜空の星を
眺めて涙してた。泣かないぞって思うと、かえって泣けてくるの」
「ご飯もろくすっぽ食べていなかった」
「いくら血がつながっているとはいえ居候の身でしょう。体中に遠慮を貼り付けていたわ」
ここで沙織はふーと大きな息を一つした。
「なのに俺はあんなひどいことを言ってしまった」
「でも本当に痩せていたわね、あの頃の私って。でもあの一件がなかったら、私たち今こうやって一
緒にいないかもしれないわ」
「そうだね」
「その頃のあなたの私に対する気持というのは、てっきり同情とばかり思っていた。沙織は不幸で可
哀想な女の子だって」
「俺はそんな慈善家じゃない」
沙織への思いがそんな薄っぺらなものでないと断言したつもりだった。
「私、傷付くのが怖かった。いつでもそうだった。だから傷付く前に背中を向けるの。私の得意技。
だからあなたの一言も、ただの言い訳だと」
「違う。俺は聞いたんだ」
「聞いた?」
「そう」
「何を?」
「火傷した夜、布団の中で。夜中、手がひりひり痛んで目が覚めた。そしたら枕元に誰か座っている
んだ。薄目を開けてじっとそれを見ていた。ちっとも怖くはなかった。それどころか不思議と温かい
んだよ。さらによく見ると光背が見えた。ああ観音様だ、と思った。その観音様が言ったんだ」
「何て?」
「沙織を守れ」
「私を?」
沙織は眉根を吊り上げ、いかにも驚いたという表情を浮かべた。
「そう。きっとそれは俺自身の願望から生まれたんだろうと思う。なぜなら実際にそう思っていたん
だから。それだけじゃない。沙織が大阪に行って一年くらいして、どうしても会いたくなって、それ
で俺も大阪に行こう、そう決めた。荷物をまとめていよいよ出発というとき、千手千眼観音様に今後
のことをお祈りするためにここに来たんだ。両手を合わせて祈っていたら、また声がした」
「今度は何て?」
「一刻も早く沙織を小豆島に呼び戻し、一緒に暮らせって」
「それであの手紙が届いたのね」
「沙織が何か抜き差しならぬ状況にいる。そう思って、素直に自分の気持を書いた。それまで回りく
どいことばかり言ってたけど、そのときばかりはすらすらと正直な気持ちを綴ることができた」
「なんだ私だけじゃなかったのね」
「と言うと?」
「私も同じ声を聞いたの。でも随分突拍子もないことだから、誰にも話したことないの。
勤めていた会社ね、ちょっと危ない会社だったの。いわゆる暴力団の息がかかった会社。そう言え
ば分かるでしょう。何も知らずそのまま会社に残っていたら、私今頃どうなっていたか分からない。
ある日、仕事で疲れてぼろ切れみたいになってアパートに帰ったの。夕食もろくすっぽ取らずに、
シャワーを浴びるとすぐ布団にもぐり込んでしまったわ。エレベーターのドアが閉まるみたいに、す
ぐに機械的な眠りが襲ってきた。三十秒も経たないうちに、眠りの底のまた底。そこであなたと同じ
ものを見て、そして聞いたの」
「どんなこと?」
「努が淋しがっている。黙って努の胸に飛び込めって。翌日、あなたから手紙が届いた」
「そうなんだ。沙織が見たものって多分俺が見たものと同じで、きっとここの千手千眼観音様だよ」
「うん。で私ね、もう矢も楯もたまらず退職届を出して、あなたの待つ小豆島に帰ってきたというわ
け。あんなに逃げるようにして出て行った島なのにね。
でも嬉しかった。虫送りの日あなたが言った言葉が本心だったこと、それといつも私のことを優し
く見守ってくれていたこと」
「これから先だってずっとそうさ。観音様に誓うよ」
風が薄絹を垂らしたような優しさで斜面を駆け下りる。
稲が波打ち、小鳥が囀る。
川でメダカが笑い、ナマズが跳ねる。
いい気分だ。
真清水のせせらぎ。棚田に降り注ぐ陽光。
こんもりとした木立。瀬戸の波を思わせる甍。
何かが包み込んでくる。
大きくて柔らかな手で。何かが見つめている。
微笑みをたたえた温かな眼差しで。
二人は千手千眼観音に両手を合わせて祈っていた。
「ねえ行かない、今夜。直樹を連れて」
「どこへ?」
「蛍見に」
「いいけど、また急にどうした」
「あなたの手を見て」
「あれか」
「ええ」
努は右腕のシャツをめくった。
それは確かにそこにあった。目にはさやかに見えないが、はっきりと。
やがて夜が里山を下り、静謐が盆地を満たす。
真っ黒な闇を縫うように、無数の光りが瞬き始める。
蠢く平家蛍。乱舞する源氏蛍。
もう戦いは終わった。
強者どもよ、静かに眠れ。
虫送りは終わった。
子供たちも眠れ。
稲虫来るな、実盛失せろ。
稲虫来るな、実盛失せろ。
稲虫来るな、実盛失せろ。
子供たちの声が次第に小さくなる。
山里の母なる大地も安らかな眠りにつくだろう。
沙織にようやく心の安寧が訪れた。
「あなたを残して島を出たこと」
「どうしてそのことを謝る」
「あなたの気持ちを知りながら出たから。ずっと引きずってたの。大阪で働いていても、心はこっち
にあった。というか、あなたに。体がむこうで、心がこっち。自分じゃなかった。大阪に発つ夜、フ
ェリーの待合室であなたの泣き出しそうな顔を見たとき、決心が鈍りそうになった。でもとにかく独
り立ちしたかった。祖父と祖母に迷惑をかけたくなかったの」
「知ってたよ」
「あの頃、貧しかった。心も体も。それなのに痩せ我慢ばかりしてた。強くなるんだって。負けない
よって。あなたに会えなくなるかもしれないのにね。無理して背中向けちゃった」
沙織の脳裏に当時のことがよぎっているのか、表情が幾分固くなった。
「沙織はいつも誰彼なく遠慮ばかりしていた」
「仕方なかったわ。私は父が誰か知らないのよ。それに母がああいう形で他界したでしょう。もう世
間の笑いもの。大きな顔して暮らせるわけないじゃない。母が私を産んだ劫罰を受けているんだと思
った。死ぬまでこんなことが続くんだろうなって考えると、正直言って生きる自信さえなかった。
母が死んで実質的に独りになって、人間ってなんて淋しいんだろう、どうして生まれてきたんだろ
う、生きることって何だろう、そんなことばかり考えてた。昼間あんなに強がっていたのに、夜にな
るとからっきしダメ。魂が抜けたみたいに萎えてね。暗い部屋で膝小僧抱えてめそめそ、夜空の星を
眺めて涙してた。泣かないぞって思うと、かえって泣けてくるの」
「ご飯もろくすっぽ食べていなかった」
「いくら血がつながっているとはいえ居候の身でしょう。体中に遠慮を貼り付けていたわ」
ここで沙織はふーと大きな息を一つした。
「なのに俺はあんなひどいことを言ってしまった」
「でも本当に痩せていたわね、あの頃の私って。でもあの一件がなかったら、私たち今こうやって一
緒にいないかもしれないわ」
「そうだね」
「その頃のあなたの私に対する気持というのは、てっきり同情とばかり思っていた。沙織は不幸で可
哀想な女の子だって」
「俺はそんな慈善家じゃない」
沙織への思いがそんな薄っぺらなものでないと断言したつもりだった。
「私、傷付くのが怖かった。いつでもそうだった。だから傷付く前に背中を向けるの。私の得意技。
だからあなたの一言も、ただの言い訳だと」
「違う。俺は聞いたんだ」
「聞いた?」
「そう」
「何を?」
「火傷した夜、布団の中で。夜中、手がひりひり痛んで目が覚めた。そしたら枕元に誰か座っている
んだ。薄目を開けてじっとそれを見ていた。ちっとも怖くはなかった。それどころか不思議と温かい
んだよ。さらによく見ると光背が見えた。ああ観音様だ、と思った。その観音様が言ったんだ」
「何て?」
「沙織を守れ」
「私を?」
沙織は眉根を吊り上げ、いかにも驚いたという表情を浮かべた。
「そう。きっとそれは俺自身の願望から生まれたんだろうと思う。なぜなら実際にそう思っていたん
だから。それだけじゃない。沙織が大阪に行って一年くらいして、どうしても会いたくなって、それ
で俺も大阪に行こう、そう決めた。荷物をまとめていよいよ出発というとき、千手千眼観音様に今後
のことをお祈りするためにここに来たんだ。両手を合わせて祈っていたら、また声がした」
「今度は何て?」
「一刻も早く沙織を小豆島に呼び戻し、一緒に暮らせって」
「それであの手紙が届いたのね」
「沙織が何か抜き差しならぬ状況にいる。そう思って、素直に自分の気持を書いた。それまで回りく
どいことばかり言ってたけど、そのときばかりはすらすらと正直な気持ちを綴ることができた」
「なんだ私だけじゃなかったのね」
「と言うと?」
「私も同じ声を聞いたの。でも随分突拍子もないことだから、誰にも話したことないの。
勤めていた会社ね、ちょっと危ない会社だったの。いわゆる暴力団の息がかかった会社。そう言え
ば分かるでしょう。何も知らずそのまま会社に残っていたら、私今頃どうなっていたか分からない。
ある日、仕事で疲れてぼろ切れみたいになってアパートに帰ったの。夕食もろくすっぽ取らずに、
シャワーを浴びるとすぐ布団にもぐり込んでしまったわ。エレベーターのドアが閉まるみたいに、す
ぐに機械的な眠りが襲ってきた。三十秒も経たないうちに、眠りの底のまた底。そこであなたと同じ
ものを見て、そして聞いたの」
「どんなこと?」
「努が淋しがっている。黙って努の胸に飛び込めって。翌日、あなたから手紙が届いた」
「そうなんだ。沙織が見たものって多分俺が見たものと同じで、きっとここの千手千眼観音様だよ」
「うん。で私ね、もう矢も楯もたまらず退職届を出して、あなたの待つ小豆島に帰ってきたというわ
け。あんなに逃げるようにして出て行った島なのにね。
でも嬉しかった。虫送りの日あなたが言った言葉が本心だったこと、それといつも私のことを優し
く見守ってくれていたこと」
「これから先だってずっとそうさ。観音様に誓うよ」
風が薄絹を垂らしたような優しさで斜面を駆け下りる。
稲が波打ち、小鳥が囀る。
川でメダカが笑い、ナマズが跳ねる。
いい気分だ。
真清水のせせらぎ。棚田に降り注ぐ陽光。
こんもりとした木立。瀬戸の波を思わせる甍。
何かが包み込んでくる。
大きくて柔らかな手で。何かが見つめている。
微笑みをたたえた温かな眼差しで。
二人は千手千眼観音に両手を合わせて祈っていた。
「ねえ行かない、今夜。直樹を連れて」
「どこへ?」
「蛍見に」
「いいけど、また急にどうした」
「あなたの手を見て」
「あれか」
「ええ」
努は右腕のシャツをめくった。
それは確かにそこにあった。目にはさやかに見えないが、はっきりと。
やがて夜が里山を下り、静謐が盆地を満たす。
真っ黒な闇を縫うように、無数の光りが瞬き始める。
蠢く平家蛍。乱舞する源氏蛍。
もう戦いは終わった。
強者どもよ、静かに眠れ。
虫送りは終わった。
子供たちも眠れ。
稲虫来るな、実盛失せろ。
稲虫来るな、実盛失せろ。
稲虫来るな、実盛失せろ。
子供たちの声が次第に小さくなる。
山里の母なる大地も安らかな眠りにつくだろう。
沙織にようやく心の安寧が訪れた。
小豆島恋叙情第15話
小豆島恋叙情第15話 | 虫送り 後編 鮠沢 満 作 |
ご免なさい」
唐突とも思える沙織の謝罪の意味を、努は推し量ることができなかった。
「何が?」
「ううん、何でもないの」
沙織が蠱惑的な含み笑いをしている。
「気持ち悪いね」
「そんなことないわよ。それより手を見せて」
沙織は努の腕を取った。
「ここね」
沙織はやさしくその部分をさすった。指の先から、柔らかで丸みのある温かさが伝わってくる。
柔軟性を失いギザギザになった心の襞がほぐれていく。日々の生活に取り付いた棘が、どんどん抜け
落ちていく。沙織の手にはそんな温もりがあった。
努の右上腕部には、今では目を凝らしてみなければ判別できないくらいになってしまったが、蛍の
ような形をした薄い紋様があった。
努が十二歳、沙織が十歳のときだった。努にとっては最後の虫送り。
その日は朝から曇っていて、ひと際雨の匂いがした。しかし、子供たちの祈りが通じたのか、午後遅
くには低く垂れ込めていた空も高くなり、暮色が盆地全体を黄金色に染めた。すべてのものが動きを
止め、金色の光を全身に浴び、恍惚とした表情を浮かべている。いつもは打たれるまで無言を通す梵
鐘でさえ、今日は特別な日か、どことなくフォルムが柔らかい。
祈祷が始まる前、二人はいつものように互いの悪口を言ってふざけ合っていた。
「沙織はのろまなアヒルだな」
努が軽く牽制球を投じた。
「アヒルで結構よ。なによ、努なんかでぶのカバ雄君じゃないの」
沙織が負けずにボールを打ち返してきた。
祈祷が終わりたいまつに火が灯された。子供たちはそれぞれ自分の火手に火を点け、住職の合図で
坂道を下っていった。
子供たちの話し声が、山あいに押し寄せた潮のように、高くなったり低くなったりした。
夕暮れを知らせるフクロウの声もややこもっている。
梅雨明けはまだ先か、カエルがせわしなく声帯を震わせている。火手のパチパチという乾いた音が
それにかぶさり、虫を焦がす音を掻き消した。
沙織は努のすぐ前を歩いていた。疲れた木綿のスカートから細い足がのぞいている。ゴム草履を履
いて小股で歩く姿に何か胸打たれるものがあった。同情とか憐憫では決してなかった。何かに負けま
いと、一途に生きる沙織の姿だった。努の胸の奥に恋の火種が撒かれたのは、このときだったのかも
しれない。努は境内でのやり取りを思い出し、理由もなくそれを蒸し返してしまった。
「沙織はチョロチョロ、まるでアヒルだな」
沙織が振り向いた。
「何よ、カバ雄君が」
沙織も余裕をもってやり返してくる。いつものパターンだ。
「ちゃんと火手を持って歩けよ。ただでさえ危なっかしいんだから」
「余計なお世話よ」
「へたすりゃアヒルの丸焼きだ。そしたら食っちまうぞ」
沙織は右手であっかんべーをした。
「でも痩せてるからうまくないか。もっとご飯食べろよな」
沙織の顔色がさっと変わった。引き潮のように血の気が失せてしまったのだ。日暮れの暗さにも、
その変化ははっきりと見て取れた。
まずいことを言ってしまった。努は正直そう思った。
沙織は足を止め、黙って努を見つめていた。悲しそうな瞳の中に、意志の強さを代弁する光が漲っ
ていた。それは怒りではなく、沙織の防衛本能のようなものだった。
努は継ぐ言葉が見あたらず、気まずい空気を背負ったまま立ち尽くすしかなかった。
後からやってきた友人が声を掛けたが、それも聞こえなかった。睨み合う恰好の二人をどんどん追
い越していった。努は、綱が切れて井戸の底に沈んだつるべみたいなみじめな気持ちを味わっていた。
ようやく言葉を見繕って、
「そんなつもりじゃなかったんだ。俺、沙織のことが……好きで……」
謝罪とも告白ともとれる曖昧な一言だった。
努は羞恥で全身を熱くしているというのに、沙織は氷のように冷ややかな態度で、硬質で直線的な
視線を努に向けたままでいる。その落ち着きように、どっちが年上か分からなくなっていた。
努は覚悟を決めた。沙織に何と言われようと、非はこちらにある。
努は沙織の視線を押し返すように見た。沙織の感情は凍結していた。怒りの色もない。もちろん優
しさもなかった。努と沙織の間にあるものは、取り付き難い無機質な沈黙だった。それは沙織が努に
向けた侮蔑だったのかもしれない。
努は沙織が怒り出すものと思った。あんなにひどいことを言ったのだ。
努は右頬を突き出した。ここをぶて、と。
互いの感情の糸が、風に吹き飛ばされたみたいに交錯し、もつれ合った。
どこかでフクロウが鳴いた。
早く片を付けろよ、と。
とそのとき、沙織の澄んだ瞳の奥がにわかにさざめき立ち、張り詰めた感情の縦糸が一気に裁断さ
れた。糸は眼底深く沈んでいった。
沙織の目元が潤み柔和さが戻った。努はホッとした。がその直後、
「努はカバ雄じゃなくってバカ雄よ」
沙織は持っていた火手を努に向けて振った。
それは決して努に敵意を抱いてのことではなかった。努に自分の本心を見透かされてしまった羞恥
を隠すためのものであった。しかし当時の努は、沙織の胸の内を斟酌できるほど人間的に成熟してい
ようはずがなかった。努は、沙織が自分に近づいてくる邪悪なものを打ち払うためにそうした、と解
釈した。窮地に陥ったとき、無意識に働く沙織の防衛本能として。
「熱い」
努は右腕を押さえた。
沙織が振り下ろした火手の先から、燃える油の玉がこぼれ、運悪く努の上腕部にへばり付いてしま
ったのだ。
努の上腕は赤く腫れ上がっていた。母が軟膏を塗り、その上に何故か油紙を重ねて包帯を巻いてく
れた。日焼けした真っ黒な腕に巻かれた真っ白な包帯が、努にはわざとらしく思えて仕方なかった。
一刻も早く取り去りたかった。それを付けることで、自分が被害者であることを強調することになり、
またそのことがどれほど沙織の心を抉ることになるか、努には分かりすぎるほど分かっていたからで
ある。明らかに非は努にあったのだから。
傍らで手当を見ていた沙織は、いつまでも泣いていた。「僕が悪いんだから」と何度なだめても、
泣きやまなかった。ようやく泣き声が嗚咽に変わり、涙でぐしゃぐしゃになった顔を濡れタオルで拭
くまでに一時間以上かかった。沙織にしてみれば、自分が大変なことをしでかしたという罪悪感で、
少女の小さな胸をこれ以上ないほど痛めていたに違いない
努はそのとき、子供ながら自らの横暴で他人を傷つけることの愚かさと虚しさを知り、また、いつ
もおてんばな沙織が、実は誰よりも心根の優しい少女であることを知った。と同時に、努の中にそれ
までとは異質な感情が芽生えたことも否定できなかった。幼馴染みとか遊び友達とかいった通り一遍
の感情ではなく、小さな少年が背伸びはしていたものの、ちょっぴり大人の気持ちで沙織を見ていた
のである。それは別の言い方をすれば、沙織に対する淡い恋心だったかもしれない。たいていの子供
が儀式として経験する、異性に対して抱く面はゆい純な憧れ。努の場合もそれに違いなかっただろう
が、一つ違っていたものがあった。それは感情の昂ぶりが、間歇泉のように時間を置いて爆発的に噴
出する類のものではなかった。地下の水脈を地下水が、静かに、ゆっくり、途切れることなく流れる
のに似ていた。努の思い入れはこんなふうに始まった。
幸い手当が早く、火傷は大事には至らなかった。それでも皮膚の一部は数日後ぱくりとめくれ、ピ
ンク色の肉が顔を出した。
それは蛍の形をしていた。
しかし、その痕跡も年齢を重ねるごと段々と薄れていった。ただ、努の地下水だけは脈々と流れ続けた。
静かに、しかし激しく。
唐突とも思える沙織の謝罪の意味を、努は推し量ることができなかった。
「何が?」
「ううん、何でもないの」
沙織が蠱惑的な含み笑いをしている。
「気持ち悪いね」
「そんなことないわよ。それより手を見せて」
沙織は努の腕を取った。
「ここね」
沙織はやさしくその部分をさすった。指の先から、柔らかで丸みのある温かさが伝わってくる。
柔軟性を失いギザギザになった心の襞がほぐれていく。日々の生活に取り付いた棘が、どんどん抜け
落ちていく。沙織の手にはそんな温もりがあった。
努の右上腕部には、今では目を凝らしてみなければ判別できないくらいになってしまったが、蛍の
ような形をした薄い紋様があった。
努が十二歳、沙織が十歳のときだった。努にとっては最後の虫送り。
その日は朝から曇っていて、ひと際雨の匂いがした。しかし、子供たちの祈りが通じたのか、午後遅
くには低く垂れ込めていた空も高くなり、暮色が盆地全体を黄金色に染めた。すべてのものが動きを
止め、金色の光を全身に浴び、恍惚とした表情を浮かべている。いつもは打たれるまで無言を通す梵
鐘でさえ、今日は特別な日か、どことなくフォルムが柔らかい。
祈祷が始まる前、二人はいつものように互いの悪口を言ってふざけ合っていた。
「沙織はのろまなアヒルだな」
努が軽く牽制球を投じた。
「アヒルで結構よ。なによ、努なんかでぶのカバ雄君じゃないの」
沙織が負けずにボールを打ち返してきた。
祈祷が終わりたいまつに火が灯された。子供たちはそれぞれ自分の火手に火を点け、住職の合図で
坂道を下っていった。
子供たちの話し声が、山あいに押し寄せた潮のように、高くなったり低くなったりした。
夕暮れを知らせるフクロウの声もややこもっている。
梅雨明けはまだ先か、カエルがせわしなく声帯を震わせている。火手のパチパチという乾いた音が
それにかぶさり、虫を焦がす音を掻き消した。
沙織は努のすぐ前を歩いていた。疲れた木綿のスカートから細い足がのぞいている。ゴム草履を履
いて小股で歩く姿に何か胸打たれるものがあった。同情とか憐憫では決してなかった。何かに負けま
いと、一途に生きる沙織の姿だった。努の胸の奥に恋の火種が撒かれたのは、このときだったのかも
しれない。努は境内でのやり取りを思い出し、理由もなくそれを蒸し返してしまった。
「沙織はチョロチョロ、まるでアヒルだな」
沙織が振り向いた。
「何よ、カバ雄君が」
沙織も余裕をもってやり返してくる。いつものパターンだ。
「ちゃんと火手を持って歩けよ。ただでさえ危なっかしいんだから」
「余計なお世話よ」
「へたすりゃアヒルの丸焼きだ。そしたら食っちまうぞ」
沙織は右手であっかんべーをした。
「でも痩せてるからうまくないか。もっとご飯食べろよな」
沙織の顔色がさっと変わった。引き潮のように血の気が失せてしまったのだ。日暮れの暗さにも、
その変化ははっきりと見て取れた。
まずいことを言ってしまった。努は正直そう思った。
沙織は足を止め、黙って努を見つめていた。悲しそうな瞳の中に、意志の強さを代弁する光が漲っ
ていた。それは怒りではなく、沙織の防衛本能のようなものだった。
努は継ぐ言葉が見あたらず、気まずい空気を背負ったまま立ち尽くすしかなかった。
後からやってきた友人が声を掛けたが、それも聞こえなかった。睨み合う恰好の二人をどんどん追
い越していった。努は、綱が切れて井戸の底に沈んだつるべみたいなみじめな気持ちを味わっていた。
ようやく言葉を見繕って、
「そんなつもりじゃなかったんだ。俺、沙織のことが……好きで……」
謝罪とも告白ともとれる曖昧な一言だった。
努は羞恥で全身を熱くしているというのに、沙織は氷のように冷ややかな態度で、硬質で直線的な
視線を努に向けたままでいる。その落ち着きように、どっちが年上か分からなくなっていた。
努は覚悟を決めた。沙織に何と言われようと、非はこちらにある。
努は沙織の視線を押し返すように見た。沙織の感情は凍結していた。怒りの色もない。もちろん優
しさもなかった。努と沙織の間にあるものは、取り付き難い無機質な沈黙だった。それは沙織が努に
向けた侮蔑だったのかもしれない。
努は沙織が怒り出すものと思った。あんなにひどいことを言ったのだ。
努は右頬を突き出した。ここをぶて、と。
互いの感情の糸が、風に吹き飛ばされたみたいに交錯し、もつれ合った。
どこかでフクロウが鳴いた。
早く片を付けろよ、と。
とそのとき、沙織の澄んだ瞳の奥がにわかにさざめき立ち、張り詰めた感情の縦糸が一気に裁断さ
れた。糸は眼底深く沈んでいった。
沙織の目元が潤み柔和さが戻った。努はホッとした。がその直後、
「努はカバ雄じゃなくってバカ雄よ」
沙織は持っていた火手を努に向けて振った。
それは決して努に敵意を抱いてのことではなかった。努に自分の本心を見透かされてしまった羞恥
を隠すためのものであった。しかし当時の努は、沙織の胸の内を斟酌できるほど人間的に成熟してい
ようはずがなかった。努は、沙織が自分に近づいてくる邪悪なものを打ち払うためにそうした、と解
釈した。窮地に陥ったとき、無意識に働く沙織の防衛本能として。
「熱い」
努は右腕を押さえた。
沙織が振り下ろした火手の先から、燃える油の玉がこぼれ、運悪く努の上腕部にへばり付いてしま
ったのだ。
努の上腕は赤く腫れ上がっていた。母が軟膏を塗り、その上に何故か油紙を重ねて包帯を巻いてく
れた。日焼けした真っ黒な腕に巻かれた真っ白な包帯が、努にはわざとらしく思えて仕方なかった。
一刻も早く取り去りたかった。それを付けることで、自分が被害者であることを強調することになり、
またそのことがどれほど沙織の心を抉ることになるか、努には分かりすぎるほど分かっていたからで
ある。明らかに非は努にあったのだから。
傍らで手当を見ていた沙織は、いつまでも泣いていた。「僕が悪いんだから」と何度なだめても、
泣きやまなかった。ようやく泣き声が嗚咽に変わり、涙でぐしゃぐしゃになった顔を濡れタオルで拭
くまでに一時間以上かかった。沙織にしてみれば、自分が大変なことをしでかしたという罪悪感で、
少女の小さな胸をこれ以上ないほど痛めていたに違いない
努はそのとき、子供ながら自らの横暴で他人を傷つけることの愚かさと虚しさを知り、また、いつ
もおてんばな沙織が、実は誰よりも心根の優しい少女であることを知った。と同時に、努の中にそれ
までとは異質な感情が芽生えたことも否定できなかった。幼馴染みとか遊び友達とかいった通り一遍
の感情ではなく、小さな少年が背伸びはしていたものの、ちょっぴり大人の気持ちで沙織を見ていた
のである。それは別の言い方をすれば、沙織に対する淡い恋心だったかもしれない。たいていの子供
が儀式として経験する、異性に対して抱く面はゆい純な憧れ。努の場合もそれに違いなかっただろう
が、一つ違っていたものがあった。それは感情の昂ぶりが、間歇泉のように時間を置いて爆発的に噴
出する類のものではなかった。地下の水脈を地下水が、静かに、ゆっくり、途切れることなく流れる
のに似ていた。努の思い入れはこんなふうに始まった。
幸い手当が早く、火傷は大事には至らなかった。それでも皮膚の一部は数日後ぱくりとめくれ、ピ
ンク色の肉が顔を出した。
それは蛍の形をしていた。
しかし、その痕跡も年齢を重ねるごと段々と薄れていった。ただ、努の地下水だけは脈々と流れ続けた。
静かに、しかし激しく。
小豆島恋叙情第15話 虫送り 中編
小豆島恋叙情第15話 |
虫送り 中編 鮠沢 満 作 |
銚子渓の南麓にあたる。
岩間から湧き出る真清水は、日本名水百選の一つ。
標高四百メートル。
本尊に千手千眼観音を奉る。
もとは山岳信仰で、山伏が開いたとされる寺である。
境内から俯瞰すると、千枚田と呼ばれる棚田が、急斜面に肩を寄せ合うようにしてへばり付いている。
田には湯舟山からの湧き水が張られ、アントニオ・ガウディーばりの神秘的な造形美を織りなしている。
数日後、努と沙織は湯舟山を目指した。
稲が青々と育ち、V字に切り込まれた空に向かって背筋をピーンと伸ばしている。
水路を流れ落ちる水のせせらぎの響きが涼感を誘い、
体中の細胞全てから何か凛としたものが湧き上がってくる。
棚田の間を縫う畦道を、息を合わせながら二人して登った。
途中、水を引き込むための堰が幾つも設けられあった。
清水の底に陽光が波形となってゆらゆらと踊っていた。
稲が青々と育ち、V字に切り込まれた空に向かって背筋をピーンと伸ばしている。
水路を流れ落ちる水のせせらぎの響きが涼感を誘い、
体中の細胞全てから何か凛としたものが湧き上がってくる。
棚田の間を縫う畦道を、息を合わせながら二人して登った。
途中、水を引き込むための堰が幾つも設けられあった。
清水の底に陽光が波形となってゆらゆらと踊っていた。
湯舟山に着いた。
二人とも息が弾み、額には汗が光っていた。
努は手洗い場から流れ落ちる水を両手で掬った。
雪解け水のように冷たい。
「気持ちいい」
沙織も水を掬った。
「本当に冷たくて気持ちいいわ」
沙織はためらわずそれを口に含んだ。
「甘くておいしい」
今度は何はばかることなく、上気した顔を真清水で洗った。
二人とも息が弾み、額には汗が光っていた。
努は手洗い場から流れ落ちる水を両手で掬った。
雪解け水のように冷たい。
「気持ちいい」
沙織も水を掬った。
「本当に冷たくて気持ちいいわ」
沙織はためらわずそれを口に含んだ。
「甘くておいしい」
今度は何はばかることなく、上気した顔を真清水で洗った。
努は「満たされるということ」がどういうことか考えていた。
子どもを一人産んだのに、化粧なしの沙織の顔はまだ若く、青春時代の面影を随所に残していた。
血管が透けるほど白い額と頬。
その上に丸い水滴が危なっかしそうに留まっている。
光の粒子をいっぱい詰め込んだ水滴は、触れると重力の僕と化してすぐさま流れ落ちるに違いなかった。
子どもを一人産んだのに、化粧なしの沙織の顔はまだ若く、青春時代の面影を随所に残していた。
血管が透けるほど白い額と頬。
その上に丸い水滴が危なっかしそうに留まっている。
光の粒子をいっぱい詰め込んだ水滴は、触れると重力の僕と化してすぐさま流れ落ちるに違いなかった。
大切なものは自分の手で守らなければならない。
努が子どもの頃からずっと思い続けてきたことだ。
努は妻の顔を眩しそうに眺めた。
沙織は努が自分を見つめていることに気付くと、鳳仙花がはぜたような笑顔を作った。
恥じらいを笑みに封じ込めたというところだろうか。
そのパッと一気に咲いた少女っぽい笑顔に、努も思わずつられて破顔してしまった。
しかしその裏にやや憂いを帯びた表情が、一瞬ではあるが顔を見せたことも事実である。
努はこのどちらの素顔も沙織そのものである、と寛大に受け容れていた。
そうすることが、一番自然体でいられる自分流の愛し方だと思っていた。
努が子どもの頃からずっと思い続けてきたことだ。
努は妻の顔を眩しそうに眺めた。
沙織は努が自分を見つめていることに気付くと、鳳仙花がはぜたような笑顔を作った。
恥じらいを笑みに封じ込めたというところだろうか。
そのパッと一気に咲いた少女っぽい笑顔に、努も思わずつられて破顔してしまった。
しかしその裏にやや憂いを帯びた表情が、一瞬ではあるが顔を見せたことも事実である。
努はこのどちらの素顔も沙織そのものである、と寛大に受け容れていた。
そうすることが、一番自然体でいられる自分流の愛し方だと思っていた。
「私の顔に何か付いてる」
「虫」
「えっ、虫?」
沙織は素早く手の平で顔を払った。
額と頬の滴が、小さな太陽の粒子となって飛び散った。
「嘘だよ」
「だと思ったわ」
「じゃあわざと驚いて見せた」
「あなたのせっかくの好意だもの」
大きなモミジの木陰に腰を降ろした。
木漏れ日が葉を通して降り注いでくる。
葉影が沙織の顔の上でワルツを踊った。
努は黙ってタオルを差し出した。
沙織は、うん、と頷いて受け取ると、顔をそっと拭った。
上気した頬にモミジの緑が跳ね返ってきた。
「やっぱりここからの眺めが一番だね」
「落ち着くわ。でも不思議ね」
「何が」
「だってあんなにここを出たかったのに」
「結局は自分のふる里なんだよ。寄る辺は生まれたところというのかな」
「虫」
「えっ、虫?」
沙織は素早く手の平で顔を払った。
額と頬の滴が、小さな太陽の粒子となって飛び散った。
「嘘だよ」
「だと思ったわ」
「じゃあわざと驚いて見せた」
「あなたのせっかくの好意だもの」
大きなモミジの木陰に腰を降ろした。
木漏れ日が葉を通して降り注いでくる。
葉影が沙織の顔の上でワルツを踊った。
努は黙ってタオルを差し出した。
沙織は、うん、と頷いて受け取ると、顔をそっと拭った。
上気した頬にモミジの緑が跳ね返ってきた。
「落ち着くわ。でも不思議ね」
「何が」
「だってあんなにここを出たかったのに」
「結局は自分のふる里なんだよ。寄る辺は生まれたところというのかな」
沙織は湯舟山から少し下った農家で育った。
父のことは知らない。
小学校までは肥土山で暮らしていたが、母が泥酔した上に心臓発作を起こして他界してからは、
中山の祖父と祖母のところで暮らすようになった。
「ここがこんなに美しいところだなんて、大阪に行くまで知らなかった。
随分と嫌っていたのに。
でも都会の暮らしを考えると、やっぱり田舎の方が性に合ってる」
「帰ってきてよかっただろう」
「今の幸せな暮らしを考えるとね。でも怖い」
「何が」
「それを失うこと」
「大丈夫。俺が守る」
「うん」
「俺は幸せだよ」
「本当に?」
「嘘じゃない」
「ご免ね」
「何が」
「ううん、何でもないの」
父のことは知らない。
小学校までは肥土山で暮らしていたが、母が泥酔した上に心臓発作を起こして他界してからは、
中山の祖父と祖母のところで暮らすようになった。
「ここがこんなに美しいところだなんて、大阪に行くまで知らなかった。
随分と嫌っていたのに。
でも都会の暮らしを考えると、やっぱり田舎の方が性に合ってる」
「帰ってきてよかっただろう」
「今の幸せな暮らしを考えるとね。でも怖い」
「何が」
「それを失うこと」
「大丈夫。俺が守る」
「うん」
「俺は幸せだよ」
「本当に?」
「嘘じゃない」
「ご免ね」
「何が」
「ううん、何でもないの」
五月の末、沙織は一人で湯舟山を訪れた。
そのとき、千枚田と呼ばれる狭小な棚田には並々と水が張られ、鏡の表面のような光沢を放っていた。
セル状になった何百という水田が房状に寄り添い、下方に非幾何学的ではあるがパーフェクトな連な
りを見せていた。
一見するとほどよく崩れた蜂の巣のように見えなくもない。
山の稜線の上に広がる青い空と真っ白い雲を小さな断片に分割し、
それを一つ一つのセルに嵌め込んで、空全体をもう一度構築し直してみた。
大聖堂の壁面を飾るステンドグラスを、そっくりそのまま谷間に寝かしつけた恰好になっていた。
そのとき、千枚田と呼ばれる狭小な棚田には並々と水が張られ、鏡の表面のような光沢を放っていた。
セル状になった何百という水田が房状に寄り添い、下方に非幾何学的ではあるがパーフェクトな連な
りを見せていた。
一見するとほどよく崩れた蜂の巣のように見えなくもない。
山の稜線の上に広がる青い空と真っ白い雲を小さな断片に分割し、
それを一つ一つのセルに嵌め込んで、空全体をもう一度構築し直してみた。
大聖堂の壁面を飾るステンドグラスを、そっくりそのまま谷間に寝かしつけた恰好になっていた。
今、努も沙織も何故か満ち足りた気持ちだった。
何のてらいもなく、幸せと言えた。
どうして?
それは平凡だから。
平凡こそ幸せの母である。
努は沙織の幸せを自分の幸せと感じることができた。
沙織も努の幸せを自分の幸せと感じることができた。
これ以上何を望むというのか。
「互いの魂が共鳴し合っていればいい」
普段感情をあまり表に出さない努にしては気障な言い方だった。
しかし、
「そうね。互いの気持ちに素直になって、寛大に相手を受け容れる。
それにこの目の前の自然を見て。
たおやかで麗しい。
すべてを包み込んで許す優しさがある。
眺めているだけで心がふっくらとしてくる。
つつましやかでもいいじゃない。
私たちにはこんな素敵な贈り物があるんだから。
それに直樹もいる。
ねえ努?」
何のてらいもなく、幸せと言えた。
どうして?
それは平凡だから。
平凡こそ幸せの母である。
努は沙織の幸せを自分の幸せと感じることができた。
沙織も努の幸せを自分の幸せと感じることができた。
これ以上何を望むというのか。
「互いの魂が共鳴し合っていればいい」
普段感情をあまり表に出さない努にしては気障な言い方だった。
しかし、
「そうね。互いの気持ちに素直になって、寛大に相手を受け容れる。
それにこの目の前の自然を見て。
たおやかで麗しい。
すべてを包み込んで許す優しさがある。
眺めているだけで心がふっくらとしてくる。
つつましやかでもいいじゃない。
私たちにはこんな素敵な贈り物があるんだから。
それに直樹もいる。
ねえ努?」
沙織も真っ直ぐに気持ちを重ねてきた。
「僕たちは往々にして、平凡な日々に幸福という一字を掘り当てる触覚を鈍らせてしまう。
それで疲労と倦怠だけしか見えなくなって、揚げ句の果てにはそれらに振り回されて、自分は不幸
だって思うようになる。
隅っこにちょこんと腰を降ろし、こっちに微笑みかけている「幸せ君」には気付かない。
それができるようになるには、沙織が言うように、つつましさの中にも感謝する気持ちとか満足する心 を持つことなんだ、きっと」
「それで初めて幸せの羅針盤が針を震わせる」
「俺たちの原点はやっぱりあの日だね」
「僕たちは往々にして、平凡な日々に幸福という一字を掘り当てる触覚を鈍らせてしまう。
それで疲労と倦怠だけしか見えなくなって、揚げ句の果てにはそれらに振り回されて、自分は不幸
だって思うようになる。
隅っこにちょこんと腰を降ろし、こっちに微笑みかけている「幸せ君」には気付かない。
それができるようになるには、沙織が言うように、つつましさの中にも感謝する気持ちとか満足する心 を持つことなんだ、きっと」
「それで初めて幸せの羅針盤が針を震わせる」
「俺たちの原点はやっぱりあの日だね」
努は、何歳になっても沙織が見せる少し戸惑ったというか、はにかんだような少女っぽい表情が好きだった。
それは沙織の少女時代から引き継がれてきたもので、これからもずっと持ち続けて欲しいと努が願っているものの一つだった。
沙織は沙織で、努の言動一つひとつからあふれ出る愛情が分かるだけに、ときに不安に襲われることがあった。
「もし努と直樹に何かあったら……」そう考えるだけで背筋に冷たいものが走るのだった。
だから現在自分が享受してる幸せにどっかりと胡座をかくようなことだけはしないようにしていた。
いかなる喜びも常に最小限の範囲にとどめ、また、不測の事態が起こったとき失望が最小限で食い止めら
れるようにと、常に心の準備だけはしていた。
それでも努の肩肘張らない優しさに包まれると、ついつい鎧の紐を緩め、ひたひたと押し寄せる甘美な僥倖に身を委ねる自分の弱さを情けなく思うことがあった。
それは沙織の少女時代から引き継がれてきたもので、これからもずっと持ち続けて欲しいと努が願っているものの一つだった。
沙織は沙織で、努の言動一つひとつからあふれ出る愛情が分かるだけに、ときに不安に襲われることがあった。
「もし努と直樹に何かあったら……」そう考えるだけで背筋に冷たいものが走るのだった。
だから現在自分が享受してる幸せにどっかりと胡座をかくようなことだけはしないようにしていた。
いかなる喜びも常に最小限の範囲にとどめ、また、不測の事態が起こったとき失望が最小限で食い止めら
れるようにと、常に心の準備だけはしていた。
それでも努の肩肘張らない優しさに包まれると、ついつい鎧の紐を緩め、ひたひたと押し寄せる甘美な僥倖に身を委ねる自分の弱さを情けなく思うことがあった。
そんなとき沙織は湯舟山まで坂道を一息に駆け上り、本堂の千手千眼観音に手を合わせて自分の心の弱さを懺悔し、そして必要以上に自分を叱咤するのであった。
傍目には奇異とも取れる沙織のこうした行動は、決して沙織の生い立ちと無関係ではない。
沙織は感情が豊かすぎて、かえって自分を傷付けることが多かった。
それを恐れるあまり、極力人との付き合いを避けてきた。
特に異性に対してはそうで、努以外の男性に心を開いたことがなかった。
色白の瓜実顔に収まったきりっとした眉、輪郭のはっきりした目鼻立ちに恵まれて美人と言えた。
口元はいつも引き締められ、意志の強さが自ずとにじみ出ていた。
中学生になると、沙織の美しさは痩身が醸し出すか弱さと、そこはかとなく漂う清潔感が相まって、一気に花開いた。
沙織に思いを寄せる男のクラスメートもかなりいた。
沙織は感情が豊かすぎて、かえって自分を傷付けることが多かった。
それを恐れるあまり、極力人との付き合いを避けてきた。
特に異性に対してはそうで、努以外の男性に心を開いたことがなかった。
色白の瓜実顔に収まったきりっとした眉、輪郭のはっきりした目鼻立ちに恵まれて美人と言えた。
口元はいつも引き締められ、意志の強さが自ずとにじみ出ていた。
中学生になると、沙織の美しさは痩身が醸し出すか弱さと、そこはかとなく漂う清潔感が相まって、一気に花開いた。
沙織に思いを寄せる男のクラスメートもかなりいた。
それでも沙織は垂直に立ち続けた。
感情の振り子は、ただ一点を指したまま右にも左にも揺れなかった。
極端な言い方をすれば、頑なまでに一点を見据えていたのである。
そうさせたのは、一つの言葉だった。
一人寂しく膝を抱えて夜空の星を眺めながら涙したとき、勇気をくれたのはこの言葉だった。
言葉はやがて思い出となった。
言葉はやがて沙織の守り神となった。
言葉はやがて沙織の魂の一部になった。
その言葉が沙織を育ててきた。
沙織はその言葉が発せられたときの思い出を、誰にも言わず胸の奥にひしと抱きしめ、育んできた。
感情の振り子は、ただ一点を指したまま右にも左にも揺れなかった。
極端な言い方をすれば、頑なまでに一点を見据えていたのである。
そうさせたのは、一つの言葉だった。
一人寂しく膝を抱えて夜空の星を眺めながら涙したとき、勇気をくれたのはこの言葉だった。
言葉はやがて思い出となった。
言葉はやがて沙織の守り神となった。
言葉はやがて沙織の魂の一部になった。
その言葉が沙織を育ててきた。
沙織はその言葉が発せられたときの思い出を、誰にも言わず胸の奥にひしと抱きしめ、育んできた。
人にはそれぞれ思い出がある。
種類も千差万別だ。
忘れたいもの。
ときどき思い出して懐かしむもの。
そっと心の引き出しの奥にしまって、大事に温めておきたいもの。
種類も千差万別だ。
忘れたいもの。
ときどき思い出して懐かしむもの。
そっと心の引き出しの奥にしまって、大事に温めておきたいもの。
悲劇の主人公を装うことで他人の同情を買う生き方は、生きるという行為そのものがただでさえ無為に思えることがあるのに、それをやっぱり無為だったと肯定するようなものだ。
生きるという行為によって紡ぎ出される思い出だって同じである。
どう生きるかによって有為になったり無為になったりする。
思い出は多い方がいい。
それもいい思い出が。
誰もがそう思う。
しかし、沙織は違った。
思い出は少なくてもよかった。
なぜなら、感傷に両脇を支えられた思い出はいくらあっても、いったん忘却という魔物の歯牙にかかるとたちまちにして色褪せ、しぼんで、やがてはその存在さえ顧みられなくなるからだ。
沙織は努との思い出を大事にしたかった。
二人が紡いできた思い出は、紡ぐ糸一本一本に質量があり、絵柄に互いの思いが織り込まれていたからである。
通常の思い出が時間の経過と共に薄れていくのに対して、二人の思い出は時計の針を逆回転させるかのように、その色彩と輝きをより鮮やかなものにしていった。
二人が紡いできた思い出は、紡ぐ糸一本一本に質量があり、絵柄に互いの思いが織り込まれていたからである。
通常の思い出が時間の経過と共に薄れていくのに対して、二人の思い出は時計の針を逆回転させるかのように、その色彩と輝きをより鮮やかなものにしていった。
小豆島恋叙情第第15話 虫送り 前編
はじめに
小説「小豆島恋叙情」の「連載」も、いよいよ15話。 当初は、15話で「完結」予定でした。 しかし、みなさんからのコメントをいただいて、新たに書き足したのが本編。 多門寺の住職への取材を敢行し、「最大の長編」となりました。(^_-) 前・中・後編の3回に分けてお届けします。 おつきあいいただければ幸いです。
小豆島恋叙情第15話 虫送り 鮠沢 満 作 |
小豆郡土庄町肥土山、小豆島霊場第四十六番、多聞寺。
本尊に薬師如来、前庭に築山があり、築山の地下には不動明王が奉られている。
正面入り口に梵鐘があり、これは農村歌舞伎が行われる離宮八幡宮から献上されたもので、
町指定文化財の一つ。
ここ多聞寺は、半夏生に当たる七月二日、
「五穀豊穣」「害虫駆除」「厄災消除」「如意円満」を
祈願する「虫送り」の行事が行われる寺として知られている。
太陽が西に大きく重心を傾けた頃、多聞寺本堂では住職が虫除けと豊作のための祈祷を始めた。
太陽から火を取った灯明が、次第にオレンジ色の輪を広げ、その輪郭を濃くしていった。
大般若経を転読する住職の全身が熱を帯び、打ち震え、あたかも仏が憑依したような不思議な感慨に襲われる。
両手にひしと握られた大般若経。
これをパラパラめくる音が本堂にこだまし、読経の声が一層大きくなると、
西日に色付き始めた山合の地は分厚い陶器に包含されたような静寂に包まれた。
住職は本尊の御前に供えてある燈明から火を分け、朱塗りの手燭に移した。
それから旧毘沙門堂にある「虫塚」で読経し虫の供養した後、
離宮八幡に移り、境内前にある「たいまつ」に火を灯した。
「火入れ式」である。
子供たちが嬉々とした表情で「火手」と呼ばれるたいまつをかざしながら火に近づいていく。
中には今年初めて虫送りに参加するため、恐る恐る火に歩み寄る子供もいた。
直樹もその一人だった。
火はたちまちにして子供たちのかざした火手に乗り移った。
最初小さかった炎がやがて意志を持った生き物のようにめらめらと燃え盛った。
山の稜線越しに仰ぎ見る空は、夕暮れの寂寥で狭まりつつあった。
盆地状の山里が息をひそめ横たわっていた。
そこに流し込まれた夕焼けの赤と、燃え盛るたいまつの炎の赤が舐め合い、よじり合わさって、新たな赤が生まれた。
パチパチと炎のはぜる乾いた音が、谷間の集落、こんもりと陰影となって盛り上がった木立の群れに散った。
土と草の匂いを吸い取った柔らかな風が木々を揺らし、葉裏に隠れた梅雨の湿っぽい鬱陶しさをも払い落としていった。
炎はいよいよ大きくなり、それに奮い立てられた子供たちの歓声も自然と大きくなった。
直樹がやや及び腰で、丸々と膨れ上がった龍の胴体のような炎と格闘していた。
「あの子大丈夫かしら」
沙織が心配そうに我が子を見守っている。
「平気さ。お前なんか今の直樹よりもっと小さい頃から、火を振り回して遊んでいたじゃないか」
努がいかにも冗談ぽく沙織に言った。
「またそれを言う。恥ずかしいんだから」
沙織はそこで言葉を切り、もう一度直樹の方に母性に満ちた視線を送った。
炎にゆらめく直樹の顔が、この頃とみに努に似てきたと思った。
子供たちが火の輪の中にいる。
努も沙織もそれに加わった。
日はすでに山の向こうに落ち、薄闇が里山の斜面を歩み下りようとしていた。
子供たちが元気な声を張り上げながら、畦道を練り歩き始めた。
揺らす火が、薄闇を裂いてゆるやかな軌跡を描く。
その幽玄とした炎の軌跡が結び合う。
その結び目は、この上もなく尊いものが生まれた証であるように思えた。
「直樹もすっかり慣れたようね」
「アヒルの血を引いてるからね」
「カバ雄君の血はないの」
「残念だが、火の扱いは君の方が上だ」
「そんなこと言うと、また火傷するわよ」
「神様がもう一つ幸せをくれるんだったら、甘んじて受けてもやぶさかでないね」
「あなたって欲張りね。私は今のままで十分」
「あやしいね」
「本当よ。直樹、それに……」
「それにどうした」
「あなたはいつもそうやって私にばかり言わせようとするんだから。
それって男らしくないわ。
その点に関しては、あなたは子供のときのままね」
なるほどそうかもしれない。
沙織とまっすぐ向かい合って、ストレート勝負したことがなかった。
カーブも一つの愛情表現なんだが……。
そっぽをむいた沙織に
「また怒らせたかな」
と言うと、
「あっかんべー」
と返してきた。
「お母さんとお父さん何やっているの」
直樹がいつ来たのか、不思議そうに二人のやり取りを眺めていた。
「お父さんがお母さんをいじめるの。直樹、助けて」
「じゃあこの火貸してあげるよ。悪い虫は退治しなくっちゃ」
「直樹、それはダメだ。母さんは火を持つと……」
努が言い終わらないうちに、沙織はたいまつをまっすぐ努の前にかざしていた。
「うん、この感じ。懐かしいわ。
お父さん、あの日のこと思い出すわね」
さらにたいまつを努の方に近づけてくる。
目が完全に笑っている。
「お母さん、あの日のことってなあに?」
「虫退治のこと。お母さんね、
小さいとき意地悪な虫を退治したことがあるの。
今思い出してもそれはそれは大きな虫だったわ」
「大きいって、どれくらい大きかったの」
直樹は真剣だ。
「今の直樹を少し大きくしたぐらい」
「どんな顔してた」
「顔?」
沙織は返答に窮したが、いいことを思い付いたと言わんばかりに少し勿体ぶって言った。
「何て言ったらいいのかしら。
一言で言うと物凄くこわい顔。
そうね、お父さんが怒ったときの顔。
あれそっくり。
分かるでしょう」
「じゃあ怪獣みたいなやつだね」
「そう、怪獣」
沙織は、私を困らせるとこんなことになるのよ、分かったでしょう、
と目元に小皺さえ作って笑いかけてきた。
いかにもしてやったりという感じだ。
それに対し、努は両手を広げ心持ち肩をすくませた。
君には負けたよ。
それが努の返答だった。
「ねえ、その虫最後にどうなったの」
直樹はまだ食い下がってくる。
「最後にって?」
沙織は、実は今そばにいるのがその虫なの、と返答しようかどうか迷っていると、
「ほらほらみんなが待ってるぞ。直樹、早く行きなさい」
努が助け船を出してくれた。
友達が直樹に向かって、早く来い、と手を振っている。
直樹は沙織からたいまつをもらうと、仲間のところに走っていった。
いよいよ蓬莱橋までの約一キロ、炎が夜気を焦がしながら幻想的に揺らめく。
「やはり火を持たせたら、君の方が一枚も二枚も上だな」
「見直した?」
「ああ、惚れ直したよ」
〈稲虫来るな、実盛失せろ〉
子供たちの声が薄闇の帳を掻き破るように聞こえてきた。
虫送りの始まりは、1661年(江戸時代)頃と言われている。
当時は現在のように農薬がなかった。
そのため、各家では稲についた虫を退治するために、火の点いたたいまつ(火手)を持ち、
太鼓と鉦を鳴らしながら般若心経や火天呪などを唱え、田んぼの畦道をぐるぐると練り歩いた。
斎藤実盛は平安末期の武将で平家に味方し、源義仲との戦に於いて、
稲に足を取られつまずいたたために討たれてしまった。
そのため稲を恨み、稲虫になったという。
火手隊の出発は、現在は肥土山離宮八幡宮となっているが、
昔は中山→肥土山→黒岩→上庄→北山、そして最後に瀬戸内海へと日をずらせながら虫を送った。
もともと連帯の強い地域で、この虫送りの儀式も村が共同で行っていたものである。
虫送りの日は田植えを終えた慰労の日で、「足洗の日」とも言われ、
どの家でもたらいうどんを食べる風習がある。
尚、火手に点ける火は多聞寺本堂の燈明から移すが、この燈明の火は太陽の光から取る。
(以上は多聞寺住職より)
本尊に薬師如来、前庭に築山があり、築山の地下には不動明王が奉られている。
正面入り口に梵鐘があり、これは農村歌舞伎が行われる離宮八幡宮から献上されたもので、
町指定文化財の一つ。
ここ多聞寺は、半夏生に当たる七月二日、
「五穀豊穣」「害虫駆除」「厄災消除」「如意円満」を
祈願する「虫送り」の行事が行われる寺として知られている。
太陽が西に大きく重心を傾けた頃、多聞寺本堂では住職が虫除けと豊作のための祈祷を始めた。
太陽から火を取った灯明が、次第にオレンジ色の輪を広げ、その輪郭を濃くしていった。
大般若経を転読する住職の全身が熱を帯び、打ち震え、あたかも仏が憑依したような不思議な感慨に襲われる。
両手にひしと握られた大般若経。
これをパラパラめくる音が本堂にこだまし、読経の声が一層大きくなると、
西日に色付き始めた山合の地は分厚い陶器に包含されたような静寂に包まれた。
住職は本尊の御前に供えてある燈明から火を分け、朱塗りの手燭に移した。
それから旧毘沙門堂にある「虫塚」で読経し虫の供養した後、
離宮八幡に移り、境内前にある「たいまつ」に火を灯した。
「火入れ式」である。
子供たちが嬉々とした表情で「火手」と呼ばれるたいまつをかざしながら火に近づいていく。
中には今年初めて虫送りに参加するため、恐る恐る火に歩み寄る子供もいた。
直樹もその一人だった。
火はたちまちにして子供たちのかざした火手に乗り移った。
最初小さかった炎がやがて意志を持った生き物のようにめらめらと燃え盛った。
山の稜線越しに仰ぎ見る空は、夕暮れの寂寥で狭まりつつあった。
盆地状の山里が息をひそめ横たわっていた。
そこに流し込まれた夕焼けの赤と、燃え盛るたいまつの炎の赤が舐め合い、よじり合わさって、新たな赤が生まれた。
パチパチと炎のはぜる乾いた音が、谷間の集落、こんもりと陰影となって盛り上がった木立の群れに散った。
土と草の匂いを吸い取った柔らかな風が木々を揺らし、葉裏に隠れた梅雨の湿っぽい鬱陶しさをも払い落としていった。
炎はいよいよ大きくなり、それに奮い立てられた子供たちの歓声も自然と大きくなった。
直樹がやや及び腰で、丸々と膨れ上がった龍の胴体のような炎と格闘していた。
「あの子大丈夫かしら」
沙織が心配そうに我が子を見守っている。
「平気さ。お前なんか今の直樹よりもっと小さい頃から、火を振り回して遊んでいたじゃないか」
努がいかにも冗談ぽく沙織に言った。
「またそれを言う。恥ずかしいんだから」
沙織はそこで言葉を切り、もう一度直樹の方に母性に満ちた視線を送った。
炎にゆらめく直樹の顔が、この頃とみに努に似てきたと思った。
子供たちが火の輪の中にいる。
努も沙織もそれに加わった。
日はすでに山の向こうに落ち、薄闇が里山の斜面を歩み下りようとしていた。
子供たちが元気な声を張り上げながら、畦道を練り歩き始めた。
揺らす火が、薄闇を裂いてゆるやかな軌跡を描く。
その幽玄とした炎の軌跡が結び合う。
その結び目は、この上もなく尊いものが生まれた証であるように思えた。
「直樹もすっかり慣れたようね」
「アヒルの血を引いてるからね」
「カバ雄君の血はないの」
「残念だが、火の扱いは君の方が上だ」
「そんなこと言うと、また火傷するわよ」
「神様がもう一つ幸せをくれるんだったら、甘んじて受けてもやぶさかでないね」
「あなたって欲張りね。私は今のままで十分」
「あやしいね」
「本当よ。直樹、それに……」
「それにどうした」
「あなたはいつもそうやって私にばかり言わせようとするんだから。
それって男らしくないわ。
その点に関しては、あなたは子供のときのままね」
なるほどそうかもしれない。
沙織とまっすぐ向かい合って、ストレート勝負したことがなかった。
カーブも一つの愛情表現なんだが……。
そっぽをむいた沙織に
「また怒らせたかな」
と言うと、
「あっかんべー」
と返してきた。
「お母さんとお父さん何やっているの」
直樹がいつ来たのか、不思議そうに二人のやり取りを眺めていた。
「お父さんがお母さんをいじめるの。直樹、助けて」
「じゃあこの火貸してあげるよ。悪い虫は退治しなくっちゃ」
「直樹、それはダメだ。母さんは火を持つと……」
努が言い終わらないうちに、沙織はたいまつをまっすぐ努の前にかざしていた。
「うん、この感じ。懐かしいわ。
お父さん、あの日のこと思い出すわね」
さらにたいまつを努の方に近づけてくる。
目が完全に笑っている。
「お母さん、あの日のことってなあに?」
「虫退治のこと。お母さんね、
小さいとき意地悪な虫を退治したことがあるの。
今思い出してもそれはそれは大きな虫だったわ」
「大きいって、どれくらい大きかったの」
直樹は真剣だ。
「今の直樹を少し大きくしたぐらい」
「どんな顔してた」
「顔?」
沙織は返答に窮したが、いいことを思い付いたと言わんばかりに少し勿体ぶって言った。
「何て言ったらいいのかしら。
一言で言うと物凄くこわい顔。
そうね、お父さんが怒ったときの顔。
あれそっくり。
分かるでしょう」
「じゃあ怪獣みたいなやつだね」
「そう、怪獣」
沙織は、私を困らせるとこんなことになるのよ、分かったでしょう、
と目元に小皺さえ作って笑いかけてきた。
いかにもしてやったりという感じだ。
それに対し、努は両手を広げ心持ち肩をすくませた。
君には負けたよ。
それが努の返答だった。
「ねえ、その虫最後にどうなったの」
直樹はまだ食い下がってくる。
「最後にって?」
沙織は、実は今そばにいるのがその虫なの、と返答しようかどうか迷っていると、
「ほらほらみんなが待ってるぞ。直樹、早く行きなさい」
努が助け船を出してくれた。
友達が直樹に向かって、早く来い、と手を振っている。
直樹は沙織からたいまつをもらうと、仲間のところに走っていった。
いよいよ蓬莱橋までの約一キロ、炎が夜気を焦がしながら幻想的に揺らめく。
「やはり火を持たせたら、君の方が一枚も二枚も上だな」
「見直した?」
「ああ、惚れ直したよ」
〈稲虫来るな、実盛失せろ〉
子供たちの声が薄闇の帳を掻き破るように聞こえてきた。
虫送りの始まりは、1661年(江戸時代)頃と言われている。
当時は現在のように農薬がなかった。
そのため、各家では稲についた虫を退治するために、火の点いたたいまつ(火手)を持ち、
太鼓と鉦を鳴らしながら般若心経や火天呪などを唱え、田んぼの畦道をぐるぐると練り歩いた。
斎藤実盛は平安末期の武将で平家に味方し、源義仲との戦に於いて、
稲に足を取られつまずいたたために討たれてしまった。
そのため稲を恨み、稲虫になったという。
火手隊の出発は、現在は肥土山離宮八幡宮となっているが、
昔は中山→肥土山→黒岩→上庄→北山、そして最後に瀬戸内海へと日をずらせながら虫を送った。
もともと連帯の強い地域で、この虫送りの儀式も村が共同で行っていたものである。
虫送りの日は田植えを終えた慰労の日で、「足洗の日」とも言われ、
どの家でもたらいうどんを食べる風習がある。
尚、火手に点ける火は多聞寺本堂の燈明から移すが、この燈明の火は太陽の光から取る。
(以上は多聞寺住職より)
小豆島・地蔵崎灯台を行くタンカー
小豆島恋叙情 第14話 老船
はじめに
小説「小豆島恋叙情」の「連載」も、いよいよ14話。 今回も前回に続いてショートショートでお送りします。 みなさんからのコメントをいただいて、続編をさらに書き足すために、 「大阪城残石」のことを取材してきたわ」と作者が申しております。 作者のやる気も出てきて、さらに続編が期待できそうな気配です。 それでは連載第14回をお届けします。
小豆島恋叙情第14話 老船 鮠沢 満 作 |
港の端っこの、それも漂流してきたゴミが集まる汚い隅っこに、
一隻の漁船がロープにつながれていた。
ペンキは剥げ落ち、木製の船体は痛みがひどく、ところどころが腐りかけている。
あと二日もすれば、業者が来て解体することになっていた。
船の名前は隆祥丸。
その船首に花束が添えられていた。
「今日もだめか。糞っ!」
修が腹立たしそうに糸を巻き上げた。
「あんた、明日があるわよ」
咲恵が修を励ます。
「昨日も同じことを言った。もうこれで一週間だ」
「焦らなくていいじゃないの」
「魚が捕れなきゃ、銭にならねえ」
「お金にならなくてもいいよ」
「えっ?」
修は咲恵を見た。
「お金にならなくても、二人が食べていければそれでいいじゃないの」
「でもそのうち子供ができる」
「大丈夫。私たちにはこの隆祥丸があるわ。
まだ作って二週間にしかならないのよ。
そのうち海に慣れて、きっと魚を捕らしてくれるわよ。
ねえ隆祥丸」
咲恵はそう言って、優しく船の腹を撫でた。
「それに……」
「それにどうした、咲恵」
「あんたがいつも元気で、この海を照らす太陽のように笑ってくれたらそれでいいの」
修は心の中で唸った。
〈咲恵。お前ってヤツは……〉
と同時に、俺は幸せ者だ、と心底思った。
それから修と咲恵には四人の子供が生まれ、どの子も立派に育った。
そう、隆祥丸がある。
焦らなくていいじゃないの。
咲恵の言ったとおりだった。
隆祥丸は老い、そして朽ちた。
しかし修と咲恵の絆を太くし、四人の子供を支えた。
花束はそのお礼の印だった。
二日後に老船が消える。
一隻の漁船がロープにつながれていた。
ペンキは剥げ落ち、木製の船体は痛みがひどく、ところどころが腐りかけている。
あと二日もすれば、業者が来て解体することになっていた。
船の名前は隆祥丸。
その船首に花束が添えられていた。
「今日もだめか。糞っ!」
修が腹立たしそうに糸を巻き上げた。
「あんた、明日があるわよ」
咲恵が修を励ます。
「昨日も同じことを言った。もうこれで一週間だ」
「焦らなくていいじゃないの」
「魚が捕れなきゃ、銭にならねえ」
「お金にならなくてもいいよ」
「えっ?」
修は咲恵を見た。
「お金にならなくても、二人が食べていければそれでいいじゃないの」
「でもそのうち子供ができる」
「大丈夫。私たちにはこの隆祥丸があるわ。
まだ作って二週間にしかならないのよ。
そのうち海に慣れて、きっと魚を捕らしてくれるわよ。
ねえ隆祥丸」
咲恵はそう言って、優しく船の腹を撫でた。
「それに……」
「それにどうした、咲恵」
「あんたがいつも元気で、この海を照らす太陽のように笑ってくれたらそれでいいの」
修は心の中で唸った。
〈咲恵。お前ってヤツは……〉
と同時に、俺は幸せ者だ、と心底思った。
それから修と咲恵には四人の子供が生まれ、どの子も立派に育った。
そう、隆祥丸がある。
焦らなくていいじゃないの。
咲恵の言ったとおりだった。
隆祥丸は老い、そして朽ちた。
しかし修と咲恵の絆を太くし、四人の子供を支えた。
花束はそのお礼の印だった。
二日後に老船が消える。
小豆島恋叙情 第13話 波と巻き貝
はじめに
島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」 「連載」もいよいよフィナーレに近づいてきました。 お読みいただいて「ますます小豆島が好きになったと思っていただければなにより幸い」 と作者も申しております。 第15話までの予定でしたが、みなさんからのコメントをいただいて、中山の千枚田を舞 台にもう一編、書き上げたようです。 それでは連載第13回をお届けします。
小豆島恋叙情 第13話 波と巻き貝 鮠沢 満 作
私の耳は貝の殻
海の響きを懐かしむ
ジョン・コクトー
「あんたに背中撫でられているとき、
背中が溶けてなくなるくらい気持ちよかった」
巻き貝が昔を懐かしむように言った。
「俺はお前さんの背中の波模様が気に入っていた。
あんたの背中の上をすべるとき、
自分の躯がゆるやかに螺旋を描いて造形されていく、
あの未来へと切り込む感覚が好きだった」
寄せる波が波打ち際から言葉を返した。
「あたしゃもう背中の波模様もなくなってしまった。
それにあんたの声も随分と遠くから聞こえる」
入り江にはめ込まれた海岸線を、
真っ白な砂浜が天女の羽衣のように優美に飾り立てている。
無数の貝が波の囁きに耳をすませ、
過ぎし日の思い出を枕に眠る。
巻き貝は波打ち際から何十メートルも離れた砂山に、
殻になって埋もれていた。
背中が溶けてなくなるくらい気持ちよかった」
巻き貝が昔を懐かしむように言った。
「俺はお前さんの背中の波模様が気に入っていた。
あんたの背中の上をすべるとき、
自分の躯がゆるやかに螺旋を描いて造形されていく、
あの未来へと切り込む感覚が好きだった」
寄せる波が波打ち際から言葉を返した。
「あたしゃもう背中の波模様もなくなってしまった。
それにあんたの声も随分と遠くから聞こえる」
入り江にはめ込まれた海岸線を、
真っ白な砂浜が天女の羽衣のように優美に飾り立てている。
無数の貝が波の囁きに耳をすませ、
過ぎし日の思い出を枕に眠る。
巻き貝は波打ち際から何十メートルも離れた砂山に、
殻になって埋もれていた。
小豆島・西の瀧よりさらに上に
小説「小豆島恋叙情12話」の舞台、西の瀧の本堂です。
修験道の行場らしい雰囲気を残しています。
階段の横にこんな矢印を見つけました。
「行場道」と読めます。
「おもしろそう!いけ!いけ!」という私の好奇心に素直に従います。
馬目樫(うばめがし)の林の中に小道が続きます。
かつては、この木も備長炭の原料として、管理されていました。
今は、人の手を離れて島の「自然林」のようです。
30分で大麻山(たいま)頂上。行場らしいところはありません。(*_*)
なんか肩すかしです。
でも眼下の景色は最高! 池田湾方面です。
西には土庄方面が見えます。
川のような「どぶち海峡」で土庄の町は、区切られています。
地理上は、向こう側は「前島」という島になります。
小豆島・三都半島の「しし垣」
小豆島の三都半島の林道を原付バイクでドライブ中
こんな看板を発見 しし垣とあります・
さっそく「寄り道」してみました。(*^_^*)
三角点の小高いピークから下に「垣」が伸びています。
どこまで続くのか、たどってみましょう。
高さ1㍍30㌢程度の壁が、ウバメガシワの森沿いに続きます
石垣ではなく、版築で土を固めて作っているようです。
その跡が筋のように見えます。
イノシシやシカの被害を防ぐために、江戸時代後半に全島で作られたようです。
250年以上の年月の中で、風雨にさらされてきました。
穴蜂の住みかにも最適のようで、巣穴が多くあけられいます(-_-
さらに、内海湾の方向に伸びています。
ちょうど、草壁発高松行きのブルーラインが内海湾を出て行きます。
むこうにかすむのは、四国の山々
その上には、積乱雲の「子供」が見えました。
夏の気配を感じる小豆島・三都半島からでした。(^_^)/~
小豆島恋叙情第12話 西の瀧 後編
二人は黙って石の階段を登った。
由貴はさっきまでのはしゃぎようとは打って変わって、沈黙の殻に身を包んでしまった。
秀樹が気に障ることを言ったわけではない。
心に引っ掛かるものがそうさせるのだろう。
西の瀧。小豆島霊場第四十二番札所。
海抜四百二十七メートルの大麻山の嶮崖に大伽藍を構える。
慈眼院瀧水寺とも呼ばれ、東の洞雲山に対して「西の瀧」と呼称されている。
寺は下界から見上げると、そそり立つ垂直の岩盤にしがみ付くように建立されているため、
天空の楼閣を想起させる。
かつて村に棲む龍神が村人を襲い、多大の被害を及ぼしていた。
それを見た弘法大師が、密教の秘術を用いて龍神を岩窟に封じ込めてしまった。
自由を奪われた龍神は己の所行を悔い、懺悔の涙を流した。
現在も岩窟に和泉が湧いているが、それが龍水と考えられ、龍水寺の起こりとなった。
由貴は厄除けの本堂で賽銭箱に小銭を投げ込むと、何かに取り憑かれたように祈った。
あまりの真剣さに、見ている秀樹の背筋が寒くなったほどだ。
秀樹は少し後じさった。
由貴の様子が一変したのは、石段を登り始めたときだった。
秀樹を寄せ付けない空気が由貴の周囲に生まれた。
固く、切ないほど鋭
く尖った空気に、秀樹は呼吸が苦しくなってしまった。
由貴が若い異性というそれだけの理由だけではなかった。
まさか自殺しに来たんじゃないだろうな。
一瞬、秀樹に不安がよぎった。
秀樹は黙ったまま横目で由貴を観察した。
由貴の後ろ姿は、秀樹の不安を助長するかのように、
つい手を差し伸べたくなるほど弱々しいものだった。
若い身空でわざわざ小豆島霊場を回る。
それも遍路姿で。
やはり何か理由があるのだろう。
それにしても由貴の白装束の遍路姿が妙に似合っている。
秀樹はまずそのことに驚かされた。
と同時に何かが引っ掛かった。
手摺りから落ちそうになるくらい身を乗り出してはしゃいでいた由貴。
きっとあれが本当の由貴に違いない。
掛け値なしに元気で屈託がない由貴。
秀樹と会ったばかりだ。
お互い打ち解けるほど会話もしていない。
それなのに平気で秀樹のバイクの後部座席に飛び乗った。
そして安心して身を預けてきた。
傍若無人。
大胆不敵。
豪放磊落。
悪く言えば、脳天気。
だからそんな由貴と寺巡りがどうしても結びつかない。
それなのに遍路の衣装はあつらえたみたいにしっくりと由貴の身体の一部にさえなっているのだ。
秀樹は高校三年生。
つい先日十八歳になったばかりだ。
年齢は由貴とたいして変わらないはずなのに、由貴は随分と大人びて見える。
都会育ちのせいだろう。
言葉も歯切れがよく、知性を感じさせる。
田舎育ちの秀樹は、恐らく由貴の目には銚子渓の猿くらいにしか映ってないのに違いなかった。
それとも学校をサボってバイクを乗り回している単なるアホな高校生か。
まあいずれにしても評価は低いはずだ。
由貴が念仏を唱えながら一心不乱に祈っている。
その隣で何もしないで木偶の坊みたいに突っ立っている秀樹。
十一面観世音菩薩がじっとこっちを見ている。
これにはさすがに秀樹も居心地の悪さを感じ、由貴と同じように黙って手を合わせるしかなかった。
「なんだ君もやっぱりお祈りするんだ」
由貴が笑っていた。
さっきの由貴に戻っている。
「こう見えても命だけは惜しいから」
「だったらあんな無茶な真似やめたら」
「飽きたらね」
「飽きる前に仏さんに召されるわよ」
「仏さんが俺みたいなクズを相手にするもんか」
秀樹の頬がいきなり鳴った。
由貴の平手が飛んだのだ。
秀樹は頬に残った痛さより、胸の奥に湧き起こった羞恥の痛さの方が大きかった。
これまでに男に殴られたことは何度もあったが、女に殴られたことは一度もなかった。
秀樹はあわてて取り繕う言葉を探したが、白んだ頭では言葉が見つかるはずもない。
由貴は羊のようにしぼんだ秀樹に追い打ちをかけるみたいに、
「自分のことをそんなふうに卑下する人間って最低よ。
こんな立派な躯と健康をもらってさ。
それにこの島のように美しくて優しい心持ってるじゃない。
それなのに意気地なしみたいに自分のことを言う」
由貴の目にロウソクの光がとまっていた。
が、それがすぐに崩れた。
秀樹はそれが涙だと分かった。
自分は由貴を傷つけた、と思った。
男として恥ずかしい、と思った。
秀樹は動けなかった。
由貴がそっと秀樹の手を引いた。
外に出ると太陽の光が眩しかった。
鳥が囀り、風が木々の間を流れた。
由貴の頬には涙の跡が残っていた。
由貴は秀樹の方に向くと、
「痛かった」
と訊いてきた。
このままずっと由貴がだんまりを通すんじゃないか、
秀樹は硬直した空気に正直言って耐えられなかったのだが、
由貴が先に言葉をかけてくれてほっとした。
「目から火が出た」
「ご免なさい。
そんなに強くするつもりじゃなかったのに」
由貴は秀樹の頬を手の平でさすった。
柔らかな手だった。
それに温かかった。
秀樹の躯の心棒が溶けそうになった。
そんな感覚を今までに経験したことがなかった。
秀樹はバイクで由貴を港まで送った。
由貴はフェリーで高松に向かうということだった。
待合室を出て、いよいよ由貴がフェリーに乗り込もうとしたとき、
「はいこれ」
と言って、秀樹の手に握らせたものがあった。
見ると、それはお守りだった。
「これは……」
「さっきお寺で買ったの。
あなたが無茶しないようにと。
それと……」
「それと……」
「ちゃんと学校に行って、勉強するようにと」
秀樹は由貴の顔を見た。
息を飲むほど美しい顔をしていた。
「私ね。未婚の母だったの」
「未婚の?」
「でも赤ちゃん、死んじゃったの」
「死んだ?」
「死産だったの。産みたかったわ」
由貴はぽつり言った。
「だからあなたには懸命に生きてもらいたいの。
健康な躯と心を仏様から頂いたんだから」
由貴を乗せたフェリーは出航していった。
デッキから由貴が手を振った。
秀樹も手を振った。
初めは胸の前で恥ずかしそうに小さく振っていたが、フェリーが遠ざかるにつれて、
秀樹はなりふり構わず頭の上で両手を大きく振っていた。
「由貴さ~ん。ありがと~う。
俺、頑張るよ。
約束する」
由貴は、うん、と頷いて、さらに大きく手を振ってくれた。
秀樹はフェリーが小さな点になるまで見送っていた。
たった三時間ばかりの出会いだった。
恋と呼ぶにはあまりにも短すぎたし、当然のことながら由貴の心になにがしかのさざ波を立てるほど秀樹は人間的にも成熟していなかった。
冬の暖かな日に、ちょっと気まぐれに咲いたタンポポみたいに、
由貴の心の片隅をちらっとくすぐった程度だろう。
いや、それもなかったかもしれない。
それでもいいや。
秀樹は由貴にもらったお守りを見つめ、それから由貴に平手打ちを食らった頬をそっと手の平で押さえた。
「由貴さん。俺、頑張ってみるよ」
由貴はさっきまでのはしゃぎようとは打って変わって、沈黙の殻に身を包んでしまった。
秀樹が気に障ることを言ったわけではない。
心に引っ掛かるものがそうさせるのだろう。
西の瀧。小豆島霊場第四十二番札所。
海抜四百二十七メートルの大麻山の嶮崖に大伽藍を構える。
慈眼院瀧水寺とも呼ばれ、東の洞雲山に対して「西の瀧」と呼称されている。
寺は下界から見上げると、そそり立つ垂直の岩盤にしがみ付くように建立されているため、
天空の楼閣を想起させる。
かつて村に棲む龍神が村人を襲い、多大の被害を及ぼしていた。
それを見た弘法大師が、密教の秘術を用いて龍神を岩窟に封じ込めてしまった。
自由を奪われた龍神は己の所行を悔い、懺悔の涙を流した。
現在も岩窟に和泉が湧いているが、それが龍水と考えられ、龍水寺の起こりとなった。
由貴は厄除けの本堂で賽銭箱に小銭を投げ込むと、何かに取り憑かれたように祈った。
あまりの真剣さに、見ている秀樹の背筋が寒くなったほどだ。
秀樹は少し後じさった。
由貴の様子が一変したのは、石段を登り始めたときだった。
秀樹を寄せ付けない空気が由貴の周囲に生まれた。
固く、切ないほど鋭
く尖った空気に、秀樹は呼吸が苦しくなってしまった。
由貴が若い異性というそれだけの理由だけではなかった。
まさか自殺しに来たんじゃないだろうな。
一瞬、秀樹に不安がよぎった。
秀樹は黙ったまま横目で由貴を観察した。
由貴の後ろ姿は、秀樹の不安を助長するかのように、
つい手を差し伸べたくなるほど弱々しいものだった。
若い身空でわざわざ小豆島霊場を回る。
それも遍路姿で。
やはり何か理由があるのだろう。
それにしても由貴の白装束の遍路姿が妙に似合っている。
秀樹はまずそのことに驚かされた。
と同時に何かが引っ掛かった。
手摺りから落ちそうになるくらい身を乗り出してはしゃいでいた由貴。
きっとあれが本当の由貴に違いない。
掛け値なしに元気で屈託がない由貴。
秀樹と会ったばかりだ。
お互い打ち解けるほど会話もしていない。
それなのに平気で秀樹のバイクの後部座席に飛び乗った。
そして安心して身を預けてきた。
傍若無人。
大胆不敵。
豪放磊落。
悪く言えば、脳天気。
だからそんな由貴と寺巡りがどうしても結びつかない。
それなのに遍路の衣装はあつらえたみたいにしっくりと由貴の身体の一部にさえなっているのだ。
秀樹は高校三年生。
つい先日十八歳になったばかりだ。
年齢は由貴とたいして変わらないはずなのに、由貴は随分と大人びて見える。
都会育ちのせいだろう。
言葉も歯切れがよく、知性を感じさせる。
田舎育ちの秀樹は、恐らく由貴の目には銚子渓の猿くらいにしか映ってないのに違いなかった。
それとも学校をサボってバイクを乗り回している単なるアホな高校生か。
まあいずれにしても評価は低いはずだ。
由貴が念仏を唱えながら一心不乱に祈っている。
その隣で何もしないで木偶の坊みたいに突っ立っている秀樹。
十一面観世音菩薩がじっとこっちを見ている。
これにはさすがに秀樹も居心地の悪さを感じ、由貴と同じように黙って手を合わせるしかなかった。
「なんだ君もやっぱりお祈りするんだ」
由貴が笑っていた。
さっきの由貴に戻っている。
「こう見えても命だけは惜しいから」
「だったらあんな無茶な真似やめたら」
「飽きたらね」
「飽きる前に仏さんに召されるわよ」
「仏さんが俺みたいなクズを相手にするもんか」
秀樹の頬がいきなり鳴った。
由貴の平手が飛んだのだ。
秀樹は頬に残った痛さより、胸の奥に湧き起こった羞恥の痛さの方が大きかった。
これまでに男に殴られたことは何度もあったが、女に殴られたことは一度もなかった。
秀樹はあわてて取り繕う言葉を探したが、白んだ頭では言葉が見つかるはずもない。
由貴は羊のようにしぼんだ秀樹に追い打ちをかけるみたいに、
「自分のことをそんなふうに卑下する人間って最低よ。
こんな立派な躯と健康をもらってさ。
それにこの島のように美しくて優しい心持ってるじゃない。
それなのに意気地なしみたいに自分のことを言う」
由貴の目にロウソクの光がとまっていた。
が、それがすぐに崩れた。
秀樹はそれが涙だと分かった。
自分は由貴を傷つけた、と思った。
男として恥ずかしい、と思った。
秀樹は動けなかった。
由貴がそっと秀樹の手を引いた。
外に出ると太陽の光が眩しかった。
鳥が囀り、風が木々の間を流れた。
由貴の頬には涙の跡が残っていた。
由貴は秀樹の方に向くと、
「痛かった」
と訊いてきた。
このままずっと由貴がだんまりを通すんじゃないか、
秀樹は硬直した空気に正直言って耐えられなかったのだが、
由貴が先に言葉をかけてくれてほっとした。
「目から火が出た」
「ご免なさい。
そんなに強くするつもりじゃなかったのに」
由貴は秀樹の頬を手の平でさすった。
柔らかな手だった。
それに温かかった。
秀樹の躯の心棒が溶けそうになった。
そんな感覚を今までに経験したことがなかった。
秀樹はバイクで由貴を港まで送った。
由貴はフェリーで高松に向かうということだった。
待合室を出て、いよいよ由貴がフェリーに乗り込もうとしたとき、
「はいこれ」
と言って、秀樹の手に握らせたものがあった。
見ると、それはお守りだった。
「これは……」
「さっきお寺で買ったの。
あなたが無茶しないようにと。
それと……」
「それと……」
「ちゃんと学校に行って、勉強するようにと」
秀樹は由貴の顔を見た。
息を飲むほど美しい顔をしていた。
「私ね。未婚の母だったの」
「未婚の?」
「でも赤ちゃん、死んじゃったの」
「死んだ?」
「死産だったの。産みたかったわ」
由貴はぽつり言った。
「だからあなたには懸命に生きてもらいたいの。
健康な躯と心を仏様から頂いたんだから」
由貴を乗せたフェリーは出航していった。
デッキから由貴が手を振った。
秀樹も手を振った。
初めは胸の前で恥ずかしそうに小さく振っていたが、フェリーが遠ざかるにつれて、
秀樹はなりふり構わず頭の上で両手を大きく振っていた。
「由貴さ~ん。ありがと~う。
俺、頑張るよ。
約束する」
由貴は、うん、と頷いて、さらに大きく手を振ってくれた。
秀樹はフェリーが小さな点になるまで見送っていた。
たった三時間ばかりの出会いだった。
恋と呼ぶにはあまりにも短すぎたし、当然のことながら由貴の心になにがしかのさざ波を立てるほど秀樹は人間的にも成熟していなかった。
冬の暖かな日に、ちょっと気まぐれに咲いたタンポポみたいに、
由貴の心の片隅をちらっとくすぐった程度だろう。
いや、それもなかったかもしれない。
それでもいいや。
秀樹は由貴にもらったお守りを見つめ、それから由貴に平手打ちを食らった頬をそっと手の平で押さえた。
「由貴さん。俺、頑張ってみるよ」
小豆島恋叙情第12話 西の瀧 前編
はじめに
島を舞台にくりなす人間模様を縦軸に、恋模様を横軸に紡がれた小説「小豆島恋叙情」 いろいろな人間の思いが織りなされてきましたが、いよいよ12話。 高校生の登場です。残りは3話。
小豆島恋叙情第12話 西の瀧 前編 鮠沢 満 作
シートを通して伝わってくるエンジン音がアドレナリンを全身に押し出す。
秀樹はバイクのスピードを落とそうとしない。急なカーブでもブレーキを最小限に抑えて、
ガードレールぎりぎりのところでやりすごす。
そのスリルが何とも言えなかった。
バイクは無断アルバイトして稼いだ金で友達の兄貴から五万円で買った。
その日も学校をさぼった。
反りの合わない担任の顔を見るのもいやだったし、それに勉強も好きではなかった。
ミカン畑を抜け、いよいよ九十九折りの山道にさしかかった。
カーブが目白押しだ。
これからがいよいよ腕の見せ所。
秀樹はもう何百回となくその道を走っていた。
野良犬とか野生の鹿が突然現れることを除けば、目をつむっていたって走れるくらい熟知していた。
佛谷山を越えた辺りからやや勾配がきつくなってくる。
秀樹はグリップに力を込めてエンジンの回転数を上げた。
大きくなったエンジン音が路面に吸い付き、そこに映るバイクと秀樹の影を揺らす。
秀樹という一個の人間はスピードの代弁者となり、もはや個体ではなく空気を貫通する流体となる。
視界が狭まり、そのことによって危険の概念が振り落とされ、羊のように臆病な秀樹がオオカミに変身する。
青い分別が秀樹の捨て鉢とも思える無謀さに油を注ぎ、手が付けられないほどの獰猛さを誘引する。
そして気持ちの弱さという秀樹の性格的瑕瑾を、その獰猛さで塗りつぶそうとするもう一人の秀樹がそこに生まれる。
虚弱から脱出する自分。
たとえそれが一時的な逃避であっても、勇猛果敢に前を攻める自分は、たとえもう一人の自分であってもやはり自分だった。
秀樹はバイクの数メートル先に危険が待ち受けていたとしても、それを見事にかいくぐる快感に身を浸すことで、剥がれそうになる生への執着をどうにかつなぎ留めておくことができた。
山の切り出し斜面に覆い被さった樹木が、秀樹の肩口辺りから一続きの壁となって後方に流れていく。
ときどき突き出た小枝が肩とか顔面をはたくこともあったが、それでも秀樹はひるむことなく流体であり続けた。
いよいよ目的のカーブだ。
あそこをいかに鮮やに回るか。
それもできるだけ小さなコーナリングで。
そのためにはプロ級のハンドルさばきと、絶妙な身体の重心移動が鍵になる。
ここ最近満足したコーナリングをしたことがなかった。
久し振りに一発決めたかった。
秀樹は身体を左に大きく倒した。
それに合わせて車体も大きく左に傾いた。
さあ勝負だ。
秀樹はバイクと一体になり、風を切った。
それに呼応したように全身が風の通り道になり、ふんわり軽くなった。
頭の中が真空になった。
]樹の厭なものすべてがどんどん道端に捨てられていく。
規則だらけの学校のこと、
愛人のところに入り浸って家に帰ってこない父親のこと、
振られた彼女のこと、バンド仲間と飲酒して
警察に追われたこと、拾った財布から万円札を抜き取ってゲームセンターで遣ったこと、
事故ったダチ公を見舞ったとき病院の植え込みに小便したこと。
そんな自分の身に起こったすべてのことが、最後のカーブで見事
に削ぎ落とされていった。
いい調子で曲がった。
しかしカーブを曲がったとき、思わぬものが目に飛び込んできた。
道端に人がしゃがみ込んでいたのだ。
秀樹は咄嗟にブレーキをかけた。
前輪がぶれあやうく横転しそうになったが、持ち前の運動神経の良さでどうにかバランスを保った。
何でこんなところにいやがるんだ。それもカーブを曲がった直後だ。
「糞ったれ! 危ないじゃないか」
秀樹はそう怒鳴ってそのまま走り去った。
どうせ小豆島霊場を回っている遍路だろう。
慣れない坂道で疲れたのに違いない。
今どきてくてく歩くなんて古くさいんだよ。
そんなしんどい思いして何になる。
しかし秀樹の脳裏にさっき一瞬見た映像がフラッシュバックされた。
疲れて休んでいたにしては様子がおかしかった。
腰を降ろして休んでいたというより、うずくまっていた。
それに歳恰好は分からなかったが、その様子からして女のようだった。
秀樹は引き返した。
やはり女だった。
秀樹はバイクを降り、女の膝元にしゃがんだ。
驚いたことに、顔を覗き込むと女は若かった。どう見ても二十歳そこそこだ。
女はふくらはぎを押さえ、苦しげな表情で歯を食いしばっている。
「どうかしましたか」
秀樹はやや遠慮がちに訊いた。さっき毒づいたことが嘘のような口調だ。
「足が……右足が……」
女はそれだけ言うと、またしても苦痛に顔を歪めた。
女はふくらはぎにこむら返しを起こしていた。
「じっとして」
秀樹は女の足を真っ直ぐ引き伸ばし、それから踵を垂直に立てると、ぐいとスニーカーを膝の方へと押した。
すると不思議なことに、ふくらはぎの痙攣が嘘のように治まった。
女も秀樹の離れ業に驚きを隠せないでいる。
秀樹は柔道をやっていた。練習中によくこむら返しを起こす。
直すのはお手の物だった。
「ありがとう」
女はようやく言葉を発した。
由貴は秀樹の背中にしっかりつかまっていた。
急勾配だからしっかりつかまっているようにと秀樹に言われたからだ。
それにしても坂道は険しかった。
それでもバイクは急斜面をどんどん登っていく。
くの字になったカーブを曲がるとき、由貴は振り落とされそうになった。
由貴は秀樹の筋肉質の背中に頬を押しつけ、必死になってしがみ付いていた。
駐車場に着いたとき、由貴は半ば放心状態だった。
「怖かった?」
「ええ。でも心配なんかしてなかったわ。運転が上手だということ、さっき見たから」
「毒づいて悪かった」
「あんなところにいた私の方が悪いのよ。怒鳴って当たり前。うわー」
突然由貴が走り出した。
秀樹は何事かと呆気にとられた。
「きれい」
由貴は防護用の手摺から落ちそうなほど身を乗り出して、下界を見下ろしていた。
池田湾が真下に広がっている。左には池田の町が、まるで箱庭みたいに肩を寄せ合いながら行儀良く盆地に収まっていた。
秀樹の家の赤い屋根もくっきり見える。
池田港から高松行きのフェリーが出発したばかりだ。
港の赤灯台を通り過ぎるところで、いつものように汽笛を二回鳴らした。
汽笛の音波が山の斜面を押し上げるように伝わってきた。
視線を水平に戻すと、屋島が濃紺の輪郭に染められて横たわっていた。
秀樹はバイクのスピードを落とそうとしない。急なカーブでもブレーキを最小限に抑えて、
ガードレールぎりぎりのところでやりすごす。
そのスリルが何とも言えなかった。
バイクは無断アルバイトして稼いだ金で友達の兄貴から五万円で買った。
その日も学校をさぼった。
反りの合わない担任の顔を見るのもいやだったし、それに勉強も好きではなかった。
ミカン畑を抜け、いよいよ九十九折りの山道にさしかかった。
カーブが目白押しだ。
これからがいよいよ腕の見せ所。
秀樹はもう何百回となくその道を走っていた。
野良犬とか野生の鹿が突然現れることを除けば、目をつむっていたって走れるくらい熟知していた。
佛谷山を越えた辺りからやや勾配がきつくなってくる。
秀樹はグリップに力を込めてエンジンの回転数を上げた。
大きくなったエンジン音が路面に吸い付き、そこに映るバイクと秀樹の影を揺らす。
秀樹という一個の人間はスピードの代弁者となり、もはや個体ではなく空気を貫通する流体となる。
視界が狭まり、そのことによって危険の概念が振り落とされ、羊のように臆病な秀樹がオオカミに変身する。
青い分別が秀樹の捨て鉢とも思える無謀さに油を注ぎ、手が付けられないほどの獰猛さを誘引する。
そして気持ちの弱さという秀樹の性格的瑕瑾を、その獰猛さで塗りつぶそうとするもう一人の秀樹がそこに生まれる。
虚弱から脱出する自分。
たとえそれが一時的な逃避であっても、勇猛果敢に前を攻める自分は、たとえもう一人の自分であってもやはり自分だった。
秀樹はバイクの数メートル先に危険が待ち受けていたとしても、それを見事にかいくぐる快感に身を浸すことで、剥がれそうになる生への執着をどうにかつなぎ留めておくことができた。
山の切り出し斜面に覆い被さった樹木が、秀樹の肩口辺りから一続きの壁となって後方に流れていく。
ときどき突き出た小枝が肩とか顔面をはたくこともあったが、それでも秀樹はひるむことなく流体であり続けた。
いよいよ目的のカーブだ。
あそこをいかに鮮やに回るか。
それもできるだけ小さなコーナリングで。
そのためにはプロ級のハンドルさばきと、絶妙な身体の重心移動が鍵になる。
ここ最近満足したコーナリングをしたことがなかった。
久し振りに一発決めたかった。
秀樹は身体を左に大きく倒した。
それに合わせて車体も大きく左に傾いた。
さあ勝負だ。
秀樹はバイクと一体になり、風を切った。
それに呼応したように全身が風の通り道になり、ふんわり軽くなった。
頭の中が真空になった。
]樹の厭なものすべてがどんどん道端に捨てられていく。
規則だらけの学校のこと、
愛人のところに入り浸って家に帰ってこない父親のこと、
振られた彼女のこと、バンド仲間と飲酒して
警察に追われたこと、拾った財布から万円札を抜き取ってゲームセンターで遣ったこと、
事故ったダチ公を見舞ったとき病院の植え込みに小便したこと。
そんな自分の身に起こったすべてのことが、最後のカーブで見事
に削ぎ落とされていった。
いい調子で曲がった。
しかしカーブを曲がったとき、思わぬものが目に飛び込んできた。
道端に人がしゃがみ込んでいたのだ。
秀樹は咄嗟にブレーキをかけた。
前輪がぶれあやうく横転しそうになったが、持ち前の運動神経の良さでどうにかバランスを保った。
何でこんなところにいやがるんだ。それもカーブを曲がった直後だ。
「糞ったれ! 危ないじゃないか」
秀樹はそう怒鳴ってそのまま走り去った。
どうせ小豆島霊場を回っている遍路だろう。
慣れない坂道で疲れたのに違いない。
今どきてくてく歩くなんて古くさいんだよ。
そんなしんどい思いして何になる。
しかし秀樹の脳裏にさっき一瞬見た映像がフラッシュバックされた。
疲れて休んでいたにしては様子がおかしかった。
腰を降ろして休んでいたというより、うずくまっていた。
それに歳恰好は分からなかったが、その様子からして女のようだった。
秀樹は引き返した。
やはり女だった。
秀樹はバイクを降り、女の膝元にしゃがんだ。
驚いたことに、顔を覗き込むと女は若かった。どう見ても二十歳そこそこだ。
女はふくらはぎを押さえ、苦しげな表情で歯を食いしばっている。
「どうかしましたか」
秀樹はやや遠慮がちに訊いた。さっき毒づいたことが嘘のような口調だ。
「足が……右足が……」
女はそれだけ言うと、またしても苦痛に顔を歪めた。
女はふくらはぎにこむら返しを起こしていた。
「じっとして」
秀樹は女の足を真っ直ぐ引き伸ばし、それから踵を垂直に立てると、ぐいとスニーカーを膝の方へと押した。
すると不思議なことに、ふくらはぎの痙攣が嘘のように治まった。
女も秀樹の離れ業に驚きを隠せないでいる。
秀樹は柔道をやっていた。練習中によくこむら返しを起こす。
直すのはお手の物だった。
「ありがとう」
女はようやく言葉を発した。
由貴は秀樹の背中にしっかりつかまっていた。
急勾配だからしっかりつかまっているようにと秀樹に言われたからだ。
それにしても坂道は険しかった。
それでもバイクは急斜面をどんどん登っていく。
くの字になったカーブを曲がるとき、由貴は振り落とされそうになった。
由貴は秀樹の筋肉質の背中に頬を押しつけ、必死になってしがみ付いていた。
駐車場に着いたとき、由貴は半ば放心状態だった。
「怖かった?」
「ええ。でも心配なんかしてなかったわ。運転が上手だということ、さっき見たから」
「毒づいて悪かった」
「あんなところにいた私の方が悪いのよ。怒鳴って当たり前。うわー」
突然由貴が走り出した。
秀樹は何事かと呆気にとられた。
「きれい」
由貴は防護用の手摺から落ちそうなほど身を乗り出して、下界を見下ろしていた。
池田湾が真下に広がっている。左には池田の町が、まるで箱庭みたいに肩を寄せ合いながら行儀良く盆地に収まっていた。
秀樹の家の赤い屋根もくっきり見える。
池田港から高松行きのフェリーが出発したばかりだ。
港の赤灯台を通り過ぎるところで、いつものように汽笛を二回鳴らした。
汽笛の音波が山の斜面を押し上げるように伝わってきた。
視線を水平に戻すと、屋島が濃紺の輪郭に染められて横たわっていた。