2007年07月
「想 遠」(小豆島発 夢工房通信) 第1話 刹那の寺
エッセイ「想 遠」(小豆島発 夢工房通信) | |
第1話 刹那の寺 |
?H5>文:鮠沢 満 (^o^) 写真:「瀬戸の島から」
記念すべき第一話は、人生の先輩であり、私の芸術的素養の生みの親であり、 そして何より血のつながりが最も濃い人物を書こうと決めていた。 私の父である。 が、ちょっとしたハプニングで、親父の出番は後回しになってしまった。 その日は梅雨が明け切らないへんてこな天気で、 曇ったり、晴れたり、小雨が舞ったりと、めまぐるしく変わった。 しかし久し振りに過ごす小豆島での日曜日。 官舎に閉じこもっているのが勿体なく、出かけることにした。 そそくさと着替えを済ませると、小豆島霊場第七十六番奥の院三暁庵に出かけた。 ここは弘法大師が巡錫の途中、衣を洗われた際、 池の水があまりに少ないので井戸を掘られたとの言い伝えがある。 名前に庵が付されているとおり、ごく小さい大師堂と通夜堂があるだけの、 訪れる人とて滅多にない山寺である。 しかしなぜそんなところへ? もしかして紫陽花が残っているかもしれない。 そんな淡い期待を胸に出かけたのである。 車を降りると、期待を裏切らず、紫陽花が散り際の最後の花を梅雨の滴に濡らしていた。 遠くから見ると、うっすらけぶった霧に浮かんだ紫の雪洞のようであった。 境内には私以外誰もいなかった。 私一人のために最後の花を散らさず待っていてくれたことに、 何だかとても得をしたような気分になった。 その幸せな気分にひたったまま、第七十七番札所歓喜寺、第七十番長勝寺と回った。 長勝寺の掘り割りに架かる小さな石橋を渡るとすぐ正面が本堂だった。 賽銭を投げ、祈った。 本堂左に「子さずけ地蔵」があるというので、 そちらに向かうと、一人の女が手を合わせていた。 体つきと着ているものからしてまだ若い。 年の頃は三十前か。彼女を包む空気がピーンと張りつめていた。 邪魔するのも悪いと思い、私は踵を返すと、本堂右の大蘇鉄の方に歩いていった。 「あなたどちらから来たんね」 私は肝を潰した。 人影もないのに突然声がしたからである。 きょろきょろしていると、本堂から住職が顔を出した。 「土庄ですけど」 「ならあの子頼めんかい」 そう言うと、住職は先ほど「子さずけ地蔵」の前で一心に祈っていた女を指さした。 「瑠璃堂(第六十九番)まであの子乗せてやって。 わざわざ神奈川県から来たんだってよ」 住職は女に声をかけた。 女は遍路杖をつきながらのろのろやって来た。 足取りが重い。 それに遠目ではあるがどこか翳りがある。 「じゃあ行きますか」 私の誘いにもちょっと頷くだけで、言葉は返してこない。 顔もこちらに向けない。 どうも私を信用していないらしい。 それも尤もな話である。 いくら寺で会ったからといって、初対面の見知らぬ男に、 乗せてやってくれ、と頼む住職の方がおかしい。 寺参りする人間がみな善人とは限らない。 女は黙って後部座席に座っていた。 車に乗せてもらったのに、祐作に話しかけてこようともしない。 空気が固い。ひんやりとした気流のようなものさえ肌に貼り付いてくる。 果たして女は本当に後部座席にいるのだろうか? 祐作はバックミラーで女の様子を見ようとしたが、 それをしてはいけないと、第六感が告げていた。 冷気を吐き出すクーラーの唸り音と、女がときどきもらす長い息だけが、 現実の断片として車内に浮遊していた。 車は長浜の海岸線を走っていた。 鈍色の海がのっぺりと広がっている。 屈折した光の関係か、豊島の手前で蘇芳色に変わろうとしていた。 「あのー」 女が小鳥のような小さな声を出した。 祐作はバックミラーで初めて女の顔を真正面から見た。 化粧気はまったくなかった。透き通るような真っ白な肌をしている。 それがかえって翳りを濃くしていた。その翳りを差し引いても、目を見張る美人だった。 「何でしょうか」 対向車にしっかり視線を釘付けにしたまま訊いた。 「私、行く先々の寺で……」 女はそこで言葉を切った。 女の目は濡れているに違いなかった。 やはり第六感が当たった。 瑠璃堂でも女は全身が抜け落ちて影だけになるほど一心に祈っていた。 撫で肩の後ろ姿が悲愴でさえあった。 まだ若いのに遍路とは。 私は彼女が今晩泊まる大黒屋旅館へと車を走らせた。 途中、何故か三暁庵で見た紫陽花をふと思い出してしまった。 無意識に女と重ね合わせたのかもしれない。 雪洞のように浮かんでいた紫の房。 散り際の切なさを帯びた美しさがあった。 私は、はっと、胸を打たれた。 女はドアを閉めようとするとき、少しはにかんだように言った。 「私、行く先々の寺で心を置いてきたんです。 それでいいんだって。 今日は有り難うございました。 お陰で一つ温かい心を戴きました。 これを切り分けながらもう少し寺を回ってみます」 女はドアを閉めた。 私は車を出した。 三暁庵の紫陽花も数日内には散るだろう。
エッセイ「想 遠」 はじめに
エッセイ「想 遠」(小豆島発 夢工房通信) | |
はじめに |
文:鮠沢 満 (^o^) 写真:「瀬戸の島から」
自分の中に風が起こり、私という個体を形作る繊維にそって流れると、全身がふんわり軽くなって透き通ってしまう。気が付くと、まばゆい光の粒子に包まれた洗い立ての自分がいる。 生きている! これまでにこんな経験をしたことがありますか。 青い海と豊かな自然。 これを滋養にすくすく育った小豆島は実に美しい。 それもただの美しさではない。 涙が出るほど美しいのだ。 四季の移ろいをこれほど見事に映し出す場所も珍しい。 その真綿のように柔らかな懐に抱かれていると、身も心も洗われ、老いていく自分ではなく、逆に若返っていく自分を感じてしまう。再生神話という言葉がぴったりだ。 それにここに暮らす人たちがまたいい。 素朴で気取ったところがない。 素の人間というか、生身の人間をあっけらかんとしてさらけ出している。 だから温かい。人間同士の絆が生まれないはずがない。 そうだ! 残り少なくなったおいらの人生。 このまま拱手傍観して無為徒食の日々を繰り返すんじゃだめだ。 世界遺産にしてもいいようなこの島を、できるだけ多くの人に知ってもらうこと、そして私と同じ体験をしてもらうこと。それってもしかすると、意外に意義のあることじゃないの? 「うん、きっとそうだよ」 一人納得したところに偶然通りかかった「瀬戸の島から」氏。 彼が私の独り言に、「何が、うん、きっとそうなんだよ」ときた。 私はかくかくしかじかでござると簡潔に説明すると、彼の目が西表(いりおもて)山猫の如くらんらんと輝きだし、 「それなら俺にも一枚噛ませろ」 と唸り声に似た声を発したのだ。 彼もこよなく小豆島を愛する人物の一人なのである。 ごもっとも。 「一枚でも二枚でもいいよ。そのオオカミのような立派な歯でガブリとやればいい」 「じゃあ決まりだ」 かくして見事に手打ちは終わり、『小豆島恋叙情』の迷コンビの二度目の旗揚げと相成った。 やれば何かが残る。足音じゃなくって足跡が。 確証があるわけでもないのに、私たち二人は意気投合し、早くもめいめいの思惑にしたり顔。 う~ん、単細胞。まさにゾウリムシ人間。 でもこの際、結果は考えないことにした。 なにはともあれ、世の中を諦観の気持で眺めている中年男にとっては、とにかく一歩を踏み出すことが大切なんだ。もしかすると途中で私が、若しくは「瀬戸の島から」氏が、それとも双方が棒を折ってしまうかもしれない。 蹌踉として進まず、さまよい道に迷うかもしれない。 疲労困憊し道端にへたり込んで、長い長い休憩に入るかもしれない。 そうなったときには、この連載を読んでくださる皆様の力を貸して戴きたい。 なあにそんな大それた頼み事ではありませんのでご安心を。 ちょっと私たち二人の背中を押してくれさえすればいいのです。 崖っぷちに立った友達の背中を、冗談交じりに押すように。 何度かやったことあるでしょう。 ついでに、「おっさん、元気出せよ」と言って、冷えたオロナミンCでも差し入れしてくれると文句なし。 そうすれば、単純細胞のゾウリムシはまたやる気を起こして、よいしょ、と立ち上がりますから。 これはいわば私たち二人の挑戦なんです。五十路男のね。 ここでちょっと話が逸れますが、僕たちが少年、少女だった頃を思い出してみてください。 みんなきらきら輝いていたはずだ。 喩えて言えば、あの頃の僕たちはまさに畑からとってきたばかりのスイカだった。 まだ湿った土さえ付いていた。それを水洗いして、包丁で真っ二つにざっくり切る。 現れる真っ赤な果肉。そこからしたたり落ちる甘い汁。 あの頃の僕たちはみんなそれと同じだった。 瑞々しい感性に溢れていた。 歳を取るとつまらなく思えるどんなちっぽけなことにも、好奇の目を輝かせ、感嘆の声を上げ、 恐れながらもそれに手を伸し、かぶりつき、味わい、そして腹ぺこの胃の附に落としたのだ。 もう忘れましたか、こんな経験。 だったらもう一度取り戻してみませんか。 ちっぽけだったかもしれないけど、きらきら輝いていたあの頃の自分を。 人生は片道切符の一人旅。 どうあがいたって後戻りもやり直しもできない。 それに時刻表だってないに等しい。 それなら自分の流儀で、思う存分終着駅までの旅を楽しんでやろうじゃないか。 別段、急行列車で行く必要もないし、それに冷暖房完備の指定席でなくてもいいのだ。 コットンコットン鈍行列車に揺られながら、窓外に展開する風景の一コマ一コマをコレステロールで固まった感性の起爆剤とし、心の隅々まで晴れわたるいい旅ができるならもう最高。でしょう? そのためには? そうだ。後ろを振り返ることより先に想いを馳せることにしよう。 毎日を一期一会と思って生きることにしよう。 『想遠』というタイトルの所以はそこにある。 また、小豆島を離れた人たちだけでなく、まだこの地を訪れたことのない人たちにも、小豆島のことを脳裡に描いて戴き、遠くからでもいいから大切に想ってほしいという願いも込めたつもりである。 このエッセイの中に、突如として小説の断片らしきものが割り込んでくるが、奇をてらった新しい文章技法ではない。単なる筆者の気まぐれに過ぎない。 目障りなら飛ばし読みしていただいて結構。 エッセイの脈絡を犯すものでないことを、一言お断りしておく。 ついでにもう一つ。 『小豆島恋叙情』と重複する部分があるが、そこは狭い小豆島のこと、ご理解戴きたい。 * 〈案内します。午前零時発、夢の浮島こと小豆島ゆきエンジェル号が間もなく出発します。 ご利用のお客様は、零番線までお急ぎください。 なお、切符は「夢の窓口」にてお買い求めください。 お急ぎくださ~い。エンジェル号、間もなく出発で~す〉 「おい相棒、そろそろ出発だとよ」 「あいよ」 「切符持ってるな」 「ああ、片道切符でよけりゃな」 ピーポッポッポーピー 二人が乗り込んだのは所々に錆の浮いた老列車だった。 しかしいざ出発の段となると、汽笛を鳴らして気合いを入れるほどかくしゃくとしていた。 車体がズシンと震え、エンジン音が一層高くなった。 景気のいい汽笛が眠りの底にいた構内に響き渡ると、未来を描くことを忘れたつがいの鳩が、鉄骨の隙間で重い鉛の瞼を開いた。 「おいこんな時間になんだよ」 「夢の浮島に向かう夜行列車よ」 「夢拾い、か。人間のやることは理解に苦しむよ、まったく」 「もう夢なんてどこにもないのにね。馬鹿みたい」 夢拾いの乗客を乗せたエンジェル号は、無数の星が瞬く夜空に向かって出発していった。 「ヴォンヴォヤージ」 「瀬戸の島から」氏が言った。 「ボンボンおやーじ?」 と私。 「君も相当耳が遠くなったね」 「心配ご無用。小豆島で新しい耳拾ってくるから」 「貝のやつ? あれはいいよ。海の響きが聴けるからね。このごろはやりのiポッドよりよほどの優れもんさ」
はじめのおわりに
ということで、始まってしまいました。(-_-;)
小説を書き終えて
「貯めてきた物をはき出して、すっきりした。」
「もう当分、何も心には貯まらん。筆をもつことはないぞ」
と言っていた「鮠沢 満」氏。
ところが、にこにこしながら近づいてきて曰く
「エッセイみたいな軽いもんやったら書ける気がしてきたわ」から
「島のために書きたい」 に変わり
「できたぞ」(^_^;)
そんないきさつで、性懲りもなくスタート。
さてどうなりますことやら。
不安(ファン)一杯の門出です(^_^)/~
時々、覗いてやってください。
小説を書き終えて
「貯めてきた物をはき出して、すっきりした。」
「もう当分、何も心には貯まらん。筆をもつことはないぞ」
と言っていた「鮠沢 満」氏。
ところが、にこにこしながら近づいてきて曰く
「エッセイみたいな軽いもんやったら書ける気がしてきたわ」から
「島のために書きたい」 に変わり
「できたぞ」(^_^;)
そんないきさつで、性懲りもなくスタート。
さてどうなりますことやら。
不安(ファン)一杯の門出です(^_^)/~
時々、覗いてやってください。
瀬戸の島から |
小豆島 三都半島の集落から
徳島県剣山のアサギマダラ
小豆島恋叙情エピローグ 夢の浮島
はじめに
小説「小豆島恋叙情」の「連載」も、20話で最終回を迎えました。
「最後は、新たな始まり」の言葉通り、
第一話で引き裂かれた幸一と園子の新たな始まりの物語です。_(._.)_
「最後は、新たな始まり」の言葉通り、
第一話で引き裂かれた幸一と園子の新たな始まりの物語です。_(._.)_
小豆島恋叙情第20話 夢の浮島 | |
鮠沢 満 作 |
暁闇を押し破るようにレンブラント光線が落ちてきた。 「見てごらん。また新たな約束が生まれようとしている」 幸一が言った。 「でも何もないところから生まれるって不思議ね」 園子が返した。 「でもそうなることがあらかじめ約束されているんだよ、きっと」 「宇宙の理」 「小さな胎動が次第に大きくなって潮騒になる」 「そして二つの魂が出逢う」 園子は荘厳な光りのカーテンにうっとりとし、目を閉じた。 「そして愛が生まれる」 「愛は夢観音」 オリーブの枝が風にさやぐ。 「愛は夢風車」 「風と太陽に背を押されてくるくる回る」 青い空に鳥たちがカンツォーネを唄い、青い海に魚影が走る。二人はそれを思い描いた。 「でも……」 「でもどうした」 「いつかは別れが来るのね」 島影が暁光に蜃気楼のように浮かび上がる。 園子が目を開けた。 「そう、日が沈むように」 「だから鈴を鳴らし遍路道をゆくのね」 「天涯の寺をめざして」 「そして無に還る」 「そう。でも生きるということは、無の中に有を積み上げていく行為」 「仏様の掌に〈ありがとう〉を重ねることね」 「無は無であって無でない。だからその中にあっても夢を描くことができる」 「愛と慈悲を信じて」 「そう僕が君を信じてきたように」 島が砂州でつながろうとしている。 幸一は此方、園子は彼方。 「さあおいで」 幸一は待ちきれずに手を伸ばした。 園子が幸一の手を握る。 幸一は力強く園子の手を引いた。 園子は羽毛のようにふんわり宙を舞い、砂州を渡った。 「ずっと待っていたんだ」 「うん」 園子は、こっくり頷いた。 「園子」 「なあに」 幸一は園子の目を見て、ゆっくりと、しかし確かな自信をもってはっきりと言った。 「あ、い、し、て、る」 もしあなたがどこかに忘れ物をしたのであれば、 諦めないでもう一度探してみませんか。 どんな形の忘れ物だっていいのです。 ○、△、□、凸、凹。色だって構わない。 ○、●。 もう一度、その日に返って探してみましょう。 そう、夢の浮島こと、ここ小豆島で。 なぜって? なぜなら、ここは天使が舞い降りる島。 〈了〉
徳島県 重要文化財「田中家」から その2
徳島県石井町 重要文化財 藍の豪商田中家の石垣
徳島県吉野川の下流の藍の豪商の家屋を見学してきました。
11棟の家屋が国の指定を受けていますが、民家として今も人が住んでいます。
日曜日だけの開放ですが、知らずに平日に訪ねた私を案内していただきました。<(_ _)>
「田中家の一つの特徴は、土台にあります」と奥さんはおっしゃります。
吉野川の氾濫に備えて、北側には高い石垣が積まれています。
庭石として珍重される「青石」が惜しげもなく使われた上に蔵が建っています。
200年以上たっていますが、隙間がありません。
経費のかかる「青石」ばかりでなく、こちらは鳴門の砂岩が使われています。
「この蔵には、作られた藍を保管してました」と奥さん。
私には、まるで要塞のようにも思えました。
さきほどの外から見た蔵の入り口です。
全面に「青石」が敷き詰められているのが分かります。(*^_^*)
「石垣を敷き詰め、土台作りに20年。その上に11棟の建物が全て建つのに30年。」
「宝暦年間にひとりの頭領が、一生をかけて建てっていったようです。」
「住みながらこの建物を守る方法を選んでいます」と奥さん。
小豆島中山の千枚田の今
小豆島霊場 栂尾山より その2
小豆島恋叙情第19話 迷い恋 後編
小豆島恋叙情第19話
迷い恋 後編 鮠沢 満 作 |
琴美の家の前に立っていた。
表札には琴美の名前はなかった。
なくて当然だった。
玄関の呼び鈴を押そうか押しまいか逡巡していた。
「お帰りなさい」
背後から声がした。
誠は吃驚して振り返った。
琴美がいた。笑っている。
二十年前と変わらない笑顔。
こぼれる白い歯。
背骨がジャムのように溶けそうになった。
「帰りが遅くなってご免」
最大のジョークを言ったつもりだった。
「随分遅かったわね。
どこをほっつき歩いてたの」
「ここのところ残業続きでね」
「じゃあ許してあげる」
「歩こうか」
「ええ」
長い時間の空白にも拘わらず、琴美のそばにいると素直になれた。
手が触れた。琴美の肌の温もりが伝ってきた。
江洞窟でのことが思い出された。
王子東港の防波堤の先端に座っていた。
誠も琴美も敢えて何も言わなかった。
ただ黙ってお互いの心の隙間を、
無言というこれ以上ない濃密な意思伝達手段で埋めようとしていた。
最初ぎこちなく、それからゆっくりと自然に。
皇踏山の新緑にたるんだ夕暮れ時の皮膜が被さろうとしていた。
外海から漁船のエンジン音が波打って聞こえてきた。
「知っていたのか」
「新聞で見たの」
漁船が一隻港に帰ってきた。
ボラが港の中で跳ねた。
皇踏山の陰影が波紋に崩れて揺れた。
「左遷さ」
「左遷?」
「前の学校でいろいろあってね。誤解しないでくれ」
「誤解は一度で十分」
琴美の言葉が多少皮肉っぽく聞こえた。
「生徒を辞めさせようとしたんだ。
校長は反対だった。
真正面から対立した」
「それって厭ね。そんなことで転勤させるなんて」
「生徒の親に脅されたんだ。
結局、俺が貧乏籤引いた。
同じことの繰り返しさ。
二十年前と」
「これって貧乏籤なの」
「えっ?」
蟹の爪のような形で港を囲う防波堤の先に、赤と白の小さな灯台があった。
その灯台に灯が入った。
光りは細く、港を出たすぐ先で折れて水面に落ちた。
乾いた潮風が気持ちいい。
琴美が目を細めた。
優しい眼差しをしていた。
「私たちこうやって会えたんでしょう」
誠は琴美の顔を見つめた。
歳月は誠のために琴美から美しさを奪うのをためらっていたのか。
表情に翳りはあるものの、それでも琴美は美しかった。
「死ぬまで会えないと思ってた」
「俺は死んだ。というか、死んだように生きてきた」
「まるで放哉ね。先生、放哉好きだったもんね」
「不必要なものはすべて削り取って生きてきたんだ」
琴美は誠の言わんとすることが分かるような気がした。
*
誠は高松の学校に変わった。
だが、学校が変わったからといって、誠の精神的な傷が癒えたというわけではなかった。
それどころか自分の弱さに益々嫌気がさして、一時期自暴自棄な生活を送った。
負け犬。
世間に負けた。
自分が弱かった。
どんなことがあっても琴美を手放すべきではなかった。
そういった負の烙印が、いつもブリキの勲章みたいに首にぶらさがっていた。
そんな状況の中、誠を救ったのは他ならぬ放哉の生き方だった。
彼の生き方をすべて肯定する気持ちはなかったが、
それでも個人主義の充満した社会から離れ、
無一文の生活に人間本来の在り方を求めた生き方に、誠自身を重ねることはできた。
深い孤独感に個人主義を超えた人間としての素朴な感情を持ち続けた放哉。
不必要を限りなく削ぎ落とし生きる。
自己を厳しく律する。
これ以外に自己崩壊を防ぐ道はない、と誠は考えた。
それは琴美を責めるためではなく、
むしろ鋳型に入る前の瑞々しい琴美の将来を潰してしまった自分への戒めだった。
それと結果はどうであったにしろ、
琴美を忘れることはできないと誠は思った。
自分を戒めることは、誠にとってはとりもなおさず琴美を忘却の餌食にさせないための
唯一の手段に他ならなかったのだ。
「二十年前の落とし物というか忘れ物、取りに帰ってきたんでしょう。
この迷路の町へ」
「そう」
「それで見つかった?」
「ああ目の前にいる。
でも一つ訊きたい」
「分かってる。先生が訊きたいこと。
どうして一緒に島を出なかったのか、でしょう」
「結局は俺を好きではなかった。そうだろう」
誠は心にもないことを言ってしまった。
「帰るわ。母が病気なの。
それに主人が出張先から帰ってくるの……」
琴美は急に腹立たしそうに立ち上がった。
表情が険しい。
琴美は高校を卒業すると、地元の漁協組合に事務員として勤めるようになった。
しかし、心には大きな穴が空いたままだった。
十八歳の少女の若さとエネルギーを以てすれば、
その空洞は朝の目玉焼きを平らげるくらい簡単に埋められたはずだ。
十代の単なる気まぐれな恋。
掃いて捨てるくらいそこら辺りにごろごろしている陳腐な恋。
そう思えば……。
しかし琴美は違った。
その後、誠との破綻が元凶になったみたいに、次々と予期せぬ不幸が琴美を襲った。
父親が交通事故で他界し、それが引き金になったみたいに、
今度は母親が倒れ動けなくなってしまったのである。
そして上司の世話で定規でなぞったような結婚。
一見平穏な生活にも、琴美の思いは彷徨っていた。
余島の砂州が上げ潮に呑まれようとしていた。
引き合ったものが離れていく。
誠は歩き出そうとする琴美の手首をつかんだ。
琴美は手首をつかまれたことで、一瞬、ピクッと躯を引きつらせた。
「さっきも言ったが、俺はこの二十年間死んだように暮らしてきた。
余計なものを削ぎ落として生きないと、
自分がまた何かに希望を託してしまう。
そしたら必ず失望がやってくる。
それだったら最初から何もないと思って生きる方がいい。
そのために自分を律してきた」
「私を責めるために」
「違う」
「でも結果的にはそうでしょう。
もういい。済んだことよ。
帰る」
琴美は腕を振りほどいた。
涙が見えた。
「琴美」
誠は自分の我が儘を知った。
「俺はただ……もういいんだ……俺たちが出逢ったのも定め、
そして別々の道を歩むのも定め。
ずっと前から決められていたんじゃないか。
そう思えてきた」
「あのね」
琴美は思い直したように向き直った。
険しさが消えていた。
反対に海に溶けるような優しさがにじみ出ている。
琴美は真っ直ぐ誠を見つめてきた。
スイッチが押され、感情の砲弾が飛んできた。
誠はそれを真正面から受け止めた。
「たった一度でいいの。たとえ花火みたいでも、女として咲けば。それも命を賭けて」
琴美は左手をそっと持ち上げ、手首にかかったブラウスのボタンを外した。
それから袖をめくると、誠の目の前にかざした。
灯台の灯が琴美の白い顔と細い手首を浮かび上がらせた。
誠は見た。
手首に引かれた生々しいまでの傷跡。
「いつ?」
「先生が島を出てしばらくして」
誠はやっと迷路で忘れたものを取り戻すことができた、と思った。
「ありがとう」
誠の言葉に、うん、と頷き、さらに柔らかな表情をつくると、
「先生、ようやく帰ってきたのね。私、ずっと迷い子だったの」
と琴美が返した。
海からせり上がってくる茫漠とした夕闇。
世の中の突起とかざらつき、そういったものすべてを飲み込んでしまう優しさがあった。
さらに闇が深くなり、海が遠のいた。
空に星の瞬きさえ見え始めた。
奥行きを失った空間の中で、二つの影が一つになった。
目の錯覚だろうか。
いや違う。
真っ白なテニスウェアに身を包み、コートで躍動する琴美。
月夜に銀色の波の衣をまとい、人魚になって泳ぐ琴美。
迷路は異次元。
こんなことが起こってもおかしくはない。
果たされなかった邂逅、破れた夢の修復、語られなかった愛の言葉、等々。
それらが、路地裏の片隅で、菫の花のように、人知れず咲いている。
その言葉は何光年もかけて、遠い遠い夜空のまたその果てから落ちてくる。
まるでそのこと自体が久遠の始まりから定められていたように。
「人にはそれぞれ運命みたいなものが当初からあるのではないか。
岐路に立ったとき、勿論自分で決めて進むのだけれど、
それもそうなるように決まっていたのではないか。
だからすべてに意味がある。たとえどんな方向に進んだとしても意味がある」
表札には琴美の名前はなかった。
なくて当然だった。
玄関の呼び鈴を押そうか押しまいか逡巡していた。
「お帰りなさい」
背後から声がした。
誠は吃驚して振り返った。
琴美がいた。笑っている。
二十年前と変わらない笑顔。
こぼれる白い歯。
背骨がジャムのように溶けそうになった。
「帰りが遅くなってご免」
最大のジョークを言ったつもりだった。
「随分遅かったわね。
どこをほっつき歩いてたの」
「ここのところ残業続きでね」
「じゃあ許してあげる」
「歩こうか」
「ええ」
長い時間の空白にも拘わらず、琴美のそばにいると素直になれた。
手が触れた。琴美の肌の温もりが伝ってきた。
江洞窟でのことが思い出された。
王子東港の防波堤の先端に座っていた。
誠も琴美も敢えて何も言わなかった。
ただ黙ってお互いの心の隙間を、
無言というこれ以上ない濃密な意思伝達手段で埋めようとしていた。
最初ぎこちなく、それからゆっくりと自然に。
皇踏山の新緑にたるんだ夕暮れ時の皮膜が被さろうとしていた。
外海から漁船のエンジン音が波打って聞こえてきた。
「知っていたのか」
「新聞で見たの」
漁船が一隻港に帰ってきた。
ボラが港の中で跳ねた。
皇踏山の陰影が波紋に崩れて揺れた。
「左遷さ」
「左遷?」
「前の学校でいろいろあってね。誤解しないでくれ」
「誤解は一度で十分」
琴美の言葉が多少皮肉っぽく聞こえた。
「生徒を辞めさせようとしたんだ。
校長は反対だった。
真正面から対立した」
「それって厭ね。そんなことで転勤させるなんて」
「生徒の親に脅されたんだ。
結局、俺が貧乏籤引いた。
同じことの繰り返しさ。
二十年前と」
「これって貧乏籤なの」
「えっ?」
蟹の爪のような形で港を囲う防波堤の先に、赤と白の小さな灯台があった。
その灯台に灯が入った。
光りは細く、港を出たすぐ先で折れて水面に落ちた。
乾いた潮風が気持ちいい。
琴美が目を細めた。
優しい眼差しをしていた。
「私たちこうやって会えたんでしょう」
誠は琴美の顔を見つめた。
歳月は誠のために琴美から美しさを奪うのをためらっていたのか。
表情に翳りはあるものの、それでも琴美は美しかった。
「死ぬまで会えないと思ってた」
「俺は死んだ。というか、死んだように生きてきた」
「まるで放哉ね。先生、放哉好きだったもんね」
「不必要なものはすべて削り取って生きてきたんだ」
琴美は誠の言わんとすることが分かるような気がした。
*
誠は高松の学校に変わった。
だが、学校が変わったからといって、誠の精神的な傷が癒えたというわけではなかった。
それどころか自分の弱さに益々嫌気がさして、一時期自暴自棄な生活を送った。
負け犬。
世間に負けた。
自分が弱かった。
どんなことがあっても琴美を手放すべきではなかった。
そういった負の烙印が、いつもブリキの勲章みたいに首にぶらさがっていた。
そんな状況の中、誠を救ったのは他ならぬ放哉の生き方だった。
彼の生き方をすべて肯定する気持ちはなかったが、
それでも個人主義の充満した社会から離れ、
無一文の生活に人間本来の在り方を求めた生き方に、誠自身を重ねることはできた。
深い孤独感に個人主義を超えた人間としての素朴な感情を持ち続けた放哉。
不必要を限りなく削ぎ落とし生きる。
自己を厳しく律する。
これ以外に自己崩壊を防ぐ道はない、と誠は考えた。
それは琴美を責めるためではなく、
むしろ鋳型に入る前の瑞々しい琴美の将来を潰してしまった自分への戒めだった。
それと結果はどうであったにしろ、
琴美を忘れることはできないと誠は思った。
自分を戒めることは、誠にとってはとりもなおさず琴美を忘却の餌食にさせないための
唯一の手段に他ならなかったのだ。
「二十年前の落とし物というか忘れ物、取りに帰ってきたんでしょう。
この迷路の町へ」
「そう」
「それで見つかった?」
「ああ目の前にいる。
でも一つ訊きたい」
「分かってる。先生が訊きたいこと。
どうして一緒に島を出なかったのか、でしょう」
「結局は俺を好きではなかった。そうだろう」
誠は心にもないことを言ってしまった。
「帰るわ。母が病気なの。
それに主人が出張先から帰ってくるの……」
琴美は急に腹立たしそうに立ち上がった。
表情が険しい。
琴美は高校を卒業すると、地元の漁協組合に事務員として勤めるようになった。
しかし、心には大きな穴が空いたままだった。
十八歳の少女の若さとエネルギーを以てすれば、
その空洞は朝の目玉焼きを平らげるくらい簡単に埋められたはずだ。
十代の単なる気まぐれな恋。
掃いて捨てるくらいそこら辺りにごろごろしている陳腐な恋。
そう思えば……。
しかし琴美は違った。
その後、誠との破綻が元凶になったみたいに、次々と予期せぬ不幸が琴美を襲った。
父親が交通事故で他界し、それが引き金になったみたいに、
今度は母親が倒れ動けなくなってしまったのである。
そして上司の世話で定規でなぞったような結婚。
一見平穏な生活にも、琴美の思いは彷徨っていた。
余島の砂州が上げ潮に呑まれようとしていた。
引き合ったものが離れていく。
誠は歩き出そうとする琴美の手首をつかんだ。
琴美は手首をつかまれたことで、一瞬、ピクッと躯を引きつらせた。
「さっきも言ったが、俺はこの二十年間死んだように暮らしてきた。
余計なものを削ぎ落として生きないと、
自分がまた何かに希望を託してしまう。
そしたら必ず失望がやってくる。
それだったら最初から何もないと思って生きる方がいい。
そのために自分を律してきた」
「私を責めるために」
「違う」
「でも結果的にはそうでしょう。
もういい。済んだことよ。
帰る」
琴美は腕を振りほどいた。
涙が見えた。
「琴美」
誠は自分の我が儘を知った。
「俺はただ……もういいんだ……俺たちが出逢ったのも定め、
そして別々の道を歩むのも定め。
ずっと前から決められていたんじゃないか。
そう思えてきた」
「あのね」
琴美は思い直したように向き直った。
険しさが消えていた。
反対に海に溶けるような優しさがにじみ出ている。
琴美は真っ直ぐ誠を見つめてきた。
スイッチが押され、感情の砲弾が飛んできた。
誠はそれを真正面から受け止めた。
「たった一度でいいの。たとえ花火みたいでも、女として咲けば。それも命を賭けて」
琴美は左手をそっと持ち上げ、手首にかかったブラウスのボタンを外した。
それから袖をめくると、誠の目の前にかざした。
灯台の灯が琴美の白い顔と細い手首を浮かび上がらせた。
誠は見た。
手首に引かれた生々しいまでの傷跡。
「いつ?」
「先生が島を出てしばらくして」
誠はやっと迷路で忘れたものを取り戻すことができた、と思った。
「ありがとう」
誠の言葉に、うん、と頷き、さらに柔らかな表情をつくると、
「先生、ようやく帰ってきたのね。私、ずっと迷い子だったの」
と琴美が返した。
海からせり上がってくる茫漠とした夕闇。
世の中の突起とかざらつき、そういったものすべてを飲み込んでしまう優しさがあった。
さらに闇が深くなり、海が遠のいた。
空に星の瞬きさえ見え始めた。
奥行きを失った空間の中で、二つの影が一つになった。
目の錯覚だろうか。
いや違う。
真っ白なテニスウェアに身を包み、コートで躍動する琴美。
月夜に銀色の波の衣をまとい、人魚になって泳ぐ琴美。
迷路は異次元。
こんなことが起こってもおかしくはない。
果たされなかった邂逅、破れた夢の修復、語られなかった愛の言葉、等々。
それらが、路地裏の片隅で、菫の花のように、人知れず咲いている。
その言葉は何光年もかけて、遠い遠い夜空のまたその果てから落ちてくる。
まるでそのこと自体が久遠の始まりから定められていたように。
「人にはそれぞれ運命みたいなものが当初からあるのではないか。
岐路に立ったとき、勿論自分で決めて進むのだけれど、
それもそうなるように決まっていたのではないか。
だからすべてに意味がある。たとえどんな方向に進んだとしても意味がある」
追いかけて追いついた風の中
小豆島恋叙情第19話 迷い恋 中編
小豆島恋叙情第19話
迷い恋 中編 鮠沢 満 作 |
長く伸びた四肢がはち切れそうなほど躍動していた。 琴美の白い腕には筋肉の筋が盛り上がり、 眩しいばかりの夏の太陽が絡み付いた。 誠はそれを眩しそうに目を細めて見ていた。 しかし出る言葉は裏腹に厳しいものだった。 「もっと力強く、上から打ち下ろすようにしろ」 「はい」 はきはきした返事が返ってくる。 振り下ろされるラケット。 飛び散る汗。 その度、太陽が砕け、飛び散った。 琴美は苦手なサーブの特訓をしていた。 個人レッスンだった。 他の生徒は武道場の軒下でスポーツ飲料で喉をうるおして涼んでいた。 「さっき言っただろう。 もっと上からはたくんだ。 ちゃんと言われたことをしろっ!」 誠の檄が飛ぶ。 それに悪びれず応じる琴美。 他の生徒が誠のスパルタに目を丸くしている。 炎天下、三十分ほどぶっ続けの特訓だった。 さすがに琴美も疲れた。 木陰に倒れ込むと、ぐいぐいと水分を補給した。 喉が軽快に上下運動をした。 誠はそれがとても美しいと感じた。 生きているという実感があった。 生徒と共にいるという喜びがあった。 「ねえ先生、今度の日曜日、部活休みでしょう。 鹿島の海岸に泳ぎに行きませんか」 余裕を取り戻しての琴美の一言だった。 「えっ?」 誠は頭の芯が抜けるのを、初めて感覚として感じた。 どんな言葉を返したのか記憶にない。 きっと頷いたのだろう。 うん、と。 誠は故意に回り道して歩いた。 気持ちの整理はできていたはずなのに……。 果たして琴美はいるのだろうか。 どこかに嫁ぎ、この小豆島にいない確率の方が高いのだ。 琴美がいると思いこんでいる誠の方がよほどおかしい。 狭い駐車場で子供たちが石蹴りをしていた。 子犬が彼らの足下にまとわりついている。 杖をついた老人がそばを通り過ぎた。 誠に目もくれなかった。 ただの通りすがりの一人に過ぎないのだ。 よそ者。 放哉記念館の前に出た。 かつてここに南郷庵があった。 得度した尾崎放哉の終の棲家となったところである。 誠は当時から放哉の生き方に一種の憧れのようなものを抱いていて、 よくここに足を運んだものだった。 ==== 入れものがない両手で受ける === 記念館から琴美の家が見えた。 でも遠い。 尾崎放哉。 大正の一茶と呼ばれる。 明治十八年(一八八五)一月二十日、鳥取県邑美郡(現鳥取市)に生まれる。 本名秀雄。 鳥取中学、一高、東大を経て保険会社要職に就く。 大正十二年世を捨て京都一燈園に身を投じるものの、 後、寺を転々とし、自ら無一物の托鉢生活に入り、 大正十四年流浪の果て辿り着いたのが、ここ小豆島である。 自身自由律俳句を学んでいた住職宥玄和上のはからいで、 西光寺奥之院南郷庵を与えられ、終の棲家とした。 大正十四年八月から翌年四月七日までのことである。 その間、多くの秀句を残して孤高孤絶の生涯を閉じた。 最後は病死であった。 享年四十二歳。 辞世句は、 〈 春の山のうしろから烟が出だした 〉 である。
お粥煮えてくる音の鍋ふた
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
月夜の葦が折れとる
海が少し見える小さい窓一つもつ
淋しい寝る本がない
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
月夜の葦が折れとる
海が少し見える小さい窓一つもつ
淋しい寝る本がない
「泳ぐというから昼間かと思った」 「先生ってバカねえ。 昼間から泳ぎに行くなんて、それこそ二人の秘密を一般公開しているようなものじゃない」 琴美はTシャツとハーフパンツを無造作に脱ぎ捨てた。 水着姿になった琴美は、恥ずかし気もなくくるっと回って見せた。 「どうこの水着」 昼間コートで躍動していた琴美のしなやかな躯が目の前にあった。 琴美は月の光を全身に浴びていた。 すらっと伸びた四肢に月が冷ややかな光を投げかけ、 琴美に大理石のようなつややかさを与えていた。 「ねえ、早く泳ぎましょう」 誠の手を引っ張って海に導いた。 海面が夜光虫をまぶしたように輝いている。 その中を琴美はイルカのように泳いだ。 まるで人魚だ。 真っ直ぐに伸ばした手の先から、琴美の煌めきがこぼれ落ちた。 寄せ来る波は花芯を包むように優しい。 誠は必死になって自分を抑えようとしていた。 が、その努力もむなしく何かが大きな音を立てて弾け飛んだ。 その瞬間、恋に落ちた、と思った。 琴美とはそんな風に始まった。 風が流れるように、ごく自然に。 * 江洞窟(小豆島霊場第六十番)の中。 小さな宇宙の懐に抱かれているようだ。 静けさまで匂ってくる。 空気が針の先のように張り詰め、静寂を凝縮した氷みたいに冷ややかだ。 洞窟の奥には井戸があり、清水が湧いている。 多分そのせいだろう。 昔、船乗りがここに立ち寄り水を求めたと言われている。 すぐ外は海。波の音が聞こえてくる。 琴美の肌の匂いがする。 太陽の匂い。 静寂のるつぼ。 誠は琴美を引き寄せ、おとがいを上げた。 花びらのような小さな唇が薄く開かれた。 弁財天と不動明王が意識の中で遠ざかっていった。 * PTA役員の一人が校長に電話をしてきた。 それが発端だった。 「教師が高校生をたぶらかした。 不道徳極まりない。許せない」 開口一番そう言った。 そして事はPTA役員と校長だけでは済まなくなった。 狭い土地柄、いらぬ枝葉が付いた。 震源地はその役員。果ては教育委員会に投書までした。 そして実質的糾弾に進展した。 そもそもの原因は、誠がそのPTA役員の息子の喫煙を発見、 生徒指導に報告したことにあった。 結果、生徒は停学。そのことを根に持っていたのだ。 実につまらないことをする。 大義名分さえない。 大人として恥ずかしい。 しかし往々にしてそういう輩が多い。 そしてそういう輩が幅をきかせている。 誠は琴美を愛していた。 女として。そして一個の人間として。 教師も一個の人間。生徒を愛することだってある。 人を愛することは理屈ではない。 理性も眠る。 道理も引っ込む。 在るのは、相手を想う気持ちだけ。 相手を自分の一部としたい。 互いを分かち合いたい。 互いの中に内在したい。 その渇望が炎となって燃え上がる。 誠と琴美の純粋な思いは、曇った水晶体しか持たない人間には理解されなかった。 波紋はどんどん大きくなって、誠は一年で転勤を余儀なくされた。 * 西光寺の三重の塔から町を眺めていた。 そばに琴美がいた。 石段を登ってくるときから無言を通している。 言うと涙が堰を切って溢れ出すのだろう。 目が充血していた。 横顔は悲しみに打ちひしがれ、溌剌とした琴美の顔は微塵もなかった。 暮色が土庄の町を静かに包み込もうとしていた。 だが優しさはない。 痛いほどの棘を含んでいた。 吐き出す息さえ固かった。 海は黒ずんで、波の襞も見えない。 海の底では、漁師の網に怯えた魚が、片目を開けて眠ろうとしていた。 目の前の釣り鐘が、慟哭を抱えてぶら下がっている。 その重さに形状が崩れ、打てば音さえたわむに違いなかった。 カラスの群れが、ねぐらに向かって羽音を立てて飛び去った。 静寂を破る羽音は、すりガラスを爪で掻いたようなおぞましさを置き去りにしていった。 すべてに空しいという予感があった。 町に灯が灯り始めていた。 一つ、また一つ。 家族の団欒が花開く。 小さな幸せ。 しかし誠と琴美には、その小さな幸せさえなかった。 「仕方ないわよ」 琴美がやっと口を開いた。 「仕方ない? 何が仕方ないもんか」 誠は声を震わせた。 はぐれカラスが一羽、嗄れた声で一声啼いて墓地の方へ飛んでいった。 墓地が沼の底のように暗く沈んでいた。そこに何かが蠢いているような気がした。 「転勤……でしょう」 「単なる転勤じゃない。転勤させられるんだ」 琴美は俯いていた。何かを言いたそうだ。 「一緒に来ないか」 誠は本気だった。 「……」 「何とか言えよ」 琴美の肩を大きく揺すった。 ようやく琴美が口に含んでいた言葉を声にした。 「こういう形ではダメ。逃げるようで」 誠は追われる如く島を去った。 誠二十三歳、琴美十八歳だった。
小豆島霊場47番 栂尾山より
小豆島恋叙情第19話 迷い恋 前編
はじめに
土庄の曲がりくねった町並みが「迷路の街」としてデビュー。
作者は、その「迷路」を舞台にした話を書いてみたくなったようです。
短い期間で書き足されたものですが、「恋叙情」の最後を飾るにふさわしいお話のように思います。_(._.)_
作者は、その「迷路」を舞台にした話を書いてみたくなったようです。
短い期間で書き足されたものですが、「恋叙情」の最後を飾るにふさわしいお話のように思います。_(._.)_
小豆島恋叙情第19話
迷い恋 鮠沢 満 作 |
小豆島の玄関口である土庄町のほぼ中心部にそれはある。 もともとは海風から家を守るためと、 海賊の攻撃を避けるための防衛手段として考えられたものらしい。 一歩足を踏み入れると、そこはまさに異次元。 そもそも原点がどこで、X軸とY軸がどれかも定かでない。 路地は狭く、人ひとり通るのがやっと。 家並みは蜘蛛の巣状に広がり、無秩序な空間に無理矢理押し込んだに等しい。 しかし、この無秩序さと混沌の中に理路整然としたものが存在している。 その証拠になぜか心が落ち着くのだ。 ここに迷い込むと、ずっと昔に失った「青い自分」を取り戻すことができそうな気がする。 まるで初めて訪れる外国の小さな田舎町を想像させる。 城壁でぐるっと囲まれた中世の町。 もうとっくに忘れ去られた幻の町。 封印された空間の中で、毎日が寸分の狂いもなく過ぎてゆく。 退屈、倦怠、沈滞さえ日課の一つになっている。 しかしそこに生きるものすべてが、 その単純さを自明の理として身体と精神で完全なまでに咀嚼し、受け入れている。 改革も変革もない。 斬新さもない。 それでいて退廃を感じさせない。 なぜならそこに確かに息づいているものを感じることができるからだ。 果たされなかった邂逅、破れた夢の修復、語られなかった愛の言葉、 そういったものがこの迷路のどこかに息づいている。 日陰の迷路の片隅で。 誰しれず咲く菫のように。 確かにそこには何かがある。 「えっ? 小豆島……ですか」 誠は思わずそう叫んでいた。 「単身赴任で不便な思いをさせるかもしれないが、三年辛抱してくれ給え」 校長は実に申し訳ないといった顔をしていた。 それは表面だけの繕いで、本音のところまでは分からなかった。 もともと気弱な性格のくせして見栄を張りたがる。 生一本で竹を割ったような性格の誠とは反りが合わなかった。 校長は困ったときにいつもそうするように、俯いて両の指先をもじもじやっていた。 だから彼の言った言葉を額面どおりに受け取るわけにはいかなかった。 それより誠の脳裏をかすめたのは、これから赴任する学校のことではなく、迷路の町だった。 そこに一つの忘れ物をしてきた。 二十年前のことだ。 「気にしなくていいですよ。 人事というのはそういうもんでしょう。 お互い宮仕えの身ですからね。 それに随分ごたごたしましたからね。 当然でしょう」 誠は正直な気持ちを述べたまでのことだったが、 校長は素っ気ない言い方と最後の言葉を捨て台詞と見たらしい、眉根が少しつり上がった。 「私は何も厄介払いをしようとしているのではないよ。 誤解しないでくれ」 「いろいろお世話になりました。失礼します」 誠は慇懃無礼に思えるほど深々と頭を下げて校長室を出た。 迷いはなかった。 ついにその忘れ物を取りに行く日がきたというわけだ。 これも人生。避けては通れないと思っていた。 人にはそれぞれ運命みたいなものが当初からあるのではないか。 岐路に立ったとき、勿論自分で決めて進むのだけれど、 それもそうなるように決まっていたのではないか。 だからすべてに意味がある。 たとえどんな方向に進んだとしても意味がある、と。 誠は、ふとそんなことを思った。 何もかもがごちゃ混ぜになった迷路の町。 自分ではそこを抜け出していたと思いこんでいた。 が、実際は一歩たりともそこから出てはいなかったのだ。 二十年の間、道に迷った子羊よろしく同じところをぐるぐる回り続けていたに過ぎない。 時を忘れた未熟児。 栄養失調なのに化学肥料で身体だけ肥大化した大人。 だからもう一度そこに帰れ、そういうことらしい。 古びた町並みに三重の塔が手招きしていた。 「言っとくが、くれぐれも道に迷うんじゃないよ。 目印は分かっているな。 赤い屋根だ」 篠突くような雨が上がって、青空が顔を出した。 狭い路地に割って入った陽光が、心地よい陰影をこさえている。 木々の滴るような緑が路面に散っており、飼い猫が水溜まりに映った緑を舌先で舐めていた。 五月の日曜日。 遅い午後。 にわか雨が舞い戻ってくるとでも思っているのか、路地にはまだ人の姿はない。 お寺の少しくぐもったような鐘の響きが、 甍の上に昼寝を決め込んだ雨の滴をふるい落としにかかっていた。 雨の匂いをかすめ取ったやや冷ややかな風が、 壁づたいに小走りに駆け抜けると、陽炎のような水蒸気が舞い立った。 誠はやや動悸が高まっているのを意識せずにはおれなかった。 赴任早々行動に移すべきだったが、やはり忸怩たるものがあって、 ついつい今日まで延ばしてしまった。 憶病という名の背信。 償いは一秒でも早いに越したことはない。 コールタールがはげ落ちた板塀の家の角を曲がると、 小豆島霊場第五十八番西光寺の「四恩の門」と呼ばれる朱塗りの門が目に飛び込んできた。 仕舞屋を思わせる家の連なりのくすんだ色合いから、目が覚めるような鮮やかな朱への転換は、 自分が歩いているのが紛れもなく現実世界であることを示唆すると同時に、 すぐ目と鼻の先に「牙をむいたまま色褪せない過去」が 鎮座していることを意識させずにはおかなかった。 門をくぐり寺の中に入った。公孫樹が大枝を広げている。木陰が涼しそうだ。 背後にこれまた朱塗りの三重の塔が見える。 公孫樹の手前に「心洗」と彫られた手洗いがあった。 手を洗って、心も洗う。 誠にとっては少し身につまされる思いだった。 公孫樹は樹齢何百年という大木で、胴回りも太く、木肌がごつごつとしていて威厳を発していた。 その根元に句碑があった。 咳をしても一人 詠み手は、漂泊の詩人尾崎放哉。 横には放哉の墓参に訪れた種田山頭火の句も刻まれている。 誠は本堂に行き、千手観世音に手を合わせた。 それでも気持ちは落ち着かなかった。 むしろ上げ潮のようにどんどん高くなっていくばかりだった。 本堂右の石段を噛みしめるように登っていった。 あのときもこうして石段を登った。二人して。 息は乱れていたが、お互いせめてもの気持ちだけでも合わせようとしていた。 それが最後の思いやりに思えた。石段が尽きればすべてが尽きる。 そうならないことを何度祈ったことか。 三重の塔から眺める風景は当時のままだった。 古い家並みが肩を寄せ合いひしめき合っていた。 刻まれた時がそのまま古ぼけた波形になって甍に残っている。 煤けた思い出を枕に化石のように眠る町。 それでもかつてここに無垢で真っ直ぐな夢を馳せたことがあった。 真下に誠の勤める学校が見える。 テニスコートから部活動に励む生徒の元気な声が、甍の波に乗って伝わってきた。 胸の奥に小さな痛みが走った。 まだ気にしているのか? もう時効だよ。傷は完全にふさがったはずだが……。 どこからともなく声が聞こえてきた。 そしてある情景が浮かんだ。 降り注ぐ太陽。 真っ白なテニスウェア。 飛び散る汗。 真っ白な歯を見せて笑う少女。 すべてが清く、澄んでいたあの頃。 シミ一つなかった青春の日々。 翳りを創造する皺一つなかった情熱の時代。 新米教師で、教えるということに純粋に喜びと充実感を味わっていた。 憧憬を割るように、焦げたような潮の匂いが漂ってきた。 誠は海の方に目を転じた。 王子東港に繋がれた漁船の群れが見える。 波にもまれ漁船同士が擦れ合う音が聞こえてきそうだ。 カモメが青空に落書きするように群れ飛んでいる。 包丁の刃みたいに海に突き出した三都半島。弛緩した空気にブスリと突き刺さっている。 半島を舐める青い海。 赤と白に塗られた貨物船が、音もなく滑ってゆく。 あの日と同じだ。 胸の奥に翳りができた。 鉛のように重くて濃い翳り。 肺病患者の肺の中のようだ。 尾崎放哉の記念館がある辺りに視線を移した。 最後にそこを見たのには、それなりの理由があった。 見た目には二十年前と変わった様子はない。 あくまで表面上のことだが……。 実際には多くのことが変わった。 誠自身にしても、二十年という歳月を考えると、いろんなことがあった。 二十年という歳月は、いろんなことがあってしかるべき年月なのだ。 しかしその中に、敢えて目を背けてきた一つの記憶があった。 今考えるに、それはあの日以来、形を変えることもなければ色褪せることもなく、 じっと誠の中に癌みたいに巣くって居座ってきた。 いや、別の言い方をすれば、この迷路の町にかもしれない。 時間という万能薬は、果たして誠の傷付いた心を癒したことは事実であるが、 それでも記憶は葬り去られることをきらい、逆に誠にそのことを忘れさすまいとするかのように、 間断的にではあるが怒りを吹き上げては傷口を逆撫でし、 その疼きを刷り込んでは支配力を継続的なものにしようとしてきた。 黴臭い砂に半分以上埋もれかかった古い記憶を、今さらスコップで掘り起こしてどうなるという。 癒えたと思い込んできた傷。 それならそう思い続ける方が楽ではないか。 蒸し返すことは、決して罪滅ぼしにはなりはしない。 むしろまた傷を大きくするだけだ。 誠はじっと見入っていた。目に赤い屋根が映っていた。 急に瞼の裏が熱くなり、赤色が崩れ、にじんだ。 「琴美」 誠は久し振りにその名を口にした。 こ、と、み。 三文字が風に流れ、迷路に吸い込まれていった。
小豆島と小豊島を結ぶ木造船「豊栄丸」
小豆島恋叙情第18話 涙の海峡
はじめに
小説「小豆島恋叙情」、最初はこのお話が最後になるはずでした。 恋叙情を寄せ集めたモザイクの中で、最後に埋め込まれるピースとして作られていたのですが・・・ みなさんかのコメントや励ましの言葉をいただいた作者は、気になっていた「迷路の街」を舞台に短期間であと2つの物語を書き上げました。もうしばらくおつきあいいただければ幸いです_(._.)_
小豆島恋叙情第18話
涙の海峡 鮠沢 満 作 |
土渕海峡。 長さ二、五キロメートル。 幅九、九三メートル。 世界一狭い海峡。 男は海峡のこちら側から叫んだ。 「愛している。だから今そっちに行く」 女は海峡の向こう側から叫んだ。 「私も大好きよ。でも渡し船がないの」 男と女の間には、この狭いが深い海峡が横たわっている。 ときとして男も女もこの海峡をどうしても越えられないときがある。 そのとき男も女も人知れず涙を流す。 海峡はその涙を集め、瀬戸の内海へと運ぶ。 だから瀬戸の海は涙が溶けている分、たおやかで温かい。