| 第7話 廃船 |
文………鮠沢 満 写真……「瀬戸の島から」
五十路の半ばにさしかかると、いろんなものがこれまでとは違った色合いで見えてくる。 五十代と断るまでもなく、各年代層でそうなんだろうけど。 とにかく高校生だった頃とか大学生だった頃とは、コペルニクス的転換に近い。人間は年齢とともに経験を積んでいくんだから、そうなって当然でしょう。 そうならない方がどうかしてるんだ。 これを読んでいる人にそう言われそうなんだが、でも果たしてそうなんだろうか、 とやはりすんなり受け入れられない。 よくよく考えてみるに、私の場合、やっぱり原因は、 私の飼い犬の鼻が墨汁を吸わせたように黒いのと同じくらいはっきりしている。 意識しながらも敢えて目を背けてきた現実とでも言おうか、 それは私を例外扱いせず、しっかり躯と心に刻み込まれてしまった。 思い返すに、若い頃は青春のど真ん中にいたために、 その尻尾さえ見えなかったし、影さえ踏まなかった。 要するに、その時期には誰しもが考えないこと、だったわけである。
ところがトワエ・モアの歌ではないが、ある日突然……。 老い。 私に憑依したものは、まさにこれだった。 それは親友の死によってもたらされた。 それも立て続けに、二つ。 二人とも、「お互い躯には気をつけようぜ」と言って別れて、二週間経つか経たないうちの死だった。 それを意識してからは、まさしく毎日が「一期一会」と考えるようになった。 友達の死を通して初めて、私自身も人生という数直線上を、随分と遠いところまで歩いてきたのだなあ、 そう認めないわけにはいかなかった。 高校と大学生の頃、暇を見つけては絵を描いていた。 絵はうまくはなかったが、描いていると文章を綴るのに似て、自己の世界に陶酔できた。 なかでも「廃船」を描くのが好きだった。
何故? それは人生を感じさせるから。 勿論、人生を感じさせるものは他にもあるが、たまたま私の場合は廃船だったのである。 真新しい木と塗料の匂いに似合った分の臆病さを隠そうとしていた幼年期。 やがて経験を積み、向う意気荒く大海原を切り裂くように直進した青年期。 ひがな天気と海の機嫌を見ながら、当てにするでもなく漁をする老年期。 ぼろぼろになった船体は、今にも崩れ落ちそうで痛々しいほどだ。 だが、私には誇らしく映る。 人生の荒波を乗り越えてきた者だけが漂わせる落ち着きと風格。 そういうものが廃船にはある。 落ち着きと風格を合わせれば、品格と言ってもいい。 船体は朽ちても品格は残る。 これってとても大事だよね。 少なくとも、今の私はそう思う。 重要な決断を迫られたり、何かの折りに少し気弱になったりすると、 私は無性に廃船が見たくなって、小豆島の至る所に点在する入り江に出かけることがある。 漁港の隅っこに、役目を終えた廃船がとも綱でつながれている。

「俺たちの出番はもうなくなっちまった」
住吉丸が言った。
「もう一度、あの真っ青な大海原に出て、一暴れしたいもんだ」
大翔丸が応えた。
「腹が裂けるくらいサワラを詰め込んで帰ってきた、あの日のことを覚えてるか」
「忘れるわけないだろう。あのときは凄かった。
大漁で、いくらエンジン回しても、先に進みやしなかった。
春の海がへらへら笑っていやがった」
「大翔さんと俺で一、二位を争った」
「あの頃は俺たちも若く、全身黒光りする筋肉だった」
「お互いもてたな」
「言い寄ってくるカモメを断るのが面倒臭いほどだった」
「大翔さん、白灯台に熱上げたことがあったな」
住吉丸がからかい半分に言った。
「住さん、大きな声を出さないでくれ。照れるじゃないか」
大翔丸がスクリューの欠けた口で笑った。
「まだ想ってるのかい?」
「ぶきっちょな俺だ。分かってくれ。〈一途〉しか取り柄がなくってね」
「なるほど。大翔さんらしいや」

小さな漁港だったが、入口に小さな灯台があった。
毎日、胸を張って漁に出たことを、住吉丸も大翔丸も思い出していた。
白灯台の前を通り過ぎるときは、特にそうだった。
「大漁、待ってるわよ」
白灯台が朝日に溶けるように白く、ほっそりと長い手を振ってくれた。
「俺に任せとけってんだ」
波を割る首筋の筋肉が、ぐっと盛り上がった。
「お帰りなさい。明日があるわよ。ね、頑張ろう」
漁が思わしくないとき、いたわりの言葉を忘れなかった。
優しい声は疲れた気持ちにしみこんで、明日への希望をかき立てた。
「おおっす」
大翔はそう答えるのが好きだった。
住吉丸が言った。
「もう一度、あの真っ青な大海原に出て、一暴れしたいもんだ」
大翔丸が応えた。
「腹が裂けるくらいサワラを詰め込んで帰ってきた、あの日のことを覚えてるか」
「忘れるわけないだろう。あのときは凄かった。
大漁で、いくらエンジン回しても、先に進みやしなかった。
春の海がへらへら笑っていやがった」
「大翔さんと俺で一、二位を争った」
「あの頃は俺たちも若く、全身黒光りする筋肉だった」
「お互いもてたな」
「言い寄ってくるカモメを断るのが面倒臭いほどだった」
「大翔さん、白灯台に熱上げたことがあったな」
住吉丸がからかい半分に言った。
「住さん、大きな声を出さないでくれ。照れるじゃないか」
大翔丸がスクリューの欠けた口で笑った。
「まだ想ってるのかい?」
「ぶきっちょな俺だ。分かってくれ。〈一途〉しか取り柄がなくってね」
「なるほど。大翔さんらしいや」

小さな漁港だったが、入口に小さな灯台があった。
毎日、胸を張って漁に出たことを、住吉丸も大翔丸も思い出していた。
白灯台の前を通り過ぎるときは、特にそうだった。
「大漁、待ってるわよ」
白灯台が朝日に溶けるように白く、ほっそりと長い手を振ってくれた。
「俺に任せとけってんだ」
波を割る首筋の筋肉が、ぐっと盛り上がった。
「お帰りなさい。明日があるわよ。ね、頑張ろう」
漁が思わしくないとき、いたわりの言葉を忘れなかった。
優しい声は疲れた気持ちにしみこんで、明日への希望をかき立てた。
「おおっす」
大翔はそう答えるのが好きだった。
腹を抱えて笑うべきところも、みっともないからと口先で噛み殺すようにして笑ってみせる年齢。 チェックのネクタイを捨て、ヨモギ色の地味なネクタイで決めて見せようとする年齢。 一つ空いた席にお尻をねじ込んで座りたいのに、曲がった背骨がそれを許さない年齢。 女房に黙って貯めたへそくりを、気前よく部下のために遣い、翌朝、二日酔いの頭で後悔する年齢。 枚挙に暇がない。 果たしてこれからどう生きるべきか。 まさにハムレットのおっさん版だね。 ◆残すべきか 残さざるべきか それが問題だ。 一ひねりして英語で云えば、 ◆To drink, or not to drink. That is the question. となる。 なんだ! 残すのは品格じゃなくって、ボトルに残った最後の一杯か。
人間は年齢とともに経験を積んでいくんだから、そうなって当然でしょう。
そうならない方がどうかしてるんだ。
これを読んでいる人にそう言われそうなんだが、でも果たしてそうなんだろうか、
とやはりすんなり受け入れられない。
よくよく考えてみるに、私の場合、やっぱり原因は、
私の飼い犬の鼻が墨汁を吸わせたように黒いのと同じくらいはっきりしている。
意識しながらも敢えて目を背けてきた現実とでも言おうか、
それは私を例外扱いせず、しっかり躯と心に刻み込まれてしまった。
思い返すに、若い頃は青春のど真ん中にいたために、
その尻尾さえ見えなかったし、影さえ踏まなかった。
要するに、その時期には誰しもが考えないこと、だったわけである。
ところがトワエ・モアの歌ではないが、ある日突然……。
老い。
私に憑依したものは、まさにこれだった。
それは親友の死によってもたらされた。
それも立て続けに、二つ。
二人とも、「お互い躯には気をつけようぜ」と言って別れて、二週間経つか経たないうちの死だった。
それを意識してからは、まさしく毎日が「一期一会」と考えるようになった。
友達の死を通して初めて、私自身も人生という数直線上を、随分と遠いところまで歩いてきたのだなあ、
そう認めないわけにはいかなかった。
高校と大学生の頃、暇を見つけては絵を描いていた。
絵はうまくはなかったが、描いていると文章を綴るのに似て、自己の世界に陶酔できた。
なかでも「廃船」を描くのが好きだった。
何故?
それは人生を感じさせるから。
勿論、人生を感じさせるものは他にもあるが、たまたま私の場合は廃船だったのである。
真新しい木と塗料の匂いに似合った分の臆病さを隠そうとしていた幼年期。
やがて経験を積み、向う意気荒く大海原を切り裂くように直進した青年期。
ひがな天気と海の機嫌を見ながら、当てにするでもなく漁をする老年期。
ぼろぼろになった船体は、今にも崩れ落ちそうで痛々しいほどだ。
だが、私には誇らしく映る。
人生の荒波を乗り越えてきた者だけが漂わせる落ち着きと風格。
そういうものが廃船にはある。
落ち着きと風格を合わせれば、品格と言ってもいい。
船体は朽ちても品格は残る。
これってとても大事だよね。
少なくとも、今の私はそう思う。
重要な決断を迫られたり、何かの折りに少し気弱になったりすると、
私は無性に廃船が見たくなって、小豆島の至る所に点在する入り江に出かけることがある。
漁港の隅っこに、役目を終えた廃船がとも綱でつながれている。
しかし昨年の四月に赴任して以来、毎日のようにそこまで走っているが、
一度も砂浜まで降りていったことがなかった。
冬場はまだ真っ暗で、砂浜さえ見えない。
ただ波が海岸線を洗う音だけが、かすかな響きとなって闇の隙間を縫うように聞こえてくる。
久し振りに散歩がてら出かけてみることにした。
三十年前の記憶にあるその浜は、貝を裏返して敷き詰めたように白く、
柔らかな日差しにも眩しかったのを覚えている。
空と海のブルーを含んだ波が砂浜で砕けるたび、さらに眩しい白が水際を飾った。
砂浜は長く、波打ち際はウェディングドレスの裾のようであった。
何十メートルも先にブーケを持った花嫁がいそうであった。
沖をゆく船と蜃気楼みたいに浮かぶ島影。
これらがともすれば単調になりやすい海の広がりにアクセントを付けていた。
それともう一つ、背の高い椰子の木が二十五本ばかり植えられていて、
海から吹き付けてくる風に巨大な葉を揺らめかせ、熱帯性の熱を発散させていた。
私の記憶にあるその浜の残像とは、南国情緒たっぷりの風景だった。
でもそこに足を運んでみて、胸が痛んだ。
予想はしていたものの、実際に行ってみて昔の記憶にある残像と現実との乖離は大きかった。
世の中って所詮こんなもんだろう。
そこに行く前から、まさかのときのために用意しておいた言葉がつい口をついて出てしまった。
砂浜は相変わらず美しかった。
椰子も一本も欠けることなくあった。
砕ける波も当時と同じように眩しかった。
では何が?
野外ステージは壊れ、その回りは夏草が我が物顔に生い茂っていた。
まさに、強者どもが夢の後、である。
それに誰が捨てたのか、粗大ゴミさえあちこちに顔を覗かせていた。
さらに先へと進み砂浜に降りると、状況はまさしく悲惨そのものであった。
どこから流れ着いたのか、ペットボトル、プラスチック、発砲スチロールと、
現代文明が生み出した悪しき副産物が所狭しと散逸していたのである。
一時期、豊島の産業廃棄物が全国的な注目を集めたが、
これを見て小豆島とて楽観視できないことが分かった。
おそらく日本中がこういう状況なんだろう。いや、世界中が。
島が消える。
南太平洋のポリネシアの西端に位置するツバルという珊瑚礁の島々は、
温暖化のために水位がどんどん上がって、島そのものが海に消えようとしている。
小豆島はどうだ?
小豆島がゴミに消える。
想像するだけで恐ろしいじゃないか。
世界遺産にしてもいいような小豆島が、「夢の浮島」ならぬ「ゴミの浮島」。
「夢拾い」ならぬ「ゴミ拾い」。
こうなってはシャレにもなりゃしない。
このブログを借りて、おっさんは叫ぶぞ。
本気だぜ。耳の穴かっぽじって聞いてくれ。
みなさ~ん、ポイ捨てやめようぜ。
自分のゴミは自分で処分しろ。
でなかったら、俺たちの地球は本当に消えちまうぞ。
最後に、ルールとかモラルをおっさん連中は口やかましく言うが、
それはその社会がどれだけ成熟しているかを示すバロメータなんだ。
*
*
渋くてぎざぎざの夢を見ていたおっさんが、
う~ん、と唸って、そしてぱっと笑った。
でも何か変だぞ。
周囲の乗客を観察してみて、ようやくそれが何か分かった。
なるほどこれが原因か。
乗客のほぼ全員が同じことをしているのだ。
にらめっこ。
にらめっこ? 何を馬鹿な。おっさん暑さで血迷ったか。
もう一言足せば、携帯電話。
もうお分かり戴けるでしょう。
老若男女、みな携帯の画面とにらめっこ。
夢中」という言葉がぴったり。
一言も言葉を発しない。
私の真ん前の女子高校生は、目にもとまらぬ早さでメールを打ち込んでいる。
ピポピポキンキンキュー。
ブラインドタッチ。
鮮やかなもんだ。
よく指がもつれないなあ。
感心する私の右隣では、口を半開きにしたサラリーマン風の男がゲームに夢中。
おいどうなっちまったんだよ。
まるで携帯電話の奴隷じゃないか。
俺たちは携帯をもった猿か?
猿は銚子渓にいっぱいいるけど……。
おい、俺たち本当に大丈夫か。このままでいいんだろうか。
醤油づくりで知られる「醤の郷」を少し行ったところを右に曲がって、
エメラルドグリーンの海に目を奪われながら車を十五分くらい走らせると、それはある。
木造づくりの古い校舎。
黒い板塀がいかにも歴史の重さを感じさせる。
苗羽小学校田浦分校と言っても島外の人にはピーンとこないと思う。
『岬の分教場』と言えばどうでしょうか。
壺井栄原作、木下恵介監督、高峰秀子主演により映画化された『二十四の瞳』の舞台となったのが
ここ岬の分教場である。
昭和四十六年まで約七十年間使用されていた。
入り口でスリッパにはきかえて、板張りの廊下を進むと教室。
中に入ると、少しかび臭いような煤けたような空気に、鼻孔をくすぐられる。
とうの昔に忘れた木の匂い。
床に目を落とすと、木目がはっきりと浮いている。
小さな椅子と机。
教卓。
その背後にある黒板。
隅っこに置かれたオルガン。
天井からぶら下がった裸電球。
かつてそこは子供たちの天国だった。
泣いて笑って、飛んで跳ねて、踊って唄った。
手をつないで、みんなででっかい輪を作った。
みんな友達だった。
みんな家族だった。
左の窓から柔らかい陽光が射し込んでいた。
光の渦がタンポポの綿毛のように跳ねている。
アンドゥトワ アンドゥトワ。
その渦が子供たちの影のように見えた。
ピポピポキンキンキュー。
私はこの金属音より、アンドゥトワ アンドゥトワの方が好きだな。
だって子供たちが目を輝かせながら踊る姿が見えるから。





私が高校の卒業記念にと知音二人とともに小豆島に来たとき、一番感動したのがここだった。
残念ながら季節の関係もあったのだろうが、寒霞渓ではなかった。
「おい、こりゃ天国や」
と私。
「まだ死んでないぞ」
単純なYが半畳を入れる。
「馬鹿。比喩じゃ、喩えじゃ。素麺じゃ」
今度はTの番だった。
「お前、まだ酔ってるのか」
私がTに訊いた。
「あれしきの酒で酔うもんか」
Tが笑いながら返してきた。
「そうだよな。三人でビール十五本程度じゃな」
Yがとぼけたように言った。
「じゃあ、これでもやるか」
Tがポケットからウイスキーの瓶を取り出した。
私たち三人は、ときどき受験勉強に疲れたら、寄っては酒盛りをしていた。
小豆島へやって来たのは、卒業式から二週間くらいしてだったと思う。
というのも大学の合格発表の後で、三人ともまがりなりにも行き場所を確保でき、ほっとしていたからだ。
三月の終わりにはそれぞれ違った大学に進み、ばらばらになってしまう。
そこで思い出記念旅行に行こう。
そう提案したのは他でもないこの私だった。
だが肝心な金がない。
そこで浮かんだのが、貧乏高校生である私たちにしてみれば、一応海外であり、
そして旅行らしい気分にひたれるのではないかという淡い期待を抱かせた小豆島であった。
果たして小豆島は私たちの期待を裏切らなかった。
私たち三人は、よく歩き、よくしゃべった。
夜は昼の疲れもものともせず、酒を飲みながら将来を、好きな女の子のことを語った。
(残念ながら、三人とも振られたが……)
そう、青春を熱く語ったのだ。
前の晩しこたま飲んで少々酒が残っていたが、私たち三人は元気そのものだった。
翌日、内海町の遍路宿を出発、寒霞渓、そして四方指と歩いてきたのである。
春の柔らかな光に包まれた小豆島は、目にもさやかに輝いていた。
洗い立てのようなすがすがしい空気に、若葉が匂っていた。
高校を卒業したばかりの私たちそのものだった。
ういういしくて、傷つきやすく、そして無知でタケノコのように単純。
これから出て行く都会のことも、また、大学を卒業したら待ち受けている世間という魔物に対しても恐れを知らなかった。
穢れなき青春。(飲酒癖のある高校生のどこが穢れなきじゃ? すいません!)
四方指からの眺めは、非の打ち所がなかった。
それほど素晴らしかったのだ。
私の心に一つの風景画を刻みつけた場所であったことだけは間違いない。
なぜなら、私は小豆島から帰るやイーゼルとキャンバスを押し入れから引っ張り出し、
四方指から内海湾を俯瞰した油絵を描き、それを勉強机の上に飾っていたからである。
何の因縁か、私はその四年後、大学を卒業すると小豆島に赴任を命ぜられた。
Yは現在、イオングループの常務取締役になり、Tは大手銀行を早期退職して、
好きなフルートを吹きながら中国から輸入した硯を売っている。
四方指からは、その呼び名に違わず四方が見渡せた。
しかし、そのとき私たち三人の将来はまったく見えなかった。
それでも未来に不安を抱かず、前へ進む元気だけはあった。
それは青春という誰もが通過する時期にのみ持つことを許される勲章だったに違いない。
「知音」とは、奏でる音を聞いてそれが誰か分かる。
そういう間柄を指す。
心を許し合った真の友。
まあ言うなれば、飼い犬が足音でご主人様と分かるに等しい。
歳月は人を待たない。
久し振りに高校時代のことを肴に酒盛りでもやらかすか。
でも最近めっきり酒の量が減った。
これが心配だ。
音は音でも、飲み過ぎてお鈴の音を聞かないようにしなければ……。
しかし、先日ひょっとしたことから、随筆でなら書いてみようか、と思い始めたのである。
きっかけは新潟の友人。
彼はかねがね私が勤務する小豆島を一度訪ねたいと言っていた。
それがこの夏、香川を訪れる機会に恵まれたので、
是非とも小豆島に寄りたいと言ってきたのである。
要するに、酒を飲もうじゃないか、ということなのである。
さっそく彼はインターネットで小豆島のことを調べたらしく、
小豆島には寒霞渓というとてもすごい名勝があるんだね、と開口一番そう言った。
やっぱり、寒霞渓か。
ところで、寒霞渓は日本三大渓谷美の一つに数えられている。
凝灰集塊岩が長年にわたって浸食された結果、深い渓谷と奇岩絶壁を生み出すに至った。
奇岩絶壁といっても、単なる奇岩絶壁ならどこにでもあるが、寒霞渓のそれは特異である。
自然という天才が創造した芸術作品。
そう称してもいいからだ。
奇抜な形の岩々と、そこに生える松、モミジ、楓等の木々との調和が特に見事で、
四季を通してその様相を変える。
なかでも秋のモミジは絶品で、まさに息を呑む。
私の言葉ではこんな陳腐な表現しかできないのが残念だ。
やはりここは「瀬戸の島から」氏の写真を見ていただくに限る。
(だから寒霞渓は題材に取り上げたくなかったのである。オンオンと泣く)
寒霞渓は表十二景、裏八景からなる。
頂上へは紅雲亭からロープウェイ、またはブルーラインで車でも行けるが、
それは私に言わせると邪道である。
寒霞渓の渓谷美を駆け足で、また空中からのパノラマとして楽しむにはいいかもしれないが、
自然美を堪能したいのなら、はやり表十二景と裏八景を徒歩で登るべきである。
『讃岐めん探検隊』と『自然愛好家倶楽部』の会長である私なんぞは(あくまで自称であって、このような組織及び団体は存在しない)、その美しさに何度言葉を失ったことか。
大袈裟な言い方だが、妻とも一週間ほど口がきけなかったほどだ。
(今振り返ると、あのときの夫婦喧嘩はフォークとナイフが乱れ飛ぶほど派手だった)
登山途中に突如として現れる奇岩。
これがまた絶妙なタイミングで現れる。
少し足が疲れたかな、そう思ったところにぬっと出現する。
ついついそれらに見入って、疲れを忘れてしまうのだ。
心憎いまでの演出と言わざるを得ない。


*






もう二十年も前になるだろうか。
アメリカのイリノイ州にあるマトゥーンという田舎町の大学で、日本文化について教えたことがある。
通い初めてアメリカ人大学生の向学心の旺盛さに驚かされたが、それよりもっと私を驚かせたのは、大学がこともあろうにトウモロコシ畑のど真ん中にあるという事実だった。
右を見ても左を見てもトウモロコシ。
もうそれはそれは見渡す限りのトウモロコシなのである。
トウモロコシが三度のめしより好きな人間でも、先が霞んで見えなくなるほど遠くまで広がるトウモロコシ畑を見れば、自分が人間ではなく牛に思えてくるに違いなかった。
朝から晩までひたすら食べても、大海の一滴を掬うに等しい。
全部食べ尽くすとなると、替え歯がいくらあっても足りない。
トウモロコシの収穫は九月の半ばから十月の初旬まで。広大なトウモロコシ畑のこと、手作業というのは当然無理で、巨大なコンバインを使う。
収穫時期になると、あちこちでコンバインがカブトムシみたいに行き来しているのを目にする。
私が世話になっていたテイラー教授も元々は農家の生まれで、親から受け継いだ広大なトウモロコシ畑を持っていた。
ある日、キーを持ってくると、彼は私に「コンバインでトウモロコシを刈れ」と言った。
私は日本では見たこともない巨大なコンバイン(日本のコンバインは小さいのでコンマインという……私の造語)に圧倒されたが、首尾よく運転席に座ると、トウモロコシを一筋ずつ刈っていった。
刈り出すとこれがなかなか面白い。
なにせ中学生の頭にバリカンを走らせている感覚なのだ。
決められた私の仕事も終わりにさしかかろうとしていた。
その頃にはもう日も傾き、太陽はオレンジ色の光を吐き出し、最後の演出に取りかかっていた。
私はようやく最後の一筋を刈り終えた。
とそのとき、突然オレンジ色の光に包まれたトウモロコシが、金色に輝き始めたのである。
地平線の彼方まで続くトウモロコシ。
最初は刷毛でうっすらなぞったみたいに弱々しい輝きだったものが、数分後には強烈な輝きに変わった。
まさに広大な大地が金色(こんじき)に燃えていた。
それは収穫を祝うことと、母なる大地への賞賛と感謝の表れに他ならないと思えた。
私は固唾を呑んでそれを見守っていた。
地平線の上には、でっかい夕日がさも得意そうにぶら下がっていた。
*
朋美は波の背に乗った夕日の落ち葉を一枚ずつ拾い上げてみたかった。
そしてまだ熱の残るそのかけらを、ブローチ代わりに胸に付けておきたかった。
きっと二人が交わした約束が、胸に刻印されるに違いなかった。
豊島が夕日に溶けるように炙り出されていた。やがてそれも漆黒の闇に閉ざされ、沈黙の海に眠ることになる。産業廃棄物も暗い海の底へと沈み、鎮守の祠も、棚田も、島民も、みなおしなべて海の森に還っていくのだ。
朋美はそれでも、そこに一つの輝きを見ていた。
海の底に横たわる裕樹の皺一つない若い躯と魂。
それはかつて朋美に情熱を与え、希望を抱かせたものだ。
それは歳月の浸食を撥ねつける聖なる存在であって、いかなる罪に対しても免罪符を許されていた。
今、裕樹が目覚めようとしていた。
「裕樹、きれいな夕日よ。さあ、紅蓮の光に染まりなさい」
今、朋美の目の前にある海は嘘のように静まり返っていた。
だが、海難事故が起きたあの日は違った。
裕樹が漁に出て小一時間くらいすると、低気圧の通過に伴い海は突然時化だし、瞬く間に大荒れになった。
「朋美、子供ができたら夕日を見に来よう」
事故の数日前、裕樹はそう言った。
朋美は、うん、と頷いていた。
*
娘が東京から帰郷したとき、「やっぱり田舎の夕日は違うよね」と言った。
「どこが違う?」
「まず色。次に熱。それと大きさ、かな。
ビルの谷間に沈む夕日は、人工的で、作為の回し者みたいで気持ちがついていかない。
色も煤けた赤で、どう見たって不完全燃焼。
さしずめ病んだ夕日ね。
いくら大きく膨らんでみても、ビルの隙間に沈んでいくんだもの、肩を縮めて小さくならざるを得ない。
ときどきネオンの看板に引っ掛かっているときがあるのよ。
やっぱり夕日は、雄大な地平線とか水平線を従えて落ちるのがいいわよ。今日一日が終わったという感じ。それに、明日また頑張るぞ、という気持ちになれるじゃない」
私がアメリカのトウモロコシ畑に沈む夕日を見て、大自然の神秘に畏敬の念を覚えたとき、長女は四歳、次女は一歳半だった。
あれから二十年以上が経って、果たして夕日の色も熱も大きさも変わったのだろうか。
子供の頃、夕日を追いかけていって、もうそれ以上入らないくらい、胸いっぱい夕日を詰め込んだものだった。
温暖化が進んで地球の環境がどんどん悪化して、子供たちの夢と希望の象徴であり、大人の憧憬の拠り所である夕日も、やがては不治の病を発症し、汚らしいだけの斑点に成り果ててしまうのだろうか。
そんな腐った夕日なんか誰も見たくないはずだ。
私の目の奥に焼き付けられた夕日は、未だ色褪せることがないのだけれど……。
瀬戸に沈む夕日に見入るとき、私はアメリカで見たでっかい夕日と、それとは対照的に海の底に静かに横たわる海の森を想う。
砂漠化の手が届かない深い海に広がる海の森。
そこに多くの魚たちが棲み、多くの魂が安らぐ。
もう少しすれば、今年も盆がやって来る。
朋美は裕樹に会えるはずだ。
