第7話 廃船 |
文………鮠沢 満 写真……「瀬戸の島から」
五十路の半ばにさしかかると、いろんなものがこれまでとは違った色合いで見えてくる。 五十代と断るまでもなく、各年代層でそうなんだろうけど。 とにかく高校生だった頃とか大学生だった頃とは、コペルニクス的転換に近い。 人間は年齢とともに経験を積んでいくんだから、そうなって当然でしょう。 そうならない方がどうかしてるんだ。 これを読んでいる人にそう言われそうなんだが、でも果たしてそうなんだろうか、 とやはりすんなり受け入れられない。 よくよく考えてみるに、私の場合、やっぱり原因は、 私の飼い犬の鼻が墨汁を吸わせたように黒いのと同じくらいはっきりしている。 意識しながらも敢えて目を背けてきた現実とでも言おうか、 それは私を例外扱いせず、しっかり躯と心に刻み込まれてしまった。 思い返すに、若い頃は青春のど真ん中にいたために、 その尻尾さえ見えなかったし、影さえ踏まなかった。 要するに、その時期には誰しもが考えないこと、だったわけである。 ところがトワエ・モアの歌ではないが、ある日突然……。 老い。 私に憑依したものは、まさにこれだった。 それは親友の死によってもたらされた。 それも立て続けに、二つ。 二人とも、「お互い躯には気をつけようぜ」と言って別れて、二週間経つか経たないうちの死だった。 それを意識してからは、まさしく毎日が「一期一会」と考えるようになった。 友達の死を通して初めて、私自身も人生という数直線上を、随分と遠いところまで歩いてきたのだなあ、 そう認めないわけにはいかなかった。 高校と大学生の頃、暇を見つけては絵を描いていた。 絵はうまくはなかったが、描いていると文章を綴るのに似て、自己の世界に陶酔できた。 なかでも「廃船」を描くのが好きだった。 何故? それは人生を感じさせるから。 勿論、人生を感じさせるものは他にもあるが、たまたま私の場合は廃船だったのである。 真新しい木と塗料の匂いに似合った分の臆病さを隠そうとしていた幼年期。 やがて経験を積み、向う意気荒く大海原を切り裂くように直進した青年期。 ひがな天気と海の機嫌を見ながら、当てにするでもなく漁をする老年期。 ぼろぼろになった船体は、今にも崩れ落ちそうで痛々しいほどだ。 だが、私には誇らしく映る。 人生の荒波を乗り越えてきた者だけが漂わせる落ち着きと風格。 そういうものが廃船にはある。 落ち着きと風格を合わせれば、品格と言ってもいい。 船体は朽ちても品格は残る。 これってとても大事だよね。 少なくとも、今の私はそう思う。 重要な決断を迫られたり、何かの折りに少し気弱になったりすると、 私は無性に廃船が見たくなって、小豆島の至る所に点在する入り江に出かけることがある。 漁港の隅っこに、役目を終えた廃船がとも綱でつながれている。
「俺たちの出番はもうなくなっちまった」
住吉丸が言った。
「もう一度、あの真っ青な大海原に出て、一暴れしたいもんだ」
大翔丸が応えた。
「腹が裂けるくらいサワラを詰め込んで帰ってきた、あの日のことを覚えてるか」
「忘れるわけないだろう。あのときは凄かった。
大漁で、いくらエンジン回しても、先に進みやしなかった。
春の海がへらへら笑っていやがった」
「大翔さんと俺で一、二位を争った」
「あの頃は俺たちも若く、全身黒光りする筋肉だった」
「お互いもてたな」
「言い寄ってくるカモメを断るのが面倒臭いほどだった」
「大翔さん、白灯台に熱上げたことがあったな」
住吉丸がからかい半分に言った。
「住さん、大きな声を出さないでくれ。照れるじゃないか」
大翔丸がスクリューの欠けた口で笑った。
「まだ想ってるのかい?」
「ぶきっちょな俺だ。分かってくれ。〈一途〉しか取り柄がなくってね」
「なるほど。大翔さんらしいや」
小さな漁港だったが、入口に小さな灯台があった。
毎日、胸を張って漁に出たことを、住吉丸も大翔丸も思い出していた。
白灯台の前を通り過ぎるときは、特にそうだった。
「大漁、待ってるわよ」
白灯台が朝日に溶けるように白く、ほっそりと長い手を振ってくれた。
「俺に任せとけってんだ」
波を割る首筋の筋肉が、ぐっと盛り上がった。
「お帰りなさい。明日があるわよ。ね、頑張ろう」
漁が思わしくないとき、いたわりの言葉を忘れなかった。
優しい声は疲れた気持ちにしみこんで、明日への希望をかき立てた。
「おおっす」
大翔はそう答えるのが好きだった。
住吉丸が言った。
「もう一度、あの真っ青な大海原に出て、一暴れしたいもんだ」
大翔丸が応えた。
「腹が裂けるくらいサワラを詰め込んで帰ってきた、あの日のことを覚えてるか」
「忘れるわけないだろう。あのときは凄かった。
大漁で、いくらエンジン回しても、先に進みやしなかった。
春の海がへらへら笑っていやがった」
「大翔さんと俺で一、二位を争った」
「あの頃は俺たちも若く、全身黒光りする筋肉だった」
「お互いもてたな」
「言い寄ってくるカモメを断るのが面倒臭いほどだった」
「大翔さん、白灯台に熱上げたことがあったな」
住吉丸がからかい半分に言った。
「住さん、大きな声を出さないでくれ。照れるじゃないか」
大翔丸がスクリューの欠けた口で笑った。
「まだ想ってるのかい?」
「ぶきっちょな俺だ。分かってくれ。〈一途〉しか取り柄がなくってね」
「なるほど。大翔さんらしいや」
小さな漁港だったが、入口に小さな灯台があった。
毎日、胸を張って漁に出たことを、住吉丸も大翔丸も思い出していた。
白灯台の前を通り過ぎるときは、特にそうだった。
「大漁、待ってるわよ」
白灯台が朝日に溶けるように白く、ほっそりと長い手を振ってくれた。
「俺に任せとけってんだ」
波を割る首筋の筋肉が、ぐっと盛り上がった。
「お帰りなさい。明日があるわよ。ね、頑張ろう」
漁が思わしくないとき、いたわりの言葉を忘れなかった。
優しい声は疲れた気持ちにしみこんで、明日への希望をかき立てた。
「おおっす」
大翔はそう答えるのが好きだった。
腹を抱えて笑うべきところも、みっともないからと口先で噛み殺すようにして笑ってみせる年齢。 チェックのネクタイを捨て、ヨモギ色の地味なネクタイで決めて見せようとする年齢。 一つ空いた席にお尻をねじ込んで座りたいのに、曲がった背骨がそれを許さない年齢。 女房に黙って貯めたへそくりを、気前よく部下のために遣い、翌朝、二日酔いの頭で後悔する年齢。 枚挙に暇がない。 果たしてこれからどう生きるべきか。 まさにハムレットのおっさん版だね。 ◆残すべきか 残さざるべきか それが問題だ。 一ひねりして英語で云えば、 ◆To drink, or not to drink. That is the question. となる。 なんだ! 残すのは品格じゃなくって、ボトルに残った最後の一杯か。