瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2007年12月

「二十四の瞳」の原作者壺井栄は故郷小豆島のことを数多く書いています。

戦前に書かれた物は、半世紀を超えて「資料」的にも価値があるように思います。

そんな中から「しし垣」が出てくる「鹿の角」をご紹介します。


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瀬戸内海の静かなな海の中にぽつりと浮んでいる小豆島なのであるが、
島には昔から猿や鹿などがたくさんいたという。
祖母の話を聞いていると、明治の初め頃には人聞の数よりも多い猿や鹿がいたように思える。
鹿のことを祖母はししと云った。
祖母に限らず、昔の人はみなししと云っていたらしい。

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そのししが本当の猪と一緒に山から出て来ては畑を荒して困るので、
山と里との境に石坦を作った。
それが今も残っている。
その石坦を村の人たちはしし坦と云い、
私たちは万里の長城などと云った。
子供の頃の私はししは猪だけだと思い、
猪が山の奥から里をめかけて向う見ずに、たあっ!と駆け出して来てしし坦に突き当り、
そこで大怪我して死んだのだろうとひとりで決めていた。

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そして自分たちの時代になって、ししが村里へ山て家なくなったことを、
大いに安心したものである。
ところが、ししが島にいなくなったのは、しし垣で怪我をしたのではなく、
ししコレラがやって死に絶えたという話であった。
それにもかかわらず、私はししは怪我をしたり、打たれたりして絶滅したのたと信じていた。
今でも村には「ししうち」と呼ばれている家がある。
現在は漁師なのたが、昔は猟師であったにちがいない。
ししに死なれて、山から海に縄張りをかえたものであろうか。

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 神懸山を根城に猿の方は群れをなしている。
禁漁区になっていて、危害を加えられないと知っている猿は、
その昔の海賊のように峰から峰を伝い歩き、傍若無人の振舞いをしているらしい。
それに比べて鹿の数はまた極めて少ない。

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もう二十年も前のことになるが、
ある曰、立派な鹿の夫婦が山の中から突き出している岬の灯台へ、のこのことやってきたことがあった。
燈台から電話で「只今、大きな鹿が二匹来ています」と告げた。
この電話は岬の燈台と、村の郵便局との専用であり、主に船舶の通信用に用いられていた。

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その時村の郵便局に勤めていた私がその電話を受けたことは、
当り前のことなのだが鹿を初めて見つけたのが灯台守で、
それをはじめて聞いた村人が私なのたということに私は妙な興奮を覚え、
仕事をおっぽり出して村の人たちに知らせたものである。
猿と同じに禁漁になっているので、生捕りも打ちとりも出来はしないのたが、
死に絶えたと言われていた鹿がいたということが喜びであり、ニュースであって、
長い間、人目にかからなかった位だから、
鹿は(祖母時代にはししである)殆ど全滅であったにちがいない。
その中を、この二匹の鹿夫妻がどのように暮らしていたらうと云うことを考えると、
何か落人的なあわれさと、つつましやかさが感じられた。  
後略     壺井栄 随想・小説「小豆島」 光風社 昭和38年発行より引用

分かったこと

①鹿を「しし」と呼んでいたこと
②鹿(?)は島では一時「ししコレラ」で絶滅寸前だったこと
③栄の娘時代の大正時代に、坂手の灯台で生き残った鹿の夫婦が発見させたこと
④岬の灯台と郵便局は専用電話で結ばれていたこと
読んでいて、いろいろなことが分かってきます。
私の今の「愛読書」です。
ちなみに、この文章が書かれて70年。
今では「保護」の甲斐あって鹿は増えすぎて、「駆除」の対象になっています。

小豆島には、海にまつわる昔話が残っています。

その中から大船主の物語を紹介しましょう。


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昔 二面(ふたおもて)の村に、
塩屋金八という大船主が住んでいました。
金八は瀬戸内海を股にかけ海運を営み
底をつくことのない膨大な財産を貯えておりました。

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ある時 美しい妻が
わたしたちの全部の船に、家の財宝を一度に積こみ船出したら、
どんなに楽しくすばらしい光景でしょう
と 夫に頼みました。
そこで成金ものの夫は
「お前の望みとどおりしよう」
と正月の朝に船出することになりました。

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しかし 世の中には、運の悪いこともあるものです。
空が一転にわかに曇り 大嵐となり
持ち船も財宝も 一瞬にして
海のもくずと消えましたとさ。

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誓願寺の山門の柱は、難破船のものが使われていると伝えられています。

この大きな蘇鉄も、江戸時代に九州から廻船が持ち帰ったもののようです。

海を股にかける大船主の痕跡が残る二面の集落です。


2枚目の写真は、大阪南港「海の時空館」の実物大の千石船「浪速丸」です。

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島の札所の多くは、こんな庵が多いのです。

その集落の人たちによって守られてきたものです。

廃仏毀釈で八幡さんから移ってきた立派な仏様がおられたりもします。

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誰もいないと思いながら入っていくと・・・

「よおお参りになられたな、どこからきたんで」

やさしく声がかけられ、般若心経を一緒に唱えて話がはずみます。


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先日紹介した壺井栄の随筆は、こんな風に続きます。


おへんろさんの中には、腰の曲がりかけたおじいさん、おばあさんから、
巡礼お鶴のように小さい少女も交っているし、
お母さんの背中に眠る赤ん坊も見うけられた。

 こうしたがへんろさんを迎える小豆島の人たちは純真無垢である。
一夜の宿を乞われれば、よほど困ったことでもない限り、
見も知らぬ他国の人のために宿をかし、食を用意する。
それを善根宿といい、善根を積めば後の世に報いられると信じているのであろう。
此の頃ではいろいろな事情万善根宿をする家も少くなったようであるが、
おへんろの時期になれば、百姓家も忽ちへんろ宿になり、
安い宿料で風呂を焚き、明日の弁当まで整える。

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おへんろさんが小豆島八十八箇所を一めぐりするには普通一週間はかかる。
途中で出会った道づれもお互いにいたわり合い、十年の知己のような心づかいを見せて、
嶮しい山や谷を越えるのであるが、その途中の道には番人のいない店がある。
店といっても、それは道端や、畑の岸に大きなザルが二つか二つ置いてあるぎりで、
その中には島でとれる夏みかんやネーブルなどが山と盛られて、
一つ一銭とか二銭の礼が立っているだけで、おへんろさんは一銭二銭と引きかえに、
そのみかんで乾いた喉をうるおすのである。
~後略~

「小豆島と巡礼」昭和16年3月発表

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誰もいない庵に、こんなふうに八朔が置かれたりもしています。

「ご自由にお取りください」とあります。

感謝<(_ _)>


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道路のそばの無人のみかん販売です。

一袋百円。不揃いなみかん達ですが、瀬戸の潮風を受けて美味しい。(*^_^*)

映っている原付は私の愛車です。

風が冷たくなってきた瀬戸の島からでした。

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以前に紹介した昭和9年 岡山からの巡礼者が遺した写真です。

お遍路さん達が下船し、波止場に上陸した時のようです。

気になっていたのは、手前の二人の幼い子供。

前掛けを広げて、何か物乞いしているように思えます。

「島も昔は、貧しかったんやな」と一人納得していました。


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最近、壺井栄の随想を読んでいて、こんな文章に出会いました。


「おへんろさん豆おくれ」
おへんろの姿を見ると、子供たちは歌でも歌うように声を揃えて前かけをうけた。
すると、おへんろさんは、肩から下げた頭陀袋の中から、煎豆を出してくれた。
中には、金米唐をくれる、きれいなおへんろもいた。
私たちはそれを、大阪のおへんろさんと呼んでいた。

おへんろさんは大抵お百性が多く、麦刈前の農閑期を、
出かけてくるのだということである。
胸に、奉納小豆島八十八箇所霊場順拝のお礼ばさみをさげ、
へんろ笠をかかり、手甲脚絆に身をかため、
ささやかな身の廻りのものを包んだ白い風呂敷包を斜に背負っている。
そして、手には南無大師遍上金剛と書いた杖をついている。
これは弘法大師の諸国巡礼の姿だということである。
杖にも笠にも、お札ばさみにも同行二人と言かねているのは、
お大師様と二人だという意味である。
だから、何百人の団体の巡礼が、紫の旗を先頭にくりこんで来ても、
それぞれは皆同行二人なのである。 
~後略~

「小豆島と巡礼」昭和16年3月発表

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「物乞い」と思っていた私は、赤面しました。

見知らぬ人との交わりは「物」のやりとりがあるほうが

スムーズにいくと言われます。

お遍路さんと子供達を「豆」がつないでいたようです。

「おへんろさん豆おくれ」と・・


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土庄港行きの船の甲板からです。

「完全防備」でいつものように甲板でウオッチング。

男木島灯台から頭を覗かせた謎の巨大船(^^;)


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豊島(てしま)札田岬まで進んできました。

巡視艇とスーパーマリンが「突撃」(?)して行きます(@_@)


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私たちの船の前をゆっくりと東へ進んでいきます。

「k」のマークです。川崎汽船の船のようです。


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積み荷を降ろして、身軽になっています。

船名は「Cape Daisy」と見えます。「ひなげし」という意味です。

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調べてみると

全長(m) 299.95 型幅(m) 50.00 型深(m) 24.10 総トン数(G.T) 101,911

のバラ積み船です。

オーストラリアから鉄鉱石や石炭を日本に運んできているようです。


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水島か福山の製鉄所に荷を下ろし、再び夏の豪州へ向かいます。

今度、積み荷を満載して帰って、来るときには年があらたまっているでしょう。

私たちの生活は、こんな船に支えられています。

巨大船も行き交う備讃瀬戸東航路からでした(^_^)/~


グリコのおまけの動画です(*^_^*)


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見上げると「西の瀧」 

修験道の行場としても有名な島の霊場です。

「さいあがりと舞い上がりは、高いところが好き」と

ひいおばあちゃんから聞かされました(^_^;)

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やってきました。

今日の行場巡りは、護摩堂の右の断崖。

白い避雷針(?)の立っている所です。

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修験道の人たちによって階段がつけられています。

この岩場は曼荼羅世界では「金剛界」にあたるようです。


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上からは護摩堂の屋根がすぐ下に・・


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眼下には、蒲生の集落が見えます。

その向こうには、土庄の町並みと余島の島影


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目を転じると、山門の紅葉が真っ赤。

その向こうの池田湾が輝いていました。

しばらく座り込んで「瞑想」しました。

「それはぼけっーとしとるだけじゃ」と、天狗の声が聞こえたような・・(^_^;)

池田港への国際丸の入港
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いつもの原付ドライブも寒さが増すこの頃です。 

春には桜花満蘭だった枝も、今は葉を落として冬支度中です。


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青い海に白い四角?

なんだか分かりますか(?_?)

海苔の網です。

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光る海で、出船・入船が行き交っています。

出船は高松へ、入船は池田港へ


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池田航路の国際丸です。

小春日和の池田湾は光でいっぱいです(*^_^*)


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もうすぐ池田港に到着です。


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くるっとまわって着岸体制へ。

船体には「虹とパンダ」

最近就航した新造船です。

光が溢れる春のような池田港でした。

どぶち海峡のドックの船たち
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小豆島の世界一狭い海峡「どぶち海峡」です。

皇踏(おうと)山のクヌギも色づいてきました。

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「海峡のドッグ」に久しぶりに船が入っています。

初めて見る船です。機帆船の雰囲気を残した内航船です。

どこの船なんでしょうか。

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「御所浦 川岸丸」と読めます。

調べてみると九州天草の御所浦の船です。

今でも瀬戸内海はこんな船が数多く行き来しています。

でもプロペラが外されています。「重傷」のようです。

少し心配です。(^_^;)


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こちらも海峡にある「ドッグ」です。(*^_^*)


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こちらは漁船専用。

ペンキが塗り直されて、お化粧直しされて短期間で出港しました。

人間も「老船」が航海を続けるには、「ドック入り」が必要かなと思えてきました。

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