瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2008年02月

小豆島上空の「龍雲」
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先日25日(月) 神戸港15:30発の高松行きフェリーに乗船

神戸港を出港していきます。

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16:20 船内のお風呂から明石大橋を見送りました。

その後、トップデッキに近い客席から沈む夕陽を見ながら一杯(*^_^*)

私にとってビールは、ポパイのほうれん草のような物・・

至福の時です(^-^)


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近づく小豆島の島影と落ち行く夕陽

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うーーん! 洞雲山上空にかかる雲相、いと怪し。

夕陽を目玉に、龍の身体がうねりながら漂うような気配(^_-)。

私が陰陽師なら「島上空に吉兆あり!」と占うのですが。

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龍の頭が島に隠れ、胴体だけが夕空に漂います。

ビール片手にボケーと眺めていました。

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暮れなずんだ洋上を「パン・フェリー」と併走。

この船は明日の朝には、釜山港に入港します。

料金は13000円。

私の乗るフェリー料金は1350円(回数券利用)です。(^_^)/~

パンスターフェリーについてはこちらをどうぞ
http://www.nts-etravel.com/panstar%20ferry%20information%20.htm

雪の銀閣寺
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先日の日曜日、野暮用で京都にいました。

朝起きてみると真っ白

用事を置いて開門直後の銀閣寺へ

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境内は、白い世界に様変わり。

吉田山に続く街並みまで、白くなっています。

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降り積む雪に砂山は真っ白、富士山のよう・・(^_^;)

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松の下の砂文様も、浮かびあがります。

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まるで枯れ枝に紙でデコレーションされたかのよう

櫻咲く光景をイメージしてしまいました。

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ときおり青空が覗いて、日の光が差し込みます。

すると今までの印象とはちがう姿に「変身」していきます。

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銀閣寺は雪だけでなく、足場にも覆われていました。

修復のため何年かは姿が見えなくなるようです(-_-;)

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出口では椿のかんざしをつけたシロクマさん(?_?)が見送ってくれました。

いつものおまけ動画です
http://videocast.yahoo.co.jp/player/blog.swf?vid=288230376152052507
雪の銀閣寺 08年2月24日

神戸行きフェリー甲板よりの小豆島遠景
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先日23日土曜日 高松発神戸行きのフェリー甲板からです。

この日は地蔵崎灯台も20㍍近い強い風が吹きました。

「浮き標識」が大きく揺れていました。

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坂手沖を大型船が東行中。

私の乗っているフェリーの方が船足が速いようです。

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島の一番東南の大角灯台の沖で追いつきました。

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“HALO OLYMPUS”と読めます。

長さ215.00㍍  総屯数37,653屯のばら積み船のようです。

詳しくはこちらへhttp://www.hitachizosen.co.jp/news-release/h09/1905.html
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後ろは洞雲山で、岩場に白く見えているのが島巡礼の札場。

その下の丸い島の名前は「風の子島」(*^_^*)

「ふうのこ島」と読みます。

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この島のせいでしょうか、強い風が吹き抜ける所です。

ここを抜けると備讃瀬戸は終わり、広い播磨灘に入っていきます。

ここから明石まで1時間半、神戸までは2時間10分かかりました。(^_^)/~

例のごとくおまけの動画です
http://www.youtube.com/watch?v=u51DU0hjBnk

壺井栄  氷点下への追憶
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今年の冬、瀬戸の島にも何度か雪が積もりました。

そこで、(^_^;)壺井栄が島の冬を回想した文章を紹介しましょう。

戦時下の昭和17年2月発表されたもの、60年以上前の物です。

前から2段目 左の男先生から2人目が壺井栄だそうです。

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私の郷里は四国の海辺の村である。
四国の海辺と云う答えは大陸的な、多少壮士かな云い方で、
細かく云えば瀬戸内海の海に包まれた小豆島の中の一寒村なのである。
今では小豆島も国立公園などと呼ばれて、
半ば遊覧地的な言い方をされているようだが、
そういう他国人が入りこむのは主に春や秋のことである。
従って小豆島が多少とも旅行者に媚びることのない姿でいるのは、冬であろう。
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人々は、海から吹き上げてくる北風を頭巾でさけ、
袖口の小さい着物を着て外を歩いていたが、今でもそうだろうか。
 そのように、寒い冬であったが、雪はあまり積もらなかった。
積もると云ったところで、朝起きてきてみると銀世界なのが、
お昼すぎにはもう解けてしまうような降り方であった。
だから、三寸も積もることなどは殆どなく、私の記憶の中でも、
小学校の一年の時の紀元節に降った雪だけが、雪らしい雪だったと思う。
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 この時の雪を未だに忘れられないように、
郷里の子供は雪に一種のあこがれを持っている。
雪が降り出すと私たち子供は外に飛び出して行った。
雪花は風に舞いながら降りしきっても、散るに従って消えてしまう。
この中を、子供はまるで花びらを追うように、
大きな雪花を目がけて手をのばし、雪の中を追い回した。
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降りのひどい時は前掛で受けた。頭も顔も雪にまみれた。
それでも雪はなかなか前掛にたまらなかった。
一握りくらいたまると、私たちはそれを次から次と頬ばったり、
幼い妹たちに頬ばらせたりした。
食べてうまい筈はないのだけれど、食べずにはいられない気にもなり、
また良べるのがあたり前のように良べた。
うまいような気がした。
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鼻の頭や頬っぺたが、紫色になり、手が感覚を失っても、
雪の日は犬ころのように外で遊んだ。
からだの芯底まで冷えきって、家へ帰ってくると、
始めて辛くなって泣きだす始末だ。
そして、火燵に温まると、叉外へ出てゆくのであった。
{後略}
(昭和十七年二月)発表 

雪が降っても「犬ころのように」走り回る

子供の姿は見られなくなった瀬戸の島からでした。(-_-;)

明石海峡冬景色 フェリー甲板より
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近畿に雪が積もった9日(土)フェリーから見上げる明石大橋。

橋脚の上部が雪雲で隠れています。

海峡にも牡丹雪が降っていました。

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その二日後は快晴。

神戸発高松行きのフェリーは明石海峡にさしかかります。

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真っ青な冬の空をバックに橋が輝いて見えました

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橋の下をゆっくりと通過。

思わず口ずさんでいたのはS&Gの「明日に架ける橋」。

ちなみに2日前の雪空の時は「津軽海峡冬景色」(^_^;)

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橋を越えると面舵、明石の街が遠ざかっていきます。(^_^)/~

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立春を過ぎた太陽が西の海に傾きます。

あの方向が私の住む島・小豆島です。(^_^)v

こちらはおまけの動画です。
http://videocast.yahoo.co.jp/player/blog.swf?vid=288230376152031503
神戸発高松行きフェリー甲板より 明石大橋

神戸発のフェリー甲板より 
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変な形でいつも気になっていた船。

神戸と高松を結ぶ「ジャンボフェリー」です。

この船に神戸港から乗ってみました。

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この日は連休最終日ですが上段の車両甲板はご覧のとおり。

テニスでもサッカーでもできそう(*^_^*)。

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煙突も個性的です。

遊覧船のお見送りを受けました。

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いよいよ出港。

神戸の街が白い軌跡の向こうに遠ざかります。

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横切る漁船が残した軌跡が「いとおかし」(*^_^*)。

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甲板からは神戸に続く街並みが続きます。

寒さを忘れて、甲板に経ち明石海峡通過を待ちました。(^_^)/~

壺井栄の「オリーブ植栽50周年式典」

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1900年 壺井栄生誕
1908年 小豆島にオリーブ植栽
1954年 映画「二十四の瞳」封切り
1958年 植栽50周年式典に壺井栄出席
2008年 オリーブ植栽100周年   

「二十四の瞳」が映画化された1954(昭和29)年。

一躍、売れっ子作家となった壺井栄は

4年後の「オリーブ植栽50周年祭典」に参加し、

会場となったオリーブ園の様子を次のように書き残している。

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オリーブは六月の花です。
梅雨のころ、オリーブの小さな花のひれは、やわらかなオリーヴ色の葉かげににおい、
雨期の息くるしい空気をなごめます。
だから平和のシンボルといわれるのでしょうか。
そんな花の咲くオリーブの木をごぞんじでしょうか。
日本ではただ1ケ所、瀬戸内海の小豆島にだけあったオリーヴ。
その木がはじめて日本に渡ってきたのは、明治十一年のことだそうです。
今から五十年前のことです。
それで、この三月十五日には、それを記念するためのオリーヴの祭典が、
小豆島で催されました。オリーブにゆかりのある人だちとともに、
私も招待をうけてそのお祝いの席につらなりました。
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 式典はオリーブの丘と呼ばれている、50年前からの旧オリーブ園で催されました。
園内に式典のための広場がとれたのも、はげしい戦争時代を挟んで、
荒れるにまかせたオリーブが枯れ果てたためかもしれません。
そんなオリーブ園の姿を、おじいさんはどんな気もちで眺められたでしようか。
オリーブの樹齢は私はわかりませんが、
おそらく、おじいさんの植えたオリーブなどは、もう影も形もなくなっているかもしれません。
なぜなら、かつて私が若いころの記憶にあるオリーブ園は、
オリーブの茂みにおおわれたオリーブ色の丘であったからです。
園内に入ると、腰をかがめてくぐりぬけねばならないほど、
オリーブは、頭上すれすれにまで枝をひろげていました。
それが、今では何千の人が一つ所に集まれるほどの隙間ができているのです。
しかし、オリーヴの若い苗木はすくすくとのびていました。
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  正直なところ、私の胸を去来する思いは、
オリーブの50年が、いつも平和と遠かったということでした。
そして、オリーヴ園にかぼちゃがが這っていたこともある戦時中のある時期など
を思い出し、このオリーヴ園の下の道を、
日の丸におくられる若者たちの姿があとをたたなかったその時代に、
オリーヴは枯れていたことなど、新しく思い浮べながら、
式典の進行を、多少、辛い思いで眺めていました。 
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そして、50年がたち今年はオリーブ100周年

50年前に植えられたオリーブの木々は島にしっかり根付きました。

「オリーブ特区」を活用した未来への取り組みが始まっています。

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瀬戸の海には、かつては鰯(いわし)がわき出てきたようです。

鰯によって支えられた島の漁村の暮らし。

そんな様子を戦前に書かれた壺井栄の随筆で見てみましょう。

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 近年まで鰯は私の生れた村の主要産物であった。
瀬戸内海の鰯は、主にいりこにしていた。
非常に美味で、煮出しに使っても今東京あたりで買うのとは段ちがいである。
(中略)
いりこを作る家のことをいりやと云った。
鰯網が沖へ出たとなると、いりやの人たちは、
頃合いを見計らって浜のいり納屋に出て待機する。沖からよく通る声で
「河内屋焚けェ」とか、
「喜悦衛どん焚けェ」とか
それぞれのいりやへ声がかかると、女たちは釜の下へ火を入れる。
大漁の時には沖からの声にも威勢が加わり、
「みな焚けえ」と叫ぶ。
釜の下をみな焚けいう意味である。
そう聞くといりやは天手古舞いで近所隣りを総動員する。
大漁は大抵夕方であったように思う。

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私たち子供の仕事は、いり納屋の前にずらりと並んだ鰯の入った四斗樽から
タモでしゃくっては、マイラセという平たい小ざるに七分目位ずつ入れて、
釜の人たちの都合のいい場所へ並べたり、鰯の中に交っている河豚をつまみ出したり、
まためばるや小鯖や小鰺などを撰り出したりするのであった。
いりやの仕事は大抵女がした。
手ぬぐいでで頭を引きしぼり、着物のの尻端折った女たちは忙しく立ち働いた。
釜の下に松の割木が赤々と燃えさかり、
天井のランプが陽気に包まれてぼんやりした光を役げていた。
仕事が終ると、さっき選りだした雑魚をざるに入れてもらって、私は得々と家へ帰った。
これだけが私のその日のお駄貨だったのである。

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 翌朝学校へ出かける順になると、浜は一ぱいに筵が敷き並べられて、
手拭や帽笠を披った女の人たちが、朝日に背を向けて中腰になり、
馴れ切った手つきで昨夜の鰯をピらぱらとまいている。
漁の多かった時には、道路の片端にも筵が並べられ、
学校の運動場から校舎の屋根のの上までいりこが干しひろげられた。
教室の窓から、銀色に光る鰯の筵を眺めることは、
子供にとってはただそれだけの珍らしさてはなかった。
大漁であれば村は潤い夏祭りは賑わうのでった。
漁の神様戎神社にお神楽も上るであろうし、
出雲から毎年やってくるだいだい神楽もはずむのでめった。
反対に雨でも降られると、いりやの人たちは雨空よりももっと暗い顔になる。
大漁の後、よく雨に降られることがあった。
そうなると、前日の苦労がくたびれ儲けになるのだから、
陰鬱になるのももっともなことであった。
それに、私か少女期を過ごし、成年期に入った頃から鰯漁は、
だんだん下火になって行く一方であった。
不漁が続き、鰯網では立ちゆかないので転業する人が増えた。

今では鰯網漁は、島ではなくなりました。

いりこを干す光景も見えなくなりました。

秋になると港にまで押し寄せてくるカタクチイワシの群れに

遠い日の鰯漁にわいた漁村の暮らしが忍ばれます。

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絵は「わたしたちの呉 歴史絵本」から転載させていただきました。

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