第18話 牛小屋 | |
鮠沢 満 作 |
大きく愛くるしい目。 これを見ていると、本当に牛が好きなる。 と同時に切なさがこみ上げてくる。 記憶の端っこに引っ掛かって外れないもの。牛。 そのべべんこ(仔牛)が来たのは、 確か秋が深まりときどき北風が寒風の尾っぽを振り始めた頃だった。 前にいた牛が売られ、その後釜に買ってきたものだ。 私はモウと名前を付けた。 百姓の家はどこでも一頭の牛を飼っていた。 牛が耕耘機の代用として、力仕事をさせられていた。 理由はそれだけではない。 農家にとって牛は大切な換金動物だった。 犬や猫のようにペットフードなどを食べさせなくても、 藁を切って米ぬかをまぶしてやれば、牛はいやがらずに食べる。 ときどきそこら辺りに生えている青草を与え、栄養のバランスを取る。 それで十分だった。 牛の糞も肥料として使える。 いろんな意味で牛は百姓にとって有益だった。 冬を越し、春の匂いが鼻先をくすぐる頃になると、 モウの身体も随分と大きくなっていた。 あと二ヶ月もすれば田植えが始まるが、そのときには一人前の働きを期待されるだろう。 その大事な牛に餌をやるのが、私に与えられた役割分担だった。 そこで毎日、早く大きくなれと、祈るような気持ちで世話をしていた。 毎日顔を合わせていると心が通う。 犬と同じで牛も利口な動物で、こちらの気持ちを十分に汲み取るようになる。 いつしか仲間意識が生まれた。 小学生だった私は、よくモウと会話をしていた。 私がその日あったことを細かく説明すると、 大きな目をこちらに向けて真剣に聞いてくれる。 ときどき頭をぶるぶるっとゆすって、こちらに近づけてくる。 「君の話はよく分かったよ」という合図だ。 こんなとき「ありがとう」と言って、頭を撫でてやる。 すると、とても嬉しそうな表情を作るのだ。 そんな優しい心根のモウが好きだった。 けれども牛小屋で飼われてろくすっぽ外にも出られないモウが哀れでもあった。 所詮は人間と対等ではなかった。 その頃、よく牛の運命について考えていたように思う。 もし自分が牛に生まれていたらどうなっていただろうか、などと。 中でも私を苦しめたのは、モウが大きくなって大人の牛になるときのことだった。 そうなると牛市に連れて行かれてしまう。 それは私にとってはとても悲しいことだった。 いつそのときが来るのか、びくびくしながら暮らしていた。 季節が一度巡った。 夏が過ぎ、空が一段と澄んで高くなり、あちこちで祭り囃子が聞こえるようになった。 収穫も終わり、農家ではひとときの休みに入る。 モウはすっかり大人の牛になっていた。 筋肉が首、そして肩口から背中にかけて盛り上がっていた。 足も太い。 モウの成長に呼応したように、私たちの関係もこの一年でぐっと深くなっていた。 私は相変わらずモウに何でも話していた。 モウはそんな私の話を身をすり寄せてきて、 大きな目をじっとこちらに向けたまま聞いてくれるのだった。 涙を含んだような潤んだ目が柔らかな光を帯び、 その中心に私の顔が映ると、私はモウと一緒に生きていると感じた。 雲一つない大空のように澄んだ瞳に掬われると、 どんなに苛立っていても気持ちが和らぐのだった。 でも私が恐れていたことが起こった。 その日は朝から暖気が漂い、昼間にはぽかぽか陽気の小春日和となった。 その陽気も手伝って、私は放課後友達に誘われるままサッカーに興じ、普段より遅く家に帰った。 もうすっかり暗くなっていた。 カバンを置いて真っ先にモウのところに行った。 電気のスイッチを入れた。裸電球がぱっとオレンジ色の光を放射した。 その瞬間、私は言葉を失った。 いない。 そこにいるはずのモウがいないのだ。 数日前、父が有線電話で誰かと話をしていた。 その会話の一部が思い出された。 「じゃあ、木曜日の午前中にでも引き取りにきてください」 父の声は低く、声を落としているようだった。 考えるに、あれはモウの引き渡しの話をしていたのだ。 私はすべてを悟った。 まず、モウに申し訳ないことをしてしまったという罪悪感が登ってきた。 私は唇を噛みしめ嗚咽した。涙が止まらなかった。 その晩、蒲団にくるまって、モウ、モウ、モウと心の中で叫んでいた。 いくら呼んでも心に開いた穴を埋めることはできなかった。 トラックに乗せられ牛市に連れて行かれるモウ。 何度も後ろを振り返り助けを求めるモウ。 悲しみに満ちたモウの目が私をじっと見ていた。 明け方、やっと睡魔が襲ってきて眠りに落ちた。 私は愛犬のミックが死んだ日と、モウが姿を消した日を忘れることができない。 思い出はいっぱいある。 でも大人になる過程で、燃えるものと燃えないもの、 捨てるものと捨てないものに分別して整理してきた。 捨てないでおいた思い出も、時間の経過と共にその色合いを失っていった。 けれどもこの二つの思いでは、 真夏の夜空に咲いた打ち上げ花火のような鮮烈な印象を今も残している。 ミック。モウ。 楽しかったよ。 素晴らしいひとときをありがとう。 そしてお休み。 人間は他者の命と引き替えに生きている。