瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2008年06月

第20話 魚釣り
鮠沢 満 作

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浮きを見つめて何時間でもじっとしておれた。
かんかん照りの日も寒風の日も。
小学校の頃、釣りにのめり込んだ。
家にはまだテレビがなかった。
だから子どもたちの遊びといえば、もっぱら外。
遊びといっても野山を駆けめぐったり、自分たちのあじとを作ったりと、
とにかくお金がかからない遊びである。
中でも男子には釣りが人気があった。
竹を切って釣り竿にし、紫陽花の枝を浮きにした。
餌は牛小屋のシマミミズ。
ミミズがいなければご飯粒。
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 釣りに一つの思い出がある。
学校行事の都合で学校が午前で引けた。
時間ができたのでその日は普段帰る道ではなく、違った道を通った。
途中に氏神様を祀った神社があり、その横に大きな池があった。
そこは釣りのメッカともいえる池で、大人から子どもまでよくその池で釣りをしていた。
私がその道を選んだのは、きっとその日も誰かが魚を釣っているだろう
という期待があってのことだった。

 梅雨が明け真夏の太陽が狂ったように照りつけていた。
緑に塗り込められた山の稜線の上に、入道雲が綿菓子のように背伸びをしていた。
汗が、額から、首筋から、背中から流れ落ちた。
もうすぐ夏休みだった。
うっそうとした神社の森を抜けると、視界が明るくなり遠くに橋が見えた。
男が一人釣り糸を垂れている。
思ったとおりだ。私の予想は的中したのだ。
池の南端辺りにさしかかっていた。
そこを左に曲がって坂道を登っていけば、十五分もすれば我が家だった。
池の南隅っこに小さいコンクリートの橋が架かっていて、
それはちょうど用水路から水が池に流れこむところで結構深く、
ホテアオイとか水草が茂って魚のいい隠れ場所になっていた。
だから用水路と池を行き来する魚の群れが、橋の上からもよく見えた。
釣り人にとっては恰好のスポットの一つだった。
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 私は橋の手前十メートルくらいで足を止めた。
釣り糸を垂れている男を見てぎょっとしたからである。
男は近所でも評判が悪い幸夫という男だった。
大阪に働きに出たものの使い物にならず舞い戻り、毎日ぶらぶらしていた。
直接口をきいたことはなかったが、何度か男のことは見かけたことがあった。
それに親には「男に近寄るな」と言われていた。
ぎょっとしたことを男に悟られたような気がして、
私は咄嗟に引き返えそうかと思った。
しかし男の目の前でUターンするのも不自然極まりない。
それこそかえって怪しまれて因縁でもつけられたら大変だ。
私はこわごわ幸夫に近づいていった。
幸夫が橋のど真ん中を占領していた。
私は渡ろうかどうか逡巡した。
男は目の端からじろっと私を睨んだ。
やっぱり感づかれていたんだ。
足が急に棒のように固まった。
男が今度はにやっと笑った。
汚らしい歯が覗いた。
じっと橋の手前で立ち往生している私に、先に口を開いたのは幸夫の方だった。
「坊主、学校は」
上から押しつけるような言い方で、有無を言わさぬ迫力があった。
それまで周囲でやかましく鳴いていた蝉の声が、
耳の奥で小さな粒になって凝固した。
幸夫の顔は痩せた上に黒々と日焼けしており、
その黒い皮膚に太陽が無造作に跳ね返っていた。
目が鋭くて、どことなく姑息。世の中に拗ねたような空気を漂わせていた。
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 これはたいへんなことになったぞっ。
へたに逆らうとタダでは帰れない。
そんな不安が真っ先に私を支配した。
「学校は午前中だけ」
 正直に答えた。
「学校さぼったのか」
「ううん。学校行事で……半ドン」
言葉がしどろもどろだ。
恐怖心を隠そうとすると、余計にそれが出てしまう。
直接目を見るのが怖く、次第に視線が下がる。
幸夫の足下にポリバケツが置いてあった。
胸の中は恐怖心で渦巻いているのに、
好奇心には勝てずその中にちらっと目をやった。
幸夫はそれを見逃さなかった。
「覗いてみな」
幸夫の顔を見た。
口元が笑っていたが、先ほどまでの皮肉な笑いではなかった。
私は言われるままバケツに近寄りしゃがみ込んだ。
ポリバケツには何十匹と鮒が泳いでいた。
中には体調二十センチを優に超える大物もいた。
それを見て背筋がぞくっとした。
「お前も釣りたいか」
幸夫は怖ろしいくらい私の心の中を読んでいた。
魚を釣り上げたときの痺れるような手応えが、全身を駆けめぐっていた。
幸夫は私の返事も待たず、つなぎ竿を取り出し、パーツをつないでいった。
それからテングス、錘、針。
手慣れていた。
準備ができたところで、
「ほら。やってみな」
と差し出した。
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 頭の中を近所の噂が流れた。
「ええ若いもんが仕事もせんでぶらぶらしとる。
どうせ大阪で何かやらかしたに違いない。
あそこの家の連中はみなそうだ。
ろくでもないやつらばかりや」
 幸夫の家を知っていた。
藁葺きの平屋で、マッチ箱のように小さかった。
庭もなく、周囲を槙の木がぐるっと囲っており、
その上いつも雨戸が閉められていた。
人を寄せ付けないその荒廃した空気だけでも、一見廃屋を思わせた。
ときどき洗濯物が軒下に吊されているのを見かけると、
やはり人が住んでいるんだ、と驚きに似た感情が湧いてきたりした。
槇の間から覗く壁は戸板がなく、剥き出しで所々剥がれ落ちていた。
ここ何年も修理した形跡はなかった。
どういうわけか表の入口にのところに、いつも錆びたリヤカーが置いてあった。
田畑もほとんどなく、野良仕事に使わないのであれば、
いったいリヤカーを何に使うのかその目的もはっきりしていなかった。
一度、年老いた男が屑鉄とか壊れた日用品を載せて、
夕暮れどき田圃道をとぼとぼ歩いているのを見かけたことがある。
だが、幸夫の家が何を生業に暮らしているのか知らなかった。
幸夫の両親はまともな教育も受けておらず、ろくすっぽ読み書きすらできない。
幸夫の姉は精神病を患っていて、どこかの精神病院に入っている。
その他もろもろのよからぬ噂があった。
しかし、そのどれほどが真実か定かではなかった。
恐らく火のないところに煙は立たないから、そのうちのいくつかは本当なんだろうが、
弱者に手を差し延べるどころか誹謗中傷をする大人に対して、
当時の私はある程度怒りを覚えるだけの正義感は持っていた。
とは言うものの、やはり脅威には違いなかった。
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 その噂の幸夫が竿を差し出して、魚を釣ってみな、と言っているのだ。
断ればどうなる? 
ついさっきUターンをしそうになって止めたばかりだ。
今度ははっきりと断るべきだ。このままぐずぐずしていると、本当に厄介なことになってしまう。
しかし、魚釣りの誘惑には勝てなかった。無意識のうちに手を伸ばしていた。
私は幸夫と並んで魚を釣った。
もう夢中だった。
餌を付けて糸を垂らすとすぐ鮒が食いついた。
それまでそんなに魚が餌に食らいつくことはなかった。
だから面白くてしかたなかった。
幸夫も夢中だった。
魚を釣り上げる度に、私の方を見て笑った。
その笑いの中に、噂されているような邪悪な性格は見出せなかった。
やはり大人の偏見だったのだ。
私は自分の考えが正しかったことに少し誇りを感じていた。
私たちは時間の経つのも忘れ魚を釣った。
気が付いたら、太陽はとっくに神社の森の向こうに没しており、
森全体がこんもりとした黒い影になり始めていた。
「帰らなくては」
でも幸夫にどう切り出していいものか。
そのとき向こうからバイクのエンジン音が聞こえてきた。
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父だった。
まずい、と思った。
 父のバイクは見る見るうちに近づいてきた。
 私のそわそわした態度に幸夫も気付いた。
 父はバイクを止め、私たちの方に来た。
「帰りが遅いと思ったらこんなところで魚を釣っていたのか」
 そう言うと、父は幸夫に一瞥を加えた。
 幸夫は言葉に窮した。
さっきまでの屈託のない表情はすでに消えていた。
ばつの悪い、拗ねたような表情が顔全体を曇らせていた。
「僕が釣りをさせてくれるよう頼んだんだ」
私は父の怒りが爆発する前に、幸夫のために予防線を張った。
父は私の目を見て何かを言おうとしたが、
「息子が世話になった。礼を言う」
私は父のバイクの後ろに乗って幸夫と別れた。
後ろ髪を引かれるというのはこんなことを言うのだろう。
幸夫に申し訳ない。
背中に、やっぱりお前もな、という幸夫の咎めの視線をいやというほど感じた。
家に帰って父にこっぴどく叱られると思ったが、父は魚釣りの件は一言も言わなかった。
母にも同様である。
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 今考えるに、父も私が思っていたと同じことを考えていたのではあるまいか。
世間の風評に荷担するな。
その後、幸夫と顔を合わすことはなかった。
噂では、幸夫は重い病気に罹り、二十代半ばで他界したとのことである。
私は中学、高校、そして大学と時を重ねるごと、
この一件のことも他の多くの思い出と同じように引き出しにしまいこんだものの、
特別な思いで再び引き出しを開けてみることもなくなった。
ただ、夏が来て、ぎらぎらした太陽の下、
子供たちが池で魚釣りをしているのを見かけると、ふと幸夫とのことを思い出す。
背中に刺さるような幸夫の視線。
それともそれは単に私の思い過ごしだったのだろうか。
まだ私が正義感に溢れ、何も疑うことなく未来を真っ直ぐに見つめることができた
少年時代の切ない思い出の一つである。
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 先日、ふとした折りに幸夫の家の近くを通りかかったが、
幸夫の家は取り壊されて更地にされていた。
更地とは聞こえがいい。
更地だったという方が適切だろう。
というのも今はそこに草がぼうぼうと生え、
かつてそこに家屋があったという痕跡さえ留めていないからだ。
今となっては、そこにかつて幸夫という早死にした男が住んでいたことを、
噂する者もいなければ思い出す者もいないだろう。
あの夏の昼下がり一緒に魚釣りをした私を除いて。

第19話 プラットフォーム
鮠沢 満 作
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 私は急いでタラップを降りた。
フェリーが予定より五分遅れて接岸したからだ。
あと三分少々で列車が出発する。プラットフォームは二番線。
が、この二番線がくせもので、一番線、三番線、
そしてそれに続く四番線以降のプラットフォームは、
刈りたての頭みたいに横一列にきちと揃っているのに、
この二番線だけどいうわけか一番線と二番線に押し出されたように奥まったところにある。
ヨーロッパの駅ではこういったことはさほど珍しいことではないが、
数年前に立て直したばかりの新駅舎ということを考えると、
どうしてかな、と納得がいかない。
なぜわざわざ二番線だけ輪から弾き出したように奥まったところに作ったのだろうか。
出発時間が迫っているためか、目指す二番線は普段以上に遠い。
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 秋の夕暮れは本当につるべ落とし。
さっきフェリーからぼた餅のようにでかい夕陽を見たばかりなのに、
駅構内はすっかり闇の皮膜に包まれている。
雨よけの屋根に取り付けられた蛍光灯から吐き出される白っぽい光にも暗さが忍び込み、
行き交う人が亡霊のように現れては消えてゆく。
腕時計に目をやる。
ぎりぎり間に合いそうだ。
プラットフォームの中ほどに自販機があった。
その前に黒い人影が見える。
小さい。縮こまってるようだ。
私は小走りに通り過ぎようとした。
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「あの~」
遠慮がちな女の声がした。
私は一瞬逡巡したが、立ち止まり、声の方に振り向いた。
小さな黒い影の正体は老女だった。
手に何か持っている。
眼窩に沈んだ目が憶病そうに私の反応をうかがっている。
「どうかしましたか」
「ええ。これなんですが……」
 老女は何か差し出した。
それは缶コーヒーだった。
まさか私にくれるというのではあるまい。
「これがどうか」
「これ、固くて開かないんです」
老女の小さな手から缶コーヒーを受け取った。
熱い缶コーヒーの温もりが手の中に広がった。
私は造作なくプルトップを引き上げた。
「さあどうぞ」
 老女の顔に笑顔が咲いた。
「ありがとうございます。今日は寒くて……」
老女は感極まったように言うと、何度も何度も頭を下げた。
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 私が飛び乗ると、列車は錘が外されたように構内を滑り出した。
車窓を街の灯りがなぞって飛んでいく。
老女も背後の闇に紛れ、過去の時間の一部となって消えていった。
なのに老女の残像が頭を離れない。
私が考えていたのは、母のことだった。
母もあの老女と同じように、缶コーヒーのプルトップを開けられずに四苦八苦しているのだろうか。
よく考えると、もうその年齢だ。
プルトップさえ開けられなくなった母。
最近忙しさにかまけてそんな母のことを忘れていた。
プラットフォームのベンチにぽつりと座り、
缶コーヒーの温もりで手を温める老女の姿が、老いた母と重なった。
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 プラットフォーム。
再開の喜びと別れの悲しみを綴る場所。
そして帰る場所を持たない人間に最も孤独を押しつける場所。
胸の奥に小さな痛みが走った。
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