第22話 腹が立つこと | |
鮠沢 満 作 |
腹が立つこと? そんなもの数えたら切りがない。 例えば、職業柄、非が自分にあるのに決してそれを認めようとしない生徒、それと親。 特に常識のない親には、腹どころか薄くなりかけた髪の毛まで立つ。 髪の話ついでに、カツラを付けて心機一転人生をバラ色にしようとしている人間に向かって、 「あら三日でロン毛になってる」と冷たく言い放つこと。 最初から払う気がないのに、食事の後にわざとらしく財布を取り出して、 「わたし払いますよ」とほざくこと。 駅裏で我が物顔で他人の自転車を無断拝借すること。 いわれなく犬の頭をこついたり、何日も猫に餌をやらないこと。 (私は猫嫌いだから、後者は許せるか)。 普段は病気の親の見舞いにすら来なかったくせして、 死んだときだけハイエナのように群がり分け前に与ろうとすること。 切符を買おうとキューイングをしているのに、 横から油揚げをさらうように割り込むこと。仕事を他人に押しつけてさぼること、等々。 腹が立つ人間? これも枚挙に暇なし。 どこにでもつばをはくやつ。 自分の車の吸い殻とかゴミを平気で窓から捨てるやつ。 他人の年金でおもしろおかしく遊んだ金融庁のやつら。 私の自転車のタイヤに千枚通しを刺したやつ。 ついでに同僚の女性職員の自転車のサドルを盗んだやつ。 (いったいサドルをどうするつもりなんだろう? まさかその人の大ファンで、毎晩あらぬ想像をしながら抱いて寝るとか? これぞまさしく変態趣味)。 まだある。 貸した金のことを覚えているくせしてとぼけ続けるやつ。 火事なのにタバコに火をつけて一服する消防署員。 「ご愁傷様」と言いながら、「香典がまたいるわい」と金勘定するやつ。 お経の途中を抜かしたくせして一人前お布施をせしめる坊主。 坊主の話のついでに、「金がないからご寄進を」と言いつつベンツを乗り回す糞坊主。 まだまだあるが、書き連ねていると本当に腹が立ってくるので、ここらで打ち止めにする。 ところでどうしてこういったことに腹が立つのでしょうか。 みなさん、考えたことありますか? 弁論大会の原稿みたいになりましたが、問題提起だ。 問題提起したら、その答えを出す。 これが論理的文章論だそうだ。 で、その答えは、『デリカシー』の欠如。 こうすれば他の人がどうなるか考えないから、 また、こう言えば他の人がどんな気持ちになるか考えないから。 至極簡単な答えで申し訳ない。 それに模範解答すぎて面白味もない。 でもデリカシーのない言動が、昨今我々の社会生活を蝕んでいる事実を見逃してはならない。 そうおっさんは思う。 違いますか? これは問題提起ではない。 賛同を求めているのだ。 * 初対面なのにまったく緊張感がない。 それもそのはず、目の前の女はあまりにも飾りがなく平凡そのものだったからだ。 幸政は知恵の顔を正面から見ていた。 鼻は高くなく低くなく、こじんまりと顔の中央に収まっている。 目も切れ長ではなく酔わせるような潤いもない。 ただ光は強く、澄んで凛としたところはある。 ほっぺにはまだ少女のような赤みを残しており、それに日焼けしていた。 唇も紫外線の餌食になったのか、ややかさついた感があり、 若い女特有の艶やかさがない。 たが、これも好意的に解釈すれば、しっかりと結ばれた唇からは意志の強さだけは窺い知れる。 額に無造作に垂らした髪が、どこかふけた印象を与えていた。 化粧でもすれば、多少なりとも見栄えもするのだろうが、そういうものにも無頓着らしい。 「これってお見合いなんでしょう」 幸政の値踏みするような視線を跳ね返すように訊いてきた。 「そうらしいね」 幸政もつい不躾な言い方になった。 「断ってもいいわよ」 「断るって……」 「見合いなら受けるか断るかはっきりした方が話が早いでしょう」 いきなり結論に直行とは、味も素っ気もない。 正直、幸政は言われなくても会ったときから断ろうと思っていた。 ちょっとは期待もなくはなかったが、 チョコレートパフェを遠慮なくつつく野暮ったい田舎女を目の前にして、 余計その気持ちが強くなった。 「しばらく付き合ってから結論を出すというやり方もあるらしいけどね」 一応は灰色の選択肢もあることを臭わせたが、 それはあくまで考える余地さえ残さずに 一発で断ったときの女の気持ちを考えての社交辞令であった。 むしろ知恵の方から、断ってもいいわよ、 と言ってくれたことに内心ほっとしていた。 「わたし、慣れてるから大丈夫」 「慣れてる? じゃあこれまで何度もお見合いを?」 「ううん。今回がはじめて」 「じゃあ何が慣れてると言うんだね」 幸政は訝った。 「百姓女ってこんなもん。さっきあなた値踏みしてたけど、 私って見てのとおり値踏みのしようがない田舎女」 「はあ」 顔に似合わず感だけは鋭いようだ。 それでも幸政はすでに仕草を読まれていたことを少しだけ恥ずかしく思った。 紳士的でなかった、と。 「だから作ったって仕方ないでしょう。 あなたには悪いとは思ったけど、素のわたしで十分」 畳みかけるように言葉が飛んでくる。 飾らない物言いに少し好奇心と好感がわいた。 視線を真っ直ぐに戻し女を改めて見ると、強がりとも思える言葉とは裏腹に、 やはり落胆に近い顔色を隠せないでいる。 目の前の田舎娘が少し可哀想になった。 「別に哀れんでくれなくてもいいのよ」 やはりこちらの心を読んでいる。 「別にそんな……」 「目を見れば分かるわ」 そもそも今回のことはと言えば、父親の古い友人に「くっつけ業」をやってるお節介屋がいて、 どうしても、と言われて否応なく受けた次第だ。 はじめから気乗りはしなかった。 それに幸政ももう少し独身生活をエンジョイしたかったというのが本音。 ところが一年半後、こともあろうに彼らは同じ屋根の下で暮らしていた。 それに知恵のお腹はスイカを抱いたように丸々としていた。 決め手は? それは別れ際の幸政と知恵のこんなやりとりだった。 「お別れね」 「まあそうなるんだろうね」 「あなたの期待に添えない女でご免なさい。 言ったでしょう。わたしって素のままが楽なの」 「それも自分らしくていいんじゃないかな。 最近は自己表現ができないやつが増えたからね。 俺も含めてのことだけど」 「あたしんとこリンゴ作ってるでしょう。 リンゴって店頭に並んでいるまん丸で真っ赤なリンゴより、 見てくれは悪くても太陽をいっぱい吸収し 自然の風を纏ったリンゴの方が甘くておいしいの。 でもね。残念だけど見てくれの悪いリンゴは店頭に並ぶことはないの。 つまりは商品価値がないということ。 多くの人は外見ばかりに目を奪われて中味を見ようとしない。 まあ世の中ってそんなもんでしょうけどね」 「はあ」 「かく言うわたしも見てくれの悪いリンゴと似たり寄ったりだけどね」 「ちょっと待った。 はっきり言っておくけど、君はちっとも見てくれが悪いなんてことはない。 むしろ健康的で溌剌とした美しさがある」 知恵の誠実さについ引き込まれ言った言葉だったが、まんざら嘘でもなかった。 知恵は目を細め幸政をぐっと見た。 「ありがとう。今の言葉素直な気持ちで受け取っておくわ。 初めてだわ。そんなこと言われたの」 知恵は右手を差し出し、 「さようなら。お元気で」 と言った。 幸政は差し出された手をためらいなく握り返すと、 「君って素敵だよ。さようなら」 と、ちょっぴり感傷的になっていた。 一週間後、断るはずだったのにどういうわけか、幸政は再び知恵と会っていた。 そして幸政は言葉を失っていた。 目の前にいるのは知恵だったが、知恵ではなかった。 薄化粧した知恵はまさに溌剌と健康的で、青空を焦がす太陽のように輝いていた。 「化粧しちゃった。どう? 少しは見てくれよくなった」 「綺麗だ」 幸夫は心底そう思った。 そして無意識に言葉を継いでいた。 「店頭に並ばなくってもいいから、俺も太陽をいっぱい吸った、 自然の風を纏った、甘くて健康的なリンゴになれるかな」 「勿論。その方が人生肩肘張らず楽しくて、それに味わい深いわよ、きっと」 「俺、決めたよ」 デリカシー。 その根本は、相手の心を読むということ。 これってとっても大事なこと。 相手へのいたわりが滲み出るから。 すなわち自分の言動に責任を持つことに通じる。 ホットで、丸くて、柔らかいもの。 そしてほんわか包んでくれるもの。 それがデリカシー。