第23話レッドダイヤモンド 前編 | |
鮠沢 満 作 |
「余り物ですけどどうです?」 そう言って庁務員さんが差し出したのはミニトマトの苗だった。 「ちょっと時期は過ぎていますが、まだいけると思いますよ」 独身生活をしているとついつい野菜不足に陥り勝ちになる。 この夏はいっちょトマトでも食って夏バテ防止といくか。 「いただきましょう」 二つ返事で受け取った。野菜を育てる自信はあった。 仕事を終え官舎に帰ると、さっそくもらったミニトマトの苗を植えにかかった。 私の前の住人が家庭菜園をしていたらしく、 庭の一番奥の一角は煉瓦で囲いがしてあり、おまけに肥えた黒土まで入れてあった。 しかし単なる気まぐれだったのか、それとも多忙に追われ庭いじりどころでなくなったのか、 入れ替わりに私が住むようになったときには、野菜、花の類は影をひそめ、 雑草が憎たらしいまでに生い茂っていた。 (官舎を出るときには、普通草をきちんと抜いていくのが礼儀というものだが……。 でも軒下にいくつか菜園用の道具を置いて行ったから、まあいいとするか)。 経済的理由かはたまた不動産関係の理由か、 官舎は山を削って猫の額ほどの宅地空間をこさえ、 そこに無理矢理押し込む形で建てられている。 官舎西側=山の切り出し斜面となる。 だから土砂崩れの心配と日照時間が短いという難点がある。 元菜園はその切り出しの真下に作ってあったので、 私の思い過ごしかなんとなくいつもじめじめぬめぬめした感があった。 正直言って、その一角には足を踏み入れたくなかった。 何か邪悪なものが棲んでいそうな気がした。 例えば、林檎の木はなかったがイヴを騙したような蛇。 まあ、あくまで私の妄想だが……。 だから手早くスコップで黒土を掘りおこすと、 それをわざわざ庭の中央まで運んできた。 それを何度か繰り返し黒土がうず高く盛り上がったところで、 幅と高さを整え畝をこさえた。 家が百姓だからこれら一連の作業は造作なく終わった。 苗は濡らした新聞紙に包んであった。 それを一本一本丁寧に植え、夏ということで水をたっぷりやった。 ペットボトルから吐き出された水の勢いが強かったらしく、 苗は黒土にしなだれかかるようにへばり付いてしまった。 見るからに元気がない。 果たしてこの焼け付く夏を跳ね返して見事に育つのだろうか。 私は多分に不安だった。 でもまあもらったものだから枯れてもいいか。 失礼だが、最初そんな気持ちも多少はあった。 ところがどうだ。数日すると、へたりこんでいたはずの苗が、 予想を大きく上回って青空をぐぐっと押し上げるように 背筋をピーンと伸ばしているのだ。 「俺を舐めるなよ」、と言わんばかりの突っ張りようである。 それを見て、私も俄然やる気を起こした。 何かピリッと唐辛子の辛味に似た爽快感を覚えたのだ。 こいつ小さけどやるじゃないか、と。 そこで私は自分に言い聞かせた。 きっとミニトマトを育ててみせる。 そして味気ない男所帯の朝の食卓を真っ赤なミニトマトで飾ってやる。 それからというもの、出勤前には必ず水をやり、愛の一声運動を始めた。 「おい、この暑さに負けるんじゃねえぞ。逆に太陽を食っちまえ。 いっぱい太陽を食っちまったら、きっと真っ赤になって、 お前の方が太陽になったりしてな。そうなりゃ甘いトマトになること請け合いだ」 本当はその後、「そのときは俺が遠慮なく食ってやる」と続くのだが、 それを言ってしまうと、トマトが怯えてなかなか熟さないといけないので、 言うのはやめにしておいた。 果たしてミニトマトは夏の酷暑をものともせず大きくなった。 まず黄色い花が咲いた。 ナンキンの花を小さくしたような可愛いやつだ。 花が受粉すると、驚いたことにそこからほんの数ミリ程度の小さい緑の玉が生まれた。 よく見ると、それは紛れもなくトマトだった。 トマトの赤ん坊。おまけにトマト特有のギザギザの襟飾りまで付いていて、 それがよだれかけにさえ見えた。 こいつはまたしてもやられたね。 生命誕生の神秘。 私は益々やる気を起こした。 どんなに忙しくても水を絶やさなかったし、愛の一声運動も忘れなかった。 とにかく我が子を育てる思いでしっかり愛情を注いだ。 その甲斐あってか、私の優しさを栄養にトマトの赤ん坊はすくすくその円周率を大きくし、 二週間もすれば大人のトマトに成長した。 玉は真珠の首飾りのように垂れ下がり、その重さで枝がたわんだ。 まさに実るほど頭を垂れるミニトマトかな、だ。 待てよ。これって実は大変な事態じゃないのか。 私は改めて考えた。 というのも、どこかに花咲じじいが隠れていて灰を降らせているんじゃないか、 と疑いたくなるほど枝という枝は真っ黄色の花だらけであったからだ。 これがすべてトマトになる? 吃驚、仰天、目眩、動悸、息切れ、こむら返り、等々。 ざっと数えただけでも、花は優に百を下らない。苗は五本。 ということは、100×5=500。 う~ん、想像するだけで満腹。 想像妊娠というのがあるが、私はまさしく想像満腹に陥ってしまった。 ここまで期待に反して大きくなったミニトマト。 素直に嬉しい。が、またしても不安がよぎった。台風だ。 台風が来ると、折角ここまで育てたミニトマトが元も子もなくなってしまう。 南太平洋で台風が発生したと聞くたび、 私の小さい胸はキューッと押しつぶされるように痛んだ。 実際、その幾つかが四国に接近したときには、針の筵に寝かされた思いだった。 幸い台風は、私の杞憂を嬉しく裏切り香川には直撃しなかった。 「もうミニトマトも終わったでしょう。きのう苗を抜きましたよ」 木陰のベンチに座って涼んでいたら、庁務員さんが話し掛けてきた。 終わった? どういうことだ。 我が官舎のミニトマトは、終わりどころかこれからが端境期というのに……。 この話をすると、「遅植えだったからでしょうか。 それともその黒土がいいんでしょうかね」と首をひねっていた。 黒土? 引っ掛かるものがないではなかった。 数日後、盆で帰省した。 四、五日留守にするため、根腐れするくらい水をやった。 しかし、実家にいても気にかかったのはトマトのこと。 こんなに気を揉んだのは娘が誕生して以来のことだった。 「手塩にかけて育てる」というのは、まさしくこのことを言うのだな、 などと再び子育てのシミレーションをしているような気持ちになった。 盆も終わり五日振りに官舎に帰ってきた。 もしやミニトマトは太陽に干されて枯れているのでは……。 荷物を玄関に置くや、すぐさま庭にまわった。 そして私は茫然と立ち尽くした。言葉が出ない。 目に飛び込んできたのは、真っ赤に熟したミニトマト。 緑の首飾りが真っ赤な首飾りに変身して、 夏の日差しを受け緩やかな放物線を描いてたゆたうように浮かんでいた。 芸術的均衡を壊すのは忍びなかったが、一つもいで口に放り込んだ。 そして舌の上で宝石をゆっくり転がしてみた。 太陽の温もりが広がった。 私はそっと果肉に歯を押し当て、少しもったいぶって噛んだ。 プチッ。 トマトが爆ぜた。 瞬間、これまでに味わったことのない甘い汁が溢れ出た。太陽の香りが溶けていた。 完璧すぎる。赤いダイヤ。 レッドダイヤモンド。 そう命名した。後編に続く