弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
                天霧山石造物の分布図
讃岐の中世石造物の産地として、天霧石材を使用して多くの石造物を生産した弥谷寺の石工達のことを追いかけています。その発展と衰退過程は以前にお話しした通りです。そして、凝灰岩から花崗岩への転換についても見ました。今回は瀬戸内海の花崗岩石材を中心とした生産地めぐりをおこなってみたいと思います。テキストは「印南敏秀   石のある生活文化     瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会」です。

石船石棺|高松市
石船石棺(高松市国分寺町「鷲山石」産)

 石材には、軟らかい凝灰岩・砂岩・石灰岩と硬い花崗岩があり、中世後期までは加工が容易な凝灰岩の利用が盛んでした。例えば凝灰岩は、古墳時代の竪穴石槨や、石棺に使用されています。高松市国分寺町「鷲山石」やさぬき市「火山石」、兵庫県の「竜山石」は、畿内の古墳に船で運ばれています。
 飛鳥時代になって寺院が建立さるようになると、基礎の礎石や地覆石に石を利用しました。飛鳥では石舞台古墳のような巨石による横穴式古墳がつくられ、陸路の巨石の運搬には木製の修羅(しゅら=そり)が使われています。
古墳時代のそり出土、石材を運搬か 木更津で国内2例目:朝日新聞デジタル

奈良時代は唐の影響で石塔や石仏などがつくら始めます。
しかし、凝灰岩は風化しやすいためにあまり残っていないようです。平安時代になると、凝灰岩の岩肌に磨崖仏が彫られるようになります。瀬戸内地方では大分県臼杵市、国東半島の岩屋、元町、熊野磨崖仏があります。
対峙すると見えてくる新境地?大分・国東半島の磨崖仏巡礼 | 大分県 | トラベルjp 旅行ガイド
国東半島の熊野磨崖仏

 鎌倉時代に東大寺造営のためにやってきた南宋の石工集団によって、石造技術が進歩して、花崗岩の加工が可能になります。そうすると、硬くて風化しにくく、岩肌が美しい花崗岩で石塔や石仏が作られるようになります。
南大門 由縁 歴史 東大寺 南大門:鎌倉時代(1185–1333)に東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建(1199)。入宋経験のある重源によってもたらされたこの建築様式は大仏様(天竺様)と呼ばれました。  | 奈良 京都 散策サイト
東大寺獅子像(南宋石工による作品)

安土桃山時代になると安土城のような大きな石垣が作られ、滋賀県の穴太衆など石積技術が格段に進歩します。
その集大成となるのが徳川家による大阪城再建です。この石材切り出しや加工のために多くの石工達が、小豆島や塩飽などの瀬戸の島々に集められます。こうして技術交流などが進み、築城のために発達した石積技術は、その後は瀬戸内地方では塩田や耕地干拓、港湾や波止、石橋、石風呂など、いろいろな面に「平和利用」されるようになります。
岡山城下を守った巨大遺構~百間川「一の荒手(いちのあらて)」の現地公開を行いました~ - 教育委員会 フォトギャラリー -  岡山県ホームページ(教育政策課)
岡山市百間川の「一の手あらい」
  例えば、讃岐で満濃池再築や治水・灌漑工事を行った西嶋八兵衛は、築城の名人と呼ばれた藤堂高虎に仕えていた若者でした。彼は、高虎の名で二条城や大坂城の天下普請にも参加して、土木・建設技術や工人組織法を身につけたいました。生駒藩の危機に際して、藤堂藩からレンタルされた西嶋八兵衛は、藤堂高虎の指示を受けて、ため池築城などを行っていきます。それは大阪城などの天下普請に参加して得た土木技術を身につけていたからこそ可能であったことは、以前にお話ししました。

瀬戸内海の石材産地を東から順に見ていくことにします。
大阪府では、和歌山県境の和泉山脈付近から採掘した軟質の和泉砂岩が有名でした。
和泉の石工
摂州の石工職人(『和泉名所図会』(1796年)
『和泉名所図会』(1796年)には、次のように記されています。

「和泉石ハ其性細密にして物を造るに自在也 鳥取荘箱作(泉南郡岬町)に石匠多し」

そしてその作業場が描かれ、松の木陰の小屋周辺で、和泉石を使って燈籠や狛犬・臼・墓石を作る石工たちがいきいきと描かれています。

国玉神社 (大阪府泉南郡岬町深日) - 神社巡遊録
        国玉神社の狛犬(岬町)
精緻な狛犬の細工は難しく、優れた石工が多かった大阪府泉南郡岬町の加工場だと研究者は考えています。岬町は海沿いで海上輸送に便利で、瀬戸内地方の近世の狛犬の多くは、砂岩製で岬町から運ばれたものが多いようです。和泉砂岩の石造物は内陸の京都や奈良にも淀川の水運を利用して運ばれました。その中には、庭園の沓脱石や橋石などもあります。
 石工達が自立して仕事場を形成するのは、江戸時代後期になってからのようです。
江戸時代中頃まで、石工は大工などの下働きをする地位に甘んじていました。例えば江戸幕府が開かれた頃は、城の石垣など土木工事が石工の主な仕事でした。そして江戸城・大阪城や京都の大規模寺社などの仕事が一段落すると石工達は失業するものが増えます。帰国する家族持ちは別として、多くは周辺で生きていく道を探るしかありません。そこで、周辺の石切場を探しては、石の仕事を始めることになります。そのような中で、町民階級が経済力を高めると、石造物需要が増えます。その需要に応じた商品を作り出していくことになります。その中の売れ筋が、墓石(墓標)でした。当時は、墓石や、石仏を彫ったり、道祖神などを彫るなどの仕事が爆発的に増えていたのです。
 中でも腕の立つ石工は、燈籠などの神社に奉納されるミヤモノ(宮物)を作るようになります。
世の中が豊かになるにつれて、寺社や裕福な町民などからの注文は増え、仕事には困らなくなります。こうして江戸時代後期になると、多くの石像物が作られるようになります。かつては誰でもが墓標を作れるものではありませんでした。その規制が緩やかになると富裕になった商人層が墓標を建てるようになります。武士の石造墓標文化が町民にも流行り始めたのです。
 可愛らしい石仏が庶民にも買うことの出来る値段で普及するようになります。これはモータリゼーションの普及と同じように、ある意味では「石造物の大衆化」が進んだとも云えます。こうしてステロタイプ化した石造物が大量生産物されるようになります。その一方で、錦絵の美人画に影響を受けたような優しい観音様の石仏が生まれてきます。そして、あか抜けた洒落た観音様が好まれるようにもなります。江戸や上方の近郊の村々には、素朴な石仏より、歌舞伎などの影響を受けたあか抜けした石仏が多い、江戸から離れるほど素朴になって行くと云われるのも、「石造物の大衆化」の流れの中での現象と研究者は考えているようです。
しかし、石工の労働は厳しく辛いものでした。
硬い石を鑿を叩き、その粉塵を吸い込み胸を患うものが多かったようです。そのため石工の子供も、長男は別の仕事に就かせ、2男・3男を継がせて家の存続を図ったと云われます。
少し脇道にそれたので、もとにもどって石場廻りをつづけます。

神戸市東灘区の御影(みかげ)から運びだされた花崗岩は、鎌倉時代から高級石材として知られていました。
御影石の採石場(『日本山海名産図会』
 御影石の採石場(『日本山海名産図会』より)
  武庫御影石は、『日本山海名産図会』には
「摂州武庫、菟原の二郡の山中より出せり」、

『摂州名所図会』には、次のように記されています。
「武庫の山中より多く石を切出し・・・牛車のちからをもって日々運ぶこと多し」
「京師、大坂及び畿内の石橋、伽藍の礎石、あるいは鳥居、燈籠、手水鉢・・・」

ここからは切り出された石材が牛車で、湊まで運ばれ、石橋や伽藍礎石、鳥居、燈籠、手水鉢として船で京都や大阪に石材として運び出されていたことが分かります。
六甲山の花崗岩がどうして、「御影石」と呼ばれるようになったのでしょうか?
それは、石の積出港が現在の神戸市東灘区の御影だったからのようです。今でも御影石町、石屋川など石にまつわる地名が残っています。

中国地方の花崗岩の石材地を見ておきましょう。
日本有数の銘石「北木石」の歴史を尋ねて(岡山県笠岡諸島北木島) | 地球の歩き方
笠岡市北木島
笠岡市北木島には、日本有数の大規模丁場があり、日本銀行本店本館にも使用
福山市赤坂 赤坂石の小規模な丁場が点在
呉市倉橋島 国会議事堂などの大型建築や軌道石に使用
柳井市   目が細かく、墓石や土木材に利用
周南市黒髪島の徳山石(花崗岩) 大坂城築城のために開かれた丁場

四国の丁場を見ておきましょう。

高松市庵治の庵治石は日本最高級の良質花崗岩とされています。讃岐では、小豆島や塩飽の島々にも花崗岩の丁場が多くみられます。これらの多くは、大坂城築城のときに大量の石が切り出されて、船で運ばれたこと、そのために各藩は、何百人もが生活する石切職人小屋を建てたことなどは以前にお話ししました。大阪城の築造が終わった後も、周辺の島々にそのまま定住した職人がいたようです。

豊島の石切場
豊島の石切場跡

小豆郡土庄町の豊島の豊島石(凝灰岩)については、

『日本山海名産図会』に、採石場の丁場と加工場の2景が紹介されています。
豊島の石切場2
豊島の豊島石『日本山海名産図会』

豊島石の丁場は、大嶽山腹から坑道を採石しながら内部に堀りすすみ、大きな空洞が描かれています。説明文には、豊島石は、水に弱いが火には強い特徴をいかして、煮炊きに使う電や七輪、松の根株を燃やして明かりに利用した火でばちなどをつくっていることが記されています。なお、豊島石は苔がつきやすいため、造園材として名園の後楽園や桂離官でも利用されています。
豊島の加工場
豊島石の加工場(日本山海名産図会)
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「印南敏秀   石のある生活文化     瀬戸内全誌のための素描221P 瀬戸内海全誌準備委員会」
関連記事