前回は瀬戸内海をめぐる石切場や石工集団について見ました。その中で最後に見た讃岐豊島石(土庄町)については、「日本山海名産名物図会」(寛政11年(1799)刊行)に2枚の挿絵入りで紹介されています。
豊島の石切場3
讃岐豊島石「日本山海名産名物図会」
一枚は左側が、洞内から石を切り出している姿が描かれています。右側は切り出された石に丸い穴を開けているように見えます。今回は、豊島石の記事を見ていきたいと思います。テキストは「国立国会図書館デジタルコレクション」の 豊島の細工場『日本山海名産図会』です。
まず、説明文を読んでみます。
  大坂より五十里、讃刕小豆島の邉にて、廻環三里の島山なり。「家の浦」・「かろうと村」・「こう村」の三村あり。「家の浦」は、家數三百軒斗り、「かろうと村」・「こう村」は、各百七、八十軒ばかり、中にも、「かろうと」より出づる物は、少し硬くして、鳥井・土居にこれを以つて造製す。さて、此の山は、他山にことかはりて、山の表より、打ち切り、堀り取るには、あらず。唯、山に穴して、金山の坑塲(敷口?))に似たり。洞口を開きて、奧深く堀り入り、敷口を縱橫に切り拔き、十町(約1㎞91m)、二十町の道をなす。採工、松明を照らしぬれば、穴中、眞黒にして 石共、土とも、分かちがたく、採工も、常の人色とは異なり。かく、掘り入るることを、如何となれば、元、此石には、皮ありて、至つて、硬し。是れ、今、「ねぶ川」と号(なづ)けて出だす物にて【「本ねぶ川」は伊豫也】、矢を入れ、破(わ)り取るに、まかせず。ただ、幾重にも片(へ)ぎわるのみなり。流布の豊島石は、その石の實なり。
 故に、皮を除けて、堀り入る事、しかり。中にも、「家の浦」には、敷穴、七つ有り。されども、一山を越えて歸る所なれば、器物の大抵を、山中に製して、擔ひ出だせり。水筒、水走、火爐(くはろ)、にて、格別、大いなる物は、なし。「がう村」は漁村なれども、石も「かろうと」の南より、堀り出だす。石工は山下に群居す。ただし、讃刕の山は、悉く、この石のみにて、弥谷・善通寺、「大師の岩窟」も、この石にて造れり。

豊島の石切場
豊島(小豆島土庄町の石切場)
意訳変換しておくと
大坂から五十里の讃岐小豆島の辺りにある周囲三里(12㎞)の島が豊島である。集落は家浦・唐櫃(かろうと)」・甲生(こう)村」の三村がある。その内、家の浦は、戸数三百軒ほどで、その他二村は、各180軒程である。

豊島観光 豊島石採掘場
          豊島石採掘場入口
唐櫃産の石材は、少し硬く鳥居や土居(建物土台)に使われる。豊島の石切場が他と違うのは、山の表面から切り出す露天掘りではなく、金山と同じように「敷口(坑道入口)」から、奧深くに堀り入ってり、十町(約1、1㎞)、二十町の坑道が伸びている。そのため採石のためには、松明を照らすので、洞内は眞黒で、石か土か見分けもつかず、石切工も真っ黒で、普通の人とは顔色が違う。
  「讃岐豊島石」と題された挿絵を見ながら確認していきます。
豊島の石切場左
讃岐豊島石「日本山海名産名物図会」(拡大図)

石切場は坑道の奥深くにあるとされています。坑道内部が真っ暗なので3ヶ所で。松明が燃やされて作業が行われています。
④の石工は、げんのを振り上げて石材に食い込んだのみに振り下ろし、石を割っています
⑤の男は、天井附近の切り出せそうな石材をチェックしているのでしょうか。それを⑥⑪の男が見ています。
⑦の男は、小さなげんのを持ち、⑧の男は棒のようなもので測っているのでしょうか、よく分かりません。
⑨⑩の男達は、のみを持ち切り出した正方形の大きな石に丸い穴を開けているようです。
右側も松明が灯されたそばで②③の男達が四角い石材に穴を開けています。
この絵を見て疑問に思うのは、
A どうして暗い坑道の中で石造物制作作業が行われているのか?
B ここで造られている石造物⑨⑩は、何なのか?

そして、次の説明文が、今の私にはよく読み取れません
かく、掘り入るることを、如何となれば、元、此石には、皮ありて、至つて、硬し。是れ、今、「ねぶ川」と号(なづ)けて出だす物にて【「本ねぶ川」は伊豫也】、矢を入れ、破(わ)り取るに、まかせず。ただ、幾重にも片(へ)ぎわるのみなり。流布の豊島石は、その石の實なり。
意訳変換しておくと
 こうして、坑道を堀り入って切り出すが、もともと豊島石は側面が硬い。それを「ねぶ川」(根府川石(安山岩)と称して出荷している。この石の加工は、楔で割るのではなく、幾重もの皮状の部分を片(へ)ぎ割るのである。豊島石の石造物は、へぎ残した部分ということになる。

先ほど見た②③や⑨⑩の石工たちが、四角い石に穴を開けていることと関連がありそうですが、よく分かりません。分からないまま意訳変換を進めます。
 家浦には7つの石切場(敷穴)がある。しかし、途中に峠があるのでそれを越えて運び出さなければならない。そのため製品の大部分は、山中で制作して、それを擔(にな)って運び出している。水筒(水道管や土管)、水走(みずばしり:厨の水場・洗い場)、火爐(くはろ:小型のかまど)などの生産が主で、大型のものはない。

もう一枚の「豊島細工所」と題された挿絵を見ながら説明文を「解読」していきます。

豊島の加工場2
        豊島細工所「日本山海名産名物図会」

①⑦は石切場から切石が背負われたり、担がれたりして細工所(作業所)まで下ろされています。説明文の「大抵を、山中に製して、擔(にな)ひ出だせり。」の通りです。

豊島の加工場左
豊島細工所(拡大図)「日本山海名産名物図会」
②は、運搬されてきた切石のストック分が積み上げられているようです。
③は燈籠ですが、描かれている数はひとつだけです。
④が、石切場でも粗加工されていたものの完成版のようです。この用途が分かりません。
⑤は④よりも大きくい四角形の石造物です。これが水走(みずばしり:厨の水場・洗い場)でしょうか。
⑥は、開放型の水筒(水道管や土管)でしょうか。
⑨は臼のようにもおもえますが、石工が中に膝下まで入って削っています。臼だったら、こんなに深く彫る必要はありません。長さが短いですが、土管のように見えます。大名屋敷のような遊水式庭園では、「水筒」やジョイントの器具が使われているようです。

豊島加工場拡大図

⑩は、臼にしては小さいようです。これが説明文に出てくる「火爐(くはろ)=火鉢」かも知れません。
⑪は手水石のようにも見えます。
⑫の石工が造っているのが、先ほど見た④⑪の「火爐(くはろ)」の製造工程のようでが、よく分かりません。

後日に「国立国会図書館デジタルコレクション」の「日本山海名所図絵」を眺めていると、こんなものを見つけました。

豊島産カマド

縁台の上に載せられた小型のカマドに、釜が載せられています。手前には、貯まった灰に火箸が突き刺しています。薪ではなく火鉢のように炭を使っていたようです。大坂辺りでは、こんなカマドが使われていたことが分かります。
 さらに、グーグルで「豊島石 + 竈」で検索してみると出てきたのが次の写真です。
豊島産カマド2
豊島石のかまど(瀬戸内民俗資料館)
瀬戸内民俗資料館の展示物で「豊島石のかまど」という説明文がつけられています。どうやら「日本山海名所図絵」の「豊島細工所」に描かれているのは、このコンパクトかまどに間違いないようです。

 豊島産カマド3

豊島石の五輪塔とか燈籠は、この時期には花崗岩製のものに押されて市場を奪われています。それに代わって、生産し始めたのが円形に掘り抜きやすい特徴を活かして、水筒(水道管や土管)、水走(みずばしり)、火爐(くはろ:小型のかまど)、火鉢などだったのではないでしょうか。
 さきほど分からないままにしておいた 「この石の加工は、楔で割るのではなく、幾重もの皮状の部分を片(へ)ぎ割るのである。豊島石の石造物は、へぎ残した部分ということになる。」という意訳もそう考えると間違ってはなかったようです。
  もうひとつの豊島石の作品として面白いのがこれです。
豊島に行くとよく見かけるものですが、石でできたかまくらみたいに見えます。この中には、仏様やお地蔵さんがいらっしゃいます。地蔵さんの「円形祠」です。これが火鉢やカマドの先なのか、円形祠が先なのかは、よく分かりません。どちらにしても同じ、技術・手法です。軟らかくて加工しやすい豊島石だからこその作品です。

豊島産

こちらは、徳島城にある豊島石の「防火用水槽」です。
豊島産防火用水(徳島城)」

正面には立派な家紋らしきものがあります。特注品だったのでしょう。豊島石は、石と石の間が粗く、浸透しやすいく水に弱いとされていました。防火水槽には向かないはずですが、よく見ると内側は白くモルタルが塗られているようです。
最後の部分を意訳しておきます
甲生村は漁村であるが、唐櫃の南に石切場がある。ここでは石工たちは、石切場の山下に群居している。讃岐の山は石材はこの石だけで、弥谷や善通寺の「大師の岩窟」も、豊島産石材で造られている。

  ここで注目しておきたいのが、讃岐には豊島石以外に石材はないとしていることです。弥谷寺や善通寺の岩窟や石造物も豊島産であるというのです。弥谷寺周辺には中世以来、天霧石で五輪塔などの石造物が数多く生産され、15世紀には瀬戸内海一円で流通していたことは以前にお話ししました。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
         天霧石産の五輪塔分布図
18世紀末になると、かつての弥谷寺周辺で活動した石工達や、石切場のことは忘れ去られていたようです。また、この記事内容を根拠にして、中世から近世の石造物は豊島石で造られたものとされてきた時代があります。それが天霧石であったことが分かったのは、近年になってからです。その「誤謬」の情報源が、ここにあるようです。
豊島石の産地
豊島石の産地
以上をまとめておくと
①18世紀末に書かれた「日本山海名産図会」からは、当時の豊島石の石切場が坑内の中にあったこと
②石の内部を繰り出し、円形に加工する石造物(火鉢・石筒、かまど)などが生産されていたこと
③18世紀末には、讃岐では製造物生産地としては豊島が最も有名で、天霧石や火山石は忘れ去られた存在となっていたこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
豊島の細工場『日本山海名産図会』「国立国会図書館デジタルコレクション」