瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2016年07月

 まんのう町に白鳳期の古代寺院跡があるという。

弘安寺周辺地遺跡図

にわかには信じられなかった。調べて見ると、香川県史にも、新編満濃町誌にも触れられている。そして、礎石と白鳳期の瓦が出土していると書かれている。これは行かねばなるまい。地図で当たりをつけながら四条小学校の西周辺の道を原付バイクで散策。目標は四条本村の薬師堂。すぐそばに公民館も同居と聞いていたが、なかなかわかりにくい。
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薬師堂 まんのう町四条本村

細い道を入り込んでいくと、それらしき空間が開けてきた。高さ1㍍の土壇の上に薬師堂が建てられている。方二間の南面する薬師堂の西側に回り込んでいくと、大きな石が不規則に置かれている。これが古代寺院「弘安寺」の礎石のようだ。1937年に、お堂を改築する際に、動かされたり、他所へ運び出されたものもあるという。

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 さらに裏側に回り込むと、薬師堂の北側の4つの柱は、旧礎石の上にそのまま建てられている。移動されなかったと思われるの四つ礎石についてみると、土壇場にあった旧建物は南面してわずかに西に向いている。礎石間の距離は2,1㍍である。これが本堂跡だろうか。

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薬師堂の下の礎石

以下 満濃町誌によると (満濃町誌107P) 

薬師堂の前に、長さ2,4m 幅1,7m 高さ1,2mの花崗岩が置かれている。塔の心礎であったと思わる。中央に径55㎝、深さ15㎝ の柄穴がある。しかし、塔の位置は確認することができない。

弘安寺 塔心跡
弘安寺 塔心跡

 薬師堂の南方、120㍍の所に大門と呼ばれる水田があるそうだ。土壇とこの水田を含む方一町の範囲が旧寺地と考えられ、布目瓦が出土した範囲とも一致する。
 この方一町の旧寺地の方向は、天皇地区に見られる条里の方向とは一致せず、西に15度傾いている。このことからこの寺の建立は、条里制以前の白鳳時代にまでさかのぼると考えられる。
 本尊の薬師如来は、像高131㎝ 一木作りで大きく内ぐりが施された立像である。各部に大修理が加えられているが、胸のあたりから腹部に流れる衣文の線が整って美しく、古調を漂わせている。
 弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
  弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
           
 境内から出土した瓦のなかには、十六葉単弁蓮華文軒瓦瓦(径19㎝)など、法隆寺系の白鳳時代の瓦が含まれている。
この中で興味深いのは、ここから出土した軒丸瓦とおなじ木型で作られた瓦が以下の寺院から見つかっていることです。

弘安寺軒丸瓦の同氾

①徳島県美馬市の郡里廃寺(こうざとはいじ:阿波立光寺)
②三木町の上高岡廃寺
③さぬき市寒川町の極楽寺跡
これらの寺院ら出土した瓦と同じ木型で作られた瓦が、弘安寺でも使われていたようです。さらに、木型の使用順も弘安寺が一番早く、①②③と木型が使い回されていたことが分かっています。弘安寺とこれらの寺院、造営氏族との関係がどうなっていたのかが次の課題となっているようです。それはまたの機会にすることにして・・


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もうひとつこの立薬師堂で見ておきたいものがあります。
立薬師本堂左には小さなお堂があり、そこには古い石造物が安置されています。
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 弘安寺跡 十三仏笠塔婆
柔らかい凝灰岩製なので、今ではそこに何が書かれているのかよく分かりません。調べてみるてみると、次のようなものが掘られているようです
①塔身正面 十三仏
②左側面上部に金剛界大日如来を表す梵字
③右側面上部に胎蔵界大日如来を表す梵字
④側面下部に銘文 四條村の一結衆(いっけつしゅう)によって永正16年(1519年)9月21日に造立
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弘安寺跡 十三仏笠塔婆
 塔身の高さは58㎝、幅と奥行は28㎝で二段組の台座40㎝の上に立つ。笠と五輪塔の空輪が乗せられて総高は142㎝
この石造物は、中世の16世紀初頭の石造物になるようです。その時代まで、ここには古代創建の寺院が存続していたのでしょうか。そうだとすれば、法然がやってきた13世紀にも、この弘安寺はあったことになります。多分、まんのう町域では、最も由緒ある真言寺院であったことでしょう。しかし、法然の記録には、この寺院のことは出てきません。小松荘で彼が拠点としてのは、別のお寺であったことは、以前にお話ししました。
 四条本町周辺には、条里制施行に先行する7世紀後半の白鳳神社があり、16世紀近くまで存続していたとしておきましょう。四条本町が、このエリアの中心だったことがうかがえます。

白鳳期の丸亀平野南部において、古代寺院を建立した古代豪族とは?
善通寺では,有岡古墳群から古代寺院の「善通寺」建立へと続く佐伯氏の存在が思い浮かぶ。この地域の古代寺院を建立するだけの力を持った豪族とはだれか?

満濃町誌は因首氏(改名後は和気氏)だと次のように推論しています。

 本尊の薬師如来については、枇杷(びわ)の大木を刻んで造ったという『讃留霊王皇胤記』島田本に見られる和気氏の枇杷伝説に付会した伝承がある。また、木徳の和気氏が弘安寺以来の大旦那であったことが語り継がれている。
現在薬師堂に伝わる記録の中にも「和気氏が常に多額の金を寄付して第一の大旦那であった」ことを示す記事がある。この寺は、和気氏の氏寺として建立されたとも考えられる。
 一般の家屋が平床の掘立小屋で、藁や板で屋根を葺いていた当時、弘安寺の瓦が金毘羅山を背景にしてそびえ立つ姿は、美しい一幅の絵であったであろう。仏教は、すぐれた仏教文化の広がりという形で満濃町にも浸透した。

  香川県に、はじめて電灯を灯したのは高松電灯だった。

旧高松藩士 牛窪求馬(うしくぼ もとめ)・松本千太郎

創立者の牛窪求馬は、高松藩の家老職の生まれで、高松で最初に自転車に乗り、靴をはき、洋服を着た人と言われ「ハイカラだんな」と呼ばれた人。この求馬が高松にも電灯会社をつくろうと決心したのは、明治26年、数え年31歳の時だった。幕末生まれで増田穣三とは同じ世代に当たる。発起人となって同志をつのり、旧藩主の松平家から資金援助もあって、資本金5万円の高松電灯が発足したのは、2年後の明治28年4月。その後、配電区域を着実に拡大していく。

旧丸亀藩内でも、電灯会社設立をめざす動きが二つ動き出す。

るいままとしての365日:景山甚右衛門を知っていますか?(多度津町)

一つは、多度津の景山甚右衛門や坂出の鎌田家を中心とするもの
もう一つは中讃の農村部の助役や村会議員の動きである。
後者の中心人物の一人が増田穣三である。設立呼びかけ人には増田穣三の他、当時の七箇村長や春日の名望家の名前も見える。郡部の地主僧を中心に「電灯会社」設立準備へ向けての動きの中心に穣三はいたようだ。
 もうひとつは、坂出の鎌田家と多度津の景山家の連合体だった。そして、認可が下りたのは後者。鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神」として資本力も数段上の多度津坂出連合ではなかった。譲三が集めた「中讃名望家連合」であった。
 しかし、認可権は得たものの高松電灯のように、殿様の支援があった訳でなく資本も技術も経営術もない素人集団。それが外国から発電機を買い入れ発電所を作り、電線を引いて電気を供給するという仕事に取り組んでいくことになる。当然、難問続出で遅々として営業運転までに到らない。この「電力会社誕生物語」の難産の中に、増田穣三が社長として「火中の栗」を拾わざる得なくなっていくのである。
 実業家 増田穣三の姿は?
 若き日の増田穣三は、華道・浄瑠璃・三味線・書道など文化人としての側面を強く見せていた。村会が開かれた明治23年以後は、七箇村村会議員として村長・田岡泰を補佐してきた。さらに明治27年、矢野龜五郎の退任後には、代わって助役に就任し、政治への関わりをより強めていく。

増田穣三 讃岐人物評論

増田穣三 「讃岐人物評論」(明治37年)より
もうひとつの側面である「実業家」しての一面である。

それをうかがわせる資料が四国水力発電株式会社(四水しすい)の30年史である。これにより「実業家増田穣三」の姿を見ていきたい。
 「四水」の前身である「西讃電灯株式会社」の株式募集の発起人12名に、増田穣三の名前がある。さらに、穣三の後に村長となる近石伝四郎との名前もある。電力という新規事業に、農村部の若き資産家や指導者が関わっていく姿が垣間見える。

増田穣三と電灯会社
西讃電灯設立への歩み
 電灯会社設立の認可が下りると西讃電灯は金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認を求めた。資本金総額12万円  株金額50円 募集株数2400で、払込期限は、明治31年5月5日とされた。これを受けて明治31年9月に正式に会社が創立される。
 しかし、ここからが大変であった。会社は作ったが、素人集団。経験や技術、そして信用がない。工事は進まず開業の見込みもたたず「開店休業」状態が続く。設立時の社長・副社長は県外人で直接業務に関与せず、責任の取りようもない。このような状況に対して株主の不満は高まり、明治33年10月21日 臨時株主総会において、役員の総入れ替えを行い、同時に社名を「讃岐電気株式会社」と改称した。 何が営業開始の妨げとなっていたのだろうか。株主宛の報告書を少し長いが見てみよう。

明治34(1901)年7月7日、讃岐電気株式の株主への報告書  (四水30年史よりの意訳)

 我々が、前重役諸氏に代わって就任して以後、工事を進捗せしめ、発電機等が到着すれば直ちに据付ができるように準備を進めてきた。しかし、内部の整理に多くの日時費やし、事業の進捗が見られないのが現状である。
電柱が建てられない・・・・
 電柱は、明治32年4月より讃岐鉄道多度津停車場に到着しており、丸亀市や多度津町の市街地において電柱工事に着手し、引続き市外での建設を行い、次に琴平町や善通寺村にも伸張していくつもりである。市外工事は、田野に建設することになるが土地所有者から電柱建設の承諾は得ている。しかし、不動産登記法により地上設定の登記を行わなければならない。これには、該当書類の手続きや押印に時間がかかり大幅な遅れとなり、市外への電柱工事は進んでいない。このため予定通り、市街地内での建設と同時に土地登記を行い、その後に田野に建柱し架線工事を終え、各戸に電燈器具の取附引込を行う手順となる。予定からすれば、今秋には架線工事を完了させるはずだったのに未だ終わっていない。このため工員等を増員しても早期完成を図るべきだと冷評する人もいるが、それは皮相な見方で我社の方針を知らないからである。
また、本社建築についても直ちに着手しないことについて悪評がある。
これもまた我社の方針を知らない者の言である。建築物についてはわずか5,6000円で落成を見ることができる。しかし、機械室に至っては外國より機械据付の設計図及ボートゲージ等が到着しなければ地形杭打煉瓦積工事に着手することができない。従って機械室の建設着手を待たずに、付属建物に着手すれは手直しが必要になる可能性が大である。
発電機械の一部は、請負者が外国に発注しており、遠からず到着の見込みであるが、前重役時代の時のように機械は到着するが株金振込が遅々として進まず、機械の引き取りができない可能性も残る。
 そうなれば、請負者も融通の道がなく手附金の損失となる。機械は、他の会社に廻される不幸の再演を恐れる。そのため全額支払いとせず分割支払いにしていたが、内部整理のために日時は空しく過ぎ、第2回振込期日を3月末と定めたところ第79銀行の破綻となった。我社は別に関係する所ではなかったが経済界不振の状況のため銀行は警戒を強め貸出を躊躇し、第2回株金振込も完結できない状態となり、工期完成を延長せざる得なくなった。
 発電機械の図面がなければ、大きさが分からず家屋をつくれない
その間に、外国より発電機械の図面が到着すれば、直ちに機械室内杭打工事に着手し引き続き煉瓦積を行い、同家屋の起築に着手する。そして、諸機械到着を待って据付工事の準備を行い、一方においては市内の架線工事を行っていきたい。しかし、郊外の田野の架線が出来なければ、雨露に曝して痛みを早めることになりかねない。そのため世評の如何を顧みず架線工事を後にして、来月末日より電燈需要の申込を受付け、各戸の電燈器具取付工事を開始し、秋以後に住宅への架線引込工事に移りたいと考えている。
 以上、述べてきたように工事遅延の理由と、また、今後の運営方針についてご理解頂きたい。
そして、来年4月高松市で開かれる関西府県連合共進会期前には送電を開始したい。そうすれば電燈需要数の増加を見込める。機械発注の請負者に対しても、すでに外国の機械製造所と仮契約をしていることを挙げて、電報で至急調整を促し、来年2月完成、3月中には逓信大臣の免許を受け4月1日より開業を目指したい。
 株主諸君には、これらの事情を充分了解してりて当會社の被るべき風評を退け株金振込についても遅延することなく振り込み願いたい。また振込にあたって遅れる者があれば共済の策をとるなどの方策も採りたい。早く工事を落成させ、萬歳歓呼の間に試運転の好成績を告け、早く幾分の利益配当を得て、本会社の声價を挙くることに勉められんことを
 会社設立後、2年も経っているのに営業運転に入れない理由をまとめると

増田穣三 電灯会社営業開始の遅れ

  以上のような要因が重なり、営業開始が延び延びになり、会社に対しての「非常の悪評」「冷評」が噴出している状況がうかがえる。
 この株主総会で約束した「明治35年4月1日営業開始」も守れず、営業開始への見通しがつかないまま渋谷武雄社長は病気辞職。これが明治35年8月のことである。

代わって、取締役から社長に就任することになったのが穣三である。

増田穣三と讃岐電気
増田穣三と西讃電灯設立
 彼は、2年前から七箇村長、県会議員(参事)を務めていた。
この局面打開に彼の政治力を期待しての社長就任と言うことではなかったかと推察する。しかし、会社の置かれた状況から見て「据えられた社長」的存在だけに留まることは許されなかった。
 社長就任3年後の明治37年に出版された「明治37年出版 讃岐人物評論   讃岐紳士の半面」には、「讃岐電気社長・県参事会員 」の肩書きで増田穣三が紹介されている。
「入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや必」
と「実業家としてのお手並み拝見」的な内容である。さてそれでは、増田穣三の実業家としての「手腕ぶり」を見てみよう。

明治35年8月の株主総会への増田穣三社長の報告書 

当会社事業は、株式不況の現状に加えて軽便電燈の出願があり、大きな影響を受け、営業開始が累々延期を重ね今日に至っている。もはやこれ以上の延期ができない所まで来ている。そのための対応として、工事の速成を計るために請負者才賀藤吉氏を通じて、技師工學士梶平治氏を渡米させる交渉に当たらせ本年9月中旬には諸機械の到着する予定となった。そして、10月の琴平大祭までに開業できる目論見である。開業期日が判然としないため電灯申込者が、現在の所は少いようであるが丸亀の兵営郵便局や昼間の電動力を使用する事業所等とは着々と交渉を進めつつある。
 また、一般需要者に対しても大々的に募集計画を周知しており、その結果坂出町などでは電線延長を申請する動きもあり、開業の暁には香川の地方電燈會社の中では、優に覇たるものになるとと信じている。乞ふ株主諸君開業期間の遅延を咎めさらんことを
 社長に就任した穣三は、技術者を渡米させると共に、善通寺師団等の大口需用者の確保を進め、琴平大祭の十月初旬には「開業せん目論見」であった。しかし、「障害百出」と設計変更に伴う認可申請のやり直しで、半年遅れの明治36年3月15日になって、初めて多度津の町に電灯を灯すことが出来た。送電営業開始は、それから4ヶ月後の7月30日であった。計画から8年、会社設立後5年の歳月を経ての難産ぶりであった。開業に向けて足踏み状態にあった電力事業を、営業運転にまで導いたという評価は出来るだろう。
 しかし、開業から1年目の株主総会。第1期の営業成績は次の通り

電灯会社の収支決算 開業年
讃岐電灯開業1年目の営業成績(1904年)
 収入が支出の三倍を超える大赤字である。これを受けて、増田穣三社長は次のように報告している。
明治37年7月 株主総会における増田穣三社長の報告
営業開始以来いまだ日が浅く、受電所の設備などが未だ完成に至っていないため、師団聯隊等の多数の需用に応ずることできていない。わずかに丸亀・多度津の区域内において零細の申込を受けながら480餘個の点灯数に達しているにすぎない。そして、今後は加入者が増加することが望めるが、現在の発電能力では、すぐに需要をまかないきれなくなることが予想される。設備の不完全が営業の不況を招いている。
 誠に遺憾であるが資本欠乏の状態でかろうじて開業にたどりついた現状では、漸進企画の途上にあり、やむを得ないと云はざる得ない。来年初夏の頃、工事全部の完成になれば我社の営業は近き将来において、一大盛況を呈すであろう。期して待つ可きなり
  営業開始から1年で、点灯受容者は480ヶ餘に伸び悩み、収入は支出の1/4程度。繰越赤字は80000円を超える状態である。
 しかし、現時点の苦境よりも未来を見つめよとし「当会社の営業は近き将来に於て一大盛況を呈す可きや。期して待つ可きなり」と大幅な欠損にもかかわらず、決して悲観せず大いに望を将来に託すべしという言葉で締めている。
増田穣三の方針は「未来のためへの積極的投資」であった。
 例えば、日露開戦を機に善通寺第11師団兵営の照明電灯化が決定し、灯数約千灯が讃岐電気に発注されることになると、お国のためにと採算度外視で対応し短期間で完成させている。さらに、明治38年には琴平への送電開始され、電力供給不足になると150キロワット発電機を増設し、210キロワット体制に設備投資を積極的に行った。
増田穣三 電灯会社の経営をめぐる対立
讃岐電灯経営戦略上の対立
 しかし、日露戦後の景気悪化のため契約数が伸びず、新設備投資が経営を圧迫するようになると、増田穣三の経営に対する不安と不満が起きてくる。 設立以来の赤字総額は8万円を越えていたようだ。

「投資拡大路線」の継続か、欠損金を精算して新体制でのやり直しかをめぐる経営上の対立が激しくなっていった。

 この時期、政治家としての増田穣三は、明治38年11月の第7回通常県会で第13代県会議長に選任されていた。43歳だった。議長としての職責を全うするためか、この時2つの決断を行っている。

増田穣三の責任の取り方
1つは、1906年1月に讃岐電気社長を辞任。
2つ目は、3月には七箇村長を退任
3つ目は、1907年9月の県会議員選挙に出馬せず
こうして、約4年間の増田穣三の「讃岐電気社長」時代は終わる。
増田穣三が去った後の電力会社は?
今までの欠損を、資本金を切り崩すことによって精算する道を選ぶ。 
会社は明治40年5月、12万円の資本金の内の84000円を「減少」して、いままでの損失を補填。残りの36000円を資本金とした。この結果、出資者たちは収支額の約2/3を失うことになった。損害を受けた大口株主として、
「安藤氏に於て8萬六千圓餘、長谷川氏に於て二萬二千円餘、増田穣三氏に於て千圓餘の損失となるも本社の革新を図る主旨により茲に至りたるものなれば、会社か前者に對する功労の偉大なるを認む」
と、新社長景山甚右衛門は株主総会で謝罪している。
 電灯会社設立に向けて、中讃の資産家に投資を呼びかけるなど当初から中心メンバーとして関わってきた穣三が失ったものは投資額の1000円という金額を遙かに超えて大きかった。戦前の地方の名望家達は、ネットワークを形成しており色々な情報・話題が飛び交う。「資本減少」という荒治療は、この電力会社の設立を当初より進めてきた増田穣三への信用を大きく傷つける結果となった。穣三自身も責任を痛感していた。それが、村長や県会議員からも身を退くという形になったのではないか。

多度津の景山甚右衛門を社長に迎えて会社は「資本減少」という「荒治療」と同時に、役員の更迭を行なって、景山甚右衛門を社長に、武田熊造を副社長に迎え、地元多度津の有力者による重役陣体制を作った。その上で、この年の8月の臨時総会で、114000円(2280株)の増資を行った。この増資の引受人は「前項新株式は全部景山甚右衛門、武田熊造、武田定次郎、合田房太郎、磯田岩5郎の5氏に於て引受くるものとす」とされた。結果から見れば後に「四国有数の優良企業」に成長するこの電力会社は、出資者も経営者も多度津関係者で固められることになる。

 この後の技術革新で水力発電で電気を生み出し、高圧送電技術の進歩を受けて遠距離送電が可能になる。新社長の景山甚右衛門は、いち早くこの技術を取り入れ社名も「四国水力電気株式会社」(四水)と改名し、後の四国電力に発展していく。増田穣三が、社長を務めたのはその前史にあたる。

  少年期に「和漢の学」を学び、華道や書道に楽しんだ少年が明治を迎えて、村の指導者として成長して村長職に就く。そこから県会議員や議長にまで成長していく。そして、道路や電気などの当時の最需要インフラ整備に関わっていくことになる。明治という時代は、若き人材を走らせながら育てていく時代なのだと改めて思う。
 さて、譲三は村長と県会議員から身を引き、電力事業からも遠ざかる。45歳である。


県議会議員時代の増田穣三 

1899(明治32)年3月7日に行われた第5回県会議員半数改選に増田穣三は初当選し、翌月には、二代七箇村長に就任している。穣三41歳のことである。
その5年後に、「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という本が出版されている。
当時の香川県の政治経済面で活躍中の人物を風刺を効かしながら紹介している。その中に増田穣三もいる。これを見ながら、増田穣三の県議会時代を垣間見てみよう。
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讃岐電気会社社長 県参事会員 増田穣三先生

躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いて讃岐電気会社社長たる地位を表彰す、増田穣三先生も亦好適の職に任じられたるもの哉。
 村長としての先生は夙に象麓の柳桜を折り、得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの、出でて県会議員となり参事会員の要地を占めるや、固より以て玉三の金藤治の如く、堀川の弁慶の如き硬直侃鍔の理屈を吐かざるも、萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なきは八百屋の献立の太郎兵衛に肖、また7段目の平右衛門に類するなきが、而かも先生義気の横溢する、
 知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、当に作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る、事茲に及びて侠名豈獨り幡随院長兵衛の占有物ならんや。義気将に畠山庄司重忠の手に奪ふを得べし。
 入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや必
 先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か、伝説す頃者玉藻城下に於いて頻りに其美音を発揚するの機会を得と、真ならんか羨望に堪えざる也。妄言多謝

 県会議員としては「寡黙」で「裏業師」?

 まずは増田穣三の風貌が「躰幹短小」「秀麗の面貌」「鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪」と簡略にが描写されており興味深い。
 「得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」は、若い頃に人形浄瑠璃に魅せられて興味を持ち、玄人はだしの腕前であったことに言及し、風流人としての「粋さ」を伝えている。。
 「出でて県会議員となり参事会員の要地を占めるや、固より以て玉三の金藤治の如く、堀川の弁慶の如き硬直侃鍔の理屈を吐かざる」とある。

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「参事会員」とは何だろうか?

  参事会とは県会に設けられた機関で、県知事・高等官二人と府県会互選の県会議員四人で構成された委員会で、県会の議事立案、執行など執行機関としての性格を持っていた。このため県政に深く関わることが多く、他の議員には知り得ない情報も入ってくるし、予算案等に意見を述べることも出来た。つまり、新人議員ながら県政の中心に飛び込んだというこになる。県の財政や政務の運営を眼のあたりに見ることができるポストに就いたのだ。これは、穣三にとっては大きな経験と財産になっただろう。
  
 県会議員としては
「萬事万端圭角を去て圓満を尊び、能く周旋調定の労を執りて敢て厭う所なし」
というのが増田穣三の流儀のようである。
 しかし、議会内の活動状態については「先生の議場にあるや寡黙にして多く語らず、而して隠然西讃の旗頭を以て居る、何処かに良いところ無くては叶わず、先生夫れ不言実行の人か」と紹介している。
 また、「香川新報」も「県会議員評判録」で「議場外では如才ない人で多芸多能。だが、議場では、沈黙しがちな議員のなかでも1、2を争っている」と、議場における寡黙さを強調する言動が記されている。
 県会での政治的立場としては
「知友堀家虎造先生の参謀長を以て自ら任じ、作戦計画の上に於いて能く推握の効を収むるのみならず、時に或は兵器弾薬の鋳造運搬をさへ司るに到る」
裏工作には積極的に動いたようだ
同期初当選である丸亀出身の白川友一議員とともに堀家虎造代議士の下で、様々な議会工作に関わったことがうかがえる。

 例えば、明治36年11月に政友会香川支部から多くの議員達が脱会し、香川倶楽部を結成に動いた「政変」の際にも、堀家虎造代議士の指導下に実働部隊として動いたのは増田穣三や白川友一 ではなかったのか。この「論功行賞」として、翌年の県会議長や堀家虎造引退後の衆議院議員ポストが射程範囲に入ってくるではないか。
この本が出版された翌年M38年11月 穣三は県会議長に選任された。議長としての穣三はどうであったのだろうか?
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  第7回通常県会の模様を、香川県会史は次のように記している
 山田利平太(綾歌郡)は議長に増田穣三(仲多度)を指名し、全員が異議なく了承。議長に推薦された増田穣三が
「諸君のご推薦にあずかり議長の職を汚します。補佐あらんことを希望します」
とあいさつをした。その後、副議長選出については議会の承認のもと、増田穣三議長が佐野新平(大川)を指名。また、名誉職参事会員も同様に6名を指名       香川県会史(990P)
 そして次のような議題が新議長の下で審議された。
1 小野田元煕知事の議案説明
2 粟島海員学校・丸亀女学校・高松商業等4校の県立移管問題
  財政上延期かどうか
3 女学校の寄宿舎建設延期
4 職員の給与増額
5 韓国への漁業者移住促進


 議員としては「口数が最も少ない議員 議場外での裏工作が得意」と表された穣三であるが、議長としての議会運営ぶりはどうだったのだろうか。次のような資料が残っている。
 中学校寄宿舎の建築問題をめぐって、建設積極派と建設消極派が協議を重ねた。この時、膠着した事態を打開するために、増田穣三議長自らあっせんに乗り出して、異なる二つの意見の調整に努めた。その結果、建設を進める方向で話かまとまり、長年、結論が出なかったこの問題は、一気に議決へと向かった。実直かつ寡黙な議長であり、議員から
「1つ1つの審議に時間がかかりすぎる。もう少し手際よく進めてほしい」
との要望が出るほど、丁寧な議事進行を心がけた。 
 丁寧な議会運営に心がけ、対立点を見極めた上で妥協案を示すソフトな対応ぶりがここからはうかがえる。
 順風満帆な議員生活とは半面、「電気痛の痛苦」が穣三に襲いかかってくる。当時、彼が関わっていた当時の新産業「電灯会社」誕生までの苦難と、彼の経営者ぶりを見ていくことにしよう。

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 美濃田大橋

  美濃田大橋から長い瀞場になる。同時に景色が大きく替わる。
県の名勝・天然記念物に指定されている美濃田の淵にさしかかるのだ。北岸に高速道路のサービスエリアが設けられ、付属する施設も充実し「吉野川中流域の景勝地」として知られるようになった。

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美濃田の淵
 しかし、ここはかつては「網場」であったという。最初聞いたときには、鮎を捕るための仕掛網の設置場所かと思ったが、大外れ。
 三好町誌には次のような記載がある

 網場と筏流し

 明治11年ころの美濃田の渕の見取図には千畳敷岩の上の岩に「アバカケ岩」の名が記されている。水かさが増えると、丸太を結び付けた太いワイヤーを岩間に渡し川をせく。鰹つり岩からは、黒川原谷の谷尻まで斜にワイヤーを渡し、川の北側をせいたという。
 上流からは出水を利用して木材を流出する。この流材をせき止め、筏に組んで下流へ運ぶのである。 これを筏流しといい、それを操る人を筏師といった。足代村には筏師が7、8人いたようである。一艘が約一万才(当時の木運家屋1戸分の木材)で、腕の良い筏師は一度に二艘運んだとのことである。これを一週間かけて徳島の木材市場へ運ぶのである。
 山から切り出され、荷車や馬車で川まで運ばれてきた木材や洪水にのって流れついた木材を集めて、これも筏にした。小山の西内には大量の木材が流れ着いたとのこと。流木を集める組合のようなものがあったようである。また、流木を集める世話人がいて流木を拾った人にはいくらかお金を渡して引き取っていた。
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流れのない美濃田の淵は、上流で流した木材を集積し、筏に組んで下流に運んでいく木材集積地の機能を果たしていたようだ。

もうひとつ川を下っていて気になったのがこれ。河の上に立つ橋脚跡。かつての鉄橋の跡かなと考えていた。しかし、この橋脚にも物語が隠されていた。
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「まぼろしの美濃田観光大橋」について

 終戦直後、吉野川を渡る橋が美濃田の渕に計画され、期成同盟会が結成された。
当初は延長一五〇メートル・幅員二・九メートル・工事費四五〇万円の鉄橋であった。後には観光兼人道橋に変更している。
 美濃田の渕の川中の岩に橋台を建て、現在の三加茂町加茂西町に至るつり橋にして、開通後は工事に要した経費の立替金の支払が終わるまで「賃取橋」にする計画であった。
 橋脚工事は発注され、昭和二十八年の秋に着工している。
 起工式には早期架橋を願って美濃田・小山地区の全戸が出席した。
北岸の橋台が完成し、中央の橋脚が岩の上に雄姿を現した時は、開通した橋を想像し胸をおどらせ、地域の発展を期待したものである。
 しかし、工事半ばにして資金難に陥り、加えて施工主が病に倒れ、役員はハ方手を尽くし努力したがままならず、勤労奉仕で労力を提供した小山地区の人たちの願いもむなしく、資金が全く絶えるとともに工事は中止となった。
 一六〇余万円を投じたといわれているが、残ったのは北岸と中央の橋脚と負債であった。役員は負債の返済に大変な苦労をしたとのことである。
  美濃田の奇勝をめでる観光と吉野川南北の生活道として計画された「観光大橋」があったこと。その痕跡が河に建つ橋脚であるようだ。
現在の美濃田大橋は、その数年後の1969年に完成している。

ゆるやかにゆるやかに流れはカヌーを運んでいく。


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 塩入街道 東山越開通まで七箇村(現まんのう町)を中心に

 前回は丸亀三好線(現県道4号)の建設過程を、徳島の昼間村を中心に見てきました。今回は、香川側の動きを見ていきます。
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 丸亀三好線の建設について、仲南町誌で確認してみます 
この道は七箇村経由金毘羅参詣阿波街道とも呼ばれている。阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場越又は東山越をして塩入村で合流し、一本松を経て七箇村に入り堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平村の阿波町に至る金毘羅参りの街道であった。
 藩政時代阿波藩は鎖国の国といわれたが生活必需品の塩だけは、この道を通って阿波に入っていた。明治時代に入って、交易の自由化にともないたばこなどの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また仮耕牛の行き来も盛んになった。そのため明治28年(1895)ごろから漸次道路改修が行われ、現在の県道丸亀三好線の基をなした。
 阿讃国境附近の道路改修は当時としては東山越の方が便利と考えてか、この道を県道として改良したので、樫の休場越はしだいに寂れてしまった。また、堀切峠は明治三三年(一九〇〇)に改修されるまでは現在の県道より五~六mも高い所を通っていた。  (以上 仲南町誌942P)

 丸亀三好線(香川県では塩入街道)の開通までを年表にしてみた。

1890(M23)年 猪ノ鼻越の四国新道の部分開通
         初代七箇村村長に田岡泰(33歳)就任。
9・25 香川県が里道改修補助費取扱規定を定め工費の三分の一を補助決定。町村道改修に県の公費補助が認められ、里道改修促進され、工事申請が増加。
1892 昼間村長田村熊蔵が香川県分の新道改修を七ケ村長田岡泰に依頼。両県から工事を進め東山峠で結びつけることに合意。
1894 四国新道開通式挙行 四県知事が出席して琴平町で行う。
1895 七箇村 東山越里道改修始まる(四国新道への対抗策?)
1899 4月26日 田岡泰が七箇村長退任、
    増田穣三が第二代村長に就任(41歳)増田穣三が「琴平・榎井・神野・七箇一町三村道路改修組合長と為る」
1900 堀切峠の改修終わる
1901 塩入越及び真野里道改修落成式を大井神社境内で挙行
1902 徳島県が4ヶ年継続事業として男山から東山峠への新道     建設への補助金交付決定
1906 東山峠で結合。(後の県道丸亀~三好線)開通
   香川県七箇村と徳島県昼間町を車馬による交通が可能に
   増田穣三 七箇村長退任 第3代 近石伝四郎村長就任

1890年に猪ノ鼻越の「四国新道」が部分開通しています

これが、財田村にもたらした経済効果は大きかったようです。
七箇村の初代村長に就任した田岡泰は、これをどう見たののでしょうか。新道を作り、人とモノが動くようになれば、その沿線にお金が落ちるようになり、経済的な発展をもたらす。ということを目にしたことでしょう。これを見て七箇村も「塩入街道」の新道化(=グレードアップ化)に取り組むことの必要性を痛感したのではないでしょうかか。
新道建設に向けて、2つの追風が吹きます。
①里道改修に県からの補助が受けれるようになったこと。
②徳島県の昼間村長から「新道建設」に向けて「共同戦線」を結ぶことの提案があったこと。
これを受けて田岡泰は1895年に、まずは塩入・琴平間の改修に取りかかります。しかし、予算確保が進まず工事着手に至りません。

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1899年、田岡泰が村長退任し、替わって助役の増田穣三が第2代村長に就任します。

新道建設は、幼なじみの増田穣三にバトンタッチされることになります。穣三は、七箇村だけでは荷が重すぎるのをで、沿線沿いの琴平・榎井・神野七箇の一町三村と道路改修組合を結成します。そして、その組合長に就任し、予算確保に奔走します。
ちなみに、当時は村長は村会議員の互選、そして県会議員も兼務可という「複選制」でした。もし、増田穣三が名刺を持っていたらそこには、香川県議会議員 七箇村長 七箇村議の3つの肩書きが並んでいたはずです。村長がその地域の利益代表として、県会議員として県議会等で道路建設等の補助金確保に奔走する姿が見られるようにななったのがこの時期からのことのようです。
 資金のめどがつき、堀切峠の切通工事が竣工するのが1901年秋のことでした。これを、当時の新聞は次のように伝えています。


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堀切峠から南方の阿讃の山脈を見上げる 
里道塩入線開通までわずか
  明治33年(1900)11月17日『香川新報』
 仲多度郡琴平、榎井両地を起点とし神野七箇両村を経て徳島県三好郡昼間村に至り撫養街道に接続の入里道延長約八里の改修は去る29年2月を以て起工せし。右延長里程中本県に属する里程は四里十六丁にして此の中山間工事と称すへき里程 約二里あり。加ふるに国境に於て四十尺余の切下けあり 神野七箇の村界にても数十尺の開繋ケ所ありて総工費は六万余円の予算にて着手せしものなるか。爾来工事継続し山間部の残工事は来る26日頃を以て終了すへく 又神野村五条より琴平阿波町と東の方榎井村宇旗岡に至り県道に接続すへき間の工事は、目下専ら施工中にて来月中旬頃迄には竣了の予定なり。右両所竣功せは開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏にて沿道村民の寄附又少からさりしなり。
総工費は香川側が6万円余り、徳島側22334円 合計で約8万円。大久保諶之丞発案の四国新道全体の額からすれば1/7程度です。しかし、工事区間から考えれば、決して見劣りがするものではありません。最後に「開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏」と田岡泰前村長と増田穣三町長に賛辞の声を送っています。
 さらに「沿道村民の寄附又少からさりしなり」と結んでいる。
「寄付」という形で地元負担金を負担したのは、どんな人たちだったのでしょうか。『香川新報』に、「木杯と賞状」と見出しのついた次のような記事があります。
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 塩入越里道改修費への寄付一覧 明治33年11月10日
仲多度郡塩入越里道改修費中へ左記名下の金額寄付せし兼により今回木杯1個又は賞状を下付さる。
仲多度郡七箇村 馬場和次郎(75円) 
十郷村 大西貞次郎(40円) 
七箇村 石川広次(40円) 
葛原宇三郎(30円) 
山本喜之次(30円) 
葛原倉蔵(25円)
増田伝次(25円) 
山崎岩次(21円50銭) 
大西三蔵(20円) 
近石歌次(12円) 
山内万藏(12円) 
東淵才次(11円10銭) 
近石藤太(11円)、川原岩次(同) 
近石米次(10円80銭)
増田慶次(12円40銭) 
以下10円 
近石直七 久保弥平、森藤和多次、原田時次、大東又八 横田綾次、垂水村浄楽寺(各10円)其他同郡榎井村 中条亀三(9円)、外69名へは賞状。
 こうして1901年(明治34年)6月9日に 「七箇村塩入越及び真野里道」(丸亀三好線)の落成式が神野村の大井神社境内で行われます。
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 この席に「道路改修組合長」を勤めていた増田穣三は、どんな思いで出席していたのだろうか。11年前に田岡泰村長が昼間村長が約束した「新道を東山峠で結合しよう」という約束を果たしたことになります。
 この香川県側の動きを受けて、徳島県も動き出します。
補助金交付を決定し、1902年から男山~東山峠への区間が「四カ年継続事業」として認定されます。そして4年後の1906年に昼間と東山峠区間が完成します。こうして車馬が通行できる新道が七箇村と昼間村を結ぶことになります。猪ノ鼻峠を越える四国新道の開通から16年後のことでした。沿線の人たちは、新たな時代の始まりと思ったのではないでしょうか。
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四国新道完成後の財田の様子については、次のような記述があります。

四国縦貫の幹線道である四国新道にはしだいに人馬の通行が多くなり、ことに明治29年(1896)善通寺師団が設置されてからは日を追って交通量が増加してきた。土佐・阿波から入隊の兵士やその家族や金毘羅参りの人々は、明治38年に戸川まで乗合馬車が開通してからは馬車を利用するものが多かった。定員わずか8名の馬車でも当時は大量輸送機関であり、利用者も多く繁昌して個人営業者がつぎつぎと現われてきた。そして大正3年(1914)には5つの乗合馬車が営業していた。    (仲南町誌)
  この資料から開通後の四国新道沿線沿いの十郷・財田村の活況さがうかがえる。財田町誌にも

「特に、財田の戸川集落には旅籠や乗合バス亭・水車による脱穀業などが新しく並び立ち、新たな賑わいを見せるようになった。(財田町誌682P)」

と四国新道完成後の沿線の「経済効果」を紹介しています。
 視点を変えると「新道」は、現在の「バイパスあるいは高速道路」です。新道が出来たために物と人の流れが変わり、周辺には寂れていく街道や宿場も出てきます。四国新道の完成は七箇村を通る「塩入街道」にも影響を及ぼしました。
「春日を通過する塩入街道が寂れていく」という危機感をバネに「わが村にも第2の四国新道建設を!」

という思いを持つ指導者が徳島の昼間村に現れます。

 讃岐山脈を越えた徳島県昼間村(現みよし町)の村長田村熊蔵は、樫の休場経由の塩入道を、車馬の通行可能な新しい道路にグレードアップする道を探っていました。その際にルートを、東山峠越で塩入に至るルートに付け替えようと考えます。
徳島県三好側からの東山峠までの「新道」開通に向けた動きを見てみましょう。
香川県仲多度郡七ケ村につながる道は険悪であった。そこで人馬の通行が円滑になるようにと、昼間村長田村熊蔵、有志三原彦三郎等が香川県に属する分の改修を七ケ村長(田岡泰)に交渉した。明治25年(1892)昼間・撫養街道分岐点より延長三百余間の改修を行った。しかし、全線に係る工費は巨額で村力の及ぶところではなかった。その後も、郡費補助をたびたび要求した。
 その結果、明治30年度に金792円74銭の補助が受けられることになり、時の村長丸岡決裁はこれと同額の金額を有志の義捐に求め前の改修に接続して、延長千七百間の改修を行った。が、東山字内野まで伸張し、一時工事中止となった。
 明治32年5月に内野から県境までは測量は終了したが、郡財政上着工にまでは至らなかった。その後明治35年度において再び郡費補助を得たが、今度は村の自己負担分の工費が工面できず県費補助を要求した。
 その結果、明治36年度より39年度に至る四か年の継続事業として郡県の補助を得ることが出来るようになった。それを生かし道路用地は各持主の寄付によることを協定し、更に県の実測を経て里道改修工事を竣工させた。総工費22334円にて、内5262円53銭9厘の県費補助、6729円43銭3厘は郡費補助を受け、残額10142円49銭6厘は村の負担として、有志の義金又は賦役寄付に求めた。(以上 三好町誌)
 明治39年になって三好町昼間から男山を経て東山峠までの新道が完成します。いままでの獣道ではなく車馬交通の便を開けたのです。

 そこに至る経過を整理しておきましょう

1892年(明治25)昼間村長は田岡泰七ケ村長と話し合い「自分の村の改修は自ら行う」ことを確認します。県境を挟んだ両村が東山峠までの新道を互いに責任を持って建設し、東山峠でドッキングする約束をしたのです。そして、工事開始。しかし、当時の里道建設は「全額地元負担」でした。そのため
「全線に係る工費は巨額にして村力の及ぶところにあらず」

であえなく中断。以後は、小刻みに伸ばしていく戦略に切り替えます。
5年後、郡からの半額補助を受けて内野まで延長。さらに6年後に、郡・県から半額補助を受けて、4ヶ年計画で東山峠まで伸張し、1906年(明治39年)に香川県側の七箇村塩入から伸びてきた道とドッキングさせてています。香川側の完成から16年後のことになります。

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  東山峠

 この際に大きな追い風となったのは、主要里道の建設改修に対して、県や郡からの補助金が出るようになったことです。村の村長としては、新道建設の重要性を説くと共に、補助金確保のため県会への働きかけが大切な仕事になります。補助金が付き、認可が下りても今度は、地元負担金を準備しなければならない。これをどうするのか。
 「苦心惨憺一方ならざるものあり」と資料は記します。
当時は、建設費の半分は地元負担が原則です。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の里道建設はなかったようです。
  七箇村の田岡泰や増田穣三達、若きリーダーも、徳島側と連携をとりながらこの「自負と決意」を固め、実行に移していったのでしょう。それでは、香川県まんのう町側の「塩入街道改修」はどのように進められたのか、またを負担金はどのように集めたのかを次回は見ていくことにします。

財田上ノ村戸長 大久保諶之丞に学ぶ村の経営学

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明治23年4月 七箇村で23歳の田岡泰が戸長、増田穣三が村会議員としてスタートした頃、時代がこの地域の指導者に求めていたものは、何だったのだろう。前例のない時代を地図もコンパスも持たずに村の指導者として歩み出す幼なじみのふたり。
この時代、隣村の財田には新しいタイプの指導者が登場し、その言動が注目を引くようになっていた。大久保諶之丞である。明治初年の村のリーダーが直面した課題や障害、それにどう取り組んだのか、諶之丞を参考に考えてみよう。そして、春日の田岡泰や増田穣三にとって、10歳年上にあたる諶之丞の言動はどのように見えていたのだろう探ってみよう。
  まずは、大久保諶之丞の年譜確認から
嘉永2年(1849) 財田村奥屋谷の素封家に生まれる
           幼年より陽明学を学ぶ。弟はは尽誠学舎創設者の彦三郎。
慶應2年(1866) 父森冶の後妻の娘タメと結婚。(17歳) 
明治3年(1870) 満濃池の改修工事に参加し土木技術習得
 明治5年(1872)    財田村役場に勤務(村長代行的役割)(23歳)
 
村内の子弟を山梨県に派遣し、養蚕業の技術を地元に根付かる。
明治6年(1873) 「西讃竹槍騒動」で自分の家を襲われ焼失
           同年戸長(村長)に任命される
 明治11年(1878)猪ノ鼻峠から阿波に続く「新がけ」道を完成、
    すべて地元負担で建設。これが「四国新道」構想の端緒。
明治12年(1879)三野豊田郡役所の勧業係となり、谷道開発・修繕に従事。コレラの全国的な流行に対し、医師の養成計画「育医講」を作り、奨学金給付。育英資金は村民120名の講から拠出。
明治17年(1884) 四国新道期成同盟を結成。
明治18年(1885) 吉野川からの導水を提唱、請願書提出
明治19年(1886) 金刀比羅宮神事場にて四国新道開削起工式。
明治20年(1887) 讃岐鉄道の請願委員の一人として書名。
明治21年(1888) 愛媛県会議員就任(40歳)
明治22年(1889) 讃岐鉄道開通式で、「瀬戸大橋」構想発表。
明治23年(1890) 讃岐阿波新道完成。
明治24年(1891) 県庁議会場で討議中、倒れ込み高松病院へ。
            2月14日尿毒症を併発し死亡。
 政治家としての活動期間は僅か3年です。。

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 晩年、四国新道建設のための工事費工面のために注ぎ込んだ私財は、当時の金額で6500円。そのため父祖よりの蓄えと、田畑、山林のほとんどが人手に渡っていたと云います。残された家族は三度の食事にも窮したとも伝えらます。
年譜から見えてくること
1 大久保諶之丞は、田岡泰や増田穣三よりも一回り年長。明治維新を19歳で迎えている。
2 幕末の志士と同じく陽明学を学び「学問・思想と行動の結合」という行動主義を身につけている。
3 23歳の時に「西讃竹槍一揆」の一揆集団に、地主層と見なされ自分の家を焼き討ちされている。この事件の彼に与えた影響は大きかったのではないか。
4 その影響からか村経営の指導的な立場に立つと、農民の生活を豊かにするためにの改善策を、真剣に考える。そして養蚕業の移植・北海道移民・講組織による医師養成等、いろいろなアイデアを実行して行く行動力と使命感がうかがえる。
5 その際に、四国新道起工式でプロモートした「鍬踊り」のようにユーモアや面白さも持ち合わせており、使命感が強いだけの堅いイメージではない。それが人々を結びつけていく武器となったようだ。
6 また四国新道建設推進のために、高知まで出向き、初見の高知知事の協力をとりつけるなど要人の懐に飛び込んで、味方につけていく「人たらし」の力も持っていた。
7 しかし、県会議員、在職年数わずか3年。議会での質問中の殉死である。
 諶之丞が議場で壮絶な死を遂げたのが明治24年(1891)。地元の財田に遺骸が帰ってくるのを、村民達は完成したばかりの四国新道沿いに出て、涙を流しながら出迎えたと伝えられる。これを、村会議員2年目の増田穣三は、どのような思いを抱きながら見守ったのであろうか。
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 どちらにしても、田岡泰や増田穣三は大久保諶之丞の影響を少なからず受けている。また受けざる得なかった。二人の碑文の業績には「東山道改修に尽力」という言葉が刻まれている。大久保諶之丞が四国新道と「殉死」したように、道路改修は以後の指導者の大きな課題であり「夢」となっていく。

田岡泰について

春日出身の国会議員 増田穣三をめぐって「町誌の森」歩きが続く。
その森の中で田岡泰という人物に出会った。仲南町誌(1320P)に増田穣三に続いて、次のように紹介されている。
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田岡 泰の墓(春光寺 まんのう町春日)
田岡 泰 七箇村初代村長
安政五年(一八五八)九月八日
大正一五年(一九二六)一〇月一〇日  (64歳)
春日、田岡照治郎の長男。梅里と号し、   
明治元年から明治四年まで三野郡上麻村の森啓吾に漢学を学び、
明治五年から明治七年まで高松の黒木茂矩に皇漢学を学んだ。
明治八年 県立成章学校(後の香川師範学校)に入学
明治10年から一年間大阪の藤沢南岳に師事して帰郷。(20歳?)
明治一二年七箇村黄葉学校の教員兼併区監視、
明治一三年高篠学校の教員を勤め、
明治一八年から明治21年まで那珂、多度、併合会議員に選ばれた。
明治二二年三月には榎井村私立養蚕伝習所に入所して養蚕伝習受講
明治二三年四月一日から明治三一年まで七箇村の初代村長に選出。
明治三一年四月二五目から明治三二年三月七日まで県会議員、
明治三二年九月三〇日から明治三六年九月二九日まで郡会議員。
この間七箇村外三カ村連合村会議員にも選ばれた。
明治三十三年十月二十一日 西讃電灯の臨時株主総会において、監査役に就任。
村長在任中は地方行政に数多くの功績を残されたが、なかでも塩入新道の開通には特に力を入れて現在の県道丸亀三好線(一〇九号線)の基をつくった。後年、広島村長、吉原村長にも選ばれ、これらの功績により勲七等瑞宝章を賜り、晩年は丸亀で余生を楽しまれた。
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                  田岡泰の墓標
 春日のお寺の墓地で田岡泰の墓を偶然に見つけた。この墓に漢文で刻まれた碑文を意訳したのが上記記述になるようだ。
ここからは、興味深いことがいくつか分かる
 まず生まれが安政5年9月であり、増田穣三より1ヶ月遅く生まれた幼なじみであるという点である。同じ春日に、同じ富農の家に生まれた二人の生き方は、互いに交わり七箇村で糸を紡いでいくように進んでいく。この墓碑には、穣三の碑文にはなかった教育歴が載せられている。
①上麻村(高瀬町)の森啓吾(漢学) 
②高松の黒木茂矩(皇漢学)
③香川師範学校(普通学)
④大阪の藤沢南岳(儒学)20歳で帰郷
  和漢の学をベースに師範教育も受けている。さらに、当時、数千人の門人を擁した大坂の泊園書院への遊学経験もある。20歳で帰郷後は、七箇村の教員を務め、さらに榎井村私立養蚕伝習所に入り、養蚕技術の指導をめざすなど、地域にとっては近代教育を受けた若きリーダーとして地歩を固めていったようである。
 明治初年は高等教育が整備されておらず、農村の富裕層の師弟は、いち早く整備された師範学校に進んだ者が多い。卒業後、教員として地域に馴染み、その後に村の指導者に成長・転身していくというパターンである。田岡泰も、その典型と言えよう。

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                  田岡泰の墓標
 明治23年大日本帝国憲法施行 → 国会開設 → 県・市町村地方議会の開設  という政治的な流れの中で,初めての村会議員選出が行われると田岡泰も増田穣三も選出されている。そして議員の互選により初代七箇村長に選出されたのは、田岡泰であった。
   増田穣三ともに32歳のことである。若きリーダーの登場である。彼らによって「村にやってきた明治維新」は、姿を整えられていくことになる。

春日の西方を流れ下る財田川。

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春光寺より南を望む  はるかに阿讃の山脈が連なる

香川県内の河川は北流するのがほとんどなのに、財田川は観音寺に向けて西流する。源流の東山峠から春日までは北流している。しかし、春日にさしかかると大きく屈曲し、流れを西に変える。
この屈曲は「河川争奪」によるものだと地質学者は言う。
耳慣れない言葉だ。
仲南町誌(43P)にはこのように書かれている。 
財田川上流部は、以前は福良見の谷を通って丸亀平野の方向へ流れていた(金倉川上流)ものを洪積世末期(約2~3万年前)財田川下流部の河谷を流れていた川が頭部侵食で上流側へ掘り進み河道を争奪して現在の河系を形成したところである。争奪以前の河川堆積物がこの付近の財田川河谷の谷壁に付着して残存している。特に久保付近の河谷の南岸には比高三31mの段丘崖の好露出があり、この河崖は河川堆積物の成層状態を明瞭に示し、地形発達史研究上貴重なもので県内ではほかに例を見ない。
つまり3万年前は、春日より上流の部分は金倉川の上流部であった。それを「河川争奪」で財田川が奪ったというのだ。河の世界にも「争奪戦」があるようだ。
 地表面の水は奪われても、地下水脈は今まで通り北流する。
そのため春日地区は伏流水が豊富だ。これは初期稲作農耕には適した条件である。その適性を活かして、この地は山間部の中では早くから「開発」が始まった。そして、この春日の地を中心に周辺集落が開かれていったようである。

 それをうかがい知ることが出来るのが春日神社である。

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 平安期に藤原氏の荘園となった小松庄(櫛梨を除く琴平町全域)は、藤原氏の氏神である春日神社を勧進し、それ中心に発展していく。この地は小松庄の出作地(荘園の近くの開墾地)として経営され、その後、藤原氏の荘園になったのではないか。ここにも春日神社が勧進される。
していつ頃からか、この地は、春日と呼ばれるようになる。
ことひら町誌や満濃町誌は、以上のように推論している。 
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「朝倉家神社御改牒控」(明治10年)によると、春日神社は数多くの境外末社を持っていた。

その中には、雨乞いの神様として信仰を集めていた尾瀬神社や隣接する福良見集落の白鳥神社、久保集落の久保神社が含まれている。
 このことからも周辺集落に対して、春日が伝統的に優位的立場にあったことがうかがい知れる。
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 ちなみに増田穣三は、県会議員時代に春日神社の郷社格上げ運動を行った。しかし、社殿が嘉永元年(1848年7月)火災にあっており、資料を失っていたため実現に至らなかったようである。
 増田穣三の名のある灯籠や玉垣を探したが、見つけることはできなかった。この鎮守の森は、遊び場であり、学び場として幼いときからの穣三を育んだ場所であったのかもしれない。

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春日の信号のある交差点からさらに塩入温泉方面に向かって南下する

と、二軒の旧家が耕地整理の済んだ田園の中に並んでいる。
これが増田家の本家と分家である。
 この左側の本家が村長や県会議員を努めた増田一良宅、
右側が衆議院議員の増田穣三の旧宅である。
増田家は「阿讃の峰を越えてやってきた阿波出身」と言い伝えられている。
増田家が財田にある阿波との関係が深い浄土真宗興正寺派の有力寺院の門徒であることも、「徳島
「阿波出身」を裏付ける材料の1 つかもしれない。
 
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 増田家を系図で見てみよう

祖父 伝蔵には4人の子どもがいた。
①長男 伝四郎(子どもなく死亡、弟伝吾を養子)

②次男 伝次郎長広(分家) →   譲三(第2代村長)

③三男 蔦次郎(下増田家分家)→正一 (第4・8代村長)

④四男 伝吾(兄の養子となり本家相続) 一良(第6・9代村長)
 増田家は江戸時代からの庄屋ではない。しかし、江戸時代後半より財力を蓄えてきたようで、世代毎に分家を増やしている。幕末期の譲三の祖父・伝蔵の時代にも2つの分家を分け、伝蔵の3人の息子達がそれぞれの家を継いでいた。(系図参照))

 まず、長男の伝四郎が本家を継いだが子どもがなく、伝蔵の4男伝吾を養子として迎える。伝四郎からすれば末の弟を養子としたわけである。

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 伝蔵は2つの分家を作った。
次男伝四郎には、本家の西側に分家を建てた。この伝次郎の長男が穣三である。後に、譲三は本家と同じ規模で、本家の隣に家屋を建設する。これが上の写真の家である。街道沿いに建つもうひとつの屋敷では、穣三が若い時には呉服商も営んでいたし、酒造業も営み「春日正宗」という日本酒を販売もしていたという。 三男蔦次郎の分家は「下増田」と呼ばれ、本家とは離れたている。

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ちなみに伝蔵の孫世代にあたる増田一良・穣三・正一は従兄弟同士である。

と同時に、村会議員として活躍し、40歳を越えると七箇村長に就任していく。戦前の七箇村長は、第2代村長が譲三、第4・8代が正一 、第6・9代が一良と「春日の増田家3人の従兄弟たち」が、長きにわたってその座を占めている。
 
 また、明治22年に村会議が開設されたとき11名の村会議員の内、3名が増田家から出ている。その中で議員番号1の1級議員として選出され、村長決定までの議長を努めたのは増田本家の傳吾であり、穣三の叔父に当たる。増田家の七箇村での「重さ」が伝わってくる。  

  仲多度郡史に見る増田家の資産(496P)

   大正5年に編纂された仲多度郡史には、「大地主」の一覧が載せられている。項目には田畑・宅地・山林の地目に別れて所有面積や地価総額や一家の来歴も載せられている。ちなみに地価総額に地租税を掛けたものが地租支払額となる。
 地価総額の上位6名までが多度津在住であり、幕末以来の多度津の経済力の高さを示す数字となっている。まんのう町に関係のある家を列挙してみると次のようになる。
順位  氏名         住所    価総額      田   畑   来歴
1  塩田角治  多度津  103204円156町11町    商家 
9 景山甚右衛門 多度津  22239円 29町 1   前衆議院議員 
10 琴陵光煕    琴平      22176円 38町 0,4      金毘羅宮宮司
12 新名功   吉野村   20802円 39町 0,8     元庄屋
18 三原一彦  真野村   17573円 39町  山林23町   代々の農家
32 赤松秀太郎 東高篠村  9411円  15町 山林7町 元庄屋 村会員
34 安達熊三郎 吉野村9002円 17町 山林24町 造田より転居 村長
36 大西豊輝   十郷村 8627円 20町 山林42町  代々農家 村会議員
38 増田一良    七箇村8393円 15町 山林114町  代々農家  郡会議員
40 谷口輿市 東高篠村 6522円 10町                  農家  郡会議員
41 竹林幾子  西高篠村 2607円 11町       元大庄屋  
43 石井虎治郎 神野村6600円11町 山林3町 琴平銀行重役 郡会議員
45 大西 貞次郎  十郷村 4946円 12町  山林5町   代々の農家 村長
47 斉藤 英一  吉野村  4883円 14町 山林12        元商家
48 増田米三郎 七箇村 4205円 10町 山林11町   七箇村助役

 郡会議員は「大地主クラブ」と呼ばれたというが、確かに地主が郡会議員に推されていたことがこの表からも分かる。彼らは政府の進める富国強兵には総論賛成だが、軍備増強ための増税=地租引き上げ等には頑強に抵抗した。その一つの拠点が郡議会であった。

七箇村の最大の土地所有者は増田一良で増田本家

50町を越える「大地主」と呼べるほどの田畑を所有していたわけではない。それでも山林所有面積は100町を超えており、仲多度郡最大の山林主である。
 この中に増田穣三の名前は見当たらない。増田家は江戸時代以来の庄屋を務める家柄ではなかったことは前述した。譲三の家は、呉服商や酒造業を営んでいたとしても後に、県会議員や国会議員として活躍するための経済的な基盤がどこにあったのか現時点では分からない。

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群議会議員時代の若き増田一良(増田本家の総領で、穣三の従兄弟に当たる)
 「仲多度郡史」の編纂に携わった増田正三は、当時の七箇村町増田正一(下増田家)の長男に当たる。この郡史完成の時には、叔父・譲三が国会議員で、本家の叔父・一良が県会議員、父・正三が村長の職を勤めたいたようだ。勤めていたようだ。

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 村議会開設の際に、分家の増田穣三の家からは、父伝次郎も生存していたが出馬せず33歳の穣三が選出されている。「新しい時代を担うのは若い世代で」という新時代を迎えた明治の風潮なのかもしれない。
 譲三は、「名望家」としての増田家を背負う形で、村議→助役→村長→県会議員→衆議院議員へと成長していく。そして本家を継いだ一良も譲三の後を追いかけることになる。


増田穣三がどんな教育を受けたのかを見てみましょう。

 穣三の生まれは安政元年(1855年)。
安政の大獄間際で幕末に向けて時代が激流化していく時期だ。金比羅山のお膝元である天領榎井では、日柳燕石が博徒の親分としてブイブイ言わせ、後には高杉晋作などの尊皇の志士たちが琴平の地を活発に行き交う時期に当たる。

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三舟の父 日柳燕石

 こんな時に幼年期を過ごした穣三が師事した人物については「日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め」と3名挙げられている。
まず師事したのは、琴平の日柳三舟 (くさなぎ さんしゅう)
 三舟は天領榎井(現琴平町)の日柳燕石の長男で、穣三より19歳年上にあたる。幕末、父燕石は、倉敷代官所の追手から高杉晋作を逃がした罪で4年間の獄中生活を高松で送っていた。明治維新になると新政府により出獄を許され、官軍の書記官的な役割で従軍し、鳥羽伏見の戦いに参加し、その後越後の柏崎で病死する。その期間、三舟は父を投獄者に持つ身として、医院を閉めて榎井で塾を開いたようだ。そこへ幼い日の穣三が通っていたことになる。

 父燕石の死後、三舟は伝手を頼って大阪に出て行く。その後、栄達の道を歩み大阪府学務課長を務め、大阪師範学校長に就任。さらに盲唖学校愛育社を創設し、国定教科書の原型を作るなど教育面で活躍する。

 三舟については、増田本家の総領で穣三の従兄弟に当たる増田一良が次のような回顧文を残している。 

従兄弟の増田穣三氏が若い頃に、呉服商を営んでおり、わが妹の婚衣の呉服仕込みのために京都に同行したことがある。その際の帰路、穣三氏が幼年期に師事した大阪の日柳三船先生を訪問するのに同行した。三船先生は那珂郡榎井村の出身で維新の勤王家として知られた日柳燕石先生の長男である。当時は、大阪府参事官を勤め大阪に在住であった。
 いろいろな話をしている内に、先生がかつて吾家に立ち寄ったことがあることが分かった。吾屋敷にそびえる巨木の榎に話が及び、記念に「古翠軒」という家の号を書き下された。今、わが家の居室に掲げられている大きな額がそれである。
 この回顧資料からは増田家本家には榎木の巨木が邸内にそびえ立ち、周辺からの目印になっていたこと。それが戦後の昭和38年に、風もないのに倒れたことが記されている。続いて、妹の婚礼衣装の買付の京都からの帰路に、大阪参事官を務めていた日柳三舟に会いに行き歓待を受け、自宅の榎の巨木にちなんで「古翠軒」という家の号を揮毫してもらったことが回顧されている。
 この回顧分から増田穣三が日柳三舟に師事していたことが裏付けられる。
穣三は幼い足で、春日から堀切峠を抜けて神野村を通って榎井にある三舟の下へ8キロの道のりを通っていたのだ。この道は10年後には、山下谷次が琴平神宮の明道黌で学ぶために通った道でもある。そして、この「通学路」は、後に穣三が村長として「里道改修」に取組み、現在の県道「丸亀ー三好線」に格上げされ、東山峠から阿波へとつながる県道に「昇格」していく。それは、まだまだ先のことである。

次に師事したのが丸亀の中村三蕉である 

 1817年(文化14年)生まれで明治維新を50歳前後で迎えた丸亀藩士である。上京し昌平校で学び、藩主の侍講、藩校正明館教授を勤めるなど丸亀藩で学問上の指導的な位置にあった人物である。維新後は小・中学校でも教壇に立ち、明治27年8月27日に78歳で死去している。増田穣三は、琴平の日柳三舟に学んだ後に丸亀まで通い、中村三蕉の下でさらに漢学・儒学・漢詩創作などの素養を深めたのだろう。

三人目が高松の黒木啓吾である。

  この人物については、現在のところ資料が見当たらない。推察としては、まんのう町吉野の大宮神社の社家である黒木家につながる人物ではないかと思う。黒木家は江戸時代から続く漢学者の家系で、幕末期の日柳燕石らに学んだ黒木茂矩が高松藩藩校・講道館学寮教授、教部省の神道教導職、金刀比羅宮の禰宜(ねぎ)を務めるなど、この時期の讃岐の国学神学をリードした人物である。明治初期の廃物運動の中讃地区での中心人物でもある。増田穣三の幼なじみで初代の七箇村村長となる田岡泰や財田の大久保諶之丞の弟彦三郎も高松在住の黒本茂矩のもとで学んだとある。しかし、黒木啓吾について不明で今後の課題である。

増田穣三が学んだ「学問」とは、どんなものだったのか?

 明治維新の前と後を考える場合、政治的には「維新」と言う不連続面に光を当てて語られることが多い。しかし、農村部では生活・文化様式や価値観においては、江戸時代とあまり変化はない。「明治維新」が目に見える形で地方にまでやってくるのは、鉄道が敷かれ蒸気機関車が琴平まで通い出したり、旧丸亀中学本館のような西洋風の公共建築物が姿を見せるもっと後のことだ。農村部では、着ているものも、食べるものも、家も変わりなく江戸と明治初期は続いており、連続面の方が多い。
 例えば、増田一良の母親の出里である羽床の宮武家は、反骨のジャーナリスト宮武外骨を世に送り出している。その外骨が明治初期に東京遊学の際に、大地主である父親が求めたのは「将来の地主層としてのつきあいに必要な漢詩・儒学・華道・茶道を身につけて帰ってくること」であったという。英語を学び洋学を身につけよという発想は、いまだない。また、この時代はには学制も整備されておらず、帝国大学もなく教育による「立身出世」という社会システムも未整備だった。田舎においては江戸時代の価値観からまだ大きく変化はしていない。
 そのため地主達の師弟教育は、従来通りの「和漢の学」が中心だった。穣三も漢学・儒学に加えて漢詩、書道、華道という農村部の名望家にとって必須教養とされるものを学んだのは自然なことだった。

 若き日の増田穣三が最も惹かれたのは何だったのか。

 穣三の顕彰碑には、次のような部分がある。
「如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め、終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり」という部分だ。
  華道に打ち込み、家元を継承し多くの門下生を持ったという。つまり、若き日の彼は、政治家としてよりも華道の師匠として、人生を出発させたようだ。その経緯を見ていきたい。  

未生流華道の師 園田如松斉について 

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まんのう町宮田の西光寺(法然堂)の園田如松斉の石碑
 増田穣三の華道の師匠に当たる園田如松斉の碑文が宮田の西光寺(法然堂)に残っていると聞いて行ってみた。琴平から国道32号を南に2㎞程南下すると樅ノ木峠への傾斜がきつくなる。その国道から200㍍ほど西側に西光寺はある。法然が流刑となった際に、この地までやって来たとされ地元では法然堂と呼ばれている。

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園田如松斉の顕彰碑(まんのう町宮田 法然堂)
 その境内の本堂の前に園田如松斉の顕彰碑は建てられていた。碑文内容は仲南町誌に掲載されている。意訳すると次のようになる。 
如松斉は丹波の国、園田市左衛門の二男である。
悟譽蓬山和尚と称し、浄土宗西山派の僧侶で文久2年宮田の西光寺の第17世住職となり堂塔の修繕などを行いその功績著しかった。
 明治4年2月10日、生間の豊島家の持庵に移住して本尊薬師如来の奉祭にあたった。生花を好み未生流の師範として遠近から集り来る者が多く、自庵で教授するばかりか各地方に招かれて出張指導した。その結果、広く那珂郡南部一帯に普及発展して門弟は六百余名に達した。
明治16年2月17日死去、享年76歳。
春日の増田秋峰(穣三)は、その高弟で皆伝を許された。
明治23年4月増田穣三らによって、西光寺境内にこの碑が建てられた。
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 碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいるが、その先頭にあるのは増田秋峰(穣三)である。その次には、穣三の幼なじみの田岡泰の名がある。3番目は佐文の法照寺5代住職三好霊順である。
  この碑文が建てられたのは明治22年、如松斉没後7回忌の年に当たる。この年、初めて七箇村会が開かれ、増田穣三も田岡泰も議員に共に33歳で選出される。そして、議員互選で村長に選ばれたのは田岡泰であった。 

この碑文の発起人の筆頭に増田穣三の名前があると言うことは、どういうことを意味するのか。

それは、年若い穣三が如松斉亡き後の門下を束ね指導し、その実績を背景に名実共に後継者となっていたことが推察される。

未生流(みしょう)華道とは、どんな流派だったのか。

  未生流は、文化文政時代に未生齋一甫(通称:山村山碩(さんせき)によって創流され、大坂を中心に幕末から明治にかけて広がった華道の新しい流だという。
 その目指すものは、陰陽五行説・老荘思想・仏教の宗教的観念を根本的思想おき、挿花を通じ自己の悟りを開くという精神的に極めて高い境地を目指した。また、直角二等辺三角形に役枝を配する明快な花形に込められた理論と哲学は、新しく「華道」と呼ぶにふさわしい道を開こうとするもので、明治という新しい時代にマッチした教えだと受けいれられた。

未生流を、中讃地域に最初に持ち込んだのが如松斉だった。

そういう意味では如松斉は、西讃地域の華道の新潮流の先頭にいた人物と言えよう。その流れの中に若き増田穣三は飛び込んでいき、若き後継者に成長していく。幼年期に身につけた儒学・漢学・漢詩の素養を花を活けるという手段で一つの世界を表現し、作り上げていくという作為がピッタリと来たのかもしれない。

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未生流(みしょう)華道の作品

なぜ園田如松斉の後を、若い穣三が継ぐことになったのか?

仲南町誌(584P)には、晩年の如松斉が穣三に対して、強い思い入れを持っていたことを伝える次のような記述がある。
「園田如松斉は病伏中も若き高弟増田穣三に対して、腹の上に花台を置いて指導し皆伝を許可。」とあり、
 死を目前にその腹の上に花台を置いて、臨終の際まで指導を行い経験の少ない穣三に皆伝を許可したと伝えられる。
 穣三顕彰碑文には「(園田如松斉の)家元を継承し、夥多の門下生を出すに至れり」と刻まれている。後継者候補として、彼よりも年上で経験豊富な人物は何人もいたと思われるが穣三が選ばれたのはどうしてか? それは、若き穣三の中に、多くの門下生をまとめ上げ、指導していく寛容力や人間的な魅力があると如松斉は見抜いたのではないか。
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秋峰とは増田穣三の号 佐文の尾﨑伝次に出された免状 

 いずれにせよ27歳で後継者となった穣三は一門を束ね、指導していく責務を果たしていく。それが新たな人間関係を結んだり接待術・交流・交渉力などを養うことにつながり、後の政治家としての素養ともなる。
  この時期の周囲の穣三に対してのイメージは、「増田家分家の若旦那」「未生流華道の先生」「歌舞伎芝居の浄瑠璃太夫」という所ではなかったか。
 

田穣三銅像の台座碑文には何が書かれているの?

仲南町史を調べてみると増田穣三についての記述は何カ所かありました。銅像が建つくらいだから町誌に載るのも当たりまえかもしれません。以下町誌に載せられている台座の文章を紹介します。
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増田穣三の銅像碑文(仲南町誌1319P掲載分より) 
安政元年(1858 8月15日)生 昭和14年(1939年2月22日)没
春日 増田伝二郎の長男。秋峰と号す。翁姓は増田 安政5年8月15日を持って讃の琴平の東南七箇村に生る。伝次郎長広の長男にして母は近石氏なり 初め喜代太郎と称し後穣三と改む。秋峰洗耳は其に其号なり 幼にして頴悟俊敏 日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め 又如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり 
明治23年 村会議員と為り 
31年 名誉村長に推され又琴平榎井神野七箇一町三村道路改修組合長と為り日夜力を郷土の開発に尽くす 
33年 香川県会議員に挙げられ爾後当選三回に及ぶ 
    此の間参事会員副議長議長等に進展して能く其職務を全うす 
35年 郷村小学校敷地を買収して校舎を築き以て児童教育の根源を定め又同村基本財産たる山村三百余町歩を購入して禁養の端を開き以て副産物の増殖を図れり 
45年 衆議院議員に挙げられ
大正4年再び選ばれて倍々国事に盡痙する所あり 
    其年十一月大礼参列の光栄を荷ふ 
    是より先四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走効績最も大なりと為す。翁の事に当るや熱実周到其の企画する所一一肯?に中る故に衆望常に翁に帰す。
今年八十にして康健壮者の如く猶花道を嗜みて目々風雅を提唱す郷党の有志百謀って翁の寿像を造り以て不朽の功労に酬いんとす 。 翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾
昭和十二年五月
       東京 梅園良正 撰書
 
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 碑文の中にもあるように増田穣三が生前80歳の時に建てられたよ

うです。年表で示すと
1934 昭和9年9月 増田一良 第6代七箇村長就任
1937 昭和12年  増田穣三の銅像建立(七箇村役場前)
         → S18年銅像供出 
1938 昭和13年  山下谷次の銅像建立(村会の決議で)
         → S18年銅像供出
1939 昭和14年  2・22 増田穣三 高松で死去(82)
       七箇村村葬により手厚く葬られた。
1963 昭和38年3月 増田穣三の銅像が塩入駅前に再建 
          その際に顕彰碑は以前の物を使用。
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 建立を進めたのは当時の町長増田一良で、増田穣三とは従兄弟にあっるようです。最初、七箇村役場前(現在の協栄農協七箇支所)に等身大のものが建てられました。しかし、戦時中の金属供出のため撤去。そして、戦後になって、場所を変えて塩入駅前に再建。
ということでしょうか。 
増田穣三について分かったことは?
第2代の七箇村長と県会議員を兼務しながら、大正時代の初めに衆議

院議員として国政にも参加した人物のようです。なかなか面白くなっ

てきました。この顕彰碑文と町誌を参考にもう少し調べてみます。
 

 土讃線塩入駅を見守るように立つ銅像は?

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まんのう町塩入駅
土讃線塩入駅を見守るように立つ銅像。
かつてから気になっていた。
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増田譲三像
改めて眺めて見る。
着物姿で少し前屈みの姿勢、身長も大きくはない
威風堂々という印象はない。
台座には「増田穣三」とある。

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そして台座には3面にわたって業績が刻まれている。
しかし、摩耗していて読み取るには難しい。

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       増田譲三像「昭和38年3月銅像再建」のプレートが埋め込んである。
再建と言うことは、一度は姿を消したということ?

与えられた情報はこれだけ。
これだけの情報をベースにこの人物について調べて行きたい。
「増田穣三」って、どんな人? のスタートです。



茅葺きのお寺 長善寺 

原付バイクで旧琴南町下福家をフィールドワーク中
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谷を越えた勝浦方面に大きな建物を発見
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旧長善寺(まんのう町勝浦)

石垣と白壁に囲まれた要塞のような印象
そして屋根が茅葺き?
早速行ってみることにします。
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旧長善寺
やってきました。勝浦の長善寺です。
正面の階段を上ると・・
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長善寺鐘楼 鐘がない!
茅葺きの鐘楼です。
しかし、つり下がっているのは??? 大きな石材です
本堂は・・・

DSC00796長善寺破れ本堂
旧長善寺本堂

「琴南町誌」に、このお寺についてこんな記述がありました。

 勝浦本村の中央に、白塀を巡らした総茅葺の風格のある御堂を持つ長善寺がある。この寺は、中世から多くの土地を所有していたようである。勝浦地区の水田には、野田小屋や勝浦に横井を道って水を引いていたが、そのころから野田小星川の横井を寺横井と呼び、勝浦川横井を酒屋(佐野家)松井と呼んでいる。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有していた。

 長善寺は浄土真宗の名刹として、勝浦はもちろん阿波を命めた近郷近在に多くの門信徒を持ち庶民の信仰の中心となった。昭和の初期までは「永代経」や、「報恩講」の法要には多勢の參拝借があり、植木市や露天の出店などでにぎわい、また「のぞき芝居」などもあって門前市をなす盛況であったという。

勝浦地区の政治・文化・宗教センターとして機能してきたお寺のようです。
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門前にはこんな言葉が掲げられていました。
「生きることはすばらしい
しかし いつまでも生きられないことを知ったとき
それはさらにすばらしい」
この言葉を繰り返しながら境内で「哲学」(?)しました。
DSC00820長善寺全景

もうひとつ不思議だったのは、「廃墟」ではないのです。
境内は綺麗に手入れされています。
庫裡には人も住まわれている気配。
それと、あの鐘はどこに・・
その答えは帰路に分かりました。

長善寺
現在の長善寺

旧勝浦小学校前に突然現れた新寺。
これは本勝浦にあった長善寺が「移転」してきたものなのです。



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