吉野川 カヌーで下る水運の歴史 NO4
美濃田の淵の川に浮かぶ「石庭」を過ぎると、吉野川は三加茂台地にぶつかり、流れを大きく北東へ変える。そして見えてくるのが青い橋。さんさん大橋だ。
私はこの名前を「SUNSUN Bridge」と連想し、なかなか遊び心があってGOODと思っていた。しかし、旧三好町と旧三野町を結ぶので「三三大橋」と名付けられたようだ。この縁から両町は合併することになる?
この橋を越えた左岸(旧足代村)にも「東の浜」と呼ばれた川港があったと三好町誌には書かれている。
北岸の国道沿いの道の駅を見上げながらカヌーは吉野川の流れに任せて進んでいく。流れが止まったあたりが角浦。ここは南岸の中の庄と北岸の大刀野を結ぶ渡しがあった。明治42年発行の国土地理院の地形図には、「角浦渡」が船のマークとともに記載されている。さらに上流から渡場が 辻 → 下滝 → 不動 → 角浦 → 江口 とあったことが分かる。
角浦渡には、後に沈下橋が架けられる。そして、その下流に立派な青い橋が架かっている。新大橋が完成後は沈下橋は撤去された。吉野川の沈下橋も少なくなっていく。沈下橋の下をくぐるのは、川下りの楽しみの一つでもあるのだが・・・
この橋を抜けると、長い瀞場が続く。
東風が強くパドルを漕がないとカヌーは前には進まない。この東風を受けて、かつての川船は上流を目指したのだろう。
三加茂町史には、吉野川の水運についてこんな記述がある。
加茂町では、長さ九メートル未満の小型廻船が多く用いられて航行していた。これは積載量は少ないが航行が容易で、船足か速かったので、一般に早船とも呼んでいた。徳島へ下るには約2日を要した。上りは真夏の候は東風を利用しで帆を使ったが、帆の利用ができない季節には徳島から一週間もかかったという。
吉野川をさかのぼる際に、いくつかの難所がある。毛田も難所の一つである。ここでは三隻~五隻の舟がたがいに助けあっで航行したという。
船主には運送業専門もあったが、仲買い商人を兼ねた人か多かった。下りは買入れた物資を自船に積み、徳島で問屋にその商品を売る。上りは仕入れた物資を積んで帰える。
吉野川沿岸の船着き場を「はま」と呼んた。三好郡では、江口(加茂町)辻(井川町)州津(池田町)川崎(池川町)川口(山城町)は主要な船着場であった。
このほかに小型廻(早船)の積みおろし場があった。本町では、毛田、角、不動、赤池がそれである。
吉野川か上下する川舟輸送は、明治25五年ごろから、35年までが最盛期であった。本町の川舟輸送業者は、明治5年には13人であったが、明治9年21人となり、同15年には、小廻船が30隻を越え、舟乗労務者も80人を数えるようになった。
川舟による貨物運賃は舟によっで、まちまちであった。大正元年―月になると、加茂村では、川舟は三艘あっで、その巡行は、一人一里に付七銭、物資は10貫目1里に付3銭であった。
明治33年8月、徳島ー船戸(川田)間の鉄道開通によっで、麻植郡以東の物資輸送は順次陸上へと移った。平田船(ひらだぶね)が帆に東風をうけて、上流へ消えてゆくかと思うとまた下流から現われて、次々と川上の方へのぼってゆく。こんなのどかな情景を、明治生れの人はみな記憶にとどめていることであろう。