瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2016年09月

 「三好町史」を原付バイクに詰め込んで、東山詣でが続く。
 
今日のミッションは「葛籠から樫の休場(二本杉)を経て大川山までの林道ツーリング」だ。まんのう町塩入から入り、県道4号(丸亀ー三好線)を財田川の源流沿いにツーリング。原付はスピードが出ないために、いろいろなものをゆっくりと眺められるし、考えられる。狭いソラの集落の道にも入って行きやすい。最適だ。

東山峠から一気に男山の小川谷に架かる橋まで下る。ここから葛籠集落の入口までは広い農道が整備されている。

葛籠集落の道沿いには、行き交う人々の安全を祈ってかお地蔵さんがいくつか見受けられる。ここは東山峠越の新道が整備される明治40年までは、樫の休場を越える塩入街道の宿場的役割を果たしていたという。
葛籠が繁昌していた「気配」は、今は残された屋敷跡の立派な石垣くらいしか感じることはできない。

傾斜した畑の中に「山祗神社」が鎮座する。 祭神は大山風命
祭礼には獅子舞が奉納される。この集落も大川神社の祭礼に参加するが、香川県から多数の獅子舞がやってくる。そこで「文化的交流」が行われてきたために獅子舞は、讃岐との流れをく んでいると言われる。大川神社の信仰を通じての阿讃の交流の一コマかもしれない。
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 集落の南側は「前山」が立ちふさがり、昼間方面との交通を難しくしてきた。
明治になって昼間から東山まで新道が整備されて、葛籠から樫の休場経由の塩入街道は繁盛する。今では、それも残された屋敷跡の立派な石垣からしか察することができないが・・・

集落を抜けてさらに高みに林道を上ると、眼下にいま抜けてきた葛籠集落 
そして小川谷川の向こうに貞安が見えてくる。 
ここも天空に通じるソラの集落だ。

葛籠林道の終点。
ここから大平までは「林道 樫の休場線」が阿讃山脈の稜線の阿波側を走っている。
右へ行くと馬瓶 → 田野々 → 仲野 → 太刀野山へと吉野川へ下りて行く。。このルートも塩入街道のひとつだった。
ここを左に曲がり、樫の休場へ。
中蓮寺山の枝打ちされた明るい杉林の中を抜けていくと・・・
樫の休場に飛び出した。

北側の讃岐の眺望が開ける。
眼下に塩入集落。
その向こうに満濃池が広がる。

この峠には6本の杉が立っている。これが讃岐方面から見ると2本の大杉が並んでいるように見えるので、讃岐側の地元の人たちは「二本杉」と呼んできた。
つまり地図などの公式文書には「樫の休場」、
讃岐の地元の呼称は「二本杉」ということになろうか。
最期に、三好町史の塩入街道「樫の休場」についての記述を紹介したい。
三好町史 民俗編 309P
  東山では、北へ行くにも南へ行くにも峰を越さなければならず、東へ行くにも西へ行くにも谷を渉らなければならなかった。そこでは、道を整えて人が通ったのではなくて、人が通った足跡が自然に道としての形を整えていったと思う。

 東山からの道は、まず讃岐へ通じ、人も物資も吉野川筋へ山入するよりも讃岐へ往来したと思われる。それは小川谷に沿って昼間へ山たり、峰を越えて昼間へ山ることが地勢から見て困難であったことにもよるが、それよりも、琴平や丸亀が商業的にも、文化的・情報的にも進んでいだことによると思う。江戸時代以峰、行政的には阿波藩に属したが、それでも吉野川筋への往来が讃岐への往来と並ぶという程ではなかった。
 讃岐への道は、
① 内野から法市・笠栂を経て水谷・二本杉(旧称・樫の休場)から塩入へ。
②葛龍から水谷・二本杉を経て塩入へ。
③貞安・光清からは男山峰を越えて塩入へ。
④差山(指出)の峰を越えて財田へ。
⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ出ていた。
どの道も塩入や財田を径て琴平・善通寺・丸亀をめざすものであった。足が達者であった昔の人は、一日で琴平へ往復できたようである。
これらはいずれも徒歩の道であって、それぞれの集落の尾根を登って峰を通る道であった。尾根を経て峰を行く道は、最短距離を行く道であって迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかった。
 また耕地を損ずることも少なし利点があった。が、それだけに急坂が多かったし、つづら折りに曲がってもいた。足掛りだけの徒歩の道であった。荷物は背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりした。
現在とは異なり、琴平・善通寺・丸亀等の商業圈に属していた。どの集落も奥地ほど讃岐に近いので便利であり、開化の土地であった。昔は、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が続いていた。

1907年(M40)、増田穣三は大きな岐路に立たされた。
まず、前年1月に讃岐電気株式会社(旧西讃電灯株式会社)の社長職を辞している。(実質的には更迭?)。続いて、3月には七箇村村長を退任。最初私は、「県会議長に、専念できる体制を作るため?」と推測した。しかし、どうもそうではないらしい。
 翌年9月の第3回県会議員選挙に、現職議長でありながら出馬せず。8年間にわたる県議会議員時代にピリオドを打つことになる。村長・県議会議員・社長という職を辞して、どこへ向かおうとしたのか。 譲三49歳である。政界からの引退? 

 その後、5年後に第11回衆議院議員選挙出馬(明治45・大正1年)までの増田穣三の足取りをたどる資料が手元にない。代議士へのステップアップのための準備期間になるのだろうか。
 ミッシングリングである。今後の課題としたい。
三土忠造・白川友一と共に衆議院議員に初当選。
   当時の香川の選挙区は、高松・丸亀の両市を除く郡部は、大選挙区制。この選挙で、三土忠造・白川友一・増田穣三の3人が政友会から出馬する。
 この内、三土忠造は、伊藤博文の眼鏡にかなって、韓国政府の学政参与官となり、教科書の編纂、学校制度の制定等に手腕を発揮していた。が、伊藤の勧めもあって総選挙出馬のために職を辞し帰国。三土氏は政友会の候補として、郷里香川県から打って出た。
三土忠造 - Wikipedia
 三土忠造
三土を支援したのが「多度津の七福神」の統帥景山甚右衛門である。
景山は、地盤を三土に譲って全面的支援を行った。衆議院を「卒業」の意味もあったようである。三土は「洋行帰りのニューフェイス」として、また
「伊藤公の目にとまって朝鮮で働いてきたサラブレッド」
という評判で、二位当選している。この後、三土は当選を重ね、政友会の重鎮に成長、重要な大臣ポストを歴任していく。
高橋是清内閣(たかはしこれきよないかく)とは - コトバンク
 
ちなみに、郡部で三位当選したのが増田穣三。
丸亀市区から当選したのが白川友一であった。

盟友 白川友一について
 振り返ってみると、増田穣三と白川友一が共に県会議員に初当選したのが明治32年(1899年)。二人は「県議同期生」として政友会に属し、堀家虎造代議士を支えていった。そして12年後、そろって衆議院議員に初当選した。 増田譲三の「政治パートナー」して、歩む白川友一について年表で見ておこう。

白川友一 - Wikipedia
白川友一年譜
1873年 琴南町造田で父安達小平太、母カノの四男として生
      友一出生時に父小平太は、西讃血税一揆の嫌疑をかけら
れ入獄中で家計困難
      ちなみに増田穣三よりも15歳年下になる。
1885年 12歳で小学校修了。
成績優秀で卒業後同校で1年間教鞭をとる。
1886年 13歳の時、富豪で質屋を営む横山初太郎の養子へ
      しかし、京都遊学の願いがかなえられず離縁。
1888年 15歳で、陸軍の予備校だった成城学校幼年科入る。
      幼年科・青年科を修了。その間何回も士官学校の入学試
験を受けたが、身体検査で不合格。
1892年 父母に連れ戻され、仲多度郡南村(丸亀市杵原町)の白
川家の養子となり、雪泳と結婚。
       21歳で南村の収入役、
24歳で七九銀行の支店長就任。
次いで高松讃岐銀行専務取締役となる。
この間、両行で地方経済発展のため活躍。
1899年 26歳で県会議員に選出され8年間活動する。
   日清戦争後の朝鮮半島を県会議員として視察し「有望な市場」 であることを認識。朝鮮における運輸、土木、建設の設請負業 などさまざまな事業経営に乗りだし、資産形成。日露戦争後に
は、中国東北部(満州)にも拡大し、土木建設会社を経営し成功
  下津井鉄道会社設立時には、これを支援し筆頭株主(500株)
として、初代社長に就任も経営には関わらず。
  その後も、丸亀市、下津井港との連絡船設備の整備充実などを進
めた
1911年(M45)衆議院議員に、増田穣三とともに初当選
 当選の年に「軽便鉄道助成法」が成立している。
この法案 成立の中心的な役割を果たしたのが、当選したばかりの白川友一である。「下電社長」という立場から全国の業界団体の要求をまとめるなど、その中心的役割を果たした。この結果、軽便鉄道に政府助成が下りるようになった。
下津井電鉄線跡を歩く2013-16-下津井の町を歩く岡山の街角から
 下津井鉄道の下津井駅前の白川友一像

このように代議士として「軽便鉄道」のみならず運輸・交通を中心に「業界団体の利益代表」として行った衆議院での質疑・要求内容が資料として国会図書館に残っている。ここまでが代議士となり国政に参加し活躍する「明」である。

大浦事件と白川友一

しかし、ここから白川友一や増田穣三にとって、舞台が暗転する。
それは、第一次世界大戦が始まる1914年に起こる。
昭和の「ロッキード事件」と同じように、独での収賄事件調査が飛び火して、シーメンス社による日本の政府高官への収賄事件が明るみになる。この収賄事件を背景に、野党政友会による内閣への攻勢が勢いづく。
大浦兼武 - Wikipedia
大浦兼武

 これに対して、大浦兼武
内務大臣は、翌年の衆議院選挙において大規模な選挙干渉で応じる。丸亀市の選挙区では、内閣に協力的であった白川友一の依頼を受けて、対立候補である加治寿衛吉候補に対し、圧力をかけ立候補を断念させる工作を行う。これが、選挙後に国会に告発される。
 さらに、前年の「2ケ師団増設」問題でも、大浦内相から当時は野党政友会に属していた白川友一や増田穣三を通じて、政友会内の議員に対して与党案に賛成するように工作。つまり、野党政友会の分断工作のために、内務大臣より買収資金が流れたことが判明。その受取側の中心が白川友一であった。これに増田穣三も深く関わる。
 関係議員が逮捕拘束されれ、裁判の結果、白川友一は議員を失職する。これにより、白川友一の政治生命は断たれた。
明治37年の香川新報「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」に、白川友一が紹介された次のような文章がある。
  「先生、年壮にして気鋭覇気鬱勃何者にか手繰り附くかんとするものの如し。其自転車を駆りて東西に馳餅するは、即ち財産の彼岸に辿り着く附かんとするもの也。県会の議席、時あって奇警の言論を弄するは、名声の彼岸に辿り着かんと也。恰も其企画経営、着々実効を奏し来り。世人が見て以て泡沫的と為すことも、一度先生の手を経れば遂に変じて軽石と化す。奇ならずとせんや。
 而して其れ実に先生独特の技量、其の精神力の旺なる、その根気の充満なる、讃岐人においては蓋し稀に見る処に属す。先生や到底相容れざる二個の希望の往来するが為に、常に其心を悩まさるるものの如し。
 何ぞや、営利と名声と即ち是也。
然れども営利に赴くも名声を得るは難しく、名声に走るもの利を得ることは固より能はじ。先生たるもの寧ろ一兎を選びて花より団子主義を提唱せざる、英国のロスチャイルド男爵と雖ど而かど西欧の金権を掌握することと知らずや」
「年壮にして気鋭覇気」で「技量、其の精神力は旺盛で、その根気強さは讃岐人においては稀に見る人物」と持ち上げ「営利と名声」の「二兎を追う」ゆえに心を悩まされるのではないか。あなたは「花より団子」で名誉は捨てて、営利追求に絞っては、いかがと揶揄されている。
 大浦事件を契機に政界から「追放」された彼は、この「助言」通り「一兎」を追う者へ姿を変えていく。 
大浦事件後の白川友一 「一兎を追う」ものへ転身
 この後、彼は3度全国版の一面に登場する。 
1921(大正10).3.20 東京日日新聞には「セ軍の五百万円は日本金貨となる。朝鮮銀行が買い取って造幣局で鋳造」という大見出しで、ロシア革命の際に反革命側のセミヨノフ将軍が持ち出した金塊横取事件に関わる黒幕として登場。
 また1922.10.7(大正11)  大阪朝日新聞では「武器問題 知らぬ存ぜぬ一点張 問題の白川友一氏語る」「ゆゆしき失態を演じた武器売渡事件」の見出しで、日本軍の保管武器が軍閥張作霖軍に売り払われた事件の黒幕として追求を受けている。
さらに、1930.12.1(昭和5)  大阪時事新報では、「阪神地方を中心に未曾有の薬品大密輸」「飛行便を利用して疾風迅雷の大活動 首魁乾某風を喰って高飛び 事件伏木にも波及」との見出しで、大連市内を拠点に国禁ベンモル(モルヒネ)の密輸事件で、「本事件の一方の旗頭と目されるのは、往年大浦事件に絡って議員買収の張本人となった香川県選出元代議士某氏(特に名を秘す)で峻烈なる検挙の手が延びたのを知ると同時に、到底逃れ能わざるを覚悟して、罪の裁きをうくべく已に自首して出た」と、その経過が大きく紙面を割いて紹介されている。後の裁判では懲役1年6月が求刑されている。
  以上 「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫より」
 大浦事件後に白川友一が「大陸浪人」として「雄飛・暗躍」していた姿が紙面から垣間見える。まさに「名声」を追うことを求めず、「花より団子」「営利一番」に切り替わった姿をみる思いがする。
 ただ、彼は1926年(大正15年)に、坂出と琴平を結ぶ「琴平急行電鉄」申請が出されると会社設立のための支援を積極的に行い、資金提供等の協力を惜しまなかったという。郷土香川の鉄道発展への志は、持ち続けていた。
さて、大浦事件の後の増田穣三は、どうしていたのであろうか。

参考資料
 青木栄一 「下津井鉄道の成立とその性格」
     「讃岐人物風景17」 四国新聞 昭和62年刊行
下津井電鉄「下電50年の歩み」所収 「白川友一自叙伝記」「白川友一事業概略」
      「現代讃岐人物評論 : 讃岐紳士の半面」 明治37年

         「神戸大学付属図書館 デジタルデータ資料 新聞記事文庫」

デジタルマップを眺めていると、西熊林道が別府につながっている。
今まで持っていた30年前の「山と高原」地図は、もちろんつながっていない。
しかも、白髪山に登るルートまである。さらに、コースタイムは50分。
「えーーー! ほんまかいな?」が第一印象。
こりゃ行かねば成るまいが次の判断。そして行動あるのみ。
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落合峠~矢筈峠~久保影でやってきました西熊林道。
道幅は広がっていないがどこまで行っても舗装路。ダート無し。
ちなみに、道路崩壊のために別府峡には抜けられないとの標識は出ていました。
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こんな「人」がいらっしゃいと、お出迎え。
車道まで現れるようでは、樹木の被害は推して知るべし。
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道標に導かれて、登山口の駐車場到着。
ここには、地元ボランテイアによって清潔なトイレも、快適な山小屋も、ミソサザイのさえづりが響く広い駐車場もある。いうことなし。
私のプライベート山小屋にしたいくらい。
本日の野宿先に決定。
 時は8月下旬、午後は暑いので山小屋で涼しくなるまでお昼寝。
明日は天候が崩れると予報なので、夕方から白髪山を目指す。
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16時過ぎ、小屋の上の登山口から出発。ほんまに50分で頂上につけるんやろかと、疑いながら深いクマザサをかき分け登山道をたどる。すると目の前を何かが走り抜け木に登り、こちらを注視する。
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「おまえ誰や?」
「おまえこそ誰や、先に名のらんかい」と無言の火花が両者に飛び交う。
ほんまにこれなんでしょうか。私にはわかりません。

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未練を残しながらもリョウブ・ブナ・モミの入り交じる尾根を登ると、笹の原に抜けて、そして頂上が見え始める。
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大昔、何度目かの三嶺・剣の縦走中に、白髪の避難小屋前で幕営したときに、早朝散歩でここまでやってきたことがあるが、てっぺんに立つにはそれなりの「仁義」が必要な山であったように記憶する。それが50分。
世の中の便利さを喜ぶべきか、なんちゃって登山化したお手軽さを嘆くべき・・・。しかし、多少の「罪悪感」らしきものはありますが、私は林道を使って50分で立ちました。懺悔しません。
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こんなに眺めが良かったかなと思うほど、素晴らしい眺めでした。
北には「鍋の蓋」あるいは「笠ヶ岳」のような山容の三嶺。
東の肩には、避難小屋がくっきりと見えます。
東熊山から伸びる稜線もセクシー。
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西熊山から天狗塚にかけてのなだらかな稜線。
あの稜線を、もう一度歩きたい素直に思うようになりました。
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8月下旬の平日、17時。だれもいない白髪の山頂を堪能。
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下山します。そして、あの山小屋で泊まらしていただきます。
山の神からの素敵なプレゼントに感謝。謝々


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八峰方面からの勝浦
まずは「琴南町誌 958P」で予習
「下福家は、土器川の源流勝浦川と真鈴川にはさまれた標高350~550mぐらいの阿讃山脈の緩斜面に開けた集落である。その東側を「東ら」と言い、西側は「西ら」と呼ばれる。突出した丘陵の中段に扇状に人家が散在している。「東ら」は家の近くに比較的広い水田が聞かれている。「西ら」は伝説では神櫛王の家臣の子孫である福家長者がこの地を開き、天安元(857)年、ここに社を建て神櫛王を祀ったという。後に、この神社を福家神社、その地を下福家と呼ぶようになった。福家長者の子孫については、不詳であるがこの福家神社を中心に集落は拓けた。」

さて、これだけの情報を頭に入れて、土器川源流に近い勝浦地区の下福家へ原付ツーリング開始
琴平方面から国道438号を南下し、まんのう町明神にある「谷川うどん」の上にある信号を右折し、県道108号線の「滝の奥」方面へに入る。
DSC00879現在の長楽寺
現在の長善寺
勝浦から下りてきた現在の長善寺の伽藍を右手に見ながら更に進み、勝浦集落への入口も越えて行く。

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しばらくすると「下福家バス亭」が見えてくる。ここから下福家集落に入っていく。
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旧長善寺跡
かつての長善寺の伽藍跡を左手に見上げながらさらに坂を登る。この寺は、阿波郡里の安楽寺のサテライト寺院として、丸亀平野への浄土真宗興正寺派の布教センターの役割を果たした寺院で、阿波と讃岐に多くの門徒を抱えた大寺院だったようだ。
DSC00796長善寺破れ本堂
取り壊される前の旧長善寺本堂
かつての茅葺きの本堂は、その面影を残していた。

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鐘楼には、大きな石がぶら下げられて重しとなって揺れていた。今は、更地となってそれもない。寺から更に道を詰めて、沢が滝のように落ちていくのを見ながら急勾配の細い坂道を登ると、深い木立の中に福家神社が鎮座する。
DSC00855勝浦福家神社鳥居
福家神社鳥居
拝殿には「福家神社のもうひとつの由来について」と題して、町史に書かれていない神社由来が貼り付けられていた。一部紹介すると
「前略 崇徳上皇が崩御されて帰る行き先が無くなったお供の公家達は、阿讃の山奥に住み生活の糧に木材を土器川に流して下流の地で商いをして富を得たので、村人達はその一団を福(富)の家長者と呼んでいた。その後も公家達は京都の縁者と連絡を取っていた模様で源平の戦いに敗れた安徳天皇を密かに招いた地は現琴南町の造田の横畑地区と思われる。(通称:平家の落人部落)
そこで公家達は相当の逃走資金を献上して阿波祖谷に逃げさせた。(以下略)」

 ここには、神櫛王に発し、崇徳上皇、安徳天皇に連なる誇り高き神社であることが、記されている。 満濃町誌には、下福家の人々がこの神社の宗教行事を通じて結束を保ってきたことを、次のように記している。 
下福家は、全戸で二九軒(東8軒、中6軒、下8軒、西7軒)であるが、福家神社を中心に生活してきたことが、福家神社の正月の行事をみると明らかである。正月の元日の宮まいりは、大晦日の十二時が過ぎると氏子の者は皆神社に参るが、どの家も「おごくさん」を炊いて、ヘギに盛って持って来て祀る。
DSC00853福家神社鳥居
福家神社参道 
一月七日に的射の行事があるが、各戸から持ち寄った紙を張り合わせ、五尺四方の的をつくる。もちろん、弓も矢も手造りである。まず宮司がお祀いをして三本射ると、続いて氏子の者全員が交替に二、三本の矢を射る。これが済むと、この的を境内中引きずり回して、めちゃくちゃにこわしてしまう。これで悪魔を射払い、一年の無病息災を祈念るのである。最後に、お神酒が出て、重箱の「おごくさん」をいただく。それは、「手のひら盆」といって、手の甲に受けていただくもので、古いしきたりがそのまま残っている。
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福家神社

  福家神社の横の道を登っていくと、家の周りに棚田が重なる風景が見えてくる。一番高い民家から勝浦・明神方向をながめる。幾重にも山々がひだのように重なる。
DSC00870長善寺遠景


下福家の人たちの深い信仰心と、それを紐帯とするつながりの深さを考える機会になりました。

残暑が続いた今年の夏、秋の気配を山に探しに出かける。私にとって秋の気配は、彼岸花とススキの揺れる高原。それで選んだのが四国カルストの姫鶴平高原。前日出発し、深夜に到着。そのまま風力発電の前で車中泊。
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朝ぼらけころに目が覚める。ライジングサンを見るために、早朝の高原散歩。
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東の空の彼方にぽっかりと太陽が現れました。
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振り返ると白い石灰岩も赤く染まっています。谷には雲海がまだ貯まっています。
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牛たちも牛舎から出てきて朝の食事中。
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牧草がまぶしい。
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「天空の爽回廊 カルスト高原展望ロード」を歩いて天狗塚方面へ

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かなたの天狗塚と天狗荘。
私のイメージしたとおりのススキの高原歩きを満喫できました。

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高原の空には秋の雲が浮かんでいます。
秋の気配がいっぱいの姫鶴平から天狗塚への高原の道でした。

三好町男山の徳泉寺について

徳泉寺 男山2
男山の徳泉寺
まんのう町塩入から県道4号(丸亀ー三好線)を財田川源流に沿って原付バイクを走らせる。15分ほどで東山峠に出る。ここから三好町の昼間方面に下っていく。二本栗キャンプ場の上の分岐を右にたどると東山の男山集落へと入っていく。

徳泉寺 男山1
徳泉寺
集落の中に新築中の銅板葺の赤い本堂が見えてくる。徳泉寺だ。
今日は、このお寺についての報告。 
 この男山の地に、美馬の安楽寺で修行した僧が「奥の院」と呼ばれる坊を構えたのが天正十八年(1580)のこと。安楽寺は興正寺派の阿波・讃岐における布教センターの役割を果たし、多くの僧侶を阿讃の村々に送り出し、各地に「道場」を立ち上げていく。そのひとつが徳泉寺になる。阿讃の里のお寺は、どこもそんな歴史を持つ。 
 しかし、この道場は一度は「挫折」する。それを再興し、お寺にグレードアップさせたのが教順である。
教順の先祖は讃岐の落人と伝えられ、次のような話が残っている。
教順の祖先は、讃岐の宇足郡山田の城主後藤左衛門太郎氏正。氏正が瀧の宮の城主蔵人に敗れ、阿波三好郡太刀野山に隠れ住んだ。讃岐からの落武者氏正の孫の重次の二男が教順であり、文禄二年(1592)田野々に生まれ、6歳から讃岐金倉の念宗寺で学んだという。
 その後、教順の母方の伯母が東山の大西庄屋に嫁いでおり、その家に三年ほど寄寓していた。そして、庄屋甚左衛門(教順の従兄)の理解と協力を得て、男山の「奥の坊」再建に着手することになる。 教順30歳 元和7年(1621年)のことであった。
徳泉寺 男山6
徳泉寺
教順は博学多才で徳高く、自宗他宗にかかわらず人々の世話をしたので帰依する人が増えた。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍がととのっているものを想像する。しかし、この時代の真宗寺院は、「道場」と呼ばれていた。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけの施設だった。
蓮如筆六字名号】 真宗大谷派 長命寺 上杉謙信の位牌を安置する真宗大谷派の名刹 創建弘安・正応年中 山形県米沢市
六字名号

そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱える。大半が農民だから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞く。このように道場といわれるものが各地に作られる。「道場」の責任者の一人が教順であった。この道場が発展してお寺になっていく。

浄土真宗の道場(飛騨の嘉念(かねん)房の復元図)

教順が男山で道場を立ち上げていた時期は、美馬の安楽寺が教線ラインを、吉野川流域や阿讃の山々を越えて中讃地域へ伸ばしていた時期でもあった。安楽寺の支援を受けながら教順は、寺院への脱皮を図ろうとする。そのためには本尊を安置し、寺号を手に入れる必要がある。そこで東山の有力者である男山の喜兵衛、葛韻の四郎兵衛、内野の甚太夫、石本の孫右衛門、増川の弥兵衛の五人に協力を依頼。彼らの支援を取り付けた上で、教順は動き出す。
  ちなみに本号免許や法宝物の下付については、本山への礼金や冥加金の納入が必要でした。西本願寺の場合、「公本定法録 上」(「大谷本願寺通紀」)には、その「相場」が次のように記されている。
木仏御礼      5両2分
木仏寺号御礼
開山(親鸞)絵像下付 24両2分
永代飛檐御礼 両1分
寛永十五年(1638)男山の喜兵衛(後の大谷)と利右衛門(後の市場)の二人が奉加帳を回して、38両を集める。これを資金に寛永18年(1641)に上洛し、本願寺に木仏と寺号の徳泉寺を願い出た。さらに、木仏と寺号が免許されると翌年再び上洛して、本尊仏に本願寺聖人良知上人の裏判をもらい受ける。本尊仏は長さ二尺、総金泥弥陀九重座、仏師左近の作であり、裏判は寛永十八年である。

阿弥陀如来像(絵像本尊)
 正式に寺院として認められた徳泉寺は、東山における文教センターの役割を担っていく。
代々の住職は布教のかたわら寺子屋教育に従事し、維新当時の住職山西家信も子ども達に読み書きを教えていた。
 明治十三年(1880)に小学校として使用されるのを契機に草葺きを瓦葺きに替えた。維新後、教順の子孫である11代山西宗嫌が都合で讃岐観音寺へ移った。後には、伯父甥の関係から長尾良雄が来て12代となった。

徳泉寺 男山4
徳泉寺
 昭和六十三年に本堂屋根の葺き替えと一緒に内陣の改装、仏画・仏壇の彩色、鐘楼の屋根・白亜の改修を行った。そして、現在平成26年には、本堂の建替工事が進んでいる。讃岐の落ち武者の子孫が、ここにあった道場をお寺に成長させて500年の歳月が流れようとしている。
 参考文献 三好町史 民俗編299P
 

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檮原で「脱藩の道」を歩いていた。
高知市内から檮原に連なる街道を行く。檮原手前で街が眼下に広がる高台にやってきた。
街道沿いの石垣の上に立つお堂に出会った。徳島のお堂を見慣れているのか、懐かしさと共に、多少の違和感を感じた。それがどこから来るのか考えてみた。
 
 ここの「茶堂」 は、一間四方の方形で屋根は茅ぶきの宝形造、三方が吹き抜けだ。正面奥の一面のみが板張りで、そこに棚を設けて石仏等を祀っている。祀られる石仏は弘法大師、地蔵、庚申像など様々である。床は 板張りで地面から約50cmの低いところにある。
 外見的にはトタンが被せられず萱葺きのままであること。間取りが小さいこと、床が低いことなどが挙げられるが、基本的には徳島のお堂と共通する点が多い。
 このような茶堂は檮原周辺の旧街道の辻々に立 っており、約60ヶ所くらい現存する。

 「茶堂」はかつて「おこもり」の場であり、地区中の者が集まっ て酒宴をする懇親の場、情報交換の場であり一種のコミュニティセンターとして機能してい た。そして現在でも通行人への接待や虫送りなど様々な年中行事が「茶堂」を舞台として行 われている。
「茶堂」では地区の人々が毎年旧暦7月1日から末の31日まで毎日各戸輪番に出て午前 9時ごろから夕刻までお茶を沸かし通行人に接待をしていた所が多い。これが「茶堂」の呼び名の由縁ともなっている。ただし「茶堂」の名称が一般化したのは昭和50年代以降で、 それまでは単に「辻堂」・「お堂」と呼ばれた。

 茶堂は街道沿いの集落の入口に、設けられていることが多い。それは茶堂が集会所的役割を果たすと共に、集落と外部とを結ぶ役割をも果たしていたからであろう。

 昔の旅は、誰でもおこなえるものではなかった。
旅は、交易商人や遊行者、巡礼者など、限られた人々がするものであり、宿所も整備されていない。日記、記録類においては、吹き放しの小屋に簾等を掛けて寝るといった記述がよくみられ、『一遍聖絵』の蒲原宿の描写においても、宿と想定される建物は吹き放しで描かれている。御堂や辻堂と呼ばれる施設を宿所に用いたようである。
 集落と集落を網の目のように結ぶ峠道を介した物流と人的交流があり、あるいは在郷の「聖地巡礼」もあった。その際、茶堂は「宿泊所」の機能を果たしていた。

茶堂の起源として、この説明板には興味深いことが書かれている。申し合わせが江戸初期に為されて辻堂が各地に作られるようになったとあり、今で言う行政主導型のスタートであったと書かれている。これは、徳島県のお堂の起源を考える際にも参考になるのではないか。


 土佐矢筈山へ早朝登山
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8月下旬 猛暑を避けて山に「避暑」 
三加茂から入り、落合峠を越えて国道439号を京柱峠へ。そしてダートの林道を抜けてたどり着いたのが土佐矢筈峠。初日はここで野宿。
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翌朝は鳥たちのさえずりで目を覚ます。朝日を受けた矢筈山が輝いている。
食事を済ませて「早朝登山」
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峠から登り始めるとブナのゲートが出迎えてくれる。
鞍部からリョウブの木肌が印象的な登山道を直登気味に登る。




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樹林限界を超えて笹が広がり始める。
その中に磐城に見える石灰岩の巨石が姿を見せ出すと頂上は近い。
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足下にはシコクフウロ

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稜線直下の一面の笹の海。
「大牧場はみどり」を口ずさみながら歩く。
笹の海に「島」 いとおかし。どんな現象なのか分からない。
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峠から1時間足らずで矢筈山頂上。ここからの展望はすばらしい。
西には京柱峠に続く笹の海。どこまでも歩いて行きたくなる。
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東には、ぐっとせり上がった天狗岳と独特の傾きを見せる三嶺。
上空には空を切るアマツバメの羽音
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小一時間、寝転がって山と空を眺めて過ごす。それでも飽きない。だれもいない山を独り占め。

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笹の原の稜線にお別れして下山開始。
つい昔歌った山の歌を口ずさんでいる。
穂高よさらば・・・
シーハイル・・・・
広島高師の山男・・
「年を重ねた証拠だよ」とかつて一緒に山に登った友人が何処かで呟いたような気がした。


まんのう町吉野の「大堀」とは?

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 まんのう町の吉野字大堀(長田うどんの交差点を満濃池方面に500㍍行ったところ)の県道の東に小さな堀が残っている。説明板には「王堀」と呼ばれ「中世の豪族の館跡」と書かれている。いったいどんな「王堀」なのか、資料に当たりながら実相を見てみよう。
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絵図上の野々井出水にあたる部分だけが残っている

 この堀については
「那珂郡吉野上村場所免内王堀大手佐古外内共田地絵図」
という長い名前がつけられた資料が「讃岐国女木島岸本家文書」の中に残されている。
 絵図からは、堀、土塁、用水井手、道路、道路の一部としての飛石、畦畔、石垣、橋、社祠、立木、輪郭の形状が見て取れる。文字部分は、墨書で絵図名称と方位名を、朱書で構造物と地形の名称と規模が書かれている。
 「大堀」の内側の水田については
「此田地内畝六反四畝六歩」
と面積が示される。そして、堀の外周と内周の「竪長」と、堀の「幅」について数値が記入される。以上から100㍍×60㍍が館の面積となる。また、絵図が書かれた当時は、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰が描かれている。
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周囲との位置関係を絵図に書かれた文字資料から見ておこう。
①「五毛往来」「五毛」は、満濃池の南東隅にある地名。
②「巳午ノ間満濃池当り」 南南東の方角には、満濃池がある。
③「南」角丸長方形の堀は、二つの対角線が南北方向の線上にのっている。これは、堀の長軸方向が那珂郡条理地割の方位であるN-301Wにのっているため。
④「未方真野村一向宗光教寺」 「光教寺」は、真野字吉井に現存 。同寺は、中世の「文明年中」の建立という由来をもつ。
⑥「西酉方金毘羅社当り」 西の方角には、金毘羅社がある。
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⑦「戌方八幡宮」「八幡宮」は、満濃町大字吉野字八幡にある「八幡神社」が相当。 方角は、およそ北西方向。
⑧北方面は「丑ノ方当新名氏屋敷当几三丁」「黒木玄碩屋敷几八丁」「新名氏屋敷」の2つの屋敷は、当時吉野に存在した屋敷。
「黒木玄碩屋敷」は、大宮神社付近。
以上からこの絵図が「大堀」のかつての姿を写したものであることが分かる。
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⑧「黒木玄碩屋敷」は、この人物の生没年がこの絵図の作成時期をきめる有力証拠になる。が、詳細は不明。しかし「新名」や「黒木」の苗字を有する人物が江戸時代に大庄屋、社人といた。ここから本絵図が江戸時代に作成されただろうことが推測できる。
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 航空写真で見てみると・・・・
 今は王堀の中央を県道が走り、倉庫が建てられるなどこの地に立っても当時の様子を偲ぶことは難しい。しかし、上空からの航空写真で見てみると長方形の大きな堀跡が読み取れる。堀跡の西・北・東の細長い田地や円弧を描く畦畔として残されている。南辺は幅が狭くなっており、南西隅は宅地のために旧状は失われている。土塁は、東辺・南辺の畑や、西辺の草地や畦道がそのなごりを示している。北辺はその痕跡はうかがえない。四周する土塁の内側の田地の畦畔の位置は、絵図のそれと大体一致しており、旧状を保っている。
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 この堀については、「王堀」「大堀」と呼ばれ、次のような伝承も伝わっている。
 神櫛別命の裔で、那珂郡神野郷を本拠とする豪族の酒部黒麿は、「移りて良野の大堀と云処に居住」した。酒部黒麿の居宅の場所は、「王堀」または「王屋敷」と称していた。王屋敷の東南には「冠塚」「御衣塚」があり、東方には「御殿が岡」があった。
この伝承は、この堀が古代以来の由緒をもつことを物語っている。

 もうひとつの視点としては、近年の中世城館跡の調査研究の成果から考えられる推察である。
中世の武士集団は、まず平地に立地し、方形か長方形の堀と土居をともなう居館を造営し防御性を高める。そして、麓の居館と最寄りの山城とでセットとなる根小屋式城郭の、居館に相当するものであったのではないか。
理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館

 そういう視点でみるならここから3㎞北には、土器川を挟んで長尾山山上に西長尾城がある。県下有数の山城との関係なども想像してみるのも楽しい。
 H16年に県道拡幅の際に一部の調査が行われた結果、普通の農民の住居とは思えない太い柱をもつ建物が出てきている。そして14世紀前半の鎌倉時代で廃墟となっているようである。戦国時代の建物群は今のところ見つかっていない。
箕輪初心○群馬新田荘遺跡:江田館跡=江田行義館: 城・陶芸・登山 ...
 つまり、戦国期を迎える前に周辺勢力との武力抗争で滅び去った武家の居館とも考えられる。滅ぼしたのは長尾氏なのか??? あくまで推理推測である。
 どちらにせよ、この絵図は「田地絵図」という農業的要素よりも、同地の軍事的な価値を記した「館跡絵図」の性格が強い。四国新聞2016年9月14日版「古からのメッセージ」では「大堀城跡」として紹介されたいた。

参考資料
 野中寛文  吉野上村の田地絵図は館跡絵図     香川県立文書館紀要3号


高梁川下り

 

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野口ダムより仰ぎ見る阿讃の山々 この奥に塩入集落がある
東山峠は、南の昼間(現三好町)と北の讃岐の七箇村(旧仲南町:現在のまんのう町)の阿讃の村をつなぐ。この峠が出来るまでは、阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場を越えて、塩入集落に至っていた。そして、福良見から堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平の阿波町に至る。金毘羅参りの街道でもあったため三頭越えなどとともに「金毘羅参拝阿波街道」のひとつとされる。
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財田川の源流に沿ってならぶ塩入集落
 
またこの道は讃岐の塩を阿波へ運搬する道でもあった。阿波藩は「鎖国の国」と言われたが生活必需品の塩だけは、この道を通って阿波の奥地にまで入っていった。その拠点となった塩入集落には、うどん屋や旅人宿ができ宿場町を形成していた。

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財田川の源流沿いに東山線は伸びていく。離合可能な走りやすい道である。
 明治時代に入って各藩の「鎖国政策」は取り払われ、「交易自由化」が進められ阿波・讃岐間の交易も活発になる。煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、人と物の交流が増加する。
 さらに財田の大久保諶之丞の四国新道建設に刺激を受けて、阿讃の両側(七箇村と昼間村)から道路改修が行われ、東山峠で結ばれることになる。これが現在の県道4号丸亀三好線のルーツである。

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東山峠で阿讃が結ばれるまでの経過を追いかけてみよう。

1 1892年(M25年)に、昼間村長は、「香川県に属する分の改修」を七ケ村長に交渉している。ちなみにこの時の七箇村長は田岡泰。県境を挟んだ両村が東山峠までの新道を責任を持って建設し、東山峠でドッキングすることが計画されたようである。
 そして、工事開始。しかし、当時の里道建設は「全額地元負担」で「全線に係る工費は巨額にして村力の及ぶところにあらず」であえなく中断。
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             現在の東山峠
 6年後に、郡・県から半額補助を受けて、4ヶ年計画で工事を実施。明治39年に塩入から伸びてきた道と東山峠でドッキングさせた。
「新道建設」の際に大きな追い風となったのは、主要里道の建設  改修に対して、県や郡からの補助金が出るようになったことである。
 村のリーダーとしては、新道建設の重要性を説くと共に、補助金確保のため県議会への働きかけが大切になる。

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 現在の男山集落 
     丸亀~三好線がつづら折れに集落を貫いている。

認可が下りても今度は、地元負担金を準備しなければならない。これをどうするのか。「苦心惨憺一方ならざるものあり」と資料は記している。
 道路建設を決議した村の負担の大きさとそのリーダーたちの心労は大きいものがあった。自分の村を通る道は自分で作るのだという自負と決意がなければ、当時の里道建設はなかった。


 阿讃国境付近の道路改修は、東山越に新しい新道が建設されたことになる。その結果、それまでの主要道であった、樫の休場越がどうなっていったのかは又の機会に。

9月早朝の瓶が森 2つの山小屋跡を訪ねて

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   瓶が森の駐車場に車を入れて石鎚をビール片手に眺める。
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今晩はここで野宿。
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楯を横にしたような石鎚に朝日が照らす。
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早朝の笹の原を「独り占め」する目論見で足を伸ばす。
誰もいない。高原の小鳥のさえづりのみが耳に入る。
駐車場の向こうには、子持ち権現がぽつんと見える。
笹の原の中の道は草刈りされたばかりで歩きやすい。山の歌を歌いたくなる。
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白石小屋への分岐点。顔を洗うために瓶壺に降りていく。
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瓶壺の水で顔を洗う。顔だけでなく全身を浸して修験者のように清めたい処だが、冷たそうなので辞めておく。
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この木 何の木?
コメツガでもモミでもない。葉はマツ。五葉松?
まさかこんなところに???
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白石小山に人の気配はない。
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しかし、第二キャンプ場は笹が刈られ幕営可能状態。
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お気に入りの場所で読書と早いお昼寝タイム
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第一キャンプ場へ向かう。
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  瓶が森ヒュッテは廃墟化して「倒壊注意」の貼り紙あり。
そのそばを黙祷をするかのように頭を落として通り抜けていく。
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このキャンプ場からの石鎚は最高。
重いザックをかついでたどり着いたときの安堵感をいまでも思い出す。
蛇口をひねれど水は出ず。
されど、次は水を担ぎ上げてもここで「野宿」したいという気になる。
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氷見二〇〇〇石の笹の原にガスがかかり始め、石鎚も見えなくなっていく。
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ふと足下を見るとリンドウの花が・・

「生きている鳥たちが飛び回る山を 
あなたに残しておいてやれるだろうか父さんは
近づいてごらんなさい リンドウの花があるでしょう。」
昔歌った歌を自然と口ずさんでいた。

瓶が森の笹の原を独り占めする贅沢な時をいただいたことを、山の神に感謝!

西条 下津池のお堂と棚田

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西条から南へ国道をたどると笹ヶ峰への分岐点である下津池。このあたりは止呂峡と呼ばれ深い渓谷が続く。
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笹ヶ峰林道への橋の上にごろりと寝っ転がっているとミサゴが上空を横切った。大昔、重いザックを背負ってこの橋を何度も渡った。
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付近を歩いていると、お堂が見えてきた。収穫間際の稲田に囲まれた緑の屋根がお洒落に思えてくる。
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用水路を流れ落ちてくる水の響きがあちらこちらから聞こえてくる。
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「風穴」という道しるべに誘われて棚田を上がってみる
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用水路を流れ落ちてくる水の響きがあちらこちらから聞こえてくる。 はるか上流より導水した用水路が棚田の上部を通っている。そこから各棚田へ用水が供給されている。
             
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