瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2016年10月

30年ぶりに芸北の恐羅漢に行く。

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牛小屋高原のエコロジーキャンプ場で前泊。

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ミズナラやアカマツの木立の中のキャンプ場を独り占めして気持ちの良い朝を迎える。
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砥石郷との鞍部にあたる夏焼峠に向かってミズナラの林の中を歩く。
昨日の雨上がりの後で、沢からは水の流れる音があちこちから聞こえてくる。
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所々にベンチやテラスが設置され、高低差も少ないため快適な森歩きができる。
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次第にトチや沢ぐるみの巨木が混じるようになる。
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小さな尾根を越えるとブナの子ども達が姿を見える。
かつて芸北ののブナの原生林は臥竜山を除いて、伐採された。
稜線沿いに残されたブナの母たちが飛ばした種子が広がり、再びブナの幼木が育ちつつある。40年以上の年月が経ち、ブナ林はよみがえりつつある。
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ゆっくりと森を楽しみながら歩いて50分で夏焼峠。
真っ直ぐに行くと中の甲を経て奥匹見峡へと続く。
稜線を恐羅漢に向けて南に進む。
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夏焼けの丘から台所原にかけての稜線で、ブナの巨木が迎えてくれる。
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山葡萄の葉が赤く紅葉し、黒い実をつけている。
ナナカマドも赤い実をたわわにつけている。
今年の森は豊穣だ。豊かな実を求めて、北からやってきたばかりのツグミやシロハラが集まってくる。南に帰る夏鳥達も混じる。
双眼鏡を取り出して「鳥見」。さえずりがあちらこちらから聞こえてくる。

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 早手のキビレ付近では紅葉が盛りになっていた。
葉っぱを拾ってみるとハウチワカエデだ。
天狗がもっていた団扇の形に似ている。
同じ葉っぱでも色づきが異なる。不思議なものだ。
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そして頂上直下へ。ここまでで約二時間が経っていた。
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恐羅漢頂上へ

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展望は360度と言うわけにはいかない。南や西方面は灌木で視界は開けない。
やはりこの山からの眺めは北方がいい。
掛図から臥竜の稜線のラインは美しい。

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そして、なにより深入山のどっしりした山容とドーム状の山頭が愛らしい。
この日は、天候が不安定。山頂もあっという間にガスに包まれ視界が効かなくなった。
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帰路は立山分岐からスキー場経由のルートをたどる。
紅葉が始まった木々の尾根を下ると・・・。
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スキー場の最上部に出る。
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立山ルートを直登してくるグループとすれ違い、ゲレンデをジグザクに走り下りる。
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下りきったところにあるのが広大WV部の山小屋。
綺麗になっている。
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牛が放牧されていた牛小屋高原。
そして開拓者達が入植し、戦後拓かれた場所。
そこはスキー場やキャンプ場となり、その痕跡を探すのは難しくなっています。
しかし、変わらないものはここにはたくさんありました。
私にとっては魅力的な場所の一つです。

 増田穣三の従兄弟・増田一良について  

 増田穣三と深く関わる人物として挙げたい人物がもうひとりいる。増田一良(いちろ)である。
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一良は譲三より14歳年下で、増田家の本家と分家で隣同士という地縁血縁的に非常に近い関係になる。一良は、譲三の後ろ姿を見ながら育ち、成長につれて「兄と弟」のような強い絆で結ばれていく。
 例えば、若き時代の二人が熱中したものに浄瑠璃がある。当時、塩入の山戸神社大祭には阿波から人形浄瑠璃がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演していた。阿波は人形浄瑠璃が盛んで、塩入には三好郡昼間の「上村芳太夫座」と「本家阿波源之蒸座」がやって来ていた。
 その影響を受けて、春日を中心に浄瑠璃が「寄せ芝居」として流行していく。素人が集まって、農閑期に稽古をして、衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。ちなみに大正15年ごろの花代は、50銭程度だったという。この寄せ芝居で若き時代の譲三や一良は、浄瑠璃を詠って好評を博していた。県会議員時代には、この時の「成果」が酒の席などでは披露され「玄人はだし」と評されている。
 仲南町誌には、次のような記述が載せられている。
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。
 その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。                                                              (仲南町誌617P)
  若き時代の二人が浄瑠璃を共に詠い、村の人々共に演じ、娯楽を提供していた姿が伝わってくる。これ以外にも、未生流の活花や書道も一良は、譲三を師としている。

 その一良に大きな影響を与えた師が大久保彦三郎である。

 大久保彦三郎は、安政6年(1859年)生で、増田穣三より1歳年下になる。讃岐国三野郡財田上村戸川に富農階層の次男として生まれた。現在の尽誠学園の創設者でもある。兄は「四国新道」を作った大久保諶之丞になる。
双陽の道 馬見州一 | 塗装・防水・塗り替え・改修工事の札幌ペック(株 ...
まず大久保彦三郎が歩んだ「学びの道」をたどってみたい。
 明治初年期は、尋常小学校が整備されていない。そのため江戸時代と同じように寺小屋で読み書きを学んだ後、富裕層クラスの師弟は周辺の知識人の塾の門を叩く。この辺りは、増田穣三が琴平の日柳三舟のもとに通ったのと同じだ。
 大久保彦三郎は、十郷村山脇の香川甚平の塾まで歩いて通った。
香川甚平は、藩政改革に大きな実績を上げて著名になっていた備中の儒者山田方谷の徳業を称えていたという。さらに、明治9年(1876)9月からは、高松の黒本茂矩の下で漢学及び国学を学ぶ。黒本茂矩は、古野村(現まんのう町)大宮神社の社家に生れ、明治2年33歳で高松藩校講道館皇学寮教授になり、田村神社の禰宜をしながら高松で私塾を開いていた。 明治初期の讃岐における著名人である。ちなみに増田穣三と幼なじみで初代七箇村長を務めた田岡泰も、ここの門下生であった。田岡泰は、この時期に整備されていく師範学校に進んだが、彦三郎は、儒学・国学・仏教方面をより深く学ぶため京都へ上り、さらに東京で終生の師三島中洲出会い漢学等を修める。しかし、学半ばにして病にかかり保養のため郷里財田村に帰郷する。当時、兄の諶之丞は戸長として、財田村のために尽力していた最中だ。その姿を見ながら彼はかたわら塾を開く。 
 病が一服した明治17(1884)年3月1日には、正式に「忠誠塾」を開設する。
設立目的を述べた「教旨」によると、「国家有用の真士」を作ることであり、そのための手段は主として「儒教・漢学を通じての忠誠心涵養」に求めるとある。対象は小学校を卒業上級志向者で、中学校の代用学校の役割をもったものであったようだ。 
開塾されたばかりの「忠誠舎」の門を、叩いたのが増田一良である。
 彦三郎25歳、一良11歳の師弟の出会いとなる。
忠誠舎は、漢文だけではなく、新聞体、西洋訳書、新著書その他「有益書」を選択して教えたり、体操、詩歌吟舞、学術演説、討論等も教授する新しいタイプの教育機関を目指した。
 明治20年には彦三郎は「忠誠塾」の発展を願い、拠点を京都に移し「尽誠舎」と改名する。忠誠塾の一期生である一良も、これを追いかけて京都に上り、尽誠舎に入学する。師である彦三郎を慕い仰ぐ気持ちが伝わってくる。こうして、一良は忠誠塾の一期生、尽誠舎でも第一期生としての誇りを持つと同時に、大久保彦三郎の薫陶を深く受ける。母校に対する愛情は深く、終生変わらぬものがあったようだ。
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尽誠の同窓会にて 中央に座るのが増田一良 
 一良に遅れて2年後(M22年)に入学してくるのが山下谷次である。
 山下谷次は、まんのう町帆山出身で、後に「実業教育の魁」として衆議院議員に当選し活躍する。この時期、彼は同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰いだがかなわず、貧困の中にあった。谷次を援助したのが彦三郎である。彦三郎は、尽誠舎への入学を認めると共に、舎内への寄宿を許した。そして、谷次に学力が充分備わっているのを確かめると、半年で卒業させ、さらに大抜擢し学舎の幹事兼講師として採用している。 
この時期は、一良の京都遊学時代と重なるようである。
ふたりは京都尽誠舎で、「師弟の関係」にあった可能性がある。
後に谷次は、香川選挙区から衆議院議員に立候補し当選する。
その原動力の一つに、現職の県会議員増田一良や、元衆議院議員の増田穣三など「増田家」に連なる人々の支援があったのではないだろうか。       参考資料 福崎信行「わが国実業教育の魁 山下谷次伝」
 
 尽誠舎卒業後の一良の足取りは、上京し駒場農林学校に進学するまではたどれるが、そこから先が今のところ分からない。資料がそろっていないのだ。今後の課題としたい。 

一良の政治家としてのスタート

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一良は明治35年に29歳で七筒村会議員に当選する。これが政治家としてのスタートになる。当時、七箇村長は増田穣三である。譲三は県会副議長も兼務しており、明治34年からは多度津に設立されていた「讃岐電気株式会社」の社長も務めていた。そのため多忙で高松に家を借り、春日の本宅を空けることが多くなっていた。そのような中で、譲三が帰宅すると一良は隣の譲三宅を訪ね、いろいろな情報のやりとりを行う一方、二人で浄瑠璃や活花を楽しむ姿がよく見られたという。
 譲三が衆議院議員になり上京することが多くなると、その「国家老」的役割を果たしていたのは一良であったと思われる。例えば、土讃線誘致合戦の一コマについて一良は、次のような回顧を行っている。 
1917(大正6年) 12月に「塩入線鉄道期成同盟会」をつくり貴衆両院へ請願書提出した。仲多度多度郡に於ては郡会議員を実業会員として発足し、徳島県関係方面との連絡を取る必要ありとして会長堀家嘉造、副会長三谷九八、松浦英治、重田熊次郎、増田一良(本人)と出発の際、加治寿衛吉氏加わり一行六名塩入越を為し徳島県昼間村に至り村長に面談。共に足代村長を訪い相携えて箸蔵寺に至る。住職大いに悦び昼食の饗応を受け小憩、此の寺を辞し吉野川を渡り、池田町に至り嶋田町長と会談を為し、徳島県諸氏と別れ猪の鼻峠を越え琴平町に帰着、夕食を共にし別れる。
 此の旨、在京増田代議士に之通告す。
  土讃線の琴平ー池田ルート誘致のために徳島への誘致工作を、郡議会議員が行った際のことである。わずか一日で、塩入から東山峠を越え昼間ー箸蔵寺ー池田と訪問し、夕方には琴平に帰っている。百年前の人たちの健脚ぶりに驚かされる。
 同時に「此の旨、在京、増田(譲三)代議士に之通告する」とし、頻繁な連絡が取られていたことが推察される。
 また情報を分析して有利と思われる新規事業には二人で共に投資を度々行っている。その幾つかをあげてみると
1903(M36)年 八重山銀行設立(黒川橋東詰)社長に一郎就任。
1911年 讃岐電気軌道株式会社のが設立発起人に、増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前がる。
1921年 七箇・十郷村に初めて電力を供給した塩入水力電気株式会設立社設立も、一良・譲三が中心となって行っている。 
このようにふたりは、政治的にも経済的にも緊密な関係を維持しつつ諸事に対応していたことが窺える。

村議から県会議員、そして村長へ

一良は明治35年(1902)に29歳で七筒村会議員となり、翌年には、仲多度郡会議員も兼務する。しかし、村長職には年上の従兄弟増田正一が就任しており、一良が村長に就くのはずっと後になる。
 そのためか、譲三が衆議院議員に転出した後の県議会への出馬の機会を伺う。最初の挑戦は、大正4年9月であった。この時は、5月の衆議院選挙で増田穣三が再選されるも、その直後に大浦事件が発覚し、譲三が刑事訴追されるという逆境の中での選挙となり、結果は次点であった。
 2回目は、4年後の大正8年(1919)9月である。この時は「譲三の後継者」と、土讃線誘致運動の中心人物としての実績を前面に出し、初当選を果たす。

 一良は、雅号を春峰と称し、琴古流尺八は悟竹と号して、譲三と共に浄瑠璃は玄人の域に達していた。「春と秋」の二人で浄瑠璃を楽しむ姿が、譲三の晩年にもよく見られたという。
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春日の一良の家の客間には「老木の木」と題された文書と写真が掲げられている。

昭和39年一良が91歳の時に書き残したものである。
全文を紹介する。 
 老木の木       昭和39年6月増田一良撰
吾が邸内の北隅に数百年を経たると思われる榎木の老木あり。周囲2丈余。其根東西に張り出すこと四間余。緑濃く繁茂空を掩い樹勢旺盛にして其枝広く四方に延び、特に北方の枝先地に垂れ、吾幼少の頃、枝先より登り遊びたることあり。
 6年前その枝が倒れ折れ垣塀二間を破壊し、裏の畑地に横たわる。その木にて基盤3面を取り、余りは木を挽いて板と為す。其後南方に出たる枝折れ、続いて北の方、東の方の枝も折れ、西向の枝のみ生残り居りしが。昭和38年風も無きに東方の折れ株が朽ち落ちると間もなく生き残りの西方の枝(周囲1丈一寸)の付け根より6丈ほどの處にて西北と西南とに分岐し居りしが大音響と共に付け根の處より裂け折れ、西南の枝は向こうの部屋の屋根の棟木と母屋を折り枝先向庭の地に付き、西方の枝は垣塀の屋根を壊し藪際の畑地にその枝先を付け茲に長く家の目標となりし老木も遂に其終わりとなる。
付記
  往年増田穣三氏若かりし時、呉服商を営み居りしを以てわが妹の婚衣買い求め為、呉服仕込みの京都行に同行。帰途穣三氏が曾て師事したる大阪の日柳三船先生訪問にも同行。三船先生は元那珂郡榎井村の出身にして維新の際勤王家として素名を知られたる日柳燕石先生の男にして大阪府参事官をつとめ大阪に住せり。種々談を重ねるうち先生曾て吾家に来りしことあり。巨木榎に及び其時古翠軒という家の号を書き与えらる。今吾居室に掲げある大きな額が夫れである。
 一良は戦後、村長職を退いた後も春日の地に留まり、晩年は県下最年長者として悠々自適の老後を送り104歳の長寿を全うした。

 
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前川知事が県下最長寿者・増田一良を訪問

 増田一良の年譜

1858 安政5年    増田譲三と田岡泰が七箇村春日に生る。
1873 明治6年  7月22日 増田一良(いちろ)生  
1884 明治17年3月 大久保彦三郎により財田上ノ村に開設されたばかりの忠誠塾入塾。
1887 明治20年大久保彦三郎が京都に開設した尽誠舎入学     
   その後、駒場農林学校に進学。(卒業後の経歴が不明)
1890 明治23年6月 七箇村役場(旧東小学校)開庁
1897 明治30年 春日地区で、増田穣三等の浄瑠璃に合わせて寄せ芝居を上演披露し好評。
1899 明治32年3月 第5回県会議員 増田穣三が初当選(41歳)
        4月 増田穣三第二代七箇村長に就任(41歳)
1902 明治35年3月 増田一良(29歳)が七筒村会議員となる。
           以後20年間村議を務める。
1903 明治36年9月 増田一良、仲多度郡会議員に当選。
           以後大正8年まで連続四期当選
1903 明治36年 黒川橋の東に八重山銀行設立。社長に増田一郎就任。副社長:大西豊照(帆山)ほか七名の重役格と業務執行者森川直太郎によって営業
1906 明治39年3月 増田穣三 七箇村村長退任 
          9月 第3回県会議員選挙に増田穣三出馬せず
1911 明治44年9月 讃岐電気軌道株式会社が設立。
    発起人に、仲多度郡の増田一良・増田穣三・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
                3月 増田正一が七箇村村議に選出され、助役に就任。
1912 明治45年5月 第11回衆議院議員選挙で増田穣三初当選。
1914 大正3年 7月 七箇村長に増田正一就任(譲三・一良の従兄弟)
1915 大正4年 3月衆議院議員総選挙で白川友一と共に増田穣三再選。
   5月 白川友一代議員と大浦内相が収賄で高松高裁へ告訴され「大浦事件」へ
   9月 第9回県会議員選挙に増田一良初出馬するも428票で次点。1917 大正6年12月 塩入線鉄道速成会総会で土讃線の速成を貴衆両院へ請願書提出。
1919 大正8年 9月 県会議員選挙で増田一良初当選(46歳)
1920 大正9年 4月 土讃鉄道工事起工祝賀会開催(琴平)
1921 大正10年 増田一良 穣三らと共に塩入水力電気株式会社設立。
1923 大正12年5月 土讃線琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1924 大正13年5月 山下谷次 香川選挙区より衆議院議員初当選
1926 大正15年   七箇村会議員選挙実施 増田一良は2位当選
1934 昭和9年 9月 増田一良 第6代七箇村長就任
1935 昭和10年11月 土讃線全面開通(三縄~豊永間が開業)
1937 昭和12年増田一良村長の呼びかけで生前に増田穣三の銅像建立
1938 昭和13年   山下谷次の銅像建立(十郷村会の決議で大口に)
1939 昭和14年2月 増田穣三 高松で死去(82) 七箇村村葬。
1943 昭和18年2月 増田一良が第9代目村長に再度就任。
1963 昭和38年3月 増田穣三の銅像が塩入駅前に再建される。
1977 昭和52年9月12日 増田一良104歳で永眠。



2016 ラフテングプレ世界大会 徳島県吉野川

吉野川を見ながら樹上散歩を楽しんでいました。

10月10日(月)来年、吉野川で開催予定の世界ラフテング大会の国内選考会を兼ねた大会がありました。
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スタート視点は大歩危のウエストウエスト。大会期間中は展望台が無料開放されていました。
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快晴の吉野川に、ラフテングが集められ13:30分のスタートに向けて準備が整えられています。
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ここにはモンベルのお店も入っています。ラフテングやカヤックの受付も行っています。私もカヤック講座受講の際にはお世話になりました。
今回新しくこんな施設も登場していました。
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樹間に張られたロープの上をゆらりゆらり。歓声が谷に響きます。
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すぐそばは吉野川。
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踏み出す足に緊張感が張り詰めているのが分かります。
父親と楽しむ子どもの姿が多かったように思います。体験型のスポーツのひとつといえるのかもしれません。いい経験してるなと感じました。
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その前をアンパンマン列車が通過していきます。

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 スタートまでの時間を、吉野川の流れを眺めながら過ごしました。

北海道摩周湖第三展望台 瞬く間に霧に包まれました


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硫黄岳でイオウをたっぷり吸い込んで、摩周湖の第三展望台に上がっていく。
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屈斜路湖や硫黄岳方面はガスに包まれている。
摩周湖はどうだろうか。
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展望台に向かう
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摩周岳は笠雲の中、姿を見せてくれないが・・・
摩周湖のカルデラと湖面は見渡せる。
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摩周湖の「えくぼ」カムイシュ島(中島)がより近くで迎えてくれる。
摩周岳も真横から眺められる。
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第一展望台方面を眺める。
ここは摩周湖の3つの展望台のなかでも、標高701mで一番高い。
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裏摩周から釧路湿原を越えてやってきた太平洋産の雲が湖面に架かりだした。
すると、
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一瞬で、カルデラ全体から滝雲が下りてきた。
瞬く間に湖は霧に包まれた。

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 目線を湖面に落とすとダケカンバの幹が白く印象的だ。
「森と湖と火山」という三役そろい踏みの風景を楽しませてくれる。
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第一展望台に場所を変えて湖を見る。
ガスが少し晴れた。
同じ湖なのに、見る場所よって色も姿も違って見えてくる。
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いろいろな光景を眺めて、最後に視線が行くのはやはり、この小島。
 カムイシュとはアイヌ語で「神となった老婆」という意味。
伝説では
『コタンの強い首長が戦死してしまい、その首長の母が孫を抱いて闇にまぎれて逃げたそうです。しかし山野をさまよっているうちに命よりも大切な孫を見失ってしまい、行く日も探し続けて摩周湖のほとりまで来て、カムイヌプリ(摩周岳・神の山)に休むことを願い出ました。湖の中ほどで休むうちに老婆は悲しみと疲労で島になってしまいました。』
この島がカムイシュ島だと伝えられている。
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この島、水面からの高さは31mだが、実は湖底からは約240mあるそうだ。
つまり、そのほとんどが湖の中に沈んでいて、火山の頂上がほんの少し水面上に出ている。人間で言うと頭の一部が見えているのに過ぎないということ。
 巨大化したお婆ちゃんが頭だけ出して顔も、胸もお尻も足も湖の中で休んでいる姿。
そんなことを想像していると、霊気=冷気を感じて肌寒くなってきた摩周湖でした。

9月末 屈斜路湖を源流とする釧路川をカナデイアンで下りました。
お世話になったのは「SOMOKUYA」さん。

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8:30 コタンの湯を出航です。

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昨日は風が強く波立ってきた湖。
今朝は鏡のように静かです。
周囲の山々が湖面に映ります。
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台風の余波で湖面は高い状態が続いているようです。
台風で根こそぎ倒された倒木もあります。
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湖から流れ出す源流地点の橋は、水位が高く頭をぶつける危険性があるためいったん下船。

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橋をくぐって再度乗船。
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ここからは滑るようにカヌーは進みます。
インストラクターさんにパドルは任せて、一番前で移りゆく景色を楽しみます。
赤く色づいているのは山葡萄。
ミズナラは紅葉にはまだまだです。
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本州の川とちがい人工物がほとんどありません。林の中を川が流れている感じ。
倒木もそのまま川に倒れ込んでいます。
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ありのままの本来の川の姿を、見せて貰っているような気がしてきます。
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水量が多く、普段は入れない林の中にもカヌーで入っていくことができました。
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「鏡の間」ではニジマスの主にも出会いました。
お腹があかくなっています。わかりますか?

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淀みに艇を入れて、コーヒーブレイク。
こんな場所で暖かい珈琲が飲めるとは思ってもいませんでした。
贅沢な時間が流れます。
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再出発です。
丸山の山陰を抜けて牧場にそって流れて行きます。
周囲がだんだん明るくなりました。
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ここがショートコースの上陸点。
もう少し流れます。
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みどり橋が見えてきました。



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本日は水量が多く、ウエイブが大きいためにみどり橋を越えたところで上陸。
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2時間掛けて下ってきた釧路川。
自動車で走ると5分で「somokuya」さんに到着。
船時間と自動車時間の異次元差を改めて感じます。

硫黄岳で掘られた硫黄が弾薬等の原料として、川船に乗せられて下ったルート。
多くの川船が行き交った歴史があるようです。

屈斜路湖畔の小さな小さな温泉 三香温泉 

今回の旅で一番気持ちがゆったり出来たのはここでした。
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和琴半島にほど近い湖畔の温泉でお世話になりました。

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森の中に溶け込むような風情。

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玄関を入ると迎えてくれたのは薪ストーブ。
珈琲を頂き、ご主人との話のやりとりが心地よい空間でした。

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窓の外にはサンクチャリー。
ヒガラ・コガラ・ゴジュウカラなどカラ類がひっきりなしにやってきます。
エゾリスもやってきていました。
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早速、お風呂に入ります。
広い敷地の「裏庭」に露天風呂はありました。
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脱衣場にもストーブがあります。

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だれもいないようです。

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いい味がでています。
木立の向こうは屈斜路湖です。
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こずえの間をえさ場に集まるカラ類が飛び交います。
湯船から「鳥見」ができます。
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おおきな温泉ホテルの大浴場もいいのですが、こんな鄙な温泉はもっと好きです。
時を忘れるくらいぼーっとして湯に浸かっていました。
その間、湯の流れ込む音と鳥たちのさえずり以外、何もしません。
時が止まっている感じ。
いい感じです。
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畑シメジだそうです。
牧場の中でとれるからそうよばれるようです。
翌朝の味噌汁でいただきました。
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同じテーブルの上には、こんなものも置かれていました。
「楽天トラベルアワード リトルスター賞」にも選ばれているようです。
なんとなくその理由がわかるような気がしました。

 今回の旅行で幾つか越えた峠の中で一番印象に残ったのは美幌峠


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美幌国道を屈斜路湖に向けてトドマツの森林の中を緩やかに登っていくと視界が広がり道の駅が現れる。

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駐車場から階段を登って展望台をめざす。
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この日は快晴。素晴らしいパノラマの景色が待っていた。
眼下に屈斜路湖が広がる。
その中に中島がぽっかりと浮かぶ。
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東方面は、峠から屈斜路湖に続く国道が笹の原を下っている。
この国道はここまでが美幌国道、そしてここからはパイロット国道を名前を変えるようだ。
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南方面は、屈斜路湖がどーーんと広がる。
そして、はるかに斜里岳を始め阿寒の山々が一望できる。
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 西側も壮大な笹の原が続く。
笹原歩きが大好きな私としては、この高原を美幌牧場まで歩いて行きたいところだが・・
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ヘアピンを描きながら下る国道の周りは白樺の幹が囲む。
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旅の疲れが溶け、心が伸びやかになる効能を持つ美幌峠からの眺めでした。

支笏湖 プチ・クルージングを楽しみました
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 お気に入りとなった丸駒温泉の大露天風呂。
チェックアウト前の9時過ぎに3度目の入浴。
誰もいない。
独り占めで贅沢に楽しんでいると・・・
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クルージングの案内が館内放送で流れた。

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こりゃ行かねばなるまいと、衣類を身につけて早々に桟橋に向かう。
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 桟橋に私たちが着くと船はすぐに離岸した。
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 湖に出て丸駒旅館を振り返ると、恵庭岳がすぐ後にそびえている。


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 恵庭岳を右手に見ながら船はオコタンベ川の河口のオコタンまで走る。

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カルデラ湖は「ドン深」で、岸から200㍍も離れると水深が300㍍近くもあるという。
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湖面から360度のパノラマを楽しめる。
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帰りは岸沿いをゆっくりと走る。
かつてアイヌが熊狩りの際に、熊を誘導し湖に落として仕留めたという「熊落としの岸壁」で、トランペットを吹くと山彦が湖に木霊する。
神秘的な雰囲気がしてくるから不思議だ。

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神秘的湖面から帰ってくると温泉は日帰り客で賑わっていた。
さて「日常への回帰」に向けて心の準備を始める。
一週間の北海道旅行の終わりが近づいている。
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ちなみにかつては丸駒温泉は「陸の孤島」。
支笏湖温泉街から宿専用の「丸駒丸」で、宿泊客を運んでいたそうだ。
宿の前の桟橋は、その名残なのだろう。


北海道らしい牧場を訪ねて見ました

「見渡す限りの緑の牧場と草を食む牛たち、広がる大地と連なる山々、そんな北海道らしい景色の中に身を置きたい。」と相談すると、勧めてくれたのがここ。
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  場所は大雪山系・石狩山地の南端部、ナイタイ山(標高1232m)の山麓。
北から十勝平野を見おろす高原に牧場が広がる。
広さは、東京ドーム358個分で1700ヘクタール
上士幌町が管理する、牧草地面積日本一の牧場(公共の牧場として)だという。
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道東自動車道の音更帯広I.Cから、真っ直ぐに北へ約35km程走る。
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やっと牧場の入り口ゲートにたどり着く。そこからが牧場内。
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道は緑の草原の中を走る快走ルートへと変わる。
ゲートから展望台までが7㎞。
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途中の駐車場に車を止めて、雨上がりの風景を楽しむ。
一気に展望台まで走ってしまうには、もったいない。
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十勝方面は、まだ雲の中。
しかし、山裾まで長く伸びた牧場が見渡せる。
雲のおかげで幽玄さを感じる。
これはこれで「いとおかし」

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ここは、生後6ヶ月以上の乳牛を預かり、受精させて飼い主に戻すことが目的とされた町営牧場らしい。
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2000頭以上もの牛が放牧されているというが、牧場が広すぎるのか、草原を見渡しても牛はまばらにしか見えない。

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展望台横のレストハウスは、平成27年10月の強風被害により全壊。
そのため平成28年はH28年4月29日(金)から仮設店舗での営業中だそうだ。
雨上がりの後で風も強く寒さを感じたので、ここでホットミルクを頂きました。
美味でした。

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ここで景色を眺めていると、縮こまった飼い慣らされて心を、自然に帰してくれるような気がしてきました。

丸駒温泉 大露天風呂に浮き輪があるのはなぜ?

9月末からの一週間の北海道旅行 最後の宿は支笏湖の丸駒温泉。
「秘湯の湯」のメンバーでもあるようだが、千歳空港へ一時間余りで行くことが出来るのでアプローチ面では「秘湯」という感じはしない。しかし、支笏温泉街から湖の対岸にある一軒宿なので「秘湯感」は漂う。
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早朝、朝日が昇る頃に大浴場から階段を下って、湖沿いの廻廊を渡っていく。
木の階段の向こうに露天風呂のへの出口が見えてくる。 

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だれもいない。
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湯船の向こうはすぐ支笏湖。
ちなみに右側の堰堤(?)は風呂を護るための波よけ。
ここは湖の一部で、エビやウグイが飛び跳ね、ウミウが羽を乾かしていました。
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ここからの展望は最高。
心の窓を開かせてくれるよう。
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岩で囲まれた「湯船」に入ってみると・・・・
こんな感じになりました。
湖の水位と同じなのがよく分かります。

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湯は透明で底がはっきりと見えます。

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敷かれた板が途切れるロープの向こうは、確かに160㎝近くの深さがあります。
台風による増水で水位がいつもより高いそうです。
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夜に来たときに「温泉に浮き輪 どうして?」という疑問
こんな説明板がありました。

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備え付けの浮き輪は「遊具」ではなく「救命用」ということらしい。

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ちなみに宿泊客は露天風呂まで足を伸ばす人は少ないようだ。

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 同宿の高齢者は大露天風呂は「バリアフリーなし、不便・遠い・深い・恐ろしい」と話していた。
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 内風呂に付随したロケーション抜群のこんな露天風呂もある。
そのため一度大露天風呂に足を運んだら次は、こちらのお風呂で済ませるお客さんがほとんどのようだ。
そのため何度行っても誰もいない。
「清潔さや便利さ」よりも「野趣」を求める私としては、有り難いことだった。

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露天風呂の周りの木々もナナカマドから順番に紅葉を迎える準備。
来週10月8日が紅葉祭りだそうです。

襟裳岬の最突端には何があるの?
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9月末の快晴の空の下、「黄金街道」を襟裳岬に向けて車を走らせる。
襟裳の集落を抜けて、岬の駐車場を目指す。

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駐車場はガラガラ。
侮れない食堂で「海鮮丼」で昼食を済ませて岬に向かう。
お店の小父さんは「灯台の向こうの断崖まで行って還ってくる人がほとんど。
階段下りて、先端まで行くのは物好きの1割」と笑って話してくれた。

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 強い風に背中を押されながらまずは、燈台をめざす。
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襟裳岬の灯台と展望台に立つ。
四国の室戸岬や足摺岬と異なるのは樹木がなく360度の展望が開けること。
快晴の天候の中、開放的で伸びやかな印象を、この日の襟裳岬は与えてくれた。

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展望所そばの急な階段を下りていく。
ここから先にも人家がある。

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広場には昆布が干されている。日高の海岸でどこでも見られる光景が、岬の先端まで続く。
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遊歩道の石畳の間から顔を見せていた花を見て一句、
「風つよき 襟裳の岬に 低く咲く ナマエシラズ」    お粗末様

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強い風と風雪のために木々が茂らないのか、岬周辺は一面の笹の原。
その中を道は続く。
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そして最先端へ
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日高山脈から続く山嶺が、海に続いているのがよく分かる。
巨大恐竜の背骨のようにも見えてくる。
 
看板には「突端」とあるが・・・
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足下を見るとまだ青い屋根の人家がある。
岬最先端の人家の向こうには鳥居が立っている
岬自体が人々の信仰の対象となっているようだ。

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振り返ると展望台と地下施設となっている「風の館」が見える。

下りてきた道を引き返し、燈台の西側を歩いてみる。

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探していた歌碑があった。
この歌を聴いてから40年以上の月日が流れている。
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思い描いていたイメージを裏切られることはなかった襟裳岬だった。



北海道釧路湿原展望台の散策コースを歩く


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9月末、釧路のホテルを早朝に出発して向かったのは湿原展望台。
ここの散策路を、朝一番に歩く。
入場料400円が必要なセンターで、トイレだけ済ませて散策路に入っていく。
ここをスタート地点として2.5kmの遊歩道が整備されている。
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細いミズナラの林の中に木道が続く。所々に置かれた解説板によって「湿原の学習」もできる。ヤマブドウだけが赤く色づいているが、ミズナラはまだまだ。
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最初のポイント こもれび広場。
ここからは階段の木道を下っていく。
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標識やベンチが整備されていて、それが周囲となじんでいる。気持ちよく歩くことが出来る

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小さな沢を吊り橋で越えていく。
ゆらりゆらりゆれて、心地よい。

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吊り橋を渡ったところがひだまり広場。
ここで1/3ほどの行程。
ここからゆるやかな上り坂。
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木道は自然の中の「舞台」の上を歩く感じがする。
周りの木々や草花に心を向ける気持ちのゆとりをもたらしてくれる。
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ここのミズナラは紅葉の先駈け。
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そして林を抜けるとサテライト展望台。
ここからの景色は素晴らしい。

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「釧路市湿原展望台」よりも湿原を間近に見ることができる。
昨日、立ち寄った細岡展望台が湿原の東の横綱なら、ここは西の横綱。
朝日を受けて、湿原が明るく照らし出される。
しかし、ここまで来るには自分の足であるかにゃならぬ。

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ここまで距離1.2km。
団体客は、やってこないので静かに湿原を楽しめます。
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ここからは、一本調子の道を帰っていきます。
ゆっくりとまわって1時間少々。
私にとっては価値のある散歩でした。
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釧路空港付近では牧場の中でこんな風景も見れました。


北海道屈斜路湖 台風の爪痕が残る湖の様子 

  今年の夏は、いくつかの台風が北海道を直撃し大きな被害を残しました。
その爪痕がいたるところに見えた今回の旅行でした。
そんな中で屈斜路湖の和琴半島に残っていた「台風の爪痕」を見てみます。
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和琴半島の付け根の部分です。
ここからみると、穏やかな湖面、たおやかな山容、ベンチでくつろぎたくなる屈斜路湖の雰囲気がしますが・・・
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大雨のため水位がなかなか下がらないようです。
散策路には流木が打ち上げられています。

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散策路上の流木は集められ、通行は可能でした。

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半島の付け根は水浸し状態。
白樺の木が湿地の中に生えているように見えます。
これはこれで「いとおかし」
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湖面に出てみると
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普段は陸上にあるところまで水に浸かっています。
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強風のために根こそぎ倒された木々が湖面に倒れ込んでいます。
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釧路川も倒木が増えたそうです。
そして和琴半島の露天風呂は?
台風で流木と泥土に埋まったそうですが・・・
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地元の老夫婦がボランテイアで、毎日掃除を行っていました。
その結果、入ることは出来る状態になっていました。
早速、入らせていただきました。
感謝。



別温泉 散策路を早朝散歩


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ホテルの大浴場から見えていた地獄谷を朝飯前の腹ごなしに散策することにした。
7時前の地獄谷入口は、まだ閑散として人はいない。

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簡単なマップで確認。地獄谷 → 大湯 → 足湯と巡ることにする。時間的には1時間足らず。朝飯前の腹ごなしにはちょうどいい


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地獄谷の中にある間欠泉まで木道が延びる。
かわいい間欠泉がわきだしている。

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ミズナラとナナカマドが灌木として茂り、千島笹が広がる林の中の道を進む。
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車道からわずかに下ると眼下に大湯沼が突然現れる。
湖面の表面は硫化鉄のため黒く見える。
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下っていくと大沼の右手からもうひとつの沼である「奥の湯」が見えてきた。
朝日を浴びて、こちらは表面が薄青く見える。
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わき上がってくる気泡で泥土にカニの穴のような者が幾つも見える。見ていて飽きない。ここも温泉源泉のひとつのようだ。
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大湯沼の周りを歩いて下流に向かう。
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ナナカマドの実が赤く熟している。紅葉にはまだ早い。見頃は10月10日前後になるのだろう。
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車道から散策路に入るとすぐに大正地獄の看板
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登別温泉では一番小さい「地獄」
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大湯沼から流れ出す湯ノ谷川は湯気を立てて流れて行く。
その流れに沿って歩いて行くと・・
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足湯が見えてきた。
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台風後で増水中で温度は適温。バシャバシャと足湯と言うよりも川遊び。
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ここからは車道に出て、いくつかのホテルの前を通り出発点に還る。
お腹が空いてきて、帰路の足取りが速くなりました。
温泉に入るだけでなく周辺を散策するのもいいもんだ感じました。


釧路川源流下り 2016 9月

日本一早い大雪山の紅葉を見に 
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9月末 旭川のホテルでテレビを見ていると、「日本一早い紅葉前線が大雪山系にやってきました」と報じられていた。天気予報をチェックすると明日は快晴。これは行かねばなるまい。予定を変更し急遽、黒岳を目指すことにした。
朝早く旭川を出発し7:30には黒岳ロープウエイ乗場に到着。
この時間帯なら観光バスもいなし、行列も出来ていない。
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10分足らずの空の旅。高度が上がるにつれて、大雪の峰が見えてくる。
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5合目駅から遊歩道を5分ばかり歩く。白樺の白い幹と黄色く色づいた葉のコントラストが私には珍しい。
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今度は、山岳スキーゲレンデのリフトで、7合目まで15分。
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黒岳を眺めながらゆらりゆらり。上に上がってくると無風で日も差しリフトに乗っていても寒くない。至福のひととき。
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7合目のリフト終点展望所からの眺め ニセイカウシュッペから屛風岳に続く稜線が美しい。
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今年開設されたばかりという、あまりょうの滝展望台へ行って見ることにする。
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10分少々の整備されたトラバ道で到着。黒岳の山容と斜面の紅葉が美しい。
後から団体バスツアーの一団が到着。
滝をバックに写真を撮ると10分足らずで引き上げていく。
さらに高みを目指したいが・・・「思いつき登山」ではここまで
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来た道を引き返す。
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ロープウェイ周辺の稜線まで紅葉前線は下りてきている。
でも駅から下の谷沿いは、まだまだこれから。
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5合目駅の屋上展望台に上がってみるとこんな景色が広がっていました。
ここからは360度のパノラマ展望。
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層雲峡はまだまだ前線が下りていません。



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