瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2017年06月

宗教荘園と修験道の里 まんのう町金剛院

土器川沿いの主要道を走っているだけでは見えてこない光景が、まんのう町にはいくつもある。そのひとつが金剛院。この地名に隠された謎を解きに行ってみよう。

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県道185号を種子から四国の道の看板に導かれて入っていく。

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法師越の道沿いに何体かの石仏が迎えてくれる。

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法師越の石仏は、この峠を越える人々を見守ってきた。
ところでこの峠を越えたのは、どんな人たちだったのだろう。
地元の人たち以外にも、多くの外部者がここには入ってきたという。
それはどんなひとたちだったのか?
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そのヒントは四国の道の看板が教えてくれる。
それは金剛院集落の中心にあるという。そこに行ってみよう。

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金剛院集落の盆地の中央を走る道に下りてきた。周囲を讃岐独特の丸いおむすび山が取り囲む。
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東に位置するた竜王山を盆地の底から眺める。

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そして目的の金剛院。背後が金華山。

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あぜ道のような参道の横に石塔が建っている。

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数えると十層??? 
上部の三層は傷みがひどいので寺内に移され、今は下部の十層だけここにあるそうだ。
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のんびりとした光景が広がるが、今から1000年前の平安後期から鎌倉にかけては、この地は宗教荘園で、そのセンターがこの金剛寺であったという。

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ここには仏教に因んだ仏縁地名が多い。この寺の裏山は金華山と呼ばれる小山を背景建てられている。周囲からは平安末期の軒平瓦、軒丸瓦が発見てされており、建立はその時期まで遡るとされる。
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 金剛寺の裏山の金華山は経塚群だ。経塚は平安中期から始められて、鎌倉時代に盛んとなった仏教の作善業の一つ。1952(昭和27)年の県教育委員会の調査では、この金華山から陶製の外筒六木・鋳鉄製の経筒五本・鏡一面などの経塚遺物が発掘されたという。そのため金華山全山が経塚であると考えられている。経塚は修験道と関連が深く、ここは金剛寺を中心とした修験道の霊域であったと思われる。

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日本全国から阿弥陀越を通り、法師越を通ってこの地区に入った修験者の人々が、それぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に参籠し、看経(かんきん)や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者に言伝(伝言山)を残し、次の霊域を目指して旅立って行ったことが想像できる。

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さきほど法師谷から下りてきた道路に沿ったあたりが、王迎と別当である.ここには藤尾坊・華蔵坊・中の坊・別当坊・慈源坊・灯蓮坊の地名があり、今はそこにある民家の屋号のようになっている.
 この道から分かれて、少し上がったところにある砂子谷池の上手には御殿という地名があり、池の近くには一泉・法蔵屋敷・坊屋敷・経塚などの地名がある.こうした地名の分布を見ると、中世の大寺院や神社を中心とした宗教荘園が考えられるという。
行場の一つであった金山神社に行ってみよう。

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栗熊東に抜ける阿弥陀越の林道から明治期に整備された長い長い石段を登ると・・

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金山神社が現れた。
「古今名所図絵」には
「妙見社 炭所東にあり。当社詳細未生、往古は金剛院という寺地なりしが退転の跡、鎮守社の残りしを村民これを拝趨して氏宮とす」
とあり、金剛院の鎮守社で妙見社と呼ばれていたようである。神社の境内からは鎌倉時代の瓦も出土している。
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また、吉野の大宮神社の記録には
「妙見社の御神体は阿弥陀三尊である」
と記されている。明治の廃仏毀釈で三尊の内の観音・勢至菩薩が金剛院に移された。

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 この神社も元々は、猫山の頂上付近にあったと伝えられている。
行者達の行場の一つであったのだろう。猫山から大高見峰に続く行場を「行道」しながら「磐籠」や「龍燈」の行をおこなっていたのかもしれない。そして、行が成就し、写経が終わると次の行場へ向けて出発していく。そういう意味で大山の中廃寺や尾瀬寺とのネットワークの中心部にあたる地位に金剛院はあったのかもしれない。

そんなことを考えながら参道を下り、車道を阿弥陀越えに向かって原付を走らせる。

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 現在の阿弥陀越にはこんな標識があった。
この峠は、鵜足郡栗熊村から金剛院にはいる交通路として藩政期に使用されていた。栗熊西畦田(あぜた)の薬師を祀った丘の麓に、古墳の石室を利用した蒸し風呂があって繁昌した記録があり、一七一七(享保二)年の道標も立っているという。

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ここには幕末期(嘉永)の年号が掘られた石仏が立っていた。

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石仏達は何も語らず、今の金剛寺を見つめていた。

   法然ゆかりのお寺 まんのう町岸上の真福寺 
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 最初にこのお寺と出会ったのは、もう何十年も昔。丸亀平野が終わる岸上の丘の上にどっしりと立っていた。この周辺に多い浄土真宗のお寺さんとは立地環境も、境内の雰囲気も、寺院建築物も異なっており、「なんなのこのお寺」という印象を受けたのを今でも覚えている。境内の石碑から「法然ゆかりのお寺」ということは分かったが、それ以上のことを知る意欲と機会に恵まれなかった。
改めて訪ねて見て「寺の歴史」を書物だけからでも調べておこうと思った。以下は、真福寺に関しての読書メモである

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法然上人御旧跡とあります。
この寺と法然には、どんな関係があるのでしょうか?
1207年2月、専修念仏禁止令が出され、法然は土佐に、弟子の親鸞は越後に流罪となります。しかし、法然を載せた舟は、土佐には向かわず瀬戸内海の塩飽諸島の本島をめざします。その後は、讃岐の小松庄(現在の琴平・まんのう町周辺)に留まる。そして10ヶ月後には赦免され讃岐を離れることになります。
 この背景には、法然の擁護者であった関白藤原兼実(かねざね)の力が働いていたようです。法然が過ごした本島も、小松庄も九条家の荘園で、兼実の庇護下で「流刑」生活でした。そのため「流刑」と言うよりも未知の地への布教活動的な側面も生まれたようです。
4月頃に九条家の小松庄に本島からやって来た法然は、生福寺(現西念寺)という寺院に入ります。
「法然上人行状絵図」には
「讃岐国小松庄におちつき給いひにけり。当座のうち生福寺といふ寺に住して、無常のことはりを説き、念仏の行をすすめ給ひければ、当国近国の男女貴賤化導に従ふもの市のごとし
と書かれています。当寺、生福寺周辺には真福寺・清福寺の2つの寺があり併せて「三福寺」と呼ばれていたようです。
九条家の荘園である小松庄の大寺院は、古代瓦が出土する弘安寺だと思われるのですが、なぜか法然はそこには行きません。小松荘の東端で土器川の川向こうで、西山のふもとの生福寺を拠点にします。そして、周辺の真福寺と清福寺を「サテライト」として活動したとされています。

法然がやって来たときに真福寺は、どこにあったのか?

  真福寺についての満濃町史には「 空海開基で荒れていたのを、法然が念仏道場として再建」とあります。真福寺が最初にあったとされるまんのう町大字四條の天皇地区にある「真福寺森」の地名が残る場所へ行ってみましょう。
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「真福寺森」は、西に象頭山、その北に善通寺の五岳山がのぞめ、北は丸亀平野が広がる田野の中にありました。満濃池のゆるが抜かれて田植えが終わったばかり。
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この集会所の周囲が寺域とされているようです。
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かつての寺院のものとも思われる手洗石造物が残るだけ。
当寺の真福寺を偲ばせるものはこれのみ。
ここでも法然は、念仏の功徳を民衆に説いたのでしょうか?
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しかし、この寺院も長宗我部軍と長尾大隅守との戦いの兵火に焼かれて消失したと伝えられます。復興の動きは江戸時代になってからです。生駒家の家臣の尾池玄蕃が、真福寺が絶えるのを憂えて、岸上・真野・七箇などの九か村に勧進して堂宇再興を発願。その後、1662(寛文二)年に僧広誉退休によって、現在の高篠村西念寺の地に再建されたようです。つまり、真福寺は元あった場所ではなく、法然が居住した生福寺(現西念寺)に再建されたようです。


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ところがわずか十余年後に、初代高松松平城主としてやってきた頼重は、再びこの寺を移転させます。それが現在の岸上の岡の上。

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この時に、寺領五〇石の他に仏像・仏具や山林なども頼重から受領しています。
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当時の境内は東西約110㍍、南北約140㍍で、馬場・馬場裏などの地名が残っていると云います。
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広い境内に堂宇が立ち並んでいたのでしょう。江戸時代に、この寺が管理していた寺院は岸上薬師堂・福良見薬師堂・宇多津十王堂・榎井村古光寺・地蔵院・慈光院などであったと云います。まさに高松の殿様の庇護を受けて再建されたお寺なのです。それにふさわしい場所が選ばれ、移ってきたのでしょう。周辺の浄土真宗のお寺とは規模も寺格も異にするお寺さんであったようです。

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ここからは神野・真野・吉野方面が一望できる。支配モニュメントの建設場所としてはうってつけの場所だ。
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頼重の宗教政策の一環として保護を受け再建され、藩政下においては隆盛を誇った寺院。今でも法然由来の寺院として信仰を集めているが訪れる人は少ない。しかし、私はこのお寺の雰囲気と景観が好きだ。



行当岬不動岩の辺路修行業場跡を訪ねて

原付バイクで室戸岬を五日かけて廻ってきた。「あてのない旅」が目的みたいなものであるが、行当岬には立ち寄りたいと思っていた。ここが辺路修行者にとって、室戸岬とセットの業場であったと五重来氏が指摘しているからだ。
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五重氏の辺路修行者の修行形態に関する要旨を、確認のために記しておきたい。

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修行の形態は?

1 行道から補陀落渡海まで辺路でいちばん大事なのは「行道」をすること。
2 空海(弘法大師)の四国の辺路修行でもっとも確かなのは室戸岬。
3 そこでどういう修行をしたか。一つは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ること。
4 お寺が建つさらに以前のことだから辺路なら海岸に入ると、建物はない
5 弘法大師が修行したと伝わって、その跡を慕って修行者がやってくる。
6 そういう人々のために小屋のようなものが建つ。そして寺ができる。お寺でなくてもお堂ができて、そこに常住の留守居が住むようになる。
7 やがて留守居が住職化することによって現在のお寺になる。
8 鎌倉時代の終わりのころは、留守居もいない、修行に来た者が自由に便う小屋。
9 弘法大師が修行したころは建物などはなかったので、窟に籠もった。
10 最初の修験道の修行は「窟龍り」であった。

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修行の形態のひとつが行道。行道とは何か?

1 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回る。
2 円空は伊吹山の平等岩で行道したと書いている。「行道岩」がなまって「平等岩」となるので、正式には百日の「行道」を行っている。
3 窟脂り、木食、行道をする坊さんが出てくる。
4 最も厳しい修行者は断食をしてそのまま死んでいく。これを「入定」という。明治十七年(一八八四)に那智の滝から飛び下りた林実利行者もそのひとり。
5 辺路修行では海に入って死んでいく。補陀落渡海は、船に乗って海に乗り出す。熊野の場合も水葬。それまでに、自殺行為にも等しい木食・断食があった。

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  辺路修行では、不滅の聖なる火を焚いた

1 辺路の寺には龍燈伝説がたくさん残っている。柳田国男の「龍燈松伝説」には、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだと結論。
2 阿波札所の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。
3 それが柴灯護摩のもと。金刀比羅の常夜灯、淡路の先山千光寺の常夜灯は海の目印、燈台の役割。
4 葛城修験の光明岳でも火を焚く。『泉佐野市史』には紀淡海峡を航海する船が、大阪府泉佐野市の大噴出七宝滝寺の上の燈明岳の火を闇夜に見ると記載。
5 不滅の聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。
6 それが忘れられて、龍神が海に面した雪仏にお灯明を上げるに転意。
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室戸岬と行当岬

1 室戸では室戸岬と行当岬に東寺と西寺があって、10㎞ほど離れている。
2 室戸岬と行当岬を、行道の東と西と考えて東寺・西寺と名付けられた。
3 その中間の室戸の町に、平安時代の『土佐日記』に出てくる津照寺がある。
4 ところが、それは無視している。平安時代は、東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
5 火を焚いた場所にあとでつくられたのが最御崎寺(東寺)。
  (注 金剛福寺の方が古いことに留意)
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6 行当岬は、現在は不動岩と呼ばれている。
7 もとは行道という村があり、船が入って西風を防ぐ避難港だった。
8 その後、国道拡張で追われて、いまは行当岬の下のほうの新村に移動。
9 行当岬は「行道」岬。波が寄せているところに二つの洞窟があった。辺路で不動さんをまつって、現在は波切不動に「変身」
10 調査により二つの行道の存在を確認。西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩の行道を「小行道」と呼んでいる。
11 四国全体の海岸を回るのが「大行道」。

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12 二つの洞窟のうちで虚空蔵菩薩を祀った虚空蔵窟は東寺が管理しているので、かつて東寺と西寺がひとつになって祀っていたと推察可能。
13 現在では西寺を金剛頂寺と呼んでいるが、平安時代は西寺と東寺を含めて金剛定寺と呼んでいた。
14 足摺岬の場合は、金剛福寺のある山は金剛界。灯台の下には胎蔵窟と呼ばれる洞窟があり、金剛界・胎蔵界は、必ず行道にされているので、両方を回る。
15 密教では金胎両部一体だとされるが、辺路の場合はそういう観念的なものではない。頭の中で考えて一体になるのではなくて、実際に両方を命がけで回るから一体化する。
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辺路修行者と従者の存在

1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。安宅聞で強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居(「勧進帳」)の場面からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。
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室戸岬にも、弘法大師に食べ物を世話した者がいた。

1 室戸で弘法大師を世話した者が御厨明神(御栗野明神)にまつられる。厨とは台所のこと。御厨明神にまつられた者は、弘法大師が高野山に登るときに高野山に従いていった。
2 御厨明神は弘法大師に差し上げる食べ物を料理する御供所に鎮座。江戸時代は地蔵さんになる。弘法大師に差し上げるものを最初に「嘗試地蔵」に差し上げて、毒味をした。
3 室戸岬には、洞窟が四つ開いている。右から二番目の「みくろ洞」は地図では「御蔵洞」と表記されているが、もとは「みくりや洞」といって、そこに従者がいた。
4 左端の弘法大師が一夜で建立したという洞窟は、昔は虚空蔵菩薩をまつっていた。そのため求問法持を修したのは、この洞穴ではないか。
5 右端の洞窟は神明窓。現在は「みくろ洞」には石の神殿があって、不思議なことに天照大御神を祀っている。その次のところは何もない。
6 お寺や神社の信仰を、ひとつ前の時代へ、さらにもうひとつ前の時代へとたどっていくと、いまとは違った宗教的な実態がわかってきて、なかなか興味深い。

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四国の辺路を始めたのはだれか  

 弘法大師が都での栄達に繋がる道をドロップアウトして、辺路修行者として四国に帰ってきたとされる。その時に、すでに辺路修行という修行形態はあった。その群れの中に身を投じたということだ。したがって、弘法大師が四国の辺路修行を始めたというわけではない。仏教や道教や陰陽道が入る以前から辺路修行者たちが行ってきた宗教的行為がその始まりといえよう。

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 不動岩周辺は、室戸ジオパークの西の入口として遊歩道が整備されている。そして深海で生成された奇岩が隆起して、異形を見せている。

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奇岩大好きの行者達がみれば、喜びそうな光景が続く。
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海に突き出した地の果てで、行場として最適の場所だったのかもしれない。「小行道」として、不動岩の周りを一日に何回も歩いたのだろう。海辺の辺路の「小行場」のイメージを描くのには、私には大変役だった。 そして、ここを拠点に室戸岬の先端までの「中行道」へも歩き、修行を重ねる。

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この行場からは金剛頂寺への遍路道が残っている。

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ここで辺路修行者がどんな行を行っていたのか、そんなことをボケーッと考えていると、「どこから来たんな」と話しかけられた。
金剛頂寺の檀家でボランテイアで、ここのお堂のお世話をしているというおばさんである。彼女が言うには
「弘法大師さんが悟りを開いたのはここで。室戸岬ではないで。お寺やって金剛頂寺が本家、最御崎寺は分家やきに。ここが室戸の修行の本家やったんで。」
さらに
「ジオパークの研究者が言うとったけど、弘法大師さんの時代は室戸岬の御蔵洞は海の下やったんで。海の中で修行は出来んわな。ここの不動岩の洞窟は海の上。ここで弘法大師さんは、悟られたんや。」と。

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なるほどな・・・。その確信の元にこの絵があるんやなと改めて納得。海の辺路信仰の行場のあり方を考えさせてくれた場所でした。

浦集落を徘徊し、お寺の境内で備讃瀬戸航路を東に向かう舟をボケーと眺めて時を過ごす。しかし、帰りの舟の時間までは、まだ3時間ある。時間を自分で「活用」しなければならい。

 別の視点からみれば時間に追いかけられることも、あすこにも行きたい、ここへも行きたいとか、ここの見学時間は15分で・・とかという制約はなくなる。そのためか心にゆったりとした時間が流れる。
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高見島 浦の港
ここでボケーとするか、読書の時間にするか・・
島の北端の灯台に行ってみようという考えが浮かんできた。
男木島も本島も粟島も北に隠れたポイントがあった。高見島にも・・と期待して

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高見島 浦集落の路地
そうとなれば行動ありき。さっそく浦集落から海へ下りていく。

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下りたところが浦集落の両墓制の墓域。黙祷し南無阿弥陀仏・・。

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島遍路の石仏に導かれて、燈台に続く舗装路を歩く。

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塩飽諸島の広島
目の前には、塩飽諸島の広島。採石のために削られた山肌が至る所に見える。

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北には手島・小手島も見えてきた。海岸には鵜が羽を広げて羽干しを行っている。
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かつては、もう一つの集落がこのあたりにはあったらしい。
民家の跡は自然に帰り分からないが手入れされた墓石がいくつもならんでいた。神社も改修されている。

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道があったのはここまで。かつての集落があった所まで。ここから道はない。海岸線を歩くしかないようだ。
ここまで40分程度。時間はたっぷりある。
石仏が「きおつけていきなはれ」と声をかけてくれたような・・

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島の南側の様相とは少し変わってきた。
大きな石がゴロンゴロン。

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歩きにくいゴロタ石の海岸の向こうに燈台が見えてきた。
右手の島は佐柳島。
高見島と佐柳島の間を備讃瀬戸航路を西行する舟が抜けていく。

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かつて男木島灯台の袂に野宿したのを思い出し、この燈台が光を放つ姿を見てみたいと思うが・・それもかなうまい。
プレートには板持鼻燈台(昭和42年)と刻まれていた。

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高見島の北燈台
西側から燈台を振り返る。
さて、ここまできたのなら島の西側を歩いて、一周することにしようか・・
時間も2時間近くあるし・・と考えた。そして、西側の海岸へと足を踏み入れた。

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ところが景観が西と東では大きく違っていた。

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高見島 西海岸
崖から崩れ落ちた岩が積み重なる岩場とゴロタ石の続く海岸が交互に現れる。
歩きづらいことこの上ない。時間がかかる。
これは舟に間に合うのかな・・・という不安までわき出していく。
先ほどまでの楽勝気分がしぼんでいく。

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海岸に落ちていたのは・・・
焦り始めるといいことはない。
そんななかで岩の間に寝転がっていたのが・・・

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島遍路の石仏が波の侵食で海岸に・・
この方。ミニ四国の石仏さんがこんなところに寝転がっていました。
「慌てない 急がない。このわたし見なはれ」と・・
波に浸食され、もとあった場所から落ちて荒波にもてあそばれ流され・・
石仏のたどってきた道を思うと・・舟に遅れることなんかたいしたことないように思えてきます。今を楽しみ充実させるために・・のんびりゆこうよと思い直します。
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高見島西海岸
海岸の様相がまた変化します。岩牡蠣のカラをつけてタイルを張ったような岩たちがゴロンゴロンと転がります。

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高見島西海岸
こちらは岩を敷き詰めたロックガーデン。
なにか自然の作り出したアートのようです。

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高見島西海岸
こんなんはいかがでしょうか。
あなたの思いのままに掘ってください。
自然の贈り物ですと・・・。

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高見島西海岸
こちらは釈迦三尊像の制作中。制作者は「波」。完成予定は未定です。

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そんな海との「会話」を楽しみながら西海岸を南下します。
沖には、佐柳島を目指して定期船が進んでいきます。あの舟が引き返してきて高見島港に寄港します。それにできるなら間に合いますように・・

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高見島 西のお堂
いのりが通じたのでしょうか。
西のお堂が見えてきました。
ここまでが120分。後、港までは30分でいけます。
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高見島西のお堂からの佐柳島
歩いてきた北側方面を振り返って見ます。佐柳島と小島が見送ってくれます。
あの島までが香川県。その向こうの真鍋島は岡山県になります。
島が連なると言うことは海の中には山脈が連なっていると言うこと。峠を越える山風がキレットや風折れで強くなるように、島の間の瀬戸は流れがわき上がり海流が複雑になります。そのためこのあたりは「潮が涌く」→「塩飽」の島々と呼ばれてきました。その海を見守ってきたお堂です。

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備讃瀬戸航路
備讃瀬戸航路を東に向かう舟の一番奥に見えるのが象頭山。金毘羅宮が山腹に鎮座する山です。北前船の水夫達は、行き交う舟の上から航海の安全を祈ったと伝えられます。
 西向きのお堂からは瀬戸に沈む夕陽が美しいそうですが、そろそろ湊に向かいます。
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佐柳島港に入港する新なぎさ2
佐柳から引き返してきた「新なぎさ2」が入港してきました。これに乗って多度津に帰ります。
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島一周といういい思い出が作れたことに感謝。



梅雨入りには少し早い6月初旬に、高見島を訪れた。思いつきで目的地をころころと変えながら島を「徘徊」する。そして、たどり着いた一軒の豪邸(?)。その家の「ひろな」をのぞき込むと、こんな光景が広がっていた。

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反対側から見ると

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こんな感じ・・・・????
庭先の白い箱のような中にはいってみると、

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海を前面に全面の鏡張り。こんな光景が目に飛び込んできます。
そして、そこに広がる光景は・・

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西に向けて開け、与島や本島、そして瀬戸大橋が迎えてくれます。

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いったいこの仕掛けは?? 
私の「予備知識」をフル動員して浮かんできたのは「瀬戸芸の作品」=置き土産かなという推察。
それにしても、朽ちていく集落の中を「侘びさび」「滅びの美学」を味わいながら歩いてきて、その雰囲気の中にどっぷりと浸かっていた身にとっては、どんでん返しのオブジェでした。これをアートの力というものかしらと自分を納得させます。
この「テラス」に座って大休止。陽光の中、ウトウトと昼寝までしていました。
太陽光の熱さで目が覚めます。
もう一度、周囲を見回して見つけたのがこれ。
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高見島の民家の飾り瓦 しっぽが禿げた夫婦の鼠?

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こちらは馬?

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こちらはウサギでしょうか?

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広島方面を守るのは普段は仲の悪い犬と猿

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そして正面には吠える虎

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さらに母屋の屋根には、滝を登り龍をめざす鯉がはねています。
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最後は天女に見送られて、この「テラス」を去りました。
いろいろな発見があり、楽しい時を過ごさせていただきました。感謝

さて次は、どこへいこうかしらん。
歩きながら気付いたのは、人の気配がないということ。
浦の集落自体が「ゴーストタウン化」しているうな気配。
歩いても誰にも出会わない。

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高見島の集落跡
更地になった空間が至る所に点在する。

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屋根から下ろされた瓦がオブジェのように積み上げられている光景が到るところで目に付く。 
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 そういえばこの島が「琴島」として登場した「男はつらいよ」で、松坂慶子の父親でかつては外国航路の元船長がダンスを踊った家は、今はどうなっているのか・・・とふと思う。そして、先ほどの家が重なり合う。
1993年の封切りだったからもう四半世紀の時が流れている。

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大聖寺への分岐点までやって来た。

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ここが光男を連れ戻しにきた寅さんが、最初に松坂慶子に出会った場所だ。この階段を登っていくと
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大聖寺の山門
大聖寺の山門が見えてくる。

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ここは期待したとおりの光景を用意して待っていてくれた。
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季節は琵琶の熟する頃
おむすび山の讃岐富士と沖を行くコンテナ船
時間を気にせずボケーと眺めていた。

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大聖寺
お参りを済ませて、さてどうするかを思案する。
帰りの便は15:50。今は12:10分。約3時間半の時間がある。
蝶が花から花へ渡り歩くように、普段は目的地から目的地へ目的地へ渡り歩く習性がある私である。しかし、島ではそれはできない。舟が来るまでは、時間の「有効活用」を図ることを求められる。何事にもゆっくり、ゆっくりなのである。

 いろいろ考えた末に、島の北の端の燈台まで行くことにする。男木島の北端の燈台の雰囲気の良さに味をしめていたのである。
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高見島 浦の港
目標が決まれば行動あるのみ。
長い休息の結果、躰は軽くなった。島の北端の燈台目指して出発!

この時は、それが思った以上の「苦行」になるとは思ってもいなかった。
その様子は、また次回に・・・・・

塩飽諸島 高見島一周ウオーキング

快晴の青い空を見て山陽汽船の新しい舟に乗ることを思い立ち原付バイクを多度津港に走らせる。

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桟橋に入り、最後まで行き先を佐柳島か高見島か迷う。

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そして買ったのは近い方の高見島行きのチケット往復960円。
優柔不断さがますます進む今日この頃・・・自覚症状有り・・

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昨年就航した「なぎさ2」が「いらっしゃ~い」と迎えてくれる。
今治市の大三島の藤原造船で生まれた舟だ。総トン数は88屯。
小豆島や岡山港を結んでいる舟の1/10で小さくてかわいい。

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定刻9:05分出航。久しぶりの「船旅」に心はウキウキ。

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建造中の今治造船の巨大船に見送られながら沖合の高見島を目指す。
途中、備讃瀬戸南航路を横切るために西行する舟の進路妨害をしないように、航路を微妙に調節しながら進む。

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浦集落が見えてきた。小中学校跡やお寺の屋根などが識別できる。

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高見島港での乗客を降ろした後、舟はきびすを返し、
素早く軽やかに岸壁を離れ、
次の寄港地佐柳に向かうために港を出て行った。

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下船した数人の乗客は、私が舟を見送っている間に誰もいなくなった。観光客は私一人。孤独な岸壁と待合室である。
昨年の「瀬戸芸」の賑わいは何処に・・・?

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まずは地図を見ながら今日の戦略を考える。
どっちの島へ行くかも決めていなかったのだから計画性などは何もない。
私の頭の中にある予備知識を並べてみると
①塩飽人名の島で廻船で財を為した富裕層がたくさんいた島
②咸臨丸に乗り込み勝海舟とサンフランシスコに渡った水夫がいた
③その水夫の中には、幕末に榎本等とオランダに留学し、倒幕後は榎本と行動を共  にした者がいた。
④映画「男はつらいよ 46」の琴島の舞台となり、引退船長の娘役に松坂慶子が出演。この島の石垣と階段の風景が印象的であった。
⑤両墓制が残り、埋め墓と祀り墓が分離している。
⑥独特の食べ物として、伊予新宮など四国の奥地の集落で栽培された茶(発酵茶?) を用いた茶がゆが残っている。
  以上である。
我ながら予備知識はいいかげんにあるなとうぬぼれていると・・・
 「なお、島には売店も自動販売機もありませんので飲み物は各自用意してください」とある。自動販売機くらいはあるだろうと、持てる水量はペットボトル半分のお茶のみ。さてどうなることやら。

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そしてやってきたのは浜集落の両墓制の墓地。
人は自分の予備知識を確認したいものなのだ。
地蔵の背後が埋め墓だろうと推察。ここに埋葬し、白骨化した後に骨挙げして本墓に移す。沖縄にも同じ風習があった。骨揚げの際の「洗骨」をするのは女の役目とか・。火葬しないので薪が必要ない、木を切らなくていい、環境には優しい風俗やわなあ・・・と考えながら、本墓へ向かう。

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ひときわ目立つ墓に出会う。これが咸臨丸の水夫で、蝦夷共和国建国のために戦った男ではないかと思ったが・・・・
右側面にはまったく異なることが刻まれていた。
砲塔らしきものを見て気付くべきであったと反省。
うきうきするような成果は何もなく、島の西方探索を終えて、浦の集落に引き返すことにする。

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浦集落の島で唯一の民宿手前の道を登っていくことにする。
チャレンジ坂、アート・石垣・絶景のビューという言葉が少し軽く響いてくる。

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すぐ上が旧高見小・中学校。今は廃校になっている。

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野外研修センターになっているようで、野外炊飯所やシャワールームなどが整備されている。

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校庭のネットの向こうはすぐに海。
福山辺りの製鉄所に鉄鉱石を下ろしたのか喫水線が大きく海上部に出たバラ済み舟がゆっくりと備讃瀬戸航路を西に向かっている。

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それを眼下に見下ろしながら二宮金次郎は読書にいそしむ。
男子タルモノこうありたいものだと常々思ってはいるのだが・・・

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おむすび山の讃岐富士を後にして進む舟に何かしら惹かれ、長い間見送ってしまう。

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島の最高峰竜王山への分岐点にやって来た。
行くべきか行かざるべきか、悩む。
ペットボトルにはほとんどお茶はない。水分をもたないまま高低差250㍍50分の行動は、今の私にはきつい。
結論はすぐに出せた。「頂上は目指さない」である。
しかし、この石垣の緻密な作りはどうだ。インカ帝国クスコの町の石組みにも似ている。(行ったことはないが・・・)
どんなお宅か拝見させて貰う。

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むむ・・・ いったいこれは・・・何?

以下は次回へ(発行予定未定)

尊光寺史S__4431880

尊光寺史
図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会った。手にとって見ると寺から新たに発見された資料を、丁寧に読み解説もつけて檀家の支援を受けて出版されたものである。この本からは、真宗興正寺派の讃岐の山里への布教の様が垣間見えてくる。早速、本を借り出し尊光寺詣でに行ってみた。

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やって来たのはまんのう町炭所東(すみしょ)の種子(たね)集落。バス停の棚田の上に尊光寺はあった。
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石垣の上に漆喰の塀を載せてまるで城塞のように周囲を睥睨する雰囲気。
「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」
いわれれば、すぐに納得しそうなロケーション。
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この寺の由緒を「尊光寺史」は
「 明応年間 少将と申す僧  炭所東村種子(たね)免の内、久保へ開基」
という資料から建立を戦国時代の15世紀末として、建立の際の「檀那」は誰かを探る。
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①第一候補は炭所東の大谷氏?

開発系領主の国侍で大谷川沿いの小城を拠点に、西長尾城主の中印源少将を助けた。伊予攻めの際に伊予の三島神社の分霊を持ち帰り三島神社を建立もしている。後に、大谷氏は 敗れて野に下り、新たに長尾城主となった長尾氏への潜在勢力として、念仏宗をまとめてこの地区で勢力温存をはかる。
 つまり真宗興正寺派の指導者となることで、勢力の温存を図ったということらしい。

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 ②第2候補は平田氏

 平田氏は、畿内からやってきて、広袖を拠点に平山や片岡南に土着した長百姓であり、金剛院に一族の墓が残っている。

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最初は建物もない念仏道場(坊)からスタートしたであろう

名主層が門徒になると本山から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間とする。縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行。正信偈を唱え御文書をいただき法話を聞く。非時を食し、耕作談義に夜を更かす。この家を内道場、家道場と呼び、有髪の指導者を毛坊主と呼んだという。

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中讃での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬町の安楽寺である。

真宗興正寺は瀬戸内海布教拡大の一環として、四国布教の拠点を吉野川を遡った美馬町郡里に設ける。それが安楽寺である。当時の教育医学神学等の文化センター兼農業・土木技術研修でもあった安楽寺で「教育」を受けた信仰的情熱に燃える僧侶達が阿讃の山を越えて、琴南・仲南・財田・満濃等の讃岐の山里に布教活動に入って来る。

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安楽寺からのオルグを受けて名主や土侍たちが帰依していく。

中讃の農村部には真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、このようなかつての安楽寺の布教活動の成果なのだ。讃岐の真宗の伝播のひとつは、興正寺から安楽寺を経て広がっていったといえる。
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 その布教活動の様を橋詰茂氏は「讃岐における真宗の展開」で次のように話す。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと詣藍配置がととのっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、むしろ道場という言い方をします。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。
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 中央での信長の天下布武に呼応して、四国統一をめざす長宗我部元親の動きが開始される。1579年に始まる元親の讃岐侵入と5年後の讃岐平定。そのリアクションとしての秀吉軍の侵攻と元親の降伏。この激動は、中讃の地に大きな怒濤として押し寄せ、在来の勢力を押し流してしまう。

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 在地勢力の長尾城主であった長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働いた。そのためか生駒氏等の讃岐の大名となった諸氏から干される結果となる。長尾一族が一名も登用されていない
 このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入る。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを示す。
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 長尾氏出身の僧侶で尊光寺中興の祖と言われる玄正により総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になる。阿波国美馬の安楽寺を中本山に昇格させ阿讃の末寺統制体制が確立したと言える。このため中讃の興正寺派の寺院は、阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行っていた。
 尊光寺が安楽寺より離脱して、興正寺に直属するのは江戸時代中期の1777年になってのことである。

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「尊光寺史」は、浄土真宗の讃岐での教線拡大のありさまを垣間見せてくれる。

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