讃岐琴平 草創期の金比羅神に関しての研究史覚え書き
金比羅神については色々なことが伝えられているが、研究者の間ではどのようなな見解が出されているのかをまずは知りたかった。そのために金比羅神の草創期に絞って図書館で見て取れる範囲で、書物にあたってみた。その報告である。
まずは、金毘羅大権現についての復習
①仏教の神のひとつで、日本では海上の守護神としてひろく信仰。
②ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのUMBHIRA(クンビーラ)の音写。
③薬師如来にしたがう十二神将のひとつ
④金毘羅信仰で有名な金刀比羅宮は、もとは松尾寺という寺院。
⑤その伽藍の守護神だった金毘羅神を、信仰の中心とするようになり、金毘羅大権現と称した。
⑥インドでは、この神の宮殿は「王舎城外宮比羅山」で、これを訳すると象頭山。
⑦そのため金刀比羅宮がある山は象頭山とよばれる。
⑧大物(国)主神を金比羅神(大黒天)と同一視し主祭神
⑨金比羅を「こんぴら」と呼ぶのは江戸っ子の発音。正しくは「ことひら」(これは後の神道学者の言い出したこと)
⑩仏や菩薩が、衆生救済のために神などの仮の姿をとってあらわれる神仏習合がすすみ、本地垂迹思想がおこると、神々は仏や菩薩の権化と考えられるようになった。
⑪明治維新の神仏分離で権現号は廃されたが、通称として生きつづけている。
以上のことは定説。それでは金比羅信仰がいつ、どのように作り出されてきたのかをめぐる論考に当たっていきたい。
小島櫻礼「金比羅信仰」1961年
①金比羅山の頭人制は、古い神を祭る祭礼であり村の神的な性格
②松尾寺の守護神であった神が、江戸初期に急速に発展した背景は?
③金比羅を金比羅として祭らず、ある日本古来の神として祭っていた江戸以前
④何か新しい「外部的な動機」によって、「流行(はやり)神」として全国的な信仰獲得?
⑤仏典に見える「金比羅竜王説」
⑥金比羅=留守神=蛇・竜=農業神的な性格
古風な固有信仰の中核である農神が水神の性格を持ち蛇体・竜
習合以前の「原金比羅信仰」は農神の痕跡
ここの鰐を神体とする金比羅という外部の神が勧進
龍神⇒⇒海神⇒⇒船人の神へという転換
地元の龍神が、「外部の信仰」を引き寄せて全国展開へ
地元の信仰から原金比羅信仰に迫るために、金比羅祭礼の詳細な記述と分 析が今後の重要な作業。
⑦この信仰を説いたのはいかなる人たちか⇒⇒聖による流布?
近藤喜博「山頂の菖蒲」1960年
問題意識
金比羅という異国の神が、どうして琴平に勧進されたのか?
金比羅という異国の神が、どうして琴平に勧進されたのか?
①「あり嶺よし」としての象頭山(万葉集1-62)
あり嶺よし 対馬の渡り 海中に 弊取り向けて はや還り来ぬ」
*航海上高く現れて目立つ山で「よき山」
*「海中に 弊取り向けて」は、航海安全の祈り。弊とは?奉弊上の幣帛?
古代の航海にあって「雷電・風波」は最も危険で恐れられたもの。
潮待ち風待ちの港の背後の山の「雲気」の動静は、関心事の最大
*弊串として串との一体で考慮。初穂・流し樽へ
②コトヒラ・コトビキの地名由来
*航海の安全を祈るために、「琴を引く」風習の存在
*播磨風土記の「琴の落ちし処は、即ち琴丘と名づく」
*本殿と並び立つ「三穂津姫社」の存在は、何を意味する?
③伴信友の延喜式社「雲気神社」は、「金刀比羅神社」説?
*「ありみねよき琴平山への海洋航海族の憧憬を雲気神社に」
*後に農耕神となり、雨乞いなどを祈り捧げる山へ
*周防国熊毛郡の式内社「熊毛(雲気)神社」も同じ性格
④「琴平山」の「原始雷電信仰」の痕跡が山上の竜王池
*かつては大麻神社が管理。7月17日に祭神
*龍蛇は雷電に表裏したもの。稲妻は葦や菖蒲のシンボルへ
*稲妻⇒⇒稲葉⇒⇒因幡⇒⇒岐阜の伊奈波神社
⑤崇徳上皇の怨霊
*保元物語の死に際に大魔王へ「怨念によりて、生きながらに天狗の姿に」
都に相次ぐ不祥事を払うために白峰宮建立
*同時に讃岐に起こる風塵も崇徳上皇の怨念で、これを鎮めることが必要?
*そのような「怨霊」=「雷電神」=「天狗」を祭る鎮魂の社殿建設?
*京都北野の雷電信仰の上に、道真の「雷神=天神」が合祀され北野天満宮へ
*天狗は「天津鳥」で、「高津神」「高津鳥」(火の鳥)につながる系譜
*火の鳥は雷神の使令
天狗の正体は烏で、人間の怨霊と結びついたもの?
⑥菖蒲の呪力
*菖蒲による人間への復活説話の意味 剣状のの植物の神聖さ
*雷電を避ける呪力のある菖蒲=「剣尖に座す神々」の存在=鉾
*竜王池の菖蒲の意味は?
*「大麻神社」の麻も長剣状葉の持つ呪術性の延長線上に
⑦本殿奥の神窟の存在
*讃岐国名勝図会
「神の廟の巌窟に鎮座し、一社の深秘にて他に知ること無し」
*禁足林の存在。三十番社の大木の麓に岩窟⇒⇒古来以来の聖地
*雷=鬼の姿で表現。その巣が洞窟
武田明「金比羅信仰と民俗」
①死霊の赴き安まる山としての琴平山⇒⇒修験道の信仰の山へ
*かつての行者堂の存在
*降雨を祈る山
②金比羅山の祭礼=明治以前の神事の復元
*荘官と呼ばれる七軒の頭人
③地主神としての三十番神社
*あとからやってきた客神としての金比羅神
「この地を十年貸してくれ」⇒⇒十の上に点を付けて千年へ
④大祭後の心霊は、箸蔵山に天狗として去っていく?修験道の影響?
⑤地元の神としては、農耕神の雨乞い神として信仰
金比羅神は竜神、別名「金比羅龍王」
⑥恵比寿信仰は大漁神で、漁師の信仰⇒その後に、金比羅信仰の流行
*漁民には入り込む余地がなかったので、航海者たちに浸透
*金比羅神と山から吹き下ろす風の関係⇒⇒海難救助の神へ
⑦「象頭山金比羅大権現霊験記」(1769)の海難よけ信仰霊験集
*このような霊験を伝播させたのは誰か?
*天狗の面を背につけ、白装束に身を固めた「金比羅道者」の流布
彼らによる金比羅講の組織
*金比羅山から吹き下ろす風に乗って現れる金比羅大権現が海難から救う
*神窟からの風?
⑧代参講としての金比羅講
*講の加入者が講金を集めて代参を立てる。代参しお札をもらい土産を買う。旅のおみやげという習慣は、この代参から来ているのかもしれない。
*各地の講からの寄進を請け、はやり神となった金比羅神の発展
⑨巨大な流行り神となっても古い信仰の名のこりを残す金比羅山
松原秀明「金比羅信仰と修験道」
①修験道の象頭山
*ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿
*修験道者のシンボルとしての天狗
*道中の旅を妨げる悪霊をはらうおまじない。弘法大師の「同行二人」的
*日柳燕石
「夜、象山に登る 崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
「夜、象山に登る 崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
満山の露気清に堪えず、夜深くして天狗きたりて翼を休む。
十丈の老杉揺らいで声有り」 天狗はムササビ?
*江戸時代の人々は、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象
②象頭山を騙る修験道者の出現
*修験道系の寺院や行者による「金比羅」の使用
*修験者が多数いた箸蔵寺は「奥の院」と称して執拗に使用
③金比羅神飛来説とその形は?
*生身は岩窟鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える。これは、修験道の神そのもの 飛来したというのも天狗として飛行?
④天正前後の別当住職の修験道的な色合い
*長尾氏一族の宥雅⇒⇒長宗我部配下の宥厳⇒⇒宥雅の弟子の宥盛
*宥厳の業績の抹殺と宥盛の業績評価という姿勢
宮田 登「江戸の民間信仰と金比羅」
①19世紀初頭の都市市民の信仰タイプ → 流行神
*個人祈祷型で現世利益が目的。仏像・神像が所狭しと配列。
*それぞれが分化した霊験を保持し、庶民の願掛けに対応。
*農村部においても氏神の境内に、摂社末社が勧進
*流行神のひとつとしての金比羅神
②江戸大名屋敷に祀られた地方神の流行
*江戸に作られた大名屋敷に領地内の霊験あらたかな神を勧進
*その屋敷神が一般市民に、月の10日に解放される機会あり
大勢の人が参拝し、市が立つほどの賑わいへ⇒金比羅講の形成へ
金刀毘羅宮
虎ノ門をさらに名所にしたのが金刀毘羅大権現である。
讃岐国丸亀藩主の京極高和が、万治3年(1660)国元の本宮から三田藩邸に分祀。藩邸内に祀られた金比羅宮に塀の外から賽銭を投げ込んで参拝するほど江戸市民の熱烈な信仰を集め、毎月10日に限り邸内を開き参拝を許可した。
以上から推論できること
1 金比羅神草創は古代・中世の古くまで遡るものではない。
2 戦国末の天正年間に新たに作り出された神である。
3 その契機は、長宗我部元親の讃岐侵攻と四国平定事業と関わりがあるのではないか。
4 長宗我部支配下の修験道僧侶による金光院支配。
新たな四国平定事業のモニュメント的な神の創設と宗教施設が求められたのではないか。
新たな四国平定事業のモニュメント的な神の創設と宗教施設が求められたのではないか。
5 金比羅神草創から流行神流布まで、その中核には金光院別当を中心とする修験者たちの存在あり。
6 松尾寺別当金光院から金毘羅神別当金光院への転身の背景は?
7 生駒家による330石の寄進と山下家の系譜は?