西阿波の庚申塔には、何が彫られているの?
天空(ソラ)の集落を訪ねていると、お堂は集落の聖地であり、念仏踊りなどもここで行なわれるなど文化センターでもあったことが分かる。
端山巡礼第80番観音堂
端山巡礼第80番観音堂にやって来た。
半田から落合峠を経て祖谷に入っていく街道沿いにあるお堂だ。
お堂の前にはカゴノキの巨樹が木陰を作っている。
旅人達の休息所だったことが想像できる。
端山巡礼第80番観音堂の庚申塔
その巨樹の前には庚申塔が建っている。
建立は天保3年9月吉日。シーボルト事件が発覚し、伊勢のお陰参りが大流行した頃だ。200年近く前のものだが、朱で彩られた文字がくっきりと残る。
「光明真言三百万遍」
と読める。
「光明真言」とは、お四国巡りの際などに、般若心経の最後に唱える
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらはりたや うん」
という呪文のような真言のことである。これを、三百万回も唱え終えたことを記念として建立された記念碑ということになる。
旅行く人たちは驚きの気持ちで、これを見上げたのではないか。
そして、建てた地元の人たちは誇らしげに感じたのではないか。
穴吹の口山の猪滝堂
こちらは穴吹の口山の猪滝堂。
ここにも真言百万遍の庚申塔が建っている。
こちらは江戸末期の嘉永年間 なんと三百万回だ。
そして西阿波で最高回数は・・・これ
なんと七百万回と刻まれている。
最大の大きさのものは、加茂町にある。
誰が? どこで? いつ? 光明真言を唱えたのか。
日本に伝えられた道教の教えで、
「人の体の中には3匹の虫がいる。
1つは頭の中に居て彭■(ほうきょ)と言い、首から上の病気をおこす。
2つめは彭質(ほうしつ)と言い、腹の中にいて五臓を病気にする。
3つめは足にいて彭矯(ほうきょう)と言い、人を淫乱にする。
これを三尸(さんし)の虫と言い、庚申の夜に人が眠ると人体から抜け出て天にのぼり、その人の犯した罪過を天帝に報告して、その人の生命を縮める。
そのため
「庚申の夜に身を慎み徹夜すると虫が人体から抜け出すことができない。」
と言われ、庚申の夜には眠らずに「守庚申」(まもりこうしん)が行われるようになった。
阿波の人々が盛んに、講を組織し庚申待を行うようになるのは江戸時代後期になってからだ。
こんな姿を刻んだ庚申塔も現れるようになる。青面金剛だ。
「一身四手で、左の上手には三股、下手には棒を、
右の上手の掌には宝輪、下手には羂索をもつ。
身体は青色で口を大きく開き、目は血のように赤く三眼である。
髪はほのおのように聳立しどくろをいただいている。
両足の下には二鬼をふんでいる。本尊の左右には香炉をもった青衣の童子が一人づつ待立し、また右側にはほこ、刀、索をもつ赤黄の二薬叉(やしや)が立っている」
青面金剛はもと「病を流行らせる悪鬼」だが、改心して「病を駆逐する善神」に変化した。やがて、
「三尸虫を封じ込める」→「力づくで病魔を駆逐してくれる神様」
として、庚申の本尊に採用された。
西阿波では、青面金剛が彫られた庚申塔が多い。
申(さる)は干支で、猿に例えられるから「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものも多い。
当時の人々にとって庚申の夜は、地域のニュースを交換したり生活知識を入手する唯一の場であった。一晩徹夜をするのがつらいので、飲み食いをしたり、踊ったりして信仰はそっちのけで遊びの会になってしまった講もあったようだ。
一方、領主側からすると細かな取締り方針の伝達の場であり、時には民情を探るための諜報(穏密情報)集収の場にも利用されたようだ。そこで人々は保身のために、庚申待で語られた御政道批判や不用意な噂ばなしなどは
「一切不見(みず)、不聞(きかず)、不言(いわず)」
を守ることが大切なことだと経験から学び、庚申塔に彫り込んだのかもしれない。
戦後、生活様式の変遷等と合理思想の波に洗われて、お堂も姿を消し、庚申の行事も途絶え、庚申塔はあってもその名称さえも知らない人達が多くなった。
そうしたなかで西阿波には、全国でも珍らしく庚申信仰の習俗が残存している地域があるという。 いつか見てみたい、参加してみたいという願いを持ちながらソラのお堂巡りは続く。