明治20年の第一次移住団が抱えた3つの問題とは?
明治二十年に三橋移住団を送り出した後の西讃四郡の北海道開拓移住計画は、停滞する。その理由は、
1 開拓予定地の洞爺湖畔の主要部分が風致林として貸付対象からはずされていたこと2 第一次移住団の入植後三年続けて大霜により大不凶に見舞われたこと、3 送り出し側の諶之丞が讃岐新道や讃岐鉄道の請願、愛媛県会議員と身辺に重要な仕事をかかえていたこと。
まず第1点の点について
到着した向洞爺の土地が期待した湖畔ではなく、湖から離れた丘陵地帯で会ったことと、当初予定の広さが確保できていなかったことは移住団の中に、失望落胆を感じる者もでてくる。その気持ちを振り払うかのように、5月9日には貸付指定地の一の原、二の原を視察、小屋掛けを行い、5月31日からは開墾を始めた。
到着した向洞爺の土地が期待した湖畔ではなく、湖から離れた丘陵地帯で会ったことと、当初予定の広さが確保できていなかったことは移住団の中に、失望落胆を感じる者もでてくる。その気持ちを振り払うかのように、5月9日には貸付指定地の一の原、二の原を視察、小屋掛けを行い、5月31日からは開墾を始めた。
しかし「岩倉日記」には、
明治20年7月15日「今日長船ぬけて居ず」、8月13日「長船、岩田分を戸割致し」
とある。早くも離脱者が出たのだ。
さらに第2点は、追い打ちをかけるように続いた天候不順や大霜による大凶作だ。
明治二十一年の北海道勧業年報には、向洞爺に入った三橋移住団の状況が次のように記されている。(意訳)
虻田郡向洞爺の移民は、明治20年に初めて愛媛県下(当時は香川県を併合)からの農民21戸75人(男39人女36人)で移住し開墾に従事している。翌21年に移住した者は9戸40人(男23人女17)人で向洞爺、「ケップチ」、「ホロノツプ」の3ケ所に散居しており、開墾地は併せて43町町4畝歩、耕牛2頭、耕馬5頭で、その他の農具を用いて開墾を行っている。本年もまた不幸にも霜害を被り、馬鈴薯は三分ノ作であるが、その他はほとんど収穫がない。移民管理者及室蘭郡役所も奨励慰撫を怠らないようにしており、14戸を除いて「移住の意志が挫けないように頑張ると云っている。」と報告されている。
また、明治24年の三橋政之から大久保諶之丞への書簡で
「20年の先発者連中は、それまでの三ヶ年連年の凶作でいろいろ負債を負っています。昨年の豊作分の収穫物は、借金を返すのに足るか足らないかになりそうです。」
と書き送っている。移住初年度の20年~22年の3年間は収穫皆無であり、借金をしながら開墾に当たっていた様子がうかがえる。
開拓団長の三橋政之は、この苦境を打開するために奮闘する。
まず、移住初年の秋に郷里香川県に一時帰り、西讃4郡の郡長や大久保諶之丞等有志に対し移住団の苦境を報告して救済・支援を訴えている。ここでも政之の元邏卒総長や郡長としてもキャリアは生かされた。そして、復活した香川県の県会議員として四国新道や讃岐鐡道建設に邁進していた大久保諶之丞とも、今後の対応や支援計画が話し合われたはずである。後に、二人の間にやり取り得された書簡を読むとそのことが窺える。しかし、その具体的な内容までは分からない。
郷里讃岐において「後方支援体制」を固めた三橋政之が再び向洞爺に帰ってくるのは翌21年4月23日のことである。この時には、8戸の移住者を連れ帰っている。
そして三橋政之は開拓地の貸付地の拡大認可のために動き出す。
それを支援したのが当時、壮瞥や留寿都で大規模な土地の払い下げを受け、牧場経営のための開拓を始めたばかりの橋口文蔵や建部彦麿である。橋口文蔵は、19年2月北海道庁理事官、20年からは札幌農学校長を務めていた北海道の高官で、24年8月依願退官している。建部は、その部下で開拓地の責任者を務めていた。政之は、向洞爺の中継小屋のある壮瞥小屋との行き来を通じて、建部との交流をもち、そして橋口の支援を得るようになった。
その結果、明治23年に湖畔十四万坪は、三橋移住団に貸し付けされることとなった。この湖畔の土地が、香川県財田町の宝光寺から招いた住職が開いた宝光山徳浄寺が立つ現在の「財田」である。
大久保諶之丞による第2次移住団の出発
入植以来の払い下げ地の認可問題という障害を、乗り越えたことで大久保諶之丞が動き始める。おそらく政之が帰郷した折に話し合われていたのであろう。諶之丞は23年4月に第2次移住団を送り出す。先発移住者の家族など18戸72人が多度津港を出発する際の模様を、諶之丞は新聞社に次のように報告している。
見送り人は数百にも達した。琴平町枡久桜で神官宮崎康斐氏の手により霊鳩の絵像を渡され、移住団一同はそろって金刀比羅神社に参拝し、本殿で金幣式を執行。社務所で酒飯の饗応を受け、讃岐鉄道琴平駅で豊田元良ほか各郷里の立会人と別れ、特別切符で多度津港塩田回漕店で休息。その後、那珂多度郡書記、多度津町役場職員の送辞、豊田元良から一同へ贈物を受取、大滝丸に乗り込んだ。大久保諶之丞、二十三年四月二日「北海道移住者出発の景況
この第二次移住団の団長格は、追上出身の稲田新八である。
新八は、仲多度郡十郷村追上稲田嘉市の三男であり、兄民治は追上組長、弟常七は一年後の明治24年に新八を頼って北海道に移住している。新八の父稲田嘉市の妻サヨは、謳之丞の父森治の実弟田中歳三の次女にあたり、謳之丞と新八とは従兄弟になる。読み書きそろばんに巧みな新八は、諶之丞家で長年「番頭」をしていた。大久保家にとっては「キーパーソン」的な人物を、送り込んだことになる。
新八自身が、諶之丞に充てた開拓団の状況伝える書簡が残されている。また政之から諶之丞への書簡の中にも「新八と協議して」「新八からお聞きでしょうが」という文言が多く現れる。新八の報告を受けて、諶之丞は金銭面も含め支援の可否を決定していたことが推察できる。そのため新八は「監視・報告役」としての役割を担っていたとも言われる。
23年4月に第2次移住団を迎えた向洞爺。
その秋、はじめてこの地は大豊作になる。
その様子を三橋政之は大久保諶之丞への書簡にで次のように報告している。(意訳)
三橋政之の書簡 NO4 明治24年1月30日発 情況報告
昨年の農作は移住以来初めての好結果を得ました。その原因を分析すると、昨年は季候が非常に温暖で、積雪も前年に比べると数寸少なく、その結果、消雪も意外に早くて、作付も早く出来ました。秋の降霜も前年に比べれば約三十日も遅く、その結果、作付したものは種類を問わず皆豊熟しました。また今年の季候も昨年同様で降雪もわずかで、目下の季候は順当で本年も豊作を得る事は疑いありません。以上の次第に付、移民等も本地において農業で前進の目的を達すべしと大いに奮発し心を起こして勉強罷在候に付、開墾も大いに進歩するであろうと楽しみにしています。昨年の周旋で移住した者達は、実に僥倖な年に移住しましたので先発隊とちがい困難の情を知らずに、速に生計の途に付いておりますのでご安心下さい。昨年の移住民の中で、実に見込なき人物もおります。(これは稲田君より報告済みだと思いますので申しません)。先発者連中は、それまでの三ヶ年連年の凶作でいろいろ負債を負っていますので、昨年の収穫物は負債を償却するに足るか足らないかになりそうです。以下略
この大豊作のお陰で、移住団は最初の関門を越えることができた。
「向洞爺は大豊作 豊穣の地」という報告を受けて、大久保諶之丞は明治23年秋から冬にかけて第3次移住団の募集を開始する。そこには、今までにない数の移住者が応募してくる。