新説 坂本竜馬
あなたの知っている坂本龍馬、フィクションではありませんか?龍馬の名は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』など伝記小説から広まったため、実像と離れた「伝説」が生まれ、今なおそれが通説となっている。
歴史学者が丹念に史料を読み解くことでわかった龍馬の実像とは⁉
龍馬は薩摩藩士? 薩長同盟に龍馬は無関係? 亀山社中はあったのか? 大政奉還は龍馬のアイディア? など、新知見が満載。
「英雄フィルター」を外してみれば、龍馬の真価が見えてくる。
海援隊=龍馬創設説を疑う 2018年2月25日版 朝日新聞
私たちの知る「亀山社中」と、後身とされる「海援隊」のに設立経緯は以下のようだ。神戸にあった幕府の海軍操練所が閉鎖されると、土佐浪士だった坂本龍馬は、次のような行動を起こしたとされてきました。
慶応元(1861)年夏、長崎に日本初の商社兼私設海軍「亀山社中」を設立する。61年7~10月には、長州藩のために、武器や軍艦(ユニオン号)などの兵器を薩摩藩名義で購入。当時、険悪だった両藩の関係の修復を試みた。62年1月には、社中の一員だった近藤長次郎が盟約に反した罪で切腹する、同年6月の第2次幕長戦争では、ユニオン号で海戦に参加。慶応3年に設立された商社兼私設海軍「海援隊」に受け継がれた。
専門家からは、こうした通説は再検討すべきとの指摘が出ている。
明治維新史学会理事を務める、神田外語大学准教授の町田明広さん(幕末維新史)によると、亀山社中の「社中」は「グループ」という程度の意味。薩摩藩名義で買い上げた軍艦を、薩摩の指示のもとで運航していた土佐の脱藩浪人の集団いうのが実態。私設海軍や商社などとするのは事実誤認で坂本龍馬との関係も希薄とみる。
「社中のメンバーは、海軍操練所の解散後、薩摩藩の大阪屋敷に潜伏していた近藤長次郎、高松太郎といった面々で、そこに龍馬の名はない。発足時にも龍馬はそこにいなかった」
「史料を見る限り、軍艦と武器購入のため、長崎の薩摩屋敷に派遣されたのは長州藩の井上馨と伊藤博文。彼らが薩摩藩小松刀に名義借りを懇願し、それがかなって買い入れができた。龍馬も西郷も出てこない」
町田さんの新説について、仏教教大学の青山忠正教授(明治維新史)は、次のようにと冷静に受け止める。
「意外かもしれないが、龍馬に関わる研究は実はあまり進んでいない。きちんと史料を読みこめは、今後も新事実が次々と明らかになってくるはずだ」
それにしても、なぜ関わっていない西郷が登場するのか。
「西郷は当時、薩摩藩の下役で名義貸しを判断できる立場になかった。だが、何にでも西郷が関わったとしたかった後世の人が、後付けで役割を入れ込んだのだろう」
と町田さん。龍馬と社中の関わりも
「当時、龍馬が長崎にいなかったことは調べればすぐわかる。でも、皆、なぜかそこはスルーしてきた」。
龍馬が関わっていないなら、「亀山社中」のリーダーは誰だったのか。
町田さんは、近藤長次郎に着目する。
近藤長次郎
1838年に高知の饅頭商人の子として生まれたが、山内容堂に認められ、名字帯刀を許されて海軍操練所にも関わった。近藤が薩摩藩の上層部にあてた上書では天皇の権威向上、通商条約容認、富国強兵、海軍振興などを論じている。論旨も明快で非常な秀才だったようだ。
町田さんによると、近藤たちは薩摩藩に受け入れられ、対外的には「薩摩藩士」として活動していた。
「龍馬を『薩摩藩士の坂本』と書いた史料もある。龍馬は社中とは関わりない立場で対外交渉に、近藤は貿易などの実務にと、浪士の役割分担も行われていた」。
ユニオン号の購入も、小松帯刀の命令を受けた近藤が担当した、とみる。
だが、近藤は1866年に切腹する。通説では、長州藩の資金で留学する計画が露見し、社中盟約に背いたとして詰問されたためとされるが、それを示す一次史料はない。
「伊藤博文の書簡から、近藤は薩摩の藩費で留学する第2次『薩摩スチューデント』だったと考えられる。自殺理由はわからないが、盟約目体が存在しないので、それに遅反することもあり得ない」
近藤は龍馬と並ぶ存在として薩摩で期待され、死の報は重職間ですぐ回覧された。彼の存在こ果たした役割を今一度、見直したい。
(編集委員・宮代栄一)
「船中八策」後付けで虚構の見方も
町田明広さんによれば、龍馬については、研究者の間ではすでに「常識」となっていても、一般にはまだあまり知られていないことが多いという。その代表格が、龍馬が船で考えついたとされる建議案・船中八策だ。知野文哉氏の『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院、2013年)によれば、その存在自体が疑わしいという。
同書によると船中八策とされるものは原本も写本もなく、その内容も書物によってばらばら。このため、明治時代以降に書かれた龍馬の様々な伝記の中で、後付けで作られていった虚構である可能性が高いと考えられている。
町田さんの新説は、昨年11月の「近藤長次郎シンポジウム」で発表されたが、まだ論文化されていない。ただし、龍馬と薩摩藩の関係などについては、町田氏の論文「慶応期政局における薩摩藩の動向」(「神田外語大学日本研究所紀要」9号、2017年)などは、ネット検索すればPDFで読むことができる。
町田氏の論文「慶応期政局における薩摩藩の動向」へのコメント
「薩長同盟」は、幕末史の画期をなす重要な出来事である。文久以来干戈を交えるほどに厳しく対立していた薩摩藩と長州藩の提携は、その後、明治維新を強力に推進する原動力となった。そのことは、今日多くが認めるところであろう。このような薩長同盟の政治史的意義についてはこれまで語られ尽されてきた観がある一方で、そこに至る政治過程の実相については、意外なことに、十分な実証研究がなされてきたとは必ずしも言えない。慶応二年一月二一日を薩長両藩の政治・軍事同盟の締結日と見なし、坂本龍馬を両者仲介の最大功労者として位置づけることは、長い間半ば自明のこととされてきた。なんとなれば、同日の坂本龍馬宛木戸孝允書簡(宮内庁書陵部蔵)に示された六箇条の「盟約」の存在感は圧倒的であった。龍馬の朱筆の裏書きがあるあの有名な書簡である。本書はそのような通説に鋭く斬り込んだ意欲作である。筆者は、主として文久二年の島津久光の率兵上京から当該時期までの薩摩藩の動向に関する一次史料を丹念に追いつつ、対手である長州藩、さらに朝廷や幕府の動きも絡む複雑な政治過程の中で、「同盟」が成立してゆく歴史相を見事に活写している。そして、一月一八日にはすでに六箇条のアウトラインが成立していたことを指摘し、さらに、六箇条の内容自体も「同盟」「盟約」と称されるほどのレベルではなく、在京薩摩藩士のトップであり、かつ島津久光の名代的存在である小松帯刀が、長州藩を代表して上京した木戸との間で交わした、「小松・木戸覚書」と見るのが妥当であると論じているのである。本書は、筆者自身が述べるように、通説とそれを培ってきた歴史観への挑戦でもある。しかし、単なる通説批判にとどまらず、実証的に検証しながら新たな視点に立った薩長同盟論を提起してゆく筆者の姿勢は、表象から実在を判断しない方法的懐疑の表明ともいえる。そのような筆者の研究者としての良心に満ちた労作である。