まんのう町佐文のこはくさん(布伯神社)について
3月15日は布伯(ふはく)神社のおまつりです。「布伯」と書きましたが、私たちは「こはくさん」と呼んで親しんできました。小川布伯という人物をお祭りしているそうですが、地元ではどのように言い伝えてきたのでしょうか。それを史料で見ていきたいと思います。
小川布伯と「佐文城跡」について
江戸時代の末に、丸亀京極藩がまとめた「西讃府誌」には、当時の言い伝えとして次のようなことが記されています。
「佐文の南部の尾郷という地にある。ここが小川布伯のいた所と伝えられている。その跡は、今は(オゴウ)と呼ばれている。」
また、仲多度郡史には
「上麻村に原佐文という地名がある。布伯は、その娘を麻の近藤氏に嫁がせた。その時に、近藤氏がこの地(原佐文)を割いて小川布伯に与えた。」ともあります。
以上から次のようなことが言われてきました。
①布伯は、戦国時代に麻城の近藤氏に使える土豪侍であったこと。
②その拠点が佐文の尾郷集落にあったとこと。
③尾郷集落の地名は「小川」→「尾郷」へと転じてきたこと。
本当に布伯は、館や山城的なものを、この地に建てていたのでしょうか。現在の畑や田圃の下に、その遺構が眠っているのでしょうか?
百姓の神様として祀られた布伯
布伯の最後については、次のように書かれています。
佐文では「領主小川布伯守は、天正(1583)の昔、土佐の長宗我部の兵火にかかり、そのため、佐文の城が落ちた」と今なお語りつがれている。古老の語るところによれば、「領主であり、百姓の神様である」と、いわれている。(佐文誌)
布伯神社から眺める象頭山
尾郷の黄金伝説?
長宗我部が攻めてくる前に小川布伯守は財宝を埋めました。そこが「黄金原」で、それがいつの間にか「尾郷原」と呼ばれるようになりました。
明治の初め頃、こはくさんの台地を尾郷部落の男衆が整地していた時のことです。昼近くになって、小牛程もある大きな石が出てきました。男衆たちは「この石は、こはくさんが黄金を埋めた蓋石ではないか」「いや、これは、墓のふた石だろう」「とにかく、空腹では動かせない。昼飯を食べて本腰でかかろう」と、家に帰りました。早々と食事を済ませて来てみると、さっきの石は影も形もなかったそうです
。
こはく社
こはく社の台石は、どこから?
佐文誌には
「昭和四年頃のことです。加茂神社の御旅所の神輿休の台石を新しく築くことになり、古い台石を尾郷の講中がゆずりうけて、こはく社の台石にした。」
つまり、布伯神社の台石は、加茂神社の御旅所の神輿台石を、尾郷部落の人たちが運んで来たようです。
明治以後、政府の政策で小部落に祀られていた祠や神社は、佐文では加茂神社に集められました。しかし、尾郷の人たちは、この地で「こはくさん」を守り通してきたのです。
布帛神社の 正式の名称は「九白神社」です
古老の伝える所によると、「戦前の昭和14・15年頃のこと。ある祈とう師がこの地を訪れ、『お祈りをせねば、この地に不幸がおこる』とのお告げで、神社名を九白神社と定め、社殿を整備し、拝殿も建てました。そして4月4日と9月9日には御祭りをしていましたが、今は春の3月15日だけになりました。