瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2018年05月

白鳳期の古代寺院善通寺と空海
善通寺は、空海が父佐伯善通の名前にちなんで誕生地に創建したといわれてきました。
しかし、近頃の発掘によりその説は覆されているようです。まず、発掘調査で白鳳にさかのぼる善通寺の前身寺院が明らかとなってきました。中村廃寺と呼ばれてきたものです。行って見ましょう。

古代善通寺地図
古代善通寺周辺の復元地形
聖母幼稚園の西側、つまり善食の南側に墓地があります。
近世には伝導寺という寺院があり、その墓地だけが残っています。

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その墓地の中に入っていくと、大きな石があります。
これが礎石のようです。もともとここにあったものではなく、後に墓地があったここに集められてきたようです。

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この墓地の北側からは白鳳期の瓦も出ており、8世紀には中村廃寺と呼ばれてきた古代寺院があったようです。

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この北側は、農事試験場から国立病院に続く地域で弥生時代から連続して、住居跡が密集していたことが分かっています。この集団の首長は、甘南備山の大麻山の頂上付近に野田院古墳を造営し、その後の継承者は茶臼山から善通寺地域の「王家の谷」とも言える有岡に、前方後円墳の首長墓を
丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳
と連続して造っていきます。寺院が建立され始めると、いち早くこの地に古代寺院を作り上げていきます。彼らは時代を経るに従って、首長から国造へと成長していきます。それが佐伯家なのでしょう。

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 そうだとすれば、真魚(空海の幼名)が生まれたときに善通寺の前身寺院(中村廃寺)はすでに姿を見せていたことになります。しかし、この寺院は火災にあったのでしょうか、
最近は南海沖地震規模の大地震によるという説もでています。原因は分かりませんが短期間で放棄されます。そして、現在の善通寺の東院に再建されるのです。
 
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 白鳳時代の寺院は平安時代の半ばには焼け落ちたようです。
 その後の平安時代後期には、本寺の東寺と国衙政治の圧迫を受けて善通寺は困窮状態に陥っていたことが文献研究で明らかになっています。
鎌倉時代に讃岐に流刑になった道範は『南海流浪記』で善通寺のことを次のように書き記しています。
「お寺が焼けたときに本尊さんなども焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」
「金堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見える」
「本尊は火災で埋もれていた仏を張り出した埋仏だ」
とありますので鎌倉時代初期までには、新しく再建されたことが分かります。
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善通寺東院 赤門
この金堂も永禄元年1558の三好実休の兵火で焼け落ちます。しかし、当時は戦国時代の戦乱期で約140年近くは再建されず、善通寺には金堂がない時代が続きました。
 それが再建されるのは元禄の落ち着いた世の中になってからです。
この時に、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので高い基壇になりました。基壇部側面には大同2年(807)の創建当初の白鳳期のものとおもわれる石が使われているといいます。見に行きましょう。

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本堂基壇に近づいていくと・・・

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確かに造り出しのある大きな礎石がはめ込まれています。
大きな丸い柱を建てた柱座も確認することができます。
他にも探してみると、

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 4個の礎石があるのが分かります。この基壇の中には、白鳳期のものがまだまだ埋まっているようにもおもえてきました。
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丸亀藩の保護を受けて元禄年間に金堂の復興工事が始まります。

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その際に敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊としていたかけらが幾つもでてきました。それは、いまの本尊の中に入れられていると説明板には書かれていました。
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最後に善通寺という寺名について
五来重:四国遍路の寺は次のように述べています。
鎌倉時代の「南海流浪記』は、大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。普通は大師のお父さまの名前ではなくて、どなたかご先祖の聖のお名前で、古代寺院を勧進再興して管理されたお方とおもわれます。つまり、以前から建っていたものを弘法大師が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。

 空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。
弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。この度牒はいま厳島神社に残っていますが、おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 『南海流浪記』にも善通は先祖の俗名だと書かれています。


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善通寺西院
御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であるといわれます。

ここを拠点に、中世の
善通寺は再興されます。
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善通寺西院御影堂
東寺百合文善や随心院文書によると、善通寺も平安時代には別当によって運営されていたことが分かります。東寺や随心院などの本山支配の下にあったために、善通寺が別当の進退を拒否した文書がたくさんあり、善通寺市史などにも紹介されています。善通寺が衰退すると、別当が京都の来寺や随心院あるいは御室仁和寺から任命されるようになります。すると善通寺の坊さんたちは、京都から来る別当の支配を受けないといって紛争を起こしたことが平安時代中期の古文書に残っています。
.1善通寺地図 古代pg
善通寺周辺遺跡

善通寺の寺名は「空海の父の名前」と言われますがどうでしょう。

善通が白鳳期の創建者であるなら、その姓かこの場所の地名を名乗る者になるはずです。西院のある場所は、時代によって「方田」とも「弘田」とも呼はれていました。すると、弘田寺とか方田寺とか佐伯寺と呼ばれるのが普通です。ところが、善通という個人の俗名が付けられています。これは、「善通が中世復興の勧進者」であったためと研究者は指摘します。
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西院が御影堂になる前は、阿弥陀堂でした。

専修念仏を説き、浄土宗を開いた法然上人は、旧仏教教団の迫害をうけて、承元元年(1207)に讃岐に流されます。絵巻物の「法然上人絵伝」第35巻の詞書には、善通寺に参詣した時に金堂に次のように記されていたととします。
「参詣の人は、必ず一仏浄土(阿弥陀仏の浄土)の友たるべし」

これを読んだ法然は、限りなく喜んだと云うのです。ここからは、当時の善通寺が阿弥陀信仰の中心となっていたことがうかがえます。
法然上人逆修塔2
法然上人逆修塔(善通寺東院)

 善通寺東院の東南隅には、法然上人逆修塔という高さ四尺(120㎝)ほどの五重石塔があります。逆修とは、生きているうちにあらかじめ死後の冥福を祈って行う仏事のことだそうです。法然は極楽往生の約束を得て喜び、自らのために逆修供養を行って塔を建てたのかもしれません。

善通寺によく像た善光寺の本堂も曼荼羅堂も阿弥陀堂です。
阿弥陀さんをまつると東向きになります。現在は西院の本堂は、弘法大師の御影をまつっていますが、もとは阿弥陀堂だったと研究者は考えています。
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善通寺西院と背後の五岳山

 本願寺でも鳳鳳堂でも、阿弥陀さんは東を向いていて、拝む人は西を向いて拝みます。東西に拝む者と拝まれる者が並んでいるということからも阿弥陀堂であると向時に、大師御影には浄土信仰がみられます。そして、善通寺西院の西には、霊山である我拝師山が聳えます。

1 善通寺伽藍図
善通寺の東院と西院
善通寺にお参りして特別の寄通などをしますと、錫杖をいただく像式があります。什宝の錫杖は弘法大師が唐からもってぎた錫杖だといいますが、表は上品上生の弥陀三普で、裏に返すと、下品下生の弥陀三尊です。つまり、裏表とも阿弥陀さんを出しています。

善通寺の東院と西院
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讃岐の古代寺院 善通寺 東院と誕生院の歴史について
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善通寺と誕生院(香色山から)
 善通寺の背後の香色山から善通寺を眺めたものです。東にはおむすび型の甘南備山である讃岐富士が見えています。手前に五重塔と本堂が巨樟に囲まれて建っているのが分かるでしょうか。これが東院です。更に拡大すると・・・
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善通寺誕生院

その手前に大きな屋根を重ねる伽藍があります。これが誕生院です。かつての空海の佐伯家の跡と言われています。このように善通寺は五重塔のある東院と誕生院の西院に分けることができます。
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善通寺本堂 赤門から

現在、金堂と五重塔のあるのが東院です。
ここには白鳳期の寺院跡が確認されています。佐伯家の建立によるもので、空海が生まれる以前に伽藍はあったようです。現在の金堂の基壇の周りには、造り出しのある白鳳期の非常に大きな礎石が多数用いられています。金堂は永禄元年1558の三好実休の兵火で焼けて元禄十一年(1698)に再建されました。 その間、140年近くは金堂がなかったわけです。

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善通寺本堂
永禄の時に焼けた建物について鎌倉時代の道範の『南海流浪記』には
「 白鳳期のお寺が焼けたときに本尊さんなどが焼け落ちて、建物の中に埋まっていたので、埋仏と呼ばれている。半分だけ埋まっている仏縁の座像がある」と書かれています。
おそらく半分だけ埋まっている仏頭がまつられていて、現在残っている仏頭はそれを掘り出してまつったのだろうとおもいます。新しく元禄十一年に建てるときに、散乱していた白鳳期の礎石を使って四方に石垣を組んだので、現在のように高い基壇になってしまいました。この基壇の中に、白鳳期のものがまだまだ埋まっているのかもしれません。
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善通寺東院の大楠
元禄十一年の金堂再建のときに、その敷地から発見された土製仏頭は、巨大なことと目や頭の線などから白鳳期の塑像仏頭と推定されています。印相等は不明ですが、古代寺院の本尊薬師如来として、塑像を本尊とする白鳳期の前寺(前身寺院)があったことが推定できます。
『南海流浪記』には、すでに火災で焼けた前寺を再建した建物が鎌倉時代初期には存在したことが見えています。平安時代の中ごろかわかりませんが、一度火災にあって、鎌倉時代初期に焼け跡を訪れた道範が本尊は埋仏だと書いています。本堂は二層になっているが、裳階があるために四層に見えるといって、大師が建立したとしています。
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善通寺本堂
これを見ると、鎌倉時代初期には徐々に回復しつつあったことがわかります。
埋仏は白鳳期の仏頭に当たるもので、地震などで埋もれたのを掘り出して据えていたようです。このときの金堂が永禄元年の兵火で焼け、本尊が破壊され、埋もれたのを首だけ掘り出しだのが現在の仏頭だとおもわれます。
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善通寺境内 善女龍王
『南海流浪記』は、四方四門に間頭が掲げられていて大師筆の二枚の門頭に「善通之寺」と書いてあったと記しています。大師の父の名前ではなくて、佐伯家先祖のお名前で、古代寺院を勧進で再興して管理された人物とも考えられます。
 つまり、以前から建っていたものを空海が修理したけれども、善通之寺という名前は改めなかったということです。空海の父は、田公または道長という名前であったと伝えられています。弘法大師の幼名は真魚で、お父さんは田公と書かれています。ところが、空海が三十一歳のときにもらった度牒に出てくる戸主の名は道長です。おそらく道長は、お父さんかお祖父さんの名前でしょう。
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善通寺金堂
道長とか田公という名前は出てきても、善通という名前は大師伝のどこにも出てきません。 しかも、『南海流浪記』は先祖の俗名と書かれています。
 本田善光の善光寺のように、進を寺号としないで個人名を付けたと考えれば、やはり先祖の聖の名を付けたと考えたいところです。善通寺も御影堂は東向きで、西に本尊をまつっています。地下に戒壇をもっているのも全く同じです。まっ暗闇の地下をぐるっと回ると、死者に再開できるという伝説をもつ戒壇巡りがあります。御影堂のある誕生院(西院)は佐伯氏の旧宅であることは通いありません。
「五来重:四国遍路の寺」より

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