国市池と爺上山
国市池(くにち)池の誕生については、次のような話が伝わっています。
江戸時代のはじめころの話です。武士たちは、戦の練習をかねて、タカ狩りということをしました。山などで、タカを飛ばせて、ウサギやイノシシなどの動物を見つけ、大勢の武士たちが戦のときのように大声をあげながら、追いかけて獲物を補らえるのです。お殿さまは、狩りのじょうずなタカをもとめていました。
あるとき、村の庄屋さんから、「タカを捕らえて差しだした者には、お殿さまからほうびをくださる」ということが、お百姓さんたちに知らされました。しばらくして、ある日、笠岡のお百姓さんで、じさえもんという人が、タカを捕らえて、庄屋さんの家へ持ってきました。そして、「山でタカをつかまえたんじゃ。お殿さまに差し上げてくだせえ」「タカを捕らえて差しだした者には、お殿さまからほうびをくださる」ということが、お百姓さんたちに知らされました。「どれどれ、おお、元気のよいタカじゃ。お殿さまも喜ばれるじゃろうて」そう言って、庄屋さんは、タカを持って、お城へ行きました。それから、しばらくして、ある日、じさえもんさんは庄屋さんのところへ呼ばれました。庄屋さんがじさえもんさんに言いました。「喜びなされ、じさえもんさん。お殿さまからほうびとして土地をくだされたぞ。五丁池の下のところに、まだ田んぼにしていない土地がある。そこを田んぼにして米を作りなさい、というお知らせじゃ」「ありがとうごぜえます」と、お礼を言って、じさえもんさんは、庄屋さんの家を出ました。「まだ田んぼにしてないっちゅうたら、どんな土地じゃろか」と、気になりましたから、五丁池の下のところの土地を見に行きました。そして、おどろきました。そこには小さな池がいくつもあって、とても田んぼにできるような土地ではありません。じさえもんさんは、急いで庄屋さんの家へもどって、言いました。「庄屋さま、せっかくじゃけれど、あの土地はもらってもこまります。いま見てきたんですが、わしがひとりの力で田んぼにでけるような土地ではないですけん。お返しでけるんじゃったら、返したいんでごぜえますが……」「そうかあ。しかし、困ったことよのう、せっかくくださったものをお返しするのは。まあ、おまえがそういうのだから、お城へ取りついでみよう」そう言って、庄屋さんはお城へ行き、じさえもんさんの気持ちを伝えました。
それからまた、しばらくして、ある日、じさえもんさんは庄屋さんのところへ呼ばれました。「お城からお知らせがあったぞ。おまえには別の土地をくださることになった。あの土地は大きな池にして、新名や下高瀬のほうの田んぼまで水を引けるようにするそうじや」まもなくして、庄屋さんが言ったように、お城から役人がやって来ました。その役人の指図で、小さな池を取りこんで大きな池に作りなおす工事が始まりました。そういうわけで坊主池・新名池、上池、盆の池などの小さな池を取りこんで大きくしたのが今の国市池です。なぜ、国市池という名がついたのかですって?それは、そのあたりの池の世話をしていたのが国市さんという人だったのです。それで国市池と呼ばれるようになりました。
高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会平成15年
国市の誕生物語を、史料で見ておきましょう。
国市池は3段階を経て現在の姿に成長しています。
戦国時代も終わりを迎えようとする慶長年間 1597年
焼け落ちた柞原寺の再建が進められる中、讃岐の大名としてやってきた生駒親正です。彼は戦乱の世が終わったことを示すために、大土木工事を讃岐各地で進めます。代表的な土木工事が丸亀城の築城と大池の築造です。
三豊では柞原寺西側に大池を作ることになりました。
その際に、堤防をこの丘からまっすぐに西に伸ばすため、新名池の半分は切り取られてしまいました。新名池を切り取って西に延びた堤防は、現在の1/3程度の長さでした。これが、国市池の東半分の誕生プロセスです。国市池の向こうに、4つの池(坊主池 下池 上池 古池)は、そのまま残りました。
冬の国市池 (西香川病院から)
この時に出来上がったのが、現在の国市池の東半分です。
仮に、これを旧国市池と呼ぶことにします。この時は国市池の西側には、4つの池(坊主池 下池 上池 古池)が残りました。つまり、旧国市池と併せて5つの池がモザイクのように並んでいたのです。
生駒騒動で生駒藩が取り潰された後に、丸亀藩主としてやってきたのが京極氏です。丸亀藩の課題は、財政安定化のための大規模な新田開発でした。そのため三豊では、三野湾の干拓と大野原の灌漑工事が行われます。こうして、三野湾を水田に姿を変えていく大工事が進められます。三野津・吉津などから高瀬川河口に至る海が、広大な水田となります。平和になり明るい未来が見えてくる。希望の星の工事。人々が望んでいたことです。しかし問題は農業用水の確保です。どこから引いてくるのか? どうするか頭を抱えていたところ・・。
解決の糸口を示すこんな記録が残っています。
国市池堤防の法華石
鷹を献上した褒美にいただいた土地が国市池の拡大用地に・・
「笠岡村七尾原の治左衛門は触れに従い、鷹狩り用の鷹を捕らえて献上した。その褒美として、比地中村五町池下の未墾地が与えられた。しかし、そこは作付けもできないほどの悪田だったので、返上申し上げた。
それを聞いた殿様が調べさせ、その地形。地勢が分かると・
『それでは、そこに池を築き吉津・下高瀬・松崎新田の用水とせよ』といわれた。こうして国市池増築は、藩の難局打開の事業と位置づけられ進められた。
こうして堤防が吹毛の山まで伸ばされていくことになります。
同時に堤防のかさ上げ工事も進みます。工事の結果、以前にあった4つの池は、池床や用水路に変わりました。。低地に住んでいた農家十数戸も、移住させられました。(中村古事記)。
同時に堤防のかさ上げ工事も進みます。工事の結果、以前にあった4つの池は、池床や用水路に変わりました。。低地に住んでいた農家十数戸も、移住させられました。(中村古事記)。
新しく出来た大池の恵みを受ける村は、比地中村・新名村・下高瀬村・吉津村・松崎村の広域にまたがりました。新しく開かれた三野干拓の水田は、国市池からの水があったからこそ豊かな実りを実現させることができたのです。
満々と水を満たす国市池を見て、
「その水未釣れば、13162坪(三四町三反8畝二二半)という大池となり、周囲一里余り、まさに海をみるようである」
と書き残されています。そこからは、この大池を作り上げ遠く三野の新田を潤すシステムを作り上げ完成させた喜びの賛歌が聞こえてくる気がします。
さて、この大池のネーミングには、こんな話もあります。
満濃池は高松藩に属します。丸亀藩内で、一番の大池であることから「国一池」と呼ばれることになりました。この名称は明治まで約200 年にわたって使われました。しかし、明治になって「国で一番ではない」とのことで、少しへりくだって「国市池」と改めたというのです。どちらが正しいのか、私に判断する材料はありません。
21世紀の国市池
400年以上に渡って大切な水をため続けた国市池
香川用水が利用できるようになり、少しづつその役割も変わってきました。大池の一部を埋めて公共スペースとして利用しようとする動きが進みます。まず、
西香川病院そしてB&Gそして、高瀬高校の野球グランド、陸上部の第二グランド
これらは国市池の池を埋め立てて利用しているものです。