瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2018年07月

 大槌島は鰆の好漁場 讃岐と備前の漁民の漁場争い  

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備讃瀬戸航路からの大槌島

鰆の好漁場大槌島をめぐる紛争

瀬戸大橋の東方、五色台の沖に海の中からおむすび型の頂を覗かせる2つの島があります。この北側の島が大槌島です。この島から東に延びている細長い砂地の浅瀬は、大曽の瀬と呼ばれました。連絡船がこの上を通っていた時には、船の上から海の底が見えたというくらい浅いんです。浅い砂地にはイカナゴがたくさんいて、それを食べに春には鰆がやってきて産卵しました。だから鰆を捕る絶好の漁場でした。

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鰆は痛みが早いので、この時代に流通ルートに載せることができたのだろうか
と思いました。調べてみると、肉を食べるのではなく鰆の卵巣からカラスミを作っているのです。からすみは、もともとはボラの卵を原料にして江戸時代初期に長崎で作られて将軍家に献上するようになります。
 「本朝食鑑」という本によると、元禄ごろから備前や讃岐・阿波・土佐でも作られるようになって、いずれも将軍への献上品になっています。ただ、備前・讃岐のものは原料が鰆なんです。味はボラで作ったものより少し落ちるようです。しかし値段はとても高いし、珍味です。決しておかずにするようなものではありません。
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備讃瀬戸航路からの瀬戸大橋の日の出
 ところが元禄時代は「大江戸バブルの時代」で、京・大坂・江戸などの都市を中心に大商人が大勢現れたころです。こういう富裕な人たちが、お祝い事や贈答品・茶の湯の料理・魚の肴として「将軍への献上品カラスミ」を、お金にかまわずに求めたのです。高級品志向・グルメ志向の仲間入りをカラスミが遂げたわけです。今までは商品価値のなかったものが高級品として売れ出します。それが、鰆を求めて周辺の漁民達が大槌島周辺に押しかけ騒ぎを起こさせた原因だったようです。今の時代にも、よく似た話は対象を買えて「再生産」されています。

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この大曽の瀬をめぐって江戸時代に備前の日比・利生・渋川三力村と讃岐の香西が争います。備前側の言い分は次の通りです
「去年(享保一六年)以来香西浦の者共みだりに入り込み漁猟せしめ、あまつさえ大槌島をも浦内とあいかすむる段」
香西の漁民がみだりに入り込み、大槌島は讃岐香西のものだとかすめると訴えています。しかし、双方の訴状を見てみると、備前側の方が出漁している船は多いのですが・・。
 
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 裁定は、どう進んだんでしょうか。

「右論所あい決せざるにつき木村藤九郎・斉藤喜六郎さし遣はし検分を遂げるところ」
 評定所の役人が江戸から実地検分に来たようです。そして判決は、次の通りでした
「大槌島の中央を境と定め、双方へ半分ずつあい付け候」
つまり、大槌島が讃岐と備前の「境」となったのです。
からすみをめぐる漁場争いが大槌島を二つに分けたと言えるのでしょうか。
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大槌島

参考文献 千葉幸伸 讃岐の漁業史について 香川県立文書館紀要創刊号 
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井島に香川と岡山県の県境が引かれたのはどうして?

アートの島として有名になった直島。
その北東に井島という島があります。
Googleマップで見ているとこの島の上に、香川と岡山の県境が引かれています。
どうしてこうなったのでしょう。

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漁業圏の争いから国境(今でいえば県境)など境界の争いに発展した事件が讃岐にはいくつかあります。井島も、漁業権をめぐって江戸時代に二度の訴訟事件が起きます。その結果、この島は、北が岡山、南が香川のものとして引き裂かれたのです。

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元禄3年(1660)1月22日に江戸幕府の評定所が出した裁許状です。
なぜ幕府の評定所の扱いになるかといえば、直島は幕府の直轄領(天領)だったからです。
直島側の言い分は次の通りです。 
「讃岐国直島領と備前国胸上(むねあげ)村漁猟論のこと。直島百姓申し候は、はたごの瀬大藻(おおも)にて網引き候ところ胸上村の者理不尽にこれを妨げ、ご運上札(うんじょうふだ)ならびに網取り上げ候由」
 運上札や網を取り上げられたといっていますが、取り上げられのは本当は直島の漁師ではありません。直島に運上(人漁料)を払って操業している芸州二窓村(広島県竹原市忠海町)の漁民たちでした。当時は、家船に乗ってやってきて小魚を捕る漁業者たちが、瀬戸内海には数多く進出していました。
当時、この周辺は好漁場で各漁村の漁業圏をめぐる争いが頻繁に起こるようになっていました。
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これに対して胸上村(玉野市胸上)側の言い分です。

「胸上村百姓答え候は、この猟場、古来中藻の洲と申し伝え、胸上村の猟場にあい定まり候」

とあります。
古くから自分たちが中藻の州と呼んで漁場としてきたことが主張されています。
 
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評定所の下した判決の内容はどうだったのでしょうか。

下された裁定の要点は二つです。
一つは、はたごの瀬大藻漁業に関しては、棟上村(備前)のものだという裁定です。
もう一つは井島に関しては「直島分たるべし」ということです。
つまり、漁場は備前、井島は直島(讃岐)のものとされたのです。
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備前側は納得せず12年後に再度控訴し、裁定がおります。

裁定の日付けは元禄15年(1702)12月21日です。
裁定の前半部分は前回の元禄3年のものと全く同じでした。つまり漁場に関しては前の判決と同じで、すべて胸上村(備前)のものとなっています。しかし後半は違います。
「石島山の儀、官庫の大絵図点検せしむるところ、備前国より差し出し候絵図、石島の中央墨筋これを引き、備前・讃岐あい分けこれあり・・・
胸上村百姓申すとおりに候。」
 官庫の大絵図というのは元禄九年(1696)に幕府が大名たちに命じて提出させた各国絵図です。元禄9年というと前の判決が出た後です。岡山藩にしたら是が非でも井島(備前では石島と書く)の半分は取りたかったのでしょう。
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それに対して直島側から提出しか国絵図はどうだったのでしょう。
「墨筋これを引かず」
つまり井島は全部讃岐のものという主張でした。
しかし判決は備前側の言い分がとおって井島を半分に分けることになりました。維新後も、香川と岡山の県境は、そのまま引き継がれました。
そしてこの島を、香川は井島、岡山は石島と標記しています。
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この評定が出された時には井島には誰も住んでいませんでした。
その後、胸上村から3人の農民が井島に行き、石島山の北のを開きました。その結果、移住者が爆発的に増え、1702年に数人であった人口が40年後には56人にまで膨れあがりました。現在でも岡山県側に集落があります。
 一方、南の香川県側には古墳はありますが人は住んでいません。

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紀州からやってきた鯛網漁の漁船団

秀吉が大阪城を築城しているころのことです。
小豆島沖に紀州から何艘もの漁船がやってきて、沖での漁を願い出ます。
彼らは紀州塩津浦(和歌山県)の漁民たちで、当時のハイテク技術で装備された鯛網の操業集団でした。そのさい、無断で漁場に入り込んだのではなく小豆島土庄村に入漁費を支払います。
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和歌山漁民の小豆島庄屋への約定書

 慶安四年(一六五二)に紀州塩津村(和歌山県海草郡下津町)の彦太夫らが小豆島土庄村大庄屋の笠井三郎右衛門に宛てて出した約定書です。読んでみましょう。
「貴殿鯛網の引き場預かり申すにつき進物の色々あい定むること。一つお年頭に参るとき、酒二斗……、一回二月網に参るとき……」
 漁を行う代償として、笠井家に贈る進物が約されています。大変な数の贈り物と入漁料です。鯛網がいかに大きな利益をもたらすものだったかがうかがわれます。
日付けが四月一日ですから、旧暦三月の鯛網の季節が過ぎて帰るときに次の年の入漁を約束したものでしょう。笠井家の他の文書を見ると紀州からの入漁は慶長年間から始まっていることがわかります。

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 取れた鯛を、どこへ持っで行って売ったのでしょうか。

それは大坂です。大阪ではまだ秀吉が生きていた頃に魚市場が作られています。遠くまで魚を生きたままで運べる生簀船も現れます。
大坂で売って、豊富な資金をもって他国へ出漁したのでしょうか?
そうではなく、大坂商人の前貸しを受けていたようです。
魚を捕る技術に長けた紀州漁民を経済的に大阪商人が支援していたのです。

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地元の網元達は、紀州漁民にの活躍ぶりを見ていただけでしょうか。
そうではありません。寛永二十(1643)年には豊島甲生村漁民が紀州鯛網をまねて操業を始めます。しかし、大金をはたいて大網や船を揃えますが、技術や経験ががともなわなかったため思うような漁獲が得れなかったようです。「真似してやったが失敗して借金だけが残った」と地元には伝わっています。
 したがって、当初は地元漁民が鯛網をおこなうより紀州漁民に漁場を賃貸する方が村にとっては利益が高かったようです。

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それでは、讃岐の人々は鯛大網の技術をマスターできなかったのでしょうか。
そうではありませ。リベンジが行われます。
例えば真鍋島の真鍋家文書を見ると、寛文三年(1663)、真鍋島に近い丸亀藩領の海で「鯛こぎ網のかずら場」という言い方が出てきます。こぎ網というのは、岡にこぎ寄せて捕る地漕ぎ網かもしれませんが、紀州の漁民が開発した方法です。元禄期に、真鍋島近海に紀州塩津の漁師が入漁してきたということが出てきますから、讃岐の人々が紀州の漁民に学んだようです。
そして、讃岐にも鯛網漁はしだいに普及していきます。
大槌島と香西浦の間にある榎股や大槌島と小与島の間の中住の瀬という漁場は鯛網の良漁場として知られるようになります。

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 香西 漁民は初めは紀州のやりかたを学んだ

 榎股で鯛網を行ったのは主として香西の漁民でした。
土庄の笠井家文書によると、天和三年(一六八三)という時期に香西の利兵衛という漁師が土庄沖での鯛網を願い出て請け負わせてもらっています。香西漁民は、小豆島近海に出漁して紀州のやりかたを学んだのではないでしょうか。
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高松市生島沖の榎股は、全国に知られる鯛の漁場に

それから100年ほど後に刊行された「日本山海名産図会」には讃州榎股の鯛網が紹介されて、「明石鯛・淡路鯛よりたくさん捕れる」と書かています。
榎股というの高松市生島沖の海です。ここが全国的な鯛の漁場として有名になります。紀州網の入漁から数えると200年たっています。
この間に讃岐の漁民は鯛大網の漁法をマスターし、そのトップランナーに成長していたと分かります。同時に、鯛の好漁場をめぐる漁場の対立が頻繁に起こるようになってくるのです。

参考史料 千葉幸伸 讃岐の漁業史について 香川県立文書館紀要創刊号

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阿賀港を歩いていると、魚市場に続く倉庫の中にこんな船があるのを見つけました。地元の神社の祭りの時に使う祭礼用の御船だろうと思って聞いてみると、宮島の厳島神社の管弦祭に使われる漕船だといいます。
最初はにわかに信じられず「こんな遠くからなんで宮島まで?」という疑問が強く残りました。
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少し調べてみると、管弦祭の漕船は近世からは広島市江波と呉市阿賀が奉仕し、御船は倉橋島から奉納しているということが分かりました。
これは、やはり管弦祭用の漕船のようです。
調べて行く内に次のような事が分かってきました。
   
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管弦祭に参加するのは男性45人と賄い女性5人です。

男性45人は漕船二艘(六丁櫓)を漕ぐ加子が24人と交代要員2、3人、太鼓が2人、サイフリ4人、サイフリの付き添い4人、あとは役員です。
1958(昭和33)年ごろまでは阿賀の奉仕は、東・西・中・延崎町の地区が毎年交代でおこなっていました。漕船も地区ごとに漁船をだし、漕船をつとめた船は「マンがいい」と漁師から喜ばれました。
それが、漁業者の減少や経費負担が大きく、地区では負担しきれなくなります。
そこで漁業組合が奉仕者の募集などをおこない、経費の一部は厳島神社が補助するような形になりました。漕船も旧来の木造船の網船がなくなり、一時は機械船を改造して使った事もあります。そこで、1960年からは専用の漕船をつくりました。現在の者は、1998年に新造した二代目の船です。
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 阿賀では二日前の朝から漕船を飾りつけ、夕方オシナラシ(練習)をしたあと、下潮に乗って宮島の荒胡子に着きます。仮眠したあと漁民がもっとも信仰する長浜神社に参り、満潮になって大鳥居がくぐれるようになってから社殿に入ります。長浜神社は現在の宮島中学校の近くにある神社で、ここにも海に朱色の鳥居が建っています。

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もう一艘の江波の漕船は当日の午前中に到着します。
御試しで御船を曳き、御分霊を運ぶ鳳簾を担いだり道具を持つのも阿賀の人びとです。漕ぎ船に係わる阿賀の人たちは、前々日から家族連れで来て、社殿を宿泊・詰所・調理場として利用します。

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 昔は各漁港から漁民が自分たちの漁船に大漁旗を掲げて管弦祭の時には参拝に訪れました。多いときには千艘を越える漁船が大鳥居の建つ遠浅の御笠浜を中心に船をつけ、参拝船が多いため幾重にも連なって船を係留しました。潮がひくとアサリを掘り、汁の実や寿司に入れて食べるのが楽しみだったそうです。
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 親からは、たとえ下駄の砂でも宮島から持ち帰ってはならないと教えられ、下駄を海水で洗って砂を落としました。アサリも持ち帰らなかったといいます。
厳島神社に古い御札を返し、御祈祷をうけて新しい御札をうけ、そのあとで渋団扇や杓文字、糠飴などを土産に買います。不幸事で管弦祭に参れなかった漁民は、四十九日が済むと、日を改めて参拝しました。
 しかし、現在では管弦祭に漁船の姿は見えません。はるか遠い昔の光景となったようです。
ちなみに阿賀港は漁港とだけでなく鰯網やそのほかの網道具の製造地としても知られていました。ここで作られた網や漁具が瀬戸内海の西部の漁民達に使われたいたようです。



家船漁民の金比羅信仰       家船と一本釣り漁民の参拝

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金毘羅山の秋の大祭は毎年10月10日に開かれるので「おとうかさん」と、呼ばれて親しまれてきました。今から200年ほど前に表された『金毘羅山名所図絵』には春と秋(大祭)への漁民の参拝が次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる 
意訳すると
塩飽の漁師は、丸亀沖で船を住み家として、夫は魚を捕り、妻は魚を入れた籠を頭にいただき、丸亀城下町で行商を行う。その売り上げで、米酒薪から絹布に至るまで市で買い求めて船に帰る

塩飽は金毘羅沖合いの塩飽諸島をさし、近世には西廻り航路、東廻り航路などで船主や船乗りとして活躍し、金比羅信仰を広める原動力となりました。しかし、塩飽は人名の島で漁業権はありますが、漁民は家船の人びとが定住する江戸時代末までいませんでした。ここで作者が「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師ではありません。これは当時、塩飽沿岸で小網漁をしていた広島県三原市幸崎町能地を親村とする家船の人びとをさします。
 彼らが「船をすみかとし」て漁を行い、丸亀城下で行商を行っていたのです。

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江戸時代の瀬戸内漁民にとって、商品価値の高い魚はタイ

扨毎年三月、金山の桜鯛を初漁すれは、船ことにこれを金毘羅山へ初穂とて献す。其日は漁師も大勢打つとひて御山にのぼり、神前に參りて後、いつこにもあれ卸神領の内の上を掘りつつみて帰る。これを御贅の鯛といふ。
意訳すると
毎年3月になりあ、初物の桜鯛があがると船毎に金毘羅さんへの初穂として献上した。その日は漁師達が大勢揃ってお山に参拝し、神前にお参りした後に、神域の山で掘った土を包んで持ち帰った。これを御贅の鯛と呼んだ
備後の沼名前神社の祇園祭りが、鞆沖での鯛網漁の終了直後にあたっていたのも偶然ではありません。塩飽諸島周辺にも桜が咲くころ、タイが紀伊水道を通って産卵に集まりました。第二次世界大戦前までタイの一本釣り漁師は、ウオジマイキといって瀬戸内各地から塩飽諸島周辺に集まってきました。彼らが金毘羅さんに奉納したの桜鯛は「御贅の鯛」と呼ばれました。
 芸予からやってきた漁民は船住まいしながらタイを釣り、海上で仲買船にタイを売ります。そして次第に、近くの民家を船宿にして風呂や水や薪の世話を頼んだりする者も現れます。

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10月10日の大祭は、男女の出会いの場

又十月十日には、此多くの漁船の男女ことぐく陸にのほり、金毘羅大権現へ参詣をし、さて夜に入ってかえるとて、つねに相おもふ男女たかひに相ひきて、丸亀の城下福嶋と云る所の小路軒の下なとに新枕し、夫婦と成て後おのれおのれか船につれてかえる。
意訳すると
 10月10日の大祭の日には、多くの漁船の男女が金毘羅大権現にお参りした。夜になって帰る時には、それぞれ惹かれあった男女が一緒になって、丸亀城下の福島町の旅籠で一夜を過ごし、夫婦となって、自分たちの船に帰っていく。

金毘羅大権現の秋の大祭は「漁船の男女がことごとく陸に上がり」金毘羅山へおまいりしたとあります。金毘羅さんは、彼らの「婚活パーティー」の場でもあったようです。夜になって帰るときには、それぞれパートナーを見つけて丸亀城下の福島の小宿屋で「新枕し、夫婦」となり、翌朝にはそれぞれの船に帰りました。そして鯛の漁期が終わると、故郷に連れて帰り新婦として紹介したのです。

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 金毘羅山は基盤をもたない家船に乗る若い男女の出会いの場でもありました。
瀬戸内地域では農民と漁民の婚姻は難しく、家船漁民は社会的基盤が弱かったのです。その中で金毘羅さんの大祭は家船漁民の社会生活を支え、交流をはかる機会だったのです。金比羅信仰にはこんな側面もあったようです。
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絵図から探る200年前の瀬戸内海の港 宇多津

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「宇多津街道図」で、宇多津町の法華宗寺院本妙寺に伝わる絵図です。宇多津西部の町並みが海側から鳥瞰するように描かれてています。とは言っても、二百年前の作品で見たとおり退色が進み、何が書いてあるか分からない状態です。もとは衝立であったのが、その後に巻いた状態で保管されていたのでしょう。
 画面向かって右下に、「東埜原民馨」の署名があり江戸時代後期の讃岐の絵師、大原東野が描いたものであることがわかります。近世後期の宇多津を描いた貴重な絵画作品として、宇多津町指定有形文化財に指定されています。 
 200年前の宇多津の街並み散歩に出かけましょう
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 先ほどの絵図を香川県歴史博物館が調査のために描き起こした写真です。手前に、宇多津の北に広がる海が描かれます。画面向かって右中央には、鳥居から続く階段とやや高くなった岩山の上に神社が見えます。これが宇夫階神社です。鳥居を抜けて階段を登ると隨神門があり、その奥に本社の屋根が見えます。
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本社の横には、宇多津の海を見渡す位置に高松藩の遠見番所が描かれ、また隨神門の左横には神宮寺と思われる建物が見えます。階段下の鳥居の脇には一対の常夜燈が描かれています。これは現在も宇夫階神社の境内にある文政10年(1827)9月の建立銘文をもつ常夜燈でしょう。この絵が描かれたときには建立されたばかりでした。
 宇夫階神社の大きな鳥居のすぐ左横には、秋葉社の鳥居と階段らしきものが描かれています。その前から西町を通って東にのびる丸亀街道には、荷を担いて行き交う人々の姿が見えます。宇夫階神社の北側には、すぐそばまで海が迫っていることが分かります。神社の崖下を丸亀街道が通っています。
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 宇夫階神社の鳥居に帰ります。
そこから東に向かうと街道の中ほどから、本妙寺へと続く参道が上に伸びています。その角には元禄年間(1799)に建立された石碑が描かれています。現在、この石碑は参道の西側に場所を移しています。本妙寺は、他の建造物に比べると本堂の屋根の形などが比較的詳しく描写されています。 
 本妙寺の東には、郷照寺の塀や建物と、画面左端から続く参道が描かれます。
本妙寺と郷照寺の参道口の中ほどに、鳥居のような建造物と小さな祠のようなものが見えますが、これは現在も浄泉寺前にある祠と石造物を表したものでしょう。
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その西隣りに描かれた四角形の台が描写されています。
しかし、現在はこれに相当する建造物は見当たらないようです。上の絵図は江戸時代後期にまとめられた「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」に収められた挿絵「郷照寺 浄泉寺」です。ここには、郷照寺の下の街道沿いにこの四角形の台が描かれ「御旅所」と記されています。その位置から考えて、宇夫階神社の御旅所でしょう。しかし、現在では宇夫階神社の御旅所は田町神事場と聖通寺神事場で、それ以外で町の中に御旅所があったという話は伝わっていません。
再び宇夫階神社前に戻って画面を見てみましょう。
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鳥居の前から画面右下に向かって横町の街道がのび、浜町の街道と交わります。その交差点ある方形の堂宇は、「讃岐国名勝図会 後編(稿本)」の挿絵「宗夫階社 神宮寺 秋葉社 神石社」によると釈迦堂です。そして道向こうにある長い屋根の建造物は十王堂です。
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その海側には方形をした池の中央に祠のある亀石神社が見え、掘割とつながる導入溝も描かれています。現在ではこの周辺は埋め立てられ、中央公園や小学校が建っていますが、当時は亀石神社から海側にのびる地が砂州となっています。この時期は石垣などで整備されていない様子がうかがわれます。
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 東西にのびる浜町の街道には町屋が並び、往来する人々の姿が見えます。また、西町と浜町に挟まれた幸町付近は、家屋などのない低地であったことが知られていますが、この絵でも植物の茂みのような表現が見られるだけで、自然状態の利用されていない土地であったようです。
最後に、浜町から北の海側に広がる区画を見てみましょう。
 海に突き出た堤防に沿って十八世紀中ごろから開発が始まった古浜塩田が見えます。堤防の根元には、海水を煮詰めるための釜屋らしき建物が見え、その横には、木々に囲まれた蛭子神社と鳥居が見えます。塩田の周囲は石を積んで護岸されており、掘割の入口には目印となる燈篭が見えます。周辺には、掘割の中も含めて数艘の船が行き来する様が描かれており、港町として賑わっていた宇多津の様子が描かれています。さて、この絵を描いたのは誰なのでしょうか?
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作者は、大阪から琴平に移り住んだ大原東野です。 
明和八年(1772)奈良に生まれ、後に大阪に住み画家となります。文政2年(1819)6月に、息子の萬年とともに讃岐を訪れ、金毘羅の参詣道を修造するために「象頭山行程修造之記」を著します。これは、丸亀から金毘羅に至る街道の現状を嘆いた東野が、施主の求めに応じて扇面から屏風まで様々な絵画を制作し、その代金を街道修繕の工賃にあてるというもので、木版刷りで広く配ったようです。その後、大阪に帰らずに苗田村(現琴平町)の丸亀街道沿いに家を構え、石津亮澄著「金毘羅山名勝図会」の挿絵を手がけた以外にも、数多くの花鳥、人物図などを描きました。
 画家としての東野は人物図を得意としましたが、「金毘羅山名勝図会」などの景観図を描く技術と経験も充分に備えていました。さらに、讃岐の琴平に移り住み、宇多津のことを充分に知り、その地形の特徴を把握したうえでこの作品に取り組んだと考えられます。11年(1840)に没しました。各種の藤を育てていたという寓居は「藤の棚」と呼ばれ、今も地名にその名が残っています。   

制作目的と制作年代は?

 描かれている範囲が町全体ではなく、宇多津西部の景観に限定されている理由は何でしょう。
 
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この絵には見るものの目線を画面の主題へと自然に導く構図の工夫があるようです。私たちの目線は、まず手前に広がる海から、掘割を通って宇多津の町に向かいます。そして横町、西町と街道をたどって進み、中ほどで掘割と平行するようにのびる参道を登って本妙寺に至ります。意識しなくても、大きな水路や道をたどれば、画面中央に描かれた本妙寺に自然に辿り着くという工夫です。しかし、本妙寺は特に強調して描かれることもなく、あくまでも周囲の景観にとけこむように表されています。ここからこの絵の主題は、本妙寺ではあっても、宇多津の町に一体化した佇まいをみせる寺の姿を描くことにあったのではないでしょうか。海から宇多津を訪れた人や、街道を行く人々には、青ノ山を背に、町並みから一段高く位置する本妙寺が、この絵のように見えたのでしょう。 
 景観年代については、宇夫階神社の鳥居横に描かれる常夜燈を現存のものとみれば、文政10年(1827)建立以降と考えられます。また作者の大原東野は天保11年(1840)に没していますので、それまでの制作されたことになります。いずれにしても、街道が整えられ、船も人も行きかう二百年前の宇多津を描いた貴重な絵画作品といえます。
 以上のように、日常的風景の中に本妙寺を中心として成立する宇多津の景観を描く工夫が織り込まれている点を考えると本妙寺の依頼によって描かれた可能性が高くなります。そして当初は、衝立のような複数の人と鑑賞を共有できる画面に、風景として本妙寺の姿を表現してみせたのがこの絵ではないでしょうか。
「香川県宇多æ´\ 本妙寺」の画像検索結果

 参考史料 松岡明子 近世の宇多津を描いた景観図

 中世の道隆寺は、どんな場所にあったのか。

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中世の道隆寺周辺には多度津と堀江津という二つの港がありました。

道隆寺が管理した堀江津について
 中世の地形復元地図を見ると金倉川河口の西側海浜部には、現在の中津万象園から砂州が西側に伸びていたことが分かります。そして現在の桃陵公園の下からは、東に砂堆が伸びています。この砂堆と砂州の間が海に開いている所が堀江津になります。その背後には潟(ラグーン)が広がり、入江を形成しています。この入江の奥に位置にあったのが道隆寺であり、船着場として好適な場所でした。道隆寺は堀江津に近く、港をおさえる位置にあり、塩飽の島々と活発な交流を行っていました。堀江津の港湾管理センターの役割を道隆寺は果たしていたと研究者は考えているようです。
「塩飽諸島 航空写真」の画像検索結果
  道隆寺の海への進出とは、どんなものだったのでしょうか

中世の道隆寺明王院は、周辺寺社の指導管理センターでもあったようです。この寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

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道隆寺明王院の周辺寺社へ関与一覧表
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると白方方面から庄内半島にかけて海浜部、さらに塩飽の島々へと広く活動を展開していたことが分かります。たとえば
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明一四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には道隆寺明王院について、次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院より執行仕来候」
意訳変換しておくと
「古来より門下の寺院や堂舎の供養、並びに門末支配の神社遷宮などにの導師は、全て道隆寺明王院が執行してきた


ここからは、中世以来の本末関係にもとづいて堂供養や神社遷宮が近世になっても道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力はの多度津周辺に留まらず、三野郡や瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。  
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道隆寺大門

 道隆寺は塩飽諸島と深いつながりが見られます。

永正一四年(1517)立石嶋阿弥陀院神光寺入仏開眼供養
享禄三年 (1530)高見嶋(高見島)善福寺の堂供養
弘治二年 (1556)塩飽荘(本島)尊師堂供養について、
塩飽諸島の島々の寺院の開眼供養なども道隆寺明王院主が導師を務めていて、その供養の際の願文が残っています。海浜部や塩飽の寺院は、供養導師として道隆寺僧を招く一方、道隆寺の法会にも結集しました。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には
「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」
と記されています。つまり、道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。

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道隆寺本堂
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
また、影響下に置いた塩飽諸島は古代以来、人と物が移動する海のハイウエー備讃瀬戸地域におけるサービスエリア的なそんざいでした。そこに幾つもの末寺を持つと言うことは、アンテナショップをサービスエリアの中にいくつも持っていたとも言えます。情報収集や僧侶の移動・交流にとっては非常に有利なロケーションであったのです。こうして、この寺は広域な信仰圈に支えられて、中讃地区における当地域の有力寺院へと成長していきます。
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道隆寺本堂内
金蔵寺と海との関係は?
金蔵寺は天台宗寺門派の寺院で、円珍の誕生址と伝える古刹です。
金倉川の西側、道隆寺よりもやや上流に位置し善通寺にもほど近い場所にあります。戦国前期頃と推定される次の文書が金蔵寺と港湾都市との関わりを考えるヒントになります。  
諸津へ寺修造時要却引附 金蔵寺
当寺大破候間、修造仕候、如先例之拾貫文預御合力候者、
  可為祝著候、恐々謹言、先規之引附
      宇足津 十貫
      多度津 五貫
      堀江  三貫
これによれば金蔵寺が大嵐で大破した際、宇多津・多度津・堀江に修造費の負担を依頼しています。寄付金額がそのまま、この時代の3つの港湾都市の経済力を物語っているのかもしれません。ここで不思議に思うのは、
どうして、内陸部にある金蔵寺が3つの港湾都市に援助を求めたのでしょうか?
なんらかのつながりがあって、金蔵寺の寄付依頼に応える条件が満たされていたからでしょうが、それは今の私には見えてきません。
 道隆寺には、応永六年(1399)に宇多津の富豪とみられる沙弥宗徳が田地を寄進しています。宇多津の有力者の信仰を集める何かが金蔵寺にはあったのでしょう。
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道隆寺伽藍

 道隆寺は鎌倉末期に復興し寺院体制を整備していきます。
これには紀伊国根来ゆかりの円信の役割が大きかったようです。道隆寺は海に開かれた寺院という特性を生かして、根来とのつながりを保持していきます。
 同時に、港をおさえる位置にあった道隆寺は海運を通じて宗教活動を展開し、塩飽諸島の寺院を末寺に置き広域な信仰圈を形成します。海に開かれた寺院に成長していったのです。そこには真言密教に関わる修験者の活動が垣間見えるように思います。周辺には塩飽本島を通じて岡山倉敷の五流修験者の流れや、醍醐寺の理源の流れが宇多津の聖通寺には及んでいます。その流れがこの寺にも影響をあたえていたと私は思っています。

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道隆寺伽藍

 道隆寺は談義所でもあり、南北朝期には談義所相互のネットワークのなかにいました。付近の金蔵寺も談義所であり、この地域は善通寺への参詣者をはじめ、談義所を訪れる学僧や聖などさまざまな人びとが往来します。ある意味、大宗教ゾーンを形成していたのです。
 今の道隆寺の境内には、海とのつながりを連想させる物はなにもありません。時代の流れと共に、海は遠く遙かに去ってしまいました。しかし、この境内は海とのつながりによって形成されてきた歴史を持ちます。
「道隆寺 多度æ´\」の画像検索結果

参考史料 上野進 海に開かれた中世寺院 
       香川県歴史博物館 調査研究報告三巻
関連記事

  「大窪密寺記」、「大窪寺記録」による寺史復元の成果は?

この寺の歴史について中世文書が残っていないため、よく分かっていないことが多いのです。その中で2007年に香川県歴史博物館から調査報告書が出され、寺に残る「大窪密寺記」「大窪寺記録」を基に寺史復元が行われています。その成果をまとめてみると・・・。
縁起は行基が開山してその後、弘法大師が中興したというありきたりのものになっています。中世については文書はありませんが、鎌倉時代末~室町時代の瓦などの遺物が寺域から出土しており、中世におけるこの寺の存在を示しています。
「大窪寺」の画像検索結果

本尊は ホラ貝を持ったお薬師さんで飛鳥・天平様式

 本尊の弘法大師作とされる薬師如来坐像は、飛鳥・天平様式を持ち、平安時代前期のものとされ県の指定になりました。普通、薬師如来は薬壷を持つものですが、ここのお薬師さんは、法螺貝を持っています。これはこの寺の由来を考える際のヒントになります。ホラ貝は修験者の持ち物です。修験の本尊にふさわしく、病難災厄を吹き払う意昧をこめたものだとおもわれます。同時に、この寺の大師信仰よりも古い、修験道・山岳宗教との関わりをうかがわせます。
 さらに寺宝の弘法大師伝来という鉄錫杖が平安時代初期のものであることが判明し、この寺の平安時代初期の建立の可能性が出てきました。

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  近世になると秀吉政権下で讃岐一国を領した生駒氏は
殊に神を尊び仏を敬い、古伝の寺社領を補い、新地をも奇符(寄付)し、長宗我部焼失の場を造栄して、いよいよ太平の基願う」(「生駒記」)
というように、旧寺社の復興、菩提寺法泉寺の創建などに力を注ぎます。こうして、生駒親正は入国直後に次の寺院を「讃岐十五箇院」に選定し、真言宗古刹の保護に努めます。
①虚空蔵院与田寺(東かがわ市中筋)、
②宝蔵院極楽寺(さぬき市長尾束)、
③遍照光院弘憲寺(高松市)、
④地蔵院香西寺(高松市)、
⑤無量寿院隋願寺(高松市)、
⑥千手院国分寺(高松市国分寺町)、
⑦洞林院白峰寺(坂出市)、
⑧宝光院聖通寺(綾歌郡宇多津町)、
⑨明王院道隆寺(仲多度郡多度津町)
⑩覚城院不動護国寺(三豊市仁尾町)、
⑪威徳院勝蔵寺三豊市高瀬町)、
⑫持宝院本山寺(三豊市豊中町)、
⑬延命院勝楽寺(三豊市豊中町)、
⑭伊舎那院如意輪寺(三豊市財田町)、
⑮地蔵院萩原寺(観音寺市大野原町)
 生駒氏転封後の高松・丸亀藩に分けると、⑧までが高松藩領寺院となります。これにニケ寺を加え松平藩時代に「十ケ寺」保護制度が整ったようです。大窪寺の寺格は、この「十ケ寺」の次席という格式であったと伝わります。

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荒廃した大窪寺を復興したのは、高松藩祖松平頼重

荒廃した大窪寺を復興したのは、水戸光圀の兄で水戸藩からやってきた高松藩祖松平頼重です。頼重の肝煎りで、本堂・鎮守社・弁天宮・二王門が姿を現します。頼重は同時期に、根香寺・志度寺・八栗寺など八十八ヵ所霊場の寺院復興を行っています。さらに頼重は、寺領十石に加え新開地十五石を寄進するなど厚い保護を行ったことが寺領寄進(安堵)状に書き留められています。藩祖に習って以後も高松藩は手厚い保護を行っていたことが資料から分かります。
「四国霊場大窪寺 本尊薬師座像」の画像検索結果
 
大窪寺は、頼重の時代(寛永~延宝期)までに京都・大覚寺末となっていたようで、現在でも真言宗大覚寺派に属します。本寺の大覚寺からは、寛政六年(1794))菊御紋の提灯・幕などを下賜されており、特別な処遇であったことがわかります。

  大窪寺の弘法大師坐像を解体修理したところ、面部裏から
「大仏師かまた喜内、京あやのかうち、東之とい北へ入る」
の墨書銘が発見されました。
その結果、この座像が江戸時代中期に京都の仏師鎌田喜内によって作られたことが分かりました。彼は三豊市の本山寺の愛染明王坐像(平安時代・県指定有形文化財)を修理し、同寺の十王・倶生神像を見積もった仏師でもあります。江戸時代の本山寺と大窪寺はともに大覚寺の末寺であり(本山寺は現在高野山真言宗)、同じ宗派の寺院と京仏師の関係が見えてきました。
 
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 明治33年(1900)5月9日、本堂脇から出火し、本堂・大師堂・阿弥陀堂・薬師堂などを全焼し、徳川光圀寄進法華経(自筆箱書阿弥陀経か)・鷹司右大臣寄進医王山額など多くの什物が焼失しました。このため、中世以前の古文書・古記録はありません。
 しかし、兵火・大火をくぐり抜けてきた、弘法大師ゆかりと伝わる本尊・錫杖が、遺された江戸時代の古記録から、藩主をはじめ、数多の人々の信仰を集める寺宝であったことがわかってきました。また、藩主一族や嵯峨御所(大覚寺)からの寄進物の存在は、当寺の格の高さを示しています。

参考史料 胡光 大窪寺の文物 香川県歴史博物館調査報告 第三号

仁尾浦 賀茂神社の「神人」とは何者なの?イメージ 1


  仁尾沖の燧灘に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進しました。 荘園になると、荘園領主と同じ神社を荘園に勧進するのが当時の習わしでした。こうして、応徳元年(1084)に山城国賀茂大明神(現在の上賀茂神社)の分霊が蔦島に勧進されます。これが現在の大蔦島の元宮(沖津の宮)です。今でも賀茂神社の秋祭りの際には、祭礼を取り仕切る年寄・頭人がここに参拝しています。
 そして14世紀半ばに、対岸の仁尾の現在地に移されます。

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  京都賀茂社の神人(じにん)として活躍する仁尾浦の住人

 やがて仁尾浦の住人が京都賀茂社の神人(じにん)として社役を奉仕するようになります。神人とはいったいどんな人たちなのでしょうか。神人は、特別の権威や「特権」を持ち、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。そして、仁尾浦は海上交易の活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地として発展していくことになります。
 このように仁尾は、賀茂神社に奉仕する人々を中核として浦が形成されていきました。
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赤米の積み出し港 仁尾浦

中世の仁尾は賀茂神社に奉仕する神人と称する人々によって「浦」が形成されます。浦とは、海に従事する人々の海辺集落で、漁業・海運の拠点だけでなく、農林・商工業製品移出入の地でもありました。
周辺からいろいろなな物資が集められ積み出されました。その中で注目するのが赤米です。
 赤米とは鎌倉時代から室町時代にかけて大陸からもたらされた米で、低湿地や荒野でも栽培が可能でした。そのため多くの地域で栽培されるようになります。特に塩害のあった三野地域では、国内で最も早くから栽培されていたようです。讃岐の港から赤米が積み出されていたことが資料からも分かりますが、仁尾からの積出量が最も多く、西讃地方の特産物であったようです。
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公的な警備活動にも従事した仁尾浦の神人たち

室町時代に讃岐の守護であった細川氏は、応永二七年(1420)朝鮮回礼使宋希憬の帰国の際に、その護送のために兵船を出すよう仁尾浦に指示を出しています。
また永享六年(1434)遣明船が帰国した時に、燧灘を航行する船の警護のため仁尾浦から警護船を徴発しています。このように、仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、時には兵船御用を努めたり警護船を出すなど公的な任務にも従事していました。賀茂神社は信仰の対象だけでなく、神人を統括する役割を果たす存在でもありました。
    覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』には、永享二年(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が見えます。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」とあり、
当時の仁尾浦に、五〇〇~六〇〇の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。
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「千石船見たけりや仁尾に行け」

 仁尾は、後ろは三方を山に囲まれ、前は海で、大蔦島、小蔦島、磯菜島(天神山)の三島が天然の暴風波堤として、港を守ってくれる良港でした。15世紀には細川氏の軍事基地ともなり、また賀茂神社に綿座がおかれたことから、同神社を中心に各地から商人が集まって市が開かれました。そこでは、あらゆる農産物・海産物等が売買され繁栄しました。
 近世になって、これらの産物は、天然の良港の仁尾より仁尾商人の手によって瀬戸内海沿岸や讃岐各地に販売され、仁尾の繁栄につながっていきます。たとえば、塩を必要とした土佐北部山分の地方で生産されていた土佐茶(碁石茶が大半)と、瀬戸内内地方特産の塩との交換が仁尾商人によって行われ、土佐茶の売買が発展していきます。 
 江戸時代の港町仁尾は、醸造業・魚問屋・肥料問屋・茶問屋・綿總糸所・両替商などの大店が軒を連ね、近郷・近在の人々が日用品から冠婚葬祭用品に至るまで「仁尾買物」として盛んに人々が往来しました。港には多度津・丸亀・高松方面や対岸の備後鞘・尾道などにまで物資を集散する大型船が出入りして「千石船見たけりや仁保(仁尾)に行け」とまでうたわれました。
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近世期の仁尾港の状況は、どうだったのでしょうか。

それを考える上で重要な地名は、賀茂神社の北側に残る「大浜」です。この神社付近は磯菜島の島影になり、仁尾浦の中でも最も風波が穏やかなところと言われます。仁尾浦の港湾の中心となっていたのは、この神社周辺のではないでしょうか。
弘化四年刊行の『金毘羅参詣名所図絵』所収の「仁保ノ湊」に、まだ防波堤は描かれていませんが、仁尾町宿入に残存している「金毘羅燈寵」は描かれています。この燈龍は、湊への出入りで灯台的役割を果たしていた物で、この北側には丸亀藩船番所がありました。
 そのため賀茂神社の西側に近世期の港があったと考えられます。
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土佐藩参勤交代の瀬戸内海側の出発港でもあった 仁尾港

仁尾港が、西讃岐を代表する港町であったことは、流通面だけではありません。 土佐藩主の参勤交代は、江戸中期以後は「北山越え」がのメインルートとなります。これは、現在の高速道路の笹ヶ峰から伊予新宮を経るルートで、仁尾港から瀬戸内海へスタートすることが多くなります。
 仁尾を出航した例として、八代豊数の時のルートを紹介すると。
豊数は宝暦11年(1762)1月5日に高知城を出発し、4月6日に江戸に到着しています。その間、3月10日朝、川之江を駕寵で出発し、姫浜で休息、夜8時過ぎに仁尾に到着し、本陣の塩田長右衛門宅に入りました。
 翌日朝5時、仁尾から乗船し9時前に出港、箱之三崎まで漕ぎ出し、そこから帆走して暮れ頃に与島、8時に対岸の出崎(岡山県玉野市)に到着しています。翌日は室津(兵庫県たつの市御津町)に上陸し、その後は山陽道を陸路で江戸に向かっています。
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 この時には、土佐藩丸亀京極家の御船住吉丸など五艘を借用しています。ここからも、仁尾湊の重要性が分かります。また操船方法として、箱浦の三崎まで漕ぎ出し、潮流などを考慮して四国を離れています。庄内八浦の一つである箱浦及び三崎が操船上の重要ポイントであったことを推察させます。これは、幕末期に丸亀藩によって海防のため三崎砲台が設置されることと相通じるのかもしれません。

参考史料 三豊市教育委員会 近世の三豊
 

  
  
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安楽寺山門(赤門)美馬市
 徳島県の美馬市郡里は、吉野川北岸の河岸段丘の上に早くから開けた所です。
古墳時代には、吉野川の綠岩を積み重ねた横穴石室を持つ国指定の「段の塚山」古墳。そして、その系譜を引く首長によって造営されたと思われる郡里廃寺跡(国指定)の遺跡をたどることが出来ます。
 その段丘の先端に地元人たちから「赤門寺」と親しみを込めて呼ばれているお寺があります。安楽寺です。この寺は元々は天台宗寺院としてとして開かれました。宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠が、境内の西北隅に残されています。

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安楽寺の赤門
真宗に改宗されるのは、東国から落ちのびてきた元武士たちの手によります。
その経緯は、1247年(宝治元年)に、上総(千葉県)の守護・千葉常隆の孫彦太郎が、対立していた幕府の執権北条時頼と争い敗れます。彦太郎は討ち手を逃れて、上総の真仏上人(親鸞聖人の高弟)のもとで出家します。そして、阿波守護であった縁族(大おじ広常の女婿)の小笠原長清を頼って阿波にやってきてます。その後、安楽寺を任された際に、真宗寺院に転宗したようです。長清の子長房から梵鐘と寺領100貫文が寄進されます。15世紀になると、蓮如上人の本願寺の傘下に入り、美馬を中心に信徒を拡大し、吉野川の上流へ教線を拡大させます。

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安楽寺の親鸞像
安楽寺火災後に、讃岐に「亡命」し宝光寺を建てた背景は?

ところが、永正12年(1515)に寺の危機が訪れます。寺の歴史には次のように記されています。
永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」
 ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜ伝来地に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか?
伝来の場所を離れたのは、そうせざるえない事情があったからではないでしょうか。ただの火災でなく、周辺武士団による焼き討ち追放ではなかったのでしょうか。
2013年11月 : 四国観光スポットblog
三豊市財田 宝光寺(安楽寺の亡命先だった)

後の安堵状の内容からすると、諸権利を巡ってこの地を管轄する武士団との間に対立があった事がうかがえます。あるいは、高越山や箸蔵寺を拠点とする真言系の修験道集団等からの真宗への宗教的・経済的な迫害があったのかもしれません。それに対して、安楽寺の取った方策が「逃散」的な「一時退避」行動ではなかったと私は考えています。
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安楽寺本堂と親鸞・蓮如像
 その際に、寺だけが「移動」したのではないでしょう。
一向門徒の性格からして、多くの信徒も寺と共に「逃散」したはずです。寺をあげての大規模な逃散。この時代は、平和な江戸時代と異なり、土地は余剰気味で労働力が不足した時代です。安楽寺の取った逃散という実力行使は、領主にとっては大きな打撃となったはずです。


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安楽寺山門と松
なぜ、讃岐山脈の向こうの山里に避難したのか。

私は、そこにすでに有力信徒がいたからと考えています。
背景には、阿波から讃岐への「人口流出」があります。讃岐側のソラの集落は、阿波からの人たちによって開かれました。そして時代と共に、山沿いや、その裾野への開墾・開発事業を進め「阿波コロニー」を形成していきます。
 そこへ、故郷阿波から真宗宣教師団が亡命して来て、新たな寺院を開いたのです。箸蔵街道の讃岐側の入口になる財田側の登口に位置する荒戸に「亡命避難センター」としての「宝光寺」が建立されます。その設立の経過からこの寺は、阿讃両国に信徒を抱える寺となります。

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安楽寺本堂の屋根瓦
本寺興正寺の斡旋で美馬への帰郷成功

 同時に、安楽寺は本寺の興正寺を通じて阿波領主である三好氏への斡旋・調定を依頼する政治工作を行います。その結果、5年後の永正十七年(1520)に、三好千熊丸(元長または 長慶)の召還状が出され、郡里に帰住することができました。それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」と題された文書です。
興正寺殿被仰子細候、然上者早々還住候て、如前々可有堪忍候、諸公事等之儀、指世中候、若違乱申方候ハゝ、則可有注進候、可加成敗候、恐々謹言‐、
永正十七年十二月十八日                                  三好千熊九
郡里安楽寺
意訳変換しておくと
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに成敗を加える
郡里への帰還の許可と、諸役を免除すると記されています。
三好氏は阿波国の三好郡に住み、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して、畿内と四国を制圧した戦国武将です。安楽寺は領主三好氏から課役を免ぜられていたことになります。三好氏の庇護下で地元の武士団の圧迫から寺領等を守ろうとしています。

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安楽寺の屋根
この免許状は、興正寺の口添えがあって発給されたものです。

 ここでもうひとつの注目しておきたいのは文頭の「興正寺殿からの口添えがあった」という部分です。永正十七年の興正寺の住持は蓮秀上人ですので「興正寺殿」は蓮秀のことでしょう。免許状の発給のルートとしては
財田亡命中の安楽寺から興正寺の蓮秀に口添えの依頼 → 
蓮秀上人による三好千熊丸に安楽寺のことの取りなし → 
その申し入れを受けての三好千熊丸による免許状発布
という筋立てが考えられます。ここから、安楽寺の存亡に係わる危機に対して、安楽寺は本寺である興正寺を頼り、本寺の興正寺は末寺の安楽寺を保護していることが分かります。
 それとともに、三好氏が蓮秀の申し入れを聞きいれていることから、興正寺の社会的な地位と政治力をうかがい知ることも出来ます。同時に、安楽寺も地域社会に力をもつ存在だからこそ、三好氏も免許状を与えているのでしょう。力のない小さな道場なら、領主は免許状など与えません。
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安楽寺
「讃岐亡命」から5年後に、興正寺の斡旋で寺領安堵という条件を勝ち取っています。「三好千熊丸諸役免許状」は、安楽寺にとっては勝利宣言書でもありました。だからこそ、この文書を安楽寺は大切に保存してきたのです。 

郡里復帰後の安楽寺の使命は?  讃岐への真宗伝道

 郡里の地へ復帰し、寺の復興を進める一方、安楽寺の進むべき方向が見えてきます。それは、讃岐への真宗布教という使命です。5年間の讃岐への「逃散」と帰還という危機をくぐり抜け、信者や僧侶の団結心や宗教的情熱は高まったはずです。
 そして「亡命政権」中に讃岐財田の異郷の地で暮らし、寺の指導者達は多くのことを学んだはずです。「亡命中」の宝光寺で、教宣拡大活動をを行う一方、その地の情報や人脈も得ました。それを糧に讃岐への布教活動が本格化します。
  浄土真宗の中讃地域での寺院数が十四世紀からはじまり、十六世紀に入って急増するのは、そんな背景があるからだと私は考えています。
「徳島県 三頭越」の画像検索結果
三頭越
安楽寺から讃岐への布教ルートは、どうだったのでしょうか。
ひとつは、現在、三頭トンネルが抜けている三頭越から旧琴南へ。
2つ目は、二本杉越(樫の休み場越え)を越えて旧仲南の塩入へ、
3つめが箸蔵から二軒茶屋を越えて財田へのルートが考えられます。
 このルート沿いの讃岐側の山沿いには、勝浦の長善寺や財田の宝光寺など、真宗興正寺派の有力寺院がいまもあります。これらの寺院を前線基地にして、さらに土器川や金倉川、財田側の下流に向かって教線を伸ばして行ったようです。
DSC00879現在の長楽寺
長善寺(まんのう町勝浦)かつては安楽寺の末寺だった 

 こうして、戦国時代の末期から江戸時代にかけて安楽寺の末寺は、まんのう町から丸亀平野へとひろがります。江戸時代中期には安楽寺の支配に属する寺は、阿波21、讃岐50、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達し、四国最大の末寺を持つ真宗寺院へと発展していくのです。
四国真宗伝播 寛永3年安楽寺末寺分布
安楽寺末寺の分布図(寛永3(1626)年)

上の分布図から分かることは
①阿波は吉野川流域沿いに集中しており、東部海岸地域や南部の山岳地帯には末寺はない。
②土佐の末寺は、浦戸湾沿岸に集中している。
③讃岐の末寺が最も多く、髙松・丸亀・三豊平野に集中している。
④伊予は、讃岐に接する東予地域に2寺あるだけである。
少し推察しておくと
①については、経済的な中心地域である吉野川流域が、新参者としてやってきた真宗にとっては、最も門徒を獲得しやすかったエリアであったことが考えられます。吉野川よりも南部は、高越山を拠点とする忌部修験道(真言宗)が根強く、浸透が拒まれた可能性があります。
 阿波東部の海岸線の港も、中世は熊野からやって来た修験系真言勢力が根強かった地域です。また、このエリアには堺を拠点に本願寺の末寺が開かれていきます。安楽寺にとっては、阿波では吉野川流域しかテリトリーにできなかったようです。
②の浦戸湾一帯に道場を開いたのは、太平洋ルートで教線ラインを上してきた本願寺でした。それが伸び悩んだのを、安楽寺が末寺に繰り入れたようです。
③④については、以前にお話ししましたので省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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詫間の宮ノ下港から出港
詫間の波打八幡神社の下の宮ノ下港から船に乗り、志々島をめざします。

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船は宮ノ下港を出発して、志々島経由で粟島にいく航路を進みます。
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志々島港
波穏やかな瀬戸内海を15分足らずで志々島の港に入って行きます。
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志々島港から
港からみると家は数多くありますが、ほとんどが無住。住んでいる人がいません。
人口は二桁です。
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しかし、江戸時代から百年ほど前の大正時代にかけては、漁場と廻船業で大いに繁栄していた島でした。
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志々島の集落の路地
『瀬戸内海 志々島の話』には、こう書かれていました。

「この島は明治初年までは広範な漁場を一手にして、鯛シバリ網の本拠地となっていた。近在から多くの出稼ぎ者も集まって「金のなる島」と称された。当時この島だけで7~8統のシバリ網元があり、ひとつ80人程度の人手を要するので、この漁だけで五~六百人の人員を必要とした」
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明治三年の文書には次のように記されています。
「当嶋は漸く高五拾九石九斗六升余之処、家数百五拾軒、人数七百五拾余人相住、迪茂農業一派にては渡世成り難く、旧来漁業専一に相稼ぎ、 上は真島上より下は香田浦和田門磯辺迄の網代にお為て四季共繰網、蝶網、打瀬小職に至る迄何等子細屯御坐無く相稼ぎ、御加子、役の者勿論御菜代米物諸運上向滞り無く上納仕り」
意訳変換しておくと
 志々島は石高59石9斗6升余、家数150、人数750余人が住む、農業だけでは渡世が成りたたず、むかしから漁業をもっぱらにして相稼ぎ生活してきた。その漁場は、上は真島上より下は香田浦和田門磯辺迄の網代で、一年中、繰網、蝶網、打瀬小職になどを操業し、広い漁場に恵まれ稼ぎもあがり、御加子、役の者はもちろん、菜代米物諸運上向の物品も滞りなく上納して参りました」
ここからは、丸亀沖から詫間までの漁業権を持ち、人口は750人を越えていたとされ、大いに栄えていた島の様子がうかがえます。
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志々島の港と集落

小さな志々島が、どうして広い漁業権を持っていたのでしょうか?

 それはについては、江戸時代末期に丸亀藩の財政逼迫に対して、志々島の廻船・網元「いせや」に借り入れの申し込みがあった時のことが次のように記されています。
「藩へお金をお貸しすることはお恐れ多いことです。。御用金として上納させていただきます」

と、多額の金子を献納しました。その報償として、広範囲の漁業権を得たと言われます。
 「東瀬戸内海の漁業の中心」と言われるようになったのは、土器川河口の真島から詫間の香田浦に広範な海面の漁業権を与えられていたことが背景にあります。そして、大蛸・鯛・飯蛸の捕れた魚は、搬送船で対岸の備前や遠く淡路などへも送られました。志々島の漁業は、東瀬戸内海という広い範囲で展開していました。そして、その繁栄に引かれて多くの人たちが海の働き手としてやってきたのです。
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島の網元であり、豪商でもあった伊勢屋(上田家)は大いに繁栄したようです。

伊勢屋は
「志々のいせやか、いせやの志々か」

と唄われたと言われ、伊勢の大夫の定宿となっていたために「伊勢屋」と呼ばれました。伊勢屋は享和期頃から船持、船問屋として活躍するとともに、組頭として志々島の地域運営に関わりました。
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志々島の八幡神社の鳥居
 この島の南に鎮座する八幡神社の拝殿内に貼付されている木札「奉納随神寄付」(文政12年)によると、一九世紀前半に
大坂雑魚場(雑喉場)の天満屋、
尼埼西町の網屋
などからの寄付奉納が、志々島の花屋、新屋などが引請世話人となって行われています。
また「明神丸」「幸丸」など廻船の船持ちの名前や伊勢屋勘蔵の名前、島の若連中の名前も見え、伊勢屋の広範囲での活動がうかがえます。
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「西讃海陸予答」には次のように記されています。
此島漁事を業とし船待を専とす。水有回船掛りよし。爛場所を好み競て寄る。
 ここには志々島の繁栄の要因が挙げられています。
①漁業の他に廻船稼ぎが盛んであること。
②廻船が立ち寄りやすい潮の流れと風と港があること。③廻船の寄港をより一層吸引する「爛場(船たで場)」があったこと。
この島は小さな島ですが、「漁業拠点+廻船拠点+潮待風待ち港+船タデ場」としていくつもの顔を持つ島として、塩飽周辺を行き交う船が寄港していたことが分かります。

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志々島の祠
志々島に到着した廻船は、伊勢屋に「御祝儀」を届けます。

 日向・播磨・肥後・伊予など、瀬戸内海を航行する各地の船が、志々島に立ち寄っています。特に「因州御手船」「伯州御手船」も見え、各藩の御用船が立ち寄っていたことも分かります。 「三日、四日逗留」したとか、「死人御座候二付世話料二被下」というように来島の祝儀の中に葬儀料が含まれたりもしています。「たて草代」つまり「船を爛でる経費」や、修理等に使用する「輪木」代金の中から、その祝儀を出している場合もあります。
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志々島の大楠
 このように、船問屋であり組頭でもあった「伊勢屋」を中心に志々島は、漁業以外に廻船業も盛んでした。瀬戸内海に浮かぶ小さな島は、瀬戸内海というハイウエイのサービスエリア的な機能を果たしていたと言えるかもしれません。
近代になり鉄道路線が整備され人の流れは大きく変わります。島に立ち寄る廻船も姿を消していったのです。
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          志々島の大楠


    

汐木山の麓の汐木湊の今昔

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詫間湾の南に、かつては甘南備山として美しいおむすび型の姿を見せていた汐木山。
今は採石のために、その「美貌」も昔のことになってしまいました。
そのふもとをあてもなく原チャリツーリングしていると・・・
河辺に大きな燈籠が見えてきました。

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燈籠大好き人間としては、燈籠に吸い付けられる俄のようなもの・・・
自然と近づいていきます。

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汐木荒魂神社の東方の馬場先に、建っているのですが場違いに大きい。約六メートル近くはありそうです。

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燈籠正面には[太平社]と刻まれています。
側面には「慶応元年乙丑六月立」、
「発願 三木久太郎光萬 福丘津右衛門秀文 世話人竹屋文吉 土佐屋武八郎 
 藤屋百太郎 汐木浜中」とあります。
刻まれた「汐木浜中」という文字が気になります。
少し「周辺調査」をすると

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こんな記念碑を見つけました。
説明板にはこう書かれてありました。
旧跡汐木港
昔この辺り、汐木山のふもと三野津湾は百石船が出入りした大干潟であった。
寛文年間(1660)頃、丸亀藩京極藩によって潮止堤が築かれ、汐木水門の外に新しく港を造った。これが汐木港である。当時藩は、御番所、運上所、浜藏(藩の米藏)を建て船の出入り多く、三野郡の物資の集積地となり北前船も寄港した。
明治からは肥料・飼料・石材を揚げ、米麦・砂糖等を積みだし、銀行商店が軒を並べたが1937年の「的場回転橋」が固定で港の歴史は終わった。ちなみに、荒魂神社の常夜灯大平社は、かつての港の灯台であった。
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先ほどの大きな燈籠は、やはりただものではなかったのです。
汐木港の灯台の役割ももっていたのです。なお、この高灯寵の位置は、現在よりも北方にあったそうです。いま燈籠があるところから北が、かつての汐木湊だったのです。今では、想像できないのですが、その頃の汐木は湊としての機能を備えていました。
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詫間の的場からさらに南まで船が遡り、現在の汐永水門のあたりに湊が築かれ、その岸壁には高灯龍、御番所(汐木番)、浜蔵(藩御用米の収納)などが建てられていました。汐木港には、吉津や比地・高瀬などから年貢米や砂糖などの物資が集まり、丸亀やその他に船で運ばれていきました。

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背後の汐木山に鎮座する汐木荒魂神社の狛犬には「天保丸亀大阪屋久蔵」などの屋号がついた十二名の丸亀の商人の名前が刻まれています。北前前などの廻船が、粟島や積浦の湊だけでなく、この汐木湊からも北海道までも産物を積み出していました。そして、北海道産の昆布や鯡などの北のの産物を積んで帰ったのです。

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汐木荒魂神社
港の背後には旧村社が鎮座しています。
戦前に旧吉津村は、青年団を中心とした運動によって汐木(塩木)荒魂神社を「讃岐十景」に当選させています。その記念碑が誇らしく建っています。「讃岐十景」を見に登ってみましょう。

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汐木荒魂神社
長い階段が待っていました。
見上げて一呼吸いきます。

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安政2年のお百度石と、陶器製の狛犬が迎えてくれました。
ここから汐木港を見守ってきたのでしょう。

昭和初期の新聞には、この港が次のように紹介されています。

  汐木の繁栄を高らかに伝える新聞記事 (香川新報)
西讃詫間の奥深く入りし高瀬川の清流注ぐ河口に古来より著名の一良港あり汐木港と云ふ。
吉津村にありて往時は三野郡一圃の玄関口として殿賑なる商港であったが海陸の設備に遠ざかりしか一時衰退せしも近時は米穀,飼料及び夙等の集散港として讃岐汐木港の名声は阪神方面に高く観音寺港を凌駕せんす勢いを示して居る。
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時の流れに、港は取り残されていきます。

 「近代」という時代の流れがこの港を呑み込んでいきます。
河口港である汐木港は水深も浅く、大きな船の入港はできません。
そして、1903年には、港の前面に塩田が築造され、幅30メートルほどの運河によって三野津湾とつながった状態になります。さらに日露戦争直前には,善通寺の陸軍第11師団により善通寺と乗船地の 1つである須田港を結ぶ道路が建設・整備され,その運河に「回転橋」が架けられました。その上に 1913年には予讃線の多度津・観音寺間が開業します。運河に架けられた橋を、料金を払って通過する必要のある汐木港は不利です。そのため省営バス路線開通に伴う的場回転橋の固定化にも目立った反対はなかったようです。

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現在,汐木集落は塩田跡地のゴルフ場や住宅地によって三野津湾から遠く隔てられています。かつて荷揚場や倉庫があった付近には新しい住宅が立ち並び,港町であった当時を偲ばせるものはほとんどありません。

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中世三野湾 復元地図

満濃池をこわした国司の物語(『今昔物語集』巻三十一より)

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昔むかし、讃岐の国のいなかに、満濃の池という、それは大きな池がありました。土地には水が少なく、満足に米もとれずに、みんなつらい暮らしをしておったとか。
 そのころ、高野山に、弘法人師さまというえらいお坊さまがおってのう、みんなのなんぎを聞いて、たいそう心をいためられたそうな。「かわいそうになあ。これでは、みんな、ごはんを食べられなくなってしまう」
 そこで弘法人師さまは、何かしてやれることはないかと知恵をしばったそうな。
「おお、そうじゃ! ひとつ、この上地に人きな池をつくってやろうか!」 思いたつと、方々から人を集めなさったと!・
 弘法人師さまのおやさしい人柄をしたって、それはもう、たくさんの人が集まってきたそうじゃ。

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こうしてできた池の大きいこと。堤も、それはそれは高く作られました。
  とても池とは思えんのう
   こりゃあ、海ではないかい
  土地の人々はみんなうわさしあったそうな。
あまりに大きくて向こう岸がぼーっとかすんではっきり見えません。みんな大喜びで大事に使うことにしました。
 それまでは、日照りが多く、田柚えどきには水不足に泣かされていましたが、この池のおかけで、どこのたんぼも、水を引くことができ、ぶじにうるおうことができたとか。
 朝廷からも、たくさんの川をつなぐ力をいただき、絶えることがなかったそうな。

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池の中には、大きいのやら、小さいのやら、いろんな魚が住んでいて、みんなどんどん魚をとっていました。でも、魚はいくらでもおったので、どれだけとってもいなくなることはありません。
あるとき、領主様が、この国の人々やら、館の人々やらをおおぜい集めて、お話をなさったとか。
 そのおりにも、満濃の池の話でもちきりだったそうな。
「なんと! 満濃の池には、いろんな魚がいっぱいおるそうじゃと!三尺の鯉でもおるじやろう」
 だれがいうたか、そのことが領主様の耳にはいってしまいました。
 「それは、ぜひとも欲しいものよ」
 領主様は思いたって、おいいつけなさった。
 「この池の魚をとる! 用意いたせ!」
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ところが、池の深いこと、深いこと。       
 下りていって網をしかけることもできぬほど。
そんならどうしたらよかろうかと、みんなで頭をひねっていたら、
 「この池の堤に大きな穴をあけよ’・
 そこから出る水の落ちるところにしかけをせよ
流れでる魚をとるのじや」
 家来衆がいうとおりにするとぱーつと勢いよく水が吹き出し、出るわ、出るわ、次々とたくさんの魚が出てきました。
 「やったあ! 大漁じゃあ」
   ところがその後、穴をふさごうとしましたがものすごい勢いで水が吹き出し、どうしてもふさぐことができません。
 そこに堤をつくり、木の樋を打ちつけ、少しずつ水を流すようにしたところ、池はそのおかげでなんとかもたせることができました。
「しかしまあ、この穴は、堤をぶちぬいてできた穴だもんな。
しかもこんなに大きい穴、大丈夫かいな」
  みんな、ほんに考えこんだそうな。
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  はたして梅雨がきて、どしゃぶりの雨がつづき、たくさんの川に水があふれ、それが全部、この池に流れこみはじめました。
さあ、たいへんです。
ゆき場のない水が、出口をもとめていっきに穴をめがけて押し寄せたのでもうたまりません。あれよあれよというまに、堤はこわれてしまい、池の水は残らず流れ出てしまいました。    
  「助けてくれ! 流される」
   おらんとこの、家も田んぼも畑も、めちゃめちゃじゃあ
  泣いても、叫んでも、もうどうにもなりません。
  みんな、何もかもなくしてしまいました。

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国の人たちは、これにすっかりこりて、池は小さく造ろうと考えました。
 そんなわけで、小さな池をなんぼでもつくったものの、池はすぐにひからびてしまい水は残りません。池のあった跡さえ、判らないようになってしまいました。
 悪いのは、なにがなんでも三尺の鯉が欲しいというたご領主様じゃ。ご領主様のせいで、あの生き仏様が、弘法大師さまが、土地の衆をかわいそうに思うて、せっか く造ってくたさった池をなくしてしもうた。ばちあたりなことはかりしれんわ。この池の崩れたことでたくさんの人が家を壊され、たんぼや畑をなくしてしまいました。
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 それもこれも、みんな、ご領主様のせいじゃ」
 だれもがそういうたとか。
 「池のなかの魚を、ちょっととりたいばっかりに、池をこわしてしまうとは、なんたるこっちや」
 [大きなむだじゃ。しょうのないご領主様じゃ]
 そう言って、みんな怒り、嘆きました。

 まあそういうことで、人間は欲張ってはいけません。
 他国の人々までも、今にいたるまで、ご領主様の悪口を言っているとか。
 その池の跡は今もまだ残っているそうな。

 『今昔物語』の舞台となった満濃池

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まずは今昔物語を見ておきましょう。
今昔物語集[平安時代後期] 巻二十本朝附仏法第十一
「龍王、天狗のために取られたる語」 の冒頭部です
 今昔、讃岐国、□□郡ニ、万能ノ池ト云フ極テ大キナル池有リ。其池ハ、弘法大師ノ、其国ノ衆生ヲ哀ツレカ為ニ築給ヘル池也。池ノ廻リ遥ニ広シテ、堤ヲ高築キ廻シタリ。池ナドヽハ不見ズシテ、海トゾ見エケリ。池ノ内底ヰ無ク深ケレバ、大小ノ魚共量無シ。亦竜ノ栖トシテゾ有ケル。
意訳変換しておくと
今は昔、讃岐国□□郡に万能の池という非常に大きな池があった。その池は、弘法大師がこの国の民衆を哀れんでお造りになった池である。池の周囲ははるかに広々としており、堤を高く築き巡らしてある。とても池には見えず、海のように見えた。池は底知れぬほど深いので、大小の魚は数知れず、また竜の住処となっていた。
全文を意訳変換したものを載せておきます
昔むかし、いまから千百年あまり前の弘仁(八二〇年)の頃のお話です。
 讃岐の国のお役人、国司清原夏野は弘仁九年の大洪水とそれにつづく、翌年の大干ばつ、またその翌年も干ばつと、大雨や日照りで農民を苦しめる災いにどうしたものか”と強く心をいためておりました。
 大雨はともかく、夏の日照りの水不足を防ぐ手はないものかと、ずっとずっと考えこんでいました。そこではたと思いついたのが金倉川です。
 「そうだ、あの川をせき止めよう。そうすれば池にはたくさんの水がためられる」
 われながら名案だと思ったのですが、洪水で決壊して干上がった池の内にはすでに人々が大勢住そんなわけで清原夏野は考えたことを実行に移します。
 まず手始めは、ときの天皇、嵯峨上皇ににその計画を願い出ることです。幸いなことに天皇はそのお話をお聞きいれになり、池の修築工事のために築池使の路眞良人浜継(みちのまびとはまつぐ)を讃岐の地に遣わされました。
 やれやれこれでひとまず安心とばかり胸をなでおろした清原夏野でしたが、それもつかのま、今度は工事の人夫が思うように集まりません。
「満濃池 」の画像検索結果
募るいらいらが頂点に達したとき、またまた妙案が清原夏野の頭を掠めました。
 「そうだ、あのお方なら……」
 自分の新たな思いつきに飛び上がって喜びました。
 あのお方とは……。満濃池の歴史の一時代を飾る「空海の修築」の主役、空海こと弘法大師です。

 そこでいよいよ主役の登場です。
 人の心を掴んで離さない高僧の誉れ高い空海が讃岐に下ったのはそれからまもなくのことでした。 その後の工事はいうまでもなくとんとん拍子。清原夏野の思わくどおり、池普請の現場は空海を慕う人々であふれ、人手に困ることはありませんでした。

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 それから数か月後の弘仁十二年(821)、堤防の工事が無事終わり、広々とした池には澄んだ水があふれるほどにたたえられました。
 こうして甦った満濃池の堤では、あたたかくなると、昼寝ざんまいの小蛇を一匹見かけることがときおりあったそうです。
 のんべんだらりと、小さな身体のわりには態度の人きさがちょっと気になるこの小蛇、それもそのはず、身元をたどれば池に住む人きな人きな身体の龍神だったのです。 冬、ひなたはっこで池の堤に寝ころぶときは、くるりと身体をひとひねりして小さな蛇に変身。これなら誰にも邪魔されません。
 「なんとまあ、ここちいいことかい」
 龍神はお目さまに日を細めるといつものように草むらにごろん。あったかい陽ざしを布団がわりに、木々の梢を揺らして過ぎるそよ風を子守歌にうとうととまどろむ日もあったようです。
ところが今日はいつもとはちょっと様子が違っていました。
  ”ぴーひょろろ、ぴーひょろ‐”
広げた両の翼に上昇気流をいっぱいに受けて、高く高く大空を舞うとんびが一羽。その小さな目に、池の堤でひっくりかえっているまるで小指ほどの蛇が一匹飛び込んできました。
 なんだい、蛇のくせに昼寝かい
 いたずらとんびは昼寝の小蛇めがけて急降下。
さあー 土手の草がいっせいになびきます。
同時にとんびのくちばしが小蛇をがちっ。
目をさますまもなく小蛇の身体は宙に浮き、空へ空へ。
小蛇をくわえたとんびは、緑の田畑を越えて青い海へ。
海を過ぎるとふたたび陸へ。
とんびはどこまでもどこまでも飛びつづけます。
いったいどこへ行くのでしょう。
実はこのとんび、近江の国の比良山をねぐらにする天狗だったのです。
とんびは山のなかの洞穴に、小蛇をぽいと放り込むと
木々の間を縫うように舞い上がり、再び青空のかなたへ姿を消してしまいました。
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”まいったな。ほんにうかつじやった”
 龍神は悔やみましたが後のまつり。
水さえあれば大きな龍の身体にもどれるのですが、あいにく洞穴には一滴の水もありません。

 とんびに化けたいたずら天狗は琵琶湖の近くの比叡山までひとっ飛び。
今度は比叡山のお坊さんを狙います。
そんなこととはつゆ知らぬお坊さん、
 「ほんにすっきりしたわい」
 手洗いの水が入った瓶をかかえて厠からぬっと姿を見せました。
とんびの天狗はーい、一丁あがり!とばかり、
両足でお坊さんの襟首をつかむとすいすい、比良山の洞穴へ。
いきなり暗いところへ放り込まれたお坊さん、
「はて、わしやいったいどうなったんじやい」
首を傾げるばかり。
そんなことには頓着なしのいたずらとんび、
「もうひとっ飛び、行ってくるか」
と、またもや空高く舞いあがりました。  
どうしたものかと思案にくれていた小蛇の龍神は、お坊さんの水瓶に元気百倍。
「もしもーし、どなたか存じませんが、その瓶の水を
わたしの身体にふりかけてはくださいませぬか」
 小蛇の言葉に気のいいお坊さん、
 「あいよ、あいよ」
 ふたつ返事で、瓶の水を小蛇の身体にじゃばじゃば。
すると小さな蛇がむくむく、むくむく。伸びて伸びて、
天を突くような巨大な龍に変身しました。
「満濃池」の画像検索結果
おかけで助かった。さあ、はようわしの背中へ 寺までお送りしましょうぞ龍神はお坊さ
んを寺まで送り届けると比叡山から京の都を越えてふるさとの満濃池へ向かおうとしました。
ところがどっこい、今度は荒法師に姿を変えたいたずら とんびが、鴨川にかかる大橋を堂々と歩いているではありませんか。
 ”なにかまた、よからぬことを考えておるな” 龍神は、そうと荒法師の後ろに近づくと、 「こらー!・」
 大声とともに背中をどおーん。力いっぱい押しました。
いきなりの雷声と嵐のような力にさすがの天狗も、
 「まいったあー」                   
 目を白黒させながらその場にばたん。
 「もう二度といたずらなんぞするんじゃないぞ」
 龍神の言葉が聞こえたかどうか定かではないものの、よほどに懲りたものか、それからは天狗の悪さを耳にすることはありませんでした。
 そんなわけで、龍神は京の都から山や野を越え、海を渡り、満濃池に戻ることができました。
 ところで龍神、いたずらとんびの天狗に懲りてもう小蛇に化けるのはやめにしたとか、そんな噂もありますが、とんでもない。やっぱりひなたぼっこはやめられないと、ほら今日も鼻ちょうちん。それが証拠に堤の草むらで夢みごこちの小蛇を村人たちはときおり見かけるそうです。
 満濃池で昼寝の小蛇に出会ったら、それはきっと龍神ですから、決して水などかけぬよう。
小蛇がいきなり大きな龍になったらおおごとです。そっとそっと見て見ぬふりで……。

 昔むかしのお話です。
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今昔物語 満濃池と龍神の全文         

讃岐国那珂郡に万乃池と云、極て大きなる池あり。
其池は弘法大師の其國の衆生を哀しかり、為に築たまへる池なり。
池の廻り遙かに廣くして堤を高く築きまはしたり。
池なととは見えすして、海とそ見えける
池の内底ひなく深ければ大小の魚とも量なし。
龍の棲としてありける。
然る間其池に住ける龍 日に当らんとおもひけるにや。
池より出て人離たる堤の遷に小蛇の形にて蜻て居たりけり。
其時に近江国比良山に住ける天狗鎬の形として其池の上を飛まわるに堤に此小蛇の幡て有を見て掴反下て、俄に掻き探て逢に空に昇ぬ。
龍ちから強き者なりといへ共、思ひかけぬ程に俄に拝れぬれ八、更に術尽て只猟れて行に、天狗小蛇を扨砕て食せんといへとも龍の用力強に依て心にまかせて探み砕て散ん事あたはずして遥に本の栖の比良の山に持行ぬ。
 狭き洞の動へくもあらぬ所に打寵置つれ八、龍狭口口口破元くして居たり。
一滴の水も元八空を翔る事もなし。亦死ん事を待て四五日あり。然る間此天狗比叡山に行て俗を伺て貴き僧を取らんと思ひて夜、東塔の北谷にありける高き木に居て伺ふほとに其向に造り懸たる房あり。其房に有僧、外に出て小便をして手をあらはんふため水瓶を以て手を洗ふて居るを、此天狗本より飛来て僧を掻採て、逼に比良山の栖の洞に将き行て龍の有處に打置つ。
僧水瓶を持なから我にもあらて居り。いま八限とおもふほとに天狗八僧を置ままに去ぬ。
其時に暗き所に苔有て僧に向て云く、汝八此誰人そ。何より来そそと。
僧答て目、我比叡山の僧なり。手を洗はん為に坊の橡に出たりつるを天狗の俄に掴み取て将来れはなり。然八水瓶を持なから来れるなり。抑かくいふ八また誰そ。
龍答て云、我は讃岐国万能池に住龍なり。堤に這出たりしを、此天狗空より飛来て俄に猟て此洞に将来こり。狭く口口て為む方無といへとも、一滴水も元けれ八空をも翔らすと。
僧のいはく、此二持たる水滴に若一滴の水や残りたらんと。
龍是を聞て喜て云、我此所にして日来経て既に迦終なんと為るに幸に来り會ひ給ひて互に命を助る事得へし。一滴の水有ら八、必汝本の栖、二将至へしと。
僧又喜て水瓶を傾て龍に授るに一滴斗の水を受て、龍喜て僧に教て云、努々怖る事なくして、目塞て我に負れ給ふへし。此御更に世々にも忘かたしといふて、龍忽に小童の形と現し、僧負て洞を蹴破りて出る間、雷電屏震して陰り雨降事甚怪し。
僧身振肝迷て怖しと思ふといへとも、龍を睦ひ思ふかゆゑに念して負れて行し程に、須実に比叡山の本の坊に至る。僧を橡に置て龍八去。彼房の人常の屏震して房に落懸と思ふほとに俄に坊の澄暗夜の如く成ぬ。しはらく斗有たる時に見れは、一夜俄に失ひにし人の橡にあり。坊の人々奇異に思て問に、事有様を委しく語る。人々ミな聞て驚き奇異りける。
其後龍彼天狗の怨を報せ為に天狗を求るに天狗京に智識を催す荒法師の形と成て行けるを龍降て蹴殺てけり。
 然ば翼折れたる屎鵠にてなん。大路踏れける。彼比叡山の僧八彼龍の恩を報せんかため、常に経を誦し善を修しけり。実に此龍八僧の徳に依て命をなし。僧八龍の力依て山に返る。是もミな前世の機縁なるへし。此事は彼僧の語り傅へを聞継て語り傅へたるとかや。

   

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