瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2018年08月

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仁王門(弥谷寺)

「空海=多度津白方生誕説」が、いつ、どこで、誰の手によって、どんな目的で創り出されたのかをみてきました。最後に、白方の背後の天霧山中にある弥谷寺を見ていくことにしましょう。
 弥谷寺は佐伯真魚(空海の幼年名)が修行した地と「高野大師行状図画」にも伝えられ、古くから空海の修行場として信じられてきました。現在、十世紀末から十一世紀初期ころの仏像が確認できるので、そのころにはこの寺が活動していたことが推察できます。
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弥谷寺仁王門
 その後、鎌倉時代の初めには道範が訪れたことが「南海流浪記」に記されています。また本堂横の岩壁に阿弥陀三尊や南無阿弥陀仏の名号が彫られていて、その制作年代は鎌倉時代末期のものと言われます。
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阿弥陀三尊磨崖仏(本堂下)

 戦国時代には讃岐の守護代であり、天霧城の城主・香川氏の菩提寺とされ、香川氏一族の墓といわれる墓石も数多く残されています。なお寺伝では、香川氏の滅亡とともに寺は衰退したと伝えます。その後、生駒氏・山崎氏・京極氏などの保護の下に徐々に復興がなされたようです。
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天霧城主香川氏の代々の墓とされる石造物

澄禅『四国遍路日記』で、江戸時代初期のこの寺の様子を見てみましょう
剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇I間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切玉フ、北ノ床位牌壇也、又正面ノ床ノ脇二護摩木棚二段二在り、東南ノニ方ニシキ井・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ、寺ノ広サ庭ヨリー段上リテ鐘楼在、又一段上リテ、護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ戸ヲ仕合タリ、内二本尊不動其ノ外仏像何モ石也、
夫ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル中二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、又一段上テ本堂在、岩屋ノ口ニ片軒斗指ヲロシテ立タリ、片エ作トカヤ云、本尊千手観音也。其廻りノ石面二五輪ヒシト切付玉ヘリ、其近所に鎮守蔵王権現ノ社在り。
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弥谷寺案内図
意訳変換しておくと
剣五山千手院は、坂口に二王門があり、ここからは参道沿いの磨崖には、仏像や五輪塔が数知ず彫付られている。自然石に階段が掘られて、寺の庭に上っていく。
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寺(現大師堂)は南面して、持堂は西向の巌がオバーハングしている所を、広さニ回半、奥へ九尺、高は人の頭が当たらないくらいに掘り切って開かれている。
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仏壇は、一間奥へ四尺に切入って左右に如来を切付ている。ここには中尊大師の御木像と、その
左右に藤新太夫夫婦の石像が掘りだされている。
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 北の床は位牌壇となっている。また正面の床の脇には護摩木棚が二段あって、東南の方に敷居・鴨居などが入れられて戸を立てるようになっている。

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獅子の岩屋
庭よりー段上って鐘楼があり、又一段上がると護摩堂がある。これらも広さは九尺ほどで二間に岩を切り開いて入口に戸を付けている。その内には、本尊不動明王と、何体もの仏像があるがすべて石仏である。
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護摩堂(弥谷寺)

ここから少し南の方へ行くと水場がある。周囲の磨崖には、多くの真言阿字が彫付られて、その廻りは円で囲まれている。この字体は、今時朴「法骨多肉少:の筆法である。その下に岩穴があり、ここには死骨が納められている。水場周辺の磨崖にはキリク文字が掘られ、脇には空海と刻まれている。この辺りの赤面には、数多くの五輪塔が掘り込まれている。
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水場周辺
その一段上の磨崖には、阿弥陀三尊が掘られ、その
脇には六字名号が3セット×3つ=9彫りつけられている。九品の心持ちを示している。さらに一段登ると本堂在、岩屋に突き刺すように片軒の屋根が覆っている。「片エ作」と呼んでいる。本尊は千手観音で、その廻りの石面には五輪塔が数多く彫りつけられている。この近くに鎮守蔵王権現の社がある。

以上から江戸時代初期の弥谷寺の様子が分かります。ここで
注目したいのは次の2点です。
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本堂下の磨崖仏

まず1点は坂口に仁王門があり、そこから参道沿いの岩面の至る所に仏像や五輪塔が数知れず彫り込まれていることです。
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弥谷寺の磨崖仏の位置



「自然石を彫り刻み石段として寺の庭にあがると、寺は南面し持仏堂がある。この持仏堂に「空海=多度津白方生誕説」で、空海の父母とされる藤新太夫夫婦の石像が安置されていた記されています。この寺でもこの時期には、「空海=多度津白方生誕説」が信じられていたようです。
 ところが、その後に真稔が巡礼した時には、この夫婦の石像はなくなり、阿弥陀と弥勒の石像になっていたというのです。つまり、この間に藤新太夫夫婦の石像が消えたことになります。どうしてでしょうか?
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弥谷寺の五輪塔
 2つ目は次の部分です。
「水場から一段上ると磨崖に阿弥陀三尊と、その脇に六字名号が三クダリ宛六ツ彫付玉リ」

本堂下の水向けの所の岩穴には死骨が納められ、その周辺には阿弥陀三尊やと「六字の名号」(=南無阿弥陀仏)が彫られていたとあります。
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阿弥陀三尊像
  弥谷寺周辺の山は死者心霊がこもる山として、祖霊信仰がみられことが民俗学からは指摘されてきました。イヤダニマイリという葬式の翌日には、毛髪や野位牌などを弥谷寺に納める習俗があったというのです。そこには祖先信仰にプラスして、浄土系の阿弥陀信仰が濃厚に漂います。

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本堂下の磨崖仏

 さらに、現在この寺で行われている永代経という日月聘供養、経木塔婆、水供養という先祖供養形式が高野山で行われる供養の形式と非常に似ていると言われます。
 それは道範以来、高野山と弥谷寺との関係が深くなり、戦国時代末期以降になると、高野山や善通寺と関係の深い僧侶が住職となます。その結果、江戸時代中期から末期にかけて高野山方式の先祖供養形式が確立したと研究者は考えています。弥谷寺と高野山とは、何かしらの関係がある時期からできたようです。
 民俗学の立場からは次のように指摘されきました。
「弥谷寺一帯は、古くは、熊野の神話が物語るごとき死霊のこもるところ、古代葬送の山、「こもりく」であったかも知れぬが、中世、一遍につながる熊野系の山伏、念仏聖、比丘尼、巫女などの民間宗教者たちの手によってでき上がった山寺である」

 以上の説を総合すると、次の2点が見えてきます。
①弥谷寺は高野山との関係、
②高野聖など念仏系の僧の存在
そのわずかに残る痕跡を現在の弥谷寺に探ってみましょう。
弥谷寺 九品浄土1

弥谷寺本堂下の岩壁には南無阿弥陀仏の名号が九つ彫られています。いまは摩耗してほとんど見えなくなっています。しかし、かつてはその名号の下部には、次のような唐の善導大師の謁が彫られていて、かつては見ることが出来たと言います。

門々不同八万四為滅無明果業因利剣即是阿弥陀一称正念罪皆除

さらに本堂下の墓石群の中には、次のような念仏講の石碑が建立されています。
「延宝四二六七六」丙辰天 八月口口日大見村竹田 念仏講中二世安楽也」
江戸時代前期とやや時代が下るものの、念仏聖となんらかの関係を示す遺品です。この石碑は先日紹介した多度津白方の、仏母院に見られた念仏講のものと形状が良く似ており、両者に関係がありそうだと研究者は指摘します。

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弥谷寺の磨崖仏

  
 戦国時代に弥谷寺の上の天霧城主だった香川氏一族は、長宗我部元親と姻戚関係を結びます。そして、土佐軍の撤退と共に香川氏も土佐へ亡命します。天霧城は破棄され、弥谷寺も荒廃したといいます。弥谷寺のその後について、『大見村誌』正徳四年(1714)は宥洋法印の記録として、以下のように記しています。 
その後戦乱平定するや、僧持兇念仏の者、当山旧址に小坊を営み、勤行供養怠たらざりき、時に慶長の初め、当国白峰寺住職別名法印、当山を兼務し、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立す。
 慶長五年十二月十九日、高松城主、生駒讃岐守一正より、田畑山林を寄付せられ、其証書今に存せり。別名法印遷化後、直弟宥慶法印常山後住となり執務中、図らすも藩廳に対して瑕径あり。爰に住職罷免され、善通寺に寄託される、その後の住職は善通寺僧徒、覚秀房宥嗇之に当り寛永十二年営寺に入院し、法務を執り堂塔再建に腐心廿り、
 意訳変換しておくと
江戸時代になって戦乱が平定すると、念仏僧侶が弥谷寺の境内の中に小坊を営み、勤行供養を怠たらずに務めた。慶長年間の初めに、白峰寺住職別名法印が当山を兼務することになり、堂舎再建に努め、精舎僧坊を建立した。
 慶長五年十二月十九日には、高松城主の生駒讃岐守一正から、田畑山林を寄付された。その寄進状は当寺に今も残る。別名法印が亡くなった後は、直弟の宥慶法印が後住となったが、生駒藩への過失があり住職を罷免された。そのため当寺は、善通寺に寄託されることになった。その後は、善通寺の覚秀房宥嗇之が、寛永12年に住職となり、法務を執り堂塔再建に腐心することになった。
 ここからは戦国時代に香川氏が土佐に落ち延びて、保護者を失って、寺が荒廃したことがうかがえます。その時に、念仏行者が境内の旧址に小坊を営み寺に住んでいたというのです。境内に残るいくつかの石造物からは、念仏信仰を周辺の村々に広げ念仏講を組織していた僧侶の存在が見えてきます。彼らは、時宗系の高野聖であったと研究者は考えています。
 そして、生駒氏の時代になってから白峯寺から別名法印が住職を兼務したといいます。別名法印については詳しいことは分かりませんが、海岸寺所蔵の元和六年(1620)の棟札に「本願弥谷寺別名秀岡」とあります。ここからはこの時期には、海岸寺と弥谷寺とが深い関係にあったことが分かります。ちなみに、弥谷寺の海浜の奥社が海岸寺だったようです。ここでは補陀落渡海の修行場で、弥谷寺との間は小辺路ルートで結ばれていたとも言われます。
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生駒一正の墓碑とされる塔
 このように弥谷寺は、もともとは阿弥陀信仰を中心とする念仏系の寺院であったことが透けて見えてきます。
中世から戦国末期には、修験者+熊野行者+高野聖+念仏行者の活動拠点で、境内に彼らの「院房」があったのです。そこに住んでいた僧の中には、時宗念仏系の僧侶がいて弥谷寺を拠点に布教活動をおこなっていたいたようです。
また「剣五山弥谷寺一山之図」には、東院旧跡の近くに「比丘尼谷」という地名があります。ここからは、弥谷寺に比丘尼が生活していたこともがうかがえます。

さて、この寺院の檀那たちはどこにいたのでしょうか?
 慶長五年(1600)四月吉日に、この寺に寄進された本尊の鉄扉は次のように記されています。

「備中国賀那郡四条 富岡宇右衛門家久」
寛永八年(1632)正月寄進の鐘の檀那は
「備前国岡山住井上氏」

ここからは白方の仏母院の信者は、瀬戸内海を挾んだ対岸の備前地方の人々の信仰を集めていたことが分かります。しかし、それがどのような理由で繋がっていたかを示す史料はありません。
 最後に、備中・備前の人たちが海岸寺や弥谷寺の有力な檀家となっていた背景を想像力を羽ばたかせて考えて見たいと思います。
①五流山伏と小豆島の関係のように、小豆島を聖地として修験者先達が、信者を引率して参拝させるシステムが海岸寺や弥谷寺でも機能していた。
②そのため海岸寺は、補陀洛信仰の聖地として海の向こうの吉備の信者たちの信仰を集めるようになった。
③そこに大師信仰が広がると、当時流布されるようになった「空海=白方生誕説」を採用し、寺院運営をおこなうようになる。
④それは、吉備から海を越えてやって来る信者たちへのセールスポイントともなった。
しかし、争論の結果「空海=白方生誕説」は認められなかった。そこで弥谷寺は「空海=幼年修行地説」にセールスポイントを変えて、寺社経営を行うようになります。それが、金毘羅大権現の隆盛と相まって、四国にやって来た金毘羅詣での参拝者は、善通寺と弥谷寺にはよって帰るというコースを選ぶようになり、寺は栄えるようになります。この寺も弘法大師伝説は、近世になって付け加えられたようです。
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弥谷寺


 
参考文献    武田 和昭      『弘法大師空海根本縁起』について

                            

「空海=多度津白方生誕説」をめぐる寺社めぐり   

近世初頭の四国辺路には、空海の生誕地であることを主張するお寺が善通寺以外にもあったようです。それが多度津白方の仏母院や海岸寺です。空海が生まれたのは善通寺屏風ヶ浦というのが、いまでは当たり前です。四国辺路の形成過程で、どうしてそのような主張がでてきたのでしょう。その背景を見ていくことにします。
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白方の丘から望む備讃瀬戸 高見島遠景

仏母院の歴史を資料でみてみましょう。
最も古い四国霊場巡礼記とされる澄禅『四国辺路日記』(1653)には仏母院が次のように記されています。 
夫ヨリ五町斗往テ 藤新太夫ノ住シ三角屋敷在、是大師誕生ノ所。御影堂在、御童形也、十歳ノ姿卜也。寺ヲハ幡山三角寺仏院卜云。
此住持御影堂ヲ開帳シテ拝モラル。堂東向三間四面。
此堂再興七シ謂但馬国銀山ノ米原源斎卜云者、讃岐国多度郡屏風が浦ノ三角寺ノ御影堂ヲ再興セヨト霊夢ヲ承テ、則発足シテ当国工来テ、先四国辺路ヲシテ其後御影堂ヲ三間四面二瓦フキニ結構ゾンデ、又辺路ヲシテ阪国セラレシト也。
又仏壇ノ左右二焼物ノ花瓶在、是モ備前ノ国伊部ノ宗二郎卜云者、霊夢二依テ寄付タル由銘ニミェタリ。猶今霊験アラタ也。
意訳すると
海岸寺から約五〇〇メートル東に藤新太夫(空海の父)が住んだ仏母院があり、弘法大師の誕生所とされ、御影堂が建立されていた。そこに十歳の弘法大師が祀られている。寺を三角寺という。この寺の住職が御影堂を開き、その像を開帳してくれた。堂は東に向かって三間四面の造である。この堂を再興したのは但馬銀山米原源斎で、夢の中でお告げを聞いて、直ち四国巡礼を行い、このお堂を建立し、帰路にも四国巡礼をおこない帰国した。仏壇の左右の焼きものの花瓶は、備前の部ノ宗二郎の寄進である。霊験あらたな寺である
 藤新太夫は空海の父。三角屋敷が空海の生まれた館のことです。
ここからは備前や但馬の国で「空海=多度津白方生誕説」が拡大定着していたことがうかがえます

 仏母院に関しては『多度津公御領分寺社縁起」(明和6年1769)に、次のように記されています。
多度郡亨西白方浦 真言宗八幡山三角寺仏母院
一、本尊 大日如来 弘法大師作、
一、三角屋敷大師堂 一宇本尊弘法大師・御童形御影右三角屋敷は弘法大師、御母公阿刀氏草創之霊地と申伝へ候、故に三角寺仏母院と号し候、
 『生駒記』(天明3年1783)には
白方村の内の三隅屋敷は大師誕生の地なりとて、小堂に児の御影を安置す、
とあり、弘法大師誕生地として認められています。しかし、その50年後の天保十年(1839)の『西讃府志』では  
仏母院 八幡山三角寺卜琥ク云々。西方に三角の地アリ、大師並二母阿刀氏、及不動地蔵等ノ諸仏ヲ安置ス。
とあり、弘法大師の誕生地とは記されていません。しかも母はあこや御前ではなく、阿刀氏になっています。この間に誕生地をめぐる善通寺との争論があり、敗れているのです。これ以後、生誕地であることを称する事が禁止されたことは、以前にお話ししました。

「仏母院 多度æ´\ ブログ」の画像検索結果
仏母院に残されている過去帳には、大善坊秀遍について次のように記されています。
 不知遷化之年月十二口滅ス、当院古代大善坊卜号ス、仏母院之院号 寛永十五年戊寅十月晦日、蒙免許ヲ是レヨリ四年以前、寛永十二乙亥八月三日、此秀遍写スコト白方八幡ノ服忌會ヲ之奥書ノ處二大善坊秀遍トアルヲ見雷タル様二覚ヘダル故二、今書加へ置也能々可有吟味。

 意訳変換しておくと
当院は古くは大善坊と号していた、寛永十五年(1638)十月晦日に、仏母院の院号を名乗ることが許された。その4年前の寛永十二(1635)八月三日、秀遍が白方(熊手)八幡神社の古文書を書写していたときに、その奥書に大善坊秀遍とあるのを見つけたので、ここに書き加えておくことにする。よく検討して欲しい。

ここからは寛永十五年(1638)に寺名が
善坊から仏母院に変更されたことがわかります。「仏母」とは、空海の母のことを指しているのでしょう。つまり、高野系の念仏聖が住んでいた寺が、「空海の母の実家跡に建てられた寺院=空海出生地」として名乗りを挙げているのです。
古代善通寺の外港として栄えた多度津町白方の仏母院にも、次のような念仏講の石碑があります
寛丈―三年
(ア)為念仏講中逆修菩提也
七月―六日
寛丈十三(1673)の建立です。四国霊場を真念や澄禅が訪れていた時代になります。先ほど見た弥谷寺のものと型式や石質がよく似ていて、何らかの関係があると研究者は考えているようです。
仏母院は霊場札所ではありませんが、『四国辺路日記』の澄禅は、弥谷寺参拝後に天霧山を越えて白方屏風ケ浦に下りて来て、海岸寺や熊手八幡神社とともに神宮寺のこの寺に参拝しています。

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仏母院の墓地には、次のような二基の墓石が見つかっています。
右  文化九(1812)壬申天
   六月二十一   行年七十五歳
正面 (ア) 権大僧都大越家法印甲願
   法華経一百二十部
左  向左奉謡光明真言五十二万
   仁王経一千部
(裏面には刻字無し)
(向右)天保(1833)四巳年二月十七日
正面(ア) 権大僧都大越家法雲
(左・裏面には刻字無し)
研究者が注目するのは「権大僧都」です。これは「当山派」修験道の位階のことで、醍醐寺が認定したものです。この位階を下から記すと
①坊号 ②院号 ③錦地 ④権律師 ⑤一僧祗、⑥二僧祗、⑦三僧祗、⑧権少僧都 ⑨権大僧都、⑩阿閣梨、⑪大越家 ⑫法印の12階からなるようです。そうすると⑪大越家は、大峰入峰36回を経験した者に贈られる高位者であったことが分かります。ここからは、19世紀前半の仏母院の住持は、吉野への峰入りを何度も重ねていた醍醐寺系当山派修験者の指導者であったことがうかがえます。

 また、享保二年(1717)「当山派修験宗門階級之次第」によると、仏母院は江戸時代初期以前には、念仏聖が住居する寺院であることが確認できるようです。そして、仏母院住職は、熊手八幡神社の別当も勤めていました。



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仏母院遠景

 この寺は先ほど見たように、澄禅が参拝した時代には、但馬の銀山で財を成した米原源斎が御影堂を再興したり、備前の伊部宗二郎が花瓶を寄進するなど、すでに讃岐以外の地でも、霊験あらたかな寺として知られていたようです。仏母院の発展には、それを喧伝し、参拝に誘引する先達聖たちがいたようです。弘法大師の母の寺であることの宣伝広報活動の一環として、仏母寺という寺名の改称にまで及んだと研究者は考えているようです。

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弘田川河口からの天霧山

 しかし、「空海=多度津白方生誕説」を記す3つの縁起には仏母院の名は登場しません。これをどう理解すればいいのでしょうか。
考えられることは、縁起成立の方が仏母院などの広報活動よりも早かったということです。縁起により白方屏風が浦が注目されるようになり、それに乗じて、大善坊が「空海=白方誕生説」を主張するようになり、仏母院と寺名を変えたと研究者は考えているようです。
 そうだとすると「空海=白方誕生説」を最初に説いたのは、白方の仏母寺や海岸寺ではないことになります。これらの寺は、「空海=白方誕生説」の縁起拡大の流れに乗っただけで、それを最初に言い出したのではないことになります。 

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 最後に現在の仏母院をみてみましょう。

 善通寺から流れ込む弘田川の河口近くの多度津白方に仏母院はあります。境内は大きく二つに分けられていて、東側に本堂・庫裏と経営する保育所があり、道路を挟み、西側には大師の母が住居していたという三角形の土地があります。
三角地は御住屋敷(みすみやしき)と呼ばれていましたが、これは空海の母の実家であることに由来します。空海の臍の緒を納めたという御胞衣塚(えなづか)などがあります。澄禅が日記に残している御影堂は、この三角地に建てられていたものと思われます。現在の御堂には新しく作られた玉依御前・不動明王・弘法大師の三体の像が安置されていますが、かつては童形の大師像(十歳)があり、三角寺と呼ばれていたようです。
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戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)に戦乱により荒廃します。その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も三角寺から大善坊と称するようになります。そして「空海=多度津白方生誕説」が広がると、寛永15年(1638年)寺院名が大善坊から仏母院に改められました。
 御胞衣塚には石造(凝灰岩)の五輪塔がありますが制作年代は、水輪・火輪の形状からみて桃山時代から江戸時代初期ころ、つまり16世紀末から17世紀前半ころとされています。ちょうど「空海=多度津白方生誕説」の広がりと一致します。このことは大善
坊から仏母院への改名との関連、さらに本縁起の制作時期などと考え合わせれば、重要なポイントです。
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 また御住屋敷の南端に寛文13年(1673)7月16日建立の「念仏講衆逆修菩提也」の石碑があります。ここから江戸時代前期に仏母院に、念仏講があったことが分かります。つまり高野山系の時宗念仏系の信仰集団がいたようです。この石碑と同様のものが弥谷寺にもあります。
 
 この寺は明治初年の神仏分離以前は、熊手八幡神社の神宮寺でした。そのため神仏分離・廃仏毀釈の際に、八幡大菩薩と彫られた扁額や熊手がこの寺に移され本堂に安置されています。

 次に海岸寺を史料で見てみましょう

「多度æ´\ 海岸寺」の画像検索結果 
弘田川河口の西側の海に面した海水浴場に隣接した広大な地に本堂・庫裏・客殿などがあります。さらにそこから南西口約1,1㎞の所に空海を祀った奥の院があります。この寺の古い資料はあまり多くありません。そのため江戸時代以前のことはよく分かりません。 
最初に記録に見えるのは四国霊場の道隆寺の文書の中です。
天正二十年(1592)六月十五日 白方海岸寺 大師堂供養導師、良田、執行畢。
その後も、これと同じように道隆寺の住職が導師を勤める供養の記録が何点かあるので、その当時から道隆寺の末寺であったことが分かります。ついで澄禅『四国辺路日記』に、次のように記されています。
谷底ヨリ少キ山ヲ越テ白方屏風力浦二出。此浦白砂汗々ダルニー群ノ松原在リ、其中二御影堂在リ、寺は海岸寺卜云。
門ノ外二産ノ宮トテ石ノ社在。州崎二産湯ヲ引セ申タル盟トテ外方二内丸切タル石ノ毀在。波打キワニ幼少テヲサナ遊ビシ玉シ所在。寺ノ向二小山有リ、是一切経七干余巻ヲ龍サセ玉フ経塚也。
意訳変換しておくと
(弥谷寺)から峠を越えて白方屏風力浦に下りていく。ここは白砂が連なる浜に松原がある。その中に御影堂があり、寺は海岸寺という
門の外「産の宮」という石社がある。空海誕生の時に産湯としたという井戸があり、外側は四角、内側は丸く切った石造物が置かれている。波打際には、空海が幼少の時に遊んだ所だという。寺の向うには小山があり、ここには一切経七干余巻が埋められた経塚だという。
ここからは、次のような事が分かります。
①澄禅が弥谷寺から天霧山を越えて白方屏風ガ浦に出て、海岸寺に参詣したこと
②海岸寺には、御影堂(大師堂)があり、門外に石の産だらいが置かれていたこと。
澄禅が、ここを空海生誕地と信じていたように思えてきます。

 また『玉藻集』延宝五年(1677)は
「弘法大師多度郡白潟屏風が浦に生まれ給う。産湯まいらせし所、石を以て其しるしとす云々」
とあり、弘法大師の誕生地と信じられていたようです。
そして、空海が四十二歳にして自分の像を安置して本尊とした。四十余の寺院があったが天正年中に灰塵に帰した。それでも大師の像を安置して、未だ亡せずと記しています。
 なお『多度津公御領分寺社縁起』(明和六年-1769)には
「本堂一宇、本尊弘法大師御影、不動明王、愛染明王 産盟堂一宇」
などが記されています。このような海岸寺の「空海=白方誕生説」を前面に出した布教活動は、文化年中に善通寺から訴えられ、大師誕生地をめぐる争論を引き起こすことになります。これに海岸寺は敗れ、その後は海岸寺は「空海=白方誕生説」を主張することを封印されます。その結果、いまでは奥の院はひっそりとしています。
「多度æ´\ 海岸寺」の画像検索結果

 以上のとうに海岸寺の創建期は不明ですが、戦国時代末期には大師堂(御影堂)があり、やがて江戸時代初期にはその存在が知られるようになっています。
 
ただ澄禅『四国遍路日記』には、大師誕生地として仏母院の方を明記して、海岸寺は石盥があったことを記すだけです。ここが誕生地だとは主張されていません。
 なお善通寺蔵版本『弘法大師御伝記』は、その末尾に「土州一ノ宮」とあり、土佐一ノ宮の刊行のようにみられます。しかし、この版元は実は海岸寺であったとされています。そうだとすれば、この寺は「空海=多度津白方生誕説」の縁起本を流布していたことになります。
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以上からは次のようなことが言えるのではないでしょうか。
①17世紀の段階では、四国霊場は固定しておらず流動的だった。
②空海伝説もまだ、各札所に定着はしていなかった
③そのため独自の空海生誕説を主張するグループもあり、争論になることもあった。
④白方にあった海岸寺や父母院は、先達により中国地方に独自の布教活動を展開し、信者を獲得していた。
以上「空海=多度津白方生誕説」に係わるお寺を史料でめぐってみました。

「空海=多度津白方誕生説」は誰によって語られ始めたのか?

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多度津白方の海岸寺奥の院
 
空海は、善通寺の誕生院で生まれたと信じられています。
誕生院は佐伯氏の旧邸宅とされ、誕生時に産湯を使ったという池も境内にあります。(なお、父が善通であったというのは俗説で、資料的には確認されていません)
 ところが、この正統的なる弘法大師伝に対して、空海が多度津白方の屏風が浦で生まれ、父をとうしん太夫、母をあこや御前とするなど、まったく異なる伝記があります。「空海=多度津白方生誕説」を説く伝記は、以下のようなものがあります。
 『説経かるかや』「高野の巻」
 『弘法大師御伝記』善通寺所蔵版
  『南無弘法大師縁起』
  
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「空海=多度津白方生誕説」縁起は、いつころ制作されたのでしょうか。

 一つは、はじめに縁起の成立があり、その後に白方屏風が浦の各社寺が縁起に沿って、弘法大師誕生地説を作りあげたという縁起先行説が考えられます。
もう一つは白方屏風ガ浦の各社寺にあった誕生説を集めて縁起が成立した縁起後行説です。
しかし、本縁起には白方屏風ガ浦の海岸寺等の寺院名がまったく見えません。このことから「空海=多度津白方生誕説」の縁起本が産まれた後、白方の各寺社が既成事実を作り出していった縁起先行説の方が有力です。

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 この縁起がいつ成立したかについては、その中に讃岐守護代で天霧城主の香川氏が秀吉軍の侵入で天霧城が落城した後に、元結いを切って辺路に出たという記事がありますので、永禄二年(一五五九)以降であることは間違いありません。
 次に下限をみます。澄禅の『四国逞路日記』の中に、空海の父母とされる「とうしん大夫夫婦」の石像が弥谷寺にあったと記されてます。つまり澄禅が辺路した時には、すでに「空海=多度津白方生誕説」が札所間(弥谷寺周辺か)に定着していたのです。そして、彼は「空海=善通寺誕生説」には何も触れていません。このことから本縁起の成立は、澄禅『四国逞路日記』の承応2年(1653)よりも、かなり古いと考えられます。
「空海=多度津白方生誕説」が世に広がり、白方の大善坊が仏母院へと寺名変更するのが寛永十五年(1638)であることが目安となります。白方の仏母院の御胞衣塚の五輪塔は、大師誕生地を積極的にアッピールするために建立されたとみられますが、その形状から判断して江戸初期ころのものとされています。近世における創作なのです。
以上から縁起先行説に立って、本縁起の成立を永禄11年
(1559)から寛永年間(1614~1644)と考えます。
 この時期、古くから大師誕生地として広く認められていた善通寺は、永禄元年(1558)の兵火で金堂も五重塔も燃え落ちます。江戸時代になって生駒氏が援助の手を差しのべるまで、約80年間は衰退を余儀なくされていたようです。本縁起は、ちょうどこれを狙うようにして「空海=多度津白方生誕説」が生まれ、広げられていくのです。逆に見ると当時の善通寺は、これらの動きを止めることも出来ないほど活動力を失い、荒廃していたのかもしれません。
 なお、先日アップした記事で示したとおり寛永十一年(一六三四)の「善通寺西院内之図」には、生駒親正が寄進した御影堂と三代藩主正俊の正室・円智院が建立した御影堂が描かれており、このころから善通寺の復興が始まります。
この縁起はどこで作られたのでしょうか。
本縁起の舞台は讃岐白方屏風が浦近辺です。しかし、縁起の中に具体的な寺社の名称は善通寺以外、まったく出てきません。ただ状況証拠から、いくつかの候補となる寺社が浮かび上がってきます。
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 まず、天霧山の向こう側の弥谷寺です。

澄禅『四国逞路日記』を見てみましょう。
澄禅は、ここで本縁起の登場人物の「とうしん太夫とあこや御前」つまり、空海の父母の石像を拝んでいるのです。つまり、その時には、
空海の両親として「とうしん太夫とあこや御前」説がここでは流布されていたようです。澄禅は、讃岐守護代の香川氏の居城・天霧城の傍らを通って海岸寺に降り、そこでは空海が幼少のころに遊んだという浜を過ぎて仏母院に至っています。
 この時期は仏母院は大師誕生地として備前・但馬あたりでも、すでに広く信じられていました。ここで御影堂を開帳してもらい、空海十歳の像を拝し、寺僧から霊験あらたかなる説法を聞いたのです。さらに空海の氏神と伝える熊手八幡も参拝しています。
澄禅の時代には、空海の誕生の地はまさに多度津白方だったのです。

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そして善通寺の存在もあなどれません。

灰塵に帰した善通寺とはいえ、いくつかの小堂は火災を免れていたはずです。そして、そこには本縁起に係わってもよさそうな人物(念仏聖など)が寄居していたことが考えられます。しかし、資料はありません。あくまで憶測です。
 本縁起の「白方屏風ガ浦」という地名から、この地域の社寺を見てみましたが、これらの社寺は本縁起に洽った寺伝を持っており、この辺りとの関連が濃厚に感じられます。ただ本縁起には、これらの社寺は善通寺以外まったく記されていないことは何度も触れた通りです。それは、本縁起成立後に、各社寺で大師伝説を作り上げたと考えられるからです。言い換えれば、本縁起が高野山で創作されたとしても不思議ではないわけです。制作地を特定するのは難しいようです。
誰が「空海=多度津白方生誕説」の縁起を書いたのでしょうか。
 さてもう一度本縁起をみてみます。
前半部の中山寺や徳道上人からは、西国三十三所と関係が見えてきます。後半部には阿弥陀信仰、極楽往生思想が濃厚にみられ、念仏に関係するものです。そして高野山に参詣することや都率(弥勒)来迎のことも記されるなど高野山に関する記述がみられます。そこには高野山に係る念仏聖の存在が浮かび上がってきます。

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では高野山との関係が見いだせるのは、先に見た寺社の中でどこでしょうか。
高野山から移ってきた住職の存在や水祭りの行事が行われるという弥谷寺が、まず浮かびます。また海岸寺所蔵の棟札をみれば、弥谷寺と海岸寺は密接な関係を有していたようです。海岸寺の大師堂は天正二十年(1592)には建立されていて、新たな大師信仰を創り出していく充分な要素が当時の海岸寺にはあったと思います。また仏母院には寛文十三年(1673)の念仏講の石碑があり、それ以前の念仏行者の存在がうかがえます。
 以上の「状況証拠」から、本縁起に係わったのは白方周辺に関りを持ち、しかも高野山との関係を有する念仏系の僧が浮かび上がってきます。つまり高野聖ということです。
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さらにこの縁起を書写したのは高野山千手院谷西方院の真教です。

彼が聖方に属した僧侶であったことも匂います。真教も中世的な高野聖と言えるのではないでしょうか。書写の人物が高野山・西方院であることは、本縁起が高野山にいた人物が制作したことも考えられます。
 
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 では何の目的で作られたのか。
 この縁起は、讃岐白方屏風ガ浦で弘法大師が誕生したと記します。
しかし、それを強く主張するものではありません。それよりも主眼は、後半部に説かれる四国八十ハケ所を辺路の勧めです。辺路によって諸仏諸神が来迎して、極楽往生できる功徳が強調されます。四国辺路を進めるのが、この縁起の目指すところであったように思えます。

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 この縁起は弘法大師一代記の語り物語なのです。

これを語り、四国八十ハケ所の辺(遍)路を進めたのは誰だったのでしょうか。時衆系高野聖であったのか、また熊野比丘尼のような唱導者であったのか、今となっては、歴史の奥に隠れて見えなくなっています。
 しかし真念・寂本が
「四国には、その伝記板にちりばめ、流行すときゆ」

とあるように、これが版本とされ、多くの人に読まれることによって、庶民が参加する四国八十八ヶ所辺(遍)路が一層盛んになったことは間違いでしょう。
 つまりこの縁起の成立は、四国辺路から四国八十ハケ所辺(遍)路への移行、いわばプロの修行辺路から庶民が参加する辺路を促す動きの一部と捉えることもできるようです。
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 ちなみに四国遍路の功労者とも寂本は、真念『四国遍礼功徳記』付録の後書きなかで「空海=多度津白方生誕説」縁起本を次のように厳しく批判しています。
然るに世にし礼者ありて、大師の父は藤新太夫といひ、母はあこや御前といふなど、つくりごとをもて人を侑、四国にはその伝記板に鏝流行すときこゆ、これは諸伝記をも見ざる愚俗のわざならん、若愚にしてしるもの、昔よりいへるごとく、ふかくにくむべきにあらず、ただあはれむべし

参考史料 武田 和昭 『弘法大師空海根本縁起』について

讃岐の古代寺院 

   

讃岐の古代寺院 

 

 

                        

 善通寺西院の伽藍配置は、どのように進められたのか

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善通寺伽藍について 

善通寺の伽藍は、
①古代以来の金堂や五重塔などがある東側の区画と、
②弘法大師誕生所の由緒をもつ善通寺本坊がおかれた西側の誕生院
の2つの区画とから成ります。前者を「伽藍」または「東院」、後者は「誕生院」または「西院」と呼んでいます。

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西院は永禄の戦火で焼けたのか?

善通寺は、戦国時代の永禄元年(1558)、三好實休軍が天霧城の香川氏攻撃をする際の本陣となります。そして、駐留した三好實休軍の退却時に全焼したことが伝えられています。善通寺の近世は、この被災からの復興の歴史でした。
 その際に、東院の金堂と五重塔の復興に関しては、よく語られるのですが、西院の誕生院伽藍の整備については、あまり知られていません。
西院がどうなっていたのか見ていくことにしましょう。
元禄2 年(1689)刊行の『四国徧礼霊場記』に
「西行・道範の比まではむかしの伽藍ありときこへぬれども、今はその跡のみにて.」
「永禄元年兵乱之節 大師御建立之伽藍十八宇多分焼失仕候、其後代々住僧等勧誘之力ヲ以金堂・常行堂・鎮守神祠・御影堂以下漸々致再興」
などと、主要堂塔焼失を伝える文書もありますので、基本的に東院は全焼したようです。しかし、綸旨院宣等の重宝が焼失の免れていることや、本坊(西院)については火災に遭わなかったと考える研究者もいます。この説に従えば、近世初頭の善通寺伽藍は、焼け野原になった東院と、中世以来の建築が存続していた西院とから成っていたといえます。
 
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         善通寺の東院と西院 手前が西院
西院はどのような過程を通じて、現在の姿になったのか?

それは善通寺の中世寺院から近世寺院への脱皮でもありました。
元禄年間より貨幣経済が進展し、地方の大寺院が藩から与えられた寺領収入だけでは経済的に立ち行かなくなって行きます。寺務運営や伽藍修造の財源を民衆の財力、つまり人々のもたらす賽銭・ご開帳に求めなければならなくなります。そのために多くの参詣者を受け入れるための工夫が求められるようになります。

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善通寺西院
なぜ御影堂が大型化していくのか?

 善通寺の西院伽藍では17 世紀に2 度建て替えられた御影堂は、方三間から方五間、方五間から方六間へと、規模を拡大していきます。方六間となった際には、本尊の弘法大師御影を安置する場所を奥院として独立させ、礼堂=礼拝空間をより広くとっています。そして、19 世紀前期の建て替え時には方八間規模へグレードアップするのです。
 同時に、17世紀には西院境内では、客殿を西側(奥)へ後退させて、御影池前の境内空間を拡げています。それに引き続き18 世紀前期には、御影堂前に参拝者の増大に対応するための拝所と回廊が設けらます。さらに18 世紀後期には西院北側に参詣客の接待のための茶堂も設置されます。また、十王堂(18 世紀後期)、親鸞堂(19 世紀前期)なども新設され、参詣空間としての充実が次々と行われるのです。
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        善通寺東院と西院の絵図
御影堂の大型化とその前の空間が拡げられたのです
 こうして「新御影堂」が大師信仰の核に位置付けられます。そして御影堂を中心に、参詣空間が整備されていきます。 御影堂は、19 世紀前期の建て替えを経てさらに巨大化します。そして近代には、護摩堂・客殿が建立されます。今の御影堂を中心とする西院の伽藍構成は、17 世紀末まで遡ることができそうです。 

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西院の伽藍整備に生駒藩は、どう関わってたのでしょうか

 生駒藩は、天正15 年(1587)の初代親正(雅楽頭)入封以来、寺領寄進と伽藍造営を通じて善通寺の復興支援を行っています。その際の参考になるのが 下の『西院図』です。東を上にして西院伽藍の建築配置が描かれています。
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  寛永11 年(1634)に西院伽藍を描いた『西院図』の整備計画
 
『西院図』から分かることは? 
①現在進行中の「新御影堂」の修造・整備計画等が朱書で示されていること 
②客殿及び護摩堂の移築計画が描かれていること 
③「古御影堂」と「新御影堂」が生駒藩の有力者の寄進によるものであることが明記されていること 
④弘法大師800 年御忌という大きな節目に際し、御忌当日(3 月21 日)の日付で生駒藩の役人・尾池玄蕃の署名がなされ、善通寺に伝来していること 
が分かります。
 800 年御忌の当日という日を選んで、生駒氏のそれまでの伽藍寄進の実績と、今後の援助計画を明示した図を善通寺へ奉納することで、為政者の立場から、弘法大師信仰の篤さと善通寺を庇護する姿勢を示したものでしょう。もちろんその背景には、有力な地方中核寺院を政治的に掌握し、支配の安定化という思惑もも込めていたでしょう。 
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善通寺においては元禄年間より東院の金堂復興と平行して、西院では御影堂を信仰の中心とする伽藍配置が整えられていったのです。
 
 



五重塔は、いつ誰が建てたのでしょうか?

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春咲きに塩飽本島の島遍路巡礼中に笠島集落で御接待を受けました。
その時に、1冊の本が目にとまりました。「塩飽大工」と題された労作です。この本からは、塩飽大工が係わった香川・岡山の寺社建築を訪ねて、それを体系的に明らかにしていこうという気概が感じられます。

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この本に導かれて五重塔の建立経過を見ていきましょう。

善通寺の五重塔は、戦国時代の永禄の兵火で焼失します。その後、百年間東院には金堂も五重塔もない時代が続きます。世の中が落ち着いた元禄期に金堂は再建されますが、五重塔までは手が回りませんでした。やっと五重塔が再建に着手するのは、140年後の江戸時代文化年間です。これが3代目の五重塔にあたります。
ところが、これも天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。
そして5年後の弘化2年(1845)に再建に着手します。
そして約60年の歳月をかけて明治35年(1902)に竣工したものが現在の五重塔です。古く見えますが百年少々の五重塔としては案外若い建物です。
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1762宝暦12年着工の3代目五重塔の完成までの足取りは次の通りです 
1762宝暦12年 綸旨
1763宝暦13年 一重柱立
1765明和2年 二重成就
1777安永6年 三重柱立
1783天明3年 四重成就
1788天明8年 五重成就
1804文化元年 入仏供養
開始時の責任者は、丸亀藩のお抱え大工頭である山下孫太夫です。
棟梁が真木(さなぎ)弥五右衛門清次で、真木家は、塩飽本島笠島浦に住んでいた塩飽大工です。豊臣秀吉から650人の船方衆に1250石の領知を認める朱印状が与えられた時期には塩飽の有力な4家の一つとして島を運営した由緒ある家系です。真木弥五右衛門は、山下孫太夫の父である山下弥次兵衛の弟子であり、孫太夫とは義兄弟の一族でもありました。着工の際には、木材欅数十本、杉丸太400本余りを大阪で買い求めた史料が残っています。
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(東院に五重塔は描かれていません)

三代目の五重塔の完成まで42年かかっています。
あまりにも長くなったため、5層目の造立の時には塔脚が古びて朽ちそうになっていたようです。諸州を回って勧進しますが資金不足に悩まされ、丸亀藩に願い出て、金銭と材木2、500本をもらい受けて、塔脚の扶持としています。勧進により資金を集めながらの建設なので、資金がなくなれば材料も購入することが出来ず工事は長期にわたってストップするのが常でした。
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 浄財を集めながら塩飽大工・真木家(さなぎ)が棟梁として完成させた3代目五重塔です。
ところがわずか36年後の1840天保11年に、落雷による火災で灰燧に帰してしまいました。
この時の再建に向けた動きは早いのです。翌年には、大塔再建の願書草案を丸亀藩へ提出しています。1845弘化2年に綸旨が下ります。綸旨とは天皇の勅許であり、形式的手続きとして必須条件でした。
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完成への道のりは以下の通りです。4代目五重塔の建築推移

初代棟梁 橘貫五郎         初代棟梁  2代貫五郎  3代目棟梁
1845弘化2年 綸旨  ~9年間勧進        大平平吉
1854嘉永7年 着工     48才    20才
1861文久元年 建初  ~4年間工事  55才    27才 
1865応元年  初重上棟 ~2年間工事  59才    31才  
1867慶応3年 二重上棟 ~10年間 維新の動乱と勧進のため中断 
         初代貫五郎没(61才) 2代目貫五郎へ 33才 
1877明冶10年 三重着工 ~2年間工事  43才
1879明治12年 三重上棟 ~2年間工事  45才
1881明治14年  四重上棟  ~1年問 工事 47才    
1882明治15年 五重上棟   17年問 勧進のため中断48才 16才
1897明治30年 2代目橘貫五郎没(63才)      63才   36才
1902明治35年 ~9か月間 工事
1902明治35年 五重塔完成        三代目棟梁大平平吉36才

初代棟梁に指名されたのは、塩飽大工の橘貫五郎でした。

彼は善通寺五重塔の綸旨が下りた年に、備中国分寺五重塔を完成させたばかりで39歳でした。彼にとって2つめの五重塔なのです。この頃の貫五郎は塩飽大工第一人者の枠を超え、中四国で最高の評価を得た宮大工でした。同時進行で建設中だった岡山の西大寺本堂にも名前を残しています。 
西大寺本堂立柱前年の1861文久元年に善通寺五重塔を建て始め、
西大寺本堂完成の2年後1865慶応元年に善通寺五重塔初重を上棟
二重を工事中の1867慶応3年4月26日に初代貫五郎は61歳で没します。彼にとって善通寺五重塔は、西大寺本堂と共に最晩年の大仕事だったのです。

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貫五郎はこの塔に懸垂工法を採用しました。

心柱は五重目から鎖で吊り下げられて礎石から90mm浮いています。
この工法は、昔の大工が地震に強い柔工法を編み出したと、従来はされてきました。しかし最近では、建物全体が重量によって年月とともに縮むのに対して心柱は縮みが小さいため、宝塔と屋根の間に隙間ができて雨漏防止が目的であったとの説が有力です。
 五重塔は層毎に地上で組み立て、一旦分解して部材を運び上げ、積み上げていく手法がとられました。心柱も柄で結合させながら伸ばしていきました。五重目を組むときに、鎖で心柱を吊り上げたのです。これによって、建物全体が重みで縮むのに合わせて心柱も下がり、宝塔と屋根の間に隙間ができるのを防止する工夫だったようです。
 彼の死とあわせるように、資金不足と幕末の動乱によりそれから10年間工事は中断します。
塩飽本島生ノ浜浦の橘家には
「貫五郎は善通寺で亡くなり、墓は門を入って左側にある」
と伝わっているが、どこにあるか分からないようです。

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世の中が少し落ち着いてきた明治10年に工事は再開します。
初代貫五郎の跡を継いだのは2代目貫五郎です。
彼は1877明治10年、三重を着手する時に貫五郎の名を襲名しています。彼はほとんど一生を善通寺五重塔に捧げたともいえます。合間に数多くの寺社を残し、彫刻の腕前は初代に勝るとも劣らないと言われました。2代目貫五郎が五重を上棟したのは、5年後の明治15年48歳のときで、落慶法要が行われた明治18年まで携わったようです。しかし、この時には宝塔が乗っていません。宝塔のない姿がそれから17年間も続きました
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 日清戦争後に善通寺に11師団が設置されたのをきっかけに宝塔設置が再開されます。
そして、やっと1902明治35年五重塔の上に宝塔が載せられます。完成させたのは弟子の大平平吉で、この時36才でした。彼の手記には次のような文章が残っています。
明治15年3月に16才で2代目貫五郎の徒弟となり、五重完成後師匠に従い各所の堂宮建築をなし実地習得す、明治23年7月師匠より独立開業を許せらる」
とあります。
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五重塔の建立は、発願から完成まで62年がかかっています。

初代貫五郎と2代目夫妻の戒名が宝塔には掲げられています。
塔の内部に入ると、巨木の豪快な木組みに圧倒されます。初重外部の彫刻は豪放裔落な貫五郎流で、迫力に圧倒されそうになります。
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 木造、三間五重塔婆、本瓦葺の建築で、一部尾垂木と扉に禅宗様が認めらますが、純和様に近い様式です。高欄付切石積基壇の上に建築され、芯柱は6本の材を継いで、最上部がヒノキ材、その下2つがマツ材、そして下部3本がケヤキ材で、金輪継ぎによって継がれ鉄帯によって補強されています。また、各階には床板が張られていますので、階段での昇降が可能です。外部枡組や尾垂木などは、60年という年月をかけ三代の棟梁に受継がれて建てられたためか、各層で時代の違い違いを見ることができます。
 ちなみに建築に当たったのは塩飽本島出身の宮大工達で、彼らは同時期に、建設中だった金毘羅山の旭社も担当していました。
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 完成から約百年が経過し、所々に腐食が見られるようになったので、善通寺開創千二百年を迎えるに際の寺内外整備の一環として平成3年(1991)から平成5年(1993)にかけて修理が行われました。江戸時代の技法による塔婆建築の到達点を示すものとして価値が高く、平成24年12月28日に重要文化財に指定されました。


善通寺金堂の薬師如来像は、いつどこからやってきたのか?

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善通寺東院の金堂
善通寺の金堂に入ると丈六の大きな薬師座像が迎えてくれます。
この大きなお薬師さまと向かい合うと、堂々とした姿に威圧感さえ最初は感じます。このお薬師さまは、どのようにしてここに安置されたのでしょうか。それが垣間見える史料が残っています。
  戦国時代に戦禍で消失してから百年以上も善通寺には金堂も五重塔もない状態が続きました。江戸元禄時代になって、世の中が落ち着いてくるとやっと再建の動きが本格化します。そのスタートになったのは元禄七年(1694)に、仁和寺門跡の隆親王が善通寺伽藍再興をうながす令旨を出したことです。

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善通寺金堂の本尊は薬師如来

 金堂の方は元禄十二年(1699)に棟上されました。続いて、そこに収まる本尊が次の課題になります。
この薬師仏は誰の手によって作られたのでしょうか?
善通寺には、薬師仏をめぐっての善通寺と仏師とののやりとり文書が残っているようです。その文書から本尊の制作過程を追ってみます。
 善通寺が薬師本尊を発注したのは京都の仏師運長です。彼は誕生院光胤あてに、元禄十二年(1699)12月3日文書を4通出しています。その内の「御註文」には、像本体、光背、台座の各仕様について、全18条にわたり、デザインあるいはその素材から組立て、また漆の下地塗りから金箔押しの仕様が示されています。このような「見積書」によって、全国の顧客(寺院)と取引が行われていたようです。
1 善通寺本尊1
薬師如来(善通寺金堂)

 ついで翌年の元禄13年(1700)2月5日には、着手金の銀子三貫目が運長へ支払われています。
これに対して運長は次の「請取証文」3通を発行しています。
①6月 3日 銀子五貫目分、
②10月4日 銀子二貫九百五十目分、
③翌元禄14年に「残銀弐貫目」分を金三十両と銀二百六十目で請取った
制作費の総額銀十二貫九五十目分の支払いは、着手金を含むと都合四回に分けて行われたようです。

1 善通寺本尊3

薬師如来像の制作経過は、どのようなものだったのでしょうか。
仏像本体は三月中に組み立ててお目にかけ、来年の八月中旬までには、台座、光背の制作、像の下地仕上げなども完了させて仕立て、箱に入れて納入します。

と、雲長は、当初の予定案を示しています。
善通寺と雲長のやりとりの記録では、これだけしか分かりません。しかし、運長の記した「箱之覚」と京の指物屋源兵衛が運長にあてて出した「御薬師様借り箱入用之覚」があります。「箱之覚」とは薬師如来像を、京都で制作した後、善通寺へ搬入する際の梱包用仮箱の経費覚えで運長が書き留めたものです。
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金堂の基壇には古代寺院の礎石が使われている

薬師如来は、どのようにして京都から善通寺に送られたか?

 寄来造りですから分解が可能です。そのため薬師像本体は頭部、体幹部、左右両肩先部、膝部の5つのパーツに分けて梱包されたようです。また台座、光背ほか組立に必要な部材などもあわせると総計33口の仮箱が必要だったようです。
 京都で梱包作業が終わった後、善通寺までの輸送日程や経路については資料がないようです。仏や荘厳の品々を納めた33ケの箱は船で、大坂から積み出され、丸亀か多度津の港で陸揚げされ、善通寺に運びこまれたのでしょう。
 「仏像輸送作戦」を担当したのは運長の弟子の久右衛門と加兵衛という二人の仏師でした。二人が9月23日に善通寺側へ提出した銀請取証文高の総額三貫六百六十一匁六分の内訳の中に「箱代五百九十九匁九分」が含まれています。ここから久右衛門と加兵衛の二人の仏師が仏像輸送と組立設置などの作業をおこなったと研究者は考えているようです。作業終了後には、仏師二人に祝儀的な樽代八十六匁が贈られています。この頃までに薬師像の組立設置が完了したようです。
 
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 つまり薬師如来像の制作は、
①元禄13年2月5日に開始し、
②8月21日頃には像の下地仕上げが完成して仮箱も制作、
③9月23日には善通寺へ納入、組立完了
というおおよその流れがたどれます。
 しかし、薬師像の制作費の支払いが完了するのは翌年の元禄14年7月7日になっています。善通寺側の経費調達が必ずしも順調では無かったと研究者は考えているようです。
1 善通寺本尊2
 
 すべての支払い完了後に、誕生院僧正(光胤)は運長へ書状と祝詞の白銀五枚を渡しています。この書状の内容から誕生院にとって薬師如来の尊容が満足できるものであったことがうかがえます。運長自身も弘法大師「御誕生霊地」の造仏という意識をもって制作に臨んでいたことが分かります。元禄年間に出来上がった金堂と、そこに修められた薬師さんが300年以上経った今も善通寺の地を見守っています。
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参考文献 香川県歴史博物館 近世文書からみた善通寺の諸彫刻像 調査報告書第三巻

     讃岐の大麻山・五岳山は牧場だった?

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江戸時代初期、讃岐の生駒騒動により生駒家が改易となった時に引継史料として書かれた『生駒実記』に、こんな記事を見つけました。
「多度郡 田野平らにして山少し上に金ひら有り、
大麻山・五岳山等の能(よ)き牧有るに又三野郡麻山を加ふ」
多度郡は、平野が多く山が少ないが、山には金毘羅さんがある。
大麻山・五岳山(現、善通寺市)等には良好な牧場があって、これに三野郡の麻山が加えるということでしょう。牧とは牛馬が放たれて牧場となっていたと言うことでしょうか?

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ただ、大麻山と麻山とは一つの山の裏表で、多度郡側が大麻山、三野郡側は麻山と呼ばれている山です。現在は、琴平山(象頭山)と大麻山の二つのピーク名がついていますが、もともとは一つの山です。象頭山は、後の時代になって金毘羅さん側でつけられた呼称です。古くは大麻山でした。

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生駒高俊が琴平門前町の興泉寺に寄進した林

 大麻山に近接する山に地福寺山があり、ここに生駒高俊から興泉寺へ寄進された林がありました。
興泉寺(香川県琴平町) : 好奇心いっぱいこころ旅

興泉寺は、真宗興正寺派の寺院で、中世の本庄城のあった所とも言われています。もともとは金毘羅新町にありましたが、元禄元年の大火で類焼後この地に移転してきました。鐘楼には元和6年(1620)生駒正俊建立の額があります。鐘楼が寄進された時期に、林も寄進されたのでしょう。
 ちなみに幕末に高杉晋作を匿った日柳燕石(くさやなぎえんせき)が一時期住まいとして使用していた呑象楼(どんぞうろう)は、この寺の住職の隠居部屋でした。 燕石の幼名が刻まれた井戸枠も残っています。

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興泉寺の林への牛馬立ち入り禁止

 興泉寺に寄進された林に対して、寛永十四年閏三月十日の五ヶ村・金光院請書という文書には、
興泉寺林に牛馬を入れない、下木も伐らない
と約束しています。五ヶ村というのは買田・四条・五条・榎井の五村であり、金光院は現在の金刀比羅宮です。この五村は、おそらく大麻山と琴平山を牧場として利用していた地域だと研究者は考えているようです。これ以後は、大麻山などに近い地福寺山の興泉寺林に牛馬を入れない旨の誓約を興泉寺に対して出しています。それ以前には、この山も牧場として利用されていたのでしょう。
 どうやら本当に、大麻山には牛馬が放たれていたようです。
三野郡・多度郡・仲郡にまたがる大麻山・麻山山塊とこの近辺の山々一帯は、良質な飼い葉や柴草を供給する山だったようです。

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牛馬を入れることが出来なくなった百姓達は、どうしたのでしょうか?
寛永18年(1642)10月8日の「仲之郡より柴草刈り申す山の事」と入会の地について各村の庄屋が確認した史料には、
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山
として扱われていた記述があります。
 また、「麻山」は仲郡の子松庄(現在の琴平町)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務が課せられていました。仲郡、多度郡と三野郡との間の大麻山・麻山が入会地であったことを示す史料です。
 しかし、仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人には札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。佐文は麻山に隣接した地域であることから既得権が強い入会地となっていたのでしょう。これらからも大麻山と麻山およびその周辺の山々は、地味の豊かなためか牧や入会地などとして多面的に利用されていたことが分かります。
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しかし、このようなバランスは寛永十八年以後の郡切や村切が進むことによって、きしみを見せ始めます。
京極丸亀藩の時代になると、正徳五年(1715)の史料に、財田上ノ村昼丹波山へ仲郡佐文の百姓が入ったことで山論(山の利用をめぐる上での争い)が発生したことが記されています。これをきっかけに、神田山でも同様の事件が起こったと記されています。
さらに、約十年後の享保十年には、神田山に山番が置かれ入会地としての利用に制限が加えられるなど、山の境界をめぐってさらに取り締まりが強まっていったことが分かります。
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貞享五年(1688)に丸亀藩から出された達には、
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」
という条文があります。
林野(田畑でなく、山や野原となっている土地)などに生えている本竹などは藩の許可もなく勝手に切ってはならない、屋敷の周囲の藪林も大切に育てよとのお達しです。さらに史料の後半部にある焼畑禁止条項を見れば、藩が田畑のみならず山林全体をも含めて支配・管理しようとしたことが分かります。これは丸亀藩が田畑のみならず山林全体を支配することを示したもので、藩側からの山林への統制が進められていったのです。
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そのひとつが山検地でした。

山検地は、田畑の検地と同じように一筆ごとに面積と生えている木の種類を調査する形で行われました。先ほどの佐文・財田山・神田山などでも入会地の境界設定が進み入会地が縮小していったのです。山騒動の背後には、このように入会地の縮小でそれまでの既得権を失っていく農民達の怒りが背後にあったのです。
1 象頭山 浮世絵

11師団跡を探して善通寺街歩き その2 

赤門→ 歩兵第43聯隊 → 兵器部 → 師団司令部 → 工兵第11大隊→伏見病院跡 → 山砲兵第11聯隊 → 南大門  
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善通寺の繁華街 赤門筋周辺

駅前通りの河原町が、旅館街や師団相手の出入りの店が続く街並みであったのに対して、赤門筋は善通寺の繁華街でした。その中心は琴平参宮電鉄の善通寺赤門前停留所で、善通寺の参拝客や第十一師団関係の人々で賑わいました。
赤門筋の東の角には、県内でも有数の本屋林館がありました。歩兵操など軍隊関係の書物も多くあり、近隣からも人々がやって来ました。戦後は林館と名前を改め、文学書、学習書などを揃えて繁盛しました。
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兵林館のはすむかいには「千葉屋敷」がありました。

師団長宿舎は後にJR善通寺駅東にできますが、師団設立当初は、中将(師団長)、大佐(聯隊長)など高級将校は宮西・乾地区、大尉など尉官クラスは生野本町、南町などの借家に住んでいました。そんな中、大正末に地元の千葉熊太郎が、ガス、水道付で和洋折衷の玄関、応接間、座敷、奥座敷、坪庭、勝手口、女中部屋等のある文化住宅20数戸を建てます。地元で評判になったこの文化集宅には、高級士官達が住むことになります。千葉は軍隊の払い下げ品を扱う千葉商会の経営者でもあり、師団の情報にも通じていたようです。
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第十一師団の経済効果は各方面におよびます。

企業では、讃岐鉄道の発展、讃岐電気株式会社(1900)、藤岡銀行(1899、藤岡政太郎)、中立貯蓄銀行(1899、亀井長郎)、善通寺貯金銀行(1900、藤岡重吉)、善通寺牛乳株式会社(1898)の創業などが、挙げられます。
 軍隊の繁栄とともに、1898(明31)年富士見座、1921(大10)年には世界館ができます。世界館はドボルザークの「新世界」から命名されたものとされ、1920年代のヨーロッパやアメリカで流行したアールデコの建築様式を模したものでした。所有者は岸田勇三郎でしたが1992年に残念ながらとりこわされました。

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旧電車通りを南に進むと右手に森のような境内が広がります。

こんもりとした鎮守の森には、乃木神社と護国神社が並んで鎮座しています。ここは歩兵43聯隊があった場所です。大正の世界軍縮の一環で廃止されました。その空き地となった場所に、昭和になって作られたのが2つの神社です。
さらに旧善通寺西高、消防署が見えてきますが、西中・自衛隊第ニキャンプをふくむこの場所には大阪砲兵工廠善通寺兵器支廠があり、通称「兵器部」と呼ばれたようです。当時の『香川新報』によると、兵器の備蓄よりも騎兵の鞍等の修理を行っていたようで、給料支払方法をめぐって紛争記事が残っています。
 この兵器部東北隅に、捕虜収容所が敗戦末期に建てられたことは前回紹介したとおりです。 
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旧師団司令部 現乃木記念館

右手に自衛隊の第2キャンプ施設部を見ながら南に進むとT字路の突き当たり、四国管区警察学校の高い塀と鉄条網が見えてきます。これを右に折れて西進すると、師団司令部の入口が見えてきます。
 善通寺11師団は、四国の1県1聯隊で編成された歩兵4聯隊の他、騎兵・砲兵・工兵・輜重(しちゅう)兵あわせて約9千余人が配備されました。 
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1898年12月1日、師団司令部が開庁し、この司令部庁舎は10月に出来上がります。木造二階建、寄棟瓦葺きで北面には4つの越屋根が設けられています。この建物に初代師団長として入ったのが陸軍中将男爵乃木希典でした。そしていまこの建物は乃木記念館として公開されています。

 記念館の2階にある師団長室は、乃木資料室になっています。
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乃木希典はじめ旧第十一師団関係の資料が陳列されています。歴代師団長の顔ぶれには、「南京大虐殺」のときの中支那方面軍司令官松井岩根や、沖縄戦のときの第32軍指令牛島満の顔も見えます。
玄関で手続きを済ませると、建物の方に案内係が待機していて一人からでも入場ができます。車で訪れた場合は、ここで史料を見ながら「予習」後に散策することお勧めします。

この西側の住宅地から四国少年院にかけては 工兵第11大隊があった所です。
記念碑は、乃木神社の中にあります。
さらに奥には、旧善通寺子ども病院がありました。
この病院の前身は、軍隊の病院すなわち丸亀衛戌(えいじゅ)病院として出発しました。その後、善涌寺陸軍病院と改称し、日中戦争の開始と共に、送還患者が急増し、規模の拡大を迫られます。そこで、練兵場西北に分院(現子どもと大人の病院)を建築することになりました。その後の太平洋戦争開始による患者数激増で、増築可能な分院が本院となり、衛茂病院の設置されていたこの地は伏見分院となりました。
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敗戦後に、伏見分院は結核療養所を経て、小児医療を開始し、1975(昭50)年には、こども専門の国立療養所香川小児病院と「転進」していきました。さらに、香川県立善通寺養護学校が隣接して設けられ、病弱児の療養所や重度心身障害児の福祉施設としての機能を拡充させ、四国全体の小児医療をカバーする存在に成長しました。いまは、国立善通寺病院と統合され「子どもと大人の病院」と長いネーミングがつけられた病院になっています。
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善通寺自衛隊の中核施設第一キャンプ=旧野戦砲兵聯隊

  師団司令部と工兵隊の間の道から北を望むと、赤煉瓦の倉庫と善通寺の五重塔が見えます。ここから善通寺の南大門に向けては、整備された歩道が続きそぞろ歩きには最適な道です。この左手に広がるのが現在の善通寺自衛隊の中核施設第一キャンプです。
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 野戦砲兵聯隊は第十一師団が善通寺に設置された際に、丸亀にあった野戦砲兵聯隊が移転されたものです。1922(大11)年に山砲兵第十一聯隊と改称されましが、砲兵には、野砲・重砲・臼砲・迫撃砲・機関砲・速射砲などの大隊小隊がありました。
 戦後、GHQが警察予備隊の創設を指令すると、善通寺町はすぐ誘致運動を始めます。四国駐屯地はこの旧山砲兵聯隊跡に決定し、ここが陸上自衛隊善通寺駐屯地となりました。駐屯地の門を入り右手の北西隅に1969年に善砲会によって建てられた記念碑があります。

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五重塔に導かれて善通寺の境内へ歩いて行くと大きな門が待ち構えています。
日露戦争の戦勝記念として再建されたとの記録が残っていましたが、近年の改修で1908年3月と記載された屋根瓦が見つかり、それが確かめられました。
高麗門で、間口は、入って行くときに正面金堂を額縁に納めるように高く開いて5.64mもあります。正面本柱の背後には、控柱を立て袖屋根が架かっています。両袖の切石の基礎石の上に建てられた反屋根本瓦葺の太鼓塀は、壁外面に五線の定規筋が入っていることから格式の高さを示しています。間口が他の寺院の山門に比べて高いのは、11師団の凱旋を迎えるためであったと伝わります。
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 多くの凱旋部隊が、駅前からここまでパレードして、最後にこの門をくぐって境内で記念式典が開かれたのでしょう。しかし、15年戦争の激化と共に、凱旋パレードが行われることもなくなっていきます。ひとつの時代が終わろうとしていました。

善通寺11師団の跡をめぐって歩いてみましょう

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まず列車で降り立つのがJR善通寺駅です。

 この駅舎は現在は  登録有形文化財(建造物)に指定されています。
寄棟造を本屋として真壁造につくり,西正面やや北寄りに切妻造でハーフティンバー風意匠の車寄ポーチを張り出しています。舟肘木状の持送りなどに和風デザインもはめ込まれ和洋折衷の建物です。この建物は1922(大正11)年に当時のビッグイベントである陸軍特別大演習が行われた際に、モニュメント建築として建てられました。
当時の皇太子であった昭和天皇が統監のためやって来た際には、ここで乗下車されました。百年近くの歳月を経まていますが、近年改修され輝きを保っています。
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 駅前から真っ直ぐ西に伸びて善通寺境内五重塔南まで続く直線道路約1.2kmが完成するのもこの時です。整備された真っ直ぐで広い駅前通りを人力車や馬車が行き交いました。その道筋を進んで行きましょう。
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駅前通りの南側(左手)に師団の各部隊が配置されていました。

現在の市役所は、軍の水源地でした。そして、その奥に偕行社が建っています。偕行社とは、旧日本陸軍将校の親睦共済団体です。「偕行」とは一緒に進むという意味で「詩経」に由来します。この建物は第十一師団の将校たちの社交場として1903(明36)年5月に新築落成しています。
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先ほど紹介した陸軍特別大演習のときには昭和天皇の仮泊所となりました。敗戦後には、進駐してきた英軍の慰安施設ダンスホールに使われたこともあります。その後は、善通寺市役所等として使われ、現在は改修を受けてお色直しをした上で善通寺市立郷土館として使われています。

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駅前通に戻って、西進すると善通寺郵便局が現れます。

郵便局の玄関脇に輜重(しちょう)部隊の碑があります。

ここが輜重部隊第11大隊の正門でした。輜重兵とは、軍隊に付属する食事・武器・弾薬・衣服などの輸送供給に当たった部隊です。師団の軍人9000人の衣食住に必要なものは、ここに納入されました。出入りの業者が忙しく出入りした所です。現在、郵便局の裏は、自衛隊の自動車教習所となっていますが、東中学校までの広大な区画を占めていました。

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善通寺駅前の片原町は、旅館街でした。

 わたや・広島屋・山下屋・朝日屋・吉野屋・万才屋・高知屋・塩田旅館・大見屋などの第十一師団指定の旅館が並び、各地から面会に来る大勢の家族が利用しました。利用客の多い時は、ー部屋を同じ地方から来た数組の家族が利用したそうです。また召集のかかった時などは、旅館だけでは間に合わず近くの間数の多い家に割当られました。しかし、費用は、一切軍からでなかったようです。まさに、軍に奉仕する無償のボランテイアだったようです。

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この辺りは旅館以外にも軍に関係する商店が多く並んでいました。
駅前には
軍人の古着・古靴を再生し軍に納めていた店、
軍人や一般の人のために真心石けんやメリヤスを売る店、
桜模様をはじめ様々な模様の大ったさかずきを除隊時の土産用として売るさかずき屋、
兵士の記念写真などを写していた水尾写真館
が軒を並べていました。
また、市役所前の瀬川酒店は当時の師団長から店の酒を大変おいしいと言われ「師団一」という名前をつけてもらっています。しかし、「師団一」というお酒も戦後にふさわしくないということで改名したようです。 今では当時の旅館街もなくなり、近年まであった瀬川酒店も姿を消しました。
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市民会館・四国学院は騎兵隊跡です

駅前通りを進んでいくと市民会館です。この玄関前には馬の頭部のレリーフを埋めこんだ碑が道に沿って建てられています。ここには騎兵連隊が置かれ、軍馬が飼育され、広い馬場もありました。

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 第一次世界大戦までは砲兵が大砲を発射し、騎兵が包囲攻撃や中央突破で敵陣を混乱させ、その後歩兵が銃に着剣して肉迫し、白兵戦でとどめをさすという戦法でした。
 香川県でも1904(明37)年「徴発馬匹取扱規則」を定め、馬籍簿を作成して馬の届出を義務づけ、軍への供出に備えさせました。皇子の森に繋留の設備を設け、兵隊の召集に準じて、農耕馬の徴発を行ったのです。
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 この区画は、現在は市民会館、図書館、観光協会、商工会議所、四国学院大学、検察庁、裁判所などの敷地で広大なものです。敗戦後には、イギリス連邦軍が使用しました。一部の建物が四国学院の中に残っていると聞いて行ってみました。
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正門から入り守衛さんに許可をもらって、キャンパスを歩くと・・・
二階建ての騎兵隊兵舎が四国学院大学の教養部棟として今も使われていました。このキャンパスをかつては、軍馬が闊歩していた時代があるのです。それを戦後直後の航空写真で、騎兵隊跡を見ておきましょう。
善通寺航空写真(戦後)
戦後直後の善通寺の航空写真
この写真からは護国神社の東側には、広大な面積を持つ騎兵連隊があったことが分かります。拡大して見ましょう。

善通寺騎兵隊 拡大
善通寺11師団の騎兵連隊
騎兵連隊は、現在は四国学院のキャンパスになっています。現在は駐車場となっている東側に馬舎が4棟、その南側と西側に乗馬場が広がっています。護国神社側に西門が見えます。騎兵隊本部は、このあたりにあったようです。そして、さきほど見た2号館も見えます。2棟あって、そのうちの東側の1号館は、後に取り壊されたようです。
もう少し後の別の角度からの写真も見ておきましょう。騎兵連隊跡 四国学院
四国学院大学創立期の航空写真
この写真を見ると、四国学院の東隣にあった輜重隊には自動車学校のコースが作られています。そして4棟あった馬舎は姿を消して陸上コースになっています。

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騎兵隊本部だった建物(現在はホワイトハウス)

四国学院の西側にある護国神社と乃木神社の神域や中央小学校は、歩兵43聯隊でした。

 第十一師団初代師団長であった乃木希典は、東郷平八郎とともに日露戦争における国民的英雄となります。 そして、1912(大元)年9月明治天皇の葬儀にあわせて、乃木希典、静子夫妻は殉死します、
うつし世を神去りましし大君のみあとしたひて吾はゆくなり
が辞世の歌でした。
遺書には、98(明10)年の西南戦争で西郷軍に軍旗を奪われた責任をとるため死ぬ機会を待っていたことが書かれていました。
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 翌年1913年 中央乃木会が組織され、赤坂新坂町の屋敷の小社に夫婦の霊を祀っります。これが1919年乃木神社として認められ、戦争の拡大とともに「軍神」として厚く祀られるようになります。そのような機運の中、1932年善通寺町議会でも歩兵第43連隊跡地に乃木神社建立を決定し、1937年拝殿落成の式典が行われています。15年戦争が泥沼化していく世相の中、国定教科書には軍神として祀られていきます。
 2002年に本殿・拝殿・手水舎・鳥居・社務所が登録有形文化財に登録されています。
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乃木神社の北東には、憲兵隊司令部が置かれました。

ここから四国各地に分隊が設置されました。善通寺分隊は現在の百十四銀行善通寺支店の所にありました。憲兵は軍規律維持と冶安維持の二つを任務としていました。軍服に黒の襟章、白布に赤で憲兵と染めた腕章をつけ、士官以上が任務につきました。靖国神社(現護国神社)の前を通る際には、最敬礼を行わないと叱咤を受けたといいます。
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旧善通寺西高校跡は捕虜収容所でした  

 護国神社の南側には廃校になった善通寺西高校の校舎があり、運動場側には消防署が新築されました。ここには敗戦直前に捕虜収容所が建てられました。1942年1月16日グァムの俘虜422名が多度津港に上陸して以来、終戦時まで収容されていました。他の収容所にくらべ労役の義務を課すことの出来ない将校の比率が高かったようです。
 20畳ほどの部屋に最大で20~30人が居住し、ベッドの間隔が15cmという時期もありました。戦争の激化と共に食料事情も悪化します。担当者の苦労にも拘らず収容者の体重が1年半で平均24.3kgも減少し、医薬品等も不足します。収容者は大麻山の開墾や荷役作叢日立造船(向島、因島)などでの労役につきました。
 敗戦間際になり傷痍軍人が警備員等に増えると日常的に殴打の私的制裁が行われ、戦後には関係者8名がBC戦犯とされました。

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 この収容所の存在が、軍都善通寺が空襲を受けなかった理由だとされています。前半部はここまでです。



11師団と善通寺 遊郭設置問題について

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偕行社
日清戦争後1897年に、師団設置が決まると師団工事のため多くの労働者が善通寺に流入します。その数は3000人~5000人になります。入営してくる兵士たちも増えることが予想されました。善通寺では風紀の乱れが懸念されるようになります。その結果、
公娼を設けされは思はさるの惨状を極むること無しと言い難し」
として遊郭の善通寺への設置が県によって計画されます。
しかし、遊郭の設置場所について利権の絡んだ対立と紛争を招きました。香川新報では、当時のようすを次のように報じています。
「村費は師團地たる以前は、経常費一千六百円位なりしに一朝師團地となるや大に増加し、三十年度の経常費は二千八百餘にて殆と三千圓に垂らんとするに至る。設置前期の如く(善通寺村の)東北部の多く免租地となりし土地の以前負担せし経費に恩澤を被らざる西南部山間居住者か多く負擔せざる可からさることなり。のみならす彼の賑盛の地に住みし多く師團の恩澤を蒙る人民は公民権を有する者すら少なき有様なる。以て戸數割負擔の如きも西南部の住民に比すれは大に少なし。慈に於てか遊廓地を西南部の地に相せば之に連れて諸種の商業家も出來掛可けれは是非遊廓地は西南部の地に置かんとの希望に全地方住民の頭脳は悉く之れありたり」
意訳変換しておくと
村費に関しては師団設置以前は、経常費1600円程度の規模であった。ところが師團ができると、大幅に増加し、明治30年度の経常費は、2800円にまでなった、師団が出来ると、師団の土地は官営なので免租地となり、税収は大幅に落ち込んだ。一方、土地買収などに恩澤を受けなかった西南部山間部(有岡地区)の住民が多くの負担を被ることになった。
 そればかりか市街地化した地区に住む住人は、師團から多くの恩恵を受けながら、公民権を持つ者が少ない有様となった。このため戸数割負担などの面から見ても、有岡地区の住民の不満は大きくなった。そこで、遊廓地を有岡の地に誘致すれば、さまざまな商業地も生まれ、有岡の発展になると考えた。そのためにも、遊廓地は有岡に設置しようという機運が住民の間には高まった。
11師団設置前後(M30年)遊郭位置
明治30年の11師団配置図 有岡には軍施設はない
善通寺村では、田んぼが国により買い上げられ、そこに師団が設置され官有地となりました。官有地からは税金が入ってきません。そのため税収入不足を補填するために、地租税督促に係る手数料条例の制定など、村費の増収を図ろうとしました。これに対して、軍用地として土地買い上げの恩恵を受けなかった善通寺西南部(有岡)の住民の負担は増すばかりです。

11師団 有岡の遊郭候補地

明治30年の十一師団配置図と3つの遊郭誘致候補地

この対応策として、善通寺大池周辺の有岡の住民は遊廓を誘致を進めようとします。
上の拡大図を見ると、有岡周辺の3つが候補地だったことが分かります。しかし、有岡地区住民の県に対する再三の請願もむなしく「兵舎から近すぎる」との理由から却下されました。そして、県が計画当初に候補地としていた善通寺西部砂古裏地区に工事が着手されます。それは師団司令部開庁の1898(明治31)年のことでした。
11師団配置図(明治29年)遊郭入り
遊郭候補地が赤く書き込まれた地図(明治29年)

明治29年に書かれた上の地図を見ると、香色山の北側麓の地に「遊廓用地1万五千坪」と書き込まれています。

11師団配置図 遊郭
上図拡大図
軍は、遊郭をどこに設置するかまで、この時点で腹案をもっていたことが分かります。これでは、有岡の住民達の誘致運動が成功するはずがありません。
 ちなみにこの地図には、練兵場の位置が各連隊に挟まれるようにあります。砲兵隊や騎兵隊の実際に設置された場所とも異なります。その後に、変更があったことがうかがえます。 
大正11年の「最新善通寺市街図」 には、実際に設置された遊廓の位置が記されています。
善通寺地図北部(大正時代後期)善通寺・遊郭
大正11年の「最新善通寺市街図」
善通寺町西山のあたりで現在は住宅街となっていますが、道幅が広くなっている一画もあります。古い住宅地図によると、この付近は「砂古裏」と呼ばれていたようです。妓楼は、寿楼、花月楼、第二寿楼、房栄楼(ふさえいろう)、朝日楼、豊楼、陽貴楼、大正楼、吾妻楼、勇誠楼、いろは楼の11軒があり、常時50名ほどの娼婦がいたようです。明治の都市計画には、遊郭設置まで含まれていたようです。
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この遊郭設置をめぐる新聞記事からは、師団設置による善通寺への影響には住民ごとに「格差」があったことがわかります。恩恵を受けたのは、土地買収に応じた地主達、そして新たに師団を相手に商売をはじめ出入り業者となった富裕層です。それと対照的に、有岡大池周辺の住民は、土地の官有地化によって切迫した村の地租財政の犠牲者として、急激な近代化プロセスに埋もれていったと言えるのかもしれません。有岡の住民の遊廓地請願は「師団兵舎から近すぎる」という軍部優先の理由から一蹴されたことは、象徴的な事件のように思えます。
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ちなみにこの遊廓問題の後、県は善通寺村の行財政運営の困難を懸念し、1901(明治34)年に隣接する吉田村及び麻野村を合併させ、善通寺町が発足することになります。

参考文献 柴田久 師団設置による都市形成への影響に関する一考察
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善通寺にやってきた師団は、産業に何をもたらしたか?

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設立されたばかりの電力会社には追い風に・・

まず、電力関係では、設立されたばかりの讃岐電灯株式会社の成長の追い風になりました。師団創立の前年に操業を始めたこの電力会社は、需要数の拡大に苦戦していました。しかし、師団開設後の日露戦争期に師団から電灯等の大口契約を受け、1000灯余りが新設されるなど順風が吹きます。
 また金融面では、師団設置に伴う金融的処理の激増を受け、1900(明治33)に百十四銀行が善通寺に支金庫を設置、国庫金の取り扱いを開始します。さらに1913(大正2)年には善通寺支店に格上げされます。

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駅前通には旅館が建ち並ぶ 

 善通寺駅前通りの片原町付近では、師団指定の旅館が建ち並ぶようになります。特に戦局が激しく多くの兵隊が召集された際には、郷土から面会に来る家族の利用で大変賑わったといいます。また利用客数も多く、師団指定の旅館で部屋数が足りない場合には、間数の多い一般の民家が客を泊めたそうです。
 片原町では旅館の他、師団相手の商店が建ち並ぶようになり、兵隊の記念写真を撮影する写真館や軍靴を修理して販売する店、土産用として杯を売る店など様々な顔ぶれがそろいます。この頃、農村部における麦桿真田共同販売組合の設立、これに関連して善通寺町隣接村にも有限責任信用購買組合が設立されるなど、いわゆる経済行為の組織化が進行していきます。
 一方、歳入の約7割を町税で賄っていた善通寺町の財政基盤は、1902(明治35)年~1913(大正2)年の合計予算額はおよそ平均3万7千円程度にまで膨らみます。師団開設以前の1890(明治23)年の約1213円から比べると30倍近くの急激な伸びとなっています。

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昭和恐慌の影響をあまり受けなった善通寺?

 昭和初期の日本経済は1921(大正10)年に起こった関東大震災を引き金に、1927(昭和2)年の金融恐慌によって大打撃を受けました。香川県下においても銀行の取り付け騒ぎが各地で起こるなどの混乱が起きましたが、善通寺町は例外として恐慌の影響が少なかったようです。
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1926(大正15)年、琴平銀行の休業や高松百十四銀行善通寺支店の取付けなど、金融恐慌が襲いかかってきます。しかし、善通寺支店の取付け期間はわずか一日で、終わります。
これにはいくつかの理由が考えられるようですが、一つは善通寺町の製造業を中心とする第2次産業の割合が低かったことが挙げられます。さらに当時は第十一師団の存在と善通寺参詣道に沿った道路に関わる公共事業が展開中で、好景気感が強く住民が深刻な不況を感じる雰囲気になかったようです。
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「昭和二年の善通寺町会会議録」で当時の予算編成について見てみると、招魂祭諸費に1000円を計上していることや、遊興税徴収交付金が144円増加となった理由を
「遊興税徴収額が前年度に比して増収の見込みである」
と記されています。軍都 + 門前町としての観光と軍人の遊興飲食に関するサービス業が繁盛し潤っていたことが分かります。善通寺には1899(明治32)年に完成した劇場「富士見座」や、善通寺南大門南にも「大栄座」という劇場が存在していて、入場客も多かったのです。
むしろ善通寺の場合、金融恐慌ではなく、1925(大正14)年陸軍歩兵第四十三連隊の徳島移動など、連隊縮小や移転などの「軍縮」の方が大きな問題でした。

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15年戦争下の善通寺は?

 日本は1937(昭和12)年、日中戦争から15年戦争に突入していきます。これに応じて第十一師団の出動・帰還も多くなり、善通寺では師団に対して町をあげての歓送迎が行われました。善通寺駅からの出征には町役場でサイレンを鳴らして町民に予告し、出征軍人の家族はもちろん、町長、町会議員、役場を始めとする公務員、その他の団体代表者、小中学校の児童・生徒をあわせ、約7000人が毎回見送りに出ました。
 1939(昭和14)年の善通寺銃後奉公会の設置や、「善通寺町税条例」(生活用品に税をかける)を施行して戦争に協力し、師団が身近にある環境として、軍部への協力姿勢には強いものがありました。
 しかし、戦況が悪くなるにつれ、強い統制経済下における物資不足と物価高騰、出征による人員不足(労賃の値上がり)により、善通寺の主たる事業となっていた土木工事や建設事業に支障がでるようになります。

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どうして軍都 善通寺は空襲を受けなかったの?

敗戦末期の1945(昭和20)年2月に香川県下(観音寺町沖合)で初めて空襲があり、第十一師団地の善通寺も、本土決戦や防空訓練など臨戦態勢をとります。
 しかし、善通寺は軍都にもかかわらず空襲を受けませんでした。
それは1942(昭和17)年1月に国内で初めて開設された善通寺捕虜収容所があったためとされています。敗戦時にはアメリカ将校・准士官以下544名、イギリス404名が収容されていたです。その存在により戦災を免れました。
 敗戦に伴い11師団は高知で解体され、終焉を向かえます。その後、師団の土地、建物は一旦国有財産化されますが、その後町の復興計画として払い下げられます。

片田舎の善通寺に師団がやって来たのはどうして?

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赤煉瓦の旧11師団倉庫と善通寺五重塔

日清戦争で得た賠償金は3億6000万円は、当時の国家予算の3年分にあたるものでした。その約84%は軍事費に使われたと言われます。その使用用途のひとつが次の戦争に備えての師団増設でした。師団空白地帯だった四国については善通寺が選ばれます。それまで城下町に設置されていた師団が、四国では田舎町に設置されることになります。
なぜ善通寺が選ばれたのでしょう。そして、善通寺はどのように変化していったのでしょう?
善通寺村略図2 明治
明治の善通寺村略図(善通寺の周りに市街地はない)

それまでの善通寺は片田舎?

 江戸時代の善通寺村は、真言宗善通寺の小さな門前町として成立し、四国八十八カ所巡礼や金比羅参りの宿場町として栄えてきたといわれます。それではいったいどのくらいの規模の「町」だったのでしょうか。1890(明治23)年の人口は、
善通寺村 3,099人、戸数637
竜川村  3,737人、戸数799
また、善通寺境内周辺の戸数は約250程度で、主な建造物も善通寺以外に見当たりません。 善通寺村の当時の閑散とした様子がうかがえます。宿場街とは言えないようです。

善通寺村略図拡大
明治の善通寺周辺拡大図

なぜ、お城のある高松や丸亀に置かれなかったかのでしょう?
1896(明治29)年、第11師団の司令部設置が善通寺村に決定します。
それまでの師団司令部は、県庁所在地などに設置されてきました。城下町でもない片田舎の善通寺村への設置決定は異例でした。なぜ、高松や丸亀に置かれなかったのでしょうか
「師団選定二関スル方針」によると、
(1)多度津・詫間等の港湾が近い
(2)湧き水などの地下水源が豊富
(3)大麻山、五岳山の周辺環境が、演習時の軍事訓練に最適
(4)松山・高知・徳島の各連隊への運輸交通手段の便利
確かに丸亀・高松はお城はありますが、師団設置が出来るほどの広さを確保することは難しかったようです。また、多度津港は当時は香川県NO1の港湾施設を有していましたし、そこと鉄道で結ばれていると言うことは何かと便利でした。
 ちなみに師団建設に使われた煉瓦は、観音寺の財田川河口の工場で焼かれ、船で多度津へ輸送され、そこから列車で善通寺に運ばれたそうです。大陸で起きるであろう次の戦争への出征を考えても、処理能力のある港湾施設は必須です。
 それと日清戦争の経験から次の日露戦争にむけて考えなければならないのは、重火器・騎兵の整備・訓練や医療設備の充実などです。そうすると野砲が撃てる射撃場や訓練所が必要になってきます。広い練兵場や周辺には山砲射撃場も必要です。そうすると丸亀で手狭になります。善通寺は背後の大麻山が射撃場として使用できます。そんな思惑もあったようです。

 
11師団司令部開庁通知

11師団司令部開庁通知

師団開設が決定した翌年に、隣の吉田村では次のような文書が作成されています。
「師団新設ノ結果、戸数ノ繁殖多大ナル今日ニシテ、数年ヲ出デズ大都市トモナルベキ有望ノ地二付」
意訳変換しておくと
「師団新設の結果、人口や戸数が大幅に増加し、数年のうちに大都市に成長する有望な地」

ここには、
師団開設によって営舎・施設建設、将校兵の増加などで、急速に都市化して、将来的に有望な地域に発展していく予想と、大きな期待が寄せられています。 
 こうして1898(明治31)年12月1日、第十一師団は善通寺に開庁されます。
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師団設置決定は、善通寺に地価上昇をもたらします。

香川新報(四国新聞の前身)には、第11師団の用地の総買収面積について「百八町八反五畝二十五歩」(一町=約0.991ヘクタール)と報じ、善通寺村の地価について次のように報じています。
「一反歩七十圓位の地は三百圓位に上騰せる様報し置きたる庭、昨今の虚にては一反歩六百圓或は七百圓と云う有様にて殆と手を兼る向も少なからす」
意訳変換しておくと

もともと田地は一反70円の相場があったが、(師団設置が決まると)300円まで上がり、最近では700円という有様であると、

そして、地主による地上げの横暴さを伝えています。さらに地価は1898(明治31)年には約2.5倍の1800円までにうなぎ登りに上がっていきます。いつの時代もそうですが土地買収で大金を手にした地主達が大勢現れました。彼らが新たな商売に進出し、連隊前に店を構えるようになります。
 師団用地の買収については最初は、地主が小作への償金を一反歩につき三十円交付する取り決めでした。ところが手数料と称し七円を差し引き二十三円しか支払わない事件が起きています。これに対して小作者は訴訟しています。

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1897(明治30)年、第一期工事として、次の各営舎が完成します。
騎兵第十一連隊
歩兵第四十三連隊
山砲兵及び歩兵第二十二旅団司令部
1898(明治31)年には、第二期工事として次の各営舎が完成します。
輜重兵第十一大隊
工兵第十一大隊
第十一師団司令部の各営舎
この工事期間中、善通寺には工事関係者が2000~3000人近く流入しました。120年前の善通寺は大建築ラッシュで、それまで田んぼが造成されて、軍関係の大きな建物が次々と建ち並んでいき、駅前通は大変貌していたようです。

十一師団建築物供用年一覧
11師団各建築物の供用開始年一覧

軍都善通寺の道路整備は、どうすすめられたのでしょうか?

大正期の善通寺では、各種インフラ整備が進められます。
例えば市内の道路整備が進められますが、特徴的なのは道路の広さです。大規模な軍事輸送に耐えれる道路整備が求められた結果、市街地を縦横に貫く広く整然とした道が伸びていきます。

善通寺航空写真(戦後)
一直線に伸びる広い善通寺の道路

 1922(大正11)年には、善通寺駅から善通寺境内五重塔南までの直線道路は約1.2kmが完成します。そして整備された道を人力車や馬車が走り出します。
 師団で廃用となった馬を払い下げてもらい乗合馬車が走行します。
当時の乗合馬車は箱型・鉄輪の四輪車で、馬一頭のタイプと二頭のタイプがあり、馬一頭の馬車は定員が10名程度でした。その後は乗合自動車(バス)、タクシーなどが行き交うようになり、師団の入隊や除隊者で利用者も多かったようです。

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 しかし、道路面積が広がると維持費が増えます。
当時の里道・県道は、赤土に砂利を入れて固める整備方法でした。そのため台風や大雨に弱く、補修のための支出が耐えませんでした。激しい軍事輸送のため莫大な復旧費を必要とし。善通寺町の土木財政状況は常に火の車でした。
陸軍特別大演習で整備されたのは何か?
1922(大正11)年に、当時のビッグイベントである陸軍特別大演習が善通寺で行われます。これを前に、建築物や輸送手段が一新されることになります。特に生活環境を大きく変化させたのは琴平参宮電鉄の開通です。
 すでに讃岐鐡道は1889(明治22)年に多度津を起点とし、丸亀一琴平間で営業を始めていました。善通寺に師団が置かれた理由の一つが鉄道で多度津と結ばれていることでした。開業当時の客車は俗に「マッチ箱」と呼ばれる定員20名の小型のもので、善通寺駅も金比羅参りの通過地点として小ぶりなものでした。

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 陸軍特別大演習とは

西軍(第五師団・広島)と東軍(第十一師団)によって三豊郡と仲多度郡において3日間の模擬戦闘が行われたものです。それに、当時の皇太子であった昭和天皇が統監のためやって来ることになります。

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皇太子(後の昭和天皇)の讃岐での演習視察
そのため様々な記念事業が行わます。その一つとして讃岐鉄道の善通寺駅が改修されたのです。それまでの善通寺駅は大変狭く、師団の大移動時などに限界がありましたので、これを機に改修がなされます。

善通寺駅 初代
初代善通寺駅
 当時の「香川新報」では「善通寺新駅の美観大改修を加えて面目一新す」との見出しにより、次のような記事を掲載しています。
本驛舎は切破風を造り平屋建にて建坪八十坪五合にて正面に車寄せ新設し 此表面三間横二間一尺にて待合所は十間に五間南手にある。二等待ち合所は二間半四方。驛長室は二間半四方出札室は三間半四方北手にある小荷物室は二間半歩廊は幅二十一尺延長六百尺下り歩廊は幅六百尺延長十八尺線路の階段をアスファルト塗とし歩廊屋根を新に葺くなど何れも新築同様に面目一新した」
jnrzentsuji善通寺駅
現在の善通寺駅(1960年代頃)

新しく近代的駅舎として生まれ変わった善通寺駅は、新たな善通寺の名所になります。また、それまでの定員80名という客車の輸送能力アップと共に都市的な生活環境への変化を感じさせるものとなったようです。
 さらに大演習の記念事業の一つとして挙げられるのが琴平参宮電鉄(琴参:路面電車)の開業です。琴参の計画案を見ると善通寺駅逓は現JR駅の前にあるのです。私の記憶では、赤門前を通って琴平へ抜けていたはずなのですが・・・
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大麻付近を走る琴参電車 向こう側に土讃線と四国新道

琴平参宮電鉄の路線が変更された理由は?

11師団配置図

この鉄道の善通寺の終点は、計画では現善通寺駅前でした。そして琴平への路線は拡張整備された駅前通りを真っ直ぐに西進して、善通寺南門まで進みます。そこから直角に南に曲がって、師団本部前を通って琴平まで延長する計画でした。まさに、師団の各隊を縫うように路線は考えられていいました。ところが、この路線は実現しませんでした。その理由は、騎兵第十一大隊から次のようなクレームがでたからです。
「電車の騒音が軍馬の訓練教育上支障を来す」
確かに騎兵隊は現在の四国学院にありました。「その前を電車が通ると、騒音で軍馬の育成に支障がでる」というのです。

善通寺地図明治34年
明治34年の善通寺

これに対して琴参側は「善通寺への参拝客や師団の軍人や家族の面会人の利便性のために・・」と計画案を計7回申請しています。しかし、当局に聞き入れられることはありませんでした。2本北側の赤門通り前を左折し、本郷通りを通るルートに変更されたのです。

DSC02304琴参電車 善通寺本郷通り1957年
          本郷通りを走る琴参電車
このため駅前通りに琴参電車が走ることはなくなりました。確かに、土讃線善通寺駅で降りて、そこにある琴参駅で乗り換えられた方が利便性は高かったはずです。今の私からすると、当時の軍隊の尊大さや事大主義を感じますが、当時は軍隊は何より強い存在でした。

善通寺駅/土讃本線―1964-12-27

琴参電車が走る予定だった善通寺駅前通(1964年)
こうして師団勤務の軍人9000人 家族も入れると一万人を越える人々がこの地で生活するようになります。その人々への衣食住の需要をみたす施設や商店が整備された駅前通の北側に並ぶことになります。そして南側には、軍施設が連続して配置されます。駅前の北と南では対照的な風景が軍都善通寺の特色となりました。

シーボルト 瀬戸内海を行く 鞆から室津まで

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シーボルトの船は、鞆の港も素通りしてゆきます。
オランダ商館長が、よほどに先を急いでいたらしいのです。無理にも船を動かそうとします。しかし、帆船の時代に風に逆らい、潮流にあらがって進むのはムリです。
そのときは曳船を雇うより他は仕方がありません。
このときも、商館長の命が降ります。
船は曳船四十艘をやとって水島灘を漕ぎ進みます。
「四十艘に百五十、あるいはそれ以上の擢」とありますから、三挺櫓や八挺櫓の舟なども混ていたのでしょう。船は、風のない瀬戸内の海を、東へ進んで白石島、塩飽諸島と過ぎてゆきます。
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 シーボルトの船は、この辺りの島々を抜けていきますが、そのときに右手四国の側に金毘羅のある琴平山をみたとあります。琴平山は海の神様として有名な金刀比羅官のある山です。
金刀比羅信仰が盛んになり、全国から参詣客が集まるようになったのは徳川時代に入ってからです。丸に金の字の入った御礼が海難除け、災害除けの護符として飛ぶように出ていきます。船乗り達にとって、それは羅針盤と同じほどの必需品になっていました。 

山陽側の下津井も、屈指の港でした。

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ここにも下津井節として古くから伝わる唄があります。  
下津井港は入りよて出よて
  まともまぎよて まぎりよて∃
   金波楼から鹿の子が招く
  上り 下りの船とめるヨ
といった文句です。いまは縫製工場となった土蔵造りが目立ります。
しかし、この倉庫造りは北海道から運ばれてきた鰊柏が、山と積み込まれた鰊庫でした。日本海から瀬戸内に入った北前船は、こうして中国地方の港にその積荷をおろしたのです。それが、綿花の肥料に使われ、この地帯を紡績地帯に育て上げます。
 さて、シーボルトの船の後を追いましょう。
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船はその日の夕方、児島半島の日比に着きます。

 そしてまたも船中で一泊、翌日早く日比に上陸を許されます。
そこでシーボルトは植物や山石石の観察をし、塩田の視察などを行なっています。
彼は、瀬戸内の航海についてこう述べています。 
「山水の自然なる美観に比べて見劣りもなく我等を慰むるは、此の海上の活澄なる交通なり。吾人は数百の商船にあひたり。無数の漁舟は、日の中は楽しげなる櫂の歌にてあたりを賑やかし、夜は焚く火に海の面を照州らすなり一
山水の美観とともに心を楽しましてくれるのは、行き交う舟だ。出会う商船ばかりでなく、漁船の楽しげな歌声があたりを賑わわし、夜は漁り火が海面を照らすと書いています。瀬戸内海の交通の賑やかさと、シーボルトが楽しんでいる様子がが伝わってきます。

その日はまた風がありません。
シーボルトの船は、再び曳船をやとって日比の入江を出ますが、潮流の関係で船はそこから進まないのです。ついに、その港外で休み翌日、西風を得て右方に直島諸島、次いで小豆島をみながら、家島群島の西方を北上して室津の港に入ります。
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一般の商船なら、牛窓〔岡山県)の港に入ったでしょう。

牛窓もまた朝鮮通信使の船が停泊した港町です。
港のすぐ近くに本蓮寺の堂々たる建物がたっています。    
牛窓の浪のしほさい島よみ よせてし君にあはずかもあらむ
 という歌が万葉集に出てきますが、牛窓は奈良朝時代からの重要港でした。
ここは、すぐ近くに虫明の瀬戸があり、潮待ちの港としてどうしてもここに停まらなければならなかったのです。 
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さて、室津もは、古くから栄えた有名な港です。

四国に流される法然上人も、この港で数日を送っています。
徳川時代の西国大名たちは、ここで上陸し行列をととのえて山陽道を進みました。
ここには、さつま屋・肥前屋・一津屋・紀伊国屋・筑前屋等の海の本陣や脇本陣が軒をならべていました。なかでも、さつま屋・肥前屋などは堂々たる造りで、いまもその名残りが偲ばれます。
 さて、シーボルトの航海がそうであったように、多くの大名はここから陸路をとるます。しかし、北や南の地方から物資を運んできた船は、大坂を目指ざします。その場合、飾磨の沖を通り明石海峡を経て、兵庫、尼崎と寄港してゆく航路をとります。明石海峡の潮の早さが、明石と岩屋の港を発達させました。これも潮待ちのためです。
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千石船と限りない夢

瀬戸内の交通は、島々をぬうように複雑な水路をたどらなければなりませんでした。
それは、シーボルトの航海を追うことによって分かります。
岬かと思えば島であり、島かと思えば岬だというような地形、しかも、その間を潮流が複雑な流れをなしているような海。
シーボルトも、とてもこの海は様子を知ったものでなければ航行は出来ないであろうと記しています。風の都合によれば、それによって航路も変わります。
それが当時の瀬戸内海の航路の定めだったのです。
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シーボルト 瀬戸内海を行く

文政九年(一八二六)三月春先に 瀬戸内海を過ぎたオランダ使節の一行がありました。和船を借りての航海ですが、そのなかにオランダ東インド会社の商館付き医者のシーボルトの姿がありました。彼はその航路について丹念に書きとめています。
それを参考に下関から室津までの瀬戸内海の船旅を追ってみることにしましょう。
 
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シーボルトの乗った和船は、三月二日朝の八時近くに下関の港を出帆します。
3月初めは瀬戸内海はまだ西風の季節で、船は帆を一ばいに広げて風をはらみ、まるで飛ぶように周防灘に出て、右手に姫島、前方に佐田岬が望まれる位置に出て、そこから方向を転じながら山陽路よりの笠戸島、長島と海峡を抜けてゆきます。長島と陸地とのあいだは極めて狭いところで、その両側にある港が上関と室津です。

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後の高杉晋作が、
「室津・上関や棹さしゃとどく、何故にとどかぬわが思い」
 と歌ったところです。本当に潮の引いたときに長い竹棹だったら届きそうな気がします。毛利氏が防長二州に封じ込められてからは、ここに代官所を置き、毛利氏の別邸である「お茶屋敷」も設けていました。朝鮮通信使の来港の折には接待所としても使われました。
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どうしてこのような狭い水路が瀬戸内海の重要な航路となったのでしょうか。
それは周防灘の難所を避けるためと、この海峡を流れる潮流をうまく利用すれば、沖をゆく数倍の早さで船脚を速めることができたからです。
 しかし、シーボルトの船はこの上関には停泊していません。そこから、平郡島と屋代島のあいだを通って、屋代島の沖家室に午後十時に着いています。下関を出て十四時間の航海です。沖家室は、その当時は「家室千軒」と言われて、ずいぶん盛んな港だったようです。しかし今は離島の漁港の風情です。近代になって瀬戸内を航海する船が、ここに寄港し、また停泊する必要がなくなったからです。
瀬戸内海には、こうして沖家室のような運命をたどった港が至るところにあります。しかし、今はそこにしかないものが残っていたりしてタイムカプセルのとうで、私にとっては宝箱のような場所です。

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さて、シーボルトの船は、朝早く沖家室を出ると航路を東に向け、四国側の忽那(こつな)諸島のあいだを行き、そこから東北に針路を変えながら倉橋島の南を通って、下蒲刈、上蒲刈の島々を右手に見ながら御手洗の沖に達したのが午後五時半頃でした。
 当時の船の多くは、その倉橋島の南端にある鹿老渡の港でも停泊することがありました。この港もいまは沖家室と同じ状況です。そこは、老人たちだけの小さな村にしぼんでいます。

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 しぼんでいたと言えば、御手洗もそうです。

ここは広島県の大崎下島の片隅に忘れられたようにしてある小さな港ですが、徳川時代の繁栄は大したものでした。九州辺の大名が船で瀬戸内をゆくときの航海は、この御手洗を通っていました。そうした大名行列を迎えても、この土地は少しも動じないほどの宿泊施設を持っていたのです。そればかりでなく遊興の施設もととのっていました。
 いま、この港にはる若胡子屋(わかえびす)の建築が残っています。それは堂々たる白壁造りの二階建てで、かつては遊女百人を擁していたといいます。細川越中守などは、ここで千金を投じて遊んだといいます。
御手洗は、大崎上島にある木江の港と共にオチヨロ船でも有名でした。  
御手洗女郎衆の髪の毛は強い
  上り下りの船つなぐ∃
 というのがあれば、木江には、
  木江泊れば たで船七日
  七日泊れば また七日
 というような唄がうたわれていました。
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オチョロ船をこぎよせてくる女郎衆たちの情をうたったものです。
オチョロは、お女郎のことでしょう。馴染の船が港に入ってくると、その船の帆で誰が乗っているかを知っている女郎衆たちが、とるものもとりあえず小さな舟を漕ぎ出してそれを迎えに行くのです。そして、彼女達はそこに停泊の間、客の身の廻りの世話をしました。その情にほだされた客たちは、船の修理などにことよせて、港での停泊をのばしてしまう。たで船というのは、船脚を軽くするために海辺に船を引きあげて、そこで船底を焚火で焼くことをいいます。木江の港はそうした作業に便利であり、また造船業も発達していました。
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しかし、シーボルトの船は、その御手洗も木江をも素通りしてゆきます。
そして右手に無数の島が連なっているのをみながら三原の沖に停船します。
夜の十時というから、相当の強行軍をしています。月はなく海上はまっくらな闇の中、船は港に入らず、この沖で一泊します。
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 普通の商船だったら、三原に近い糸崎の港に入るか尾道に寄港してゆきます。
尾道は徳川時代にはこの地方の物資の集散地として「出船千牌、入船千牌」と言われるくら賑わった港でした。また、千光寺から見降ろす港の風景は、まさに山紫水明とも言わるべき詩情を呈していて文人達がよく訪れています。頼山陽とか田能村竹田などもこの風物を愛して度々この地を訪れ作品を残しています。  
盤石坐すべし 松拠るべし
  松翠欠くるところ海光あらはる
  六年重ねて来る千光寺
  山紫水明指顧にあり
                      頼山陽
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 ところで、シーボルトの船は夜明けと共に三原の沖を出発すると、尾道の方に向かわないで因島の西海岸を南下しながら弓削島の方に下ってゆき、生名・弓削の南島を左手にみながら進んで水島灘に出てゆきます。
 潮流に乗った勢いか、この辺りの船脚は意外に早く、午前中には観音をまつった阿伏兎岬の沖を通過しています。
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 阿伏兎岬を少し東によった所に鞆の港があります。

鞆は、上関と同じように朝鮮通信使が休息していった港で、この港の小さな岡の上にある福禅寺は、その来聴便たちの残していった詩文の書が幾枚も額にしてかけられていました。その通信使の一人である李邦彦は、ここに「日東第一形勝」という形容を与えています。
 鞆には、足利尊氏が建てた安国寺を始めとして、長福寺・円福寺・玉泉寺・小杉寺・地蔵院・阿弥陀寺・医王寺等々と古い寺々があります。よくもこれほどの寺がこの港町で維持されたと思うほどです。当時は、この寺を支える豊かな人たちが大勢いたと言うことでしょう。

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 いまはすっかり跡形もなくなってしまったが、有磯というところは古くからの遊女町で、平家物語に出てくる奴可の入道西寂が四国の河野氏を討っての帰りにここに立ち寄ったところです。戦勝に酔った入道らは、ここで遊女をあげての大遊興でした。約三百の兵がここに泊まって騒いだというから、その当時から相当な港だったのでしょう。
鞆の遊郭はこのように全国にまで知られていたようです。

港ある所には傾城ありで、その傾城町の大きさが同時に港町の繁栄をもあらわしていました。
 ところがシーボルトの船は、この鞆の港をも素通りしてゆきます。オランダ商館長が、よほどに先を急いでいたらしいのです。
さて、この船旅の続きは次回へ
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幕末の満濃池決壊は工法ミス?
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底樋の石造化工事を描いた嘉永年間の絵図

 満濃池はペリー来航の翌年、嘉永七(1854)年7月に決壊します。この決壊については「伊賀上野地震の影響説」と「工法ミス説」があります。通説は「地震影響説」で各町史やパンフレットはこの立場です。ただ『町史ことひら』は、当時の工法上の問題が決壊に大きく影響しているとしています。さてどうなんでしょうか?

満濃池底樋と 竪樋

満濃池底樋と 竪樋(文政3年普請図)
長谷川喜平次の提案で木樋から石樋へ 

満濃池の樋管である揺(ゆる)は、木製で土の中に埋めます。
そのため数十年ごとに交換する必要がありました。この普請は大規模なもので、讃岐国全土から人々が駆り出されました。そのために「行こうか、まんしょうか、満濃池普請、百姓泣かせの池普請」というような里謡が残っています。
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 このような樋管替えの労苦からの負担軽減のため、嘉永二(1849)年からの普請では、榎井村庄屋の長谷川喜平次の提案で、木製の樋管から石材を組み合わせ瓦石製の樋管を採用することになりました。普請に使用する石は、瀬戸内海の与島石や豊島石が取り寄せられました。上の絵図には、この時の大きな石材が運ばれているのが描かれています。
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満濃池の底樋石造管(まんのう町かりん会館前)
当時の図面が残っていないので、石造樋管の詳細な構造はわかりません。しかし、嘉永六年(1853)の底樋管の後半部(長三十七間)に使用した工事材料が記録としています。それには、次のような規格の石や資材が使われたことが分かります。
底持土台石102本(長六尺×一尺角=1,82㍍ × 30㎝)
敷甲蓋石 408本(長六尺×一尺角)
両側石  216本( ?・ )
二重蓋石 204本(長六尺×一尺×五寸)
松丸太111本
石灰148石
ふのり二四貫
苧すき七二貫
塩11石
また、この石材が金倉川の改修工事でいくつか出てきました。
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      満濃池の底樋石造管(まんのう町かりん会館前)

これらの資材から推測して、研究者は次のような工法を推測します。

①基礎に松丸太を敷き底持土台石を並べ、
②その上に敷甲蓋石と両側石で樋管を組み立て、
③石と石の隙間に、ふのりに浸した「苧すき」(いら草科の植物繊維からむしで編んだ縄)を目地代わりに、詰め込む。
④底樋の周りを、石灰・赤土・砂利などに塩を混ぜ、水を加えて練り固めた三和土(たたき)でつき固める
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満濃池の底樋石造管 

動員人夫数は
①嘉永二年の底樋前半石樋仕替の場合は約25万人
②嘉永五年の底樋後半石樋仕替の場合は37,6万人
 底樋を石樋に替える普請は、石樋部分が嘉永五年(1852)12月に終了し、上棟式が行われました。しかし、堤防の修復はまだ半分残されています。翌年の嘉永六年(1853)11月に後の普請が終わり、人々は大きかった揺替普請の負担からやっと解放された。

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嘉永の改修時に底樋に使われた石材(まんのう町かりん会館)
 底樋の石材化=恒久化という画期的な普請事業の完成に長谷川喜平次らは、倉敷の代官所に誇らかに次のように報告をしています。 
七箇村地内 字満濃池底樋六拾五間之内 一底樋伏替後之方長三拾七間内法 高弐尺弐寸 横四尺弐寸 壱ヶ所 模様替石樋 此石坪石三坪六合
    ( 中  略 )
 右者、讃州満濃池底樋後之方三拾七間、此度、為冥加水掛村々より自カヲ以、伏替御普請、奉願上書面之通、丈夫二皆出来候、依之出来形奉差上候以上
 佐々井半十郎御代官所
       讃岐那珂郡七箇村兼帯
       榎井村庄屋
       御普請掛り役   長谷川喜平次
 底樋を石造化して「丈夫に皆出来」と報告し、難事業を完遂させた長谷川喜平次の自信に満ちた様を見る事ができます。
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しかし一方で、榎井村の百姓総代からは倉敷代官所へ次のような書状も出されています
。  
 乍恐以書付訴状下奉願上候
当御代官所讃岐国那珂郡榎井村百姓一同、惣代百姓嘉左衛門、小四郎より同村庄屋喜兵次江相掛り、同郡七箇村地内満濃池底樋之儀者、往古より木樋二御座候而樋替御普請等私大体年限国役を以仕来候儀二御座候得共然ル処、去ル嘉永弐酉年中、新二石樋二相改メ候得共、忽普請中、石樋折損等も御座候二付、又候材木等を差相加へ候由、左候而者、及後年無心元、心配仕罷在候間、其段御願奉申上候処、早速同村庄屋喜平次、御召出之 材木等差加へ候而、(後略)
 この史料は榎井村の百姓惣代が、榎井村の興泉寺を通じて当時、池御料を支配していた倉敷代官所へ出した文書です。要点は2点です。
 A、石樋に変更して今後は、水掛りの村々だけで行う自普請の予定であった。しかし、四年前の普請で行った石樋への箇所が、折れ損じている事が判明した。そのため材木を加え補強したが、不安であるので、もし折れ損じる場所が出てきた場合は、自普請ではなく従来通り国役で普請を行ってほしい。
 B、喜平次は池に「万代不易」の銘文が入った石碑を建立しようとしているが、既に折れ損じが生じ、材木を差し加えている状態であるのに、なにが「万代不易」であるか、建立を中止してほしい。

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 他にも破損した石樋の様子や、その後の対処についてより詳細に記載し、工法の問題点を指摘している次のような文書もあります。(直島の庄屋である三宅家の文書)
1 石樋の接合のために、前回の普請箇所を掘った所、土圧等により石樋の蓋の部分が十三本、敷石が三本破損していたことが判明した。これは継口の部分だけで、さらに奥の方はどのくらい破損しているか分からない。
2 さらにその後、蓋の上下に補強用の桟本を敷き、その上に数千貫の大石を置くも、桟本が腐って折れると、上に置かれた大石の重さで蓋石が折れ、石樋内に流れ込み、上が詰まってしまい崩れるであろう。

 新工法への不安と的中

 このように普請中から新工法へに対して関係者からは
「破損部分が見つかっており、それに対して適切な処置ができておらず、一・二年以内に池が破損するだろう」
という風評が出ており、民衆が心配していた事が分かります。つまり、木樋から石樋に変えた画期的な普請は、工事終了後には関係者の間では「不良工事」という認識があったのです。
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    嘉永七年七月九日 満濃池決壊

 嘉永六(1853)年11月普請がようやく終ります。
翌年のゆる抜きも無事終え、田植えが終わった6月14日に強い地震が起こります。そして、それから約3週間後の7月月5日日昼過ぎ、池守りが腰石垣の底樋の周辺から、濁り水が噴出しているのを発見します。池守りから注進を受けた長谷川喜平次ほか、池御料の庄屋たちは急きょ堤防に駆けつけ、対策を協議しました。
 このときの決壊の様子が『満濃陵由来記』(大正四年・省山狂夫著)に記されています。この資料は同時代史料ではないので注意して取り扱う必要はありますが次のように記します。

 七月五日 
午後二時ごろ、樋外の石垣から濁水が出ているのを池守が発見。榎井、真野、吉野村の庄屋たちが現地で対策を協議。漏水が次第に増加したため、各村の庄屋に緊急連絡。
 七月六日 
三間丸太で筏を組み、古蚊帳に小石を包み、水中に入れて漏水口を探る。一番ユルと二番ユルの問に漏水穴を発見。午後二時ごろ、フトンに石を包み穴に入れ、土俵六十袋を投入するも漏水止まらず。
 七月七日 
夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。終日作業を続けるも漏水止まらず。
 七月八日 夜十時ごろ堤防裏から水が吹き上げ、直径三メートルほど陥没。阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。陥没が増大。
 七月九日 高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。二隻の船で土俵三百袋を投入。水勢やや衰えたとき、大音響とともに堤がニメートルほど陥没。全員待避し、下流の村々へ危険を知らせ、緊急避難させる。このとき神野神社の神官・朝倉信濃はただ一人避難せず、ユル上で熱心に祈とう。足元のゆらぎに驚き、地上へ飛び下りると同時に、ユルが横転水没。午後十時ごろ決壊。
 この時の破堤の模様について
「堤塘全く破壊して洪水氾濫、耕田に魚龍(魚やスッポン)住み茂林に艇舟漂ふ。人畜の死傷挙げて云ふべからず。之を安政寅の洪水と云ふ」

堤防が決壊したのはその夜十時ごろで、下流の村々は一面が泥の海となりました。当時の様子を史料からみると


九日満濃池陽長四十間余決潰、那珂郡大水二て田畑人家損傷多し、木陽六十間余之所、両方二て七八間計ツ、残り中四十間余切れ申候、金毘羅大水二てさや橋より上回一尺計も水のり橋大二損し、町々人家へ水押入難義致候、
尤四五前より追々陽損し、水漏候間、郡奉行代官出張指揮致、水下之人家用心致候故、人馬怪我無之、折節池水三合計二て有之候二付、水勢先穏なる方二有之候由
 この史料には、40間に渡って堤が切れ、那珂郡一体の田畑人家に被害が出ている事が記されています。大水となり放出した満濃池の水が、金毘羅の鞘橋を直撃し、さらに金毘羅の町内にも水が押入り、被害を与えています。しかし、このような決壊に際し、堤に水漏れが発見された後、即座に役所に通報され、それを受けて役人が被害箇所の現場確認を行っています。また満濃池の流れ口付近の住民に注意を呼びかけていた為、人馬に怪我等の被害が無かったとあります。また、田植え後で、池の水が少なかったため水の勢いが穏やかであり、被害が少なかったともあります。

決壊中の満濃池
満濃池決壊後の周辺地図
 再興の動きが鈍かったのは、どうしてでしょうか?
 満濃池が決壊した後、長谷川喜平次は早々に復旧計画に奔走しますが、幕末の動乱期であり、高松・丸亀・多度津三藩の足並みもそろわず難航します。また長谷川喜平次への批判も大きかったようです。
欠陥工事を行った当事者がなにをいまさら・・
という声が広がっていたからです。
そのような空気を伝える資料が多度津藩領奥白方村の庄屋であった山地家にあります。
決壊翌月に書かた嘆願書です。これには、容易に満濃池普請に応じる事はできず、二・三年先延ばしにしてほしい旨が嘆願されています。前回の普請からからわずかでの決壊で普請となれば、連年の普請となります。それは勘弁してくれ。という声が聞こえてくるようです。

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決壊後の満濃池(池の中に流れる金倉川)

  さらに丸亀藩領今津村の庄屋である横井家に残された史料には、次のように記されています。
   口上之覚
   一満濃池大損二付、大造之御普請相続、迷惑難渋仕候間、両三ヶ年延引之義、御歎奉申上候得共、御評儀茂難御約候趣二付而者、多度津御領同様、水掛り相離候様仕度御願奉申上候、宜被仰上可被下候、以上
 今津村の人々は、満濃池再普請に反対の意見をはっきり述べています。普請からわずかで決壊したことと、普請が続き疲弊していることを述べ、「迷惑」と書いて再普請に対して露骨な嫌悪感を表しています。さらに場合によっては、満濃池水掛りを離れる事を藩に願い出ています。注目すべきは最後に「多度津御領同様」と記されている点です。多度津藩領内の村々で満濃池水掛りの離脱を決めている事がこの史料からわかり、またその影響が周辺に広がっている事がわかります。
 このように決壊直後の史料から、満濃池復興に対しては、各藩の領内それぞれの思惑が異なっている様子がわかります。このような状態では復興のめどは立たちません。
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 満濃池が復興されるのは、明治を待たなければなりませんでした。長谷川喜平次に代わり、次世代の新しいリーダとして和泉虎太郎・長谷川佐太郎らの復興運動と軒原庄蔵等による岩盤掘抜技術により復興されるのです。それは決壊から十六年の歳月を経た明治三(1870)年のことになります。
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満濃池年表
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
820年讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池修築を伺い、築池使路真人浜継が派遣され修築に着手。
821年5月、復旧難航により、築池別当として空海が派遣される。その後、7月からわずか2か月余りで再築。
852年秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852年8月、讃岐国守弘宗王が万農池の復旧を開始し、翌年3月竣工。
1022年 満濃池再築。
1184年5月、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1628年 生駒藩西嶋八兵衛が満濃池再築に着手。
1531年 満濃池、再築
1649年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋前半部を石製底樋に改修。
1653年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋後半部を石製底樋に改修,
1654年 6月の伊賀上野地震の影響で、7月5~8日、満濃池の樋外の石垣から漏水。8日には櫓堅樋が崩れ、9日九つ時に決壊。満濃池は以降16年間廃池。

参考文献 芳渾直起 嘉永七年七月満濃池決壊  香川県立文書館紀要第19号

阿野郡の郷
阿野郡坂本郷

喜田家文書には坂本念仏踊り編成についても書かれています

 坂本郷踊りは、かつては合計十二ヶ村で踊っていたようです。ところが、黒合印幟を立てる役に当たっていた上法軍寺と下法軍寺の二村の者が、滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなったとあります。十ヶ村とは、次の通りです。

東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

   
川津・二村郷地図
        坂本郷周辺(讃岐富士の南東側)
これは近世の「村切り」以前の坂本郷のエリアになります。ここからは近世の村々が姿を現すようになる前から念仏踊りが坂本郷で踊られていたことがうかがえます。中世の念仏踊りにつながるもののようです。
 江戸時代に復活してからは3年に一度の滝宮へ踊り入る年は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを相談で決めました。

滝宮の念仏踊り | レディスかわにし

 念仏踊りは、恒例で行われる時と干ばつのために臨時に行う時の二つに分けられます。臨時に行う時は、協議して随時決めていたようです。この時には、大川山頂上に鎮座する大川神社に奉納したこともあったようです。三日間で関係神社を巡回したようですが、次のスケジュールで奉納されました。 
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社

次に念仏踊りの構成について見てみましょう。

 1725(享保十)年の「坂元郷滝宮念仏踊役人割帳」という史料に次のように書かれています。
一小踊   一人 下法    蛍亘     丁、 三二
一小踊   二人 卓小川  一小踊    二人 西小川
一小踊   二人 東ニ   ー小踊    二人 西二
一小踊   二人 東川津  一小踊    二人 西川津
一鐘打 二十一人 東坂元  一鐘打   二十人 川原
一鐘打   八人 真時   一鐘打   十六人 西坂元
一鐘打ち  八人 下法   一鐘打    十人 上法
一團  二十一人 東坂元  一團    二十人 川原
一團    八人 真時   一團    十六人 西坂元
一團    八人 下法   一合印       真時
一合印      下法   一小のほり  三本 下法
一小のほり 八本 西川津  一小のはり  十本 卓川津
一小のほり 八本 卓ニ   ー小のほり  八本 西二
一小のほり 六本 西小川  一小のほり  六本 卓小川
一のほり  五本 上法   一笠ばこ       西二
一笠ほこ     康ニ   ー長柄    三本 卓坂元
一長柄   三本 川原   一長柄    一本 真時
一長柄   三本 西坂元  一赤熊鑓   二本 西小川
一赤熊鑓  二本 卓小川  一赤熊鑓   二本 西川津
一赤熊鑓  二本 下法   一赤熊鑓   二本 上法
一赤熊鑓  二本 東ニ   ー赤熊鑓   二本 西二
一大鳥毛  二本 川原   一大鳥毛   二本 西小川
スタッフは326の大集団になります。
佐文の綾子踊りに比べると、規模が遙かに大きいことに改めて驚かされます。これだけのスタッフを集め、経費を賄うことはひとつの集落では出来なかったでしょう。かつての坂元郷全体で雨乞い踊りとして、取り組んできたことが分かります。

滝宮念仏踊り2

いつまで踊られたいたのでしょうか? 

坂本組念仏踊りは『瀧宮念仏踊記録』に明治8年まで踊った記録が残っています。また、地元史料には明治26年の踊役割帳が残っていますので、そこまでは確実に行われていたことが分かります。
その後、昭和になって三年(1928)七年、十年、十三年、十六年と行われ、太平洋戦争後の二十八年、三十一年と日照りの時には踊られ、三十四年を最後に中断しました。復活したのは昭和五十六年に「坂本念仏踊保存会」が設置されてからです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 
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綾子踊りを見ていて、不思議に思うことがあります。

1 なぜ、男が女装して踊るのか
2 雨乞い踊りと言いながら詠われている内容は、祈雨祈願とはほど遠い恋の歌など、当時の「流行歌」の歌詞ではないか
3 弘法大師が伝えたと言うが歌われている歌詞の内容は近世のもの。成立年代も近世以後ではないのか
そんな疑問を持ちながら綾子踊りの周辺の雨乞い踊りをもう一度見てみることにします。

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 「綾子踊りの里」佐文は金毘羅さんの裏側にあり、三豊郡との郡境に位置します。隣接する三豊郡では、やよな八千歳踊(県無形民俗文化財)やさいさい踊(市無形民俗文化財)などの小歌踊系の雨乞踊が伝わっています。彌与苗(やよな)踊は地名をとって、「入樋の盆踊」とも呼ばれており、その名の通り元々は盆踊り歌ではないかとされています。当時の人々は、日照り旱魅などの天災や虫害などを、非業の死を遂げたものの崇りと考えていました。そのため死者供養としての盆踊が各地で踊られていました。この盆踊りが雨乞踊のときにも踊られ、神社に奉納された記録が残っています。
  祈雨祈願の成就判定を鰻の白黒で行った大水上神社
三豊市高瀬町の羽方に鎮座する大水上神社は、延喜式で「讃岐二宮」とされている神社で、境内を宮川の源流が流れ、周辺には磐境が散在します。この神社には、雨乞の聖地というべき渕があります。現在の私から見ると岩に囲まれた小川の淵ですが、昔の人たちは鰻渕と呼び、戦前までは霊験が知られた雨乞の聖地でした。二百年前ほど前の天保12年(1812)年「地志撰述草稿(羽方村控)」には、ここで行われた雨乞祈祷について次のように記されています。
一、鯰淵龍王 雨乞之節 里人共渕ヲ干シ 供物持参法施仕候、中黒キ鯰出候時八不日二御利生御座候、白キ鯰出候時八照続キ申候、黒白共不定、往古より今二至迄如何成旱魅二渕水涸る事無御座候」
意訳変換しておくと
 この神社には鯰淵龍王が住んでいる渕がある。雨乞の時には、この渕を干して、お供え物を供える。黒い鰻(史料には「鯰」とありますが鰻の誤り)が出れば利生(雨が降り)、白い鰻が出れば照り続ける。昔から今に至るまで、どんな干ばつでも鰻淵は水が涸れたことがない。
 大勢の村人が見守る中、境内の淵を干し、祈雨の判定を現れた鰻の白黒で行ったということです。このイベントを取り仕切ったのは、真言修験道系の山伏達だったのでないかと私は想像しています。 

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 雨乞祈祷の後に奉納したエシマ踊りとは?

注目したいのは、この後に何が行われたかです。
別の記録では、寛政二年(1790)の大水神神社の記録として次のような記事があります。 
 羽方村のニノ宮社(大水上神社)の雨乞い祈祷の文書(森家文書「諸願覚」)
 右、旱魅の節、右庄屋え雨請い願い、上ノ村且つ御上より酒二本御鯛五つ雨乞い用い候様二仰せ付けられ下され候、尤も頂戴の役人初め太左衛門罷り出で候、代銀二て羽方村指し上げ口口下され候、雨請いの義は村々思い二仕り候様仰せ付けられ候、
右に付き、七月七日 ニノ宮御神前、千五百御神前、金出水神二高松王子エシマ踊り興行いたし、
踊り子三十人計、ウタイ六人計、肝煎、触れ頭サシ候、村中奇今通り、百姓・役人・寺社・庄屋立ち合い相勤め候、寺社御初尾米一升宛御神酒御神前え上げソナエ候、寺社礼暮々相談の故、米五升計差し出し候筈二申し談じ候、右支度の覚え
1 大角足  飯米四斗計
1 一酒壱本
1 昆布 干し大根 にしめ 壱重
1 同かんぴょう 椎茸 壱重
1 昆布 ゴマメイワシ 壱重
    但し是 金山水神高松王子へ用候
    是御上より御肴代下され候筈、
 右、踊り相済み、バン方庄屋処二て壱踊り致し、ひらき申し候
干ばつの時に、村役人に願い出て雨乞いを行った際に、上ノ村やお上から雨乞用に酒と鯛をいただき御神前に供えたことが記されています。その後、二宮神社、同境内の千五百王皇子祠と金出水神、上土井の高松皇子大権現に「エシマ踊り」を雨乞のために奉納したとあります。
 エシマ踊りの編成については「踊り子三拾人計、ウタイ六人計」とあり、綾子踊りの編成に近いことが分かります。どのような踊りか、歌詞の内容なども伝わっていないので分かりません。
しかし、盆踊としても踊られる風流系小歌踊の可能性が高く、現在は伝承されていないものの上麻地区の綾子姫・綾子踊伝承と関わりがある可能性があります。そのような系譜の上に佐文の綾子踊りがあるのだと私は推測しています。
 「昔は雨が降るまで、踊り続けていた」
という古老の言葉は、何時間も踊っていたことを示しています。その長丁場の中、盆踊歌や風流歌など当時の村々に伝わっていた歌を全て歌って、踊って奉納したと言うことではないでしょうか。
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 雨乞いの特徴は、御利生(雨が降ること)が得られるまで、いくつかの方法を段階的に行ったり、組み合わせて行います。また降雨という願いが叶うまで、踊る対象を次第に大きくしていきます。綾子踊でも、村踊、郡踊、国踊と、雨がなければ、次第に規模を大きくして行ったと伝わっています。
 そして、願いかなって雨が降った場合は、御礼参りや御礼踊をすることが通例でした。
願ほどきだったのでしょうが、近代に盛んに行われた金刀比羅宮への火もらいでも、雨が降ると必ず御礼参りにいっていました。
 
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 今昔物語 弘法大師修請雨経法降雨語
  今は昔。天下は日照りが続き、すべての植物は枯れ尽きてしまいました。
天皇をはじめ、大臣から一般人民に至るまで皆が歎いていました。そのころ弘法大師という人がいました。
天皇は、弘法大師を召して言いました。
「如何にしたら、この旱魃かんばつを止め雨を降らせて、人々を救うことが出来ようか?」
大師は答えました。
「私の行法に雨を降らす法がございます。」
その言葉を聞いて、天皇は命じました。
「速やかにその法を行うべし。」
大師は、神泉苑で請雨経(しょううきょう)の法を行いました。
七日間、請雨経の法を行っていると、祈雨の壇の右上に五尺くらいの蛇が現れました。
見ると、その蛇は頭上に五寸くらいで金色の蛇を乗せています。
その蛇は、こちらへ近寄ってきて、池に入りました。
その場には、20人の伴僧が居並んでいましたが、
その光景が見えたのは4人の高僧だけでした。

1人の高僧が弘法大師に尋ねました。
「この蛇が現れたことは、何かの前兆なのですか?」
大師は答えました。
「これは天竺の阿耨達智池(あのくだつちいけ)に住む 善如竜王(ぜんにょりゅうおう)が、この神泉苑に通ってきて、請雨経の法の効果を示そうとなさっているのです。」
そうしているうちに、俄かに空は陰り、戌亥の方角(北西)より黒雲が出現し、雨が降ってきました。
その雨は、国じゅうに降り、旱魃は止まったのです。
これ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、
神泉苑で請雨経の法が行われるようになったのです。
請雨経の法が行われると、必ず雨が降りました。
このことは、今まで絶えず行われていると、語り伝えられているのです。

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どこかで聞いたことがあるような・・・。

そういえば・・・そうです。
善通寺の境内の中にありました。
上の写真が善通寺本堂の西側の池の中にある善女龍王社です。
善女龍王 雨乞祈祷」碑が建立されています。

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善通寺は真言のお寺として雨乞祈願の役割が与えられ、干ばつの時には雨乞祈祷が古くから行われてきました。その雨乞祈祷が行われていた舞台がここなのです。この龍王社は、金堂より北西側の方丈池の中に忘れ去られたかのようにポツンとあります。
 この祠については、真言宗の高僧浄厳が、善通寺誕生院主宥謙の招きで讃岐を訪れ際の様子が記された「浄厳大和尚行状記」に、次のように登場します。 
延宝六(1678)年3月26日 讃州多度郡善通寺誕生院主宥謙の請によって彼の地に赴き因果経を講じ、四月二十一日より法華経を講じ、九月九日に満講した。
その夏は炎旱が続き月を越えても雨が降らなかった。和尚は善女龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦したもうこと一千遍、並びにこの陀羅尼を血書して龍王に法施されたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。
ここには、高野山の高僧が善通寺に逗留していた際に、干ばつに遭遇し「善女龍王」を新たに勧進し、雨乞の修法を行い見事に成就させこと、そして「金堂の傍らの小社」を浄厳が建立したことが記されたいます。それが善女龍王のようです。
この祠は一間社流見世棚造、本瓦葺、建築面積3.03㎡の小さな社です。
調査から貞享元年(1684)建立、文化5年(1808)再建、文久元年(1861)再建の3枚の棟札が出てきました。それぞれ龍王宮、龍王殿、龍王玉殿と記載された棟札で、最初の建立は、浄厳の雨乞祈祷の6年後のことになります。国家に公的に認められていた真言の雨乞祈祷法が善通寺にもたらされた時期が分かります。
ちなみに現在の建物は文久元年(1861)に再建されたもので、低い切石基壇上に土台が建っています。わずか一間の本殿と向拝が付いた一間社の平面形式です。見世棚造の向拝部には木造の階(きざはし)が設けられています。柱は角柱。善女神信仰の雨乞い祈願として興味ある建物です。
ここでどんな雨乞祈願が行われたのでしょうか。
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江戸時代の善通寺は、雨乞祈祷寺だった

善通寺には「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱に納められる約八〇件の文書も残されています。そこには、丸亀藩からの要請を受けた善通寺の僧侶たちが丸亀城内亀山宮や善通寺境内善女龍王社で行った雨乞いの記録があります。
それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)にわたる約150年間に39回の雨請祈祷が行われています。およそ4年に一度は雨乞が行われていたことがわかります。それだけ日照りが丸亀平野を襲い、人々を苦しめていたのです。

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空海は、神泉苑で何に雨乞祈祷を行ったのか?

 神泉苑は、京都の二条城南側にあり、かつては二条から三条にまたがるほど広大で、美しい池庭をもつ禁苑でした。桓武天皇が行幸し、翌々年には雅宴を催して以来、天皇や朝廷貴族の宴遊の場になっていました。そして、いつの頃からかこの池にには龍が棲んでいるといわるようになります。
 龍はもともと中国で生まれた空想上の生物で神獣・霊獣の一種です。
中国では皇帝のシンボルでになり、道教の四方神である青龍にも変じました。そして、インドから伝わった八大龍王と習合します。インドの龍は水に棲み、春分に天に昇り秋分に水底に沈み、雨を司るとされました。そこで、雨を降らすためには龍の力を借りることが必要と考えられるようになります。
 さらに平安京を「風水」で観ると、この池は「龍口水」ともいわれ、「龍」が動いている時はそこでかならず水を飲む。水を飲む所がなくなれば「龍」は逃げてしまいます。神泉苑は「龍」を生かすための水飲み場だとされました。
 それを知っていて、空海は雨乞をここで行ったのでしょう。
それ以後、天下が旱魃の時には、弘法大師の流れを受け継ぐ者によって、神泉苑で請雨経の法が行われるようになります。つまり、真言宗による祈雨祈祷が成立し、それが国家規模で各地で展開されていったのです。そういう意味では、今昔物語のこの話は、真言宗の「雨乞祈祷争い勝利宣言」とも読めるのかもしれません。
そして、祈願対象として祀られるようになったのが善如竜王です。

香川県に残る善女龍王は

讃岐の他の寺院でも善如竜王が残る寺院があります
四国霊場本山寺(豊中町本山)は、本堂が国宝になっていますが鎮守堂には左の善女龍王像が安置されています。この堂は墨書銘「天文二年」(1547)が記されていますので、遅くとも16世紀中頃に雨乞祈祷が行われていたようです。
 ちなみに、龍を背負っていない、女性像でないので一見すると善如竜王には見えません。しかし、善女龍王は性別は不明なようです。この像は腰をひねり両袖をひるがえして飛雲上に乗る姿に動きが感じられます。龍に変わる飛雲が雨雲到来と降雨をもたらす象徴とされています。
 また、善女龍王の絵図は多いのですが彫像の作例は非常に珍しい存在で、真言密教関係の像で他に例のないものと評価されています。
像高47.5センチで、製作年代については南北朝時代とされています。

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また、本山寺と関係の深かった威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)にも江戸時代の善女龍王の画幅や木像が残り、雨乞祈祷が行われていたようです。これらにより善女龍王への信仰が民衆にも広く浸透していたことがうかがえます。

 さらに、地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっており、一九世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも聞こえていたことがわかります。 
 このように空海により行われた雨乞祈祷は、その後は、国家による雨乞行事として、各地の真言寺院で行われて行き、その祈りの対象となった善女龍王は雨乞の神様として信仰を集めていったのです。
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  讃岐の日照りの時の村役人の対応は?

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綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)

雨乞いは雨が降るまで踊っていた?

 雨乞い踊りが2年に1回踊られる地域の住人です。今年は「善女龍王」の幟棹を持って、行列に参加することになりました。雨乞いの役員さんが「雨乞い踊りを踊ったら必ず雨が降る。なぜなら、昔は雨が降るまで踊り続けたから」と言っていたことを思い出します。本当に、雨が降るまで踊っていたのでしょうか?

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大干害が村を襲ったときに、讃岐の村役人はどんな対応をしていたのでしょうか。
それを高松市の南部で仏生山法然寺がある香川郡百相(もあい)村に残る文書から見ていきましょう。今から200年ほど前の文政6(1823年)、この年は田植えが終わった後、雨が降らなかったようです。大干ばつへの香川郡の庄屋さんたちの対応ぶりが「御用日帳」という文書に残されています。5月17日に次のように記されています。
「干(照)続きに付き星越え龍王(社)において千力院え相頼み雨請修行を致す」

5月といっても旧暦ですから実際は6月と読み直した方がよいでしょう。このころから、日照りが続いたために、農作物へ悪い影響が出始めたようです。それで、まず星越龍王社で千力院の修験道者(山伏?)に依頼し、雨乞いを行います。
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綾子踊り行列 
効き目がなかったようで4日後の21日には、大護寺にも雨請を依頼します。大護寺というのは、香川郡東の中野村にあった寺院で、高松藩三代藩主恵公が崇信し、百石を賜り繁栄した寺です。
それでも雨は降らなかったようです。そこで翌23日には、大庄屋(大政所)より村々の庄屋に次のような文書が廻されます。
これだけの干害になっているのであるから、村々から「自願い雨乞い」が申し出るくらいでないといけない。前もってこちらから申し渡したところ、行うと申し出た村はそれほど多くはなかった。村役人や小百姓は、一体どんなに心得ているのか、これほどにひどいわけだから、明日にでも雨乞いを執り行って当然といえる状況ではないか。明日から雨乞いを行うように!
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綾子踊りの子踊り
 この文言から、干害がひどいのに、それにも拘わらず 村の対応の遅さに腹を立てている様子がうかがえます。そして大庄屋が雨乞いの実施を強く督促しています。その上、各村に庄屋から出す雨乞い祈祷の依頼書案文も添えて通知しています。
 これを受けて二日後の25日には、石清尾、一宮、天川と拾力寺(大護寺などの十力寺?)が雨乞いの祈祷を始めることになったとの通知が出ています。

  私は、雨乞いは命じられるものではなく農民達が自然発生的に行い始めると思っていたので、この内容には驚きました。
この資料からは次のような事が分かります
① 大庄屋が公的なルートを通じて各村々の庄屋に雨乞いを行うことを命じていること。つまり、公的な行事として行われていたこと。
②雨が降るまでいろいろなチャンネルとルートを使って雨乞いを行っていること。
一つの集落だけでなく郡単位の雨乞いが行われていること
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香川町鮎滝の童洞淵では、どんなの雨乞いが行われたのか

 それでも雨は降りません。そこで6月からは鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法を命じています。修法とはおそらく祈祷でしょう。
童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか?
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。
 深い縁で大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りを招き、雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが各地で行われています。
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童洞淵での雨乞いが農民にとって最後の頼みだったようです。

6月1日から雨乞い所へ参詣する当番割りが決めらます。
一日が由佐・西庄よ口光の三力村の代表者、
二日が川内原・大野、三日が寺井といった具合です。
さらに雨乞いの人足に各村より赤飯一升を差し入れるように頼んでます。
鮎滝は現在の高松空港の東側です。仏生山から毎日、各村々から当番が参詣し、雨乞いを行ったのです。つまりこの雨乞いは、ひとつの集落だけでなく一郡全体で共同で行われるもので、非常に大規模かつ継続的なものだったのでしょう。
   まさに、雨が降るまで、雨乞いは続けられてたのです。

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参考文献 丸尾寛  日照りに対する村の対応

香西漁民の讃留霊王信仰の高まりの背景は?

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飯山町下法勲寺には、讃留霊王神社があります。

法勲寺跡 讃岐国名勝図会

   飯野山と讃留霊王墓・法勲寺跡(讃岐国名勝図会 幕末)
讃留霊王の古墳とされる後円部の上が玉垣で囲われ聖域となっています。そこに近世以後に新しく神社が建てられます。その背景には、讃岐における讃留霊王伝説の広がりがあります。

讃留霊王神社 讃岐国名勝図会
讃留霊王神社拡大図 「讃王明神」とあり、背後に陵墓がある

讃岐のローカルストーリであった讃留霊王説話を本居宣長が「古事記伝」にとりあげると「讃留霊王=讃岐の国造の始祖=綾氏の祖先」とする認識が全国的に広がり、認知度もアップします。これも、綾氏を祖先とする人々の讃留霊王信仰の拡大につながりました。

 なぜ讃留霊王神社が香西漁民の信仰を集めたのでしょうか?
 讃留霊王は、悪魚退治に従った漁民に瀬戸内海での漁業の自由をゆるした

とも言われはじめ、漁民の信仰も集めるようになります。この神社の境内には明治に建立された際の王垣が立っています。
その中に高松の香西港の漁民「香西久保利作、漁方中」の名が見えます。また、境内に建つ旅所由緒之碑には、次のように記されています。
神社氏子は、明治初期まで香西浦と直島にも存し、此の方々崇敬厚く、催事を司り、また春の初鯛の献上を恒例としていたと伝えり。」
意訳変換しておくと
(当社の)氏子は、明治初期までは香西浦や直島にもいた。その方々の崇敬は厚く、祭礼行事に参加するとと共に、春の初鯛の献上を恒例としていたと伝わる」

香西浦や直島の漁民が祭事に係わり、春の初鯛献上を毎年行っていたとと刻まれています。香西漁民が讃留霊王説話をどのように受け止め、歴史意識を形作っていったのでしょうか? 探ってみることにします。
香西漁港の三和神社 「瀬居島漁場碑」を読む

香西湊の三和神社と讃留霊王顕彰碑
三和神社(高松市香西)と「瀬居島漁場碑」 
高松市の西にある香西漁港には漁民達から信仰を集めた三和神社が鎮座しています。もとは海神社と呼ばれていたことからも海に関係した神社であることが分かります。この神社の境内に「瀬居島漁場碑」が立っています。120年ほど前の明治32年(1899)に立てられた碑です。読んでみましょう。
「相伝う。景行の朝、讃の海に巨魚有り。漁民之を畏れ敢えて出漁せず。天皇、皇孫武殼王を遣わす之を除く。王、網を結び魚を掩い殺し、遺類莫し。百姓慶頼す。因って其の地を称して網の浦と曰うと云う。嗚呼往昔は皇威悪魚を駆りて民の害を除き、今は官裁漁域を定めて争訟をおさむ
意訳変換しておくと
 景行天王の時代(4世紀)、讃岐の海に巨大な悪魚が現れた。そのため漁民はこれお怖れて出漁出来なかった。景行天皇は、皇孫武殼王(神櫛王・讃留霊王)に命じて、討伐することを命じた。そこで王は、網を結んで悪魚を捕獲し、憂いをなくした。これを見て、百姓は大喜びした。そのためその地を「網の浦」と呼ぶようになった。このように香西は、往昔は皇威を駆りて悪魚を駆逐し、今は国家の裁定で漁域を保証されて、漁業権を巡る争訟に勝利した。

武殼王は景行の孫、日本武尊の子として記紀にも出てきます。
しかし、悪魚退治は讃岐で付け加えられた讃岐独特の伝説です。悪魚退治ののち讃岐に留まったので讃留霊王と呼んだと讃岐では言い伝えています。
 この碑の内容は、香西漁民の先祖の活躍には比重は置かれていないように感じます。それよりも、先祖が悪魚退治をおこなった讃留霊王に世話になった話として書かれています。最後に、むかし讃留霊王の世話になったように今は官(明治政府)のお陰で白分たちの漁域が守れたと結んでいます。
 この官裁というのは、明治19年に下津井の漁場争いで、香西漁民に有利な裁決が大阪控訴院によって下されたことをさします。つまり、自分たちの漁場が守れた嬉しさから武殼王(讃留霊玉)を連想し、敬っているのが「瀬居島漁場碑」です。

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香西漁民による大槌島での鯛網漁(讃岐国名勝図会)

 ところが、大正期に入ると歴史意識がさらに進化します

大正5年(1916)に香川県水産試験場が発行した「鯛漁業調査」には鯛網の起源として、次のように書かれています。 
鯛網ノ起源ハ、十二代景行天皇廿四年、当漁場大槌島・小槌島ノ南二海上ノ通航船呑ム悪鱒棲み居り候故、鱒又卜云フ。廿五年皇子日本武尊ノ御子讃留霊王、大鱒退治ノ勅ヲ奉じ、三月ヨリ弥々退治ノ御用意二付き、叫臣下ヲ召寄セ御評議色々工夫ノ上、始メテ網の事ヲ案出シ、魚引キ揚ゲ候段、
讃留霊王御感ジノ余り御褒美トシテ即ち網ヲ給リ、当網代ノ義、瀬居島海猟場御免許成られ候二付き、彼ノ網ヲ以テ鯛網当浦二於テ初メテ出来、瀬居島海ニテ猟業仕り候二付き、往古ヨリ瀬居島海香西浦漁場二相限り申し候。茲に因って香西鯛網ハ、当国ハ勿論、近国二於ケル網ノ元祖ニテ、是ヨリ追々諸網開キ候モノ也。鯛網ノ元祖讃留霊王御寿百廿五歳、仲哀天皇八年亮ゼラル。鵜足郡玉井法勲寺村御陵墓二讃王神号ヲ奉ルト言フ」
意訳変換しておくと
鯛網の起源は、十二代景行天皇24年、当漁場の大槌島・小槌島の南の海上に通航する船を飲み込む悪魚が棲み着いたことに始まる。25年に天王は皇子日本武尊の御子讃留霊王(神櫛王)に、悪魚退治を命じた。そこで王子は3月から準備を進め、臣下を呼び寄せて評議した結果、網で捕まえる案が出され、悪魚は引揚げられた。
讃留霊王は、この成果に感心し褒美として網を漁民に与えた。当漁港の漁場権については、瀬居島周辺が与えられ、王子から下賜された網で鯛網を行ったのは、香西浦が初めてである。また瀬居島周辺でも操業を行ってきたので、古くから瀬居島は香西浦の漁場とされてきた。よってここに香西鯛網はもちろん、近国における網の元祖であり、その他の網は、それから追々に開始された。鯛網の元祖である讃留霊王は寿125歳、仲哀天皇八年に亡くなった。鵜足郡玉井法勲寺村御陵墓に讃王神号を奉るという
ここでは、香西漁師が讃留霊王が悪魚退治の際に、網を初めて使用して大活躍し、その結果讃留霊王から漁場をもらったことになっています。
「自分たちが讃留霊王に従って悪魚退治を行った末裔である」だから、「瀬戸内海での特別な漁業圏を与えられた漁民」
という「選民意識」的な歴史意識を主張するようになっていることがうかがえます。
 「香西浦ノ漁夫御用子ア罷り出」というところは、江戸時代の御用水主そのままです。江戸時代は御用水主というだけで漁業権は保護されていましたから、讃留霊王の権威などは借りる必要はありませんでした。実際、近世の文書には漁民が讃留霊王のことに触れたものは見当たりません。
せい島の鯛網
瀬居島の鯛網漁(明治後期)

明治になり、香西浦はそれまでの水主浦としての特権を失います。
従来の漁業権が無効になり、漁場争いが激化していく中で、香西の漁民達は自分たちが「讃留霊王から保護を受けた特別な漁民集団」であることを主張し、いままでの権益を守っていく道を選んだのかもしれません。そのためにも遠く離れた讃岐富士の麓に鎮座する讃留霊王神社奉納品を贈ります。それが

「信徒は香西浦と直島にも存し、此の方々崇敬厚く、催事を司り、また春の初鯛の献上」

と讃留霊王神社の碑文に記されることになったのでしょう。 香西漁民を習うかのように直島の漁民達もこの神社に多くの寄付をするようになります。いわば意識の伝播が見られるのです。民衆はその時代が必要とする歴史意識を生みだし、広げていくのです。

讃留霊玉の悪魚退治伝説が、どのように生まれてきたのか 

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古代寺院法勲寺跡の礎石を眺めるために讃岐富士の見える道を原付バイクを走らせていると・・
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讃留霊王(さるれお)神社が現れました。
ここに祀られている讃留霊王について、少し考えてみました。

讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話とは? 

讃留霊王とは、もともとは景行天皇の御子神櫛(かんぐし)王でした。
①彼が瀬戸内海で人々を困らせていた悪魚(海賊)を退治し、海の平和を取り戻します。
②しかし、その後も京に帰らず、宇多津に本拠を構えました。
③彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 綾を氏姓とします。
④諱を讃留霊公というのは、京師に帰らず、讃岐に留まったからです。
⑤彼が讃岐の国造の始祖です。
さて、この話を作った人は何を一番伝えたかったのでしょうか。
それは、③と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。
讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
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この説話は、いつごろできたかのでしょうか?

話の中に瓦経という経塚の要素が見られることから平安末期と推定できます。その頃は、古代豪族からの伝統を持つ綾氏が、中世武士団の讃岐藤原氏として生まれ変わりつつあった時代です。綾氏が一族の結束を図った時代背景があります。
先祖を同じくする伝説のヒーローの下に、集い結束を深めるというのはいつの時代にも行われます。その頃に、この説話の骨格はできあがったのではないでしょうか。

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この説話が初めて書物となったのは、いつ頃でしょう

 天正一五年(一五八七)讃岐に入った生駒親正は、法勲寺(高田寺 現飯山町)の良純に帰依し、讃岐武士の始祖としての讃留霊王を再評価し顕彰します。そのための伝説のリメイクと書物化が行われます。それを担ったのが
法勲寺 → 嶋田寺 →  弘憲寺
の学僧ラインではないでしょうか。
法勲寺は親正の子一正の代になって飯山から高松西浜に移され、今の弘憲寺になります。その弘憲寺には、近世に描かれた立派な武士の姿をした讃留霊王の肖像画が伝えられています。讃留霊王を祀っていたことがうかがえます。
 こうして、生駒藩の新参の武土層にも悪魚退治の話と綾氏=讃留霊王の子孫という話は広がっていきます。

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江戸時代になると多少余裕が出てきますから、庶民の中にも悪魚退治の話を写して読む人が現れます。そのためかいくつかの讃留霊王説話の写本が残っています。戦前に編纂された『香川叢書』には、それらの説話集の何種類かが「讃留霊公胤記」として収められています。 現時点で成立年が判明しているものを年代順に並べてみると次のようにります。
1 承応元年 1652 年 友安盛貞 『讃岐大日記』
2 享保三年 1718 年 香西成資 『南海通記』 「讃留霊記」
3 享保二十年 1735 年 書写 嶋田寺本 「讃留霊公胤記」
4 明和五年 1768 年 菊池黄山 『三大物語』
5 文政十一年 1828 年 中山城山 『全讃史』綾君世紀 「霊王記」
6 安政五年 1858 年 丸亀藩京極家 『西讃府史』 
最も古いものでも、江戸時代を遡ることはないことがわかります。
つまり讃留霊王伝説のリメイク本は、近世以後に現れたと言うことがここからも分かります。

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讃留霊王説話に熱い思いを持ち続けた人たちが香西氏です。
香西氏は戦国の戦いの中で、生駒氏が来る前に滅びてしまっています。しかし、庶民としては生き続けていました。香西氏というのは讃岐藤原氏、すなわち綾氏の直系を自負する人たちなんです。香西氏の子孫、香西成資が享保四年(一七一九)に白峯寺に奉納した『南海通記』には「綾讃留王記」が入っています。同じ讃岐藤原氏の血を引く新居直矩が寛政四年(一七九三)に香西の藤尾八幡に奉納した『香四記』にも「讃州藤家香西氏略系譜」が入っていて、讃留霊王のことが出てきます。

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讃岐のローカルヒーローを全国的認知度に高めたのは誰?

 讃留霊王説話はあくまで讃岐独自の物語で全国的には殆ど知られていませんでした。この説話がもともとは地方武士である綾氏の先祖を飾るローカルな話であったことからして、当然なことです。
   しかし、全国的に認知される機会がやってきます
   本居宣長が「古事記伝」で、この讃岐独特の説話を次のように引用したのです。
「讃岐国鵜足郡に讃留霊王と云う祠あり。そは彼の国に古き書ありて記せるは、景行天皇廿二年、南海に悪き魚の大なるが住みて往来の船をなやましけるを、倭建命の御子、此の国に下り来て討ち平らげ給ひて、やがて留まりて国主となり賜へる故に讃留霊王と申し奉る。これ綾氏・和気氏等の祖なりと云うことを記したり。或いは此を景行天皇の御子神櫛玉なりとも、又は大碓命なりとも云ひ伝へたり。讃岐の国主の始めは倭建命の御子武卵王の由、古記に見えたれば武卵王にてもあらむか。今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必ず鳴動するなりと、近きころ、彼の国の事どもを記せる物に云えり」
 
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 何を見て書いたのかはわからないのですが、本居宣長は讃岐で書かれた悪魚退治の本を入手して、これを書いたのでしょう。宣長が「古事記伝」で引用したことで、讃留霊王説話は全国の知識人に知られることになります。そして、明治にかけてその認知度をアップさせていきます。
   宣長の記述から次のような事が分かります
(1)讃岐に讃留霊王という祠があること。
(2 『讃留霊記』という古書があること。 
(3)倭建命の御子が讃岐に来て悪しき魚を退治し、讃留霊王と呼ばれたこと。
(4)讃留霊王は神櫛王・大碓命・武卵王の諸説があること。
(5 「讃留霊」は後の当て字で 「さるれい」の 意味は不明であること。
こうして戦前の皇国史観においては、讃留霊王は郷土の英雄として故郷学習などにも登場し、知らない人がいませんでした。そういう讃留霊王信仰の高まりの中で、元々は、八坂神社の中にあった祠が讃留霊王の古墳とされる上に建立されたのでしょう。

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