瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2018年09月

西の丸公園で行われる結婚式に参加するためにやってきたの大阪城。

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そのついでに見ておきたかったのは、石垣の巨石です。

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まず、大手門を入って迎えてくれるのが大阪城の巨石NO4・5の次の二つです。
NO4  見付石(大手門 約108t 讃岐・小豆島 熊本藩主・加藤忠広
NO5  二番石(大手門 約85t 讃岐・小豆島 熊本藩主・加藤忠広
  加藤忠広は、おなじみ清正の後継者です。この二つは、瀬戸の海を渡って小豆島から運ばれてきました。石の前に立ち、石との「交流」をはかります。しかし、石は何も語ってはくれません。

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 石との対話を諦め、NO1の巨石に会いに行きます。

大阪城の巨石NO1 桜門の蛸石

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桜門を登っていくと、開かれた門の奥に巨石が、そしてその上に天守閣が見えてきます。門をくぐると全景を見せてくれます。およそ36畳敷き(60㎡)、推定130tと言われています。岡山藩主・池田忠雄(姫路の池田輝政の三男)が寛永元年(1624年)に寄進した物で、備前犬島産の花崗岩です。

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 大阪城の石垣の巨石ベストテンは次の通りです。
 名前  設置場所   重量    生産地     寄進者 
1 蛸石  桜門   約130t   備前・犬島   岡山藩主・池田忠雄
2 肥後石  京橋門   約120t  讃岐・小豆島   池田忠雄
3 振袖石  桜門    約120t  備前・犬島    池田忠雄
4 見付石  大手門   約108t  讃岐・小豆島   熊本藩主・加藤忠広
5 二番石  大手門   約85t   讃岐・小豆島  加藤忠広
6 碁盤石  桜門    約82t   備前・沖ノ島  池田忠雄
7 二番石  京橋門   約81t   讃岐・小豆島  池田忠雄
8 三番石  大手門   約80t   讃岐・小豆島  加藤忠広
9 四番石  桜門    約60t           池田忠雄
10 竜石   桜門      備前・沖ノ島    池田忠雄

こうしてみると巨石群NO10の全てが、瀬戸内海の小豆島周辺の島から運ばれてきたことが分かります。
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「太閤さんのお城」と呼ばれる大阪城は江戸時代のもの。

1583年に秀吉により築城されますが三十年後、大坂夏の陣で落城し豊臣氏は滅亡。すると家康は、堀も石垣も打ち壊し、さらに盛土をして秀吉の城は、石垣も含めて埋めてしまいます。その上に改めて築かれたのが現在の大阪城です。現在の大阪城には、秀吉の痕跡はありません。
 再建されることになった江戸幕府の大阪城は、幕府の威信をかけ諸大名に普請を負わせる天下普請により造られることになります。 大阪城の修築の第一期工事は、藤堂高虎の縄張りで、元和六年から九年までに行われ、第二期は寛永元年から三年まで、第三期が寛永五、六年で、この工役に動員された西国大名は163家を数えました。石垣普請を任された大名達は、要所に配される巨石を島から切り出し、苦労しながら海を渡し、この上町台地の北端まで運び上げたのです。

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  この巨石群がどうやって切り出され、運ばれたのかを見るために小豆島の石切場を見に行きましょう。

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小豆島で採石した大名の受持地区は次の6藩です。
①岩ケ谷:筑前福岡城主    黒田筑前守長政、忠之父子、
②当浜、福田地区:伊勢津城主 藤堂和泉守高虎、高次父子、
③小海:豊前小倉城主     細川越中守志興、志利父子、
④小瀬、千軒等土庄地区:   肥後熊本城主 加藤肥後守忠広(清正の息子)
⑤池田町石場辺:       筑後久留米城主 田中筑後守志政、
⑥大部:豊後竹田城主     中川内
先ほど見た大手門にあるNO4・5の「見付石」「二番石」は、④ですから小豆島の前島の小瀬や千軒で切り出されたものだと分かります。ちなみにこの地区は、現在はパワースポットとして人気のある「重ね岩」がある場所としても有名です。もしかしたら、重ね岩も石垣として大坂に運ばれる可能性があったかも・・?
海岸に四十数個の残石が並ぶ「大坂城残石記念公園」
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 当時、小豆島小海村には七ヶ所の丁場(石切場)がありました。
ここは小倉藩細川家(熊本県知事から首相になった細川氏の先祖)の受け持ちでした。切り出された石は石舟や筏に載せられ大坂へ運ばれました。ここには、「洋上運搬実験」につかわれた筏が置かれています。

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 どういう理由か積み残され置き去りにされた石があります。

それが後に「残念石」と呼ばれるようになりました。折角、切り出されたのに運ばれることなく置き去りにされたという思いが込められているのでしょう。
 花崗岩から切り出した石材が御影石ですが、ここに残された積み石(平石)も上質の白御影石です。村のあちらこちらに散らばっていた残念石は明治初年にここに集められ、現在は香川県の指定史跡となっています。

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大坂城残石資料館には当時運搬に使われていた道具類、石工が使った工具などが展示されていました。

天狗岩丁場の巨大天然石「大天狗岩」

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東海岸の岩谷地区にも五つの丁場跡があり、福岡藩黒田家が採石に当たりました。
一帯には1,600個あまりの種石が残るといわれます。中でもこの天狗岩丁場は島内最大のもので、石切丁場としては唯一の国指定史跡となっています。
 入口の道標から畑の中を取って伸びる山道が延びていきます。振り返ると播磨灘が広がります。晴れていれば淡路島を望むことも出来ます。
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さらに登って行くと、みかん畑山の斜面に多くの天然石が露出しています。

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断面を見ると豆腐形に整形される「種石」の状態であることが分かります。
自然石が割られ、その中に豆腐形にするために四角い穴が並んで開けられています。
現場で整形され、海岸に下ろされていたことが分かります。
また、政策担当者(班)が分かるように○×△など簡単な刻印が刻まれています。この段階では藩の刻印はありません。

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ジブリのアニメに出てくるロボットのような石も土に埋もれながらあります。

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順路の道標に導かれながら石のトンネルをくぐります。
すると見えてきたのが
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大きな花崗岩の自然石です。
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これが推定重量1,700トンといわれる「大天狗岩」です。
高さ17m、周囲35mという巨石に、思わず立ちすくんでしまいました
大坂城の石垣の「鏡石」といわれる各巨石は、このような天然石から切り出されたのでしょう。大阪城の石のふるさとのひとつがここなのです。

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残念石やその元となった種石には表面に歯形のような一列の穴が残っています。これ矢穴と呼ばれるものです。石工が目を見定め、割る位置と方向を決め鉄製の石ノミで開けた下穴の跡です。
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途中で計画が変わったり目を読み違えた失敗作もあり、矢穴の跡のある大石が当時の姿のまま横たわっています。
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今は静まりかえった丁場跡です。
石の上に座って目を閉じてみると石工の鎚音が聞こえてくるような気がしてきます。海を渡り石垣に組み込まれた積み石と、ここに残された残石を比べながらひとときの時間を過ごしました。
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金比羅芝居小屋の建設と運営に、遊女達の果たした役割は? 

金比羅門前町 金山寺町周辺
天保九年(1838)に、茶町が密集していた金山寺町は大きな火災にみまわれます。残された被害記録から当時の町屋の様子が分かります。
それによると、この町筋の総家数は八四軒で、その内茶屋・酌取女旦雇宿は二十三軒です。他の記録では三十二軒ともあります。他に金光院家中四軒、大工四軒、明家(明屋)六軒、茶屋用の座敷三つ、油場一つ、酒蔵一軒、その他四二軒です。
この町筋の1/3が茶屋・酌取女旦雇宿(=遊女をおく茶屋)だったことが分かります。
      掛け小屋時代の仮設の金比羅金山寺町の芝居小屋

金比羅では表向きは「遊女」は存在せず「酌取女」と書かれました。
酌取女をおく宿が茶屋で、置かない宿は旅籠と区別されます。表通りに面して茶屋・酌取女日雇宿が多く、それは間口が狭く、奥行の深い「うなぎ床」の建物でした。そして仮設の芝居小屋は、茶の並ぶ金山寺の裏通りにありました。金山山町の茶屋と芝居小屋は、背中合わせの位置関係だったのです。

 また表通りの茶屋・酌取女日雇宿は「水帳付」とされている者が多く、賃貸ではなく屋敷自体の所有者でした。茶屋の主人は、建物も自前の檀那が多かったのです。ここからも茶屋・酌取女日雇宿の繁盛ぶりがうかがえます。 
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2、芝居小屋建設に茶屋は、どのように関わっていったか

 かつては、役人や一部の商人のみの町であった金山寺町は、天保期を境に芝居小屋・富くじ小屋といった「悪所」が立ち現れ大変貌を遂げ、茶屋・酌取女旦雇宿を大きく成長させます。むしろ茶屋が町と芝居小屋をもりたてていく存在になったともいえます。
そして芝居小屋 + 富くじ + 遊女 の相乗効果で繁栄のピークを迎えます。
常設の芝居小屋建設の過程で、茶屋と遊女はどのような関わりを持ったのでしょうか?
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芝居小屋建設をリードしたのは、茶屋の主人達でした。 

 それまで、年三回の芝居興行の度に立て替えられていた仮芝居小屋を、瓦葺の定小屋として金山寺町に建てたいという願いを、町方の者が組頭に提出したのは、天保五年(1834)十二月のことです。この願書に対して、翌年二月五日高松藩より金光院へ許可が下ります。
 それを受けて金光院は、芝居小屋建設に伴う「引請人」と「差添大」という役職を町方の者に命じます。
「町方」からは、どんな人たちが選ばれたのでしょうか
まず差添人の「麦屋」は内町の茶屋、そして花屋も茶屋です。つまり、遊女達を置く茶屋の旦那衆が主体となって芝居小屋建設は進めれたことが分かります。

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 九月には小屋の上棟で完成をみ、十月にはこけら落としの興行を行っています。芝居小屋の完成を間近に九月一日には、町中で「砂持」の祝いをしたとあります。
芝居定小屋土地上ヶ申候。付、今明日砂持初り、芸子・おやま・茶や之若者共いろいろ之出立晶、町中賑々敷踊り廻り砂持候斜
と、芸子・おやまが町中を賑やかに踊り祝ったことが記されています。定小屋建設が町の人々、特に茶屋連中にとって大きな期待をもって迎えられた様子がうかがえます。芝居の存在は彼らにとって「渡世一助」のものであり、芝居と門前町の繁栄は両者不可欠なものと当時の彼らは考えていたようです。

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芝居の興業も茶屋・旅寵屋連中が主体となっています。
常設小屋のこけら落としの興業者の最後に名前がある「大和屋久太郎」は、文政七年の「申渡」に「旅人引受人」として任命されている人物ですが、ここでは「芝居興行の勧進元」としての役割も担っています。つまり、今風に言うと旅館組合(=茶屋組合)が芝居小屋の建設、そして興行勧進元としての役割を担っていたのです。

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芝居見学は、宿泊と芝居鑑賞券付きのパックツアーで

 芝居見物座席の買取予約用に用いたとされる「金毘羅大芝居奥場図噺」によると、平場桝席の上には当時一流の旅寵・茶屋の屋号の書込みがありました。これはあらかじめ茶屋・旅寵屋別に座席の販売が行われていたことを意味します。現代と同様、宿泊と芝居鑑賞券付きのパックツアーが存在したということです。また芝居興行の際に配るパンフレットにも、「茶屋茂木屋/新町」などと茶屋・旅寵屋の広告などが掲載されています。
 このように茶屋と芝居小屋の関係は非常に密接だったのです。
茶屋は参詣客に宿と食事と遊女を提供する場所であると同時に、芝居小屋を作り、芝居勧進元を務め、見物席を売るプレイガイドとしての役割をも担っていたのです。

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 遊女には、どのような徴収金が課せられていたのでしょうか。
まず、金毘羅の遊女の徴収金は大きくわけて二種類ありました。
一つは 「刎銀」です。これは、遊女たちの稼ぎの一部を天引きしたものです。酌取女・おやまの稼ぎの2%が「刎銀」としてまず宿場方へ、次に年寄、そして多田屋次兵衛へと渡る徴収制度です。宿場方(町方役人)が茶屋を通して遊女の稼ぎの一部を取り立てているのです。これは「宿場積金」として芝居興行だけでなく町の財政全般に組み込まれました。この「宿場積金」については、慶応二年(一八六六)の記録からは内町・金山寺町からの遊女からの天引きが、つまり刎銀が収入部分の大半を占めているのです。イメージ 6
二つめは「雑用銀」で、遊女一人一人に対する「人頭税」です。
「旅人引請人」である大和屋久太郎によって置屋から徴収されています。この支出部をみてみると、支出七〇貫余のうち、芝居関係費用が約三三貫にもなっています。宿場にとって芝居は大きな負担でもあったのです。
 「宿場積金指出牒」に詳細記載のある十四年間のうち黒字利益のあった年は、わずか六年だけでです。後は赤字を出しながら芝居興行を続けているのです。金比羅門前町に参拝客を寄せるためには、赤字続きでも芝居興行をうつほかはなかったのです。その赤字補填は、遊女達への徴収金で支払われていたのです。このあたりの事情は、現在の金比羅大芝居と共通する部分がありそうです。
「街興し」のためのイヴェントが、赤字を重ねて行政が補填する。しかし、利益を得ている人たちもいるので止められない。江戸時代は、遊女から天引きされたお金が補填に使われていたのです。
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遊女たちが影の存在として支えた金比羅大芝居

 茶屋は、参詣客に食事や遊女を提供するだけでなく、芝居小屋をつくり、その興行を勧進し、見物席の販売を担うまでのマルチな営業活動を繰り広げています。そこで働く遊女達も、種々の負担金を通して、芝居小屋の経営、ひいては門前町自体の財政をも支えていたわけです。
「こんぴらさん」と親しまれ、讃岐が誇るこの一大観光地も、江戸時代に遡れば、それを大きく支えていたのは茶屋・遊女たちといった陰の存在と言えるのかもしれません。

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 金毘羅の遊女の変遷をたどってみると・・・

①町の一角に参詣客相手の酌取女が出没しはじめる元禄期
②酌取女及び茶屋(遊女宿)の存在を認めた文政期
③当局側の保護のもと繁栄のピークを迎えた天保期
④高級芸者の活躍する弘化~慶応期
以上四つの時期に区切ることができます。前回①~③を見ました
今日は④高級芸者の活躍する弘化~慶応期を見て行きます。
元禄以来、取り締まってきた酌取女に対して緩和策がだされます。慶応四年(明治元、1868)には、町方の茶汲女(酌取女)の徘徊について、
近村の神仏詣や遊楽は日帰り、
船場までの客見送り一夜泊り
大雨のときは一日限りの日延べが許されます。
ここからは遊女が参拝客を多度津や丸亀の港まで見送って、そこで何泊も逗留している実態があったことがうかがえます。その背景には、参詣客からのさまざまな要望や、遊客獲得のためにそうせざるをえなかった事情があったのでしょう。こうして、当局側の妥協策が積み重ねられます。
御開帳に芸子百五十人のパレード
 万延元年(1860)に行われた金毘羅大権現御開帳の「御開帳記録」には、遊女屋花屋房蔵が次のような記録を残しています。 
内町はねりものなく、大キなる鳥居と玉垣を拵へ、山桜の拵ものをそこくへ結付、其内へ町内の芸子舞子不残、三味線飯太飯笛小きうなどを携へ囃子立て、町中を歩行 町内の若い衆は、こんじやう二桜の花盛りの揃え着もの着る、
是もぽっちは札之前二同じ、此時芸子百五十人斗り居候
茶屋の並ぶ内町衆は、町内の芸子が残らず参加し、三味線や太鼓・笛などで囃し立てパレードしたとあります。ここには酌取女・飯盛女ではなく、新しく「芸子」「舞子」の登場がします。その数芸子百五十人という多くの人数が記されているのです。
 「金比羅 名妓」の画像検索結果

この「芸子」を、酌取女とどう区別すれば良いのでしょうか?

「金比羅 遊å\³ã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ
「芸者」は、広く酒席や宴席で遊芸を売る女性とされています。事実、幕末江戸には芸で身を立て自分で稼いで生きる自立自存の「町芸者」(芸子)が多くいました。金毘羅の「芸子」の中にも、昨日紹介した廓番付などから、江戸のように高い芸を身につけた女性と酌取女同格の者、両種の「芸子」が共存していたのではないでしょうか。
幕末の金毘羅は名妓が多く、それが文人の手によって描かれています。
 文久二年(1864)、西讃観音寺の入江、上杉、桃の舎ぬしの三人が、金比羅参詣ののち芳橘楼に宿り遊んだ「象の山ふ心」という作品があります。ここには歌舞音曲に秀でた小楽、小さへ、雛松、小かやなどの芸妓が登場します。
 また、榎井村の詩人で勤王の志としても知られる日柳燕石や高杉晋作などと共に酒席に侍り、尊王攘夷に一役かった勤王芸者と呼ばれる女性の存在も確認できます。

 明治二年(一八六九)十一月六日、もと幕府の騎兵奉行、外国奉行、会計副総裁を歴任し、のち朝野新聞社長となった成島柳北は「航薇日記」の中で、
「此地の女校書は東京の人に多く接したれば衣服も粗ならず。歌もやゝ東京に近き所あり」
と訪問地金毘羅の芸妓の印象を語っています。
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 「遊廓」については「悪所」としての文化的な立場から論じる研究が進んできました。この説は「遊所は身分制社会の「辺界」に成立した解放区「悪所」であったから、日常の秩序の論理や価値観にとらわれない精神の発露が可能であった」としています。
 悪所=遊所を文化創造の発信源説です。

金比羅門前町も、このような芸者が多数いて座敷遊びの土壌があったことが、金比羅舟船などの唄が生み出された背景なのでしょう。
   金比羅舟船は元々は金刀比羅宮の参詣客相手に座敷で歌われた騒ぎ唄の一種でした。 騒ぎ唄とは江戸時代に、遊里で三味線や太鼓ではやしたてて、うたったにぎやかな歌のことです。転じて、広く宴席でうたう歌になります。
琴平のお座敷芸子衆の金毘羅船舟の小気味よいテンポ、情景豊かに詠まれた歌詞、 お座敷遊びとしての面白さが、この唄の魅力です。金比羅参拝を終えて、精進落としで茶屋で芸子と遊んだ富豪達が地元に帰り、大坂や京都のお座敷で演じて見せて、それが全国に繋がったのではないでしょうか?

琴平の稲荷神社 
遊郭といえば、稲荷神社。性病(梅毒)の予防に稲荷が効果があると信じられていました。

参考文献 林 恵 近世金毘羅の遊女
       

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金比羅の街に、遊女達が現れたのはいつ頃でしょう?

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近世の金比羅の街は、金毘羅大権現という信仰上の聖地と門前町という歓楽街とがワンセットの宗教都市として繁栄するようになります。参拝が終わった後、人々は精進落としに茶屋に上がり、浮き世の憂さを落としたのです。それにつれて遊郭や遊女の記録も現れるようになります。
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金比羅の街にいつ頃、遊女達が現れたのかをまず見てみましょう
 遊女に関する記録が初めて見えるのは元禄年間です。
元禄二年(1689)四月七日の法度請書に
遊女之宿堅停止 若相背かは可為重罪事」
禁止令が出されています。禁止令が出されると言うことは、遊女が存在したと言うことです。元禄期になって、遊女取締りが見えはじめるのは、金毘羅信仰の盛り上がりで門前町が発展してきたことが背景にあります。そして、遊女の存在が門前町を監督する金光院当局の取締対象となり始めたのでしょう。

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金比羅奉納絵馬 大願成就

  享保期、多聞院日記の書写者であった山下盛好は、覚書に
「三月・六月・十月の会式には参詣客殊に多く、市中賑わいとして遊女が入込み、それが済むと追払ったが、丸亀街道に当たる苗田村には風呂屋といって置屋もあり、遊女は忍び忍び横町を駕でやって来た
というような記録を残しています。町方に出没する遊女に当局側も手を焼いていたようです。
 享保13年(1728)6月6日、金光院当局は町年寄を呼び上げ、再度遊女取締強化を命じています。しかし、同15年3月6日の条には
「御当地近在遊女 野郎常に徘徊仕り」
「其外町方茶屋共留女これ有り、参詣者を引留め候」
とありあす。遊女を追放することはできなかったようです。
 
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寛政元年10月9日の「日記」には
「町方遊女杯厳申付、折々町廻り相廻候」
とあるように、役人を巡視させ監視させますが、同年11月25日の条には
中村屋宇七、岡野屋新吉、幟屋たく、右三人之内江 遊女隠置相知レ戸申付候
と、宿屋の中に遊女を隠し置くところがでてきます。
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享和2年(1802)春、金毘羅参詣を記した旅日記『筑紫紀行』の中で、旅人菱谷平七が金毘羅の町の様子について
「此所には遊女、芸子なんと大坂より来りゐるを、宿屋、茶屋によびよせて、旅人も所のものもあそぶなり」
と記しているように、金毘羅はこの頃から、金毘羅信仰の高まりとともに一大遊興地の側面を見せはじめています。以上から、金光院当局は、何度も禁止令を出し遊女取締を打ち出しますが、あまり効果があがらなかったようです。 

  「遊女」から「酌取女」「飯盛女」とへの呼称変更

「飯盛å\³ã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ
こうして文政期になると、遊女を一切認めない方針で治安維持に努めてきた当局側か、もはや「金毘羅には遊女がいます」という黙認の形をとらざるをえない状況になってきます。
 まず、呼称の変更です。それまでの「遊女」という表現から、「酌取女」「飯盛女」といった呼称に変えます。「遊女」という露骨な表現を避け、「酌取女」「飯盛女」といった一見売春とはかけ離れた下働に従事する女性を想像させるこの呼称をあえて使用します。

文政6年(1823)2月2日夜、遊女の殺害事件が起きます。

場所は内町糸屋金蔵方で、同町金屋庄太郎召遣の酌取女ゑんが高松藩の一ノ宮村百姓与四郎弟鉄蔵(当時無宿)に殺されたのです。犯人は六日後に自首。遺体は、ゑんの故郷京都より実父と親類が貰い受け、2月20日には一件落着となりました。
 しかし、このこの事件は大きなスキャンダルとなり、金光院当局側に相当なダメージを与えたようです。というのもこの後、金光院側から町方へ酌取女のことで厳しい達が出されるのです。

それが「文政七申三月酌取女雇人茶屋同宿一同へ申渡 並請書且同年十月追願請書通」として残っています。そこには、今までの触達にないいくつかの条項が盛り込まれています。 
「此度願出之内(中略)酌取女雇入候 茶屋井酌取女差置候宿 此度連印之人名。相限り申度段願之通御聞届有之候」「酌取女雇入候宿屋。向後茶屋と呼、酌取女不入雇宿屋 旅篭屋と名付候様申渡候」
とあり、酌取女を置く宿を「茶屋」として、当局側か遊女宿の存在を認めたのですこうして酌取女を置く「茶屋」が急速に増えます。

当時、金比羅全町で茶屋は95軒ありました。
①金山寺町には、全体の約三九%の三七軒、
②内町は約三五%の三三軒、
金山寺町と内町両町だけで全体の 約七四%の茶屋がありました。仮に一軒に三人の酌取女がいたとすれば、両町においては二百人を超える酌取女が働いていたということになります。文政年間には、他の職業から遊女宿に転業するものも増え、金山寺町と内町は遊女宿が軒を並べて繁盛するのです。
  文政7年の「申渡」は、それまでの「遊女禁止策」に代わって、制限を加えながらも当局側か遊女宿の存在を認めたもので、金毘羅の遊女史におけるターニングポイントとなりました。
 
天保年間の全国遊郭番付には、金毘羅門前があります。

「諸国遊所見立角力並に直段附」によると讃岐金毘羅では、上妓・下妓の二種類のランク付けがあったようで、上妓は二十五匁、下妓は四匁の値段が記されています。 これを米に換算すると、だいたい上は四斗七合弱、下は六升七合弱に当たるようです。相当なランク差です。
それでは「上妓」とは、どんな存在だったのでしょうか?
 天保3年(1832)9月、当時金毘羅の名奴ともてはやされた小占という遊女がいました。彼女が、高松藩儒久家暢斎の宴席へ招かれるという「事件」が起きます。。これは大きな話題となりました。
 この頃すでに、売春を必ずしも商売とせず、芸でもって身をたてる芸妓がいたようです。先の廓番付にみられる値段の格差など考えれば、遊女の中でも参詣客の層にあわせた細分化されたランク付けがあったのでしょう。

麦湯のå\³ã€‚麦茶を提供する「麦湯店」の看板娘(『十二ケ月の内 六月門涼』渓斎英泉 画)の拡大画像

天保期の金毘羅門前町の発展を促したものに、金山寺町の芝居定小屋建設があります。この定小屋は、当時市立ての際に行われていた富くじの開札場も兼ね備えていたともいわれます。茶屋・富くじ・芝居といった三大遊所の確立は、ますます金毘羅の賑わいに拍車をかけました。
 天保4年(1833)2月、高松藩の取締役人は酌取女に対し、芝居小屋での舞の稽古を許可しています。さらに、
「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」
とあるように、酌取女の服装に対しても寛大な態度を示しています。
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花下遊女図 江戸新吉原講中よりの金比羅さんへの寄進絵馬

遊女をめぐる事件
 いくらかの自由を与えられた酌取女の行動は、前にも増して周囲の若者へ刺激となります。1842年の天領三ヶ所を中心とした騒動は、倉敷代官所まであやうく巻き込みそうになるほどの大きな問題に発展します。事の起こりは、周辺天領から
「若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので、倉敷代官所へ訴え出る」
という動きでした。慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に行きます。結局、長谷川の機転のよさで、もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得ることになりました。 その時の長谷川の金毘羅町方手代にむかって
「繁栄すると自分たち御料も自然と賑わうのだから、なんとか訴える連中をなだめましょう」
と言っています。当時の近隣村々の上層部の本音がかいまみえます。
 この騒動の後、御料所と金毘羅双方で、不法不実がましいことをしない、仕掛けないという請書連判を交換する形で一応騒動は決着をみています。
江戸時代のタバコ

 行動の自由を少しずつ許された金毘羅の遊女が引き起こす問題は、周囲に様々な波紋を広げました。しかし、それに対する当局側の姿勢は、「門前町繁栄のための保護」という形に近っかたようです。上層部の保護のもと、天保期、金毘羅の遊女は門前町とともに繁栄のピークを迎えます。
この続きは次回へ
参考文献 林 恵 近世金毘羅の遊女
 
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  金比羅舟々は、いつ頃、どこで歌われ始めたのでしょうか?


金毘羅船々(こんぴらふねふね)
 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ♪ 
まわれば 四国は讃州(さんしゅう)
那珂の郡(なかのごおり) 
象頭山(ぞうずさん)
金毘羅大権現(こんぴら だいごんげん) 
一度まわれば♫ 
小さい頃は「お池に帆掛けて」と信じて唄っていました。
追い風に帆を上げてと言う意味だと知ったのは、ずーっと後のことです。そう言えば「赤とんぼ」も「負われて見たのはいつの日か・・」を「追われて・・」と、故郷を追われる唄と思っていた私です。
 金毘羅船で賑わう多度æ´\湊 
幕末に金比羅船で賑わった多度津港

歌詞を確認しておきましょう。

金毘羅船々
金毘羅(こんぴら)とは四国讃岐(香川県)にある金毘羅大権現のことです。明治以前の神仏混淆時代には金毘羅大権現と称していました。
追風に帆かけて
進む方向に吹く追い風のこと。風を帆に受けて順風満帆のこと。
金比羅船が帆を上げて、大阪湾を出航して、四国讃岐へ向かう様です。
シュラシュシュシュ
船が速く進む様子です。シュラは修羅で、巨石など重い物を載せて引く、そりの形の運搬具かけたという人もいます。
四国は讃州那珂の郡
那珂郡(なかのごおり=なかぐん)は、讃岐の古代郡名で、現在の丸亀市、琴平町一帯です。
象頭山
象頭山(ぞうずさん)は、金比羅神(クンピーラ)を祀る山です。山容が象の頭を思わせることからついたというのは俗説です。どう眺めても像には見えてきません。信仰上の命名なのです。古くは大麻神社の鎮座する大麻山と呼ばれていました。象頭山は、金比羅神が近世に流行神と登場してからの呼び名です。
大坂からの玄関口となっていた丸亀の湊
大坂からの玄関口 丸亀港

さて、この歌はいつ頃、どこで歌われ始めたのでしょうか?

この歌の成立年代については、元禄説と幕末説の二説があります。
①元禄説は金毘羅船の起点となった大坂港で歌い出された
②幕末説は、金毘羅信仰の庶民化が進んだ頃に金毘羅参詣客を相手に歌われた宣伝唄や座敷唄から起こった
それでは、この歌の発生地はどこでしょう?
これについても大坂説と金毘羅説の二説があります。
大坂説は、金毘羅船の出発地であること、
金比羅説の論拠としては、金毘羅信仰の大衆化と参詣客増加の時期、金毘羅の町における宿屋や茶屋の発達時期などがあげられます。

2.この唄の性格は?

「金比羅船」の画像検索結果
これも、
①金毘羅船の船中で参詣客相手に歌われた宣伝唄説
②金毘羅の酒席で参詣客相手に歌われた座敷唄説
の二説があります。
宣伝唄説は、夜間航行が多かった当時の金比羅船で舵取は、常に眠気ざましと他の乗組員に絶えず自分の存在を知らせて安心感を与えるために歌を歌い続けることが義務づけられていました。そのため、舵取りは港々の流行唄をできるだけ多く仕入れて櫓漕ぎ唄にしていったと言われます。つまり、瀬戸内海を行く金比羅船の中で唄われたものというのですが・・・。
 
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しかし、文化七年(1710)刊の十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』にも
「ゆたゆたと船はさはかぬ象頭山云々」

と書かれ、シュラシュシュとは形容されていません。元禄前後から文化・文政期までの流行唄を集めた歌謡集にも、この唄は登場しません。大坂や金毘羅船の寄港地でも、この唄が伝承されていないのです。そして、大阪=宣伝唄説は、史料に乏しいのです。
 ここから、この歌は地元金毘羅を中心とした限られた地域において、最初は歌われたものと考えられます。

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金毘羅門前町に賑わいぶりと遊芸のようすをのぞいてみましょう。
元禄期の「金毘羅祭礼図屏風」には、門前町の賑わいぶりとともに、参詣客相手の諸芸能の催しや店で三味線を弾く女性も描かれています。文政七年(一八二四)の記録には「茶屋酌取日雇宿、九十六軒」と記され、金毘羅門前町における遊芸と茶屋の発達ぶりがを窺い知れます。
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文化三年(1806)刊の菱屋平七の『筑紫紀行』には
「此所には遊女、芸子なお大坂より来りぬるを、宿屋、茶屋によびよせて、旅人も所のものも遊ぶなり」
とあります。弘化二年(1845)の二宮如水の金毘羅参詣記録にも
「近き日と間に旅ゐせる人々、浮かれて御阿をよびて三味線の琴ひかせ、歌はせなど、夜もすがらゑらき遊べるは、耳姦しきまでになん」
と書き留められています。
金毘羅芝居定小屋が完成するのもこの時期です。
 金毘羅大権現という信仰上の聖地と門前町という歓楽街とがワンセットの形で発展し、金毘羅という門前町が繁栄していたのです。参拝が終わった後、人々は精進落としに茶屋に上がり、この唄を唄い遊び日々の浮き世の憂さを落としたのかもしれません。
「金比羅船」の画像検索結果

4.「金毘羅船々」の発生

 明治元年(1868)6月太政官達によって金毘羅大権現は琴平神社、そして金刀比羅宮に改称されますから歌詞の中に「金毘羅大権現」が出てくるこの唄は、それ以前に出来上がっていたことになります。
 この唄は明治元年までの間に、金毘羅の茶屋などで芸妓たちが参詣客を相手に歌った座敷の騒ぎ唄として生まれたのでしょう。
 歌詞の中の「廻れば四国は」と「一度廻れば」の部分も、芸者や参詣客が、座敷遊びで畳の上を回りながら、この唄を歌っていたことが記録には見えます。

「金比羅船」の画像検索結果

「金毘羅船々」の普及

 明治2年から琴平で四国十三藩による四国会議が開催され、各藩の公議人らか親睦を図るために宴会が盛んに開かれます。また、明治12年3月から6月にかけては琴平山大博覧会が開催されます。このようなイベントを通じて琴平や丸亀・多度津などでは盛んに歌われたと思われます。これが全国に広がるきっかけとなったようです。
 明治25年刊の『西洋楽譜日本俗曲集』には「金毘羅船」が紹介されます。明治27年頃の地方民謡流行期には、香川県の代表的民謡として全国的に紹介されています。これも「金毘羅船々」が全国で唄われるきっかけとなりました。
る。
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 しかし、もともと参詣客相手の御座敷の騒ぎ唄から自然発生的に起こったものです。歌詞もシンプルで、歌謡としては今一つでした。そこで昭和3年頃に新民謡運動が盛んになると、地元の俳人大西一外氏が二番以下の歌詞を追補して新民謡「金毘羅船々」が誕生します。この新民謡「金毘羅船々」は、昭和十年代の広沢虎造の浪曲「森の石松、次郎長代参」の大流行によって、さらに多くの人に唄われるようになります。こうして、この唄は全国区の民謡へと成長していったのです。
 以上のようにこの唄の歴史は、幕末から明治にかけて生まれたもので、案外新しいものなのです。
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参考文献 溝渕 利博 金毘羅庶民歌謡の研究

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