瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2018年11月

 秋の杖立峠を訪ねて
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穴吹の奥の内田集落の家屋を見て、さて次はどこへ向かおうか考えます。
この庭から見える綱付山から正善寺への稜線を見ていて、杖立峠に行ってみることにします。

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最後の集落である田之内を超えて車を走らせます。
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このあたりの道路は幅もありますし、カーブも適度なので快適な山岳ドライブが楽しめます。振り返ると、いま登ってきた渓谷が深くV字を刻んでいます。そして、田之内集落が、その向こうに見えているのは半平山の稜線でしょうか。

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30分足らずも走ると稜線が近くなってきました。
この地区は友内山、八面(やつら)山、綱付山、正善山、奥野々山、高越山など1,000m を超す高い山々で囲まれています。
かつて修験者達は、各地からこの山々を越えてを剣山をめざしました。口山の閑定滝前にある昭和3年(1928)建立の
「剣山道 是よりお山へ十里 龍光寺八里」
と刻まれた高さ3m、幅1.1m、厚さ40cm の道標や、
古宮の石尾(いしお)神社の鳥居横の
「剣山大権現 明治三十三年(1900)三月建之」
本殿横の「安政五午年(1858)三月吉日」
などに、かつての痕跡がうかがえます。
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稜線が明るく輝いてきました。峠に近づいたようです。
稜線上の広葉樹は、色づき秋の気配です
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林道の開通記念碑が建っています。
杖立峠1080m(つえたて)峠は、剣山への参拝道としてよく使われた峠です。
古老の話では、昔は先達さんに連れられて村の若者達の多くがこの峠を越えたそうです。その時に登りの時に使った杖を、この峠に刺し立てて木屋平へ下って行きました。そのためこの峠は「杖の森」とも「杖立峠」とも呼ばれていたといいます。
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この峠は、平成5年(1993)3月に完成した林道杖立線の工事で、昔の面影はなくなりました。ちいさな祠がかすかにその当時のことを伝えるだけです。
この峠は剣の前衛峰として西から東に、八面山 → 綱付山 → 杖立峠 → 正善山と連なる嶺峰が続きます。かつて、私もテントや寝袋の入った重いキスリングザックを背負って、この辺りを徘徊したことがあります。当時は、ここに車道はなく奥深い峠でした 
 
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 正善寺に向けての道標が立っています。
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林道もついているようです。この稜線沿いの林道を行けるところまで行って見ることにします。
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峠からの坂を登ると、林道工事で出た残土で埋め立てられた広場があります。植林された唐松が梁のような色づいた葉を落としています。
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林道は、稜線を傍若無人に切り開いて伸びていきます。
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そして、迎えてくれたのが彼女・・・・。
なにしきにきたんな あんた かえりな ここは私の領分で・・・
こちらをにらみつけて(?)逃げようとしません。
どうぞ通して下さいとお願いして通過・・・


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そして行き止まりは、集木作業場になっていました。
JP(ジャンクション・ピーク)まで林道は延びているのかもしれません。
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そして、開けた稜線から北側をのぞむと・・
剣山から天神丸を経て、雲早山に続く四国の背骨に当たる山々が東に伸びています。
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中尾山には「天使の階段」が架かっています。
天使が舞い降りてきているような光景です。
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あの嶺峰が白く染まるのもあとわずか・・・
晩秋から冬の気配を感じる杖立峠でした。
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内田集落の家屋を訪ねて

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剪宇峠から下りてきて、やってきたのは穴吹でも一番山深い内田集落。集落入口にある樫平神社に訪問許可を得るために参拝します。
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境内を道路が通っているのですが、通る人もいなく静です。
手洗石に落ちる水音だけが響きます。

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ここに導いていただいた感謝で参拝を済ませて、拝殿と本殿をみると・・・。
まるで雪深い東北の社のような雰囲気。窓もなく木で囲い込まれています。
冬の厳しさのためでしょうか・・・?イメージ 4

高度を上げていくと手入れされた茶畑が現れました。
その向こうには八面山から綱付山への稜線がきれいに見えます。
かつて調査報告の出されていた古い民家の今を確認しに行きます

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町道から石垣の坂をのぼると、その民家は現れました。
ソラの家屋は、日当たりの良い南斜面に建てられます。この家もそうです。傾斜地でなので、等高線に沿って細長く、谷側に石垣を積み敷地を造っています。順番に東側からお墓、納屋、離れ、浴室・便所、主屋と並べて建てられているようです。 イメージ 9
この主屋の建築年は、明治30年(1897)と調査報告書にはあります。
主屋の屋根は、本は草葺(ぶ)きでしたが、調査された時には既にトタンの小波板で覆われていたようです。オブタもトタンの小波板葺きです。
間取りは平入り右勝手の「中ネマ三間取り」です。
「ネマ」の部分を半間北側に突出させています。
「オクノマ」は、現在床を張っているが昔は土間だったようです。「ザシキ」の西側に少し増築して部屋を取っていますが、昔は収納だけだったようです。
主屋の次に現れるのが、この建物。
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今は、この家屋に暮らしている人はいないようですが敷地周辺のカヤが刈られて軒下に集められています。




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最後が納屋です。
この家の屋号は「ワラベノヘヤ」。
ワラベノは蕨野(わらびの)を示していそうです。
小説の題名を思い出してしまいました。
家紋は「キリノシモン」で、家系図も残っているようです
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敷地の西端から見上げるとかり集められてカヤが乾され集められています。茶畑の下に敷かれるのかもしれません。

家屋調査から20年近くの年月が経ち、どんな姿になっているのか気になっていました。無住にはなっていましたが管理はされています。
もう一軒訪ねて見ましょう。

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さっきの家から少し登ったところにある家屋です。やはり、前に深い谷を見下ろし、背面に山が迫る立地条件です。
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屋号は「ナカ」で、集落の中央という意味らしい。興味深いのは、屋敷神に南光院という山伏を祀(まつ)っていることです。剣周辺で行を積んでいた修験道の指導者の家ではないかと思えてきます。
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 主屋は、1850年ごろに建てられたようですが現在は、建具をアルミに替えたりして、かなり手を加えられています。主屋の草葺き屋根は、昭和初期に葺(ふ)き替えをして、昭和50年代には鉄板で覆われたようです。間取りは、平入り左勝手の「中ネマ三間取り」です。
 昔、「オクノマ」は土間で、「オモテ」と「ザシキ」にはイロリがあり、天井は「竹スノコ天井」だったという。「柱、梁(はり)、板戸などは、重く黒光りしており、当時を物語る趣深い内観となっている。」と報告書には記されています。残念ながらここも管理はされていますが、人は住んではいないようでした。
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庭の前には綱付山から伸びる稜線に紅葉前線が下りてきているのが見えました。

徳島県 剪宇峠と豊丈集落のお堂と家屋を訪ねて

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穴吹から剣に向かう国道492号を走るときには、この白人神社に祈願と安全の感謝。台風で被害を受けていた本殿も修復され輝いていました。さあ、とりあえずの目標は剪宇峠です。

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古宮で右折して県道259号に入り、北丈集落を目指します。
県道とは名ばかりの狭い急勾配の道を登っていくと・・

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青い屋根のお堂が迎えてくれました。北丈のお堂のようです。
この日はちょうど観音石像の開眼日で、お寺さんや総代の方がやっってきてお堂が開けられていました。お堂に上がり、町指定の藤原期の阿弥陀仏にお参りさせていただきました。 
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世話役さんから話を伺うと、昭和50・51年の台風災害でこの北又集落の多くの人が里に下りたそうです。それから半世紀近くたって、故郷を顧みるゆとりが出来て観音様を迎えることができたとのこと。このお堂が、散りじりになった人たちの交流の場所になることを願っているとのことでした。お堂が人々を、再び結びつけているのです。こんな風に受け継がれていくお堂もあるのだと教えられました。
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開眼されたばかりの観音様の足下には「ありがとう」の言葉が刻まれていました。
いろいろと御接待を受けてお腹もいっぱいに・・・・感謝イメージ 5

車をさらに上に走らせると最後の家屋が現れました。ここから見えるのが剪宇峠です。大きな二本の杉が目印になります。

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稜線下の県道をしばらく行くっと、道は下り初めそして終点へ。
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ここが剪宇峠直下の「駐車場」になります。
杉木立に囲まれた静かな所です。

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峠には大きな杉が迎えてくれました。地元の人は二本杉と呼んでいます。最大の太さは、幹周りが地上高I㍍で南側のは2・85、北側のは5・65㍍で、遠くから見ると周りの樹木よりもひときわ高く目立ちます。
 杉の根元の小広場には嘉永3年(1850)建立の常夜灯一基と石室内に大師石像が二体鎮座していました。

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向かって右側は明和9年(1772)、左側は弘化4年(1847)とあり、西方の津志嶽に向かって鎮座しています。かつては 旧暦の7月26日に一宇と古宮から大勢の人達が集まって、護摩法要が催され、回り踊りの後、真夜中の2時頃に昇る三体の月を見る行事があったといいます。 
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巨樹の根元に石仏が抱き込まれています。いつの日か木と一体化してしまうのかもしれません。
手水鉢がありますが、これは剪宇の上の戦の窪で落武者狩りがあった時、亡くなった人達を祀った石を巾着に入れて運んだものが大きくなったと伝わり、キンチャク石と呼ばれています。
いろいろな伝説が、深い峠には生まれて消えていきます。
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この峠は、美馬郡一宇と穴吹町古宮の860㍍にある峠で、昔は産業や姻戚間の交流の大動脈でした。峠のいわれは、猪狩の際の解体小屋を宇と呼んでいたところから剪宇峠とついたと言います。
お堂で、話をきいた総代さんも子どもの時分に、畑で積んだお茶の葉を背負って一宇の乾燥場に持って行くために、この峠を何度も越えたと話してくれました。しかし、今は大杉の根元に安置された大師参拝に利用するだけで、訪れる人も少なくなっています。高い杉の梢の先を、秋の風が渡っていきます。イメージ 12

登ってきた北丈の集落が下に見えます。
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しかし、住んでいる人はいないようです。


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剣周辺の山々に、秋がそこまでやってきている気配を感じました。

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島ケ峰のそば畑の展望所で絶景を満喫して、このそば畑がどのようにして現れたのかが気になりました。帰ってきて調べると、琴南町誌1028Pには次のように記されていました。

この集落の裏山頂上に島ヶ峯と言われる広い平坦地がある。この一帯はもと川東村の入会の野山であって、共同の柴草刈場であった。明治になりこの地区の農家に分割されたもので、下草を刈ったり炭焼をするのに利用されてきた。昭和十(1935)年ごろ、阿讃自動車株式会社が、ここをスキー場として売り出そうと宣伝に努めたことがあったが、諸条件が整わず定着するには至らなかった。


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            島が峰 放牧場から高原野菜畑へ

  琴南町では、ここを牧場として畜産振興を図ることを計画し、昭和41年から三か年継続で牧野造成事業を実施し、43㌶を開墾し牧場を造成した。川奥周辺農家に和牛を導入させ、冬期を除いてここで放牧飼育した。昭和45年ごろは、120頭余の牛が飼育されていた。ところが間もなく牛価の急激な低落により大打撃を受け、ついに昭和47年牧場は閉鎖された。

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島が峰の高原野菜畑(写真 まんのう町教育委員会提供)
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         島が峰の高原野菜畑(写真 まんのう町教育委員会提供)

IMG_6885下中熊のキャベツ2 1986年11月以前
中熊のキャベツ畑(写真 まんのう町教育委員会提供)

 昭和55年に至り、牧野を再開発してキャベツを作ろうとする周辺地域の人々による共業体がつくられた。それから数年にわたって再開発が行われ、大型機械を使ってのキャベツ生産団地として生まれ変わり、琴南随一の高冷地集団農場となり、品質のよいキャベツが生産されるようになった。

整理しておくと
①もともとは、川東村の入会の野山であって、共同の柴草刈場であった。
②明治になって農家に分割され下草を刈ったり炭焼をするのに利用されてきた。
③昭和十(1935)年ごろ、スキー場計画が持ち上がったが実現しなかった。
昭和41(1966)年から43㌶を開墾し牧場を造成し、和牛の放牧飼育を開始した
⑤しかし、牛価の急激な低落で昭和47(1972)年に牧場は閉鎖した。
⑥昭和55(1980)年に、高原キャベツ野菜に再開発され、高冷地集団農場となった。
その後、放置されていたのを近年に有志によってそば畑としリニューアルされたという歴史があるようです。この絶景の背後の歴史が、ソラの村の開発史のように思えてきました。

島が峰そば
島が峰のそば畑

島が峰のそば畑を見ながら考えました。さてここからはさて、どうするか?
Google地図を見ていると、ここから山越えで直接に葛籠野に下りていく林道があるようです。この林道をたどることにしました。しかし、この林道は廃道寸前状態。原付バイクでないと通行は困難でした。
なんとか葛籠野の一番上の家まで下りてきました。そこに広がる光景は、まさに異次元体験でした。
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葛籠野集落(まんのう町)
葛籠野集落は、海技六五〇㍍以上もある山上に開けた集落で、
周囲は800㍍を超す山に囲まれています。西にだけ開けていますが傾斜は険しく、外部からの侵入を拒むような地形です。集落の中央部に張り出すように小さな尾根が舌状に伸び、その先端が丘になっています。この集落のセントラルゾーンのような印象です。ここには古い大きな椿の木が繁っていて、その下に七つの五輪塔がありました。

伝説によると、源平合戦の戦いに敗れた平家の落武者七人が、この地に逃れて来て、住みついたと伝えられています。その墓が「七人卿の墓」と呼ばれ、この地を開拓した先祖の墓として、子孫の人々が守り伝えてきています。
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葛籠野集落(まんのう町)
 また他にも、東原嘉衛門という武士が落ちのびて来てこの地を開いたとも伝わります。その子孫の東原家は四代前まではこの地におり、その屋敷跡を「お東」と呼んでいます。さらに、ある民家の裏に十数基の古い墓の一つに「六百年昔村先祖の墓 明治廿四年八月廿八日」と刻まれていて、立派な宝篋印塔(ほうきょいんとう)も残っています。 どちらにしても「落人伝説」が伝わるのが納得できるロケーションです。
 
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葛籠野集落(まんのう町)
葛籠野(つづらの)という地名は、四国山脈のソラの集落に数多くある地名です。
由来としては「つづらかずらが生え茂っていた」ところから、つづら野と呼ぶようになったといいます。

カチュー葛籠
葛籠(つづら)
葛籠(つづら)は、もともとは葛藤(ツヅラフジ)のつるで編んだ蓋つきの籠の一種です。植物のつるを編んで作る籠(=つづら)は縄文時代から作られ、正倉院にも所蔵されています。

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葛藤(ツヅラフジ)

 ところが平安時代になって、竹を加工する技術が確立されると、竹の方が幅を一定に揃えやすいので、衣装を保管箱として、竹で四角く作られるようになります。 伊勢貞丈が江戸時代中期(1763年~1784年)に記した『貞丈雑記』には、葛籠に関する記述があり、素材がかつてはツヅラフジで作られていたのが竹に変っていっていると書かれています。そして、竹を使って編んだ四角い衣装箱を葛籠と呼ぶようになります。しかし、元々はツヅラフジのつるが丈夫で加工しやすいことから、つる状のものを編んで作る籠のことを葛籠と呼んでいたのです。材料が竹へ変化しても呼称だけは残り、葛籠という字が当てられ「つづら」と呼ばれるようになりました。
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 葛籠野集落(まんのう町)
 ここはツヅラフジが繁っていたのではなく、それを材料にして葛籠を制作する技能集団がいたのではないかと私には思えます。四国のソラの集落には、木地師や猿飼などの職能集団の名前の付いた集落が数多く残っています。
 
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葛寵野にもかつて大師堂がありました。

昔、一人の修験者が大きなツヅラを背負ってこの地にやってきました。
ツヅラの中は立派な仏像でした。修験者はこの地の草庵に住み着いて、付近の集落を托鉢する日日を送ります。そのうちこの仏像が霊験あらたかで、どんな病気もなおしてくれ、願いごともかなえてくれることが近隣に知れわたるようになります。そのため遠くの村々からも参拝者が相つぎ、葛龍野の急坂に列をなしたというのです。そこで参詣者には、風呂を沸かして接待して大変喜ばれたと地元では言い伝えられています。
 伝説かと思っていると、実際に使われた護摩札が残っています。
文化十一(一八一四)年のものと、文政三(1820)年の年号が入っています。山伏がツヅラに背負って持ってきた仏像もあり、江戸中期の作とされています。実際にあった話のようです。

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 しかし、旅僧は、いずこともなく去っていったといいます。
その堂は朽ち果てて跡地は水田になっていますが、里人たちは集落の入口に小さなお堂をたてて、大師堂と呼んできました。堂の中には、中央に石像の弘法大師像、右脇に木造の小さな大師像、左脇に木造の迦里尊者が安置されています。その横のすすけた護摩札には、次のように記されています。

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 文化十一年石鉄山別当
    梵字 奉修不動明王供家内安全祈
        六月吉日  前神寺上人
        剣山
    梵字 奉修剣大明王護摩供家内安全祈教             
        円福寺
この護摩札から山伏が石鎚・剣山を拠点とする修験者であったことが分かります。江戸時代に、箸蔵寺や剣山の修験者たちが阿讃の山を越えて讃岐側へも布教活動を展開していたことが窺えます。
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猪の肝を献上していた集落

江戸時代に高松藩の庄屋を務めた川東村の稲毛文書に、川東村から毎年十二月末に猪のきも一頭分を郷会所に送り、代金を受け取った領収書が数枚残っています。猪のきもは、鵜足郡の造田・中通・勝浦村からも毎年二頭分のきもを納めています。滋養強壮の漢方薬の一種として使用された貴著品だったのかもしれません。この時代、どのようにして猪を捕まえたのでしょうか。

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県史14巻民俗篇587Pには、美合で行われていた「猪狩り」について次のように記します。
山深い集落には、殺生人と呼ばれる猟師が何人もいたようである。炭焼きをしている人が猪を見つけて猟師が追いはじめた。一週間もかかって追いつめて仕とめた。
 シシオトシも作る。猪が水を飲みに来るのをねらって、落とし穴を掘っておく。大きさは10mあまり、深さは3m。穴の上へは枯木などで囲いをしておく。水場の周りをして、落とし穴の上を通らなければ水場へ近づけないようにしておく。豬が落とし穴へ落ちると昔は弓で射たこともあった。葛野(かずらの)にはシシオトシの跡が残っている。
 猪は水を飲むと必ず小便をする。水場のほとりで小便をし、そのにおいのする水で全身をぬらす。小便の混じった水を全身に浴びるのである。ニタバ、ノタウチ場では猪がノタうっていた。
猫の毛の間にダチ(ダニ)がつくので、それを払い落とそうと湿地の泥のなかで全身をのたうたせる。そして、全身をぶるぶるとゆすって泥を払い落とす。泥と一緒にダチをふるい落とすわけである。そのあと、松や樅など樹脂の出る木に全身をこすりつけて毛を固める。そうする鉄砲の弾も通らなくなると言う。
   野田小屋という地名があるが、ここはかってがノタっていたところだと伝わる。
 猪の肉は山くじらと呼ばれているが、肉を売りに行く時は必ず緒の足一本をつけていた。チャンで、指を捕えることもある。チャンとは、鉄製で大鋸の刃のようなものが向かい合った頑丈なものである。踏めばの刃が閉まって足をはさむ。豬は山の尾から尾へ走るので、チャンを仕かけておいた。ハシリをしかけるのは、猪は冬眠中のハミ(蝮)を掘って食べるので出没するところは察知することができると言う。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①殺生人(セッショウニン)と呼ばれる猟師が何人もいた。
②葛野(かずらの)などではシシオトシという大きな落とし穴を掘って捕まえた。
②猪は、沼場(ノダバ)で全身をのたうたせ、泥と一緒にダニを落とす
③猪が集まるノダバがあったところは、野田小屋・野田院などと呼ばれ、狩猟ポイントだった。
④猪の肉は「山くじら」と隠語で呼ばれ、売買されていた。

葛寵野集落の背後に、猪の「のだ場」というところがあるそうです。
ここは一面ゆるやかな草原で、浅い谷あいになっています。谷あいには水があるため、春先になると猪はここにやって来て水を飲み、草原の上でのだうちまわり毛の虫をとります。猟師はそこに目をつけ、このすぐそばに深い穴を掘り、その上に木の枝をわたし、シバを置いて落とし穴をつくって捕まえていたと伝えられています。こうして捕まえた猪の肝が高松藩に献上されていたのかもしれません。

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中熊集落へ

葛籠集落から国道に下りてきて、明神の谷川うどんで昼飯後のうどんを食べて一休み。食後に、この前から道が分岐する中熊へ原付バイクを走らせます。中熊は、ソラの集落としては開発にはもっとも条件がよい場所で、早くから開かれた集落だとされています。

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山熊神社参道(まんのう町中熊)
「中熊開発史」が書かれるとすれば、まず登場するのは①平家落人伝説でしょう。
そして、次に「造田氏」が現れます。
 造田氏は、造田地区の中世武士集団で造田に居館・山城を持っていました。長宗我部の侵入の際に、落城し城主は「首切り峠」で自刃したと伝えられています。その一族がこの地に落ち延びて、この地の開発と進展に大きくかかわってきたと言われています。造田家は屋号を「土居」といい、中世に土居屋敷に住んでいた豪族であったことを伝えます。同家の墓地には家祖の「志摩助の墓」をはじめ、数十基の古い墓が立ち並んでいます。
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安産の神 山熊神社 
階段を登っていくと老木に覆われた社叢の中に山熊神社があります。
この神社はお産の神として古くから崇敬されてきました。大山権現も安産の神とされてきました。同じ流れをくむ修験者の活動がうかがえます。妊婦がこの神社に詣で、社殿にある紐を目をつぶって引き、これを腰に巻き出産すると安産疑いなしと伝えられています。その紐が赤系統であれば女子、そうでなければ男子ともされています。出産後は二本の色紐を持ってお礼参りを行う習わしだそうです。この話も山伏たちが拡げた安産説話として、全国にいくつも見られます。

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        山熊神社(まんのう町中熊)
 境内には、玉砂利を敷き玉垣を巡らしている「ご廟」と呼ばれる所があります。
「昔、里人が朝早く通りかかると、赤い振袖を着た可愛い女の子が二人仲よく手鞠をついて遊んでいるのを見かけたところだということで、それはこの世のものとは思われないほど美しい姿であった。それからここを神聖な場所として玉垣をめぐらした」

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山熊神社の「お廟」
 この玉垣の中の石をいただき、お守りとして戦争に持って行くと、必ず無事に帰国することができたといいます。太平洋戦争に、この石を持って行った人は山熊神社の加護によって無事に帰還することができたと伝えられています。
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        山熊神社(まんのう町中熊)

まんのう町川東中熊の山熊神社の「祭礼変革」で見てみましょう。
中熊地区は「落人の里」と呼ばれるように山深い地にあります。その中にある造田家の文書によると、この神社はもともとは造田一族の氏神として創建されたと伝えます。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。まさに造田氏の氏神だったのです。

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まんのう町中熊の山熊神社
ところが江戸時代の中ごろから、高持百姓が力を持ち始めると造田氏の特権を縮少させる動きを見せ始め、たびたび軋轢が起きるようになります。これに対して天保二(1832)年に、阿野郡南の大庄屋が調停に乗り出し裁定を下します。
 結論からいえば、この裁定で造田氏の棟札特権は認められなくなります。棟札には「総氏子一同」と書かれるようになります。そして祭礼の時の桟敷も全廃されるのです。造田氏に認められたのは祭礼の儀式の上で一部分が認められるだけになります。「宗教施設や信仰を独占する有力貴族に対する平民の勝利」ということになるのでしょうか。結果的には、この裁定によって山熊神社は「造田氏の氏神」から中熊集落の「産土神」に「変身」を遂げたと言えるのかもしれません。それが江戸時代後半の「村社の宗教改革」だったのです。

さらに中熊集落の奥へと原付バイクを走らせていきます。


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ソラに一番近い民家の前には、手入れの行き届いた畑が広がり、高原野菜が青々と育っていました。
その道すがらに「観音堂」という道しるべを発見。しかし、なかなかたどり着けません。
地元の人に聞くと、「民家の庭先を突き切って森の中を歩いたらあるわで」とのこと。その通り最後の民家の庭先を突き切り、森の小道を500㍍程進むと・・・
林の中に青い屋根のお堂が見えてきました。

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法然ゆかりの観音堂(まんのう町中熊)

 法然は建永元(1206)年12月、専修念仏禁止で土佐に流されることになります。しかし、保護者の九条兼実の配慮で、讃岐の九条家の荘園小松荘にあった生福寺に入ります。法然の讃岐滞留は八か月余りでした。七五歳の老齢であった法然は、生福寺を中心にして各地で念仏の教えを説いたと伝えられています。

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中熊の観音堂
 その法然の活動を伝える次のような話が、この地にも残っています。 
法然上人は大川権現に参詣した折に、中熊というところは仏道にゆかりの少ない辺境の地であることを聞き、遥かに山奥のこの地を訪ね、廃庵のようになった観音堂に身を寄せ、この地の人々を救うため一心に称名念仏による救いの法を説いた。この時、上人のお越しを「ガキマチ」に村人が集まってお待ちした。法然上人は、一刀三礼の阿弥陀如来の三尊仏を刻んで、観音堂に、後世のために残された。
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                    中熊の観音堂
 天明二(1782)年には「法然上人弥陀堂餓鬼摂化御旧跡」という石碑が建立されています。この碑は、谷川うどんから中熊へ少し入った町道の脇に今はあります。
 観音堂の前には、大きな銀杏が枝を広げ先端から色づき始めていました。 この観音堂については、中熊上の佐野家の弘化二(1845)年の記録にその由来が、次のように記されています。
     口上
一、中熊寺の前庵に奉納せる弥陀観音勢至三尊仏と申すは、法然上人御直作にて、大川宮別当十二房の内、房久保に御鎮座し、その後土洲長曽我部元親乱入の節、僧房焼き払われ候瑠り、住僧右三尊仏を負い奉り、当所へ引寵り、庵一宇を建立仕り納め奉り御座候処、
その後、仏生山法然寺を御建立の後、右三尊仏を仏生山へ御納めあらせられたき由にて、御役所へ指出し侯様仰せ聞かされ候え共、当免場の義は、山中草深き土地にて寺院へも遠路の義につき、老若男女仏法の便りを取り失い候様相成り侯につき、その段御嘆き申し出で侯ところ、御聞き届け下され、右三尊仏の内、阿弥陀如来一仏御召し上げ、観音勢至の二菩薩は仏法結縁のため御残し置き下させられ候由申し伝え、御尊慮の程有難く存じ奉り、今に免場の者共惺怠なく参詣仕り、誠に霊験あらだなる二尊像にて、只今まで、この土地に悪病など流行も仕まつらず、その余段々御利生少なからず、是まさしく二菩薩の御蔭と一同有難く拝上罷りあり侯。かつ又およそ三拾ケ年ばかり以前、仏生山御役僧の由両人罷り越し、右二菩薩法然寺へ相納めくれ侯様、左候えば当庵は法然寺末庵に取り立て、相応に庵地も寄附致し侯間、何様和談の上、所望致し度き由にて、いろいろ相談御座侯え共、先年一仏御召上げに相成り候義も、至極残多(残念)に存じ奉り居り申す儀につき、強いて断り申し述べ候義に御座侯。然る処、又々此の度右二菩薩御所望の由にて、達々御相談下され侯え共、前願の通り仏生山御開基の瑠り是迄御断り申し上げ御座侯義に付、何様此の度御引寄の義は、偏に御断り申し上げ度存じ奉り侯。左侯えば二菩薩御名染みの私共一同有難く存じ奉り、尚後代迄仏法の結縁と罷りなり侯義に御座候間、此の段よろしき様頼み上げ奉り侯。             以上
                 阿野郡南川東村中熊
  弘化二年                   観音堂惣講中
     十一月

意訳変換しておくと
     口上
一、中熊寺の前庵に奉納されている弥陀観音勢至三尊仏は、法然上人の自作の仏たちである。大川権現の別当十二房の内の房久保に鎮座していた。ところが土佐の長曽我部元親の乱入の際に、僧房が焼き払われしまった。そのため住僧がこの三尊仏を背負って、当所へ避難させ、庵を建立した。その後、(初代高松藩主の松平頼重が)仏生山法然寺を建立して、この三尊仏を仏生山へ奉納せよと命じられたことがあった。その際に、当免場(中熊)は、山中草深き土地で寺院へも遠路で、老若男女が仏法の便りを取り失うことになります、何とぞご勘弁をと請願したところ、御聞き届け下さました。ただ三尊仏の内の、阿弥陀如来は御召し上げ、観音勢至の二菩薩は仏法結縁のためにこの地に留めるようにとの達しであった。この尊慮を有難く受け止め、今にこの地の者たちは怠りなく参詣しています。誠に霊験あらだなる二尊像のおかげで、今までこの土地に悪病など流行はありません。その他にも、さまざまな利生がありました。これまさしく二菩薩のお蔭と一同ありがたかう拝んでいます。約30年ほど前、仏生山のふたりの役僧が参って云うには、残りの二つの菩薩を法然寺へ納めれば、当庵は法然寺末庵に取り立て、相応の庵地も寄附するであろう。この申し出に対して、いろいろ相談した結果、先年阿弥陀如来を召上げになったことについて、至極残念に思っているので、強いてお断りすることにしました。ところが再度、二菩薩所望のお話しがありました。これについても、仏生山開基の時にも御断りしているとおり、お受けすることは出来ない旨を伝えました。このように二菩薩については、私共は名染みの仏で、深い信仰心を持っています。この後も仏法の結縁として、この二つの仏を護っていくように、後世に頼み上げ奉り侯。             以上
                    阿野郡南川東村中熊
  弘化二年                  観音堂惣講中
     十一月

ここからは次のような情報が読み取れます
①この仏像は法然自作で、もともとはの阿弥陀観音勢至三尊仏で、中熊寺の庵に安置されていた。
②それが長曽我部元親の侵攻の際に、僧房が焼き払われて、現在地に避難させ、庵を建立した。
③大川権現には別当寺が十二房あり、中熊寺もそのひとつであった。
④初代高松藩主の松平頼重が仏生山法然寺を建立した際に、法然寺の寺格を上げるために、各寺から古い由緒のある仏像を集めた。
⑤その際に、この三尊仏も仏生山へ奉納せよと命じられたが陳情の結果、阿弥陀仏だけを奉納し、両脇の観音像は奉納せずに済んだ。

特に③について私は注目します。大山権現には、別当寺が12坊あり、その修験者たちによって大川権現は運営されていたことを押さえておきます。
参考史料 琴南町誌 1008P

まんのう町「ソラ」の集落を行く 浅木原・中野・島ゲ峰

沖野の川上神社から川沿いの旧道をたどって浅木原に登ってきました。しかし、県道が新しくなってからは旧道を通る人はいないようで倒木、流れ石などで道は荒れていて一苦労。原付バイクだからこそ通過可能です。 

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     浅木原は阿讃山脈の最高峰龍王山にもっと近い集落で、県境尾根の稜線上の電波塔が目の前に広がります。山を開き畑作をする場所としては日当たりも良く、水も得られるとすればいい場所だったのかもしれません。しかし、ここは人里からは本当に遠い場所です。

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 今は1,5車線の県道が川奥からここまで整備され、15分程度で登ってくることが出来ます。県道は行き止まりですが、閉じられた柵の向こうには広い広場が広がっています。何に使っているのか興味が湧きます。
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 百年前の大正時代には7軒の集落でしたが、今は誰も住んではいないようです。しかし、畑や家屋が手入れはされています。里に下りても、定期的にやって来ては管理をしているのでしょう。
 浅木原に山主社があると聞いていたので探してみました見つけることが出来ません。
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誰もいなくなった広場に、庚申塔がポツンと立っています。

青面金剛と三猿二鶏が彫られたものです。ここでも庚申講が行われ、庚申待ちの日には夜通し寝ないで、光明真言が唱えられていたのでしょう。盆の十五日には、この庚申塔前で踊りが催され、近在の人々三、四十人が集まって賑やかだったそうです。
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7軒の集落が、信仰という絆に結ばれて厳しい自然と向かい合いながら生活していたのでしょう。

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  紅葉には少し早い阿讃県境尾根付近です。帰りは県道を下りていきます。
途中に沖野の家々がぽつりぽつりと散在します。
道沿いに手入れされた茶畑が広がります。

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その中に見つけたのがこれ

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 明治5年の年号が入った庚申塔が茶畑の隅にひっそりと立っています。この塔は浅木原のものより新しいようですが同じように青面観音と三猿二鶏が彫られています。阿波の集落から伝わった庚申講が、ここでも行われていたのでしょう。

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 この集落や浅木原への道は戦前は幅1㍍程度の里道だけで、すべて荷物は肩に担いで運ばれていたといいます。明神方面へ出るには、大部分の人は中の谷へ下り、川奥の川沿いの道を下りました。株切や沖野の人々は、島ケ峯を通って葛龍野へ出て、それから林へ下りる道を通っていたようです。また東へ出るには、日開谷の上を通って、それから貝の股を通り塩江に出る道と、尾根伝いに雨島の上を通り、戸石に出て高松へ行く道が利用されていました。徳島へは寒風越、三頭越を往来したそうです。

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沖野から中野集落へ上がっていきます。

南斜面に畑が広がり、その一番上に民家が集まっています。
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その中で、畑の田舎にポツンと廃屋が・・。
しかし鐘が吊されているようです。行って見ます。
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土壁が落ちて、今は廃屋となっています。
帰ってから琴南町誌で調べてみると、こう書かれていました。 
この庵は、明治の中期に黒川勇吉(明治三十五年三月没)が説教場として建てたもので、黒川説教場とも呼ばれていた。敷地内には黒川勇吉の墓と、故黒川菊蔵が明治三十二(一八九九)年に建てた菩提塔がある。また、この庵には近くの畑二反余が寄進されており、近年まで庵守りの僧がいて、近在の人々の教化に当たり、信仰を集めていたが、今は無住となり、寂しく戸を閉ざしている。
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 ソラの集落には山伏や修験道者など宗教的な指導者であった人たちが定住することも多く、宗教的な情熱を強く持つ人がいたことが分かります。

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中野集落から株切集落まで上がってきました。

道路に「島が峰そば畑」を案内する看板が現れました。行って見ることにします。
深い林の中を林道は縫うように走り、高度を稼ぎますが展望はありません。

そして突然に視界が開けました。ここが島ケ峰のようです。

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ここはそば畑として管理され、南に広い視野が開ける展望台になっています。テーブルが置かれ簡易トイレや水場が整備されています。最高の景色を独り占めしながらの昼食タイムとなりました。
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この一帯は、江戸時代は川東村の入会の野山で、共同の柴草刈場だったようです。
明治になりこの地区の農家に分割され、下草を刈ったり炭焼をするのに利用されてきました。
 高度経済成長期に旧琴南町では、この一体の四三㌶を開墾し牧場を造成します。川奥の周辺農家は和牛を、ここで放牧飼育しました。昭和四十五年ごろには、一二〇頭余の牛が飼育されていたようです。しかし、牛肉自由化等により価格が低落。大打撃を受け、わずか2年後に牧場は閉鎖されます。
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残ったのは、牧場造成と同時に行われた各集落から牧場までの道約10㎞。
これが後の地域開発の足がかりとなります。それから10年後、牧野を再開発して大型機械を使ってのキャベツ生産団地として生まれ変わり、高冷地集団農場となります。そして、いまは蕎麦が栽培されています。ここは、牧場から高原キャベツ、そして蕎麦栽培と姿を変えてきた高原なのです。

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今回はここ島が峰のそば畑まで、続きは次回に・・・・

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