瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2019年01月

秦氏について『岩波日本史辞典』には、次のように記します。

古代の渡来系氏族。姓は初め造(みやつこ)、683(天武12)連(むらじ)、685年忌寸(いみき)。秦始皇帝の後裔を称し、応神天皇の時に祖・弓月君(ゆづきのきみ)が120県の人夫を率いて渡来したというが、実際は新羅・加耶万面からの渡来人集団。山城国葛野・紀伊郡(京都市西部)を本拠に開拓・農耕、養蚕・機織を軸に栄え、周辺地域にも勢力を延ばした。また鋳造・木工の技術によっても王権へ奉仕した。広隆寺・松尾神社などを創建し、長岡・平安京の造営ではその経済基盤を支えたとみられる。秦氏の集団は大規模であるとともに多数の氏に分化したが、氏の名に秦を含み、同族としての意識が強い。太秦(うずまさ)氏が族長の地位にあった。

ここからは次のようなことが分かります。
①秦氏が朝鮮半島からの大規模な渡来集団であること
②さまざまな先進技術を持って日本各地に移住し
③大きな勢力として古代王権にも政治的な影響を与えたこと

 秦氏とその民 : 渡来氏族の実像 / 加藤謙吉 著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房
加藤謙吉『秦氏とその民』は、秦氏の技術者集団の側面を次のように記します。

①秦氏とは、五世紀後半から断続的・波状的に渡来してきた集団を母体にして
②日本人の在地集団も組み入れながら成立した擬制的集団
③出自や来歴がちがうので、民族的な求心力はそれほど高くはなく各集団は自立的な性格が強かった。
④政治的な面よりも、経済的な面から大和政権の底辺を支えた氏族であった。
⑤秦氏の最大の特徴は、さまざまな最新技術を持った集団であったこと

そして、秦氏の技術力・生産力を、加藤謙吉は次の四点に整理します。
第1に、瀬戸内海沿岸に製塩技術をもたらしたのは秦氏であること。
西日本の製塩の中心である備讃瀬戸にも多数の秦氏集団がいたこと。播磨の赤穂一帯は、近世では塩田が盛んでしたが、その起源は奈良時代に秦氏が塩田開発していること。『平安遺文』の「播磨国府案」「東大寺牒案」「赤穂郡坂越神戸南郷解」には、次のように記します。

赤穂市の坂越に墾生山と呼ばれる塩山があって、天平勝宝5(753)年から7年まで、播磨守の大伴宿繭(すくね)がこの地を開発し、秦大炬(おおかがり)を目代にして「塩堤」を築造させたが失敗し、大矩は退去した。

第2に銅生産技術です。
秦氏の出身地は朝鮮半島東南部の産鉄地帯とされます。渡来してきた秦氏集団がまず勢力を伸ばしたのが、九州の鉱山地帯である筑豊界隈でした。そして九州から瀬戸内に沿いつつ、各地の鉱山開発を進めていきます。そして全国の鉱山に足跡を残します。採掘から精錬、さらには流通に至るまで、秦氏と鉱山資源は深く結ばれていました。東大寺の大仏開眼の銅は、秦氏によって集められたことは以前にお話ししました。

第3点が朱砂と水銀採集技術です。
朱砂という赤色顔料による色の呪力があり、弥生時代から古墳時代には、遺体の埋葬に使われていました。赤は魔力を持つ色とされ、その赤を操る種族ということで、マジカルな力を持つと思われていたようです。そのため金にも劣らないほど、この時代では貴重資源でした。
もうひとつは、仏像建造などにアマルガム鍍金法が導入されることによって、水銀の価値が高まったことです。奈良の大仏がそうであったように、水銀がなければ仏像を鍍金できなかったのです。そういういみで水銀は最重要資源でした。水銀採石地と丹生神社が重なっているおは、そのような水銀の重要性と関係あると研究者は考えています。
 第四点が土木・建築技術です。
京都・太秦は秦氏最大の根拠地ですが、そこを流れる桂川に堰堤をつくり、治水・潅漑を行っています。それ以外にも、茨木の茨田場などの土木工事や、長岡京や平安京など、首都の造営にあたっては秦氏が深く関わっていたと研究者は考えています。この4点だけでなく、農耕や養蚕など、秦氏の技術力はまだまだたくさんあります。

それでは讃岐にいた秦氏について見ていくことにします。まず讃岐秦氏の拠点はどこなのでしょうか?

2 讃岐秦氏1

讃岐における秦氏の分布を表にすると、東から大内郡・三木郡・山田郡・香河郡・多度郡と、讃岐十一郡のうちの半分にあたる五郡にわたっています。その中でも、集中しているのが香河郡です。ここから香河(川)郡が秦氏の拠点のようです。
 香河郡の秦氏の本拠を考える上で、大きな意味をもつのが「原」という地名だと云われます。
  『続日本紀』神護景雲三年(七六九)十月十日の条によると  
讃岐国香川郡人秦勝倉下等五十二人賜二姓秦
とあって、秦勝倉下ほか五十二人が、秦原公の姓を賜ったことがわかります。更に『平城宮発掘の木簡』にも、「原里」に秦公恋身という人物の名が記されたいます。 

では、幡羅(原)里とは、一体どこなのでしょうか。

平安時代の『和名抄』には香河郡の郷は、笠居・飯田・坂田・箆原・中間・成相・大田・多肥・百相・河辺・大野・井原の十二郷で、幡羅(原)郷はありません。
「原里」は、郷の再編成で新たに誕生した里と考えられています。そして、現在田村神社の東に「東原」という地名が残っていますが、この「東原」が、幡羅(原)郷のようです。

この原郷には、秦氏によってまつられた田村神社が鎮座します。

その祭神は、倭追々日百襲媛命・五十狭芹命(吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命の五柱ですが、中心となる祭神は倭追々日百襲媛命で、水と豊作をもたらす神として、女神がもつ再生産の機能に期待してまつられるようになったのでしょう。秦氏によって祀られた氏神的な神社が、秦氏の政治的な力によって讃岐一宮になっていったようです。

2 讃岐秦氏2
 秦氏にとって、一番重要な本拠地は「原里」で後には、百相郷も含みます。加えて中間郷も秦氏の重要な本拠でした。『平城宮木簡』によると、中間里に秦広嶋という人物がいたことがわかります。
 このように、百相郷を含む原里と中間郷が、讃岐秦氏の本居であったようです。
 古墳時代のこの辺りには、双方中円墳の船岡山古墳があり、石枕付石棺が出土しています。また直径二十メートルほどの円墳の横岡山古墳があり、玄室・羨道を有する片袖石槨をもち、頚飾玉2、銅環3、石斧1、鉄剣1、須恵器数十個が出土しています。 近くには「万塚」と呼ばれる地名が残っていて、かつては群集墳がありました。
これらから秦氏の墳墓は 
①船岡の双方中円墳(4世紀)→②横岡山円墳 →万塚古墳群の盟主古墳
(6~7世紀)へと推移したと考えられます。
奈良時代には神宮寺の前身となる寺院が、秦氏の氏寺として建立されます。
優婆塞として名の見える秦人部辛麻呂は、氏寺の僧侶であったと考えられます。後になってその寺院は神仏習合の結果、一宮である田村神社と結び付いて、神宮寺となります。ここは現在では船山神社になっています。しかし、地元では神宮寺の名で親しまれており、傍らのバス停の名前はいまも神宮寺のままです。ここが百相廃寺跡で、複弁八弁・単弁八弁の軒丸瓦と、偏行唐草文軒平瓦などが出土しています。秦氏の仏教活動は、奈良時代の優婆塞秦人部辛麻呂から、平安時代の道昌・観賢・仁政へと、引き継がれたようです。
2 讃岐秦氏4

秦氏には次のような氏族構成が、形成されていたと推察できます。 

香河郡内の秦氏は強い同族意識で結ばれ、大内・三木・山田・多度など他郡に分布する秦氏に対して、秦原公は何らかの形でゆるやかな支配力を持っていた。
② 秦氏の性格としては、その本拠が内陸部にあったところから、農耕民としての性格が強かった。
③ 香河郡の秦氏は香東川の水を引いて稲作を行ない、田の畦や空閑地に桑や麻を植え、絹や麻の布を織った。
④ 秦氏の本拠の近くには、讃岐特産の敷物である円座の生産を行なった村があり、少し離れて檀彫の生産を行なった村があり、この円座と檀紙は平安時代に讃岐の特産品とされ、都で暮らす人々にも重宝がられた
⑤ 円座・檀紙の生産については郡司である秦氏が、関与していたと思える。  
『続日本後紀』承和九年六月二十二日(乙酉)条によると。
 讃岐国香河郡人戸主従六位上秦人部永楸。戸主秦人部春世等十人。賜二姓酒部
とあって、秦氏の一族の中には酒部に改姓される者がいて、酒造りを行なった人々がいたようです。 
2 讃岐秦氏3

 一方、香川郡の海浜部は、帰化系氏族の綾氏に占められていたようです。 

『日本霊異記』によると、聖武天皇の頃、讃岐の香川郡坂田の里に、大層な物持ちがいて、その姓は綾君であった記されます。また、東寺の果宝が観応三年(一三五二)に編述した『東宝記』収載の天暦十一年(九五七)二月二十六日の太政官府に、香河郡笠居郷戸主綾公久法の名が見えます。海に近い香河郡笠居郷や坂田郷は、綾氏の一族が押さえる地域だったようです。
 綾氏は海の近くにすむ海岸の民であり、秦氏は同じ帰化系氏族のよしみで、海からとれる塩・魚貝類・海草などを、手に入れていたのではないでしょうか。秦氏・綾氏の本拠の近くには、大田郷・多肥郷があり、大田の語源が王の田を意味する王田であって、かってそこに屯倉がおかれ、多肥の語源が屯倉の耕作者の田部であったとすると、秦氏・綾氏には屯倉の管理者として活躍した時期があったとみられる。秦氏・綾氏は大和王権と結ぶことで、東讃の国造凡氏と西讃の国造佐伯氏の勢力が枯抗する地域で、勢力をえることに成功した氏族であったようです。

参考資料  羽床正明 讃岐秦氏について 

    

                                                                   

 小説「釈伝 空海」について

前回は「空海=母・阿刀氏の本拠である摂津・生誕生育説」が研究者の支持を集めていることをお伝えしました。昨年には、この説に基づく小説「釈伝 空海」も発表されています。小説では、空海の父と母の出会い、佐伯氏と阿刀氏の結びつきがどのように描かれているか興味深いところでもあります。少し、紹介したいと思います。

村屋坐弥富都比売神社(祭神・三穂津姫と壱与)

物語は宝亀三年(772)の秋口、大和の中つ道を南下する讃岐国郡司少領佐伯直田公、つまり空海の父の姿から始まります。彼は、讃岐郡司として平城京に春米(白米)を納めるために上京して、その任を終えたばかりのようです。そして、祖先を祀る村屋坐弥富都比売神社に参拝のために道を急いでいるのです。神社で、同席したのが阿刀豊嶋(空海の母の父)でした。
大神神社別宮・村屋坐弥冨都比売神社に参拝 | 大楠公末裔 楠公研究会 ...

小説では、阿刀氏の出自が背景が次のように描かれます。

祭礼を受けた後、酒宴の座ではさまざまな話題が出たが、室屋氏は次のようなことを語りはしめた。現神職の室屋氏と阿刀豊嶋の先祖は、ともにかっての物部氏であった。特に室屋氏は物部守屋大連の子孫である。物部守屋は、河内国の渋川に本宅を構え、北の淀川と南の大和川の水運を押え、絶大な勢力を誇っていた。 さらに、時の用明帝の宮が磐余(桜井市安倍)にあったから、その宮に近い阿都の地に別業(別宅)を設け、宮廷に出仕の際に利用していた。阿刀の地は、大和川の上流初瀬川の中流域にあり、昔から大和川舟航の終着点として、新羅や任那の使人たちが上陸した船着場かおり、川辺にはそういう使人たちを休息させる館が置かれ、海柘榴市も立つ賑やかで異国情緒のある土地柄であった。推古十年(六〇八)に帰国した遣随使小野妹子が隋人裴世清らを伴って、ここから上陸している。
 
2 奈良村屋神社2
阿刀豊嶋の先祖は、この大和川の水運に携わる跡部を統轄して、本拠地をこの阿都の地に置き、同時に物部守屋の別業を管理していた。用明帝の二年(五八七)四月、用明帝が亡くなられると、その三ヵ月後、国つ神を奉じて仏教を排そうとしていた物部守屋は、泊瀬部皇子(崇峻帝)や厩戸皇子(聖徳太子)、蘇我馬子らの軍に攻められ、渋川の本宅で討たれてしまった。ここに守屋の末流たちは榎井、石上、阿刀などと、その住む地名に氏名を変えて生き延びた。榎井を名乗った守屋の子の忍勝は、後に物部の氏名に戻り、物部忍勝連となり、推古女帝の元 年上一月、村屋神社の世襲の祝職を継ぎ、以後、室屋(守屋)氏を代々名乗ってきた。また、阿刀氏友。阿都の地にあって、この神社の神人(氏子)の長を代々継いできたのである。

田公は豊嶋に招かれ、一夜をその館で過ごすことになります。

2 奈良村屋神社

場所替えて向き合う二人は、親子ほどもちがう年齢ですが、いろいろな話が交わされます。この会話を通じて佐伯氏と阿刀氏をめぐる様子も分かってくるという酒肴です。 
こうして、またしても酒宴がはじまったのであるが、二人の会話は、自然に、暮らし向きのこと、世情の噂や、先祖のことへと移っていった。
 田公が、国元の多度津には時折、唐の江南地方の商人などがやってきて、貿易をする様子を語る豊嶋は興味深けに聞き入り、かすかに嘆息をもらし、近頃は中央の官吏などより地方官の方が豊かな生活に恵まれている、と愚痴をこぼした。
 実際、阿刀氏の一族のものは、ほとんどが中央の下級官吏であって、生活に厳しいものかおり、一族のものには書の才能のある者が多いため、写経所などに写経生として雇われる場合かあるが、薄給であった。あるいは豊嶋の父雄足のように、造東大寺司の舎人から抜擢され、東大寺の荘園である越前国坂井郡の桑原荘に送り込まれ、そこでの経営を勤め、片手間に私出挙(稲・米を貸し元手こ利息を執邑を行って豊かになる者もいた。

ここには近年の若き日の空海についての研究成果が生かされています。

空海の父・田公は、多度津を拠点に瀬戸内海運を行い、そこで集めた物資を住吉津に運び、阿刀氏がそれを車馬で八尾街道を一直線に跡部郷に運び、水路で平城京や大和、あるいは長岡京に運送する。その事業の連携のために佐伯氏と阿刀氏と接触、ここに婚姻関係が生まれる背景があったのではないかとという研究者の仮説が出されていました。
田公と「阿刀の娘」の初めての出会いは、こんな風に描かれています。 
田公が燈台のともし火に眼をやったとき、部屋に入ってくる者があった。
部屋中にかすかな香の薫りが漂う。女性である。瓶子を捧げ持っている。白い絹の桂をすらりと着流し、薄紫の帯を前に結んで余りを垂らし、浅緋色の総の袖(上衣)を上からはおっている。つややかな黒髪は二つの書(わげ)を頭上に結い、残りを後背に垂らしている。ややふっくらした顔立ちで、瞳は湖をたたえたように静かで思慮深い眼差しを客に向けている。
 わが最愛の娘であると豊嶋は言う。村屋神社の大祭の日に生まれたので、祭神弥富都比売にあやかって、弥穂都子と呼ぶという。十七、八歳というところか。田公はといえば、その匂うような気品に気おされて、しばし、われを失っていた。豊嶋が娘の名を口にしたとき、娘は父を軽く睨んで、瓶子を少し傾け田公に盃を促した。
 田公はわれに返って娘の酌を受けた。
豊嶋によれば、娘には二人の兄がいるという。長男は真足といって、今は都に住んでおり、今年四月に大学助になったばかりという。次男の大足については余り語らなかった、どうやら大変な学者であるらしい。しかし田公は豊嶋の話をうわの空で聞いていた。娘の方から惨み出てくる何かが田公をとらえていたのだ。しかも、娘が女にしては珍しく学問を身につけていることに感嘆していた……。
 日が斜めに昇りかかるころ、中つ道を北上する田公主従の影があった。従者は、田公の様了がいつもとは違っていることに気づいていた。時折、ホーツと溜息をつき、何事かを考えこんでいるようであった。なんとしても通わねばなるまいと思わず口に出る。国元で唐の商人から手い入れた、青い石の埋め込まれた銀の算のことを考えていた。
ここに出てくる次男の大足とは、後に親王の家庭教師を務める人物です。そして『続日本後紀』に
  年十五にして、舅(母方の兄弟)の従五位下阿刀宿禰大足に就いて、文書を読習し(後略)
とあるように空海が「文書読習」を教わる阿刀宿禰大足のことです。  つまり豊嶋には上から 真足  大足  娘(空海の母)というできのいい子どもがいたと云うことを伝えています。そして、空海(幼名・真魚まお)が生まれます。
宝亀五年(774年)十月二十七日、大和国磯城郡阿刀の村のほぼ中央、阿刀宿禰氏の妻家に元気な産声があがった。母は阿刀宿禰弥穂都子、父は讃岐国郡司少領佐伯直田公である。赤子は母によって、遥か遠い讃岐の海を思いやって真魚と名づけられた。真魚出生の知らせは、すぐさま讃岐国の父の許へ届けられ、折り返し、父から、近く都への所用があるゆえ必ず対面に参るという喜びに満ちた書状と帛や真綿など大量の祝いの荷が送られてきた。
 讃岐 空海、佐伯直と阿刀氏 - Forum_tokyoblog

母親の名前は阿刀氏の娘としか分かりません。弥穂都子というのは小説上の命名です。讃岐を本貫とする佐伯田公と河内国渋川郡跡部郷を本貫とする阿刀娘子の結婚は、当時は妻訪婚ですから、田公が娘子のいわば実家へ通うことになったという「新設」で描かれています。現在のように、海を越えて「瀬戸の花嫁」のように讃岐に輿入れすることはないという考えです。
 古代氏族阿刀氏(あとうじ)の氏神社 阿刀神社へ: 古寺とお城の旅日記Ⅱ

阿刀氏の一族である玄昉僧正を通じて空海の未来を大足に語らせます。

 阿刀氏の一族である玄昉僧正は幼い頃、と大足は語りはしめた。
一を聞いて十を知るというまことに優れた資質をて知られ、若い頃には外典(仏教以外の学問)も学ばれ、梁代の詩人の謝玄暉や書の達人伝眸酔され、それぞれから玄と昉の字をとられ、出家のときの法号を自ら玄防とされたという伝があると、いかにも学者らしい注釈をする。
 この玄防僧正の弟子となった、今を時めく法相宗の善珠禅師も、わが阿刀氏一族の出身で、興福寺に在って法相と因明に精進され、法相教説端派に闘いを挑んでおられる。この善珠禅師も幼少の頃は、この阿刀村の南のはずれに真魚と同じように母と一緒に暮していたのだ。
 この子は、と真魚を指し示し、むしろ玄昉僧正に匹敵するほどの人物になるかも知れない。いかに官吏になったとしても、この子の父の官位は正六位であって、どれはどの才能があろうともヽせいぜい五位どまりであろう、と大足は愚痴っぽく言うと、母も頷く。しかし、と大足は気を取り直したかのように言った。この子の資質がいかなるものであるか教えてみたい。いずれ僧侶の道を歩むにせよ、官吏の道を歩むにせよ、広く学問を身につけることは、この子の将来のだめに大切なことなのだ、と。
 真魚はすでに、母から書の手ほどきを受け、書聖といわれる王義之の字を集めて韻文とした。『千字丈』を手本とし、時折、母が好きな『文選』の中の詩を、覚えた文字で書してみたりした。 
かくして、阿刀大足は、出仕の合間を見ては馬を駆って阿刀の村に赴き、ほとんど二日あるいは三日おきに真魚に『孝経』から『論語』や『文選』などを教えはしめた。ところが、真魚の頭脳は水を吸う海綿のようで、大足の二言一句ことごとく吸い取られていくかの感があった。特に韻文に対する感性は恐るべきものがあった。
 空海は阿刀宿祢家で育てられることになります。
空海(真魚)は神童とされるように、並の幼児教育では追いつかなくなります。
それに対応するだけの環境と教育力が阿刀家にはあったことを、阿刀大足を軸に描いています。
1善通寺宝物館5


関連記事


空海=摂津・生誕養育説を追ってみると・・・             

空海の母親については、「玉寄(依)御前」とする伝承が広く伝えられてきました。私も、小学校ではそう教わりました。現在も善通寺市内の小学生達が使う郷土学習副読書には「空海の母は玉寄御前」と書かれています。しかし、これは江戸時代前期の近世あたりから盛んに言われだしたもののようです。
  近年、空海(幼名 真魚まお)を生んだ母親については、「摂津の阿刀氏の娘」説が出され、空海は母親のもとで幼年期を送ったのではないかという説が発表されています。さらに、空海=摂津生誕説による小説も書かれています。(四宮宏「釈伝 空海」藤原書店)香川県人としては、郷土愛(?)を刺激される説ですが、その感情を抑えながら空海=摂津・生誕養育説を見ていくことにします。
空海(幼名は真魚まお)の母親について書かれている記録は限られます。『続日本後紀』に  
年十五にして、舅(母方の兄弟)の従五位下阿刀宿禰大足に就いて、文書を読習し(後略)
とあることから、母が阿刀氏出身であること、そして母の兄(伯父)が阿刀大足であることが分かります。若き日の真魚は、この伯父さん漢学・漢籍の手ほどきを受けたようです。この資料から研究者の間では、母親を、「玉寄(依)御前」ではなく「阿刀氏出身の女」とするのが「定説」とされています。
 しかし、問題があります。
讃岐に阿刀一族が住んでいた記録は見当りません。讃岐国多度郡の真魚の父親の佐伯家と、摂津の阿刀家がどのように結びついたのでしょうか。

次に、阿刀大足を手がかりに阿刀氏を探ってみましょう。

 阿刀氏の本貫は河内国渋川郡跡部郷で、ここに鎮座する跡部神社(八尾市亀井)が氏神のようです。跡部郷というのは、奈良から流れてくる大和川が長瀬川と平野川とに分岐する三角地帯で、川運拠点であり平城京へも水運を通じて数時間で通じていたとされます。
 郷内には渋川廃寺が発掘調査され、七世紀前半の軒丸瓦片が出土し創建は飛鳥時代とみなされます。その後に、四天王寺式で奈良時代後期以降の再建されています。
 創建は仏教排斥派とされてきた物部氏説が強いようです。奈良時代の再建の主には、物部と同族で大和川の舟運も仕切った阿刀氏が、その頃最も一族が隆盛しているので最有力候補だと考えられています。阿刀氏は、もともとは物部氏の一族でしたが、宗家の物部氏が蘇我氏に滅ぼされた後も、大和川の水運に関わりながら河内でその勢力を保持したようです。
IMG_5840

 阿刀氏について分かる資料は正倉院文書の中にもあります。

ここには二十数人に及ぶ多くの写経生としての阿刀氏の一族の名前が記されています。さらに天平初年頃から天平宝字七年(763)まで30余年間にわたって、東大寺写経所で活躍した阿刀連酒主や造東大寺司や造石山寺別当として活躍したか安都空祢雄足(あとのすくねおたり)がいます。阿刀氏は文官や書法において優れた人材を数多く輩出しているようです。
 これ以外にも空海の伯父阿刀宿祢大足に焦点をあてて資料を探すと、次のようなことが明らかにします。
1 阿刀宿祢大足が跡部郷の本宗家であること
2 阿刀宿祢大足の兄妹である空海の母は、河内国渋川郡跡部郷を本貫とする阿 刀本宗家の娘である。兄弟順は真足・大足・長人・空海の母である
3 阿刀家一族は玄昉や善珠という高僧も輩出している

阿刀宗家には『万葉集』に名を残している女性もいます。

巻四・七一〇番
「み空行く月の光にただ一日あひ見し 人の夢にし見ゆる」
を残した安都(阿刀)扉娘子(あとのとびらおとめ)は、聖武天皇か光明皇后に仕えた内侍であろうと考えられています。
 また(『続日本紀』巻三十二、同日条の宝亀三年(七七二)三月二日 に、光仁天皇白身が、妻である井上皇后をふこの罪で位廃する事件が起きます。この事件に連座し、断罪された二人のうちに安都(阿刀)堅石女(あとのかたしめ)の名が見え「謀反の事に鮒いて、隠して申さぬ奴ら……」とされ、呪影を報告しなかった罪が問われています。ここから堅石女は女官の最上位と思われ、いわば側近として監督不行届をとがめられています。
 井上皇后の事件罪を受けた堅石女は、真魚誕生の二年前のことです。堅石女が阿刀家本家出身だと考えると、真魚の母にとって堅石女は、姉であったことになります。
 このように、阿刀家は天平時代から三十年にわたって尚侍・内侍といった高位の女官を輩出し続けています。空海=摂津誕生説では、このような阿刀家の環境の中で真魚は生まれ育ったと考えられているようです。
現在流布されている「空海の母=玉寄御前」説について、
日野西真定「玉依御前論考」(高野山大学仏教学研究室編『仏教学論文集』一九七九年、東方出版)は、「もともと「玉寄姫」は『記紀』の中にも何回か出てくる巫女を指す普通名詞」とします。そして「玉依姫」は鎌倉時代後期以降、空海という偉大な宗教者を生んだ尊い巫女という唱導の中に生まれたもの」であって、
「その唱導は、阿刀大足の次男を元祖とする慈尊院別当の中橋家を中心に発生・確立」
していったものと指摘します。
 それが文学書や民俗資料で用いられるようになり、江戸前期になると四国八十八か所遍路と弘法大師説話が互いに影響を与える形で説かれるようになり
「父・佐伯善通、母・玉寄姫、誕生所・善通寺」
が世間に定着していったとしています。

空海の父(佐伯氏)と母(阿刀氏)はどのように出会い、結ばれたのか

  武内孝善(こうぜん)「弘法大師空海の研究」吉川弘文館には、新しい視点が次のように記されています 
 空海誕生当時の婚姻形態が妻訪婚である点に着目、母と子は十年前後は母方の一族と生活をともにした。従って真魚の誕生地も養育されたのも畿内の阿刀家ではないかとします。さらに空海の父・田公が船による瀬戸内海の交易事業を行い、その拠点が住吉津にあったことを示します。それが、大和川の川船輸送を行う阿刀氏の本拠・跡部郷との接点であったするのです。

1 阿刀氏の本貫地
 これについては、民俗学の谷川氏も阿刀氏が大和川の舟運を司っていたことを指摘しています。谷川健一・金達寿対談『地名の古代史-近畿篇』(河出書房新社)
 ここからは、海運をしていた空海の父・佐伯田公と阿刀氏の次のような結びつきが想起できます。
空海の父・田公は、瀬戸内海運で集めた物資を住吉津に集め、阿刀氏がそれを車馬で八尾街道を一直線に跡部郷に運び、水路で平城京や大和、あるいは長岡京に運送する。その事業の連携のために阿刀と接触、空海の母との縁が芽生える
というストーリーです。
 讃岐を本貫とする佐伯田公と河内国渋川郡跡部郷を本貫とする阿刀娘子の結婚は、当時は妻訪婚ですから、田公が娘子のいわば実家へ通うことになります。現在のように、海を越えて「瀬戸の花嫁」のように讃岐に輿入れすると云うことは考えられません。すると讃岐にも妻がいたと考えた方が自然です。当時は、一夫一妻制でもありません。そう考えると空海の複雑で不明の多い兄弟関係も解けてくるような気がします。 

そして、真魚(空海)が渋川郡跡部郷で生まれます。

当然、養育権は阿刀家にありますので、真魚は阿刀家で育てられることになります。
真魚は神童とされましたので、並の幼児教育では追いつかなくなります。それに対応するだけの環境と教育力が阿刀家にはありました。わが児の異能を知った母は、真魚に高度な教育を受けさせる必要を感じます。相談する相手は兄の大足です。
『文鏡秘府論』の序には
「私、空海は幼いころから母方の伯父について、六朝古来の文章法を学んだ。」
とあります。
大足は官人ですから平城京の屋敷にいます。
その屋敷は、平城京左京三条一坊にあり、多生門を出てすぐの長屋王邸と朱雀大路とに挟まれた一画になります。真魚は、この阿刀宿祢の本宗家に預けられることになったのでしょう。
母は、どうしたのでしょうか? 
妻の役割として、跡部郷に本居としながら、平城京の頻繁に行い真魚の世話もしたのでしょう。跡部郷と平城京は、歩いて半日の距離で、その上大和川の舟を自由に使える身なのですから。

真魚は、いつ、だれに書法の弟子入りしたのでようか

書道家の飯島太千雄氏は「若き空海の実像」の中で
「空海の書法は俯仰法と言い、王義之以来の古法だが、筆と手首を進行方向に陰陽、俯勢、仰勢に倒してゆく筆法で、極めて指・手首・肘の柔軟性が要求されるもの。一般に十歳にもなると手が固まってきてしまうので、書道は五、六歳までに始めるべき」として、真魚の弟子入りを「常識的には、手の固まらない五、六歳といった線だろう。少年空海の異能、手筋の良さを知った大足と娘子は、時の能書・忍海原連魚養(うおかい)に指導を仰ぐべく画策」したとします。そして「魚養は、阿刀氏出身の玄昉の弟子であり、その系譜につながる真魚に、持てる書法の限りを尽し指導したに違いない」
とします。

空海には謎が沢山あります。

その中で幼年期の英才教育を、どこで受けたのかという疑問があります。例えば、中国の儒教的教養、中国語(音韻)、書道などをいつ、どこで、誰から受けたのかということも謎です。
真魚は「讃岐で、神童として育てられた」と言われてきましたが神童は「英才教育」があって現れるものなのです。
善通寺生誕・生育説では、これには答えられません。
しかし、空海=阿刀氏養育説にたつと、この疑問は解けていくのです。
関連記事


      円珍が残した 和気氏の系図

 八~九世紀、讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこないます。

智弁大師(円珍) 根来寺
智証大師(円珍)坐像 根来寺
その中に、空海の佐伯家やその親族で円珍(智証大師)を出した因支首氏(いなぎのおびと)もありました。今回は円珍を出した讃岐那珂郡(現善通寺市金蔵寺町)の因支首氏が和気氏に改姓するまでの動きを追ってみましょう。 

圓城寺には、円珍の「和気家系図」が残っています。

日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...

承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。円珍が一族(叔父の家丸〔法名仁徳〕という説が有力)と協力し、先祖の系譜を整理して、近江・坂本の園城寺に残したものが、現在に伝わったようです。系図を見る前に、次の事を押さえておきます。

 伝来系図の2重構造性

祖先系譜は、次のふたつの部分に分かれます。
①複数の氏族によって共有される架空の先祖の系譜部分(いわゆる伝説的部分)
②個別の氏族の実在の先祖の系譜部分(現実的部分)
つまり、これは①に②が接ぎ木された「二重構造」になっているのです。時には3重構造の場合もあります。研究者は、接ぎ木された部分(人物)を「継いだ」と云うようです。この継がれた人物を見分けるのが、系図を見る場合のポイントになります。

さて、この系図からは何が分かるのでしょうか?

円珍系図5

まず①の伝説部分からみていきます。この系図からは円珍が武国凝別皇子を始祖とする讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)の一族であったことを記します。
それでは一族の始祖になる武国凝別皇子とは何者なのでしょうか?
 武国凝別命は豊前の宇佐国造の一族の先祖で、応神天皇や息長君の先祖にあたる人物になるようです。子孫には豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公(和気)・御村別君やさらには讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公(別)がいます。そして、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていたことから、この神を始祖とする氏族は、渡来系新羅人の流れをひくと指摘する研究者もいます。
 ちなみに、武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は鉄塊であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われています。 これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程で、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたようです。 
この系図は、何のために、だれが造ったのでしょうか
 伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって因支首氏は和気氏に連なろうと試みたようです。その動きを年表で示すと
799年 政府は氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出するよう命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること指名した系図を作成・提出する。しかし、この時には改姓の許可は下りず。
861年 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)
 改姓申請で稻木氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。
 つまり、この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠「本系帳」として作成・提出されたものの控えのようです。

800年の申請の折には、改姓許可は下りなかったようです。

 円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀が経っています。
  智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(金倉寺蔵 江戸時代の模写)

円珍は814年生まれで、天安2年(858年)新羅商人の船で唐から帰国後は、しばらく郷里の金倉寺に住み、寺の整備を行っていたと言われます。改姓許可が下りたのは、この時期にあたります。金蔵寺でいた間に、一族から「改姓についての悲願」を聞いていたかもしれません。
 和気氏への改姓後は、円珍には仏や先祖の加護が働いたようです。
比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の拠点として組織化していきます。
   円珍は、園城寺では宗祖として尊崇されています。
この寺には、多くの円珍像が伝わります。

唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と呼ばれる2体の智証大師像があり、いずれも国宝にです。それらと同じように「和気家系図」は、この寺に残されたのです。手元に置いたこの系図を見ながら円珍は、自分につながる故郷の祖先を思うこともあったのでしょうか。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  新しいアイデンティティーを求め、改姓申請 
  
香川県史の年表を眺めていて気になることがいくつかあります。
そのひとつに9世紀前後に、豪族達の改姓や本貫地の変更申請が数多く見られことです。少し並べてみると
791 9・18 寒川郡凡直千継らの申請により,千継等20戸,讃岐公の姓を与えられる(続日本紀)
791 9・20 阿野郡人綾公菅麻呂ら,申請により,朝臣姓を許される(続日本紀)
791 12・10 寒川郡人佐婆首牛養らの申請により,牛養等20戸,岡田臣の姓を与えられる(続日本紀)
800 7・10 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予別公と同祖であることを言上する(北白河宮家所蔵文書)
861 11・11 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる(三代実録)
864 8・6 多度郡人秦子上成・同姓弥成ら3人,秦忌寸の姓を与えられる(三代実録)
866 10・27 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)   
867 8・17 神櫛命の子孫讃岐朝臣高作ら3人,和気朝臣の姓を与えられる(三代実録)
86711・20 三野郡刈田首種継の子安雄,紀朝臣の姓を与えられる(三代実録)

讃岐の郡司クラスの有力豪族が次々と自分の姓を変えているのです。

古代の「姓」はウジ名やカバネとリンクして、そこには豪族たちと政権との関係が刻まれています。自らの都合で変えることができるののではなく、改めるには必ず天皇の許可が必要です。どうして、自分の慣れ親しんだ姓をかえようとしたのでしょうか?
その背景には、なにがあったのでしょうか?
「寒川郡凡直」の画像検索結果

寒川郡の几直氏(おしあたい)について見てみましょう

 寒川郡は、現在の香川県さぬき市にあたります。
この地域は四・五世紀の古墳に、讃岐の他地域とは違ったヤマト王権との強い関係性が見られます。先祖が周防国佐婆郡から讃岐国に移ったという伝承もあり、一族は瀬戸内海各地で展開していたようです。
 寒川郡は、瀬戸内海を往来する南岸ルートの拠点の一つで、津田湾を経て各方面へ交通路が伸びています。瀬戸内海各地に存在する一族との交流などもあり、視線は地域の外に向きやすかったのかもしれません。古墳時代以来の王権とのつながりを背景に、都への足がかりを築いていきます。そして几直氏は、讃岐の国造に任命されます。その背景には王権とのパイプやつながりがあったことがうかがえます。 

改姓申請を行ったのは、几直千継(おしあたいのちつぐ)です。

 彼は、年少の頃に讃岐を出て、都の大学に進み四書五経を学び官僚の道を歩みます。改姓申請を行った時期には、法をつかさざる刑部省の大判事も務めるなど官僚としての栄達の地位にありました。その「立身出世」を背景に「讃岐公」の姓を申請し認められたのです。
 ちなみに年少の頃に、都の大学に入りの官僚の道をめざすというのは、後の佐伯家の真魚(空海)が辿った道でもあり、彼は先に歩いた同郷の先輩でもあります。

几直千継が「讃岐公」に改名したのはなぜでしょうか。

「讃岐公」は、出身の「讃岐」、そして国造としてのカバネである「公」を強調するような姓です。千継またはその親世代が讃岐から都に進出し、自らの出自を強調するために申請したものと思えます。
 干継の流れを汲む讃岐公氏は、その後も広直、浄直、永直、永成といった次世代が明法博士(現代でいう東京大学法学部の主任教授)を歴任するなど、代々法曹官僚を輩出し、次第に中央貴族としての地位を固めていきます。

9世紀半ばに活躍する讃岐永直(さぬきのながなお)です。

彼は、「几直」から「讃岐公」へ改姓した783年に誕生し、862年に80歳で亡くなります。空海とほぼ同時代を生きた人物です。最終の官位は従五位下でした。
 永直は「干継」の系譜を引く法学者の家柄として、駆け出しながら「祖父の七光り」で、律令の公定解釈書である「令義解」編纂に参加します。この編集には、右大臣清原夏野、菅原清公(道真の祖父)、小野篁といった文人政治家が加わり、単なる法律解釈だけでなく、文章表現としても規範となるものを目指します。「令義解」は、833年に完成しますが、この書籍が後世に与えた影響は計り知れないものがあり、何度も書写され現在に伝わります。讃岐永直は、この編集作業を通じて、律令法体系への知識を深かめていきます。同時に、後世に名を残すことになります。 

 讃岐永直には、こんなエピソードが伝わっています。

  律令の刑法上の法運営をめぐって難問が発生し、中国まで使者を派遣して解釈を求めようとします。その時に明法博士の讃岐永直に問うと、簡単に解釈してしまい、使者の派遣が中止となったというのです。時の文徳天皇(在位850~858年)から「律令の宗師」と称され、都の人々が認める「大学者」になります。彼は郷土の誇りとなり、その後は永直を目標とし、讃岐国から多くの後進が続くことになります。
 9世紀後半には讃岐公香川郡出身の秦公直宗・直本の兄弟が「祖業を継ぐ」かのように、讃岐永直が築いた法曹官僚の地位を讃岐出身者が独占しながら連綿と継いでいきます。それは、まるで家業と職が結合する中世の官司請負制のようです。
秦公氏は、八八三年(元慶七)に惟宗朝臣氏に改姓します。
惟宗直本が、若きころに編纂したのが「令集解」という律令注釈書です。
これは、讃岐の大先輩の讃岐永直をはじめとする歴代の明法博士による律令注釈を集大成したものです。しかし、編纂者の直本は自分の解釈を記していません。そこには、駆け出しの若手法曹官僚として、先輩の諸説を謙虚に学ばうという姿勢が感じられます。
 この編纂には、膨大な集成作業が必要だったはずです。どうして、これが若い直本にできたのでしょうか。専門家は、「讃岐出身の法曹官僚たちによる知のネットワーク」が形成されていたことで、「令集解」の集成作業は可能となったと考えているようです。

 律令国家の完成から150年あまりたった平安時代の半ばには、当初は国家から再教育される立場にあった讃岐の豪族たちは、今度は逆に、習得したスキルをもって国家運営や実務の担い手として、時の政府の中でその存在感を増していった様子がわかります。

 最初の疑問に帰りましょう。8世紀終わり頃の延喜年間には、改姓の動きが目立つのはどうしてか? 

というのがスタートでした
 住居地名や伝統的な職名など複数を組み合わせたそれまでの氏姓から、中央の貴族として通用するような氏姓に替えるための申請、認可の記事が『続日本紀』などに数多く見られます。
讃岐国では、
国造の系譜をひく凡直氏が讃岐公氏に、
綾氏が「公」から「朝臣」に、
佐婆部首(さばべのおびと)氏が岡田臣氏に、
韓鉄師首(からかねのもちびと)氏が坂本臣氏に改姓しています。
続く九世紀の前半には讃岐公氏が讃岐朝臣氏、
そして和気朝臣氏への改姓や、佐伯連氏の改姓と
都への本貫地の移籍記事が続きます。
 ここには讃岐公が法律家一門として、中央貴族化していくことと共通する背景があります。

空海を出した多度郡の佐伯家や円珍を輩出した因支首(いなぎ)氏が和気氏と改名申請を行うのも同じような背景があったからでしょう。
 こうした変動に対し、国家は氏姓を正そうと『新撰姓氏録』の編纂をおこない、各氏族らは自らの出自について新たな先祖の系譜を作成します。
讃岐から都に出て行った豪族たちは、自らが拠って立つ位置を、国家が作り出す系譜に継ぎ足すだけでなく、地域がもつ伝統的な名族の名称継承や、新しく入った地域の地名を負うことで明確にしたのです。それは、自分が地域代表であるという自己主張であったのかもしれません。
 円珍の一族の「因岐から和気」の改姓も、
「因支の両字を以てするは、義理憑ること無し」と
「因支首という姓は、筋として意味がない」
と云っています。大化前後には地方豪族としての権威をあらわしていた因支首という姓が、平安初期のころには、たよりにならないばかりか、かえってじゃまになってきたという政治的、社会的事情があったようです。
 どちらにしろ彼らの軸足は出身の本貫地よりも、京へと移り中央貴族として生きていく道を選択した分岐点であったことを後の歴史は教えてくれます。

一方で、地域に根差していく豪族もいました。

先日紹介した三野郡の豪族・丸部氏です。
『続日本後紀』嘉祥元年(八四八)十月一日条には、従四位上の位階をもっだ丸部臣明麻呂が都での勤めを終えて帰国し三野郡司に任命され、その職を父親に譲ったとの記事があります。都へ向かい、都に定着するのではなく、自らの出身地に根を張っていく豪族たちもいたのです。
 ちなみに、丸部氏は以前に紹介したように、讃岐で最初に氏寺妙音寺を建立し、国家プロジェクトとしての藤原京造営の宮瓦の製造工場を三野町に誘致した氏族です。
 讃岐の豪族たちは、様々な方法をとって時代を生き抜いていったようです。

仏教経典100巻の写経プロジェクト行った讃岐出身の豪族

8世紀半ばに、聖武天皇が国分寺・国分尼寺造営を諸国に命じた頃に、仏教経典「喩伽師地論100巻」の写経プロジェクトを開始した讃岐出身の豪族がいました。
山田郡殖田郷(現在の高松市東植田~西植田町)出身の舎入国足です。当時100巻もの写経は、写経するスタッフ、写経用紙、テキストなどを取りそろえなければならない一大事業でした。それを、地方の一豪族が行おうとしたのはなぜでしょうか?

まずは、経典「喩伽師地論(ゆがしじろん)」について

全100巻からなる経典で、35巻が石山寺と奈良国立博物館に保管されています。
その奥書には[天平十六年歳次甲申三月十五日 讃岐国山田郡舎人国足]とあります巻によって筆跡がちがいますので、舎人国足が発願し、何人かの手によって書写されています。字句の修正方法などから当時の官立写経所ではなく、地方での写経とされます。東大寺周辺で9世紀に訓点が付けられ、12世紀の石山寺一切経事業のなかで石山寺に収蔵されと伝わります。

さて、この「舎入国足」とは、どんな人物なのでしょうか。

「舎人」という姓は、天皇や皇族・貴族の近くに仕えた集団のことで、国足の先祖は大王の宮に出仕していたようです。「舎人」の拠点は、山田郡殖田郷(現在の高松市東植田~西植田町)周辺の出身です。殖田郷は高松平野最奥部の春日川とその支流の周囲に開け、三方を山で囲まれた盆地状の地形が広がります。条里型地割が見られますので、狭いながらも安定した耕地経営が古代以来行われてきたようです。中央の平野部に、舎人氏の氏寺と考えられる古代寺院の下司廃寺(げしはいじ)があります。

 下司廃寺は、春日川支流の朝倉川南岸、扇状地の先端にありました。

今は清光神社があり、その東側の基壇の上には、祠とともに五つの礎石があり、塔跡と考えられています。出土瓦から七世紀後半頃に創建され、平安時代に屋根のメンテナンスが行われたことも分かっています。瓦以外には、三尊仏の埓仏片が讃岐で唯一出土しています。この活仏は仏堂の荘厳具として使われたようですが、川原寺との強いつながりが指摘されます。
 下司廃寺建立にあたり、瓦製作や堂宇建設の様々な情報が川原寺からもたらされたことが推察されます。中央の河原寺との強い結びつきを、讃岐の地でアピールするために「讃岐の川原寺」としての演出がなされたのではないだろうかと考える研究者もいるようです。どちらにしろ8世紀半ばには、この寺院は鎮座し五重塔は姿を見せていたようです。 

この時期に、どうして写経事業が始められたのでしょうか

写経は、当時は個人の精神修養のためではなく、最新の知の体系を広めるための社会事業でした。国足はその事業を自前で組織し、プロデュースしたのです。そのような事業を彼が始めたのは、仏教文化の讃岐への定着が進んだ、という背景があったようです。年表で見ると
660年頃 讃岐で最初の古代寺院 妙音寺が三豊の地で着工。施主は丸部臣
680年頃 多度郡の郡司佐伯氏が三野郡の丸部氏より技術援助を受け氏寺造営
      善通寺の瓦を吹いた工人はその後、田村廃寺→川之江 → 土佐と仕事場を移動
700年  この頃までに、讃岐に各豪族の氏寺が29寺建立された。
741年  国分寺・国分尼寺造営を諸国に命じる
744年  舎入国足が「喩伽師地論100巻」の写経プロジェクト開始
747年  国分寺造営に関して、郡司の子孫までその職に就くことを条件に郡司       層を積極的に取り込み、ようやく国分寺の本格的造営が動き出した
755年頃 讃岐国分寺の、金堂に瓦が葺かれた。
770年  堂塔全体が完成
774年、空海誕生
 8世紀までに白鳳期に讃岐国内では、29の寺院が建立されています。
これは、畿内(大和・河内・摂津・和泉・山城)より西の諸国では最も多い数です。わずか半世紀ほどの間に、驚異的なペースで寺院建設が行われたことになります。
 東大寺、国分寺の造営がはじまるこの時期は、白鳳時代の祖父母の世代が氏寺が建立されてから3世代、約半世紀近くが経っています。地方豪族の仏教への対応がワンランク上がる時期だったとも言えます。地方豪族の仏教へ関わりを年表から拾い上げると
747年   伊予国分寺建立に対して、宇和郡の凡直鎌足が仏像造立などのために資材を献上し、その功によって破格の外従五位下に叙されています。(続日本紀)。このことは、国分寺の造営が遅れており、郡司層の有力者と思われる鎌足の協力が必要だったことを示しています。
765年 「 続日本紀」には「讃岐国の人外大初位下日置(叱)登乙虫、銭百万を献る。外従五位下を授く」とあり、銭を献上することで、官位を得ています。
776年には、前回紹介した「讃岐のがいな女」の一族が、東大寺に土地等を寄進しています。これには、自ら開発した土地の管理権を守るという目的もあったようです。
 つまりこの時期には寺への寄進を通じて、律令制下における地位を高めるという動きが地方豪族の側に有り、舎人国足の「写経プロジェクト」も時流に乗ったと行為という面があったのかもしれません。

  舎人国足の讃岐での地域経営は?

 舎人国足が写経事業を進めるためには、当時は貴重であった上質の紙を調達し、筆や墨をそろえ、写経のプロ(写経生)を集める必要があります。そのためには、何よりも財力です。彼の財力の源は、どのあたりにあったのでしょう。
 国足の本拠地と考えられる高松市植田町は、阿讃山脈から炭、檀など紙の原料、山菜などの救荒食といった山の資産が得られたでしょう。これらの物資は、春日川を下って海まで運び出すことができたでしょう。また、朝倉川を遡れば阿讃国境の七割越えに至ることができ、山すそ沿いに東西に進み香川郡井原郷や三木郡田中郷に出ることもできます。このように殖田・池田郷は、水上と陸上の交通路が交じわりあう場所です。この地の生産基盤とネットワークが国足の事業を可能にしたのでしょうか。

参考文献
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」


「ごうつくで がいな女?」三木郡の古代豪族の妻 広虫女 

空海がまだ讃岐善通寺の地で幼名の真魚と呼ばれていた頃、薬師寺の僧・景戒が仏教説話集『日本霊異記』を編集しています。
1日本霊異記

これは、仏教の説法や布教活動に使う「あんちょこ集」みたいなものですが、
この中には讃岐国を舞台とする「ごうつくで、がいな女」の話が載せられています。話は、ごうつくな女が一度死んだ後に、上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという因果応報の話です。

田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)がヒロイン(?) のストーリーを見てみましょう。

三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
 広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
 家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺と比定)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたものを無効としたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取ったというストーリーです。
 以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。
この時点で、仏教が地方の豪族層に浸透している様子もうかがえます。一方で、『日本霊異記』成立期と近い時代の讃岐国が舞台になっています。そこから当時の讃岐の社会環境が映し出されていると専門家は考えるようです。
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」を参考に、広虫女の周辺を見ていくことにしましょう

広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。

ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。

彼女は、吉田川の下流を拠点とする小屋県主宮手に嫁ぎます。

夫の小屋県の氏寺が「罪を許してもらうために田畑を寄進」した三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。この廃寺からは、讃岐国分尼寺と同じ型で作られた瓦が出土し、郡名の「三木」を冠した寺に、ふさわしい寺とされています。
四国の塔跡
三木町始覚寺

 始覚寺は東西、南北ともに1町(約109m)の敷地をもつことが調査から分かってきました。回廊で囲まれた中心域での建物配置は不明ですが、五重塔の心礎はもとの場所から動かされて現在地にあるようです。今は、その上に石塔が載せられています。
始覚寺跡|三木町役場

             始覚寺五重塔の心礎
寺域の向きは、条里制地割とは異なる正方位(真北方向)に設計されていて、条里施工前に建設された可能性があり、白鳳期建立を裏付けます。
また、この寺から出ている八世紀の瓦は、東大寺封戸が置かれた山田郡宮処郷の宝寿寺(前田東・中村遺跡を含む)と同じものがあります。これを三木郡司・小屋県主の東大寺へ寄進の見返りとして、東大寺側が小屋県主の氏寺建立に技術援助・支援した「証拠」と見ることもできます。

夫の小屋県宮手は、始覚寺周辺の井上郷を本拠としていました。

その井上郷の周辺の三木郡の郷名には、井閑・池辺・氷上・田中など、水田と用水源にまつわるものが多いようです。
その地名の由来は井上・井閑は、『和名抄』ではともに「井乃倍」と読み「水路や水源を拓き管理する集団」
池辺は「伊介乃倍」であり、「池を管理する集団」
氷上は樋上すなわち[水路の上流、取水源]と考えられます。
 また、この地域を流れる新川や吉田川は、碁盤の目のような条里型地割に合わせて人工的に付け替えられています。[井]や「樋」で表される水路とは、付け替えられた川のことを示します。川の周辺の伏流水を利用する出水も「井」と呼ばれていました。つまり三木郡の中央部は、洪水を繰り返す川を濯漑用の水路に生まれ変わらせた指導者がいた地域のようです。ここからは、小屋県主氏がこの地区の郡司として、公共事業として「丼の戸」[池の戸]というかたちで労働力を組織化し、低地の開発を進めた姿が浮かび上がってきます。

古代讃岐三木郡

高利貸しは、貧農救済? 

『日本霊異記』の中で、作者は広虫女を次のように非難します
「 多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。」

 しかし、当時は「高利貸しとしての私出挙」は、毎年作付ける種籾を利子付きで貸す伝統的な農業経営方式でした。ある意味では、農業経営が十分に行えない貧農を助けるもので、地域支配者としての支援方法でもあり、非難されるものではなかったようです。
寄進のもうひとつのねらいは?
 広虫女の罪をあがなうために
「東大寺へ、牛七〇頭、馬三〇匹、治田二〇町、稲四千束を納めた」

と詳しい記述が出てきます。罰を受け虫女を救うために東大寺へ多くの財を寄進したのです。これが僧侶が説くように「救済」のためだけだったのでしょうか?別の視点で見ると「寄進の目的は、中央とのつながり」作りでもあったのではないでしょうか?

有力寺院への寄進により、自らのステイタスを挙げる地方豪族

 東大寺の造立は、国家の威信をかけた一大プロジェクトで国策です。そのため東大寺に対する地方豪族の寄進も盛んで、広虫女が亡くなった七七六年(宝亀七)頃は、大仏は完成したものの周辺建築物の造営期でした。寄進には、開墾制限に対する対応策の一面もあり、自ら開発した土地の管理権を守るという目的もあったはずです。
 『続日本紀』七七一年(宝亀二)には、同じ讃岐の三野郡の郡司・丸部臣豊球が、私財を貧民のために投じたことで官位を授けられたことが記されています。寄進によって、地方豪族としての自らの地位を高めるという動きが当時はあったのです。その時流に宮手も乗ったとも考えられるのです。これが郡司としての生き残りにつながります。

以上のように、仏教説話の中に「がいな女」の因果応報の話として取り上げられている広虫女は、当時の地方豪族の妻としては相当なやり手であったということは言えるようです。

参考文献
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」

         讃岐で最初の古代寺院妙音寺を作ったのは?  

 三豊人と話していると「鳥坂峠の向こうとこちらでは、文化圏がちがう」
「三豊は独自の文化を持つ」という話題が出てくることがあります。
確かに、三豊には独自の文化があった気配がします。例えば、財田川河口に稲作を持ち込んだ弥生人とその子孫は、わざわざ九州から阿蘇山の石棺を運んできて、自らの前方後円墳に設置し、その中に眠る首長もいます。古墳時代には、三豊は九州とのつながりを感じさせるものが多いようです。
そんななかで、三豊の古代史の謎がいくつかあります。
その1 高瀬川流域の旧三野郡に前方後円墳がないこと
その2 讃岐最初の古代寺院妙音寺がなぜ三豊に建てられたのか、その背景は?
その3 藤原京の宮殿用の宮瓦を焼いた「古代の大工場」が、なぜ三野に作られたのか?
この疑問に答えてくれる文章に出会いました。
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」という冊子です。

       讃岐最初の古代寺院妙音寺を建立したのは誰か?

 この冊子は、白村江の敗北から藤原京の造営にいたる変動の時代を、果敢に乗り切った地域として三野評(郡)(現三豊市)に光を当てます。現在の三豊市の高瀬川流域では、前方後円墳の姿を見ることができません。古代における首長の存在が見当たらないのです。大野原に見られるような六~七世紀の大型横穴式石室墳もありません。延命院古墳などの中規模の石室墳がありますが、それもわずかです。

 ところが白村江の敗北後の七世紀中ごろ、ここに讃岐最古の古代寺院・妙音寺が突然のように姿を現します。 隣の多度郡の善通寺地区と比較するとその突然さが分かります。善通寺地区では大麻山と五岳に挟まれた有岡の盆地では、首長墓である前方後円墳が東から磨臼山古墳 → 丸山古墳 → 大墓山古墳 → 菊塚古墳 と順番に造られ「王家の谷」を形作っていきます。7世紀後半になると古墳の造営をやめて、古代寺院の建立に変わっていきます。それを担った古代豪族が佐伯氏を名乗り、後の空海を産みだした氏族です。

 つまり、古代寺院の出現地には、周辺に古墳後期の巨大な横穴式石室を持つ古墳を伴うことが多いのです。そして、古墳時代の首長が律令国家の国造や地方政府の役人に「変質・成長」するというパターンが見られます。ところが、繰り返しますが三野平野はその痕跡が見えません。それをどう考えたらよいのでしょうか?

一方、西となりの財田川とその支流二宮川一帯の旧刈田郡(観音寺と旧本山町)は早くから開けたところで、財田川とその支流沿いに稲作が広がり、周辺の微髙地からは古代の村々が発掘されています。その村々を見下ろす台地の上に、讃岐最初の古代寺院妙音寺は建立されます。
妙音寺は、三豊市豊中町上高野の小高い上にある寺院です。
 周辺の古墳を探すと、妙音寺の北300mに大塚古墳があります。中期の古墳で墳頂に祠が立ち、かつては“王塚”と呼ばれていたようです。2014(平成26)年度に確認調査が行われ、径17.75m、埴輪列まで含めると径22.0m、周濠まで含めると径37.5mの円墳です。川原石の葺石および円筒・朝顔形埴輪がでてきていますが、形象埴輪はありません。埋葬部は未調査です。 

台地の下には、財田川の支流二宮川が蛇行しながら流れます。

その河岸の岡に延命院があります。その境内に開口部を南に向けているのが延命古墳です。地元に人は「延命の塚穴」と呼んでいます。先ほどの紹介した古墳時代中期の「大塚古墳」に続く後期古墳です。墳墓の上には立派な宝篋印塔が立っていて、径約16m以上とされる楕円形に近い円墳にアクセントを付けて簪のように似合っています。
 花崗岩の天井石の一部が露出し、片袖型横穴式石室が南東に開口し、サイズは羨道[長さ1.8m×幅1.4m]、玄室[長さ4.48m×幅2.4m×高さ2.8m]です。採集された須恵器から、6世紀後半から末の築造とされています。巨石の配置の見事さ、さらに整備された構造、境内の中にあって長年にわたって保護されきた環境などから、見ていて楽しい古墳です。
 妙音寺は、この古墳と大塚古墳の間にあり、どちらからも直線では数百mの距離です。善通寺地区の大墓山古墳と善通寺、坂出の府中地区の醍醐古墳群と醍醐寺のように終末古墳から古代寺院への建立へと進む地方豪族の動きが窺えます。この周辺に妙音寺の建立に係わった一族の拠点があったと推測されます。

 この丘の上に寺院が建立され始めたのは7世紀後半のことのようです。

昭和のはじめから周辺で工事や小規模な発掘調査が行わ多くの古代瓦が見つかっています。瓦からはいろいろな情報を読み取ることができます。この寺の完成までには20年ほどの歳月がかかったようです。そのために何種類かの瓦が使われています。
 最初の建物に使われた瓦は大和・豊浦寺にモデルがある独特の文様が採用されています。そして、竣工間際の七世紀も終わりごろには、天皇家の菩提寺である百済大寺式の瓦で軒が飾られるようになります。
どちらにしろ寺院の建設は地域の豪族にとって初めての経験であり、その高度な建築技術持つ大工や工人を都周辺から招いたと考えられます。一枚が10㎏もある重い古代瓦は、輸送コストのことを考えると、なるべく寺院の近くに瓦窯を作って生産するのが基本です。妙音寺の場合は、ここから約五㎞北の宗吉瓦窯跡(三豊市三野町)で生産されたことが発掘から分かってきました。 さらに驚くべき事が分かってきます。
ここで焼かれた瓦が持統天皇が造営した藤原京の宮殿に使われているのです。
瀬戸内海を越えて船で運ばれたのでしょうが、なぜこんなに遠いところから運ぶ必要があったのでしょうか? また、なぜ古代豪族の影が見えなかった高瀬川流域に忽然と大工場が現れたのでしょうか?

それには、もうすこしこの最新鋭の工場を見ていくことにしましょう。

 最盛期には、宗吉瓦窯跡では最新鋭構造の窯五基前後をセットにして、それを四グループ並べるかたちで、全部で20あまりの窯跡が稼働していました。窯詰め・窯焚き・冷まし・窯出し、といった工程をグループ毎にローテーションするような効率的な生産が行われたようです。
 これだけ集中的で組織化された生産方法や・監視システム・さらにはそれを担う技術者を集めることなど、地方豪族の力を越えています。この工場は、国家プロジェクトとしての形が見えると専門家は言います。
この地に、最新鋭の大規模工場が「誘致」されてきたのは、どんな背景があるのでしょう?
 誘致以前に、すでに三野地区には須恵器生産地(三野・高瀬窯跡群)があり、瓦作りの基礎技術や工人はすで存在していたようです。その経験を生かしながら国家からの財政的・技術的な支援を受けながらこの地に先端の瓦製造工場を呼び入れた地方豪族がいたのです。その人物は、中央政府との深いつながりを持っていた人物だったのでしょう。さて、その人物とは?

七~八世紀に都との際立った深いつながりをもつ人物として、讃岐国三野郡(評)の「丸部臣」(わにべのおみ)を専門家は挙げます。

この人物を、天武天皇の側近として『日本書紀』に名前が見える和現部臣君手とするのです。君手は、壬申の乱(六七二年)に際して美濃国に先遣され、近江大津宮を攻略する軍の主要メンバーとなる人物です。その後は「壬申の功臣」とされます(『続日本紀』)。そして息子の大石には、772年(霊亀二)に政府から田が与えられています。
 このように和現部臣君手を、三野郡の丸部臣出身と考えるなら、妙音寺や宗吉瓦窯跡も君手とその一族の活動と推察することが出来ます。妙音寺周辺の本山地区に拠点を置く丸部臣氏が、「権力空白地帯」の高瀬・三野地区に進出し、国家の支援を受けながら宗吉瓦窯跡を造り、船で藤原京に向けて送りだしたというストーリーが描けます。
 また、隣の多度郡の善通寺や那珂郡の宝憧寺造営に際しても、瓦を提供していることが出土した同版瓦から分かっています。讃岐における古代寺院建設ムーヴメントのトッレガーが丸部臣氏だったといえるのかもしれません。
 もし君手が三野評出身でなくとも、彼が同族関係にある三野郡の丸部臣と連携して藤原宮への瓦貢進を実現させたと推測できます。いずれにしても、政権の意図を理解し、讃岐最初の寺院を建立し、瓦を都に貢納するという活動を通じて、三野の「文明化」をなしとげ、それを足がかりに地域支配を進める丸部臣(わにべのおみ)氏の姿が見えてきます。  

妙音寺の建立から百年後、宗吉瓦窯跡が操業を終えた八世紀初めごろ、

三野津湾の東側にそびえる火上山の南のふもとに火葬墓が造られます。猫坂古墓と呼ばれるその墓では、銅製骨蔵器(骨壷)と銅板が須恵器外容器に収められていました。讃岐国の中では最も早い時期に火葬を受け入れた例とされます。専門家は、骨蔵器の優れた造りからみて郡司大領クラスの被葬者と考え、「立地場所からからみて三野郡司・丸部臣氏との関係が濃厚」としています。
 丸部臣氏は、7世紀後半から8世紀にかけて中央とのパイプを持つことに成功し、当時の政権の意図である「造宮と造寺」を巧みに利用し、三野郡における「古代の文明化」を達成していったのす。

それに対して隣の刈田郡(旧大野原町)は、どうだったのでしょうか?

 観音寺市大野原町には、六世紀後半から七世紀初めにかけて、傑出した大型横穴式石室墳である椀貸塚古墳、平塚古墳、角塚古墳(いずれも国史跡)が世代毎に築かれます。同時期の讃岐では、突出した巨大な石室をもつ大野原古墳群は、三豊平野南部に君臨した豪族の墳墓です。また県境を越えた四国中央市には、角塚古墳と石室の構造は近似しているものの使用している石材が異なる宇摩向山古墳があり、大野原古墳群の勢力と連合した豪族がいたことがうかがえます。この勢力が最後の平塚を完成させたのが7世紀半ば、それに前後して三野地区の丸部臣氏は寺院建立に着手していたことになります。この時流への対応が、後の両勢力の歩む道の分岐点になったと研究者は考えているようです。
 この大野原・川之江の燧灘東方の連合勢力(紀伊氏?)に、国家はくさびを打ち込むかのように国境を入れるのです。彼らこの地域の豪族たちにとって、これは「打撃」でした。この打撃から立ち直り、その衝撃を乗り越えて行くには、相当の時開かかかったようです。大野原地域に中心的な古代寺院、紀伊廃寺が建てられるのは、出土瓦からみると「丸部臣」が建立した妙音寺に遅れることと約百年。この間、三豊平野の主導権は、「丸部臣」ら三野郡の勢力に握られていたと考えられます。
 
 刈田郡の豪族も、遅れながらもやがては他の地域と同様に開発を進めていったのでしょう。平安時代になると、郡の名を負った苅田首氏が中央官界に進出します。打撃を被りながらも地域の経営を進め、九世紀には、他地域と同様に地域経営を進めた痕跡を見ることが出来ます。

参考文献 
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界


このページのトップヘ