秦氏について『岩波日本史辞典』には、次のように記します。
古代の渡来系氏族。姓は初め造(みやつこ)、683(天武12)連(むらじ)、685年忌寸(いみき)。秦始皇帝の後裔を称し、応神天皇の時に祖・弓月君(ゆづきのきみ)が120県の人夫を率いて渡来したというが、実際は新羅・加耶万面からの渡来人集団。山城国葛野・紀伊郡(京都市西部)を本拠に開拓・農耕、養蚕・機織を軸に栄え、周辺地域にも勢力を延ばした。また鋳造・木工の技術によっても王権へ奉仕した。広隆寺・松尾神社などを創建し、長岡・平安京の造営ではその経済基盤を支えたとみられる。秦氏の集団は大規模であるとともに多数の氏に分化したが、氏の名に秦を含み、同族としての意識が強い。太秦(うずまさ)氏が族長の地位にあった。
ここからは次のようなことが分かります。
①秦氏が朝鮮半島からの大規模な渡来集団であること
②さまざまな先進技術を持って日本各地に移住し
③大きな勢力として古代王権にも政治的な影響を与えたこと
加藤謙吉『秦氏とその民』は、秦氏の技術者集団の側面を次のように記します。
①秦氏とは、五世紀後半から断続的・波状的に渡来してきた集団を母体にして
②日本人の在地集団も組み入れながら成立した擬制的集団
③出自や来歴がちがうので、民族的な求心力はそれほど高くはなく各集団は自立的な性格が強かった。
④政治的な面よりも、経済的な面から大和政権の底辺を支えた氏族であった。
⑤秦氏の最大の特徴は、さまざまな最新技術を持った集団であったこと
そして、秦氏の技術力・生産力を、加藤謙吉は次の四点に整理します。
第1に、瀬戸内海沿岸に製塩技術をもたらしたのは秦氏であること。
西日本の製塩の中心である備讃瀬戸にも多数の秦氏集団がいたこと。播磨の赤穂一帯は、近世では塩田が盛んでしたが、その起源は奈良時代に秦氏が塩田開発していること。『平安遺文』の「播磨国府案」「東大寺牒案」「赤穂郡坂越神戸南郷解」には、次のように記します。
赤穂市の坂越に墾生山と呼ばれる塩山があって、天平勝宝5(753)年から7年まで、播磨守の大伴宿繭(すくね)がこの地を開発し、秦大炬(おおかがり)を目代にして「塩堤」を築造させたが失敗し、大矩は退去した。
第2に銅生産技術です。
秦氏の出身地は朝鮮半島東南部の産鉄地帯とされます。渡来してきた秦氏集団がまず勢力を伸ばしたのが、九州の鉱山地帯である筑豊界隈でした。そして九州から瀬戸内に沿いつつ、各地の鉱山開発を進めていきます。そして全国の鉱山に足跡を残します。採掘から精錬、さらには流通に至るまで、秦氏と鉱山資源は深く結ばれていました。東大寺の大仏開眼の銅は、秦氏によって集められたことは以前にお話ししました。
第3点が朱砂と水銀採集技術です。
朱砂という赤色顔料による色の呪力があり、弥生時代から古墳時代には、遺体の埋葬に使われていました。赤は魔力を持つ色とされ、その赤を操る種族ということで、マジカルな力を持つと思われていたようです。そのため金にも劣らないほど、この時代では貴重資源でした。
もうひとつは、仏像建造などにアマルガム鍍金法が導入されることによって、水銀の価値が高まったことです。奈良の大仏がそうであったように、水銀がなければ仏像を鍍金できなかったのです。そういういみで水銀は最重要資源でした。水銀採石地と丹生神社が重なっているおは、そのような水銀の重要性と関係あると研究者は考えています。
第四点が土木・建築技術です。
京都・太秦は秦氏最大の根拠地ですが、そこを流れる桂川に堰堤をつくり、治水・潅漑を行っています。それ以外にも、茨木の茨田場などの土木工事や、長岡京や平安京など、首都の造営にあたっては秦氏が深く関わっていたと研究者は考えています。この4点だけでなく、農耕や養蚕など、秦氏の技術力はまだまだたくさんあります。
それでは讃岐にいた秦氏について見ていくことにします。まず讃岐秦氏の拠点はどこなのでしょうか?
讃岐における秦氏の分布を表にすると、東から大内郡・三木郡・山田郡・香河郡・多度郡と、讃岐十一郡のうちの半分にあたる五郡にわたっています。その中でも、集中しているのが香河郡です。ここから香河(川)郡が秦氏の拠点のようです。
香河郡の秦氏の本拠を考える上で、大きな意味をもつのが「原」という地名だと云われます。
『続日本紀』神護景雲三年(七六九)十月十日の条によると
讃岐国香川郡人秦勝倉下等五十二人賜二姓秦原公
とあって、秦勝倉下ほか五十二人が、秦原公の姓を賜ったことがわかります。更に『平城宮発掘の木簡』にも、「原里」に秦公恋身という人物の名が記されたいます。
では、幡羅(原)里とは、一体どこなのでしょうか。
平安時代の『和名抄』には香河郡の郷は、笠居・飯田・坂田・箆原・中間・成相・大田・多肥・百相・河辺・大野・井原の十二郷で、幡羅(原)郷はありません。
「原里」は、郷の再編成で新たに誕生した里と考えられています。そして、現在田村神社の東に「東原」という地名が残っていますが、この「東原」が、幡羅(原)郷のようです。
この原郷には、秦氏によってまつられた田村神社が鎮座します。
その祭神は、倭追々日百襲媛命・五十狭芹命(吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命の五柱ですが、中心となる祭神は倭追々日百襲媛命で、水と豊作をもたらす神として、女神がもつ再生産の機能に期待してまつられるようになったのでしょう。秦氏によって祀られた氏神的な神社が、秦氏の政治的な力によって讃岐一宮になっていったようです。
秦氏にとって、一番重要な本拠地は「原里」で後には、百相郷も含みます。加えて中間郷も秦氏の重要な本拠でした。『平城宮木簡』によると、中間里に秦広嶋という人物がいたことがわかります。
このように、百相郷を含む原里と中間郷が、讃岐秦氏の本居であったようです。
古墳時代のこの辺りには、双方中円墳の船岡山古墳があり、石枕付石棺が出土しています。また直径二十メートルほどの円墳の横岡山古墳があり、玄室・羨道を有する片袖石槨をもち、頚飾玉2、銅環3、石斧1、鉄剣1、須恵器数十個が出土しています。 近くには「万塚」と呼ばれる地名が残っていて、かつては群集墳がありました。
これらから秦氏の墳墓は
①船岡の双方中円墳(4世紀)→②横岡山円墳 →万塚古墳群の盟主古墳
(6~7世紀)へと推移したと考えられます。
奈良時代には神宮寺の前身となる寺院が、秦氏の氏寺として建立されます。
優婆塞として名の見える秦人部辛麻呂は、氏寺の僧侶であったと考えられます。後になってその寺院は神仏習合の結果、一宮である田村神社と結び付いて、神宮寺となります。ここは現在では船山神社になっています。しかし、地元では神宮寺の名で親しまれており、傍らのバス停の名前はいまも神宮寺のままです。ここが百相廃寺跡で、複弁八弁・単弁八弁の軒丸瓦と、偏行唐草文軒平瓦などが出土しています。秦氏の仏教活動は、奈良時代の優婆塞秦人部辛麻呂から、平安時代の道昌・観賢・仁政へと、引き継がれたようです。
秦氏には次のような氏族構成が、形成されていたと推察できます。
① 香河郡内の秦氏は強い同族意識で結ばれ、大内・三木・山田・多度など他郡に分布する秦氏に対して、秦原公は何らかの形でゆるやかな支配力を持っていた。
② 秦氏の性格としては、その本拠が内陸部にあったところから、農耕民としての性格が強かった。
③ 香河郡の秦氏は香東川の水を引いて稲作を行ない、田の畦や空閑地に桑や麻を植え、絹や麻の布を織った。
④ 秦氏の本拠の近くには、讃岐特産の敷物である円座の生産を行なった村があり、少し離れて檀彫の生産を行なった村があり、この円座と檀紙は平安時代に讃岐の特産品とされ、都で暮らす人々にも重宝がられた
⑤ 円座・檀紙の生産については郡司である秦氏が、関与していたと思える。
『続日本後紀』承和九年六月二十二日(乙酉)条によると。とあって、秦氏の一族の中には酒部に改姓される者がいて、酒造りを行なった人々がいたようです。
讃岐国香河郡人戸主従六位上秦人部永楸。戸主秦人部春世等十人。賜二姓酒部
一方、香川郡の海浜部は、帰化系氏族の綾氏に占められていたようです。
『日本霊異記』によると、聖武天皇の頃、讃岐の香川郡坂田の里に、大層な物持ちがいて、その姓は綾君であった記されます。また、東寺の果宝が観応三年(一三五二)に編述した『東宝記』収載の天暦十一年(九五七)二月二十六日の太政官府に、香河郡笠居郷戸主綾公久法の名が見えます。海に近い香河郡笠居郷や坂田郷は、綾氏の一族が押さえる地域だったようです。
綾氏は海の近くにすむ海岸の民であり、秦氏は同じ帰化系氏族のよしみで、海からとれる塩・魚貝類・海草などを、手に入れていたのではないでしょうか。秦氏・綾氏の本拠の近くには、大田郷・多肥郷があり、大田の語源が王の田を意味する王田であって、かってそこに屯倉がおかれ、多肥の語源が屯倉の耕作者の田部であったとすると、秦氏・綾氏には屯倉の管理者として活躍した時期があったとみられる。秦氏・綾氏は大和王権と結ぶことで、東讃の国造凡氏と西讃の国造佐伯氏の勢力が枯抗する地域で、勢力をえることに成功した氏族であったようです。
参考資料 羽床正明 讃岐秦氏について