瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2019年02月

琴平以南に電灯がついたのは百年前、誰が電気を供給したのか?

今から百年ほど前、第1次世界大戦は日本社会に「戦争景気」をもたらしました。工場ではモーターが動力として導入され、工場電化率は急速に高まります。そして家庭の電灯使用率も好景気を追風に伸びます。この追風を受けて、電力会社は電源の開発と送電網の拡大を積極的に進めます。その結果、電気事業はますます膨大な資本を必要とするようになります。第一次大戦前の大正6年頃までは産業投資額は、鉄道業・銀行業・電気事業の順でしたが,大戦後の大正14年には銀行業を追い抜いてトップに躍り出て、花形産業へ成長していきます。

 増田穣三に代わって景山甚右衛門が率いる四国水力電気は、

積極的な電源開発を進めます。吉野川沿いに水力発電所を建設しするだけでなく、徳島の他社の発電所を吸収合併し、高圧鉄塔網を建設し讃岐へと引いてくることに成功します。その結果、供給に必要な電力量を越える発電能力を持つようになります。余剰電力を背景に高松市などでは、料金値引合戦を展開して競合する高松電灯と激しく市場争いを演じるます。

しかし、目を農村部に向けると様相は変わっていました。

 四水は琴平より南への電柱の架設工事は行わなかったのです。
なぜでしょうか?
それは、設立時に認められていた営業エリアの関係です。
四水の前身である讃岐電灯が認可された営業エリアは、鉄道の沿線沿いで、東は高松、南は琴平まででした。そのため四水は、琴平より南での営業は行えなかったのです。そこで、四水から余剰電力を買い入れ、四水の営業認可外のエリアで電力事業を行おうとする人たちが郡部に現れます。四水も「余剰電力の活用」に困っていましたので、新設される郡部の電力会社に電力を売電供給する道を選びました。こうして、県下には中小の電気事業者が数多く生まれます。この時期に設立された電力会社を営業開始順に表にしてみると、次のようになります。
高松電気軌道 明治45年4月  高松市の一部、三木町の一部
東讃電気軌道 大正 元年9月 
大川電灯   大正 5年3月  大川郡の大内町・津田町・志度町・大川町
岡田電灯   大正 9年    飯山町・琴南町・綾上町
西讃電気   大正11年    多度津町と善通寺市の一部
飯野電灯   大正11年    丸亀市の南部
讃岐電気   大正12年    塩江町
塩入水力電気 大正12年4月  仲南町・財田町の一部
 この内、西讃電気、東讃電気軌道、高松電気軌道は自社の火力発電所をもっていましたがその他の電気事業者は発電所を持たない四国水力電気からの「買電」による営業でした。

 このような動きを当時県会議員を務めていた増田一良は、当然知っていたはずです。電灯の灯っていない琴平以南の十郷・七箇村と財田村に、電気を引くという彼の事業熱が沸いてきたはずです。相談するのは、従兄弟の増田穣三。穣三は当時は代議士を引退し、高松で生活しながらも、春日の家に時折は帰り「華道家元」として門下生達の指導を行っていたはずです。そんな穣三を兄のように慕う一良は、隣の分家に穣三の姿を見つけるとよく訪問しました。ふたりで浄瑠璃や尺八などを楽しむ一方、一良は穣三にいろいろなことを相談した。
 その中に、電気会社創業の話もでてきたはずです。穣三は、かつて四水の前身である讃岐電灯の社長も務め、景山甚右衛門とも旧知の関係でした。話は、とんとん拍子に進んだのではないでしょうか。

  仲南町誌には、この当たりの事情を次のように紹介しています。
大正10年 増田穣三、増田一良たち26名が発起人となり、大阪の電気工業社長藤川清三の協力を得て、塩入水力電気株式会社を設立。当初釜ケ渕に水力発電所を設設する予定で測量にかかった。しかし資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換した。買田に事務所兼受電所を設置。七箇村、十郷村、財田村、河内村を配電区域として工事を進めた。
「資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換」と書かれていますが、すでに四水からの「受電」方式を採用した電気会社がいくつか先行して営業を行っていました。「自前での水力発電所の建設を検討した」というのは、どうも疑問が残ります。
 また、「水力発電所」建設にかかる巨額費用を穣三は、「前讃岐電灯社長」としての経験から熟知していたはずです。当初から「受電」方式でいく事になっていたのではないでしょうか。にもかかわらず社名をあえて、「塩入水力電気株式会社」と名付けているところが「穣三・一良」のコンビらしいところです。

 1923(大正12)4月 七箇・十郷村にはじめて電燈が灯ります。

 設立された塩入水力電気株式会社は、資本金10万円で多度津に本店を置き、四国水力電気より電気を買い入れ、買田に配電所を設けて供給しました。家庭用の夜間電灯用として営業は夜だけです。営業エリアは、当初は七箇・十郷・財田・河内の4ケ村で、総電灯数は約1000燈(大正12年4月24日 香川新報)でした。
 旧仲南町の買田、宮田、追上、大口、後山、帆山、福良見、小池、春日の街道沿いに建てられた幹線電柱沿いの家庭のみへ通電でした。そして財田方面へ電線が架設され、四国新道沿いに財田を経て旧山本町河内まで、伸びていきます。供給ラインを示すと
 買田配電所 → 樅の木峠 → 黒川 → 戸川(ここまでは五㎜銅線)→ 雄子尾 → 久保ノ下 → 宮坂 → 本篠口 → 長野口 → 泉平 → 入樋 → 裏谷 → 河内(六㎜鉄線)へと本線が延びていました。 
これ以外の区域や幹線からの引き込み線が必要な家庭は、第2次追加工事で通電が開始されました。
そして、同年10月には1500灯に増加し、翌年(大正13年)3月末には、約2000燈とその契約数を順調に伸ばしていきます。
  春日の穣三の家は、里道改修で車馬が通行可能になった塩入街道沿いにあり、日本酒「春日正宗」醸造元でもありました。この店舗にも電線が引き込まれ、通電の夜には灯りが点ったことでしょう。電気会社の筆頭株主は増田一良であり、社長も務めました。穣三は点灯式を、どこで迎えたのでしょうか。華やかな通電式典に「前代議士」として出席していたのか、それとも春日の自宅で、電灯が点るのを待ったのでしょうか。
 かつて、助役時代に中讃地区へ電灯を点らせるために電力会社を設立し、有力者に株式購入を求めたこと、社長として営業開始に持ち込んだが利益が上がらず無配当状態が続いたこと、その会社が今では優良企業に成長していること等、穣三の胸にはいろいろな思いが浮かんできたことでしょう。
 あのときの苦労は無駄ではなかった、形はかわれどもこのような形で故郷に電気を灯すことになったと思ったかもしれません 

家庭に灯った電灯は、どんなものだったのでしょうか?

仲南町誌は次のように伝えます。 
ほとんどの家が電球1個(1ヵ月料金80銭)の契約だった。2燈以上の電燈を契約していたのは、学校、役場、駅などの公共建物や大きい商店、工場と、ごく一部の大邸宅だけであった。
 また、点燈時間は日没時から日の出までの夜間のみであった。一個の電燈で照明の需要をみたすために、コードを長くしてあちらこちらへ電球を引張り廻ったものである。婚礼や法事などで特に必要なとぎには、電気会社へ要請して、臨時燈をつけてもらった。二股ソケットで電灯を余分につけたり、10燭光契約で大きい電球をつけるなどの盗電をする者もたまにあったようで、盗電摘発のために年に何回か、不定期に不意うちの盗電検査が夜間突如として襲いきたものであった。
「盗電検査」があったというのがおもしろいです。

 ちなみに1925(大正14)年10月ごろに塩入電気が、四水から受電していた電力は60㌗アワーでした。最初は、電気は単に照明用として夜間だけ利用されていましたが、終戦後に使用の簡便なモーターが普及するようになります。財田缶詰会社などの要請で電気が昼夜とも配電されるようになったのは、戦後の1946(昭和21)年5月でした。この時同時に、塩入地区へも電気が導入されたようです。

 
縁あって郷土から出た戦前の衆議院議員との出会いがあった。
何の知識もない中で、銅像や碑文を訪ね、町誌を読み、関係者から話を聞く機会を頂いた。
その中から、おぼろげながらも次第に増田穣三の姿が見えてくるようになった。法然堂の未生流師匠碑文の裏面のトップに増田穣三の名前を見つけた時は驚いた。
農村歌舞伎の太夫として浄瑠璃を詠い、玄人はだしでであった
塩入線誘致を行い「土讃線のルート決定」に大きな影響を与えたという従来の評価については調べれば調べるほど疑念がわいてきた。今までの増田穣三への評価を貶めることになるのではないか。これでいいのかという迷い。
いいのだ、まんのう町の讃岐山脈のふもとで幕末に生まれた男が、明治・大正と云う時代を郷里の課題に向き合いながらどう生きたのか、それをあるがままに記録することがまんのう町の未来への遺産となるのだと、そんな風に思い直し、行きつ戻りつしながら調べたものを書き並べた。
その「成果」がここにあげたものです。
この「出会い」をいただいたことに感謝

明治23年 七箇村議会開設と増田穣三

 増田穣三に関しての資料は少ない。日記や手紙・私信等は戦争末期の高松大空襲の際に居住していた家屋が焼け、ほとんど残っていない。写真類も少ない。いわゆる「根本資料」がない。そのため周辺部から埋めていき人物を浮かび上がらせるという手法をとらざるえない。そんな中で
「まんのう町役場仲南支所に古い議会録が残っており、その中に明治期の七箇村のものがある」
と教えられた。閲覧を申し出ると、閲覧以外に写真撮影の許可もいただくことができた。この「七箇村村会議事録」を資料として、村会設立当時のまんのう町の情勢や行政課題、それに当時の指導者がどう向き合ったのかを見ていきたい。資料は明治23年から明治34年まで、穣三が村長を務めたいた時期も含めての議事録が(1部欠けている年度もあるが)5冊にわたって綴じ込まれている。

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 議事録は明治23年4月7日に始まる。
この年は前年に大日本帝国憲法が施行され,地方行政においても町村制が実施され、各村々に村議会が開設されることになった年でもある。
 ちなみにこの年は、譲三の華道師匠園田如松斉の七回忌でもあり、その顕彰碑が建てられた年であることは述べた。村会議員に選ばれ、同時に未生流の師範の地位を固めた年でもあった。穣三33歳の時である。まんのう町の議会政治の幕開けと、その「議事事始め風景」を見てみよう。
明治23年4月7日 七箇村村会義のメンバー11人は?
  最初に11人の議員の番号と名前が議長により確認される。
議員番号1番の増田傳吾は、増田本家の当主で穣三の叔父に当たる人物で、村長決定までの仮の議長を務めている。8番の増田喜与三郎と記されているのが穣三である。彼は、30代半ばまではこの名前を使っており、後に穣三と改名する。7番の田岡泰は、増田穣三と同年生まれの幼なじみで、未生流華道の園田如松斉の下に共に通った仲でもある。ちなみに、この中には春日の増田一門につながる議員が3名含まれている。
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  最初に「村会運営細則」が議長の進行で1条ずつ審議され、挙手や起立や拍手による賛意表明ではなくひとりひとりを議長が指名し、賛否表明を求め賛成多数を確認後に決して行くという形で進められる。ちなみに成立した「運営細則」は次のような物であった。
第1条 会議の時間は午前10時に始まり、午後4時に終わる。ただし議長意見を以て伸縮することあるべし。
第2条 議員の席順はあらかじめ抽選にてこれを決めておく。
第3条 議場においては議員の姓名を呼ばず、その議員番号をもちうること。
第4条 議案は議員召集の際にあらかじめ伝えること。ただし場合により本条が適応できないこともある
第5条 議長は書記に提出議案等を朗読させる。
    (途中破損)     
第9条 議論饒舌になり無用の説と認められるときには、議長がこれを制すことが出来る。
第11条会議中は議員相互の私語することは禁止。                                                      (以下破損により読み取り不能)
第13条 議員病気又は事故で欠席する場合は、書面を提出すること。ただ、本条の届書は保証人として最寄りの議員の連名が必要である。
第14条 この細則に違反し、正当な理由なくして欠席又は遅刻する者は議論の上2円以下の過怠金を課することができる。
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村長と助役選挙の結果が知事に次のように報告されている。  

七箇村村長及び助役選挙のため4月7日、七箇村大字七箇において村会議を開き、議長に増田伝蔵、立会人に近石植次郎を選任し、村長選挙を実施した。
投票総数は12票
11点 田岡泰
1点  増田穣三
続いて助役投票を行った。開封の結果は次の通り
8点  矢野熊五郎
4点  増田穣三
以上の投票数の多数を比較し田岡泰を村長当選者、矢野龜五郎を助役当選者と決定した。投票終了後に再度投票用紙等を確認し、選挙事務を終了し閉会とした。選挙の結果を記録し議員の面前でこれを朗読後に、2名の議員によって確認しながら清書をした。
以上 署名押印 議長 増田伝吾 近石桂次郎
  増田穣三(当時は喜与三郎)が次点に挙げられている。

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しかし、村長に当選したのは幼なじみの田岡泰であった。

増田穣三の幼なじみの田岡泰について 知事への選挙結果報告書には、田岡泰の自筆履歴書が添えられている。これを見ながらその人となりを見ていこう。
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田岡 泰 七箇村初代村長                                            
安政5年(1858) 9月8日 ~ 大正15年(1926)10月10日  (64歳)
春日、田岡照治郎の長男。梅里と号し、明治元年から明治4年まで三野郡上麻村の森啓吾に従って漢学を学び、
明治5年から明治7年まで高松の黒木茂矩に皇漢学を学んだ。
明治8年から1 年間県立成章学校(後の香川師範学校)に入学して普通学を修め、
明治10年から1年間大阪の藤沢南岳に師事して儒学を修めて帰郷した。(20歳?)
明治12年七箇村黄葉学校の教員兼併区監視
明治13年高篠学校の教員を勤め、
明治18年~明治21年まで那珂、多度併合会議員に選ばれた。
明治22年3月には榎井村養蚕伝習所に入所して養蚕伝習受講。
 明治19年1月居村窮民為救助白米を施与したことにつき賞せられる。賞状は別途の通り
 罰 刑罰なし 以上の通り相違なし。
 香川県那珂郡七箇村大字七箇村 平民 田岡泰
この履歴書に加えて、仲南町誌には以下の内容が加えられている
明治23年4月1 日から明治31年まで七箇村の初代村長に選ばれた。
明治31年4月25日から明治32年3月7日まで県会議員、
明治32年9月30日から明治36年9月29日まで郡会議員を勤めた。この間、七箇村外三カ村連合村会議員にも選ばれた。
明治33年10月には、営業前の西讃電灯の臨時株主総会において、監査役に就任。村長在任中は地方行政に数多くの功績を残されたが、なかでも塩入新道の開通には特に力を入れて現在の県道丸亀三好線(県道4号線)の基をつくった。
後年、広島村長、吉原村長にも選ばれ、これらの功績により勲七等瑞宝章を賜り、晩年は丸亀で余生を楽しまれた。

春日のお寺の墓地で、田岡泰の墓を見つけた。

この墓に漢文で刻まれた碑文も村長就任時の履歴書がベースになっているようだ。この履歴書からは、興味深いことがいくつか分かる。
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まず生まれが安政5年9月であり、増田穣三より1ヶ月遅生まれの幼なじみになる。
同じ春日に、生まれた二人の生き方は、この後、互いに交わりながら人生の糸を紡いでいく。 
田岡泰の墓碑には、穣三の碑文にはなかった次のような教育歴が載せられている。
上麻村(高瀬町)の森啓吾(漢学) → 高松の黒木茂矩(皇漢学) → 香川師範学校(普通学) → 大阪の藤沢南岳(儒学)20歳で帰郷
  彼も幼年期には、馬背峠を越え佐文を抜けて上麻までの道のりを勉学のために通っていたことになる。続いて高松在住でまんのう町出身の黒木茂矩について皇漢学を学び、その上で師範教育を受けている。さらに、当時、数千人の門人を擁した大坂の泊園書院への遊学経験もある。20歳で帰郷後は、七箇村の教員を務め、さらに榎井村私立養蚕伝習所に入り、養蚕技術の指導をめざすなど、隣村財田村の大久保諶之丞を見習ったような経歴もある。
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田岡泰の墓碑

 地域にとっては、近代教育を受けた頼りになる若きリーダーとして地歩を固めていった。明治初年は高等教育が整備されておらず、農村の富裕層の師弟は、いち早く整備された師範学校に進んだ者が多い。卒業後、教員として地域に馴染み、その後に村の指導者に成長・転身していくというパターンである。田岡泰も、その典型と言えよう。
 明治23年大日本帝国憲法施行 → 国会開設 → 県・市町村地方議会の開設  という政治的な流れの中で、初めての村会議員選出が行われる。選出された議員の中に33歳の田岡泰と増田穣三がいる。そして、議員互選により初代七箇村長に選出されたのは、田岡泰であった。
なぜ初代村長は増田穣三でなく田岡泰だったのか。
 当時の増田穣三は「お花の先生」「浄瑠璃の太夫」「書道家」というに風流人としての「粋さ」を身につけた「増田家分家の若旦那」という印象を周囲からもたれていたのではないかと書いた。対して田岡泰は「師範学校出身の先生」「養蚕技術の導入者」として頼りになる村のリーダーというイメージがあったのではないか。行き過ぎた推論かもしれないが、こんな人物評が田岡泰を初代村長に推した背景ではないだろうか。 

 助役に就任するのが矢野龜五郎

 亀五郎は、増田穣三よりも20歳年上で、明治維新後の七箇・塩入村戸長となり、その後22年間村政の舵取り役を務めている。そして、次世代の若きリーダーとして田岡泰・増田穣三を育成し、明治23年に新役場が開かれると、田岡泰を村長に据えて自分は助役に就任。さらに4年後には、助役も退き増田穣三にバトンタッチ。次世代への引継ぎを円滑に行って勇退している。彼も春日出身である。春日の七箇村での優位性指導性と共に人脈の豊富さを感じさせる。春日の若きリーダーによって「村の明治維新」は、姿を整えられていく。
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   なお、亀五郎の養子である晃は、戦後に多度津国民学校校長依願退職後に、増田一良の後を受けて第10代七箇村村長に就いている。

参考文献 仲南町史
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浄瑠璃の義太夫としての増田穣三

 私が穣三が浄瑠璃が玄人はだしの腕前であることを知ったのは、明治37年に出版された「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」という書物からである。この本は、当時の香川県の政治経済面で活躍中の50人あまりの人物を風刺を効かしながら紹介している。その中に穣三も取り上げられ
得意の浄瑠璃は鞘橋限りなきの愛嬌をして撥(ばち)を敲きて謹聴せしめ得たるもの」
と記されている。
 最初は、金比羅山の門前町として明治になって一層の賑わいを見せる琴平で、師匠について身につけた芸かと思ったがどうも違うようだ。
人形浄瑠璃という形で、阿波から伝わった新しい「文化伝播」を吸収した成果なのだ。どんな風にして若き日の譲三が浄瑠璃大夫の名手に成長していったのかを、人形浄瑠璃を通じての阿波とまんのう町の明治期の文化交流の中から見ていきたい。
 
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 明治期における阿波人形浄瑠璃のまんのう町での流行

  明治期になると文物の経済統制がなくなり、人と物が自由に動き出す。その恩恵を受け経済成長を遂げたもののひとつに阿波の藍産業がある。藍生産者や藍商人は資本を蓄積し、豪壮な館が林立する屋敷を建てるようになる。さらに、その経済力を背景に、数々の文化活動の支援者ともなる。藍の旦那衆が保護し、夢中になったのが人形浄瑠璃である。

 その一座が讃岐山脈を越えて、まんのう町で「公演活動」を行っていた記述が仲南町誌に残されている。「塩入の山戸神社大祭には、三好郡昼間の「上村芳太夫座」や「本家阿波源之蒸座」がやって来て、「鎌倉三代記」とか、「義経千本桜」などを上演した。」とある。
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人形一座は、三好郡昼間からやってきた。

昼間は、現在の東みよし町に属し、箸蔵寺の東側にあたり県道4号線(丸亀ー三好線)の徳島側の起点でもある。後に穣三は、七箇村長として、男山を経て東山峠を切り通して塩入までの車馬道を開通させることになる。それ以前は、この地区の人々の往来は徳島県側の各集落から樫の休場(二本杉越)を経て、塩入集落に到る峠越が阿讃往来の主要ルートであった。人形師の一座も人形や衣装などの道具類を荷物箱に入れ前後に振り分けて担いで塩入に入って来た。
 ひとつの人形の扱いには3人の人形遣いが必要となる。3体が同時に舞台に立つ演目だと、それだけで9人、さらに太夫や三味線が何人か加わると総勢は30人前後にもなったという。
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 塩入はその名の通り、阿波への塩の集積地であると同時に、

徳島からの借子牛の市が立つようになるなど明治になると急速に発展し、宿場町的な機能や形態をを持つようになった。
 明治期の国土地理院の地形図などを見ると宿場町化している様子が読み取れる。隣村の財田の戸川や琴南の美合なども明治期に宿場町化した地域である。阿波からの人と物が行き交い経済的なつながりや婚姻関係なども幾重にも結ばれ、阿波との関係が明治期に強くなった地域であった。これを背景に秋の大祭には、明治のいつの頃から昼間からの人形一座が招かれるようになるなど、峠を越えての阿讃の文化交流が深まっていった。
 三味線の響きと浄瑠璃の語りにあわせて人形が演じる劇を初めて見たときの塩入・七箇村の人々の驚きと喜びは、いかばかりであったろう。幼い増田穣三や一良も、人形浄瑠璃がやって来るのを楽しみにしていただろう。祭りの後は、誰彼となく太夫の浄瑠璃を口ずさむようになる。そして、塩入や春日を中心に浄瑠璃が流行し、自分たちで芝居をやりたいという気運にまで高まる。しかし、人形浄瑠璃をやるには人形頭も衣装も人形遣いの技量もない。そこで、人間が演じる「農村歌舞伎・寄芝居」という形で上演するようになっていく。
 素人が集まって農閑期に稽古をして、衣裳などは借りてきて、祭の晩や秋の取入れの終わった頃に上演する。そして見物人からの「花」(祝儀)をもらって費用にあてる。
  
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塩入の山戸神社拝殿 人形浄瑠璃の舞台として使用

明治中期 七箇村で広がる農村歌舞伎

 仲南町誌には、農村歌舞伎について次のような記述が載せられている。 
明治中頃、春日地区で、増田和吉を中心に、和泉和三郎・山内民次・林浪次・大西真一・森藤茂次・近石直太(愛明と改名)・森藤金平・太保の太窪類市・西森律次たち、夜間増田和吉方に集合して歌舞伎芝居の練習に励んだ。ひとわたり習熟した後は、増田穣三・増田和吉・和泉広次・近石清平・大西又四郎たちの浄瑠璃に合わせて、地区内や近在で寄せ芝居を上演披露し、好評を得ていた。
 明治43年ごろには、淡路島から太楽の師匠を招いて本格的練習にはいり、和泉兼一・西岡藤吉・平井栄一・大西・近石段一・大西修三・楠原伊惣太・山内熊本・太山一・近藤和三郎・宇野清一・森藤太次・和泉重一 ・増田和三郎たちが、劇団「菊月団」を組織。増田一良・大西真一・近石直太(愛明)・本目の山下楳太たちの浄瑠璃と本目の近石周次の三味線に合わせて、歌舞伎芝居を上演した。当地はもちろん、財田黒川・財田の宝光寺・財田中・吉野・長炭・岡田村から、遠く徳島県下へも招かれていた。その出し物は、「太閤記十役目」「傾城阿波の鳴門」「忠臣蔵七役目」「幡州肌屋敷」「仙台萩・政岡忠義の役」「伊賀越道中沼津屋形の役」などを上演して好評を博していた。 (仲南町誌617P)

 この資料からは明治中頃以後、春日を中心に農村歌舞伎の練習が農閑期に行われ、各地で上演され好評であったことが紹介されている。この中に「ひとわたり習熟した後は、増田穣三・たちの浄瑠璃に合わせて」という部分から穣三が太夫を演じていたことが分かる。
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  増田本家のふすまに張られた一良使用の浄瑠璃床本

人形浄瑠璃の太夫とは、どんな役割なのだろうか。

   徳島の阿波人形浄瑠璃十郎兵衛屋敷を訪ねて、学芸員の方にたずねた。それによると、太夫は義太夫節で物語を語り、登場人物の言葉、動作、心情などを表現する。見台(けんだい)に乗せた床本(ゆかほん)という台本を読んでいく。ただ読むのではなく、人形の所作に合わせて太夫自身が声や顔の表情、身振り手振りまで交えて、全身で人形に魂を吹き込んでいく。声の高さや調子を変えて、男役、女役も演じ分ける。太夫の語りは、芝居全体の雰囲気を演出する重要な役目を担うことになる。以前は、太夫が一座の責任者を務めていたという。役者は人形で、人形遣いは表には出ないので、太夫は一座のスターでもあり、キーパーソンでもあったようだ。
さらに、こんなことも教えてくれた。
「浄瑠璃を詠っている藍屋敷の旦那は、祭りの時には人形一座を呼んで、村の神社の境内に小屋掛けさせ上演させることが多かったようです。その時に「太夫は俺にやらせろ」と、一番おいしい所を自分が語ることもあったようです。つまり、お金を払ってでも太夫をやりたいと思う人は多く、まさにみんなの憧れでもあったようです。」
さらに三味線弾きとの関係については、次のように教えてくれた。
「三味線弾きの方が師匠で、師匠が弾きながら弟子が語るという練習が一般的です。いまでも浄瑠璃の発表会では、師匠の三味線弾きの方が何人もの弟子さんの伴奏を行う姿が見られます。また、三味線弾きは遠くからプロの方を呼んで上演することもあったようです。」
 
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穣三も太夫を演じるためは稽古をつけてもらいに、師匠の下に通ったと思われるがそれがどこかは分からない。しかし、人や物の流れから推察すれば、それは峠を越えた向こう側の阿波のどこかではなかったのか。
 峠越えを当時の人たちは苦にしていない。東山峠の向こう側の男山の人たちは、琴平程度なら日帰りで帰っていたと云うし、後に増田一良も土讃線誘致運動の一環として、春日から東山峠を抜けて池田まで行き財田経由で琴平まで1日で帰っている。穣三も未生流の師匠として徳島側に出向き、その折りに浄瑠璃を教わっていたということも考えられる。心理的にも峠の向こうの阿波側は、今よりも遙かに近い存在であった。
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  こうして20代後半の穣三は、「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造」するハンサムな風貌の上に、「未生流師範」「浄瑠璃太夫」「呉服商」「酒造業」「増田家分家の若旦那」という地位や素養に風流人としての「粋さ」も身につけ、周囲からも1 目置かれる存在に成長していった。

やってきたのは塩入駅  立っているのが増田穣三像

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いまは無人駅となり乗降客もめっきり少なくなった塩入駅。
その駅前の広場の東の隅の方にぽっつりと立っている銅像。
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近づいてよく眺めてみる。
なで肩の和服姿に、左手に扇子を持ち駅の方を向いている。
 私の第1印象は、「威張っていない。威厳を感じさせない。
政治家らしくない像」で「田舎の品のあるおじいちゃん」の風情。
政治家としてよりも、華道の師匠さんとしての姿を表しているように感じる。彼は若い頃は呉服屋の若旦那ででもあったようで着物姿が似合っている。ちなみにこの像は穣三の生前80歳の時に作られたもの。増田穣三の意図を感じる。
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 増田穣三に関する資料や写真は、あまり残っていない。
 県議時代から春日の本宅を留守にして、高松で暮らすことが多かったようだ。穣三の死後は、増田家は高松に移っていたが高松空襲で消失し家財一切を失ったという。
下は県会議録等の数少ない「政治家としての増田穣三」の写真である。 
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「香川新報」は、県会議長を務めていた彼の風貌を次のように紹介している。 

「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いてその地位を表彰す」
躰は小さいが、躰の釣り合いバランスはよく、ハンサムで動きはメリハリがあり、優雅な印象を与える。鼻の下の髭と、薄い髪がそれを補う。
  写真からもその雰囲気が伝わっている。
なぜ、政治家としての壮年期の姿を銅像にしなかったのか。
代議士引退後の姿を銅像としたのは、どうしてだろうか。
この銅像を見ながら疑問が膨らんできた。

台座碑文は、次のような文で閉じられている
翁今年80にして康健壮者の如く 猶花道を嗜みて日々風雅を提唱す。郷党の有志百謀って 翁の寿像を造り 以て不朽の功労に酬いんとす。余翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾 
     昭和12年5月  東京 梅園良正 撰書
ここから分かることは生前80歳の時に建立計画が建てられたこと。それを進めたのは、当時の七箇村長でもあり県会議員でもあった増田一良で、増田本家の当主であり、穣三の従兄弟にもあたる人物である。
 揮毫したのは宮内庁の書記官で、書道関係の出版物も多く、明治の著名人の碑文を数多く残している当時著名な書道家であった松園良正である。「余翁と姻戚の間に在る関係」から増田一良から揮毫を依頼されたようだ。
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 戦後に再建された像(原鋳造にて:三豊市山本町辻)

再建されていた2つの銅像

 この銅像の台座碑文を調べていて、山下谷次の銅像と共通点があることに気づいた。年表を見ていただきたい。
1934 昭和9年9月 増田一良 第6代七箇村長就任(~昭和13年7月まで)
1936  昭和11年6月8日 山下谷次死亡
1937 昭和12年増田穣三の銅像建立(七箇村役場前)→ S18年銅像供出 
1938 昭和13年9月山下谷次の銅像建立(村会の決議で)→S18年銅像供出
1939 昭和14年2月22日 増田穣三 高松で死去(82歳)七箇村村葬により葬られた。
1952 昭和27年6月5日  山下谷次像が17回忌に旧大口小学校に再建 
1963 昭和38年3月 増田穣三像が場所を変えて塩入駅前に再建
         ?          山下谷次像が旧仲南中学校正門上に移築

 昭和9年 増田一良が七箇村長になると銅像の「生前建立計画」が進められ、それに刺激されるかのように隣村の旧十郷村でも山下谷次像の建立が行われている。しかし、それも5年後に戦時中の「金属供出」により二つ共に姿を消すことになる。
 谷次の銅像は戦後の昭和27年、17回忌に元の位置に再建された。それから十年近く遅れて、増田穣三像も再建されたが建てられたのは塩入駅前に移された。その際に、台座は以前のものを使って再建されている。
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S38年に三豊市山本町辻の原鋳造所で再建された増田穣三像。
その前に立つ穣三の長男増田収平氏の写真が残っている。

 一方、山下谷次像は仲南中学の新設後に現在地に移築された。
両銅像ともに、戦中を挟んで一度は姿を消した過去があるようだ。

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増田穣三像の台座碑文に刻まれた略歴は?(仲南町誌1319P掲載分より) 

 塩入駅前の増田穣三像の台座碑文は、三面にわたりびっしりと刻まれている。しかし、建立から80年経ち摩耗部分もあり読み取りにくい。苦労していると「仲南町史に全文が載っとるで」と教えてくれる先達がいた。仲南町史を開いてみると確かにあった。
長くなるが全文を紹介したい。(現代文に意訳)
安政元年(1858 8月15日)生 昭和14年(1939年2月22日)没
七箇村春日の生まれで、増田伝二郎の長男。秋峰と号す。
安政5年8月15日に讃岐琴平の東南に位置する七箇村に生れた。伝次郎長広の長男で母は、近石氏。初め喜代太郎と称していたが30歳を過ぎて穣三と改名した。秋峰洗耳は譲三の号である。
幼い時から理解が早く賢く、才知がすぐれていて判断や行動もすばやかった。日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に就いて和漢の学を修め、また如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の奥義を究め遂にその流派「如松斉流」の家元を継承し多くの門下生を育てた。明治23年に、開設された村会議員となり、明治31年には2代村長に推され、琴平・榎井・神野・七箇の一町三村道路改修組合長として、道路建設等の郷土の開発に力を尽くした。明治33年には、香川県会議員に挙げられ以後、当選三回に及んだ。その間に県参事会員や副議長・議長等の要職に就き、その職務を全うした。
明治35年には、郷村小学校敷地を買収して校舎を築き、さらに児童教育の根源を定めるとともに、同村基本財産となる山村三百余町歩を購入して、山林活用と副産物の生産を図った。明治45年には、衆議院議員に初当選し、大正4年には再選し、国事に尽くした。大正11年1月には大礼参列の光栄を賜った。これより先には四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走し、土讃線のルート決定に大きな功績を残した。譲三氏は、用意周到で考え抜かれた計画案を持って事に当たるので、企画した物事が円滑に進むことが多く、多くの人々の衆望を集めていた。 

碑文から分かる経歴のポイントを押さえておこう。

 安政元年(1858 8月15日)生ということは、明治維新を10歳前後で迎えた世代ということになる。昭和14年(1939年)82歳で没ということは、太平洋戦争開戦前には亡くなっている。生まれはまんのう町(旧七箇村)春日。
明治23年 村会議員と為り(33歳)
  31年 村長に推され又(41歳)
  33年 香川県会議員に挙げられ(43歳)
    参事会員 副議長 議長等に進展して能く其職務を全うす 
  45年 衆議院議員に挙げられ(55歳)
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政治家としては30歳代で村会 






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中寺廃寺の石組遺構は、なんのために積まれたの  

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中寺廃寺遊歩道
中寺廃寺はA・B・Cの3つのゾーンに分けられています。
ここまで来たらCゾーンにも行かねばならぬと足を伸ばすことにします。Cゾーンは、塔のあるAゾーンから谷をはさんだ南の谷間にあります。
 お手洗いの付属した休憩所の上から谷間に下りていく急な散策路を下っていきます。人が通ることが少ないようで、これでいいのかなあと思う細い道を下っていくと・・・猪除けの柵が現れ、進むのを妨げます。「石組遺構」らしきものはその向こうの平場にあるようです。柵を越えて入っていきます。
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中寺廃寺Cゾーン

あちらこちらに石組跡らしきものはありますが、崩れ落ちていて石を積んだだけに見えます。その配列や大きさにも規則性はないようです。私が最初の推察は「墓地」説でした。この寺院の僧侶の墓域ではないかと思いました

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中寺廃寺石組遺構
後日に手に入れた報告書を読むとこう書かれていました。
「当初、「墓地」の可能性を考え下部に蔵骨器や火葬骨などの埋葬痕跡の有無に注意を払った。しかし、外面を揃えて大型の自然石を積み、内部に小振りの自然石を不規則に詰め込むという手法に、墓地との共通性はあっても、埋葬痕跡はまったくなく、墓の可能性はほぼ消滅した。」
 山林寺院に墓地を伴う例はありますが、墓地が形成されるのは中世(平安後期)以降のことのようです。この中寺廃寺は中世には廃絶しています。

それでは何のために作られたものなのだろう?

報告書にはそれも書かれていました。読んでいて面白かったので紹介します。
報告書の推論は「石塔」説です。、
仏舎利やその教えを納めるという仏教の=象徴としての「塔」、
あるいは象徴としての「塔」を建てる行為は功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。
  『法華経』巻2「方便品」には。
在家者が悟りを得る(小善成仏)のために、布施・持戒などの道徳的行為、舎利供養のための仏塔造営と荘厳、仏像仏画の作成、華・香・音楽などによる供養、礼拝念仏などを奨励する。
その仏塔造営には、万億種の塔を起し=て金・銀・ガラス・宝石で荘厳するものから、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで、ランクを付けて具体例を挙げる。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」なのである。
 童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る
にも見えます。 平安時代前期には民間布教に際に語られていたようです。また、平安時代中頃までに、石を積んで石塔とする行為が、年中行事化していた例もあります。
 「三宝絵」下巻(僧宝)は、「正月よりはじめて十二月まで月ごとにしける、所々のわざをしるせる」巻です。その二月の行事として記載されているのが「石塔」です。
  石塔はよろづの人の春のつつしみなり。
諸司・諸衛は官人・舎大とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。『心経』を書きあつめ、導師をよびすへて、年の中のまつりごとのかみをかざり、家の中の諸の人をいのる。道心はすすむるにおこりければ、おきな・わらはみななびく。功徳はつくるよりたのしかりけば、飯・酒多くあつまれり。その中に信ふかきものは息災とたのむ。心おろかなるものは逍邁とおもへり。年のあづかりを定めて、つくゑのうへをほめそしり、夕の酔ひにのぞみて、道のなかにたふれ丸ぶ。
 しかれどもなを功徳の庭に来りぬれば、おのづから善根をうへつ。『造塔延命功徳経』に云はく、「波斯匿王の仏に申さく、「相師我をみて、『七日ありてかならずをはりぬべし」といひつ。願はくは仏すくひたすけ賜へ』と。仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為のようです。
山に登って、ケルンを積むのも「作善」とも言えるようです。わたしも色々なところで石を積み無意識に「作善」してきたことになるのかもしれません。
さて、この『三宝絵詞』が描く年中行事としての「石塔」の記録から分かることがいろいろあります。 報告書は次のように続けます。
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中寺廃寺石組遺構
 まず、重要なのは、「石塔」を積む場が「川原」であることです。
 川原は葬送の地、無縁・無主の地で、彼岸と此岸の境界でもあります。そして「駆込寺」が示すように、寺院はアジールであり、時には無縁の地ともなります。中寺廃寺C地区は、仏堂・塔・僧房などの施設があるA地区やB地区とは、谷を隔てた別空間を構成しています。C地区は葬地でなくても「川原」だと考えられます。石組遺構が、谷地形に集まっているのも、それを裏づけるとします。これは後世の「餐の河原」に通じる空間とも言えます。
このC地区に37残る石組遺構は、年中行事である[石塔]として毎年春に作られて続けた累積結果と考えられるようです。   
次に報告書が注目するのは「石塔」が「よろずの人の春のつつしみ」であることです。
『三宝絵詞』は、石塔を積んだ人たちを「諸司・諸衛の官人・舎人」や「殿ばら・宮ばら」配下の「召次・雑色」が、「石を重ねに塔の形にする」した人々とします。しかし、この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族だけでなく、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人も、「石塔」を行なったはずです。Aゾーンの本堂や塔などの法会は僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったのではないでしょうか。
ここでは、祈りと宴会が行われていた? 

そう理解すると「春」という季節や、単に石を積むだけでなく「飯・酒多くあつまれ」という饗宴行為もぴったりと理解できます。
 春の予祝行事である、その年の豊饒を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、あるいは山桜の咲く頃に、豊作祈願や大川|山からの国見を兼ねて中寺廃寺に参詣し、C地区で石を積む姿が見えてくるようです。
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。
「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。その頃に大川山詣でをする人たちがこの谷に立ち寄って、石を積み上げていったと考えたくなります。
 大川山を霊峰と仰ぐ里の住民は、官人・豪族・村人の階層を問わず、中寺廃寺に参詣したはずです。中寺廃寺C地区の石組遺構群は、そうした地元民衆と寺家との交流の場だったのかもしれません。
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 報告書は更にこう続けます。  
「石塔」行事の場である「川原」が、平安京に隣接する鴨川などの川なら、官人や雑色が積み上げた「石塔」が遺構として残る可能性は限りなくゼロに近い。平安代後期まで存続せず、炭焼が訪れる以外は、人跡まれな山中に放置された中寺廃寺の方形石組構であるからこそ残ったのである。もし、中寺廃寺が中世まで存続したら、付近で墓地が展開した可能性は高く、埋葬をともなわない「石塔」空間を認識することは困難になったかもしれない。
つまり「平安時代のまま凍結した山寺院関係の遺跡=中寺廃寺」だからこそ残った遺構なのです。そして「石塔」とすれば、はじめての「発掘=発見」となるようです。

中寺廃寺について、分からないこと、分かったこと 

中寺廃寺は大川山に近い山の中にある「山林寺院」として「国史跡」に指定されています。しかし、地上に残るものを見てもその「ありがたさ」が私にはもうひとつ理解できません。そこで自分の疑問に自分で答える「Q&A」を作って見ました。
 なおこの寺の現況については以前に紹介しましたのでこちらをご覧ください。

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大川山からのぞむ中寺廃寺

Q1 中寺廃寺が、大川山の奥に建立されたのはどうして

 大川山(標高1043m)は。丸亀平野から見るとなだらかな讃岐山脈の上にとびだすピダミダカルな頂が特徴的でよくわかる山です。この山は、天平6年(734)の国司による雨乞伝説を持ち、県指定無形文化財となった念仏踊りを伝える大川神社が山頂に鎮座します。讃岐国の霊山・霊峰と呼ぶのにふさわしい山です。
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B地区 割拝殿跡から望む大川山
聖なる山を仰ぎ見る「山岳信仰」と山林寺院は切り離せません。
仏教が伝来する前から、人々は山を神とあがめてきました。
比叡山延暦寺と日吉大社の関係をはじめとして、「山林寺」に隣接して土地の神(地主神)や山自体を御神体とする神社が祀られています。中寺廃寺は、大川山を信仰対象と仰ぎ見る遙拝所としてスタートしたと考えられます。
大川山を遙拝するなら、どうして山頂に寺院は建てられなかったの?
 大川山が聖なる山で、中寺廃寺はその遙拝所だったからです。
霊山の山頂には、神社や奥院、祭祀遺跡や経塚があっても、山林寺院が建立されることはありません。石鎚信仰の横峰寺や前神寺を見ても分かるように、頂上は聖域で、そこに登れる期間も限られた期間でした。人々は成就社や横峰寺から石鎚山を遙拝しました。つまり、上には神社、遙拝所には寺院が建てられたのです。
 また、生活レベルで考えると山頂は、水の確保や暴風・防寒などに生活に困難な所です。峰々は修行の舞台で、山林寺院はその拠点であって、生活不能な山頂に建てる必要はないのです。
 B地区が大川山の遙拝所として利用され始めるのが8世紀、
割拝(わりはい)殿や僧房などが建てられるのは10世紀頃になってからのようです。

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B地区 割拝殿と僧坊 ここからは大川山が仰ぎ見えます

Q3 古い密教法具の破片からは何が分かるの? 

 中寺廃寺跡からは、銅製の密教法具である錫杖や三鈷杵(さんこしよう)の破片が出土しています。これらの法具は、空海が唐から持ち帰る以前の古い様式のものです。このことから寺院が建てられる前から小屋掛け生活して、周辺の行場を回りながら「修行」をしていた修験者がいたことがうかがえます。
 空海によって密教がもたらされる以前の非体系的な密教知識を「雑多な密教」という意味を込めて「雑密」と呼びます。その雑密の行者達の修行が、行われていたことを示します。
 空海が密教を志した8世紀後半は、呪法「虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)」の修得のため、山林・懸崖を遍歴する僧侶がいました。空海も彼らの影響を受けて「大学」をドロップアウトして、その中に身を投じていきます。ここから出土した壊れた密教法具の破片は、厳しい自然環境の中、呪力修得に向け厳しく激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を、物語っているように思えます。そして、その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

若き日の空海(真魚)の山林修行は?

山林仏教の修行者となった青年空海は、二十四歳の時、自らの出家宣言として書き上げた「三教指帰』の序文で次のように述べています。
「ここに一の沙門あり。余に虚空蔵求聞持の法を呈す。その経に説かく、「もし人、法によって(正しく)この真言一百万遍を誦せば、すなわち一切の教法の文義(文章と意味)暗記することを得」と。
 ここに大聖(仏陀)の誠言を信じて、飛頷を讃燧に望み(大変努力して、阿国(現在の徳島県)大滝嶽にのぼりよじ、土州(現在の高知県)室戸崎に勤念す谷、響きを惜しまず、明星(金星)来影す(姿を現す)。        (『定本弘法大師全集』七、四一頁)
空海は求聞持法をおこなった場所として具体的に地名を挙げているのは「大滝嶽」「室戸崎」だけですが、辺路修行として他の四国の聖山・聖地で行った可能性はあります。空海は、正式な得度や度牒を得ない私度僧の立場でこの修行をおこなっていたようです。
 当時、南都仏教の学解僧を中心とする大きな存在があった一方で、山林に入って一定期間大自然と一体化する山林修行や、求聞持法のような古密教的な修行法を重視する実践系の仏教集団が形成されていたのです。むしろ、両者の要素を兼ね備えた僧が周りの尊敬を集められたのです。。
 空海が四国の海辺や山岳が求聞持法の修行地として選んだことは、のちに続く密教山岳僧に大きな影響をもたらします。空海が中国からもたらした体系的な密教の実践エリアとして、この地が選ばれるようになります。空海を始祖の一人とする辺地修行と密接に結びつく聖地となっていくのです。それが平安後期から鎌倉期にかけて「弘法大師信仰」によって統一され、次第に「四国遍路」として体系化されることになります。ここはそんな空間のひとつだったのかもしれません。

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A地区 本堂と塔がある中寺廃寺の中枢地区です

中寺廃寺は、いつごろ存続した山林寺院なのですか

この寺院の活動期は次のような3期に分類されているようです。
  1 8世紀後半~9世紀  大川山信仰と修行場
 尾根の先端B地区において、行者たちの利用が始まります。。この時期には建物跡は確認できません。遺構が残らないような簡易施設で「山中修行場」として機能した時期で、B地区は遙拝書として機能していました。
  2 10世紀~  伽藍出現と維持期
谷の一番奥で標高が一番高いA地区に塔・仏堂が姿を現し、B地区では仏堂・僧房が、C地区おいて石組に遺構群が作られる時期です。この時期は、機能が異なるA・B・Cの3つの空間が愛並び、谷を囲んで向かい合う山林寺院として整った時期です。これには、讃岐国衙や国分寺も関わっているようです。
  3 12世紀以降 消滅期 
各地区から建物遺構が見られなくなる時期です。平安時代末期のこの時期に中寺廃寺は衰退・廃絶したと考えられます。
つまり、空海が活躍する9世紀後半以前から、ここは行場として修験者たちが活動する聖地になっていたようです。そして、平安時代が終わるに併せるかのように破棄され忘れ去られていきました。
国司として赴任した菅原道真は、この寺の存在を知っていたのですか?
 道真が着任した仁和2年(886)の夏のことです。
国府の北にある蓮池の蓮の花が真っ盛りでした。土地の長老が「この蓮は元慶(877 - 84年)以来葉ばかりで花が咲かなかったが、仁和の世になると、花も葉も元気になった」と云います。蓮は仏教ではシンボル花なので道真は「池の蓮花を採取して「部内二十八寺」に分捨する」ように提案すると、役人は喜んで香油なども加えて「東西供養」したといいます。[『菅家文草』巻4、262]。
「部内二十八寺」とは、讃岐の国衙が管理する寺28寺です。
ここから、9世後半の讃岐国には、28もの寺院が活動していたことが分かります。これは、考古学的に存在が確認されている白鳳期の讃岐の古代寺院の数と、ほぼ一致します。古代豪族によって白鳳期に建立された氏寺は、200年後にもほぼ存続していたようです。
 菅原道真が、讃岐国にある寺院数を知っていたのは、古代寺院が各国の国守の管轄下にあったからです。寺院に属する僧侶は、国家が直接管理した東大寺、下野薬師寺、筑前観世音寺に設けた三つの戒壇で受戒(合格し採用)した官僧であり、国家公務員でした。その動向や、彼らが居住する寺院の実態を、国守が把握するのは職務のひとつでもあったようです。
 菅原道真がカウントした「讃岐28ヶ寺」のなかに、この中寺廃寺が含まれているかどうかは、年代的に微妙なところです。9世紀後半は、中寺廃寺の本堂や塔が姿を見えるかどうかのラインのようです。
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A地区 本堂から塔跡の礎石を見下ろします
この寺の造営や維持管理に、讃岐国府は関わっていたのですか?
 繰り返しになりますが、古代律令国家においては、個人が出家し得度することは国家が承認しなければ認められませんでした。僧侶は国家公務員として、鎮護国家を祈願しました。祈願達成のために、多くの僧が国家直営寺院で同じ法会に参加します。一方で、僧は
「清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」
することが国家から求められのです。これが国家公務員としての僧侶の本分のひとつでした。
 9世紀後半の光仁・桓武政権は、僧侶の「浄行禅師による山林修行」を奨励します。山林寺院を拠点とした山林修行は、国家とって必要なことであるとされていたのです
 国家は「僧侶が清浄を保ち、かつ山林修行を通じて自分の法力を強化」するための施設整備を行うことになります。このような動きの中で10世紀になると、国衙の手によって山林寺院が整えられていくようになります。大川山信仰や行場としてスタートした中寺廃寺に、本堂や塔があらわれるのもこの時期です。
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僧侶は勝手に山岳修行を行うことはできなかったのですか?

 養老「僧尼令」禅行条は、官僧が修行のために山に入る場合の手続きについて、次のように規定しています。
1地方の僧尼の場合は、国司・郡司を経て、太政官に申請し、許可を公文書でもらうこと。
2その修行山居の場所を、国郡は把握しておくこと。勝手に他に移動してはならない。
 この条件さえ満たせば、官寺に属する僧侶でも山岳修行は可能でした。
また、修行と同時に「僧としての栄達の道」でもあったのです。ここで修行した「法力の高い高僧」が祈雨祈念などを行い、成功すれば権力の近くに進む道が開けたのです。
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山中に山寺を建立する理由は「山岳修行」だけですか? 

 中寺廃寺は、讃岐・阿波国境近くに立地します。
古代山林寺院が国境近くに立地する例は、中寺廃寺以外にも、
比叡山延暦寺(山背・近江国境)
大知波峠廃寺(三河・遠江国境)
旧金剛寺  (摂津・丹波国境)
などの数多く見られようです。
国境は、国衙が直接管理すべき場所でした。古代山林寺院の多くが、国境近くに立地するのは、国衙の国境管理機能と関連があるようです。さらに讃岐山脈の稜線を西に辿れば、
尾野瀬寺(旧仲南町)→ 中蓮寺(旧財田町)→ 雲辺寺(旧大野原町)
と阿讃山脈稜線沿いに山岳寺院が続きます。中寺廃寺は当時の行場ネットワークを通じて、他の山岳・山林寺院と結びついていたのかもしれません。これを後の四国霊場の原初的な姿とイメージすることもできます。

遺構や出土物からは、どんなことが分かるのですか?

 A地区の伽藍配置は、讃岐国分寺と同じ大官大寺式であるようです。ここにも造営に当たって讃岐国衙の「管理コントロール」が働いていたことがうかがえます。
また、塔心礎下に埋められて須恵器壷群は、讃岐国衙直営の陶邑窯(十瓶山窯)製品です。その上、発色する胎土を用いて焼くという他には例がないものです。そのために赤みを強く帯びています。つまり、地鎮・鎮壇具として埋納するための須恵器は、国衙がこの寺用に作らせた特注品が使われているようです。
小説なら「空海、地元の中寺廃寺で修行する」というテーマで、讃岐にやって来た菅原道真の時代に割拝殿が作られることになり、それを国司である道真が「空海が若き日に修行した寺院」と伝え聞いて、特注制の陶磁器などの制作を命じて、空海由来の寺院として整えられていくたというストーリーが書けそうな材料はそろいます。

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また、B地区で出土した灰粕陶と見間違える多口瓶も、わざわざ播磨の工房に特注して作らせた可能性が高いようです。
 つまり、10世紀の中寺廃寺には、仏具として荘厳性の強い多口瓶を、わざわざ西播磨から取り寄る立場の僧侶がいたことになります。中寺廃寺は、単なる人里離れた山寺ではないことはここからも分かります。この寺は讃岐国衙や讃岐国分寺とストレートに結びついていた寺院なのです。
参考文献
上原 真人 中寺廃寺跡の史的意義 調査報告書第3集
加納裕之  空海の生きた時代の山林寺院「中寺廃寺跡」

                          
                          
                                    


浄土真宗の中讃への布教は、阿波の安楽寺が布教センターだったことを前回にお伝えしました。それは阿波ルートの興正寺派の教線でした。しかし、真宗の伝播には、もう一つ本願寺による「海のルート」があります。

四国真宗伝播 寛永3年安楽寺末寺分布

興正寺派の阿波安楽寺の末寺分布図(寛永3年)
讃岐に数多くの末寺があったことが分かる。

 古代から瀬戸内海は東西を結ぶ「海のハイウエー」の役割を果たしてきました。島の湊はそのサービスエリアでもありました。この瀬戸内海を通じて真宗は入ってきます。これが本願寺のルートです。
 讃岐への真宗の伝播は、興正寺からのルートと本願寺からのルートの二つがあったことになります。讃岐の真宗寺院の分布状況を見ると、海岸線に本願寺系が多く、内陸部には興正寺系は多く存在しています。それは、海から伝わったか、阿波から伝わったかの伝播ルートのちがいによるようです。

 真宗と讃岐の結びつきはいつ頃から?

「天文日記」は、本願寺第十世證如が21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けた19年間の日記です。その中の天文12(1543)5月10日条に、次のように記されています。 
『天文日記』天文十二年五月十日・七月二十二日
十日 就当番之儀、讃岐国福善寺以上洛之次、今一番計動之、非何後儀、樽持参第二七月二十二日 従讃岐香西神五郎、初府致音信也。使渡辺善門跡水仕子也。
ここには、天文十二(1544)に「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあります。福善寺は高松市にありますが、本願寺へ樽を持参していたことが記されています。福禅寺が本願寺の末寺となっていたようです。この16世紀半ばの天文年間に、本願寺と関係がある真宗寺院が髙松にはあったことが分かります。
 また、
七月二十二日「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」とあります。これは、香西氏が初めて本願寺を訪れた記録になるようです。香西氏の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたようです。讃岐の武士団の中に真宗信者が現れ、本願寺と結びつきを深めていく者もいたのです。

どうして、香西氏は本願寺の間に結びつきができたのでしょうか?

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書) | 和三郎, 若松 |本 | 通販 | Amazon

 当時、讃岐は「阿波三好氏の支配下」にありました。そして、阿波三好氏の実権を握っていたのが重臣の篠原長房でした。そこで香西氏は長房に率いられて上洛し、本願寺へと赴くようになるのです。それは長房の夫人が、堺の真宗のお寺の娘さんという関係があったからのようです。それを縁に本願寺と長房は、深い結びつきを持つようになります。こうして、篠原長房に従った讃岐武士団のなかにも、真宗に改宗し、真宗を保護する者もあらわれます。
讃岐に真宗寺院が、増加するのは享禄から天文年間にかけてです。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗創建年代一覧
讃岐の真宗寺院の郡別創建年代一覧
応永・明応年間  1368年から1375年 1492年から1501年
②文亀・大永年間  1501年から1504年 1521年から1528年
③天文年間 1532年から1555年
④天正年間 1573年から1593年
上表から分かることをあげておくと
①の15世紀末時期に創建された4寺は、興正寺系末寺である
②になると三木郡の常光寺や阿波郡里の安楽寺の興正寺の教線がラインが伸びてくる。
③天文年間になると、瀬戸内海ルートで本願寺からの教線ラインが伸びてくる。
④大水上神社の信仰圏である大内・寒川・三木や、善通寺・弥谷寺など真言系修験道の信仰圏である多度郡・三野郡・豊田郡などは、この時期に設立された真宗寺院が少ない。

四国真宗伝播 讃岐の郡別真宗転宗一覧
讃岐郡別の真宗への転宗寺院数
上図は、この時期に旧仏教(真言・天台)から真宗に転宗した郡別寺院数を一覧化したものです。上の④で指摘したように、修験道系の旧仏教勢力の強いところでは、転宗寺院は少ないようです。
真言・天台の旧勢力が衰えていた地域に真宗が入り込んで、真宗に宗派替えをするようになっていることがうかがえます。地域的に見ると中讃地域に多いようです。改宗時期を見ると、讃岐で真宗寺院が増える天文年間(1532. ~1555年)のようです。
 ここからは、私の仮説です。
 この時期は、西長尾城主の弟・宥雅が流行神である金毘羅神を産み出し、金毘羅堂を象頭山に建立した時期にもあたります。宥雅の中には、讃岐山脈を越えて丸亀平野に入ってくる郡里安楽寺の布教僧侶たちの姿が目に入っていたはずです。土器川の奧の百姓たちに根付いて、各地で道場を開いていく真宗の僧侶たち。宥雅は善通寺で修行を修めた真言僧侶です。彼らは、丸亀平野の奥から次第に、門徒を増やして行く真宗の布教活動を見て、なんとかしなければならないという危機意識を膨らませます。その答えが、新たな霊力ある神を祭り、信者を獲得することでした。そのために地元に伝わる悪魚退治伝説の悪魚を、善進化しクンピーラとして登場させます。
 つまり、宥雅による流行神である金毘羅神の創出は、那珂郡や鵜足郡で急速に門徒を増やす真宗への対抗措置であったと私は考えています。
土器川沿いに上流から中流へと道場をふやしていく動きとは、別の動きが真宗にはありました、それが本願寺自らが開拓していた教線ルートである瀬戸内海ルートです。

その中の一つに宇多津の西光寺があります。

この寺の「縁起」を見てみましょう。『諦観山西光寺縁起』
天文十八年、向専法師、本尊の奇特を感得し、再興の志を起し、経営の功を尽して、遂に仏閣となす。向専の父を進藤山城守といふ。其手長兵衛尉宣絞、子細ありて、大谷の真門に帰して、発心出家す。本願寺十代証知御門跡の御弟子となり、法名を向専と賜ふ。
天文十八年(1550)に本願寺・証知の弟子になって、向専という名前を与えられています。そして、この寺に当時の支配者であった阿波の篠原長房が出した禁制(保護)が西光寺に残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記載があります。
 鍋屋というのは地名です。その付近に最初は「道場」ができたようです。それが「元亀貳年正月」には西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
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西光寺の門扉の紋章
本願寺派に属する宇多津の西光寺の前は、かつては海でした。

宇多津 西光寺

中世の宇多津
江戸時代になって塩田が作られ、現在ではそれが埋め立てられて海は遙か北に退きましたが、この時代は西光寺の前は海でした。小舟であれば直接に、この寺の船着き場にこぎ寄せることが出来ました。本願寺から「教線拡大」のための僧侶が海からやってきたのです。
 宇多津は中世は管領細川氏の拠点で当時の「県庁所在地」で、讃岐で最も繁栄する「都市」であり「湊」でした。その山手には各宗派の寺院が、建ち並んでいました。このような「宗教激戦地」の中で本願寺は、どんな形で布教活動を進めたのでしょうか? 興正寺派が農村で進めた布教活動とは、どんな点がちがっていたのでしょう。

まず、布教対象です。どのような人々が門徒になったかです。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世の復元図の中の西光寺 湾内に突き出た砂州上に立地

 先ほど史料で見たように、西光寺の付近に鋳物師原とか鍋屋といった鋳物に関わる地名が残っています。手工業に従事する人々が、この付近に住んでいたことが分かります。この地域には、今も西光寺の檀家が多くいるそうです。
 また宇多津は港町として繁栄しますが、水運業に関わる人たちのなかにも門徒が増えていくようです。非農業民の真宗門徒をワタリと称しています。宇多津は経済力の大きな町で、それを支えるのがこのような門徒たちであり、また西光寺も支えていたのです。

宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津 西光寺(江戸時代後半)

 ちなみに、宇多津の沖の本島・広島には多くの寺院がありましたが真宗寺院はありません。小豆島もそうです。讃岐の島々は旧勢力の真言宗が強く、真宗の入っていく余地はなく「布教活動」は成功しなかったようです。
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宇多津の西光寺が成長していく永禄年間というのは戦国時代の真最中です。
 当時の讃岐の状況は、阿波の三好氏が侵入してきてその支配下になっていました。また中央では、大坂の石山本願寺をめぐって織田信長と本願寺の対立が目増しに激しくなっていく時期です。その渦に、讃岐の真宗寺院が巻き込まれていくのです。
 当時は真宗の門徒たちが一致団結して、権力者に立ち向かっていく状況が各地で見られました。一向一揆ですが、その「司令本部」が石山本願寺(現大阪城)でした。石山本願寺と信長が直接対決するようになるのが元亀元年からで、この戦いを「石山戦争」と呼んでいます。この「石山戦争」に建立されたばかりの讃岐の真宗寺院が巻き込まれていきます。
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西光寺

 大阪石山本願寺の顕如が阿波の慈船寺に当てた次の文書が残っています。顕如書状〔慈船寺文書〕
近年信長依権威、爰許へたいし度々難題いまに其煩やます候、此両門下之輩於励寸志者、仏法興隆たるへく候、諸国錯乱の時節、卸此之儀、さためて調かたなく覚候へとも、旨趣を申候、尚様鉢においては上野法眼・別邸郷法橋可申候、あなかしこあなかしこ
     十月七日
      阿波               顕如花押
       坊主衆中へ
       門徒衆中へ
「阿波坊主衆中 門徒衆中」となっています。本願寺から直接阿波の寺院へ出したものです。内容は
「信長の非道を責めつつ、信長と本願寺がついに戦いを始めたから、各地の門徒たちは本願寺を援助しろ」
ということです。しかし、信長と戦うにも本願寺が自前の軍隊をもっているわけではありません。本願寺の要請によって各地の門徒たちがこぞって応援にかけつけることになります。また兵糧・軍資金の要請もします。このような顕如の手紙を「置文」といい、全国に多く残っています。
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西光寺本堂

 そして、讃岐でそれに応じたのが西光寺です。

 下間頼廉書状〔西光寺文書〕
  回文「詳定」
  一 青銅七百貫
  一 法米五十解
  一 大麦小麦格解貳斗
 今度御門跡様織田信長と就御鉾楯不大方、依之其方以勧化之働、右之通獣上述披露候所、懇志之段神妙思召候、早奉仰御利運所也、弥法儀相続無出断仏恩称名可披相嗜事、白河 以肝要愉旨、能々相心得可申候由御意愉、則披顕御印愉悦
             別邸郷法橋
     五月十三         頼廉(花押)
         西光寺 専念
これは本願寺の財務方の「法橋」からの礼状になります。
「青銅七百貨、植木五十解、大麦小麦捨百二斗」を、西光寺が支援物資として本願寺へ送ったことに対する礼状です。青銅七百貨は銭です。西光寺がそれだけの資金を準備できるお寺であり、それを支える門徒衆の存在がうかがえます。これは西光寺だけでなく、阿波の安楽寺や安芸門徒(広島)などの寺院も送っています。全国各地から多額の軍資金や兵糧が本願寺へ送られるのです。
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西光寺 白壁の塀には「銃眼」が開けられています

 信長は本願寺と戦うだけでなく、あちこちで一向一揆と壮絶な戦いを繰り広げています。本願寺にとってみれば、長島・越前など各地のの一向衆の一揆がたたき潰されていくのですから、生き残りをかけた戦いで敗れるわけにはいきません。ここで敗れることは本願寺王国の壊滅というせっぱつまった状況にあったのです。信長にとってみれば、本願寺をたたき潰すことにより、長年の一向一揆との戦いに終止符をうつことになるのです。お互いに負けることができない戦いがこの石山戦争なのです。そして、同時展開で西欧で展開されていた「宗教戦争」とも似ていました。
 そして本願寺は戦いの向こうに展望が開けて行くことになります。

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西光寺 東側はかつては海だった
どちらにしても、真宗の讃岐への伝播は
① 阿波ルートで「真宗興正寺派」が山から平野に
② 瀬戸内海ルートで「真宗本願寺」が海岸の港町を拠点に
讃岐に「教線拡大」していくのです。

参考文献 橋詰 茂 「讃岐における真宗の展開」
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中讃地域に真宗興正寺派のお寺が多いのはどうして?

掛け軸 六字名号・南無阿弥陀仏 安田竹葉 (肉筆) :YT66000:掛け軸の ...
中讃地域では仏さんの前で正信偈があげられ「南無陀弥陀仏」の六文字が称えられることが多く、真宗信者の比率が非常に高いと感じます。資料を見ると

県下の寺院数910ケ寺の内、約半分の424ケ寺が真宗です。

次が真言宗で、この二つで8割以上を占めています。四国の他県の真宗比率を見てみると、阿波では13%、伊予ではわずか9%、土佐では24%です。阿波では、中世に阿波を支配していた三好氏が禅宗を保護したからです。伊予では臨済宗が多のですが、これは伊予の河野氏が禅宗に帰依し、保護したためのようです。それぞれの県に「背景」と「歴史」があるようです。それでは、讃岐に真宗が多いのはなぜでしょう?問題を過去に遡って考えるというのが歴史的な考え方です。それに従うことにしましょう。
正信偈 - 生涯学習の部屋

いつごろどのようなルートで讃岐へ、真宗が入ってきたのか?

 讃岐における最初の浄土真宗寺院は、暦応4年(1341)に創建された高松の法蔵院とされます。ここへ入ってきて、そこから周辺へ広かったのではないか、という推測ができます。しかし、残念ながら裏付ける資料がありません。
珍種】常光寺のラッパイチョウが世にも珍しい件 | ガーカガワ 香川県の ...
讃岐への真宗伝来を伝えるのは、三木郡の常光寺に残る文書です。
 史料①『一向宗三木郡氷上常光寺記録』〔常光寺文書〕 
当寺草創之濫腸者、足利三代之将軍義満公御治世之時、泉洲大鳥之領主生駒左京太夫光治之次男政治郎光忠と申者、発心仕候而、法名浄泉と相改口口口引寵り、仏心宗二而罷在候、其後京都仏口口口常光寺と号ヲ与へ給候、爰二又浄泉坊同詠之者二秀善坊卜申者在之候是も仏光寺門下と相成、安楽寺卜号ヲ給候、
然二仏光寺了源上人之依命会二辺土為化盆、浄泉・秀善両僧共、応安元年四国之地江渡り、秀善坊者阿州美馬郡香里村安楽寺ヲー宇建立仕、浄泉坊者当国江罷越、三木郡氷上村二常光寺一宇造営仕、宗風専ラ盛二行イ候処、阿讃両国之間二帰依之輩多、安楽寺・常光寺右両寺之末寺卜相成、頗ル寺門追日繁昌仕候、
この文書は江戸時代に書かれたものですが、比較的信憑性が高いとされています。要約すると
①足利三代将軍義満の治世(1368)に、佛光寺了源上人が、門弟の浄泉坊と秀善坊を「教線拡大」のために四国へ派遣し、
②浄泉坊が三木郡氷上村に常光寺、秀善坊が阿州美馬郡に安楽寺を開いた
③その後、讃岐に建立された真宗寺院のほとんどが両寺いずれかの末寺となり、門信徒が帰依していった。
 ちなみに仏光寺というお寺は、そこにいた経豪上人が蓮如上人に仕えて、蓮如の一字をもらって蓮教と名を改めます。そして後に、興正寺というお寺に発展していきます。現在は京都の西本願寺の南に隣接してあります。
興正寺について|本山興正寺
ここが真宗の讃岐伝播のひとつのポイントのようです。
真宗といえば、すぐに本願寺を連想しますが、讃岐に真宗を伝えたのは「仏光寺(興正寺) → 秀善坊」なのです。興正寺によって讃岐に真宗が伝わってくるのですが直接ではありません。興正寺(仏国寺)の伝播は、まず阿波に入ります。
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阿波の美馬市郡里寺町に安楽寺というお寺があります。

安楽寺はもともと浄土宗の寺院でしたが、真宗に改宗していきます。安楽寺を拠点にして阿波と讃岐へと広がっていくのです。
安楽寺について資料を見てみましょう。
 史料②は篠原長政書状とありますが、これは安楽寺が焼かれ讃岐ヘー時的に「亡命」した時に出されたものです。この時に、財田駅の北側に宝光寺が創建されますが、私は「仏難を避け亡命政権」と考えています。
どこいっきょん? 宝光寺の紅葉(三豊市)

この寺が後には、三豊方面への「真宗布教前線基地」になります。しばらくして、もとの美馬へ帰ることになります。阿波守護代の三好氏の許可状とともに、この長政の添状が「亡命政権」に届いたためです。
    史料②篠原長政書状〔安楽寺文書〕
 就興正寺殿ヨリ被仰子細、従子熊殿以折紙被仰候、早々還住候て、如先々御堪忍可然候、諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候、則承可申届候、於今度山科二御懇之儀共、不及是非候、堅申合候間、急度御帰寺肝要候、恐々謹言
      永正十七年十二月十八日          篠原大和守
長政(花押)
      郡里  安楽寺

①「興正寺殿ヨリ被仰子細」とあります。先ほど紹介したように、安楽寺の本寺である興正寺が和解に向けて働いたことが分かります。
②財田への「亡命」の背景には「諸課役等之事閣被申候、万一無謂子細申方候」という、賦役や課役をめぐる対立があったことが分かります。さらに「念仏一向衆」への宗教的な迫害があったのかもしれません。
④要は、相談なしの新しい課役などは行わないことを約束して「阿波にもどってこい」と云っている内容です。安楽寺側の勝利に終わったようです。
 この領主との条件闘争を経て既得権を積み重ねた安楽寺は、その後
急速に末寺を増やしていきます。安楽寺に残されている江戸時代中期の寛永年間の四ケ国末寺帳を見ると、讃岐に50ケ寺、阿波で18ケ寺、土佐で8ケ寺、伊予で2ケ寺です。讃岐が群を抜いて多いことが分かります。
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安楽寺は阿波にありながら、なぜ讃岐に布教拡大できたのか。

讃岐と阿波との国境の阿讃山脈を越えて讃岐へと伝わります。
現在は三頭トンネルができて早くいけるようになりましたが、これは安楽寺と中讃を結ぶルートに当たります。三頭越のルートで伝わったのです。讃岐へ下りていくと土器川の上流に当たります。これを下れば丸亀平野です。国境を越えるといえば大変なように考えますが、当時はこれが「国道」で街道には人が行き交っていました。
安楽寺の末寺はほとんど中讃地域で、それも山に近い所に多いのはその「地理的な要因」がありそうです。

 真宗寺院の分布は、高松周辺と丸亀周辺にかたまっています。
これは比較的新しくできた寺院が多いようです。一方、農村部に沢山の寺院があります。この農村部にある寺院の多くが安楽寺の末寺です。そして、山沿いのお寺の方が古いようです。これは山から平野に向けて真宗の「教線拡大」が進んだことを示しています。ここからも、讃岐の真宗の伝播は、一つには興正寺から安楽寺を経て広がっていったということが分かります。
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ところで、吉野川の南側には安楽寺の末寺は見当たりません。

どうしてでしょうか。
わたしは、吉野側の南側は高越山や箸蔵寺に代表される山岳密教の修験者達のテリトリーで、山伏等による民衆教導がしっかり根付いていた世界だったからだと思っています。そこには新参の真宗がは入り込む余地はなかったのでしょう。そのためにも阿讃の山脈を越えた讃岐が安楽寺の「新天地」とされたと思います。そして財田への「亡命」時代に布教のための「下調べと現地実習」も終わっています。こうして、阿讃の山々を越えての安楽寺出身の若き僧侶達の布教活動が展開されていきます。それは、戦国時代の混乱期でもありました。

参考文献 橋詰 茂讃岐における真宗の展開             

丸亀駅裏に「新町」ができるまでのお話

「丸亀駅近くの線路の北側は明治の末ごろまでは海であった。福島町はそこに浮かぶ中洲だった」と聞きました。本当でしょうか?
丸亀城絵図56
 『讃岐国丸亀絵図』(正保年間(1644年)
上の絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させたものです。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。その他にも城下の町割・山川の位置・形も載されています。丸亀藩も幕府の命を受けてこの絵図を提出したと思われます。原図サイズは、東西217cm×南北255cmとかなり大きなものです。
丸亀の海岸線17世紀
この絵図で注目したいのは海に面した北側(下側)です。海際には砂州が広がり、その南側を汐入川が西から東に流れています。現在の丸亀駅は海の中です。その北に広がる塩屋町は、近世以後の開拓で陸地化されたようです。江戸時代には、丸亀駅の北側には旧四条川がもたらす堆積物で塩屋の方から突き出た洲浜が続いていたことが絵地図からも分かります。この洲浜を中須賀と呼び、浅瀬を挟んで浜町と向かい合っていました。ここは誰も人の住まない砂嘴(さし)の先端でした。1658年(万治元年)山崎氏は3代で断絶し改易となり、代わって京極高和が播磨龍野より入ってきます。その2年後には、現在の丸亀城天守が石垣の上に姿を見せます。

中須賀に最初に家を建てたのは塩飽大工たち?

1 讃岐国丸亀絵図部分図

「福嶋町由来書」には、京極藩の支配が固まっていく中で大工十六人が、この中須賀に家を建てることを願い出て、許可され移り住んだことが記されています。最初に家を建て住み着いたのは、塩飽の大工達のようです。当時の丸亀は、京極氏の移封に伴う建築ラッシュで、塩飽大工が仕事を求めて丸亀城下に数多く入っていました。彼らが島に近いこの地に「進出・移住」しようとしたのでしょう。その後、この中須賀へ移住する者が相次ぎ人口も急速に増えます。
二年後には天満宮を、さらに弁天財をここへ移し中須賀の氏神としました。その後も中須賀へ移住するは増え続けますが、海を隔てて不便なので1691(元禄四)年に長さ約二八・八㍍の橋が初めて架けられます。
当時の二代藩主京極高豊は、この橋を福島橋と名づけました。
同時に中須賀といっていたこの中洲は福島町と改められたのです。橋ができて便利になっため、そして湊に近いという利便さ、
さらに庶民の町としての生活のしやすさなどから、
この中洲は最初に十六戸が移住してから約十年後の元禄六年には、家や人が百倍にもなったようです。
当時の福島町の景観は?
 このころの絵地図からは、福島の南岸と北岸には松林が東西に続いているのが見えます。南岸の松林は、現在の弁天通の南側に沿って東西に続き、松林の西には弁財天の祠があり、東には天満宮が見えます。その後、天満宮と弁財天を1力所に合わせ祀ります。
丸亀新堀1

これが現在の厳島神宮天満宮(福島町)です。後には、ここで日照りの年には雨乞いの祈願もするようになり信仰の中心になっていきます。
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厳島神宮天満宮(福島町)

金比羅詣での湊として繁栄する福島町

Ã\¤§Ã\‚からの玄関Ã\£ã¨ãªã£ã¦ã„た丸亀の湊
丸亀湊の賑わい(右が福島湛甫、左が太助燈寵のある新堀湛甫)
時代とともに金比羅参詣の客が増えて「金比羅船船 追い風に吹かれてしゅらしゅしゅしゅ」の通り、福島町は繁栄していきます。
1806(文化三)年には、北側に船の停泊所が築かれます。
福島湛甫といわれ、東西111㍍・南北91㍍・東側にある入口32㍍、深さ3㍍の大きさで、太助燈寵のある東側の新堀湛甫より27年も前のことです。つまり、新堀湛甫が作られるまでは、金比羅詣での参拝者は、福島湛甫に上陸し福島の町を抜けて福島橋を渡り、金比羅への道を歩み始めたのです。
両宮橋の架橋
 こうして、福島が栄えるにつれ、多くなった通行人を福島橋一つでは賄いきれなくなります。そこで、その西に簡単な橋を架けることになりました。この橋は福島の天満宮と浜町の船玉神社との間に架けられたので両宮橋と人々は呼びました。現在でいえば、新町にある松田書店のあたりから南へ架けられていたようです。福島町には弁天筋、大井戸筋、榎木町、暗夜小路、材木町などの幾筋もの町筋が並ぶようになります。
丸亀新堀1
福島湊と福島町の街並み その向こうに福島橋が見える
確かに福島町は近世まで中洲であったようです。それが金比羅詣での盛況ぶりに合わせるかのように発展してきた町だったのです。それでは福島町と丸亀駅の間にあった「海」は、どんな状態だったのでしょうか?

2丸亀地形図

現在の丸亀駅のすぐ北は満潮時の深さは2,5㍍ほどでの海浜で、西汐入川が西から東へ流れ海に注いでいました。旧藩時代には、福島町弁財天社と浜町との間は藩の船隠しで、御召船泰平丸、住吉丸、御台所船浪行丸、先進丸。出来丸、幸善丸、白駒丸、その他漕船、小遣舟などの船体を繋留した所でした。南の浜町側には船の倉庫が十以上もあり、その関係の役所や長屋・小屋などが建ち並んでいました。ここが船手浜之町ですが、人々は俗に「船頭町」と呼んだようです。
丸亀城下葛1828年

それでは、福島町が陸続きになったのはいつなのでしょうか?
 それは明治の鉄道建設と関係があります。
1889(明治二十二)年、琴平まで讃岐鉄道が開通した時の丸亀駅は始発駅で、現在地よりは250㍍ほど西にありました。それから8年後に鉄道が高松まで延長されます。その際に、駅は現在地へ移りそこにあった「船手浜之町」の跡は消えます。しかし「船頭町」と呼ばれていた町の名は、その後も長く残ります。
丸亀地図 明治
 20世紀を迎え日露戦争に勝利すると、本格的な近代化の波が瀬戸の港にも押し寄せます。こうしたなかで、丸亀史は市は1909(明治41)年から西汐入川の附け替えと港湾の大改修に着手します。その手順は以下の通りです。
1 浜町銀座通りの鉄道線路までの丸亀港の浚渫、
2 西汐入川河口の埋め立てと福島湛甫の西側一帯の埋め立て(広島方面行き三洋汽船発着場の西)
3 現在の流路への西汐入川の附け替え
 先ず港の浚渫によって出てくる土砂で西汐入川河口と福島湛甫の西側を埋め立てます。同時に、駅の方へ流れていた西汐入川を藤井建材店の所から流れを北へ変え、現在の流路にする工事でした。
この西汐入川の附け替えと埋め立てによって、水によって隔てられていた福島町は陸続きとなりました。

丸亀古城図1802年
また埋め立てられた海(河口?)には、新町もできました
新町は名の通り埋め立てによって1912(大正元)年に新しくできた町なのです。この結果、西汐入川河口に架けられていた福島橋と両宮橋は不要となりました。福島橋の石造欄干は東汐入川の渡場の欄干に使われていましたが、これも今では、その一部が資料館に保存されているそうです。この欄干が福島町(島)と丸亀城下を結ぶ架け橋だった時代があったのです。今から百年前以上のことになります。
参考文献 丸亀の歴史散歩

江戸時代の庄屋(村役人)さんの「日常業務」とは、どんなものだったのでしょうか。

多度津・葛原村の庄屋を長く務めた木谷家には、享保から文政までのほぼ一世紀間、葛原村のさまざまな日常生活の様子が文書として記録されています。木谷家の歴代当主の残した「萬覚帳」をのぞいて、庄屋の日常を垣間見ることにしましょう。

村は警察機能の末端として、今の駐在所のような役目も果たしました。

その一つに、葛原村や千代池で起こる投身自殺の処理について次のような記録が「萬覚帳」に出てきます。
丸亀藩士の下女が千代池で人水自殺し、翌朝発見されたので藩に報告した。多度津藩から通服を受けた兄弟(親藩の足軽)2人がその日の夜半に丸亀から駆けつけ、遺体を引き取って行った。その対応の迅速さに驚いた。
丸亀藩領の他村で起こった身元不明の僧と女性の「相対死」(心中)入水事件に身元確認のために現場に呼ばれた。葛原村の村役人として、顔吟味に参加したが自村のものではないので、代官に当村に該当者無しと報告した。

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千代池

  この文書からは、村には江戸の街のような奉行も岡っ引もおらず、庄屋自らが出向いて、業務にあたっていることが分かります。村には「専従職員」がいないのです。庄屋さんは、村長兼と駐在所員、時には裁判官といくつもの職務を「兼務」していました。村役場も独立したものはなく庄屋宅に置かれていました。

葛原村墓地で博打と強請(ゆすり)が発覚します。

文政2年(1819)4月のことです。
まず庄屋は、藩に内々での処置を申し出て同意を取り付けています。この賭博事件の被害者で、同時に博打禁止の違反者でもあるのは葛原村の五人、加害者、強請った四人中三人は他村の者でした。葛原村の村役人が藩に事件を公にせず内済を望んだ背景には事件全体の違法性と合計銀五〇匁-という被害額、さらに犯人が他村にまたがる訴訟へのためらいがあったようです。

若殿の籠に、投げたものが当たってしまう事件には

同じ年には、藩主の若君がお忍びで葛原村を通った際に、若君の「御犬」が一農民の軒先で竹龍内の白鷺に吠えかかる事件が起きます。追い払おうと農民が犬に投げたものが若君の御駕寵にあってしまったのです。村を訪れる代官を、庄屋はじめ村役人が土下座して迎えるという時代ですから、これは一大事です。
 庄屋の木谷小左衛門(永井)は、早速その農民を郷倉(牢)に入れ「無礼」を罰します。同時に藩の代官と内々の折衝を続け、二日後に「御願書差上」という形で事件を「御代官様お手元切りに相済ます」決着に漕ぎつけています。

庄屋の村人を守るという役割 

このように、村は村内での事件や小犯罪をできるだけ藩にゆだねず、内々に処理しています。事件の処理が藩の手にわたると被疑者は拷問や厳しい追及に苦しみ、そのうえ刑が村外あるいは領外追放など比較的重いものになることが多かったのです。これに対し村の裁量に任された場合は、たいてい郷倉入りや自宅での閉門や禁足ですみました。
 「萬覚帳」に見る限り、郷倉入りで外との行き来を閉ざされたとはいえ、家族から百米麦七合までの「賄い」の差し入れは許されました。もし、家族が貧しい際には五人組や村が代わって負担しています。さらに郷倉入りの本人が高齢のうえ病弱であったりすると、倅が代人を努めることさえ許されています。
ここには、藩に対して村人を守ろうとする姿勢がはっきりと読み取れます。
「江戸時代 郷倉」の画像検索結果

さらに、庄屋が身元引受人となっている例です

 村人が多度津藩に小人(使い走り)として奉公する際に、庄屋が身元保証人になっています。それだけでなく、切米(給与)額や休日数などの雇用条件を細く決めた契約書(「御請状」)を、庄屋が身代わりになって藩との間で交わしていることが分かります。
 「萬覚帳」には寛政元年(1789)と同4年、二通の御請状写しがあります。その中の条項には
「奉公人への給米は年二回に分けて先払いされるが、もし期日前に米を返さず退職した場合、本人は立替え分に五割の利子をつけて返済する。
また決まった休日の日数をこえて欠勤する場合も、代人を立て役目に支障が起こらないようにし、それを怠った日数だけ切米は減額される。そして奉公人がその義務を果たさない場合、「御請状」を書いた庄屋が代わって弁済する」
と、現在からすれば「労働者側に不利な勤務条件」が記されています。要するに、庄屋は村出身の奉公人の身元保証にとどまらず、共同体の親として「悴(せがれ)」の不始末の尻拭いを求められていたのです。庄屋の「業務」は、広いのです。 

最後に、葛原村らしい四国巡礼の遍路に対する「業務例」を見てみましょう。

村には、七十六番札所金倉寺から七十七番道隆寺への遍路道は南北にまっすぐ村を貫いていました。その途中、八幡の森は深い木陰ときれいな湧き水で、疲れた遍路に得がたい休息の場を提供しました。森のはずれ、八幡宮参道口近くには旅寵もあり、村人も「お遍路」を心暖かく迎えたました。しかし、病をもつ老遍路のなかには、そのまま立ち上がれなくなる者も出ました。

「萬覚帳」には行き倒れ遍路について藩への届けが八件あります。

持っていた往来手形から名前・年齢・生国がわかり、遺体は国元に通知されることなく、その地に埋葬されました。身元不明の場合、村は丸亀・多度津両藩に通知し、遺体はその場に二、三日保存された後に葬られています。これも庄屋がおこないました。 

遍路が帰国をのぞむ場合は「村送り」による「送り戻し」(送還)を願い出ることもあったようです。

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  捨て往来手形

庄屋は、その遍路が「往来手形」で属する宗門が明らかで、多少の路銀をもち、順路の村々に大きな負担を掛けないですむかどうかを考えてから「送り手形」を発行しています。
 病人で歩けない遍路を村境で受け取り、隣の村境まで送り、時には夜宿泊の世話もする「村送り」は、人手の要る作業です。これは藩を超えた村の連帯感と庶民の「御大師信仰」に根ざした「おせったい」の心なしにはできないことです。 

同時に、村送り遍路への措置や手続きから見えてくるのは、 藩が民衆の移動の管理を行っていることです。

幕府や藩は農民が土地を離れ、他郷に行くことを基本的に嫌い、抑制しています。「移動の自由」は保証されていません。
 村民の一家が他村に引っ越す際にも、転居先の村へ予め「送り手形」を届けるこを求めています。その中で送出す村は、本人に年貢の未納や借財がないことを保障し、自分の村の人別帳からこの一家が抹消された後、相手村の「帳面」に書き加えられるよう依頼しています。また他村への養子縁組でも「送り手形」が相手側に送られています。

村と庄屋の二面性がもたらすものは?

以上見てきたように、村は行政の末端行政組織として藩の触れや法令を伝える支配機構の一部でした。しかし、それだけではなく、村内の争いや事件を解決するため村の掟を造り、司法・警察・消防の役割まで果たす「自治的共同体」の機能も持っています。
つまり二面性があったということです。
そして村には専門の専従者がいたわけでなく、村人は村役人や村寄合の指示に従い、自発的あるいは義務として協力したのです。

このような村民の頂点に立つのが庄屋でした。

庄屋は村役人中でも別格で、百姓身分で村人たちを代表する存在にもかかわらず、領主の意向を代表する任務を負わされています。
そして庄屋の私宅は村政の事務所=「政所」となり、村人はここに呼び出されて藩の触れや新法令の発布を知らされました。
 庄屋は村人自身によって選ばれ、村の自治を代表するとはいえ、その任免権は藩の手にあり、領主支配の末端業務の責任を負ったのです。庄屋の役割の二重性は、百姓の共同体であるとともに幕藩体制の末端行政組織という村の二重性をそのまま反映しています。 

領主と農民の間に立ち、対立する利害を調整する庄屋の立場は難しかったようです。

有能な庄屋は双方の立場と要求、力関係をはかりながら妥協と調停の道をさぐります。そのような庄屋の姿勢を指して、
人は「庄屋と屏風はまっすぐでは立たぬ」と云ったのでしょう。
これを現在では、政治力というのかもしれません。

 また江戸時代は、藩と村とのやりとりは細かいことまですべて文書をつうじて行われましたから、読み書きに馴れ、年貢徴収のための計算能力が求められます。場合によっては未進(年貢未納)農民に代わって米や代銀を立て替える財力も必要となります。もっともこの立替えにあたり、未進農民は自分の土地を質地として差し出しますので、土地併合には有利なポジションにあったと云えるかもしれません。

江戸時代の落語でよく登場する「大家さん」と同じように「庄屋さん」も庶民からは、悪者扱いされたり、批判の対象となることが多いようです。その裏で「日常業務」は大変だったことを改めて知りました。

多度津・千代池の改修工事はどう進められたか

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千代池からの大麻山と五岳

前回は金倉川の付け替えによって廃河跡が水田として開発され、
河道を利用してため池が次々と作られたこと、
その開発リーダーが多度津・葛原村の庄屋・木谷家であった
という「仮説」をお話ししました。

今回は、築造された千代池を木谷家が、どのように維持改修したかを見ていくことにします。今回は仮説ではありません。

木谷家には代々の家長が残した記録が「萬覚帳」として残されています。これを紹介した「讃岐の一豪農の三百年」によって眺めていきます。その際に、江戸時代前半と、後半ではため池改修工事の目的が変化していくことに注意しながら見ていこうと思います。
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多度津の旧葛原村には、今でも千代池、新池、中池、上池の四つのため池があります。これらは旧四条川の河道跡に17世紀後半に築造されたものです。その中でも千代池は広さ五㌶、貯水量90万㎥と、多度津町内のため池の中では最大級の池です。  

ため池には、メンテナンス作業が欠かせませんでした。

特に腐りやすい木製の樋管、排水を調整するか水門(ゆる)やそれを支える櫓などは約二〇年おきに取り替える必要がありました。
また粘土を突き固めただけの堤もこわれやすく
「池堤破損、年々穴あき多く、水溜まり悪しく、百姓ども難儀仕り候」

と藩への願書がくりかえし言うように、修理が常に求められたのです。これを怠ると水が漏れ出し、堤にひびが入り、最悪は決壊ということもありました。
「ため池 樋管」の画像検索結果
現在のため池の樋官

それでは、江戸時代のため池改修はどんな風に行われたいたのでしょうか?

江戸時代前半は「木製の樋竹・水門・櫓などの修理」に重点

 江戸時代前半期の修築工事は、丸亀藩の意向もあったのか、朽ちた木製の樋竹・水門・櫓などの修理に重点が置かれています。堰堤の補修や補強にはあまり力を入れた形跡がありません。
 木谷家に残る江戸時代前期の資料からは、当主四代、ほぼ六〇年間に行われた計27件の池普請に使われた労働力の内訳が記録されています。それを見ると大工99人、木挽き79人など木製品に関わる職人数が多く、堤の補修にたずさわる人足は延べ604人に過ぎないのです。
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丸亀藩の補修工事には「郷普請」と「自普請」ありました。
前者はため池の水を利用する村(水掛り村)が複数ある場合で、藩が工事を直接指揮監督しました。後者は水掛り一村のみで、藩の援助は無く費用も労力(人足)も、その村が単独で負担しました 
葛原村の池普請は、すべて後者でしたから藩の援助はありません。
その場合でも村役人は大庄屋・代官を通じ藩に、その計画・実施を願い出、許可を受ける必要がありました。そのため「萬覚帳」には、享保(1726)から文政元年(1818)の92年間に計34件の池停請が申請文書が残されています。村にある4つの池で、3年に一度はどれかの池で修築工事が行われていたことになります。
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旧河道に架けられた橋

 木谷小左衛門の試みは、貯水量を増やすこと       

 江戸時代後半になると、村の周囲はほぼ水田化され耕地を増やす余地がなくなってきます。そんななかで、米の収穫量を増やす道は、乾燥田への給水確保以外になくなります。つまり、ため池の貯水量の増量という方法です。そのためには堤防のかさ上げが、もっとも手っ取り早い方法です。
 この「要望」に、対応したのが江戸時代後半に木谷家当主となる木谷小左衛門です。彼は天明八年(1788)に庄屋となると、ため池補修の重点を、池全体の保水量を増やすため、堰堤のかさ上げや側面補強などに移します。彼は、堰堤を嵩上げする作業を「萬覚帳」に「上重(うわがさね)」と記しています。その方法手順は、
1 まずに工事現場に築堤用土を運び上げ、堤敷に15㎝の厚さに撒き、
2 それを大勢の人足が並んで踏みつけながら、突き棒で10㎝ぐらいまでに突き固め、
3 めざす厚さまで何回も積み重ねる
4 そして池底の浚渫・掘り下げです。晩秋、すべての農作業が終わった後、池を空にして底土を堀りおこし池の深さを確保する。
こうして貯水量を増やそうとしたのです。
この工事成否は投入される人足の数にありました。
 小左衛門は寛政三年(1791)から文政元年(1818)まで、28年間に計7件の池普請を願い出ています。
そのうち最も人掛かりなのは寛政7年の千代池東堤(長さ282㍍)の嵩上げと前付け、さらに南・北堤(合わせて長さ430㍍)の前付け・裏付け(両側面補強)に池底の一部(1700㎡)の掘り下げなどを加えたものです。
 これらの工事に投ぜられた人足数は延べ6699人に達しています。先ほど見た江戸時代前期の改修工事の延べ人足数が600人程度であったのに比べると10倍です。このほかの6件も樋・水門・水路などの従来型補修のほかに、堤の嵩上げ、補強、池底掘り下げなどを含む規模の大きな工事です。それらには計13400人の人足が動員されています。結局、全7件の人足総数は延べ2万人を超えました。

「ため池 å·\事」の画像検索結果
人足は、賦役として動員された「ただ働きの人足」だったのでしょうか?
「萬覚帳」によれば、池普請で働く人足一人には一日あたりし7合5勺の米が扶持として給されています。その総量は150石余(375俵)になります。自普請の場合、この費用は名目上は、村が負担しましたが、実は村の納める付加税の四分米(石高の四パーセント)がこれにあてられました。葛原村にとって、それは一年につき38石=95俵になります。
 これは藩にとり付加税収入の減少を意味します。もちろん池普請は毎年あったわけではありませんが、財政窮迫に悩む多度津藩にとって、決して好ましいことではなかったはずです。 
藩の意向にさからってまで、池普請で村を豊かにしようと努めた小左衛門は新しいタイプの庄屋と言えるのかもしれません。
 
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別の視点から池普請を見てみることにしましょう。

 労働力市場から見ると人口800人ばかりの村にとって、農閑期の三、四か月間に参加すれば一人当り米七合五勺を支給される冬場の池普請は、貧しい水呑百姓や賎民たちには「手間賃かせぎ」の好機として歓迎されたようです。今で云う「雇用機会の創出」を図ったことになります。ピラミッドもアテネのパルテノン宮殿も、大阪城も、「貧困層への雇用機会の創出という社会政策面」を持っていたことを、近年の歴史学は明らかにしています。そして、これをやった指導者は民衆の人気を得ることできました。
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こうして、千代池は川下の堤防だけだったのが、周囲全体に堤防が回る現在の姿に近づきました。近年には散策路や東屋も作られ、散歩やジョッキングする人たちの姿を見かけるようになりました。

多度津の豪農木谷家 なぜ安芸から讃岐に移住したのか?

前に書いた「丸亀平野 消えた四条川 作られた金倉川」
で、丸亀市史を参考にしながら次のようなことを書きました。
1 金倉川は満濃池再築以前に、水路網整備のために新たに作られた「人工河川」であること。つまり17世紀半ばの近世に河道が付け替えられ金倉川が生まれたこと
2 それ以前には「四条川」が琴平・多度津間は流れており、この旧河道上に明治になって土讃線、四国新道(現R396号)が建設されたこと。
3 旧四条川の金蔵寺付近よりも下流は、旧河道域を利用して、千代池などのため池群が築造され、水田化も進められたこと
4 旧四条川の地下水脈はいまも、豊富な湧き水をもたらしていること。その典型が、金陵の多度津工場で豊富な伏流水を利用して酒造りが行われていること
これらを書きながら思い出したのが「讃岐の一豪農の三百年・木谷家と村・藩・国の歴史」という本です。
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この本は、戦国末期に安芸・芸予の武士集団・木谷一族が仕えていた毛利・小早川・村上などの諸大名が衰退していく時代の流れのなかで、海を越えた讃岐の多度津・葛原村に新天地を求め、ここで帰農し、庄屋化していくプロセスを追った労作です。小さな本ですが読みごたえがありました。
 それもそのはず、作者は名古屋大学教授の木谷勤氏です。ちなみに彼の専攻は、ドイツ近代史です。そして彼は木谷家の末裔です。讃岐の一豪農の歴史を専門外の大学教授が書いているのです。これだけでも異色です。

今回見ていきたいのは、次の三点です

1どうして、安芸の木谷一族が讃岐の多度津を「移住」先として選んだのか
2帰農定住した多度津・葛原村ですぐに庄屋に成長していった背景は何なのか
3旧四条川の河道変更と、その後の千代池の築造・水田開発のリーダーとして、「移住」してきた木谷家が活躍したのではないか

この本に導かれながら見ていきましょう

1どうして木谷一族が多度津を「移住」先として選んだのか?

 まず、移住以前の木谷家について見ておきましょう。
戦国時代には、安芸や芸予の島にはいくつもの木谷家があり、グループを形成していたようです。それを作者は3つに分類します。
(1)竹原・小早川家の重臣を出した木谷氏主流
(2)村上水軍に属した木谷氏の支流ないし傍流
(3)十三世紀の後藤実基からでた最も旧い木谷氏
多度津にやってきた2つの木谷家のルーツは(1)の主流ではなく、(2)の村上水軍に属した芸予諸島の木谷氏である可能性が一番高いとします。その理由は、当時の政治情勢です。
 木谷家の「讃岐移住」は天正十五年の「刀狩り・海賊禁止令」前後とされます。この時期、小早川家はまだ安泰で、安芸の主流木谷一門に郷土を捨てる動機はなく(1)の可能性は低いのです。これに対し、毛利についた村上武吉のように能島・因島村上側の人々は、秀吉の天下統一が着々と進むなか、その圧力をひしひしと感じ、海賊禁止令のような取締りが強まるのを恐れ、将来への不安が高まったでしょう。特に能島を拠点にする村上武吉の配下では、ことさらだったでしょう。彼らが、山が迫る安芸沿岸や狭い芸予の島々をいち早く見限り、海に近く野も広い西讃岐・葛原村に新天地を求める決断をしても、決して不自然でないと作者は考えているようです。

それでは、なぜ多度津を選んだのでしょうか?

木谷家は、なんらかの関わりが西讃地方にあったのではないでしょうか?毛利側の史料『萩藩閥閲録』には、次のような記録があります。
天正五年(一五七七)、讃岐の香川氏(天霧山城主?)が阿波三好に攻められ頼ってきた。これに対して毛利方は、讃岐に兵を送り軍事衝突となった。これを多度郡元吉城の戦い(元吉合戦)とする。元吉城は善通寺市と琴平町の境、如意山にあったとされ、同年七月讃岐に多度津堀江口(葛原村の北隣)から上陸した毛利勢の主力が、翌月この城に拠って三 好方の讃岐勢と向き合った。毛利方は小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくり、元吉城麓の戦いで大勝をおさめた。毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた。
 ちなみに元吉城とされる櫛梨山からは山城調査の結果、大規模な中世城郭跡が現れ、これが事実であることが分かってきました。『香川県史・2』はじめ大方の歴史書もこの時期の毛利の讃岐侵攻を「元吉合戦」とするようになりました。

この記述だけでは分かりにくいので当時の情勢を補足します

信長の石山本願寺攻略が佳境に入った頃のことです。この合戦で毛利側が目指したのは、前年に石山本願寺へ兵糧搬人で手にいれたかに見えた瀬戸内東部の制海権が、翌年には信長方の「鉄の船」の出現と反撃で危うくなったのです。これを挽回するため、毛利は海上交通の要である讃岐や塩飽に勢力をのばし、一向門徒の信長への抵抗を「後方支援」しようとしたようです。  
 注目したいのは、『萩藩閥閲録』の最後の部分に
「毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた」
とあります。一部残された残存兵力の中に木谷家の一族がいたのではないでしょうか。あくまで私の想像(妄想)です・・・。

 船乗りにとって海は隔てる者ではなく、結びつけるもの

 秀吉進出以前の小早川・村上水軍は、芸予諸島と塩飽に囲まれた瀬戸内海域を支配し、各所に「海関」を設け、内海を通る船から通行料や警固料を徴収するだけでなく、自らも輸送・通商にたずさわっていました。
 海上の交通は比較的便利で安芸東部と西讃は
「海上一〇里にすぎず、ことあるときは一日の内に通ず
(南海通記)という意識があったようです。いまでも、晴れた日には庄内半島の紫雲出山の向こうに福山方面が見えます。
 その一例として、15世紀半ば京都の東寺は伊予の守護に、弓削島の製塩荘園が押領されたことを訴えています。訴えられているのが安芸小泉氏、能島村上、そして讃岐白方・山地氏の三海賊衆です。(「東寺百合文書」『愛媛県史』資料編古代・中世)。
 白方は弘田川の河口で、古代以来の多度郡の湊があったと目されるところです。山地氏はこの白方を拠点に、天霧山に城を築き、多度津本台山(現、桃陵公園)に館をおく守護代香川氏の水軍として、戦国末期まで活躍します。同時に、能島の村上武吉などとも連携していたことが分かります。このように当時の瀬戸内海では能島・来島・因島の三村上からなる村上水軍を中心に、さまざまな地域土豪の海賊衆が競い合っていたようす。彼らの間には対立と同時につながりや往来が生まれていたのです。
戦国末期に両岸の往来は、江戸時代よりも活発で、西讃沿岸は対岸の安芸の海賊衆にすでになじみの土地だったのかもしれません。それが江戸時代になり、幕藩体制が強化されていくと海を越え藩を超えた自由な往来も難しくなっていたようです。
 ちなみに、信長・秀吉・家康についた塩飽は「人名」として「特権」を与えられ、北前船の拠点として繁栄の道を進むことになります。敗者となった毛利側についた村上水軍の武将達は、散りじりになりました。その後に待ち受ける運命は過酷であったようです。その中に、木谷家のようにふるさとを捨て、新天地を目指す者も現れたのです。
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 木谷一族が葛原村で庄屋に成長していった背景は何か?

 生口島や因島など芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに連携していた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに、あるいは別々に讃岐・葛原村に移住したのでしょう。そして、北條木谷家が村の中心部に住みつき、別の木谷氏は村のはずれの小字下所前に居を構えます。 一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で、多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する混乱の中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら、豪族あるいは豪農として一般農民の上に立つ地位を急速に築いきます。

特に目覚ましかったのは中心部に住み着いた北條木谷家です、

年表にすると
1611年 村方文書に葛原村庄屋として九郎左衛門(22代)の名があります。
1628年 廃池になっていた満濃池(まんのう町)の改修に着手
1631年 満濃池の改修が完了
1670年 村の八幡宮本殿が建立、その棟札に施主・木屋弥三兵衛(木谷八十兵衛、二十四代)の名が記されています。
そして以後、村人から「大屋」とあがめられた北條木谷家は、明和五年(1768)まで百数十年にわたり、世襲の庄屋役をつとめることになります。

その原動力の一つが「旧四条川河道総合開発計画」ではなかったのかというのが私の「仮説」です
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『新編丸亀市史』は、満濃池の再築の寛永三年(1628)から同五年の間に、事前工事として治水工事として旧四条川の流れを金倉川の流れに一本にする付け替え改修を行ったとします。その後に行われた一連の開発を「旧四条川河道総合開発」と呼ぶことにします。まず、旧流路跡は水田開発が行われます。水田が増えると水不足になるので、廃川のくぼ地を利用して千代池や香田池(買田池)などのため池群が旧河道沿い築造されます。ちなみに買田池は寛文二年(一六六二)築造で、その他の池も、河道変更後の築造です。これらの治水灌漑事業にパイオニアリーダーとして活躍した人たちの中に、木谷家の先祖もいたのではないでしょうか。

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 そして、1670年の八幡本宮建立は「旧四条川総合開発計画」の成就モニュメントとして計画されたのではないでしょうか。残念ながら、この仮説(妄想?)を裏付けるような資料は、私の手元にはありません。今回は、ここまでです。おつきあいありがとうございました。

虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか?

麻生祇 燐 の オカルトコレクション: 虚空蔵求聞持法
空海が出家するきっかけとなった虚空蔵求聞持法の継承ラインが
「道慈→善儀→勤操→空海→勤操
であるという大和岩雄「秦氏の研究」を前回は見てきました。
虚空蔵求聞持法とは一体何なのでしょうか? 素人ながらその闇の中に分け入って「迷子」になってみようと思います。

まずは、虚空蔵求聞持法をインドから請来した善無畏三蔵

善無畏三蔵図 - 埼玉県飯能市 真言宗智山派 円泉寺
(インド名、シュバカラシンバ)について見てみましょう。
『宋高僧伝(巻二)』によれば、
三蔵はインドですでに虚空蔵求聞持法など密教の奥義を極めており、中インドに大旱のあったとき、請われて祈雨によって雨をふらせています。また、金を鍛えて貝葉のようにして大般若経を書写し、銀を型に入れて鎔して卒塔婆を仏身と同じ量に作り、寺で銅を鋳て塔を建てた、
とあります。
  「祈雨によって雨をふらせ」という雨乞い祈雨は、後の空海にもつながっていくものです。 「銀を型に入れて鎔して」からは、冶金・鍛冶術を身につけていたことが分かります。   

虚空蔵求聞持法には具体的に、次のような「技術」が書かれています。

「牛蘇一両を取りて執銅の器の中に盛り貯え、並に乳ある樹葉七枚及び枝一条を取りて壇の辺に軋どけ、華香等の物、常の数に加えて倍せよ。供養の法は前に同じ。供養し我ごて前の樹葉を取り、重ねて壇の中に布の上に置いた葉の上に於て酪器を安置せよ。手印を作りて陀羅尼三遍を誦して此の酪を護持せよ。また樹の枝を以て酪をまぜて其の手を停むる刎れ。目に日月を観ご兼ねてはまた酪を看よ。陀羅尼を誦して遍数を限ることなし。初めて蝕するより後に退して未だ円たざる已来に、其の酪に即ち三種の相現ずることあらん。一には気、二には煙、三にはに喰り。此の下中上の三品の相の中に、隨いて一種を得ば、法即ち成就す。この相を得已りぬれば便ち神薬と成る。
酪は蘇とも書き、牛または羊の乳を煮つめて作ったもので、牛酪は一斗の牛乳で一升できるといいます。この求聞持法の工程は、漆塗りの工程に似たところがあるようです。 

前回も記したように、虚空蔵求聞持法をはじめて列島に伝来したと伝えられる道慈は、

渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身で、大和郡山市額田部寺町にある額安寺は額田氏の氏寺です。この寺は道慈が自ら彫刻した虚空蔵仏を本尊とします。求聞持法の「神薬」製法には、額田氏のもつある技術と重なるものがあったといいます。それが道慈が虚空蔵求聞持法に興味をもった理由かもしれません。それは何でしょうか?

 虚空蔵求聞持法の伝授は、経文に書かれていることだけなら経文を読めばいいのですが、経文に秘められた奥義は、師からの口承による伝授でした。

 道慈の一族は、鍛冶・鋳物集団の「工巧」で、その職業的な原点が師のインド僧善無量から求聞持法を学んだ動機だったとも考えられます。
 とすれば、豊前「秦王国」の秦氏系辛島勝の本拠地に建てられた九州最古の寺が虚空蔵寺であることと、香春岳の銅や八幡信仰の鍛冶翁伝承は、無関係とはいえません。虚空蔵信仰は、鍛冶鋳造にかかわる人と結びつく要素が強かったようです。 

宇佐八幡の神宮寺であった虚空蔵寺の座主は、弥勒寺の座主になった法蓮です。

法蓮は、医術に長じていて虚空蔵求聞持法の「神薬」製法をマスターしていたようです。この「神薬」の効用を虚空蔵求聞持法は、
「若し此の薬を食すれば即ち聞持を獲て、一たび耳目に経るるに文義倶に解す。之を心に記して永く遺忘することなし。」
と記し、知恵増進は、記憶力の増進・強化で、更に
「諸余の福利は無量無辺なり」と、福徳を述べ「始めてより却退し円満するに至るまでの已来に、三相若し無くんば法成就せず。徹更に初めより猷め而も作すべし」
と記します。
三相(気・煙・火の三品の相)が成就しなかったら、はじめからやり直せというのです。そして、七遍すれば
「極重の罪障あれども、亦みな鎔滅して法定んで成就す」
と述べ、罪障消滅の功徳も記しています。知恵増進と福徳は「神薬」を飲んだ結果ですが、飲まなくても、この法を「七遍」もくりかえしおこなえば、罪障消滅はできるというのです。
  もちろん、この牛酪の呪法は、その前に陀羅尼を百万辺誦習するという難行が前提です。 
嵐山の法輪寺を開山した空海の弟子道昌が、虚空蔵求聞持法を百ヶ日修したのは、百万辺の誦習のためです。
しかしその後、虚空蔵像を刻んだのは、神薬を作る法の代りでもありました。 

虚空蔵信仰が自力による知恵増進・福徳・災害消除なのに対し、弥勒信仰は弥勒の上生・下生を待つ他力の信仰です。

これをミックスしたのが空海の密教とも言えます。
 空海の最初の著書である『三教指帰』は、仏教を代表する仮名乞児の口を借りて、
「滋悲の聖帝(釈迦)が滅するときに印璽を慈尊に授け、将来、弥勒菩薩が成道すべきことを衆生に知らせた。それゆえ私は、旅仕度をして、昼も夜も都史の宮(兜率天)への道をいそいでいる」
といわせ『性霊集(巻八)』も弥勒の功徳を述べています。
 また、空海が弟子たちに自分の死後のことをさとした『御遺告二十五ヶ条』の第十七条には、
「私は、眼を閉じたのち、かならず兜率天に往生し、弥勒慈尊の御前で待ち、五十六億余年ののちには、かならず慈尊とともに下生して、弥勒に奉仕し、私の旧跡をたずねよう」
とあります。
 平岡定海は、「平安時代における弥勒浄土思想の展開」で、
「秦王国の彦山が、弥勒の浄土の兜率天とみられていたように、空海も高野山を兜率天に往生する山と見立てていた。したがって、後に、高野山は、兜率天の内院に擬せられたり、空海は生身のまま高野山に入定し、弥勒の下生を待っている、という信仰も生まれた」
と記します。

「聖徳太子の太子信仰」が「弘法大師の大師信仰」とスライドしていくのは

その根っこに弥勒信仰があったからのようです。太子・大師・弥勒信仰に秦氏がかかわっていることからして、これらの信仰を流布した秦氏が、タイシとダイシの信仰を習合させたと推察します。
 宮田登は、
聖徳太子を祀るタイシ講は、大工・左官・屋根屋・鍛冶屋・桶屋・樵夫・柚などの職業集団で祀られていることは、よく知られる民俗である。しかし何故、彼らだけが太子を祀るのかというと十分に説明はできていない。大工が古く寺大工から派生したものだとすると、代表的寺院であった法隆寺などの関係からそれが説かれたことも想像されるがはっきりしない。
木樵たちの場合、山の神の子を太子として信仰していたことから太子が聖徳太子と成り得たとするがこれも確証はない。ただ聖徳太子の宗派性を問題とすると、真宗・天台宗がこれに大いに関係してくることは指摘できる」
と書きます。
 タイシ講の職業集団は、秦氏が深く関与している職業です。
法隆寺の聖徳太子の寵臣は、『日本書紀』によれば秦河勝で、真言・天台宗の開祖も秦氏の信仰と結びついていることからみても、キーワードは秦氏であり、秦王国なのかもしれません。
 特に、太子信仰は虚空蔵信仰と同じ職人の信仰です。もともとは虚空蔵菩薩は、もともとは鉱山関係者の信仰する仏だったようです。そして太子信仰も、鉱山関係の人々の間に多いようです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵
 これらの源流は、がっての秦王国にあったもので、秦王国の豊国奇巫・豊国法師の伝統を受け継いだものであり、秦王国の信仰が、空海に継承されたともいえます。

大和岩雄は「秦氏の研究」で
「この法を弥勒信仰と結びつけて勤操が説いたのを、十八歳の空海が聞いて、出家の決意をしたのだろう。」
と推察します。
 やはり危惧していたように虚空蔵求聞持法をめぐる迷路の中で、迷子になったようです。
しかし、秦氏 秦王国 職能集団 弥勒仏 虚空蔵求聞持法のつながりがかすかに見えてきたように思えます。

空海に虚空蔵求聞持法を伝えたのはだれか?

虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...
空海の若い時代については分からないことが多いのですが、「大学」をドロップアウトして沙門として山岳修行に入っていくのも一つの謎です。真魚(空海)は、「大学」で学ぶために長岡京に出て、そこで「一沙門=僧侶」に出会い虚空蔵求聞持法を学んだと云われます。空海が虚空蔵求聞持法を学んだ師である「一沙門」とは誰なのでしょうか?

これについては2つの考え方があるようです。

『続日本後紀』や『三教指帰』などには「一沙門」としか書かれていないので具体的な人名は分からないというのが「定説」のようです。

虚空蔵求聞持法
これに対して具体的な空海の師の名前を挙げる研究者もいます。

例えば平野邦雄氏は、次のように云います
「勤操を師としたという『御遺告』の説は『続日本後紀』や『三教指帰』などには、一沙門としかないので、信用できないという人もいるが、道慈-勤操-空海という師承関係はみとめてよいのではないかと思う」
空海の師とされる「道慈-勤操」とは、何者なのでしょうか?
大岩岩雄は大著「秦氏の研究」で、渡来系秦氏の果たした役割を体系的に明らかにして行く中で、空海と秦氏の関係にも光を当ていきます。空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかを見ていくことにしましょう。 

まず虚空蔵求聞持法が、いつだれによって伝来したかです。

それが道慈だとされます。彼は大宝二年(七〇二)に入唐し、養老二年(七一八)に帰国しています。入唐中にインドの僧善無量三蔵から虚空蔵求聞持法を伝授されます。道慈は渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身です。大和郡山市額田部寺町にある額田寺は、額田氏の氏寺で境内から飛鳥時代の古瓦が出土しています。この寺には道慈が自ら彫刻して本尊にしたとされる奈良時代の乾漆虚空蔵菩薩半珈像(重要文化財)あります。
日本最古の虚空蔵菩薩像のお寺『額安寺』@大和郡山市 (by 奈良に住ん ...
 
この寺に伝わる鎌倉時代の「大塔供養願文」にも、道慈が帰国後に虚空蔵菩薩を本尊にして、額田寺を額安寺に改めたとあります。寺宝の道慈律師画像には「額安寺住職一世」と書かれています。虚空蔵菩薩像を本尊にすることによって、額田寺は額田氏の氏寺から脱皮し、寺号も額安寺となります。 

 道慈については

『続日本紀』の天平十六年十月二日条に、彼が「大安寺を平城に遷し造る」と書き、『懐風藻』の道慈伝も「京師に出で大安寺を造る」とあるように、大安寺を平城京に移築した僧でもあり、山岳密教的傾向が強かった僧侶です。
 南都七大寺 大安寺 | そうだった、京都に行こう(京都写真集)

 山城の秦氏の山岳信仰の山に愛宕権現を祀って、秦氏の愛宕山信仰を発展させたのも大安寺の僧です。
虚空蔵菩薩信仰の成立については、次のような説もあります。


また、貞観二年(八六〇)に宇佐八幡神の分霊を、山城の石清水に遷座したのも、大安寺の山岳密教系の僧です。このように、道慈の虚空蔵求聞持法と道慈が平城京に建てた大安寺は、秦氏と深くかかわっていたようです。道慈は、天平十六年(七四四)に亡くなっています。

勤操は、天平勝宝六年(七五四)に生まれていますから、

この二人の間に直接の師弟関係はありません。二人の間を結ぶのは、道慈・勤操と同じ大安寺の僧、善議(七二九~八二一)です。善議は道慈と一緒に入唐しています。この善議から勤操は、虚空蔵求聞持法を学んでいるようです。
 先ほど紹介した奈良時代に作られた額安寺の虚空蔵像の『造像銘記』には
「この虚空蔵菩薩像は、道慈が本尊としていたもので、入唐求法のとき、善無畏三蔵から虚空蔵求聞持法が伝えられ、帰国後に求聞持法を善議に授け、それは、護命ー勤操ー弘法大師によって流通された」
と記してあり、善議と勤操の間に護命が入っていることを記しています。
 護命は天平勝宝二年(七五〇)生まれで、勤操より四歳年上で虚空蔵求聞持法を、吉野の比蘇寺で学んでいます。
 『今昔物語』巻十一の九の弘法大師の話には、
十八歳のとき大安寺の勤操僧正に会って、虚空蔵求聞持法を学び、延暦十二年に勤操僧正によって和泉国横尾山寺で受戒し、出家した
と書かれています。
南都大安寺 - 勤操忌 勤操忌厳修しました。 勤操大徳は大安寺初代別当 ...

これに対しては、先ほど述べたように『三教指帰』に「一沙門」とあるので、勤操から空海が虚空蔵求聞持法を学んだという文献を認めない人が多いようです。私が今までに読んだ文献も、この立場にたつ書物が多かったように思います。この立場の人たちは、空海の受戒が槇尾山寺で勤操によつておこなわれたという文献も認めません。空海の受戒や師については「ダーク」なままにしておこうとする雰囲気があるように私には思えます。
 仁王門 - 和泉市、槇尾山施福寺の写真 - トリップアドバイザー

空海は唐から帰国後一年か二年余、九州にいて高尾山寺に入るまで槇尾山寺にいました。

唐に渡る以前に空海がこの寺で受戒を受けたという伝承を頭に入れると、この事情はすんなりと理解できます。この辺りの「状況証拠」を積み上げて「勤操は空海の師」説を大和岩雄氏は補強していきます。そして次のように続けます。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」
「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」
 空海が帰国後、槙尾山寺-高尾山寺にいるのは、秦氏出身の勤操の存在が大きいと指摘します。 

空海から虚空蔵求聞持法を伝授されたのが讃岐の秦氏出身の道昌です。
法輪寺道昌遺業 大堰阯」の石碑(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 ...

彼は、天長五年(八二八)に神護寺(高尾山寺)で、空海によって両部濯頂を受け、その8年後には、太秦の広隆寺の別当となり、後には「広隆寺中興の祖」と呼ばれるようになります。広隆寺は山城秦氏の氏寺で、新羅から送られたといわれる国宝第一号の弥勒菩薩で有名です。また、道昌は秦氏が祀る松尾大社のある松尾山北麓の法輪寺の開
山祖師
でもあります。

道昌が葛井寺を修営し規模を拡張し、寺号を法輪寺に改めました。『源平盛衰記』著四十の伝承では、この寺は天平年中(七二九~七四九)に建立後、約百年後に道昌が、師空海の教示によりここで、百か日の虚空蔵法を行い、五月に生身の虚空蔵菩薩を体感し、一本木で虚空蔵菩薩を安置し、法号を法輪寺として、神護寺で空海自らこの像を供養したといいます。そして、一重宝塔を建て虚空蔵菩隣像を安置し、春秋2期、法会を設けて、虚空蔵十輪経を転読したとあります。
 道昌は参寵の前年に、空海から両部濯頂を受けていますが、この時に虚空蔵求聞持法を伝授され、百ヶ日の修行に入ったようです。大和の斑鳩の法輪寺には、かつて金堂に安置されていた飛鳥時代の虚空蔵菩薩立像(国宝)があります。この寺は聖徳太子の追善のため建てられた寺で「虚空蔵菩薩像のある寺=法輪寺」から、葛井寺も法輪寺に改めたようです。

以上のように虚空蔵求聞持法の継承ラインは、道慈→善儀→勤操→空海→道昌と続きます。その特徴としては

①すべて大安寺の僧であること、
②そのトップである大安寺の道慈が密教的傾向が強く、その系譜が受け継がれていること
③同時に渡来系秦氏がおおきな役割を果たしていること
最後に虚空蔵菩薩信仰の成立については、渡来集団の秦氏の星座信仰(妙見信仰)が基礎になって成立したという次のような説もあります。
秦氏の妙見信仰・虚空蔵

この方が私にはすんなりと受け止められます。

 どちらにしても若き空海がエリートコースである「大学」をドロップアウトしたのは、虚空蔵求聞持法との出会いでした。それを介した人物がいたはずです。それが誰だったのか。また、その人達の属する集団はどうであったのかを知る上で、この本は私にとっては非常に参考になりました。
虚空蔵求聞持法 - 破戒僧クライマーの山歩録
参考文献 大和岩雄「秦氏の研究」大和書房

岸の上遺跡 那珂郡条里制

丸亀平野を南北に流れる金倉川については「近世に作られた人工河川」説が出されています。何を根拠として人工的に付け替えられたというのでしょうか。
また何を目的に、いつ、だれによって工事が行われたのでしょうか。いろいろな角度から検討してみましょう。

丸亀平野北部 条里制

金倉川=人工河川説の「状況証拠」として、丸亀市史1(383P~)は次のような点を挙げています。

①全体に河床が高く、天井川であるから、東西からほとんど支流が流れ込まない。
②竜川橋・五条橋付近では、川床から粘土が出ている。
発掘調査の時、金倉川左岸堤防の近くまで発掘したが上層は厚い粘土層であった。このことは少なくとも往古からの自然河川ではないという証明である。
③中津町の金倉川左岸堤防工事の時に、川底より砂岩の五輪塔二基と楠三本が出土した。川底がかつては平地であったということを物語っている
④金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川では、境界となることが多い。
⑤河口に形成された州が、旧金倉川のそれに比べて極端に小さい。万象園付近一帯だけである。川の歴史の浅いことを示している。
⑥金倉川沿いには、遺跡らしいものが存在しない。近世になって新しく作られた河川であるため、周辺部に遺跡がない
⑦川床幅が小さい。
以上のような状況証拠の積み重ねで「人工河川」説を補強します。

それでは、金倉川はどの位置で付け替えられたのでしょうか?

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

  その位置を丸亀市史はまんのう町吉野の①吉井橋(パン屋さんのカレンズ周辺)とします。満濃池の谷から流れ出し、北上していた流れを、ここで西流させ現在の金倉川の流れに改変したとします。ここは現在でも「水戸(みと)」と呼ばれています。

DSC04906
まんのう町吉野の「水戸」の現在の姿
満濃池水戸(みと)

改変される前の流れは、どう流れていたのでしょうか?
「丸亀市史」は改変前の北上する流れは、満濃町役場前から四条・天皇を経て高篠大分木に至り、ここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、象郷小学校から上櫛梨の木の井橋の南へと流れていたと記します。そして、この川を「四条川」と呼びます。
金倉川 国土地理院

   本当に四条川はあったのでしょうか?
『全讃史』に、四条川のことが次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す、
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
と記述されています。四条川は確かに実在したようです。しかし、流路はなかなか想像しずらいものがあります。
さらに四条川実在の論拠として、以下のような点を挙げます。
①この付近の「四条川跡」には多くの湧井が存在すること。
②善通寺大麻町の香川西部ヤクルト販売株式会社の東北に、琴平町内を北流してきた川と合流して西北流する四条川の左岸の一部が残っていること。

金倉川1 分岐点

③四条川の水量は多く、治水が容易でなく常に氾濫を繰り返していた。伝承として「明治中期起工の四国新道や讃岐鉄道の軌道敷も、四条川の廃川跡地が利用された。両者とも、用地取得が短期日で終わって工事に着手できたことは、田畑でなかった、当時はまだほとんど荒廃地だったからだ」と伝わっている。
 以上から、四条川の中流域は現JR線路と国道319号になっているようです。

金倉川3 大麻郵便局 

⑤四国横断自動車道建設にともなう発掘調査でも、JR土讃線と国道三一九号線の間では表土直下に河川堆積物の礫混じりの砂層が出てきて、四条川が氾濫を繰り返していたようです。そのため、稲木遺跡以東の、現金倉川に至るまでは、条里制跡が認めらません。これは大麻町以北の四条川右岸から、現金倉川に至るすべての地域も同じです。坂出市の鎌田博物館蔵の近世の絵図でも、磨臼山の北東を「イカノ川原」と表記しています。つまり、四条川の氾濫原で条里制施行外だっと考えられます。

金倉川1 分岐点

四条川の下流域ルートは?

多度津には、金陵多度津工場があります。
ここはかつて、ここを流れていた四条川の豊富な伏流水を使った酒造りが行われています。四条川はここで、流れを大きく東へ向けます。丸亀市民体育館の西方の金倉町上下所の高丸や、新田町の高丸、津森町高丸は、四条川の氾濫による砂傑の堆積地のようです。
 さらに四条川は市民体育館の西で北に流れを変えて先代池を斜め縦断して市道中津・田村線に出ます。先代池や平池は四条川が廃棄された跡の流路を利用して、築造されます。

丸亀の海岸線 旧流域図3
「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」

四条川は田村町番神に向かって流れ、ここから北に流れを変えます。丸亀城西高校の正門前に堀が残りますが、四条川の川跡とされます。そして、津森町内を北流して津森天神社の北東200mの津森町宮浦で海に注いでいました。ここが四条川の河口でした。ここが『万葉集巻二』の柿本人麻呂の詠んだ有名な「玉藻よし讃岐国は国柄か」の枕詞ではじまる長歌の中に出てくる中乃水門とされます。現在の津森町の地名も、ここに設けられた津守に由来します。

田村廃寺周辺地質津

金陵多度津工場から河口まで四条川は、多くの支流を生みだし、旧六郷村域では氾濫常習地帯だったようです。そのため氾濫地帯の大部分は荒廃地として開拓の鍬が入りませんでした。ここが開拓されるのは、四条川が金倉川に一本化された17世紀初冬以後です。

丸亀平野北部 条里制

ちなみに中世に満濃池は、姿を消していました。
大規模な労働力を組織化できた律令時代は、大規模土木工事が可能でした。しかし、権力の分立した中世は多くの労働力を集めることができません。そのため満濃池は、堤防が壊れ放置され、「池の内」村が「開拓」されていました。このため「満濃池の治水」能力がなくなり、下流域では洪水が常習化し、河口の堆積作用も大きかったようです。こうして四条川河口には潟湖が形成され、多度郡の湊として機能するようになります。その海運センターの役割をしたのが道隆寺だったようです。
道隆寺の果たした役割については、以前に紹介しました。https://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/48396077.html

丸亀平野の扇状地

大麻町以北の四条川の廃川後の開拓地を列記すると、
 
右岸(東側)では、
善通寺市大麻町本村の東北部・中土居・砂古東・生野町南原・原・遊塚の東部・上吉田町上原・寝馬・稲木町川原・下川原・金蔵寺町下所・六条
左岸(西側)では、
丸亀市原田町三分一下川・金倉町上新田・池の下・下新田・朧朧新田・新田町橋本・長池・今津町皿池・中原・津森町上拾丁分・下拾丁分・位
などです。
 また、先ほど見た先代池のように四条川に水が流れなくなった跡に、その流路を利用して、ため池が数多く築造されていきます。
金倉町に辺池・新池・平池・先代池・瓢池・天満池などです。
多度津町では、千代池・買田池・上池が、これにあたります。

平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

四条川の付け替え工事は、いつ、だれによって行われたのか
丸亀市史は「西島八兵衛由緒書控」中の次の記述に注目します。
精を出し国を被立候へと被仰付寛永二丑ノ春讃岐へ被遣候、(中略)中年三年罷有仕置仕候国も能成候とて、高虎様御機嫌二被為思召、寛永六年二江戸へ御呼かへし被成(以下略)
西島八兵衛の寛永二年の二度目の来讃は、干ばつで疲弊した讃岐国を立て直すためであったようす。領内を巡視して実情をつぶさに調査して、具体策を練っています。その上で翌年に8月に、まんのう町の有力者である矢原正直を訪ねます。

満濃池 決壊後の満濃池
西嶋八兵衛の築造前の満濃池堰堤周辺の状況図

 これは丸亀平野の治水事業を実行に移すため相談に訪れたものと思われます。そして、満濃池の再築に着手したのが寛永五年十月、二年半を費やして完成したとされます。
満濃池再築に着する前に、事前工事として四条川の流れを廃して、金倉川の流れ一本にする付け替え・改修を行ったと丸亀市史は推定します。
最後に、この工事は何のために行われたのでしょうか。

満濃池水掛村ノ図(1870年)

これについては丸亀市史は、何も語りません。
あえて推察するなら満濃池築造後の水路網の建設と関連するのではないでしょうか。現在の満濃池の水掛かりは、上の絵図のように人間の血管網のように細部まで整備されています。しかし、四条川の複雑な流路や支流があったのでは、満濃池からの水を送るための水路を張り巡らせることは困難だったと思われます。満濃池灌漑ネットワーク整備のために、四条川は金倉川に一本化・直線化され、最短ルートで海に抜けるようにされたのではないでしょうか。

丸亀平野 等高線地図
 地図で、多度津の千代池を見ているとその不思議な形から、川の流路に作られた池だろうなとは思っていました。しかし、それが、いつごろまで流れていた池かは分かりませんでした。丸亀市史を読み直していて改めて、気がついたのです。
丸亀市史に感謝

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