ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュ
ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュでした。
まずは、本堂(現旭社)の再建工事が40年にわたる長き工期を終えて完成を迎えます。
「金堂上梁式の誌」には
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」と書かれています。
ちなみに、式では投げ餅が一日に七五〇〇、投げ銭が一五貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。
今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて建築された仏教寺院の金堂として、建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
清水次郎長の代参をした森の石松が、この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点して不思議でなかったでしょう。
金堂が完成すると境内では、金堂のすぐ前に手水鉢・釣り灯箭・井戸の寄進(弘化二年)、坂の付け替え(嘉永二年)、廻廊の寄進(安政元年)などの整備が進みます。また、町方では、嘉永三年(1850)に銅鳥居から新町口までの間に、江戸火消し四十八組から石灯龍が寄進され「並び燈籠」として丸亀街道沿いに整備されます。
高灯寵の建造
このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金光院に提出されます。
寄付状の事 一 高灯龍 壱基
右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
讃岐寒川住 上野晋四郎 元春(花押)
慶応元年 乙丑九月弐拾三日
これは、子の晋四郎が父・甚左衛門の鎮志願いに発起し、金光院へ寄付を、高灯籠の完成後に願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。次の史料からそれがうかがえます。
高灯籠の事
右 発起人 高松御領寒川郡津田浦上野甚右衛門、同志度浦岡田達蔵、引請人志度浦岡田藤五郎、寄付人寒川郡申一統 嘉永七寅年十月願書を以て申し出、嘉永八卯年則安政二年二成正月十三日願い済み二相成り申し候、安政五午年三月二日ヨリ十月二十三日迄二石台出来、同未年四月十八日ヨリハ月二十九日迄二灯箭成就仕り候事
ここには、高灯寵の建設過程が簡単に記されています。意訳すると
安政元年(1854)10月に上野甚右衛門が総代発起人となって高灯寵建築の願書を差し出し、翌安政二年に許可になった。翌年の三年には、さっそく地堅めのための相撲を挙行し、四年の二月から地築きに取り掛かる。そして、五年に石台が完成し、六年八月には灯龍が完成したのである。
年表にすると
1854嘉永7年建築願書
1857安政4年地築
1858安政5年石台完成
1859安政6年燈寵造立
1860万延元年9月最終完成
こうして出来上がった高灯寵の大きさは次のようになっています。
「石台高さ5間3尺(約10m)、石台下端幅51尺(約5.45m)、石台上端幅28尺(約8.48m)、総高15間」
ところが安政2年に書かれた播磨屋嘉兵衛の見積仕様書によると
「石台高さ二一尺五寸、石台下端幅四一尺、石台上端幅二八尺、総高63尺」で計画されています。つまり、出来上がった実物は1,5倍になっていたのです。そのいきさつは、よく分かりませんが「瀬戸内海を行く船からよく見えるように少し高くした」と地元では言い伝えられています。
この高灯籠建設に関する募金額について「高灯籠入目総目録」と記された史料が残されています。それを見ると「一金三千両内子三拾六両郡中寄附」と書かれており、以下寄付した人名と金額が並んでいる。ちなみに、発起人総代の上野甚左衛門は、四〇〇両という大金を寄付しています。また、「郡中寄附」として1036両もの額が集まっています。名前は記されていませんが募金に応じた人々が数多くいたのです。この募金には前山村・小田村・原村をはじめに、富田・津田・牟礼・大町・鶴羽・是弘・神前・志度・石田といった寒川郡内のすべての村が漏れる事なく網羅されています。その上に、郡内は「萬歳講」、郡外は「千秋講」という当時流行の「講」を組織して集められています。
これだけの募金が集められた経済力の源は何だったのでしょうか?
東讃においては寛政元年(1789)ころより、薩摩に習って砂糖生産が行われるようになります。そして、天保六年(1835)の砂糖為替金趣法の実施などで軌道に乗るようになります。ちなみに、高松藩の甘藷植え付け面積の推移を簡単にみると、
天保五年1210町程度であったものが弘化元年(一八四四) 一七五〇町、嘉永元年(一八四八)二〇四二町、安政三年(一八五六)三二二〇町、安政五年(1858)三七一五町と着実に増加しています。
では、なぜ金毘羅への寄進になったのか。それは、大坂などへ砂糖を運ぶ際の船の安全を祈願することでもあったと言われます。
総工費3,000両のうち1,036両という費用が寒川郡中の砂糖生産を背景として、経済的な成長を遂げた人々の寄付で付で賄われました。ちなみに1835天保6年に建てられた金丸座が1000両、金堂(旭社)が20000両です。
工事を担当したのは、塩飽大工の山下家の末裔である綾豊矩です。彼の父は金毘羅さんの金堂建築に棟梁として腕を振るった名大工でした。その子豊矩が最初に手掛けた大規模建築が高灯籠でした。
上の絵はこんぴら町史の図版編に収められている高灯籠を描いたものです。これを見て、高灯籠とは思えませんでした。それは、周辺の様子が今と全く違うからです。まず、この絵には湖面か入江のように広い水面が描かれていますが、今の金倉川からは想像も付きません。高灯籠の足下近くまで川岸が迫っているように見えます。
この絵からは高灯籠が丸亀街道と金倉川の間に建てられていますが、周囲は河原であったことが分かります。
もう少しワイドに見てみましょう。
日清戦争後の明治28年(1895)の「金刀比羅神山全図」です。
右下から左に伸びているのが丸亀街道、その途中に先ほどみた高灯籠がロケットのように建ち、その境内の前には大きな鳥居と一里松が見えます。もう少し部分的に拡大してみましょう
右手からは煙をはいて讃岐鐡道の豆蒸気機関車が神明町の琴平駅に入ってきています。その手前に平行して走るのが大久保諶之丞によって開かれた四国新道。そして、金倉川が高灯籠の間を流れます。
もちろん、まだ金倉川に大宮橋は架かっていません。
鳥居と大きな木に注目して下さい。
丸亀街道の高灯籠方面を眺めた明治30年ころの写真です。
丸亀街道を南から北に向かって撮影されています。いくつかの気になるものを映り込ませています。まず黒い鳥居。これは天保年間に江戸の鴻池一族により寄進されたものですが、この後の明治36年に崩れ落ちてしまします。その後、修復されて現在は社務所南に建っています。右手には江戸の火消組などから寄進された灯籠が並んでいます。灯籠の前には櫻の苗が植えられています。それが今も春には花を咲かせます。灯籠の向こう側には「一里松」と親しまれた大きな松がまだ建材です。今は、姿を消しました。
1900年前後の高灯籠周辺は空き地
土讃線が財田まで伸びて新琴平駅が開業するのは1923年のことです。その時に駅前から真っ直ぐに高灯籠の前を通って神明町に伸びる道路が作られますが、この写真には、その道路はありません。この時代も高灯籠の周りは空き地です。高灯籠と金倉川の間には木造家屋が建っていますが、約30年後にこの辺りに琴電琴平駅が姿を見せるようになります。その前に、この家屋は洪水で姿を消します。
大正年間に大雨により琴平町内を流れる金倉川は、大洪水となり護岸を崩し、橋を流しました。
その普及後の護岸がこれです。石組み護岸に補強され、ここに線路が敷かれて琴電琴平駅が姿を現すのが1926年のことでした。
参考文献 町史 ことひら