瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

2019年03月

ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュ

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 ペリーが来航した頃の幕末の金毘羅さんは建築ラッシュでした。
まずは、本堂(現旭社)の再建工事が40年にわたる長き工期を終えて完成を迎えます。
「金堂上梁式の誌」には
「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」と書かれています。
ちなみに、式では投げ餅が一日に七五〇〇、投げ銭が一五貫文使われています。そのにぎわいがうかがえます。

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 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて建築された仏教寺院の金堂として、建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。
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清水次郎長の代参をした森の石松が、この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点して不思議でなかったでしょう。
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 金堂が完成すると境内では、金堂のすぐ前に手水鉢・釣り灯箭・井戸の寄進(弘化二年)、坂の付け替え(嘉永二年)、廻廊の寄進(安政元年)などの整備が進みます。また、町方では、嘉永三年(1850)に銅鳥居から新町口までの間に、江戸火消し四十八組から石灯龍が寄進され「並び燈籠」として丸亀街道沿いに整備されます。
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   高灯寵の建造  

 このような中で、明治維新を目の前にした慶応元年(1865)に次のような寄付状が金光院に提出されます。
寄付状の事  一 高灯龍 壱基
 右は親甚左衛門の鎮志願いニ付き発起いたし候処、此の度成就、右灯龍其れ御山え長く寄付仕り者也、依って件の如
      讃岐寒川住  上野晋四郎  元春(花押)
      慶応元年    乙丑九月弐拾三日
 これは、子の晋四郎が父・甚左衛門の鎮志願いに発起し、金光院へ寄付を、高灯籠の完成後に願い出たものです。願主の上野晋四郎は、寒川郡の大庄屋を務めていた人物です。しかし、この寄付は上野晋四郎一人によるものではなく、寒川郡全体の寄付でした。次の史料からそれがうかがえます。 
高灯籠の事
 右 発起人 高松御領寒川郡津田浦上野甚右衛門、同志度浦岡田達蔵、引請人志度浦岡田藤五郎、寄付人寒川郡申一統 嘉永七寅年十月願書を以て申し出、嘉永八卯年則安政二年二成正月十三日願い済み二相成り申し候、安政五午年三月二日ヨリ十月二十三日迄二石台出来、同未年四月十八日ヨリハ月二十九日迄二灯箭成就仕り候事
ここには、高灯寵の建設過程が簡単に記されています。意訳すると
安政元年(1854)10月に上野甚右衛門が総代発起人となって高灯寵建築の願書を差し出し、翌安政二年に許可になった。翌年の三年には、さっそく地堅めのための相撲を挙行し、四年の二月から地築きに取り掛かる。そして、五年に石台が完成し、六年八月には灯龍が完成したのである。
   年表にすると
1854嘉永7年建築願書
1857安政4年地築
1858安政5年石台完成
1859安政6年燈寵造立
1860万延元年9月最終完成
こうして出来上がった高灯寵の大きさは次のようになっています。
「石台高さ5間3尺(約10m)、石台下端幅51尺(約5.45m)、石台上端幅28尺(約8.48m)、総高15間」

ところが安政2年に書かれた播磨屋嘉兵衛の見積仕様書によると
「石台高さ二一尺五寸、石台下端幅四一尺、石台上端幅二八尺、総高63尺」
で計画されています。つまり、出来上がった実物は1,5倍になっていたのです。そのいきさつは、よく分かりませんが「瀬戸内海を行く船からよく見えるように少し高くした」と地元では言い伝えられています。
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 この高灯籠建設に関する募金額について「高灯籠入目総目録」と記された史料が残されています。それを見ると「一金三千両内子三拾六両郡中寄附」と書かれており、以下寄付した人名と金額が並んでいる。ちなみに、発起人総代の上野甚左衛門は、四〇〇両という大金を寄付しています。また、「郡中寄附」として1036両もの額が集まっています。名前は記されていませんが募金に応じた人々が数多くいたのです。この募金には前山村・小田村・原村をはじめに、富田・津田・牟礼・大町・鶴羽・是弘・神前・志度・石田といった寒川郡内のすべての村が漏れる事なく網羅されています。その上に、郡内は「萬歳講」、郡外は「千秋講」という当時流行の「講」を組織して集められています。
これだけの募金が集められた経済力の源は何だったのでしょうか?
 東讃においては寛政元年(1789)ころより、薩摩に習って砂糖生産が行われるようになります。そして、天保六年(1835)の砂糖為替金趣法の実施などで軌道に乗るようになります。ちなみに、高松藩の甘藷植え付け面積の推移を簡単にみると、
天保五年1210町程度であったものが
弘化元年(一八四四) 一七五〇町、
嘉永元年(一八四八)二〇四二町、
安政三年(一八五六)三二二〇町、
安政五年(1858)三七一五町と着実に増加しています。
では、なぜ金毘羅への寄進になったのか。それは、大坂などへ砂糖を運ぶ際の船の安全を祈願することでもあったと言われます。
 
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総工費3,000両のうち1,036両という費用が寒川郡中の砂糖生産を背景として、経済的な成長を遂げた人々の寄付で付で賄われました。ちなみに1835天保6年に建てられた金丸座が1000両、金堂(旭社)が20000両です。

工事を担当したのは、塩飽大工の山下家の末裔である綾豊矩です。彼の父は金毘羅さんの金堂建築に棟梁として腕を振るった名大工でした。その子豊矩が最初に手掛けた大規模建築が高灯籠でした。
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 上の絵はこんぴら町史の図版編に収められている高灯籠を描いたものです。これを見て、高灯籠とは思えませんでした。それは、周辺の様子が今と全く違うからです。まず、この絵には湖面か入江のように広い水面が描かれていますが、今の金倉川からは想像も付きません。高灯籠の足下近くまで川岸が迫っているように見えます。
 この絵からは高灯籠が丸亀街道と金倉川の間に建てられていますが、周囲は河原であったことが分かります。
もう少しワイドに見てみましょう。

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日清戦争後の明治28年(1895)の「金刀比羅神山全図」です。
右下から左に伸びているのが丸亀街道、その途中に先ほどみた高灯籠がロケットのように建ち、その境内の前には大きな鳥居と一里松が見えます。もう少し部分的に拡大してみましょう 
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右手からは煙をはいて讃岐鐡道の豆蒸気機関車が神明町の琴平駅に入ってきています。その手前に平行して走るのが大久保諶之丞によって開かれた四国新道。そして、金倉川が高灯籠の間を流れます。
もちろん、まだ金倉川に大宮橋は架かっていません。
 鳥居と大きな木に注目して下さい。

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丸亀街道の高灯籠方面を眺めた明治30年ころの写真です。

丸亀街道を南から北に向かって撮影されています。いくつかの気になるものを映り込ませています。まず黒い鳥居。これは天保年間に江戸の鴻池一族により寄進されたものですが、この後の明治36年に崩れ落ちてしまします。その後、修復されて現在は社務所南に建っています。右手には江戸の火消組などから寄進された灯籠が並んでいます。灯籠の前には櫻の苗が植えられています。それが今も春には花を咲かせます。灯籠の向こう側には「一里松」と親しまれた大きな松がまだ建材です。今は、姿を消しました。
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1900年前後の高灯籠周辺は空き地

土讃線が財田まで伸びて新琴平駅が開業するのは1923年のことです。その時に駅前から真っ直ぐに高灯籠の前を通って神明町に伸びる道路が作られますが、この写真には、その道路はありません。この時代も高灯籠の周りは空き地です。高灯籠と金倉川の間には木造家屋が建っていますが、約30年後にこの辺りに琴電琴平駅が姿を見せるようになります。その前に、この家屋は洪水で姿を消します。
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大正年間に大雨により琴平町内を流れる金倉川は、大洪水となり護岸を崩し、橋を流しました。
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その普及後の護岸がこれです。石組み護岸に補強され、ここに線路が敷かれて琴電琴平駅が姿を現すのが1926年のことでした。
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参考文献 町史 ことひら 

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琴平に3番目に乗り入れた琴電(コトデン)

第一次大戦後の1920年代に琴平には4つの鉄道が乗り入れていました。今回は3番目に乗り入れてきた琴電(コトデン)について見てみましょう。まずは、いつものように年表チェック
1899                   讃岐鉄道が丸亀ー琴平間で開業
1923  5月21日 琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1923  8月 5日 琴参(コトサン)善通寺-琴平間開通 琴平駅が開業
1929  3月15日 琴電(コトデン)が、琴平町へ乗り入れ開始
1929  4月28日 土讃線 財田-阿波池田間完成。
1930  4月 7日 琴平急行電鉄(コトキュウ)坂出 - 電鉄琴平間を開業
1935 11月28日 土讃線が小歩危でつながり、高松・高知間が全通。
1944  1月    琴平急行が不要不急線として営業休止。
宇高連絡船の就航が、琴電誕生のきっかけに 
 明治末に高松と岡山県の宇野港を結ぶ宇高航路が開設されると、高松は四国の玄関口として、人が集まるようになります。それまでの大阪から丸亀や多度津の港に上陸して金比羅さんを目指すという流れから、大阪から鉄道で岡山を経由して宇高連絡線で四国の玄関口高松へ入るという流れが主流になります。それが、高松から門前町琴平を直接結ぶ鉄道建設の気運につながります。
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1920年代の高松港と連絡船
地元主導による会社設立
 大正9年(1920)に県内の有力者大西虎之介や、四国水力発電の社長景山甚右衛門らが中心となって電気鉄道の免許を得ます。しかし、その後の戦後恐慌や関東大震災による経済の混乱で資本が集まりません。実際に会社を設立したのは大正13年(1924)7月になってからでした。当時の『香川新報』は
「資本金五百萬円の琴高電鉄具体化す。其の内四百萬円は発起人が引き受け(後略)」
と長らく棚上げとなっていた琴高電鉄(後の琴電)の着工の目処が着いたことを報じています。設立時の発起人を見てみると、
大西虎之介・景山甚右衛門・鎌田勝太郎らが名前を通ね、創立準備委員も大西虎之介、井上耕作、蓮井藤吉、細渓宗一、細渓宗次郎、加藤謙吉、鎌田勝太郎、景山甚右衛門、竹内秀輔、武田謙、中村実、中村新太郎、中村健一、熊田長造、福沢桃介、合田房太郎、安達賢、寒川桓貞、木村淳、三輪繁太郎、瀬尾等、広瀬小三郎
であり、地元主導がうかがえます。そして、資本金500万円の内の8割に当たる400万円をこの発起人が出資することになります。先行する3つの電車会社と、資本力が違うし経営も安定します。
 この設立発起人の中に福沢桃介の名前が見えます。彼は福沢諭吉の娘婿で「多度津の七福人」の総帥・景山甚右衛門が四国水力電気の再スタートの際に「三顧の礼」をとって形だけではあるが社長として迎え入れた経緯があります。ここでも「名前を貸した」程度で、その他の人たちは地元の有力者です。この辺りが「外部資本」が中心となった琴参(コトサン)との違うところでしょうか。
「讃岐の阪急電鉄」をめざした琴電
 琴平電鉄は、先行する高松電気軌道、東讃電気軌道が軌道線であったのに対して、当初から本格的な高速電気鉄道として着工されます。
 先行する讃岐の3つの電気軌道電車と比べると、設備が一つ上のランクで立派な設備をもち「讃岐の阪急」といわれたようです。
 例えば、軌間は広軌(1435mm)を採用し、架線電圧は当時の地方鉄道としては珍しく1500Vを採用しています。架線柱はボオル結構式四角鉄柱が採用され、銀色に輝く架線柱の連なる様子は人目を惹きました。畑田変電所には1500V用としては、我が国初のドイツ・シーメンス社製の600kW水銀整流器が2台設置されました。鉄橋は日本橋梁製のプレートガーダー橋、各駅のプラットホームはコンクリート造でした。
 各駅の建築に際しては、社長の大西虎之助が自分の目で阪急、南海、阪神を視察しています。そして、栗林公園駅は南海の羽衣駅、挿頭丘駅は阪急の仁川駅を参考にして、当時としては讃岐では今まで見たことのないような都会的なセンスの駅舎が姿を現します。
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「乗降客で賑わう滝宮駅」ではありません。「電車見物」で賑わっているようです。

 車両は全て新品で、汽車製造会社製の1000形及び日本車輛製の3000形を各5両、さらに、昭和3年(1928)には加藤車輛製の5000形を購入しています。当時としては最新鋭の半鋼製ボギー車で、機器類も制御器、パンタグラフは米国・ウエスチングハウス社、ブレーキはスイス・クノール社、モーターはドイツ・アルゲマイネ社製というように舶来品を多数装備しています。当時の地方私鉄電車としては、ランクが相当高い車両で、乗客が履物を脱いで乗車したという話もも残っています。そして、高松~琴平間を当時の省線(国鉄)よりも40分も短い1時間前後で走り「高速鉄道」「立派な設備」というイメージを利用者に植え付けるのに貢献しました。琴平電鉄は「讃岐の阪急」をめざしたのです。
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 琴平に伸びてきた琴電の線路は、6年前に南に延びた省線(鉄道省の鉄道=国鉄)の土讃線と終着駅手間でクロスします。このために、土讃線は金倉川から新琴平駅までは高く土盛りされ土讃線の下を琴電が通るように事前に設計されていたようです。
琴電の開通
大正15年(1926)12月21日に栗林公園~滝宮間が開業
昭和 2年(1927)3月15日には滝宮~琴平間、
        4月22日には栗林公園~高松間が開業
琴平全線(31㎞)が開通します。
駅は高松、栗林公園、太田、仏生山、一宮、円座、岡本、挿頭丘、畑田、陶、滝宮、羽床、栗熊、岡田、羽間、榎井、琴平の17ヵ所。全区間の運賃は65銭でした。

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 琴電琴平駅

 「コトデン」が、琴平町へ乗り入れたのは昭和2年(1927)3月15日の春の日でした。沿線の駅舎は、阪急などの駅舎を参考にしたと前述しましたが、終着駅の琴平駅だけは別格でした。この駅だけは、地元の高松工芸高校建築科の建築家に、門前町にふさわしい駅舎を依頼しました。それが、金倉川と高灯籠の間のスペースに姿を見せたのです。この地は、金倉川の洪水で護岸が流された所を整備して確保した所です。
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この写真は、修学旅行で琴平に宿泊した小学生達を宿の主人が琴電琴平駅のホームまで見送りに来ているシーンだそうです。壺井栄の「二十四の瞳」の中にも、遠足で小豆島の子ども達が金比羅宮に参拝するシーンがあったような記憶があります(?)
多角化経営を目指す琴電の手法は?
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しかし、琴電の経営は厳しかったようです。沿線は内陸部の田園地帯で人口が少なかったことや、昭和初期の金融恐慌なども重なり、開業後は業績不調が続きます。このため会社は沿線の祭事等の開催に合わせて運賃割引を行ったり、女給仕が生ビールや洋食を販売する納涼電車を走らせたり、挿頭丘と滝宮に開設した納涼余興場を売り出し、乗客を増やそうとあの手この手の営業活動を行います。

また、阪急の商売に習って、岡本駅の隣に遊園地を作ったり、郊外駅周辺での住宅団地の造成など沿線開発にも取り組みました。
 また琴平電鉄は、電力会社として配電事業の認可を受けており、沿線周辺への電力供給を行えました。そのため、鉄道沿線に沿って事業を営んでいた岡田電燈株式会社を買収し、会社収益の大きな支えとします。
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戦時下に、電車会社3社を統合し、高松琴電気鉄道が誕生

 日中戦争が勃発し、戦時体制が色濃くなった昭和13年(1938)8月、鉄道・バス会社の整理統合をはかるため陸上交通事業調整法が成立します。金刀比羅宮の門前町琴平は、4つの鉄道が集中し鉄道過密状にあったため「交通事業調整委員会」での審議の結果、この法律の適用地域に指定されます。
 その結果、政策的に鉄道会社の統合が促進されます。
まず、配電統制令によって鉄道に先行して各社の電力部門が統合され、四国配電株式会社(後の四国電力)が発足し、各社はやむなくドル箱だった電力事業を失います。電力事業を分離した四国水力は解散し、鉄道部門はバス会社と統合し讃岐電鉄となります。
 昭和18年(1943)11月1日に琴平電鉄、高松電気軌道、讃岐電鉄の3社は統合し、高松琴電気鉄道が誕生します。社長には琴平電鉄の社長であった大西虎之介が就任しました。
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高松空襲と琴電
 昭和20年(1945)7月4日未明、高松空襲により高松市内線全線と、市外線の栗林公園前~瓦町間は壊滅的な被害を受けます。琴平線の車両は避難して無事でしたが、長尾・志度線の車両は20形、30形、50形、散水車100形など6両が全焼します。本社の社屋は焼失を免れますが、琴電高松(瓦町)駅舎が半壊、今橋駅舎、出晴駅舎は全焼し、今橋の変電所と車庫も焼夷弾で被災します。
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10角形という珍しい形だった河原町駅の空襲後の姿 この後、蘇り駅舎として使用 

色々な会社の電車が琴電にやって来るようになった背景は?

 終戦後、復興の動きが増すにつれ電車の利用者は急激に増加します。しかし、車両は戦災などで不足してました。しかも、物資不足で車両を増備したくてもメーカーの生産能力は低下しています。絶対的に車両が不足している上に、新車両を購入できる目処もなかったのです。そこで運輸省が音頭をとって、新車を優先的に都市部の大手電鉄へ割り当てます。その代わりに、新車の割り当てを受けた大手私鉄は地方私鉄に中古の代替車両を提供する仕組みが作られます。
 琴電でも新車のモハ63系電車の割り当てを受けた東武鉄道から昭和22年(1947)に3両の電車の供出を受けます。これを皮切りに、東急と山陽電鉄、さらには国鉄からも車両提供を受けています。
 しかし、終戦直後の混雑はあまりにも激しかったため、供出車だけでは足りずに国鉄から戦災で焼けた貨車を6両を購入し「客車に改造」して走らせました。貨車を電車に改造したこの車両11000形には一般客から「乗客を貨物扱いしている」という批判もあったようですが、「歩くよりは、電車に乗れた方がいい」という声の方が当時は強かったようです。
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この貨車改造車の1000形は昭和23年(1948)8月から約3年7ヵ月間使用されました。この時期を「戦後の混乱期」と呼ぶのも頷けます。

琴平に4つの鉄道が乗り入れていた時代

 1889年に丸亀ー琴平間にマッチ箱のような小さな客車4両の汽車が走り始めます。しかし、以後30年間、土讃線は南に伸びることはありませんでした。第一次世界大戦後にやっと財田までの延長工事が始まります。そして、今から約百年前の1920年代は、琴平に次々と電車が乗り込んでくるようになります。琴平には4つの鉄道駅が並立する時代を迎えるのです。その過程を見ていきましょう。
日露戦争後の讃岐では、電気軌通会社の設立が次のように行われます
1908 明治四十二年十月 高松電気軌道が設立。
1909 明治四十三年五月 東讃電気軌道が設立
1910 明治四十四年九月 讃岐電気軌道(後のコトサン)が設立
しかし、琴平までの開業は、第一次世界大戦後のことになります。
それをまず年表で確認しておきましょう。
1919 大正8年3月 土讃線 琴平-土佐山田間の路線決定
1920  2月 高松-琴平間の「コトデン鉄道申請」の認可状交付
1920  4月 3日 土讃線琴平~財田着工。
1922 10月22日 琴平参拝電車の丸亀-善通寺間の開業
1923  5月21日 琴平-讃岐財田間が開通 琴平駅が移転。
1923  8月 5日 コトサン善通寺-琴平間開通 琴平駅が開業
1924 10月 9日 コトサン 善通寺-多度津間の開業
1928  1月22日 コトサン 丸亀-坂出間が開通して全線開業
1929  3月15日 「コトデン」が、琴平町へ乗り入れ開始
1929  4月28日 土讃線 財田-阿波池田間完成。
1930  4月 7日 琴平急行電鉄 坂出 - 電鉄琴平間を開業
1935 11月28日 土讃線開通、高松・高知間が全通。
1944  1月    琴平急行が不要不急線として営業休止。
  琴平への乗り入れの順番で、3つの電車会社を見ていくことにしましょう。まずはコトサンです。
 国鉄の財田までの延長に伴い、土讃線は琴平市街の東を迂回するルートになり、新駅も建設されます。創業以来、30年以上使われてきた旧琴平駅は廃止されます。その旧駅舎に隣接して、コトサンの新琴平駅が建設され、3ヶ月後にチンチン電車の終着駅となります。

コトサンが開業までに18年もかかった背景は?

讃岐電気軌道表紙
讃岐電気軌道株式会社設立趣意書(1904年)

  琴平参宮電鉄(コトサン)が、営業申請したときの社名は「讃岐電気軌道株式会社」で、明治37年(1904)のことです。その趣意書には次のように記されています。
讃岐電気軌道設立趣意書2
讃岐電気軌道の設立趣意書
予定の運行経路図です。
讃岐電気軌道株式会社1
讃岐電気軌道の敷設予定図(朱線部)
讃岐電気軌道予定図 琴平
琴平・善通寺間の路線予定表
讃岐電気軌道 善通寺
善通寺周辺の路線予定図

予定運行経路です。線路が書き込まれているのが讃岐鉄道(現JR路線)です。多度津から西の予讃線は未着工で多度津駅が港の側にあります。善通寺を拡大して見ます。予定の電車軌道は朱で書かれています。生野から善通寺駅前通りを抜けて金倉寺へと抜けています。気がつくのは、多度津への路線がないこと、駅前通りを通過していることです。これは、騎兵隊(四国学院大学)から馬が怯えるという理由で、路線変更になったと言われています。

開業が1922年ですから、開業までに18年の時が流れています。この間に、一体何があったのでしょうか?
 この会社の発起人に名前を通ねた人達を見ておきましょう。
讃岐電気軌道 特許状 増田穣三
讃岐電気軌道の「特許状」に名前を連ねる人達

讃岐鉄道特許
丸亀市の生田丈太郎、
仲多度郡の増田一良・増田穣三・東条正平・長谷川忠恕・
景山甚右衛門・掘家虎造、
綾歌郡の鎌田勝太郎
木田郡の大場長平・久保彦太郎、
大川郡の松家徳二 蓮井藤吉、
三豊郡の小野麟吾
  ここには「多度津の七福人」の総帥・景山甚右衛門や代議員の堀家虎造・坂出の鎌田家など資産家達が顔を並べています。一方で、増田一良・増田穣三の七箇村春日の増田家の従兄弟二人の名前も見えます。増田穣三は、当時は政治的には七箇村村長と県会議長を兼務する立場でした。そして実業界では、西讃電灯の社長として、電灯会社の発電所を金倉寺駅に隣接する所に建設中でもありました。そのふたりが電気鉄道の設立発揮人として名前を連ねています。「電気軌道」に対して、電力を供給する立場として設立の旗振り役を果たしたと私は考えています。
 この会社の営業免許を得た後の動きは不可解です。
讃岐電気軌道特許状3
讃岐電気軌道の特許譲渡状
讃岐電気軌道特許状4
電力供給の特許状の譲渡状
電力供給の特許状の発起人総代は、増田穣三と大場長平です。ここからも増田穣三が中心的な役割を果たしていたことがうかがえます。

ここからは得たばかりの営業免許を、翌年に堺市の野田儀一郎ほか大阪の実業家六名に譲渡していることが分かります。その結果、創立総会も大阪で行われた上、本社も大阪市東区に置かれます。しかも、株式の第一回払込時に、地元株主の株数は全体の二割程度でしかなかったようです。つまり、開業する意志がなく、営業権を得た会社そのものを「転売」する目論見が最初からあったのではないかともおもわれます。
 その後の営業免許は、初代社長才賀藤吉の死去とともに、三重県の竹内文平とその一族に相続され、その後も高知県の江渕喜三郎、広島県桑田公太郎などの手を渡っていきます。大正6(1917)年に、ようやく事務所が丸亀東浜町に開設され、翌年に本社が丸亀東通町に設置されるという経過をたどります。
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多度津 土讃線を跨ぐコトサンのさよなら電車
コトサンの琴平駅について
 大正11(1922) 10月22日 丸亀-善通寺間の開業にこぎ着けます。翌年の8月には琴平まで線路が伸びてきます。コトサンと土讃線と四国新道は、3本が善通寺の風折あたりから条里制に沿って、真っ直ぐ南に並んで琴平に入ってきます。
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手前からチンチン電車のコトサン・その向こうに土讃線・讃岐新道が並んで走る
そして、コトサンの琴平駅は、現在のロイヤルホテル・琴参閣の場所で、南向きに新築されました。その隣には、3ヶ月前の5月までは国鉄の琴平駅として営業していた駅舎がありました。この年の土讃線の財田までの延長に伴い現琴平駅に移転したのでもぬけの殻状態でした。
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国鉄の旧琴平駅(現在の琴参閣周辺) 隣接してコトサン琴平駅はあった

そのため旧琴平駅舎一帯が空地となりました。 このことは事前に分かっていたのでコトサンでは、時の鉄道大臣・元田肇あてにこの廃駅舎と線路用地一切の払下願書を提出しています。しかし、なぜか琴参電鉄と琴平町との再三の払い下げ申請も、結局は実現しませんでした。
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コトサンの終点琴平駅
コトサンヘの社名変更
 
 開通に合わせて会社申請時の「讃岐電気軌道株式会社」から「琴平参宮電鉄株式会社」への社名変更を行います。大正11(1922)年11月10日に金刀比羅宮へ、次のような社名改称趣意書を提出して、賛同を求めています。(意訳)
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開業当時のコトサンの琴平駅 
 香川県の鉄道旅客数は、金刀比羅宮参詣者が大きな割合を占めている。讃岐を代表するのは金刀比羅宮であり、讃岐すなわち金刀比羅宮というつながりは、わが国の国民の脳裏に深く浸透している所で、琴平という地名はわが国民の意識に広く深く浸透している。我社業は中讃の要枢に交通機関経営を行うもので、従来の官線鉄道は多度津を迂回することにより時間と費用を余分に掛けていた。これを、本社の琴平への直通軌道によっていちじるしく節減できることになる。年々歳々千万の乗客は必ず我軌道を選び利用するようになるであろう。我社の前途洋々として未来に開けている。
 伊勢に参宮電車あり、高野に高野鉄道、日光に日光電気鉄道、その他、西大寺軌道、豊川鉄道、富士身延鉄道、成田電車、太宰府軌道、熱田電車、能勢電車、宇佐参宮鉄道など、有名な神社仏閣には参拝鉄道があり、その地域の基点となる地名を採って、其社に冠している。金刀比羅参りの軌道も同じである。金刀比羅宮と極めて密接深甚なる歴史的関係を有する丸亀市を起点とせる軌道を経営する我社は、従来の社名を琴平参宮電鉄株式会社と改称し、以て神徳の宏大無辺とともに社運の隆昌発展を期せんとす。
  『琴平参宮電鉄六十年史』
これに対して、金毘羅宮は「願了承」の回答を直ちに行っています。
こうして、金刀比羅宮の社名に冠した琴参電鉄は、丸亀ー坂出間の全路線が開通します。
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昭和38年廃業2ヶ月前のコトサン坂出駅 JR坂出駅構内から
その後の年間利用乗客数は?
昭和3年(1928)には     387万人
第二次世界大戦勃発の1939年には569万人
本土空襲が始まった1944年には 832万人
戦時下においては、「武運長久」を祈って神社仏閣への参拝が半ば強制され、陸海空の将兵とその家族たちの金比羅参拝の列がひきもきらない日々が続きます。まさに金比羅山参拝の足として活躍しました。
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昭和30年頃の善通寺赤門前 右が丸亀 左(直進)が多度津へ

 そして戦後は、復員、引揚者や食糧不足のヤミ物資を求める旅客で電車は毎日超満員となる姿が日常的に見られるようになります。1947年には、1468万人の利用者をマークします。
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善通寺赤門駅北側  ここが多度津と丸亀の分岐駅

しかし、世の中が落ち着きを取り戻し、道路事情も良くなって路線バスが普及するのに伴い、電車の利用者は年を追って落ち込みます。高度経済成長のスタートとなる1960年には、年間四八四万人と、ピーク時の三分の一に激減。その結果、1963年9月15日、交通手段をバスに転換することにより、40年の長きにわたって庶民の足として親しまれたコトサン電車は廃止されました。そして、コトサンと国鉄の旧琴平駅の敷地には現在は、琴参閣ホテルが建っています。
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コトサン さよなら電車

参考文献 町史 ことひら







土讃線が琴平から讃岐財田駅まで伸びたのはいつ? 

1889明治22年5月21日に、丸亀・琴平を結ぶ讃岐鉄道が開通します。多度津駅構内での式典に参列した大久保諶之丞は祝辞を述べ「鉄道四国循環と瀬戸大橋架橋構想」を披露します。そして、8年後には高松へと線路は延びていきます。
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右下に豆機関車が終点琴平駅に煙をあげて走っているのが描かれている

 しかし、琴平から南へ線路は伸びていくのは約30年後の大正年間になってからです。まずは、琴平ー讃岐財田間が始まります。そして、それが猪ノ鼻トンネルを越えて池田へとつながり、さらに大歩危の渓谷を越えて土佐とつながっていきます。それは昭和の初めのことになります。土讃線の進捗状況をまずは年表で確認しておきましょう。
1919 大正8年3月 琴平-土佐山田間の路線決定
1919 9月 実測開始 
1920 2月 高松-琴平間の「コトデン鉄道申請」に免許状の交付。しかし第一次世界大戦の不況下で着工は大幅遅延
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催
1920 4月3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 5月21日 琴平-讃岐財田間開通 琴平駅が移転。
1929 昭和4年4月28日 財田-阿波池田間完成。
1935 11月28日 小歩危でつながり、全通。
 路線決定から測量を経て、起工式が行われ着工するのが1920年4月3日でした。その日を間近に控えた琴平では、祝賀のための準備が進められています。当時の新聞は、次のように伝えています。
大正9年(1920年)3月29日付け 土讃鉄道起工決定せる余興と装飾プラン(意訳)
琴平町での土讃鉄道起工祝賀については、理事者を始め一般町民も含めて準備にいそしんでいる。宴会は1日午後1時より町立公会堂で開かれ、鉄道院総裁を始め朝野の有力者300名を招待している。そのための余興及町内の装飾は次のようなものが準備中である
一曰より三曰間煙花百発打揚げ
一曰より三曰間東西両券芸妓手踊
一曰は公会堂、二曰は琴平駅前に花相撲
一曰 昼小学生の国旗行列・夜提灯行列
三曰 本社支局主催のマラソン競争
一曰より三曰間 町内各戸丸金印入の旗を町内的に立て軒提灯を出す
前記の内祝賀宴会は晴雨に拘らず行ふも其他は雨天順延す
坂町の装飾は松の枝に短冊を附し軒下に吊す
内町は町の所に構造電気を作り夫れに千燭光の電燈を点す
小松町は町内軒から軒へ万国旗を廻す
通町は上組は花の棚中組下組は花章
神明町も桜の花傘
金沢町は桜の腹這,
新町旭町は桜の大造花

 花火に・芸子の踊り・マラソン・国旗や提灯行列、そして街毎の趣向を凝らした飾り付けと、祝賀式を盛り上げようとするプログラムが目白押しです。そして、当日の起工式の様子は次のように奉じられています。
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着工記念行事 屋台と芸子さんのパレード?
 
大正9年(1920年)4月3日付け 起工祝賀会
美を尽くした土讃鉄道起工祝賀会は、春雨煙る琴平の名物呼物のマラソソ競争は三日に挙行 
琴平町は一日午後一時より町立公会堂にて土讃鉄道起工祝賀会が開かれた。公園入口は線門を設け「祝鉄道起工」の扁額を掲げ、公会堂前には高く万国旗を掲げ、その入口は丸金の旗を交叉し、堂内には無数の万国旗を蜘線手に吊り、沢原町長の式辞・来賓の祝辞があり、式は終了した。それより会場を琴平座に移し、宴に入り東西両券芸妓の手踊数番が舞われた。その後、散会したのは午後四時なりし。

 工事はどこを起点にスタートしたの?

 こうして4月3日に、工事は着工します。工事を請け負ったのは京都の西松組でした。工事は、どこから進められたのでしょうか?
着工から半年あまり経った進捗状況を次のように伝えています。
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三坂山踏切からの象頭山と土讃線

 大正九年(1920)10月13日付け 土讃線鉄道工事進捗 
土讃線の延長工事は、三坂山から七箇村帆山新駅までの一里半(約6㎞)の工事は、すでに八分程度は終わっている。三坂峠西端から琴平新駅構内までの工事も半分程度は終了している。工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。また、新駅から旧線の分岐点である大麻の工事は、来月下旬頃に着工予定である。
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土讃線の切通作業とトロッコによる土砂の運搬

 この記事からは「三坂山」が起点になっていることが分かります。ここを起点に線路の土盛り用の土砂を「トロッコや豆機関車」で、それぞれ東西に運んで線路を延ばしているようです。そして、新琴平駅から北の旧線路との分岐までは、この時点では未着工で、「来月下旬に着工予定」とされています。
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さて、それでは「三坂山」とはどこでしょうか?

三坂山は、琴平の東南の土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する辺りの南側にある小さい丘のような山です。すぐ東側を金倉川が流れています。ここは、丸亀平野の南端にもあたり、目の前には平野が広がり、かなたに讃岐富士(飯野山)が見通せる眺めのいい所です。
 現在、この山の裾を走る土讃線に立つと、この三坂山の先端を削って線路を通したことが分かります。その際に、削り取られた土砂が随時伸びていく線路を「トロッコや豆機関車」で運ばれたのです。 「一挙両得」の賢い工法です。
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着工から1年あまり経過した進捗状況を見てみましょう

大正10年(1921年)五月三〇日付け 土讃鉄道工事進捗、
土讃鉄道琴平・財田の5里の工事は、京都の西松組が請負って、昨年3月に起工し、この10月竣工予定である。鉄路の土盛と築堤及橋梁台は殆ど全部終えて、目下の所、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りしている。既に大部分埋立たてられており七月中には竣工予定である。
 また、塩入・財田間約四哩の土工も西松線が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷手押土運車を運転して土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である。
 ここからは「新琴平駅の土盛り作業」が行われていることが分かります。そう言えば、現在の琴平駅は、琴電琴平駅方面から見ると、道が緩やかに上がっています。これは、もともとの自然立地ではなく、この時に「土盛り」作業をして高くしたようです。その土は、三坂山の切通しから「豆機関車」で運ばれてきたものだったのです。

なぜ琴平駅は土盛りし、高くする必要があったのでしょうか?

 コトデンとの関係だったようです。
土讃線の着工前の1919年9月、高松の大西虎之助、多度津の景山甚右衛門、坂出の鎌田勝太郎ら県内の財界人によって高松-琴平間の「電気鉄道敷設免許申請=コトデン」が出され、翌年二月に免許状の交付されます。路線図を見ると、土讃線の新琴平駅とコトデン琴平駅の手前で両線がクロスすることになります。つまり、両線のどちらかを高架させる必要があったのです。そのために土讃線を土盛りして、その下にコトデンを通過させるという案が出されたのではないでしょうか。
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土讃線の下をくぐるコトデン電車 このために琴平駅から北は土盛りされた

その結果、土讃線の新琴平駅は土盛りして高くして、北から入線する線路を迎え入れる構造に設計されたと考えられます。
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「農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定」 

新聞記事の後半で、面白いのはこれです。確かに香川用水が確保される前は「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。当時の様子がよく分かります。
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一直線に描き込まれた土讃線と新駅。

そして、工事開始から4年目の春、

琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。

大正12年(1923年)5月21日開業 琴平-財田開通記念間開業  土讃鉄道琴平財田間開通記念版 
徳島へ=高知へ=一歩を進めた四国縦断鉄道
琴平・讃岐財田間は今日開通 香川・徳島の握手は大正十六年頃の予定。
 総工費百三十万円 土讃線琴平財田間8里は21日開通となった。この工事は大正9年3月に起工し、第1工区琴平・塩入間と大麻の分岐点から琴平新駅までは京都市西松組が25万余円で請負い10年6月に竣工。
 また第2工区塩入・財田間も同組が四十三万円で請負い10年2月起工し11年年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設や琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の主任三原技手で、途中から佐藤技手に引き継がれた。
 新線は善通寺町大麻の大麻神社前の旧線分岐からスタートして、阿讃国道を横切って東進し、金倉川を横切って琴平山を右手に眺めつつ横瀬の橋上を走って、昨年11月に移転した榎井村の新琴平駅へ到着する。
 この新駅は平屋建てであるが米国式洋風の建物で工費は13万円。これは新線総工賃の1割に当たる。まさに関西以西においてはまれに見る建物である。琴平駅の跨線橋はこの4月に工賃2万円で竣工した。
 
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旧線の分岐点となった大麻神社前の踏切です。それまでは右傾斜していたのが左傾斜に変わりました。ちなみに右側の道路は、旧コトサン電車の路線跡です

総工費130万円の内訳で分かるのは、一割13万円が新琴平駅舎、第1区間(琴平・塩入)が25万円・第2区間(塩入・財田)が43万円・琴平駅の跨線橋が2万円です。
 新琴平駅が「関西以西においてはまれに見る建物」として金比羅さんにふさわしい駅舎として特別扱いで建造されたようです。また、財田川や多治川の鉄橋や大口や山脇の長い切り通し区間があった第2区間の方が経費がかかっています。
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移転した新琴平駅

さらに、琴平以南の土讃線沿線を次のように紹介します。

新琴平駅から財田に向かう乗客は列車を乗り換えて、琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ岸の上を経て真野に達す此間二里半程少し登りつつ田の中を南行する。
左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入、り福良見を過ぎ十郷村字帆山にある塩入駅に着く。この塩入駅は、里道を西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道に達するので便利の地である。この駅から満濃池へは、東方十五六町の距離で七箇村の福良見・照井・春日・本目へは距離がわずかである。
 附近の産物は木炭薪米穀類である。塩入駅から西に向かい十郷村を横断し後山大口を経て大口川を越える。この間は約二哩。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上りつつ五十五尺の高い切取や高い築堤の上を走りつつ、橋上から眺めも良い財田川を渡り百六十五間の長い切取を過ぎて一哩程進んで西向し山脇に入る。多治川を渡ると間もなく三豊郡財田村字荒戸にある讃岐財田駅に着く…(以下略)
これを読むと沿線沿いの風景が百年前の風景とあまり変わらないようにも思えてきます。
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財田川に架かる土讃線鉄橋工事

開通当時の時刻表は
下り
琴平発 
五時47分▲七時六分▲十時廿五分▲十二時五十分▲四時五十分▲七時廿五分 
塩入発
五時五十五分▲七時廿八分▲十時五十分▲一時八分▲五時十二分▲七時四十三分
讃岐財田着 
六時十分▲七時四十五分▲十一時八分▲一時廿三分▲五時三十分▲七時五十九上り列車
讃岐財田発 
六時25分▲八時廿分▲十一時四十分▲三時三十分▲六時▲八時二十分
塩入発 
六時四十分▲八時三十五分▲十二時二分▲三時五十二分▲六時一五分▲八時三十九琴平着 六時53分▲八時四十八分▲十二時十六分▲四時六分▲六時二十八分▲八時55分

 一日6便の折り返し運転のようです。琴平・讃岐財田が30分程度で結ばれました。これによって財田駅は終着駅・ターミナル駅としての機能をもつ駅として賑わうようになります。人ばかりでなく、郵便も荷物も駅は扱います。この時期の財田駅の駅員数は45名と記録にはあります。池田・高知方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えたのです。その「宿場街」として財田の戸川はさらに発展していきます。
 しかし、それはつかの間の繁栄でした。6年後に猪ノ鼻トンネルが完成し、池田への鉄路が開かれると財田駅は終着駅から通過駅へと変わります。人々は列車に乗ったまま財田を通過して行くようになるのです。
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盛土された新線を善通寺に向けて走る蒸気機関車 後には象頭山

 香川県で最初に汽車が走ったのはどこ?

景山甚右衛門.jポスターpg

 
多度津の豪商大隅屋五代目の景山甚右衛門が東京見学で「陸蒸気」を見て、多度津から金比羅さんへ鉄道を走らせようという話がスタートしたと聞いています。本当なんでしょうか?史料で辿ってみることにします。
 
 明治 18 年(1885 年)、多度津~神戸間の定期航路の船主であった神戸の三城弥七と、多度津の豪商大隅屋の五代目景山甚右衛門が中心になって、具体的な構想が公表されます。

景山甚右衛門1
多度津資料館
全国各地で鉄道敷設の機運が高まるなか、明治20(1887)年5月24日に次のような「讃岐鉄道会社」設立の申請が、内閣総理大臣・伊藤博文に提出されています。
  『讃岐鉄道起業目論見書』(現代文に意訳))
1 名称は讃岐鉄道会社、愛媛県下の丸亀通町103番地に設置
2 線路は丸亀を起点に、中府村、津ノ森、今津、下金倉、多度郡北鴨、道福寺、多度津庄、葛原、金蔵寺、稲木、上吉田、生野、大麻を経て那珂郡琴平村に至る。
(第3、4 省略)
5 発起人の氏名住処及び発起人引受ノ株数(省略)は次の通り
 ・川口 正衛 大阪府下東区横堀壱丁目十九番地 
        讃岐国那珂郡丸亀通町百三番地寄留
 ・谷崎新五郎 大阪府下西区薩摩堀南九番地   
        同国同郡同処寄留
 ・辻 宗兵衛 大阪府下東区本町壱丁目四番地  
        同国同郡同処寄留
 ・近渾 弥助 愛媛県下讃岐国那珂郡丸亀松屋町拾四番地
 ・太田 岩造 同県同国同郡宗古町八四番地
 ・金子 数平 同県同国同郡敗町三拾弐番地
 ・氏家喜兵衛 同県同国同郡中府村四百九拾四番地
 ・島居貞兵衛 同県同国同郡地方村四百三拾九番地
 ・冨羽 政吉 同県同国同郡演町拾三番地
 ・景山甚右衛門 同県同国多度郡多度津村百三拾八番地
 ・丸尾 熊造 同県同国同郡同村四拾六番地
 ・大久保正史 同県同国同郡同村九百五九番地
 ・仁井粂吉郎 同県同国那珂郡琴平村弐百拾六番地
 ・福岡清五郎 同県同国同郡同村百八拾四番地
  二奸喜三郎 同県同国同郡同村六百弐拾弐番地
 ・大久保諶之丞 同県同国三野郡財田上ノ村百三拾三番地
発起人引受株金は 株式三百株 金高三万円也 
合計金 15万円也
   (「鉄道院文書」 讃岐鉄道の部
松井政行氏は、この出資者たちを次の3グループに分類します。
①大坂の資産家グループ
②多度津の「多度津七福人」グループ
③先年に大久保諶之丞よって組織された「四国新道グループ」
そして、設立申請までの動きを、次のように指摘します。
①鉄道建設を積極的に働きかけたのは、大阪グループ
②「多度津七福人」グループは受身的
③そこで四国新道建設を実現させた地元の資産家を引き入れた
④そして、大阪グループに対応するために景山甚右衛門を担いだ。
つまり、景山甚右衛門が讃岐鉄道建設を発案し、先頭に立って実現させていったというのは後世に書かれた「物語」のようです。

この申請書に対して、翌年の明治21年2月15日に、免許状が公布されています。
ちなみに当時は香川県はありませんでした。香川県は愛媛県に編入されていたのです。この免許を受けて、開通に向けた準備が進められることになります。
順調な滑り出しのようです。しかし、ここからが大変だったようです。地元の人たちの強硬な抗議に合うのです。真っ向から反対したのは旅館と土産物などを商う商売人であり、次に人力車の車夫たちでした。
鉄道建設に、地元はどうして反対したのでしょうか

  明治28年8月10日付けの『東京日日新聞』の記事(意訳)には、次のような背景が書かれています
全国各地からの金刀比羅神社へ参詣者は、たいていは金刀比羅町に一泊するか、昼食をとっていた。また、土産物等を買い整へるなど、同町は参詣人の落とすお金で非常に賑わっていた。ところが大久保諶之丞によって四国新道が開通し、人力車で丸亀・多度津から一日で往復することができるようになって以来は、兎角客足が止まらず、同町の商売人、旅人宿等は大不景気に見舞われている。
 その上に、鉄道が出来れば、同町はたちまち衰微していくかもしれないという不安が高まっている。このため同町の住民一同は、鉄道会社の株主などにならないのは勿論のこと、鉄道の敷地にも一寸の土地といえども決して売り渡さず、飽くまで反対・妨害しようと協議中なりと伝えられる。
  参拝客の利便性向上よりも、自分たちの利益優先というのはこの時代にも見られるようです。鉄道に反対したのは琴平の人たちばかりではなく、門前町善通寺や、港町多度津も同じような雰囲気だったようです。新しい鉄道会社が周りの温かい支援を受けて生まれたとは言えません。  
最も過激な反対行動を示したのは人力車の車夫達でした
 この時代に発行された『こんぴら参り道中安全』という旅行ガイドブックには、丸亀・多度津港に上陸した参拝客が人力車を利用する際に、次のような警告文が載せられています。 
丸亀、多度津の港から琴平までの運賃は片道 15 銭、上下(往復のこと)25 銭である。そして雨の火とか夜中は 3 銭の割増しを必要とする。が、車夫のなかには、酒手・わらじ代・蝋燭代等を客に強要するくせの悪い者も相当いるから用心すべし。万一、こうした不心得者にあった場合は宿屋に申し出るように・
 急速に人力車が普及し、金比羅詣でに利用する人たちが増えていることが分かります。鉄道開通一年後の明治 23 年の高松市の記録によると、高松市内だけで
「人力車営業人 420 名、車夫 603 名、車両台数 641 台」

とあります。香川県全体では何千台もの人力車があったようです。こんな中で、鉄道会社の計画が聞こえてきたのですから、車夫や馬方連中が「メシの喰い上げだ!」とさわぎだしすのも分かるような気がします。
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旧琴平駅前風景 日露戦争の戦勝報告の金比羅参りの将軍を待つ車夫達

 地元多度津では、「汽車が走ると飯の喰い上げだ」と、景山宅へ押し掛け「焼き払ってやる」と意気巻く一幕もありました。「景山コレラで死ねばよい・・」というような歌も流行ったようです。

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 後世に書かれた評伝の中には、工事現場の陣頭指揮にあたった景山甚右衛門が、常に用心棒を連れ、腰に銃剣を釣るして、巻脚絆に地下足袋姿で臨んだと伝えるもののあります。しかし、これも俗説のようです。当時の甚右衛門の足取りを記録で見ると、彼は名東県の県議として松山に長期滞在しています。当時の地元での不穏な空気を察して、工事中には多度津に帰っていないことが分かります。どちらにしても景山甚右衛門は、鉄道開通後に人力車夫や馬方を路線工夫に採用するという案も出して問題の解決を図っています。このあたりも実務的な手腕がうかがえます。
開業に向けての重要な柱の一つは線路・駅舎等の用地買収です。
 認可を受けて2ヶ月後の明治21年4月10日に琴平村下川原で起工式が行われています。そして、突貫工事で翌年の3 月8日には多度津~琴平間を、14 日には多度津~丸亀間の工事を完成させます。わずか1年間という短期間で工事を完成させることができたのは、用地買収がスムーズに進んだことが挙げられます。それはなぜでしょうか?
 それは、琴平から多度津の線路用地が「旧四条川」の川原で、田畑でなかったためだと丸亀市史は云います。土讃線と四国新道(現国道319号)は、江戸時代初期に人工河川の金倉川へ付け替えた旧四条川の旧道跡で耕作に適さないところを買収している。この時代まで田畑となっていなかったために用地買収がスムーズに進んだというのです。
もう一つの準備は、機関車や客車の購入です。
 さて讃岐鉄道の機関車は、どこからやってきたのでしょうか。
もちろんこの時代には、国産機関車はありません。先進国から輸入するしかないのです。讃岐鐡道の蒸気機関車はドイツ製です。会社は、開業日を明治 22年(1889 年)の4月1日と決めます。そしてB 型タンク機関車3両、車31両、貨車12両をドイツ帝国のホーヘンツォレルン社(Hohenzollern)に発注します。
 ところが、機関車や客車・貨車を乗せたドイツからの船便がなかなか多度津の港に姿を見せません。 会社の幹部達は、海の彼方から機関車等を積んだ船が現れるのを、今日か明日かと待ちわびます。ようやく、船が到着したのが3月15日。当初の開業予定日には間に合いません。
 それから箱詰めの機関車や客車、部品の積み下ろし作業が始まり、器械場で組み立て作業に移ります。昼夜兼行の作業で、4月末には組立工事が完了し、5月始めから全線で連日試運転が繰り返されました。結局、開業日は5月23日とされ、約2ケ月遅れとなりました。
当日の23日には、四国初めての汽車が、多度津駅をあとに琴平駅へ向かって黒煙を吹きあげ勇ましく動き出したのです。 
ちなみに、この時に発注した「B 型タンク機関車」というのは?
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1889年開通時の讃岐鐡道琴平駅 神明町にあった

動輪が2 つの小さなタンク機関車で、当時のヨーロッパ諸国では駅構内の客車や貨車の入れ換え専用に使われていたものでした。「機関車トーマス」よりも小さくて可愛い機関車だったのです。
 讃岐鉄道は8年後の明治30年(1897年)、路線の高松までの延長に伴い、新たな機関車の導入が必要になります。このときも開業時と同じ機関車を10両発注しようとして、ドイツのホーエンツォレルン社に問い合わせています。同社では重役達が

「入れ換え専用の機関車を一度に 10両も発注する“讃岐鐡道”は大会社に違いない。ついでに本線用の大型機関車も購入して頂きたい。」

と、数名の技師とともに営業担当者も派遣してきました。
 ところが・・??  
多度津港へ上陸してみると、ドイツ人の技師達は我が目を疑って立ち尽くします。街も小さければ、鉄道も小さく、入れ換え用の小さな機関車が本線で列車を引っ張って走っているではありませんか・・。 もちろん、大型機関車の契約は一両も取れなかったことは云うまでもありません。それが19世紀末の日本という国の姿だったのです。
機関車メーカのホーエンツォレルン社は北ドイツのデュッセルドル(Düsseldorf)にある会社。デュッセルドルフは、ライン河に面する美しい街だそうです。

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 導入したホーエンツォレルン社の「入換専用」の機関車
 開通式典での大久保諶之丞の祝辞は? 
 明治22年(1889)五月二十三日、讃岐鉄道は晴れて開業の運びとなりました。開業の式典は多度津・丸亀・琴平の三か所、祝賀式典は琴平の虎屋旅館で行われました。多度津駅構内での式典に参列したのが発起人の一人、大久保諶之丞です。彼は次のように祝辞をのべ、最後に「瀬戸大橋架橋構想」を披露します。(意訳)
「今後は、この讃岐鉄道を高松に向けて延長させ、阿讃国境の山を貫いて吉野川の沿岸に線路を敷きき、徳島・高知に至る。
もう一方は、ここから西へ向かい伊予の山川を貫き、土佐の西部を巡り、高知にたどり着く。そうして四国一巡できるようになれば、人も貨物も増加し運送便も増えることは必定である。この時には、塩飽諸島を橋台そして山陽鉄道に架橋連結して、風波の心配なく(中略)
まさに南来北行東奔西走、瞬時を費せず、国利民福これより大きな事はない。(後略)」
と「大風呂敷」を広げるのです。それは人々の夢として語られ続けます。
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当時は愛媛県の県会議員だった大久保諶之丞 この後、四国新道開通に尽力

開通式当日の人々の熱狂ぶりは・・・ 

 開通式典は、琴平の虎屋旅館で開催されましたが参列者には無賃の乗車券が案内状に同封されました。煙火(花火)50 発が初夏の空に打ち上げられ、沿線には見物客が詰めかけます。処女列車には、多度津小学校の児童20人が招かれました。陸蒸気への乗り方がわからず、下駄を脱いだり、窓から入ったりと大騒ぎだったといいます。

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白銀の讃岐路の鉄路を客車を押して進む豆機関車 遠くに讃岐富士

  ハイカラの英国式帽子に洋服姿の車掌が笛を吹くと黒煙を吹きあげて陸蒸気は小さいマッチ箱の客車や貨車を引っ張り動き始めます。
満載の試乗客を喜ばせ、見守る人たちは目をみはりました。

汽車に乗れない人々も「今日は仕事休んで陸蒸気見にいかんか。」と朝から晩まで、遠方から弁当持参で汽車場(駅)や沿線へ見物人が殺到して、待合所を見たり、路線や駅員の動作までじーっと見つめます。汽車が着きかけると、ワァッと駅へ押し寄せて来て乗り降りする人を不思議そうに見ます。子供は沿線を駆け競べ、道通る人は立ち止まり、家の中から飛び出し、遠くの者は仕事をやめて駆け寄ります。だれもが初めて見る陸蒸気に見入るばかりでした。まさに、目に見える形で明治(近代文化)が四国にやってきたのです。大きなカルチャーショックだったでしょう。 
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多度津駅構内の小さな機関車とマッチ箱の客車

  開業当時の讃岐鉄道は、

社長の三城弥七(明治 24 年 3 月まで在職)以下77名の人員で、車両は例のドイツ製の可愛い機関車3両、客車31両、貨車11両でスタートします。客車は「マッチ箱」と呼ばれた定員20人の小さなもので、四両編成の客貨混合列車で運転されました。
 停車場は丸亀・多度津・吉田(同年六月十五日から「善通寺」と改称)と琴平の四か所で、丸亀から琴平行きが「上り」、反対に琴平から多度津・丸亀行きは「下り」で、現在とは逆でした。金刀比羅宮への参拝が「上り」なのです。ここにも「讃岐鉄道」が「参宮鉄道」であったこと示しています。
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明治40年の絵はがき 開業時の琴平駅(現ロイヤルホテル付近)

明治の多度津地図

本社は桜川の横、現在の多度津町民会館(サクラート多度津)の場所にありました。かつての陣屋跡になります。
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開業当時の多度津駅
桜川に向かって西向きの二階建てで、一階が多度津駅、二階が本社でした。

花びし2
料亭「花びし」の背後に描かれた多度津駅
花びしの絵図には、桜川を隔てて初代の多度津駅が描かれています。
これを見ると初代の多度津駅は船を降りた人がすぐに鉄道に乗り換えられるよう、港の目の前に建設されていたことが分かります。

旧土讃線跡
旧土讃線
 ホームは、行き止まり構造の頭端式で、丸亀行きと琴平行きの二つの線路が並走して東に伸びて、旧水産高校のあたりで二つに分かれていました。丸亀行きの線路はそこからほぼ一直線に走り、堀江4丁目付近で現在線と合流します。一方、琴平方面への線路は大きく南へカーブし、予讃線や県道を横切って多度津自動車学校の方へ伸びていきます。 初代の多度津駅は、予讃線が西に伸ばす際に、現在地に移転します。
一方、初代の琴平駅も現在地ではありませんでした。神明町(今の琴平ロイヤルホテル・琴参閣付近)にありました。当時の運行時刻表によると

時刻表(明治22年7月14日朝日新聞付録
琴平-善通寺は10分、
善通寺-多度津は15分、
多度津-丸亀10分、
これに待合時間などを加えて上りが片道48分、下りが50分で、一日8往復に運行ダイヤでした。
運行運賃は?
上等・中等・下等の三段階に区分されていました。
丸亀-琴平間は上等33銭、中等22銭、下等11銭、
そのころの白米1升の値段は3銭でした。

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高松延長後の駅長達
 
讃岐鉄道は、開業から8年後の明治三十年(一八九七)二月二十一日に丸亀-高松間を延長開業します。
それまでの路線では、平坦な地形ばかりで何ら問題なく頑張っていたのですが、宇多津駅と坂出駅の中間の田尾坂という峠の切り通しが難所でした。満員の乗客を乗せて走るとには、よく動かなくなったようです。原因は、故障ではなく馬力不足です。そんなときには車掌は、こう言ってふれて回ったそうです。
上等のお客さまはそのままご乗車を。
中等のお客様は降りてお歩きを。
下等のお客様は降りて車の後を押して下さい。

約130年前の日本の姿です。こんな姿を経ながら現在の日本があります。
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明治29年 高松延長に伴う土器川鉄橋工事現場 背後は寺町?

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