五重塔解体修理調査から分かることは?
本山寺の五重塔については、柱の銘文や寺記録から、当時の住職頼富賓毅の発願により、日清戦争が終わり下関条約が結ばれた1895(明治28)年に斧初めを行い、15年後の1910(明治43)年に上棟式を行ったとされています。それが事実なのか、今回の解体修理と同時並行で行われた資料整理の中で「発見」された「五重塔付帯資料」で年代順に確認していくことにしましょう。1895年の「本山寺伽藍村本坊改造図」には五重塔が描かれています。
完成は1910年では?と最初は驚きます。
しかし、この図をよく見ると、五重塔は他の建物よりやや薄く描かれています。おそらく、今後の予定としての「改造図=(完成予想図)」として、プロモート用に作成されたようです。
1895年は建設が始まった年です。次の資料は、新たに見つかった五重塔の建立に関係する版木4枚です。写真は版木から刷られたものです。
①これは五重塔の初重上棟式の版木です。
版木は縦53.5cm、横32.2cm、厚さ3.5cmです。
文字はかなり大振りで、文字のない部分は縦方向の荒い削り、文字周辺は横方向の細かい削りを施し、文字を削り出しています。
右上と左下には意図的に削り残した部分があり、印刷物(紙)を取りやすいようにしているようです。
この版木には
「旧十月廿八日九日(明治31年)
但雨天順延
五重大塔初重上棟式
三野郡 本山寺 とあります。
中央に五重大塔初重の上棟式を行うこと、
右側に上棟式は旧暦の10月28日、29日に執り行うこと、
雨天の場合は順延すること、左に住所と寺名が入れています。
五重塔初重上棟式の案内のためのチラシ作成に作られたのもののようです。明治28年に着工して3年目のことです。工事は順調に進んでいるようです。
②これも五重塔の初重の棟式の時のものです。
②これも五重塔の初重の棟式の時のものです。
縦34.0cm、横12.0cm、厚さ2.0cm。
旧十月廿八日九日 但雨天延期
五重大塔 初重上棟式御歓人名簿
三野郡 本山寺
写真からわかるように①の版木に比べると文字はかなり小振りですが、①と同時期に作られたものです。
中央に初重の上棟式の寄附者者の名簿を作ること、
右に上棟式は旧の10月28日、29日に執り行うこと、
雨天の場合は順延すること、左に住所と寺名が入れられています。以上から五重塔初重上棟式の名簿作成のためのもののようです。
③は五重塔の二重上棟式に係るものです。
縦40.1cm、横24.3cm、厚さ2.1cm
奏楽大法會大雨順延
五重大塔第二重上棟式
四國第七十番讃岐國三豊郡
旧十月廿六日 本山寺」
とあり、中央に五重大塔二重の上棟式を行うこと、
右に音楽を奏で盛大な大法要を執り行うこと、
大雨の場合は順延することや
(明治33年)旧暦10月26日に執り行うこと、が彫られていまあす。五重塔二重上棟式の案内のためのチラシ作成用の版木のようです。
④は三重上棟式の時のものです。
縦23.5(;m、横15.5cm、厚さ1.5cm。
文字はかなり小振りで、縦方向の細かい削りを施し、版面右側に完成五重塔を、左側に細かい文字を削り出しています。
宝飯印陀羅尼脛日…
明治二十八年 初斧
仝 三十一年十月 初重上棟
仝 三十三年十一月二重上棟
仝 三十六年 二月三重上棟
とあり、ここから建設経過を確認することができます。
今までの物とは異なり、中央左に五重塔内に戒名か姓名を書く枠が白く空けられています。
右に宝飯印陀羅尼経の功徳を解き、
五重塔上棟式のこれまでの経緯が書かれ、住所・氏名か先祖の戒名改名を書くと所が空けられています。五重塔にこれを納め「現当二世の勝果を懇祈」すると記されています。三重上棟式典に集まった多くの庶民は、この用紙に自分の名前を書き、祈りを捧げたのでしょう。そして、完成を祈って寄進も行ったのでしょう。庶民への寄進を呼びかけを行いながら資金集めを行った様子がうかがえます。
同時に、1904(明治36)年に3重まで棟が上がった事が分かります。ここまでは、一つの層につき2~3年でできあがり、塔が立ち上がって行く様子が分かります。資金集めに苦労して、建設中断が常態化していた善通寺の五重塔に比べると、順調な行程です。
ところが、ここから逆風が吹きます。この式典後に日露戦争が勃発するのです。寄付金集めを行える時勢ではなくなります。戦争は五重塔の建設には逆風になります。資金集めなども一時的にはストップしたようです。
中断を乗り越えて、1910年に「上棟式」を行っています。
最初、私は「1910年(明治43年)に五重塔は完成した」
と勘違いしていました。
しかし、上棟式時点で「残工事見込」として
塔内造作、本尊鋳造費、
上棟式大供養料、
九輪(相輪)銅鋳造費、記念碑
弘法大師四国道開御修行御銅像建設、諸雑費」
を挙げた資料があります。
さらに明治43年9月の古写真を見ても、長く突き出た花畦はあるようですが、「相輪」は写っていません。この時点では、実は五重塔としては完成していなかったのです。
それでは、相輪はいつ塔の上につけられたのでしょうか?
今回の解体修理で相輪が塔から下ろされました。その際に相輪(九輪)宝輪との側面の銘文に次のような文字が刻まれているのが確認されます。
五重大塔九輪大正四乙卯年壱月六日鋳造
四國霊場七十番香川蘇三豊郡山本村
準別格本山七賓山本山寺
現住権大僧正頼富貴毅
この銘文には、1915(大正4)年1月の日時が刻まれています。ここから相輪は1915年の年度当初に出来上がったことが分かります。つまり五重塔に相輪が載せられ「完成」したのは1915年ということになります。
ちなみに相輪は、普段は塔の上にありますのでその大きさが実感できません。しかし、青銅製で作られた相輪は巨大で、作るにも巨額の費用が必要でした。幕末から建造されていった善通寺の五重塔は、相輪制作費用が集まらず十数年も相輪がないままの「未完成状態」が続いたのです。
今まで見てきた史料から五重塔が立ち上がって行く姿を年表にすると次のようになります
1896年 明治28年 建設開始初斧
1899年 明治31年10月 初重上棟
1901年 明治33年11月 二重上棟
1904年 明治36年2月 三重上棟
1910年 明治43年 第四・五重の上棟式 上棟式
1915年 大正 4年1月 相輪が載り完成
五重塔に関しては「相輪・玉垣・基壇」の木製模型が残っていました。
大きさは
相輪模型が全高1,618
玉垣模型が1辺60.8cm、高さ13.6cm
基壇模型が1辺cm、高さ8.4cm
です。そして箱書きや模型に直接記された墨書の内容から、制作年が基壇模型が明治39年、玉垣模型が明治43年であることを知ることができます
相輪模型については、
上部から宝珠、受花、竜車、九輪(宝輪)、受花、伏鉢の各部位が精巧に作られています。しかし、完全に残っているではなく、九輪(宝輪)については、総数9個のうち上位から5~7番目の3個がありません。水煙はすべて失われています。
基壇模型については、
上面が蓋様の形態となっていて、取り外すこで内部を見通すことができる構造となっています。
4辺の中央部に階段があること、
手摺の挿入孔が4隅の4ヵ所と各辺の4ヵ所の合計20箇所に開けられていること、
基壇の側面が湾曲状の形態を示すこと等から、
実際の実物の建築を想定した非常に精緻な造作と評価されています。
なぜ、こんな精巧な模型を作ったのでしょうか。
報告者は「これらの模型は、実際の五重塔の建築に際して試作された見本品」と考えているようです。同時に「施主の建築についての強いこだわりを窺い知ることができる貴重な物件」とします。
私は、当時の時代的な背景から次のような推論を考えています。
1904年 三重上棟の直後に日露戦争が勃発して、資金集めは中座を余儀なくされます。つまり、工事がストップしたようです。
基壇模型の制作年である明治39年は、このような時期に当たります。そこで大胆に推理するなら、住職頼富賓毅は仕事のなくなった宮大工に相輪模型と基壇模型の作成を依頼したのではないでしょうか。
何のために依頼したかと言えば、
私はこれらは見本であると同時に「プレゼンテーション用資料」として用いられたのではないかと考えます。当時の住職頼富賓毅の強い願いによって三豊の地に五重塔の建設が始まるのは、日清戦争後のことです。檀家の理解と支援を受け、さらに「講」システムを活用し、住職自身が島根・鳥取などの遠方にも赴いて寄進を呼び掛けます。
各地での「講」集会に赴いた住職頼富賓毅が、この模型を用いて未完成部分の相輪や基壇などの今後の建設計画を説明し、同時に三豊に初めて建立される五重塔の完成に寄与できる喜びを説き、寄進を勧める姿が私には思い描かれます。
その際に、この模型を用いて目に見える形で、信者たちに今後の建設予定を説明するのは大きな効果があったのではないでしょうか。
「この相輪鋳造・基壇作成に、みなさんの喜捨が使われます。大きな功徳となり、先祖の霊もお喜びになります 」
という呼びかけは、独のルターが批判した免罪符販売の修道士の文句と重なりますが、信者の心をつかむ武器となったのではないでしょうか?。
この模型の効果を見て、1910年(明治43年)玉垣模型も制作されます。1910年は、第4・5重の上棟式が挙行された年です。その竣工後に、仕事が終わった宮大工に頼んで制作されたのではというのが私の推論です。
最後に、五重塔の初重の野地板に墨で文字が書かれているのが見つかりました。
「為先祖代々」「阿部口口」「為 家内安全/備後国/同行二人」
「兵庫県年向郡西角村卜岡田政雄」
『為先祖累代菩提也 備中國伊月郡 施主 池口口口口』『口先祖代々佐賀口肥前国藤口口口』
「先祖累代菩提也」『口口 豊田郡一ノ谷村口口口口』
「中田栄三郎」『山口岩五郎』「為先祖代々」
「為先祖代々 重松愛太郎」
墨書には、まず「為先祖代々」と書かれ、次に奉納者の出身地と氏名が記されています。ここから先祖供養のための奉納と考えらます。また住所の記載には「豊田郡一之谷村」、「那珂郡」、「寒川郡」など県内の住所もありますが小数で、県外のものが多く「同行二人」、「七人同行中」とあることから、四国巡礼中の遍路たちが係わったことが考えられるようです。
奉納時期は、この五重塔建設が始まる明治28年の明治31年の初重上棟の間です。おそらくこの間に本山寺に参拝した遍路さんたちによって奉納記載されたたものでしょう。今でも、四国巡礼を行うと、瓦などの寄進をおこない自分の名前を墨書することが行われています。ここからは、百年前の五重塔建設でも同じような資金集めの方法が取られていたことが分かります。
1913年(大正2年)12月20日には予讃線が観音寺まで開通し、煙を上げて蒸気機関車が走るようになります。その向こうに、相輪が載った五重塔が三豊の地に姿を現します。
それは1915年大正4年のことでした。
約百年前のことになります。百年の年月を経て三豊のランドマークタワーとしても親しまれてきた本山寺の五重塔。
今回の解体修理で、次の百年へと受け継がれていくことになります。
私たちが残していかねけらばならいないものとは何かを考えさせられます。
参考文献
本山寺五重塔の平成大修理に伴う文化財調査報告書(第1報)